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8章

四街道は千葉にいたときに名前だけは知っていた。

その方面から通学している生徒もいたし、あくまで噂程度でしか知らないことだが、四街道のとある森は自殺の名所らしかった。

明日奈がその短い生涯を終えた場所が、噂の自殺名所だったかどうかはわからない。そもそも、その森がどこなのかまでは僕も知らない。

明日奈の探し物の在処の手がかりは、真白だけが知っている。

「今更だけど、目的地の目途は立っているのか?」

移動中、運転中の野木さんが聞くと、真白は不安そうにこくりと頷いた。

「どのあたりか覚えてる?」

「それは・・・」

言い淀んだ真白に、僕は隣からさっとスマホのマップを差し出した。

「ごめん。マップを見てもわからない」

「ああ、そっか」

当時、真白は直感で明日奈が向かった森を見つけたと話していた。いきなり地図を見せられてもわからないのは当然だ。

「でも、通った場所はなんとなく覚えています」

真白はそう言って深呼吸した。

「大丈夫か?」

「ええ」

なんだか真白の顔色が悪かった。昨日の疲れがどっと出たのかもしれない。

「水、飲む?」

「ありがとう」

美咲からペットボトルの水を渡されると、真白はそれをちびちびと飲んだ。

「・・・今、必死に当時のことを思い出そうとしている。そのたびに、なんだか気分が悪くて」

真白は力なくそう言って、ペットボトルを美咲に返した。

無理もないことだろう。真白にとっては、親友を亡くしたトラウマの場所なのだから。

「変よね。昨日の夜までは、やっとここまで来たって思えたのに。いざ目的地に近づくにつれて、こんなざまだなんて」

それでも、僕らは彼女の体調を案じて引き返すという提案をしなかった。真白自身がそれを望んではいないだろう。

これは、彼女の過去との闘いなのだ。そして美咲も特別な思いを抱えてここまで来ている。

「最初はどこに行けばいい?」

野木さんもそれをわかっている。だから、引き返そうとは言わず、代わりにそう尋ねてきた。

「まずは、バス停を探してください」

真白はバス停の名前を言った。

「えっと・・・」

真白が言ったバス停をスマホで検索してみる。見事ヒットして、マップ上にピンが刺された。

美咲が僕のスマホを覗いてくる。

「確かに周りは森林ばっかりね」

マップ上には三つの大きな森林地帯が記されている。そのどれかが、明日奈の最後の地なのだろう。あとは、真白の記憶が頼りだ。

「無理はだけはするなよ。それだけは約束」

昭雄が助手席から振り向いて、真白をじっと見つめた。

「わかった」

真白は力なく頷いた。とはいえ、彼女の顔色は芳しくない。もしかしたら、僕の力を使うことも考えておかないといけないだろう。

明日奈本人なら、真白以上に場所を知っているだろうから。

しかし、肝心の明日奈は、昨日今日と僕の前に姿を現していないし、出てくる気配も今のところない。

それでも、いつでも明日奈と交信できるように、僕も万全の態勢でいた方がよさそうだ。


昼前に四街道に入った。

時間的には順調、だと思う。

あとはここから明日奈の探し物をどれだけ早く見つけられるか。

道中のコンビニで軽食を購入し、少し早めの昼食を車内で済ませ、僕らは真白の言っていたバス停を探した。

ナビを頼りに田園が広がる田舎道を突き進んでいく。至って長閑で、そして何もない。

もっと空が晴れていたら夏らしさもあったのだが、灰色の怪しい雲に覆われていて、僕らの焦燥感をさらに煽っているようだった。

道中、僕らは無言だった。皆、昨夜のタイムリミットを気にしているのは確かだと思う。

真白は助手席の背もたれに顔を埋め、辛そうにしていた。

「下向いてると、気持ち悪くならないか?」

「ごめん。ほっといて」

心配して僕が真白にそっと話しかけると、彼女はくぐもった声で突き放した。

「・・・悪い」

周りを気にしてられないほど、相当な心の負担なのだろう。僕は少し申し訳なくなったが、真白は首だけ横に振った。

美咲も真白を心配そうに横目で見ていた。時折、窓の外を眺めながら、物思いに耽っている。

彼女は明日奈が最後を迎えたこの地を、どういう思いで見ているのだろうか。

「そろそろバス停付近だ」

