地に落ちた君への愛は、まるで水のごとく、地に吸い込まれて、もう元に戻る事なんて出来やしない。
「私、王子様と結婚するの。だから、貴方とは婚約解消するわ」
とある日、久しぶりに会った婚約者アリスから婚約解消を宣言されたファルドは、驚いた。
ファルド・ランテスはド田舎に住む、男爵家の長男である。小さな領地を持ち、細々と暮らしている男爵家の息子だ。
隣接する領地のエリド男爵家のアリスとは幼馴染で、互いに隣同士で交流もあり家格も丁度いいだろうという理由から幼い頃から婚約が結ばれている間柄だ。
ファルドは、アリスが大好きで大好きで、ずっと結婚するのを楽しみにしていた。
足繁く隣の領地のアリスの家に通い、庭で咲いた綺麗な花をプレゼントしたり、母が焼いた美味しいクッキーを持って行ったり、それはもう、ファルドなりに気を使ってきたのだ。
そんなファルドのプレゼントをとてもアリスは喜んでくれて。
ファルドは自分の容姿は冴えないと解っている。
茶髪茶目のその辺にごろごろいる冴えない容姿だ。
それに比べてフワフワのピンクブロンドのアリスは可愛くて可愛くて。
そしてとても明るくて、話しているだけで太陽のようで。
ファルドは愛しくてたまらなかった。
早く結婚したい。一足飛びに結婚したい。アリスを奥さんにして、子供も沢山作って、幸せに暮らすんだ。いや、アリスを幸せにしたい。
そう思っていたのに。
小さな領地だって領民がいて、しっかりと商売をしている。
愛しいアリスを迎える為には父について領地をしっかりと経営する力をつけなければならない。
もっとアリスと一緒に過ごしたい。そう思っていたのだけれども、アリスは王都の学園に通って、勉強すると言って二年前に出て行ってしまった。
王都はとても遠い。
馬車で6日かかる距離である。
お互い16歳の時に、アリスが領地を出ていくときに、ファルドはアリスの手を両手で握り、
「必ず会いに行くから。アリス」
「ええ、会いに来てね。楽しみにしているから」
アリスとは、仲良く過ごして来た。
初めてのキスだって、お日様が沈む丘の上ですませている。
そんなアリスが自分を置いて、王都の学園に行ってしまうのは寂しかったけれども、
アリスが望むことだからと我慢した。
我慢したのに……
王都に行ってからアリスは手紙一つくれなくて。
ファルドは一生懸命手紙を書いて、週に一度は送っていたのに。
会いに行きたくても、父について領地経営を勉強するのに忙しくて、なかなか会いに行けない。
アリスに会いたい。アリスアリスアリス。
君はどうしているんだ?
募る思いで、日が過ぎてしまって。
一年前に会いに行った時もアリスはそっけなかった。
それでも、カフェで時間を作ってくれて。
「王都は素晴らしいの。田舎の領地とは大違い。王太子殿下はそれはもう美しいのよ。私なんかにも、親切にしてくれて。この間、落としたハンカチを拾ってくれたの。ああ、リューク様。もう、顔を見るだけでも幸せで」
うっとりと王太子殿下の事を語るアリス。
違うんだ。聞きたいのは他の男の事じゃない。
それなのに、アリスは王太子殿下の事ばかり。
華やかな王都の生活の事ばかり。
「君は気にならないの?先行き、俺の所へ嫁いでくるんだよ。男爵家の領地の麦の出来具合とか、今年は牛が何頭生まれたとか」
アリスはふふっと笑って、
「なんて、野暮ったい事を聞くの?もっと華やかなお話がしたいわ。王都は今年は王太子殿下の姉君であるセリア王女様が隣国に嫁ぐという事で、フラワー祭りが盛り上がるって言っているわ。町中にお花が飾られるの。セリア王女様を祝って、皆が広場でダンスを踊るのよ。本当に楽しみ」
キラキラした表情で話をするアリス。
何だかとても遠くなったような気がして、ファルドは悲しくて悲しくて。
領地に戻って、更に月日が流れて、
全く、アリスから手紙も来なくて、アリスの両親、エルド男爵夫妻に聞いてみても、同じく手紙の一つも来ないとの事。
ファルドはアリスが心配でたまらなくなって、再び王都へ出向いたのだけれども、呼び出したカフェでアリスに一言、
「私、王子様と結婚するの。だから、貴方とは婚約解消するわ」
と言われたのだ。
ファルドは慌てて、
「エリド男爵夫妻、君のご両親は知っているのか?」
「いえ、言っていないわよ、だって、私、王太子殿下ととても親しいの。王太子殿下は婚約者であるエリーヌ・ガレティス公爵令嬢と上手くいっていなくて。だから、私と結婚したいと言っているわ。両親だってそれを聞いたら賛成するに決まっているわ。だって私が王妃様になるのよ」
