第6話
桜子先生と約束した土曜日は、春の陽気のふりそそぐ天気の良い日になった。
ほどよい風が、若草のにおいを運んでくる。
集合場所は学校の裏山、というか、彩珠学園は学校自体が山の中腹に作られていて、その山全体が学校の敷地であるため、学校の裏手といったほうがわかりやすい。そこは、登山部やロッククライミング部をはじめ、山林植物園や林業部などその地形を存分に使った部活動や授業が行われていて、山をそのまま使っているのではなく、自然を生かしながらも造成をすることで各々の活動がしやすくなっている場所だ。そして、ハンググライダー部も、その中の一つである。
ハンググライダー部は、その他の多くの部活と同じように中等部、高等部合同の部であり、中等部の入部希望者はつばさと千尋を除いて十人ほどだった。
「おー、二人ともやってきたな」
桜子先生が、つばさたちに声をかけてきた。
ティーシャツの上に、厚手の長袖シャツを羽織、ジーンズをはいている桜子先生は、女性なのにイケメンと言う言葉が良く似合う雰囲気だった。
「来ないと顧問になってくれないって言ったのは、桜子先生じゃないですか」
「後藤先生な。まあ、顧問の話は一旦置いて、今日はハンググライダーを楽しんでくれな。それじゃあ、あたしは、初心者組の面倒を見ているから、あとは部長の高田の指示に従ってくれ」
桜子先生はそれだけ言うと、向こうに行ってしまった。
すると、向こうから男子高校生の声が聞こえてきた。
「新入部員のうち、経験者はこちらに集まってくれ」
とりあえず、桜子先生とはあとで話をしようと考えたつばさたちは、その言葉に素直に従い、他の新入部員たちと合流した。
新入部員のハンググライダー経験者はつばさたち以外では三人で、そのうちのひとりの女の子は、ゆるふわヘアーの気弱そうでおとなしそうな雰囲気の子だった。千尋は清楚系ではあるが、決しておとなしいわけではないため、なんとなくつばさの印象に残り、ついつい千尋にそのことを話してしまった。
「ねえ、チーちゃん、あの子も経験者だなんてなんか意外だね」
「しっ、私語していると怒られるわよ」
「そこの二人、私語をするな!」
案の定、高等部三年の高田部長が、よく通る低い声で二人を叱りつけた。
背の高い、真面目そうな高田部長の真剣な顔を見ていると、素直に謝るしかなかった。
「すみませんでした」
「中学生になって舞い上がる気持ちはわかるが、ハンググライダーは空を飛ぶ競技だ。油断をしていると大きな事故につながるから気を付けろ! 二人は、ハンググライダー経験者なのだから、その辺はよくわかっているだろう。そんなことで、我が部ではやっていけないぞ」
「中等部一年の空野つばさです。ボクもチーちゃんも別にハンググライダー部に入りに来たわけじゃないんです」
つばさの言葉に仮入部に来た一年生をはじめ、ほかの生徒もざわつき始めた。入部希望でないならば何のために来たのかと。それもハンググライダー経験者が。
その、動揺を抑えるように、高田部長は落ち着いた声で説明しはじめた。
「ああ、お前たちか。後藤先生から話は聞いている。フライングレース部なんてものを作ろうとしているんだってな。俺たちは真剣にハンググライダー競技をしている。その指導に当たっていただいている後藤先生を兼任とはいえ、そちらに渡す気はない。経験者ならば、素直にハンググライダーをしたらどうだ?」
「いやですよ。ハンググライダーってプロ競技あるんですか?」
「……ない。しかし、女がプロフライングレーサーになって、どうするんだ? 今の男女混合の形態のままだと女性はトップレーサーにはなれないぞ」
また言われた。やっぱり、みんな言うことはいつも一緒だ。たとえ、高田部長が親切心からそう言っているのだとしても、二人にとっては耳にタコができるほど聞いた、ただのお説教と一緒だった。
だから、いつものようにつばさは口を開いた。
「モニカ・シューティングスター……」
「モニカ・シューティングスターな。確かに彼女はすごかった。八百長だという声もあるが、あのレースを動画で見たかぎりでは、俺は本物の実力者だと思う。だけど、彼女もあのレースだけだった。ほかの選手からノーマークで研究されていない状態だったからこそ、あれだけ華麗なレース運びができたとも考えられる。モニカが次の年もレースに参加して、それなりの成績を残せたなら、女性でもトップになれたと証明できたかもしれないな」
その言葉を聞き、つばさは驚いて高田部長の顔を見た。
いつもの話の流れでは、「モニカは八百長だった。話題作りにあのレースに参加しただけだ」と言われると思っていた。そう言ったならば、「あなたは、ちゃんとあのレースを見たのかと。ボクがあの場で見た。その上、何十回見直したかわからない! あの伝説のレースを」とそう言い放てた。しかし、この部長はモニカを、あの伝説のレースのモニカを認めたうえで、継続して女性レーサーがトップを取るのは難しいと言う。確かに、その後、モニカはレースに参加していない。そして、その他の女性レーサーの成績は良くない。つまり、つばさとしても反論する材料を封じられた形となった。
「でも……」
「ちょっと、まって」
なんでも良いから反論しようとするつばさの手を引いて、止めたのは千尋だった。
つばさは千尋の顔に『無謀な反論は止めて、自分に任せて』と書かれているのが読めた。
このような顔をしているときの千尋が心強いのは、つばさが一番知っている。なので、つばさは千尋に任せることにした。
すると千尋は一歩前に出て、高田部長に言った。
「そうですね。現状、フライングレースでは男性が圧倒的に有利です。でも、今後モニカ選手のような人間が出ないとも限りません。それもモニカ選手のように、一回のレースだけでなく、シーズン通して男性レーサーと渡り合える女性レーサーが」
「そんな有力な選手がどこにいる?」
「ここに」
そう言って千尋はつばさを指さした。その瞳には一切の迷いがなかった。
何の冗談を、と言いかけた高田部長は、心の底から信じて疑わないその目を見て、思いとどまった。
「こいつがそんなスゴイ選手だというのか?」
「わたしはそう信じています。そのためにも今のうちからフライングレース部を作り、プロレーサーの登竜門である学生選手権に優勝したいんです。部長たちもそうでしょう。ハンググライダーの学生選手権で日本一になるのが目標なんですよね」
「当然だ。そのために練習もしているし、指導者として後藤先生の力が必要なんだ」
「それであれば、たかだか新入生になんて負けるわけありませんよね」
そう言った千尋の大きな丸眼鏡が、きらりと光った。
あ、これ、悪いこと考えている時のブラックチーちゃんだ。長年一緒に居るつばさは、何やらピンと来た。
「当り前だ。何が言いたいんだ? お前は」
「それでは勝負をしましょう。このつーちゃんと部長でハンググライダー勝負。競技はパイロン競技でどうですか?」