野木さんの言葉に、僕らは同時に窓の外を見た。周囲はうっそうと茂る森ばかりだった。

「あっ」

やがて、昭雄がフロントガラスの向こうを指差す。

「あれじゃないか?」

昭雄の声に、真白が一気に顔を上げ、助手席と運転席の間から顔を出した。

丸い標識と青色の汚れたベンチが見えた。

「・・・あれです」

真白が確信を持ったように頷いた。そして、次の瞬間に、口元を抑え始める。

「大変!」

美咲が隣にいた僕の前に身を乗り出して、持っていたコンビニのビニール袋を真白の前に持っていった。

真白はそれを掴んで、中に嘔吐した。

野木さんも車を急停止させる。

一旦僕らは車を降りた。美咲が真白の背中を擦りながら、雑木林の方に連れて行った。

その後ろ姿を、僕と昭雄は複雑な思いで見つめるしかなかった。

「ここまで耐えてきたんだろうな」

野木さんが運転席の窓を開けて僕らに言った。

「そうですね」

今まで、真白は明日奈に対する贖罪を抱えて生きてきた。彼女をもっと早くに救ってあげられなかったこと、自分だけが生き残ってしまったこと。

彼女の中で闇がずっと心の中でくすぶって、ここに来て抑えられないほどに膨張した。

誰だって、自分の力ではどうしようもないことはたくさんある。でも、それが事実だったとしても、後悔や罪の意識が軽くなることはない。

いつかは過去のことと向き合う時がやってくる。真白にとって、それが今なのだ。

だとしたら、僕にもその時が来るのだろうか。その時、僕はどうすればいいのだろうか。今回の真白のように、向き合うことができるだろうか。

「真白は、強いと思います」

彼女の強さが、少し羨ましかった。トラウマに苦しみながらも、こうして過去と向き合おうとしている。

野木さんも昭雄も静かに頷いていた。

やがて真白が美咲に手を引かれて雑木林から出てきた。

先程より、顔が真っ青になっていたが、辛そうな表情は消えて、代わりに火のついたような目をしていた。

「すみません。みっともないところを見せてしまって」

真白が運転席の野木さんに謝る。一方、安心させるように野木さんは柔和な笑みを浮かべた。

「気にしなくていい。それより大丈夫?」

「はい。なんとか」

真白はしっかりとした声で頷いた。どうやら、色々と吐き出すことができて、すっきりしたらしい。

「とりあえず、適当に車を停めてくるから、その後、周辺を探してみようか」

野木さんがそう言った後、遠くの空がゴロゴロと不気味に鳴り響いた。

「・・・雲行きも怪しいし、早く探しに行こう」

「はい」

僕らは同時に頷く。雨が降れば、それだけ捜索の難易度は上がってくる。

探し物が見つかるまで、空模様がもってほしかった。


野木さんがバスの邪魔にならないように車を移動させている間、僕らはバス停のベンチに座って待っていた。

「明日奈を呼んでみよう」

僕は三人にそう告げた。

「その方が、早く探せるはずだから」

今の真白は少し顔色も良くなっているとはいえ、これ以上、過去のトラウマを蘇らせるのは、得策ではない。

「でも、涼は大丈夫なの?」

美咲が心配して聞いてきた。

「前みたいに体調不良になったら・・・」

「それならたぶん大丈夫。ここ最近、力を使うようになって、また耐性が出来てきたから」

そうは言っても、自分の力をどのくらいの時間使うかにもよる。

もし、捜索に時間が掛かるのであれば、その分、僕の体力も消耗していく。

だが、もともと時間との闘いであるから、短期決戦で臨む分には問題ない。

「何かあったらすぐに言えよ。お前まで無理されたら敵わんから」

「わかってる」

昭雄に頷いて見せた後、僕は真白の前に立った。

「今は見えてないの?」

「ああ。でも、君に触れたらまた見えるかもしれない」

そう言うと、真白は顔を俯かせた。

「ありがとう」

「えっ?」

「皆、ありがとう。私の我儘に、ここまで付き合ってくれて」

今更だった。僕らは真白の願いを、我儘だなんて思っていない。

「気にすんなよ。ていうか、まだこれからだろ?」

「そうそう。明日奈の探し物はまだ見つかってないし」

昭雄も美咲も笑顔でそう答える。それに反応するかのように、真白は火傷の痕の残る顔で、不器用な笑みを浮かべた。

そして、そのまま僕の方に右手を差し出す。

「よし」

彼女の細くて白い手に触れる。相変わらず冷たかったけれど、集中している僕の手が妙に熱が入っていた所為で、全く気にならなくなった。