「何を言っているんだ?アリスは何をやらかしているんだ?公爵令嬢を敵に回しているのか?」
「大丈夫よ。王太子殿下は言っていたわ。二人の仲は冷え切っているって。私とは真実の愛だって」
「政略だぞ。貴族の結婚って。何て事だ。アリスっ。公爵家を怒らせたら男爵家なんて潰れちまうっ。お前はそれでもいいのか?」
「だから。王太子殿下、リューク様が私を守ってくれるって言っているわ。王家と公爵家とどっちが偉いの?当然、王家よ。だから、私は王妃様になるの。やぼったい男爵夫人なんて絶対にならない」
アリスの手を引いて、カフェを出た。
「エリーヌ・ガレティス公爵令嬢に謝りに行くんだ。一緒に。そして領地に帰ろう。公爵家を怒らせてお前はただですむと思っているのか?」
「嫌よ。私はリューク様と結婚するのっ。野暮ったい田舎は嫌っーーー」
アリスは走り去って行ってしまった。
ああ、あんなに好きだったアリスがとても遠く感じる。
ただ、このまま何もせずにいられなかった。
会ってくれるかなんて解らない。
でもガレティス公爵令嬢エリーヌに会って謝罪をしなければ。
そう思った。
自分がアリスの婚約者だったのだ。アリスに婚約解消を言い渡されたけれども、ともかく謝罪を。
それに、アリスの両親であるエリド男爵夫妻はとても良いご両親だ。
嫡男のルイドとは仲がよく、取っ組み合いの喧嘩をし、よく遊んだ大親友だ。
彼らの為にも自分の出来る事をしなければならない。
王都のガレティス公爵の屋敷の場所を聞いて、ファルドは歩いてその屋敷へ向かった。
そして、着いてみて驚いた。
あまりにも豪華な屋敷で。
門番が立っていて、用件を門番に伝えても、
「誠に申し訳ありませんが、お嬢様を訪ねてくる知り合いでもない男性の方を通していたら私が怒られますので、取り次ぐことは出来ません」
そっけなく門前払いになった。
当たり前だ。高位貴族の令嬢である。
いきなり、会いたいと知り合いでもない男が訪ねてくれば門前払いになるだろう。
それならば、彼女は学園に通っているはずである。
出かける前に馬車の中の令嬢に声をかける事は出来ないだろうか?
ファルドは待ち伏せすることにした。
翌日、早朝に門の近くで待ち構え、公爵家の馬車が門を出る時に、叫んだ。
「エリーヌ様っー。話をっ。話をしたいのです。俺はアリスの元婚約者、ランテス男爵家の息子ですっ。どうか。エリーヌ様―――」
馬車の中から、黒髪の美しい女性が顔を出した。
「わたくしがエリーヌですわ。アリスとは?あの、王太子殿下に付き纏っている下賤な女の?貴方はわたくしに何の用だというのです」
馬車に近づけば、護衛だろうか二人の男に囲まれて、それでも必死に訴える。
「俺はアリスの元婚約者ですっ。本当に申し訳ありませんでした。俺の目が届かなかったせいで、アリスが王太子殿下に近づいて、親しくなって。エリーヌ様という婚約者がいらっしゃると言うのに。アリスのご両親であるエリド男爵家からも謝罪がありましょう。どうか、お許しを。アリスは意地でも連れて帰ります。どうかどうかどうかっーーー」
「別にわたくしは構わなくてよ。王太子殿下がアリスと言う小娘を妾妃にしたいと言うのなら。わたくしと王太子殿下は政略ですもの。わたくしは王妃になれればよいの。それで政略としてのわたくしの役目は果たせるわ」
「しかし、アリスは王妃様になるのって……」
「そうね。あの小娘はそう言っているようね。あまりにも調子に乗っているようなら」
そう言って、馬車の窓をぴしゃっと閉めてしまう公爵令嬢。
そして、馬車は行ってしまった。
アリスをなんとしても連れて帰らなくては。
アリスの命が、エリド男爵家が。
学園へ行き、登校してくるアリスの腕を掴んで、ファルドは、
「領地へ帰ろう」
「嫌よ。何するのよ」
「君のやっている事は危険な事だ。何度言ったら解るんだ」
「だって、だってだってーーー」
そこへ馬車から降りてきた美しい金の髪に青い瞳のリューク王太子殿下。
アリスの手を取って、
「アリスは私の思い人だ。君はなんだ?」
「俺はアリスの婚約者です。元ですけど。領地へアリスは連れ帰ります」
「エリーヌ・ガレティス公爵令嬢と婚約破棄をして、アリスと私は結婚する。エリーヌはアリスを虐めていた。公爵令嬢としてあるまじき行いだ。だから連れ帰る事は許さん」
アリスはリューク王太子の後ろに隠れて、
「私、エリーヌ様に虐められていたの。だから、私は悪くないっ」
登校する生徒達は何事かと、三人を見つめている。
リューク王太子はアリスの腰を抱き寄せて、
「二度と私とアリスの前に現れるな」
そう言って行ってしまった。
