第8話
テイクオフ前のチェックを行い、今回のコースの確認、そしてポイントの説明を終えると、最後に千尋はカウントダウンを始めた。
「あと二十秒で風が来るからよろしく。十九、十八……」
つばさはハンググライダーの態勢を整え、駆けだせる準備をする。
フライングレースをするために、資格を取ったハンググライダーだったが、初めて一人で空を飛んだことは今でも覚えている。空がびっくりするくらい青かった。
「十、九、八……」
初めて飛んだ空は怖いって言うよりも、憧れに向かう第一歩で凄く嬉しかった。
だから、今日のこのフライトも夢に向かう一歩にするんだ。
千尋のカウントダウンを聞きながら、つばさは昔を思い出して、心のワクワクが次第に大きくなってくる。
「三、二、一、……今!」
その時、ジャストのタイミングで千尋のナビ通り、風が吹き始めた。
「ゴー!」
「行ってくるよ、チーちゃん」
「いつも通りにね。つーちゃん」
「任しといて!」
合図とともにつばさは駆けだし、空に飛び出すと絶妙なコントロールで風を捕まえるとハンググライダーは空に舞い上がる。
つばさは体を水平姿勢にして、現在位置を確認とともに、千尋に連絡する。
「テイクオフ完了、高度十分、これよりコースに入ります」
「了解、こちらのカメラでも確認完了。まずは右旋回」
空の上でつばさは周りを見回した。
眼下に広がる田園風景。遠くにビル群が小さく見える。風に乗り、どんどんスピードが上がる。
ああ、空はいつも気持ちがいい。思わずレースをしていることを忘れるくらい。
つばさがふと気を抜いていると、無線に千尋の声が飛び込む。
「つーちゃん、勝負だって言うこと忘れて、楽しんでいるでしょう」
「勝負でも飛ぶのは楽しいんだから、しょうがないよ」
「楽しんでいるつーちゃんが一番速いから、そのままで。次、左旋回、三、二、一」
「左旋回」
つばさは千尋の指示に従いながら、最速でハングライダーを操る。
的確に風を読み、指示を飛ばす千尋。
千尋は昔から何でも器用に出来る。その千尋はつばさの夢にかけた。その理由の一つは、あの時のつばさが見ていられないほど落ち込んでいたからだというのもあった。
伝説のレースの少し前、つばさは弟を亡くした。事故だった。
突然弟を亡くしたつばさの落ち込みようは、千尋には耐えがたいものだった。
そんなつばさが、フライングレースをしたいと言い始めたのだから、反対する理由など無かった。千尋にとってつばさが元気になれば何でも良かった。
そして、実際に飛んで見て分かったのだが、つばさには空を飛ぶ才能がある。そう、千尋は信じている。ならば、自分は最高のサポーターになろう。今までの栄光を捨ててでも。
そんな千尋の指示に正確に応えるつばさのフライトは、あっという間に終わった。
本当はつばさとしてはもっと飛んでいたかったが、今はタイムを競っているため、そうもいかない。
ぎりぎりまで減速して、慣れた仕草で着地の姿勢をとる。
さよなら、大空。ただいま、大地。
インカムから千尋の声が響く。いつも通りの落ち着いた声だった。
「おかえり、つーちゃん。お疲れ様」
「ありがとう! どうだった? ボクのフライトは?」
「いつも通り、よかったよ」
つばさはハンググライダーを押して、千尋達の所に戻ると、つばさのフライトを見ていた高田部長が青い顔をしていた。
「さ、三十秒以上の差だと!」
高田部長の言葉で、つばさは自分と高田部長のタイム差を初めて知った。
負けるつもりはそもそも無かったが、つばさ自身もそんなにも差がついて勝っているとは思っていなかった。
しかし、ただひとりこの結果を予想していた千尋は、予想外の結果に動揺している高田部長に詰め寄った。
「高田部長、三十秒以上の差は言い訳できませんよね。約束は守っていただきますよ。こちらは乙女の純潔を賭けたんですからね」
ブラック千尋のドエス・モード。
有利になったときに発動される千尋のこのドエス・モードは、主に男性に対して発揮されるが、下手に止めようとすると、つばさでさえも、とばっちりを受けてしまう。なので、ハンググライダーを部員に返したつばさは、黙って話の行く末を見守ることにする。
そんな中、自分よりもかなり小さな女子に詰め寄られて、高田部長はしどろもどろに言い訳を始めた。
「い、いや、しかし、伝統あるハンググライダー部を変えるのは……俺だけでは……」
高田部長とつばさ達の勝負とは別に、ハンググライダー部の入部希望者のレクチャーは継続されている。完全な初心者達は、桜子先生と一緒にほんの数十秒の飛行を楽しんでいた。そんな新入部員の様子を見ていると、二人の話をなんか上の空で聞いているつばさはウズウズしはじめていた。
そんなつばさに千尋が話しかけてきた。
「どうする? つーちゃん、部長がわがまま言っているんだけど」
つばさは慌てて二人を見ると、なぜか高田部長は草原に土下座をしていた。
「え!? 何がどうなっているの?」
「また、つーちゃんは心が空を飛んでいたわね。部長が土下座をするから、さっきの勝負は無かったことにしてくれって言っているのよ。馬鹿にしているわよね」
千尋は、土下座している高田部長の頭を踏みつけかねない勢いで、そう言った。
しかし、つばさにとっては勝負自体どうでもいいのだ。ただ、フライングレース部を作れないのは非常に問題であり、土下座をされても困る。
「高田部長、とりあえず土下座はやめてください。ボクたちはフライングレース部が作れればそれでいいんです。そのために桜子先生が顧問になって欲しいだけなんで、ハンググライダー部をフライングレース部に変えようなんて思っていないんですよ」
高田部長は土下座のまま顔を上げた。額が真っ赤になり、泥までついている。
なんて実直な人なんだろうか? つばさはそんな姿を見て、ちょっと心が痛んだ。
高田部長はぱっと笑顔になった。
「本当か!? それは!」
しかし、まとまりかけた話を千尋がここでひっくり返す。
「そんな訳ないじゃないですか。万が一にもわたしたちが勝負に負けていたら、高田先輩はわたしたち二人を六年間性奴隷にするつもりだったでしょう。そんな条件を受けて勝負をしたんです。ハンググライダー部はフライングレース部になり、高田先輩は六年間、あたしたちの性奴隷になるんです!!」
「ええーーー!?」
まずいスイッチが入った千尋はまくしたて、困った高田部長は目を白黒させて叫ぶ。
ごめん、チーちゃん。ところで性奴隷って何?
つばさは心の中で突っ込みながら、千尋の口を塞いだ。
「ハンググライダー部の一部門でも良いんです。学校公認のフライングレース部として公式試合に出られればいいんです」
「一部門と言っても……後藤先生と話をしないと……」
原っぱの上に正座をしたままの高田部長は、しどろもどろに答えていた。
その時、副部長の声が響いた。