なんとか明日奈を呼ぼうと、しばらく目を閉じて集中してみる。

やがて目をゆっくりと開けた。

周囲を見渡してみる。しかし、明日奈の姿はなかった。

「彼女はいる?」

おかしい。以前は触れてないのに現れることがあったのに、なんでこんな時に限って。

もう一度、真白の手に触れようと試みたが、そのタイミングで野木さんが戻ってきた。

背中には大きなリュックを背負っている。

「ごめん、お待たせ。皆、準備できてる?」

真白はすくっと立ち上がり、野木さんに頷いてみせた。

他の皆も、先程まで何もなかったかのように振舞っていた。

「じゃあ、真白ちゃん。案内できる?」

「はい」

僕だけが、冷静さを失っていた。だが、それを周囲に悟られないように努力した。

昭雄も美咲も、真白もわかっている。僕が力を使えなかったことに。それを責められたりはきっとしないと思う。

でも、不甲斐ない気持ちで一杯だった。

こんな時に限って、僕の力が役に立たなくなるなんて。

兄を亡くして以来、この力を呪ったことは何度もある。いっそこんな力がなければよかった。そうすれば、誰も不幸にしなかったのにって。

でも、こうして力が必要なタイミングで、その願いが叶ってしまうのは、皮肉を通り越して嫌がらせにすら感じる。

なんで、どうして。

すると、昭雄に肩を軽く叩かれた。

「行こうぜ」

すでに真白が先導して歩き出している。僕も遅れないように急いだ。

「正直、ちょっとだけよかったかもな」

僕の隣で、昭雄がそんなことを呟いた。

「よかったって?」

「お前の力を使えば楽だったろうけれど、これは真白の問題だから」

そう言われて、僕は納得する。

「真白は自分の力で過去と向き合おうとしてる。ここはあいつに任せて、俺たちは何かあったら支えてやればいいんじゃね?」

それは昭雄なりの僕へのフォローだったかもしれない。でも、それよりも僕は、昭雄が真白のことをしっかりと見ていたことに驚いている。

「なんだよ?」

僕の顔を見て、昭雄は怪訝な表情を浮かべた。

「いや、別に。実は僕も同じことは考えてた」

「そっか」

真白は自分の思っていることをはっきりと示さない。言葉でも表情でもしっかりと表さないから、他の人から何を考えているかわからないと思われ、気味悪がられる。

でも、彼女とずっといると、行動や言葉の節々でいろんな思いを発している。

何に対して悲しんでいるのか、何をされると嬉しいのか。

真白は僕らが思っている以上に、色んな思いを内に秘めている。友達としてそれを汲み取ってやりたい。

とにかく今はただ、真白に付いていくだけだった。


真白の後に続いて、バス停から少し歩いた先に、入口のように木々が分けてある場所が見えた。雑草は生い茂っているが、獣道のような痕跡がある。

「たぶんここ」

真白はそう言って、先に森の中に入った。

僕と昭雄もそれに続くが、美咲は少し不安そうにしている。

空が曇っている所為か、森の中は陰鬱な雰囲気に包まれ、よそ者の侵入を拒んでいるかのようにも見えた。

「せめて虫よけスプレー、持ってくればよかった」

美咲がそんなことをぼやいた。

僕と昭雄と野木さんは半袖と長ズボンという出で立ちだが、美咲はスカートだし、真白はホットパンツである。

女性陣は肌の露出面積が広い分、虫の餌食になりやすかった。

「この時期だと、マムシとかにも気を付けないとね」

そこに野木さんが追い打ちをかけるようにそんなことを言ってきた。

「うへー」

美咲が気持ち悪そうな顔を浮かべるが、そんな彼女を昭雄がじとっと睨む。

これは遊びではない。嫌なら帰れ。とでも言いたげだった。

「・・・ごめん」

昭雄の視線に気づき、美咲はまた真剣な表情に戻った。

真白は脇目も振らずに先へ先へと進んでいく。

それにしても、今は真白の記憶だけを頼りに進んでいるわけだが、本当に見つかるのか、少しだけ疑問が湧いた。

周囲は木々と雑草だけで、かろうじて人の通れそうな獣道があるだけだ。

やみくもに歩いて、迷子にならないといいが。

例えば、目的の場所に目印があるとか。

いや、そんなものはないと思った方がいいだろう。きっと警察が現場を綺麗にしていったはずだ。でも、だとしたらそもそもの疑問で、明日奈の探し物が回収されてしまったという可能性に行きつかないだろうか。

