はじまり
定年退職後、芦屋は早朝の散歩を日課にしていた。
近所には大きな貯水池があり、真ん中に掛かっている橋を渡って、半周を歩いて帰ってくる。
足腰が弱らないための、毎朝30分程度の運動だ。
池を囲むように低い手摺りがあり、その横には雑木林が広がっている。公園というわけではないが、市によってそれなりに整備されている散歩道になっていた。
初夏には水蓮が咲き、貯水池一面に淡い桃色の花が咲く。それを見にくる市民も多い。
池が見えたところで、芦屋は何となく違和感を覚えた。
池の翠が、やけに濃い気がする。
夏には藻の繁殖が活発になるが、今はまだ桜も咲かない春先。そんな時期では無い。
近づき、橋に差し掛かったところで、芦屋は更なる異変に気がつく。
ーーー蓮の花が咲いている?
まさか。昨日までは蕾すら見られなかったはずだ。
しかし確かに、大きな蓮の葉の隙間に、いくつもの白い色が開かれている。
異変を確かめようと、芦屋は池の淵から花の形に目を凝らす。
天を仰ぐように広げられた、葉や水とは違う色。
それが何かわかった瞬間、芦屋はその場に腰を抜かした。いや、本人にはその自覚も無かった。
池から無数に伸びている花。
それは、確かに、人間の手のひらだった。