もう、どうしようもない。王族に命令されてしまったのだ。
アリスを連れ帰る事も出来ない。
あんなに愛していたアリス。
あんなに可愛かったアリスはもう、いない……
茫然とファルドはその場に立ち尽くした。
あれから一月経った。
公爵令嬢を陥れようとした罪により、リューク王太子殿下は離宮に幽閉。アリスは牢獄へ入れられた。
エリド男爵家は取り潰された。
ファルドは何も出来なかったのだ。
ただ、ランテス男爵家はエリド元男爵家の人々が路頭に迷わないように、彼らに家を用意し、仕事を紹介し、面倒を見た。
ファルドは牢に入れられたアリスに会いに行くことにした。
王都の端にある罪人を入れておく一般牢に行って面会を求める。
一つの牢に案内されれば、そこに薄汚い服を着たアリスがいて、
「ファルドっ。ファルドなのね。助けて。ここはパンもまずくて、スープも肉も入っていなくて。汚いし。私の何が悪かったの?私はただ、王子様と結婚して華やかな生活がしたかっただけなのに」
「だから俺は言ったんだ。領地に帰ろうって。お前は男爵家の娘だろう?それを王子様と結婚だなんて。公爵令嬢に罪を着せて陥れようだなんて、なんて大それたことを」
「だって。だってっ。リューク様が素敵だったから。貴方なんて、冴えなくて。私にふさわしくないっ」
「そんな冴えない男に助けを求めるだなんて間違っている」
「ご、ごめんなさい。ともかく、ここから出してよ」
「俺の力ではどうすることも出来ない。これは王家の決定だからな。ただ、君の家族はうちでしっかりと面倒を見るから安心してくれ」
「私の事はどうでもよいというの?ねえ、私の事、愛しているわよね。あんなにプレゼントをくれて、あんなに愛を囁いてくれたじゃない。丘の上でキスもしたわよね」
「だから、俺は、領地に帰ろうっていったんだ。こうなる前にどうにかしようとしたんだ。君の事を愛していたから。それを拒否した時点で、俺の愛はもう君にはない。しっかりと罪を償ってくれ。ただ、ここから君が出られるかどうかは解らないが」
「そんなぁーーー。助けてよーーー。お願いだから助けてよ。貴方と結婚してもいいから。男爵家の妻だってなってあげるからーーー」
アリスの叫び声を無視して、背を向けた。
自分は無力だ。どうすることも出来ない。
それに、アリスへの愛は、アリスを領地に連れて帰れなかった時点で消えてしまった。
そう、あの丘の上のキスも、沢山過ごした楽しかった思い出も、全てポロポロと崩れていって、全て地に落ちてなくなってしまった。
地に落ちた物は、まるで水のごとく、地に吸い込まれて、もう元に戻る事なんて出来やしない。
ファルドの瞳から涙が零れ落ちた。
ファルドはランテス男爵家の領地に戻って来た。
平民落ちした親友のルイドが、領地の仕事に励むファルドに会いに戻って来た。
ルイドの両親は、街で商会の事務として働いているが、ルイドは腕に覚えがあったので、自ら仕事を探して遠くへ行っていたのだ。
ある晴れた日、田舎道を歩きながら、ルイドと話をした。
ルイドはにこにこしながら、
「よぉ。久しぶり。両親の事、本当に悪いな」
「いや、俺とお前の仲だしな。エリド男爵家の人々には本当によくしてもらった」
「妹が王都へ行くのを止められなかったと、俺は今でも悔やんでいるよ」
そして、ルイドがふと思い出したように、
「そうそう、今、働いている職場に、リューク元王太子殿下が連れてこられてな」
「そうなのか?離宮に幽閉じゃなかったのか?」
「そこはな。ほら、辺境騎士団だから」
「ハハハ。辺境騎士団、確かにな」
そう、ルイドは変…辺境騎士団へ行ったのだ。
腕に覚えがあるので、辺境騎士団で力を見せて稼ぎたいと。
リューク元王太子は綺麗な顔をしている美男である。
屑な美男が大好きなムキムキ達にさらわれたのだろう。
そこでやらされている事と言えば、言わずもがな、ムキムキ達の欲の餌食になっているはずである。
ルイドは慌てたように、
「辺境騎士団だって女好きはいるんだぞ。俺は男はごめんだ。あそこは稼げるからな。魔物討伐は危険があるが」
「そうか、身体だけは気をつけろよ」
「それはそうそう、お前、男爵家嫡男が結婚しないのか?」
「そうだな……結婚か。結婚しないとまずいよな」
アリスの事を思い浮かべる。
アリスと結婚して、沢山の子に囲まれて幸せになる夢。
それは無くなってしまったけれども、再び、そう思える人に出会えるといいな。
空は真っ白な雲がふわふわと浮かんで、流れていく。
遠くから牛の鳴き声が聞こえてくる、のどかな春の日。
親友とぼんやりと空を見上げるファルドであった。