実際のところ、ここであっているのか、明日奈自身に聞かなければわからないが、彼女はまだ僕の前に姿を見せない。

ふと、背後を見ると、野木さんが立ち止まって、木に何かを括りつけているのが見えた。

「何してるんですか?」

「目印だよ。帰り道がわかるように」

木の幹に赤いテープを結んでいた。

野木さんはちゃんと準備をしてきていた。もし、僕らだけで行っていたら、こういうこともせずに森に入って迷子になっていたかもしれない。

そう思うとぞっとするが、とりあえず頼れる大人が付いてきて本当に良かったと思う。

それからどれだけ歩いたのかはわからない。

30分か、1時間か。とにかく、それなりに時間が経っている感じはしていた。

誰も時計もスマホも見ず、ただ黙って真白に付いていった。

やがて真白が不意に立ち止まった。

「どうした?」

昭雄が尋ねても、真白はすぐに答えない。

僕らの目の前には、雑草に覆われた少し拓けた地面があった。

「たぶん、ここ」

真白は拓けた地面をすっと指差す。

「明日奈はここに横たわっていた」

僕は思わず息を飲んだ。

昭雄も美咲も瞠目している。

そこは何もない雑草の茂る地面だった。ここに明日奈が横たわり、そして眠るように死んでいった。

こんな薄気味悪い森の中で、ひっそりと死のうとした。彼女の気持ちはどんなものだったのだろう。

少なくとも、明日奈自身はそんな死に方を自ら望んではいなかったはずだ。それ以前に、もっと幸せに、長く生きたかったに違いない。

何が彼女をここへと追い詰めたのか。いや、僕はそれを知っている。僕だって、あのままずっと千葉に住んでいたら、彼女のような末路を辿っていたかもしれないから。

真白がゆっくりとしゃがみこむと、白くて細い手を合わせて目を閉じた。

僕らもそれに倣って、手を合わせて黙祷を捧げる。

一瞬、周囲の虫の鳴き声が、心なしか小さくなった気がする。

真白が立ち上がる気配と共に、僕も目を開けた。

視線の先、明日奈が横たわっていたという地面に、ちょうど本人が佇んでいた。


明日奈は寂しそうに僕に笑いかけた。

「来てくれてありがとう」

消え入りそうな声で、小さく笑っていた。

「さっそくだけど、どこを探せばいいのかな?」

僕の後ろで美咲が言った。

「見たところ、雑草だけだな。何かあるとは思えねえけど」

昭雄も首を傾げつつ、真白の様子を伺った。

真白はぼうっと、明日奈が横たわっていたという場所を見つめている。

明日奈が自殺をして随分時間が経ってしまっている。ここに何かがあったとしても、風化してしまっている可能性が高い。

僕は明日奈の方を見る。

明日奈はゆっくりと手を伸ばし、人差し指で一点を指し示した。

「掘って」

「えっ?」

思わず声を上げてしまった。

「何?」

美咲がびっくりして体を震わせた。

「あっ、ごめん。今、明日奈がそこにいて」

僕が指を差した方を皆が一挙に見つめる。

「ここを掘れって言ってる」

そして今度は明日奈が指し示した、木の根本を指差した。

「掘れって・・・つまり、探し物は地中にあるの?」

「みたいだ」

僕が明日奈を見ると、彼女はこくりと頷いた。

「掘るって言ってもよ」

昭雄がしゃがみこんで地面を触ってみる。

僕も一緒に触ってみるが、少々地面は固かった。

「道具がないと難しいかもな。手でやるとなると、かなり時間が掛かると思う」

まさか、地中に埋められているとは。そういう思い付きもなかったわけではないけれど、まさか本当に埋められていたなんて。

そこに野木さんが深く溜息を吐いた。

「よかった。準備しておいて」

そういって、背負っていたリュックを地面に置き、中に手を入れて何かを探り出した。

「まさか・・・」

「はい。一応、何かあるかと思って持ってきた」

小さなスコップを二つ、野木さんは僕と昭雄に手渡した。

「ありがとうございます」

「野木さん、準備良すぎじゃん」

「こうなることも予想しておかないと。君たちもまだまだ修行が足りんな」

冗談交じりに笑いながら、野木さんはさらにリュックから色々と出してくる。

アウトドア用の折り畳み椅子に、コッヘル、ガスバーナー、さらには頭につけられる懐中電灯など。

「・・・野木さん、もしかしてキャンプに行くつもりだった?」

「いや、万が一のためだって」

笑顔を浮かべながら、野木さんは折り畳み椅子を組み立てはじめている。

「とりあえず、真白ちゃんは座りなよ。ちょっと休憩しな」

「あっ、はい。ありがとうございます」

野木さんに誘われ、真白は折り畳み椅子に深く腰かけ、深呼吸していた。

「で、掘るのは俺たち?」

「当たり前だろ。女の子にやらせるつもりか?」

野木さんに言われ、僕らは顔を見合わせる。

「えっと、私は何を・・・」

「美咲ちゃんは、コーヒー淹れるの手伝ってくれるかい?あっ、あと虫刺されの塗り薬とかあるけど使う?」

「はい!使います!」

美咲はほっとしたように野木さんから塗り薬をもらっていた。

「・・・やるか」

「ああ」

スコップ片手に、僕と昭雄は明日奈の指差した木の根元を掘り始めた。


僕と昭雄はひたすら掘った。

明日奈と真白はずっと僕らの後ろでその様子を見届けていた。

しかし、なかなか明日奈の探し物は出てこない。

空模様がさらに怪しくなっているのか、先程よりも雷鳴が近づいている。

野木さんと美咲は皆の分のコーヒーを淹れていて、少しずつ良い香りが辺りに漂ってくる。

「ねえな」

額の汗を拭きながら、昭雄は溜息を吐いた。

「本当にこの辺りなんだよな?」

昭雄は僕の方を見て、僕は明日奈の方を見た。

明日奈はコクリと頷くだけだ。

「そうみたいだけど」

「よほど深く掘ったのか。それとも失くなったのか?」

失くなったとしたら、明日奈はここに出てこないだろう。

彼女の魂はたぶん、ここに縛られている。

だから、僕らに探してほしいのだ。

急に目が霞んできた。

どうやら、明日奈と交信しながら、力仕事をしている所為で、体力を消耗しているらしい。

「コーヒー、できたから飲むか?」

そこに野木さんが声をかけてきた。

沸騰させたコーヒーを紙コップに淹れて僕らに差し出す。

「俺、冷たい物が飲みたい」

昭雄は汗を拭きながら言った。

「なら、冷やしとく。涼くんは?」

「そのまま頂きます」

体は火照っているけれど、野木さんの淹れたコーヒーの香りに抗えず、僕は紙コップを受け取った。

美咲もコーヒーを冷ましているようだったが、冷え性の真白はするすると啜っている。

息をかけて冷ましながら、僕は一口ずつコーヒーを飲んだ。

口の中にほろ苦い旨味が広がり、やがて熱さに慣れて少しずつ飲む勢いを強めていく。

「ごちそうさまです」

空になったカップを野木さんに渡して、僕はまた作業に取り掛かった。

昭雄はまだコーヒーが冷めるのを待っている。

「ねえ、交代するよ」

土を掘り返す僕の背後で、美咲が声を掛けてきた。

「大丈夫」

「でも、顔色良くないって」

口では大丈夫と言っても、実際は疲労感でくらくらしていた。それを美咲に見破られても、僕は手を止めない。

「貸して」

すると、今度は真白が椅子から立ち上がり、昭雄からスコップを受け取ろうとしていた。

「もういいのか?」

「ええ」

昭雄からスコップを受け取り、真白は僕の横にしゃがんで、土を掘っていく。

「私が見つけないと」

真白は強い眼差しで、荒々しく土を掘り返していく。

僕は何も言わず、同じように手を動かした。

昭雄と美咲、そして野木さんと明日奈は、僕らのことをただじっと見守っている。

霞む目を土で汚れた手で擦りながら、僕は周辺を掘り続けた。

きっと深くは掘っていないはず、わからないところに、明日奈は隠してなんかいない。

僕らでも探せるようにしているはずだ。

どれくらい時間が経ったかなんて、もうわからない。

見つけるまで僕らは諦めない。

だから、見つかってくれ。

何度も何度もそう願いながら、僕が土を掘り返した時、わずかに固い何かが当たった。

もう一度、スコップを突いてみる。

コン、という固い感触が確かにあった。

勘違いでないか、別の角度からまた突いてみる。再び固い感触が当たった。

今度は手でそれを触ってみる。

石ころ、ではなかった。もっと大きい何かだった。

僕が顔を上げると、真白が目を見開いてじっと僕を見ていた。

そして、僕の掘り返した穴に、自分の手を入れてくる。

彼女も固い感触を感じたようで、もう一度僕を見てきた。

僕らは頷き、スコップで周辺の土を掘り返した。

昭雄たちも気づいたようで、僕らの周りに集まってきた。

白い手が土で黒く汚れているのも気にならず、真白は一心不乱に土を掘り返し、僕も周辺の土を避けていく。

昭雄と美咲も手を伸ばして固い何かを掴んで、引っ張り出そうとしていた。

「いくぞ」

ある程度土を避け終わり、昭雄と美咲がそれを引っ張り上げた。

出てきたのは、クッキーなどの菓子を入れておくような、平べったい缶の入れ物だった。

明日奈の方を見ると、彼女は寂しそうに笑って頷いていた。

真白は恐る恐る、昭雄からそれを受け取り、蓋を開けようと力を込めていた。

しかし、ずっと土の中に埋もれていた所為か、なかなか蓋が開かない。

そこに野木さんがサバイバルナイフを持ってやってきて、缶を手に取り、ナイフの刃を缶の蓋に噛ませ、てこの原理で慎重に開けようとした。

しばらくして頭上から雫がぽたぽたと落ちてきた。

僕らがそれを見つけるまで、雨雲が我慢していたみたいだった。ようやく見つかって堰を切ったかのように、さらさらと雨粒を降り注いでくる。

野木さんが何度もナイフを動かして、ようやく蓋が少し動いた。そこからは力技で、野木さんが頑張って蓋をこじ開ける。

「おっ」

新鮮な空気を吸い込むかのように、蓋はボコッと音を立てて開いた。

僕らは野木さんの持っていた缶の中身を覗き込んだ。

明日奈が探して欲しかったもの。それはさらにビニール袋にくるまれていた。

真白はビニール袋をそっと缶から取り出し、土で汚れた指先で、慎重に中身を取り出した。

「これって・・・」

中に入っていたのは原稿用紙の束と、一冊の小さなノートだった。

原稿用紙にはびっしりと細かい字が書き連ねてある。

真白は文字を目で追っていき、すばやく原稿用紙を捲っていく。

やがて、潤んだ目で僕の方を見て、原稿用紙を差し出してきた。

僕は慎重に原稿用紙を受け取り、少しだけ読んでみる。

昭雄も美咲も、疑問符を浮かべながら、僕の横で原稿用紙を覗き込んだ。

1行目には、「10章 (ラスト)」と書かれていて、次の行から話が進んでいく。文章の構成、そして語り。それらを少し読んでわかった。

これは、「凍てつく森」の続きだった。

「明日奈は、これを私に探してほしかったの?」

真白は、僕が明日奈がいると言った方を見つめて言った。

明日奈はゆっくりと頷いた。


しんしんと雨は降り続けた。

激しくはないけれど、少し煩わしい程度の降雨量で、僕らと森を包み込んだ。

急いで荷物をまとめて、僕らは来た道を戻った。

野木さんが目印を付けていたお陰で、迷うことなく森から脱出できた。

車に戻ってタオルで濡れた髪を拭いた後、静岡へ向けて出発した。

車内は沈黙に包まれていた。

各々、思うことがあって、頭を整理する時間が必要だった。

特に真白にはその時間がなくてはならなかった。

彼女はずっと、明日奈の遺した「凍てつく森」の原稿を読んでいる。

昭雄は助手席で腕を組んでいて、美咲は物憂れいた表情で窓の外を見ていた。

僕はというと、どこに目線を定めるわけでもなく、ただ無表情でいた。

僕らの夏の旅行は、沈黙と共に終わった。

少し物悲しい結末だった。

もっと驚きと感動に満ちた冒険を期待していたわけではない。でも、こんな風に寂しく終わるとは思っていなかった。

昭雄と美咲、そして野木さんは今何を思っているのだろうか。

気になってはいたが、この車内の沈黙を破るのは憚れた。

「懐かしい」

ふと、横から真白が小さな声で呟いた。

僕と美咲、そして昭雄が一斉に真白を見る。

「正真正銘、明日奈の字」

真白は愛でるように原稿を見つめて微笑み、明日奈の筆跡を指で撫でていた。

「ずっと昔に、まだ手紙でやり取りしていた頃の字と、全然変わらない」

「・・・それ、手紙なのか?」

助手席から昭雄が声を掛けた。

真白は首を横に振る。

「あの子が書いた小説。これはその続き」

「小説?マジで?」

昭雄はわざとらしく驚いていた。そこからはいつもの調子を取り戻していった。

「すげーじゃん!明日奈って、小説書けたんだな!」

「ええ。あの子、昔から文章力があったし、想像力も豊かだったから」

「すげーな!俺、作文とか全く苦手だから、文章書ける奴ってマジで尊敬する」

昭雄の明るさに、真白は笑顔を向けていた。

「それ、『凍てつく森』よね?」

そこに今度は美咲が静かに声をかける。その声にはいつもの元気はなく、途端に空気がまた静まりそうになる。

「以前、明日奈に本をもらったことがある。読んで感想を聞かせてって。でも読み終わる前に、あの子は死んでしまった」

美咲は切なそうに、真白が持っている原稿を見つめていた。

昭雄は何か言いたげにしていたが、口を噤んでいた。

「それ以来、あの子の本は読んでいない。なんだか読む気になれなくて、ずっとしまい込んでいる」

美咲は無表情のまま、目から静かに一滴を流していた。

「今更読んでも、もうあの子に何も伝えられない。辛いよ、本当に」

美咲の震える声に、僕も胸を締め付けられた。

真白も、先程の微笑みと打って変わって、辛そうに顔をしかめ、原稿を折りたたんでしまった。

「今からでも遅くないんじゃないか?」

そこに、暗い雰囲気を破るように、運転中の野木さんが優しげな声で言った。

「このタイミングで、明日奈ちゃんは君たちにそれを探してほしかったんだろう。自分の書いた本を最後まで読んで欲しかったのかもしれないし、本の続きを通じて、自分のことを思い出してほしかったのかもしれない」

バックミラー越しに、野木さんは美咲に語りかける。

「また本を読んであげなよ。感想を伝える手段はあるんだから」

そして、野木さんの視線が僕の方に向けられる。

そうか。確かに、そういうことが僕にはできる。

美咲もそれに気づいて、目を見開いて僕を見た。僕は美咲に微笑みかけてやる。

やがて美咲は手で顔を覆い、肩を揺らして泣き出した。


日没には静岡に着いた。

車の中で、僕らは明日奈の「凍てつく森」を回し読んでいた。

僕は発見したばかりの最後の章の原稿から読み、美咲は真白から本を借りて読んでいた。

昭雄も美咲が読んだ後に本を借りて、一から読み始めた。

最後の章は、まるで僕の予想と違っていた。

ヒロインたちは森の中でそのまま眠るように命を絶とうとしていた。

しかし、気がつけば二人とも何者かに助け出され、病院で目が覚める。そしてまた、いつもの絶望に満ちた日々を送る羽目になるのだ。

しかし、そんな中でヒロインの友達が交通事故で亡くなり、一人残されたヒロインは、友達の分までこれからも絶望の日々を強く生きようと誓って終わる。

これが明日奈の思い描いた最後、なのだろうか。

色々と考えてみて、やはり明日奈は自分と真白を重ねて物語を作ったのだと思わされる。

ある意味、真白に対して「私の分までもっと生きて欲しい」というメッセージのようにも感じた。

でも、やっぱり僕は何か腑に落ちなかった。

これまでの明日奈の文章力と創作力を見ても、こんな終わり方で本人は納得したのか。

ハッピーエンドにしろ、バッドエンドにしろ、明日奈ならもっと何か違う終わり方にするだろうと、勝手に期待していた。

そう思って、菓子の缶に入っていたノートも読んでみた。

しかし、こちらは明日奈が「凍てつく森」に関するネタをまとめているだけに過ぎず、特にメッセージなどは書かれていなかった。

そうやって僕らが「凍てつく森」を読み終えたところで、修善寺に帰ってきた。

「まずは真白ちゃんの家に寄っていくから」

野木さんの問いかけに、僕らは静かに頷いた。

ひとまず真白を無事に送り届けないといけない。

僕らも最後まで付き添うことにした。

見慣れた自宅への田舎道を進み、やがて西都やと僕の家の分岐点が見えてくる。

橋を渡らずに西都やの入り口に車を停め、僕らは車を降りて真白を旅館まで送り届けた。

「もし、なにかされそうになったら、俺が守ってやるから」

昭雄は袖を捲ってそう嘯いた。

こういうとき、いつもの真白なら「大丈夫。自分で何とかする」なんて台詞を吐くだろう。

「ありがとう。頼りにしている」

しかし、真白は意外な答えを用意して、目を細めて昭雄に微笑んだ。

不意を突かれたように、昭雄の顔が照れて赤くなっているのが、僕にもわかった。

そんなやり取りも程々に、旅館の出入り口へとぞろぞろと向かっていくと、着物姿の真白の叔母と、スーツ姿の苗香さんがすでに待ち構えていた。

真白の叔母は険しい顔で僕らを睨み付けていて、苗香さんは心配そうな表情を浮かべていた。

真白は叔母の目線を一瞥すると、すっと前に出ていき、深々と頭を下げた。

「勝手に家を出てすみませんでした」

身内に対する態度ではないのは明らかだった。

真白の後ろで、僕らはじっとやり取りを見守ることにした。

真白の叔母は一歩前に出て真白に接近すると、右手を大きく振りかぶった。

咄嗟に僕らは叔母を止めようと動き出す。

しかし、叔母は呼吸を荒くして、右手をゆっくりと下ろした。

そして、今度は真白を力強く引き寄せて、抱きしめたのである。

僕らは呆気に取られた。真白はもっと動揺していただろう。

「・・・心配掛けて、もう」

叔母は震える声でそう言った。

「ごめんなさい」

小さな声で真白がそう言うと、叔母はさらに彼女をぎゅっと抱きしめた。

しばらくして、叔母はゆっくりと真白を離し、僕らの方を見て、丁寧なお辞儀をした。

姿勢の良さと品のある態度に、伊達に旅館の女将をしているわけではないと思わされた。

「この子を連れ回した件について、あなた達のことはまだ許す気になれないけれど、まずは、ちゃんと連れて帰ってくれてありがとうございます」

先程のまでの鋭い視線はもうなく、憔悴した顔で僕らを見ていた。

真白のことを心底心配していたのは、本当のことらしい。

「この子が勝手に出ていった理由について、私なりに考えていました。確かに、窮屈な思いをさせていたと思います。それは全部、この子と姉のためだと言い聞かせてきました。でも」

叔母は鼻で息を吸い込んだ後、ゆっくりと吐き出して言った。

「心のどこかでは、この子と姉のことを恨む気持ちもありました。家の名を汚した姉の子供を、なんで私が育てないといけないのか。その苛立ちを、真白にぶつけてしまっていたのは認めます」

この人は、自分は絶対に正しいと信じて認めない人間だと思っていた。

だからこそ、今放たれた言葉の重みは違う。

これは、自分の過ちを本気で認めて、悔やんでいる人の言葉だった。

大抵の人間は、間違いがあってもそれを認めることが難しい。というか、目を逸らしてしまう。

でも、この人はきっと、その過ちと向き合ったのだ。

「私がこれまでしてきたことを、簡単に許してもらおうとは思っていません。それにまだ気持ちの整理もついていないですし。でも、これだけは言わせて」

叔母は今度は真白に向き直り、深々と頭を下げた。「今までごめんなさい。あなたと向き合うどころか、辛い思いをさせてしまったことを。あなたに恨まれてもしょうがないことをしてしまった」

僕らは、真白がどう答えるのか、固唾を呑んで見守った。

叔母を許すのか、それとも許さないのか。それともこのまま何も言わず、無視をするのか。

今の真白が何を考えているのかわからない。

「私は・・・」

真白は目を閉じ、俯いた。

「私は、やっぱりこれまでのことをなかったことにできない」

それが真白の答えだった。

確かに、謝ったところで簡単に割り切れないこともあるし、受けてきた苦しみがちゃらになるわけでもないだろう。

「でも、ちゃんとあなたと向き合ってこなかったのは、私も同じです」

しかし、真白は僕の予想した答えの先を行っていた。

「あなたはきっと聞く耳をもたなかったかもしれないけれど、私も、こうしたい、ああしたいって、もっと主張すればよかった。だから、この際ちゃんとはっきりさせておきたいです」

意を決したように真白は拳を握りしめた。

「私、高校を卒業したらここを出ます。旅館は継ぎません」

真白の宣言を聞いて、叔母は悲しそうな顔を浮かべ、苗香さんは目を丸くしていた。

「まだ将来のことはしっかり定めてないけれど、奨学金なりを工面して進学して、家も自分で探して、家賃や光熱費も働いて自分で稼ぐつもりです。そして、この家にはもう戻らない」

叔母はなにか言いたげだったが、言葉を選んだのか、一言だけこう言った。

「それだけ、私が憎いのね」

「はい。でも、それだけじゃない」

真白の手は震えていた。きっとこうやって叔母と対峙して、自分の意思を伝えることが、相当に勇気がいる行為だったのだ。

「施設に行くことになっていたかもしれない私を引き取って、衣食住を用意してくれた。学校にも行かせてくれた。自由はなかったけれど、いろんなことを教えてもらって、ここまで生きることはできた。その事には一定の感謝はあります」

そして、真白は震える拳をゆっくりと開き、項垂れた。

「だから、ここまでありがとう。これからは、あなたのために生きるんじゃなくて、自分のために生きる。それを教えてくれた友達と一緒に」

そして真白は僕らの方を振り向いた。不器用だけど、優しい笑顔を浮かべて。

押し黙っていた叔母は、目を閉じた後、真白に背を向けた。

「・・・苗香。お風呂の用意と、ご飯の支度をしておいて」

「はい」

叔母に指示を出された苗香さんは、真面目な顔で叔母にお辞儀をした。

そして叔母はまた真白の方に顔だけ振り向き、切なそうな表情で真白を見つめた。

「今日はもうゆっくり休みなさい」

一瞬、言い淀んだ表情を浮かべていたところを見るに、叔母はやはり別に何かを言いたかったのかもしれない。でも、それを口にはしなかった。いや、できなかったのだろう。

こんな風に、真白にはっきりと物を言われたことに、軽くショックを受けているのだろうか。

以前の高圧的で堂々とした態度が嘘のような叔母の態度に、僕は酷く困惑した。

真白は僕らの方に向き直り、ゆっくりとお辞儀をした。

「皆、本当にありがとう」

僕もだったが、昭雄も美咲も、そして野木さんも、誇らしい笑顔を浮かべていた。

「こう言ったら不謹慎かもしれないけど、俺、なんだかんだ楽しかった。でも、これからももっと楽しいことしようぜ」

「また、バイト先でも、学校でも待ってるから。いつだって遊びたかったら呼んでね」

昭雄と美咲の言葉に、真白は不器用な笑みで頷いた。

僕も続いて真白に微笑みながら言った。

「こっちこそありがとう。君のおかげで、過去にまた向き合えたから」

「うん」

真白と出会っていなかったら、きっと僕は過去のしがらみと、自分の能力を隠したまま生きていたと思う。

昭雄も、兄の事件をそのままにしていただろうし、美咲も明日奈の件をずっと抱えたままだったと思う。

でも、僕らはそれらと向き合った。そうしない未来も、それはそれでありだったかもないけれど、僕らは向き合うことで、なにかが変われた気がする。

何より、真白がこれから大きく変化していくであろうことが、僕は嬉しかった。


夏休みも残すところ、あと5日となった。

皆と協力して取り組んだおかげで、課題の方は一通り終わらせることができた。

今回の課題は、最終的に家族についてのことにした。僕の家、そして五島家にまつわる歴史について、ノート一冊分にまとめた。

戦前と戦後、そして今に至るまで、僕という人間が生まれる前の家族の歩み。

祖母が残してくれたノートが、こうして役にたった。

少しでもお礼が言えたら良いなと思って、何度か祖母と交信してみようとしたけれど、やっぱり祖母には会えなかった。

つまり、祖母の魂はちゃんと浮かばれているのだろう。

そういえば、安住さんもここ最近出てきていない。彼女も現世に一通りの折り合いをつけたのかどうかはわからないが、そうだとしたら、さよならの一つも言えずにいることが少し悔やまれる。

ともあれ、毎日しっかり暑い日々が続いて、バイトと他の課題をこなしながら、僕は友人たちとそれなりに楽しい夏休みを過ごせていた。

あっという間の、濃密な夏休みだった。

この夏休みも、いつかは記憶から思い出へと薄れていく。欠けたジグソーパズルのように、所々があやふやになって消えていく。

それがなんだか虚しく思って、僕は今回の夏休みの出来事をこうして記録に残すことにした。祖母がかつて、僕のために記録を残したように、僕は僕自身のために記録を残している。それがいつか、僕の子供、そしてその先の子孫にまで残る可能性もある。まあ、そんな先のことまではわからないけれど、せめて僕が生きている間は、今年の夏休みのことをいつでも思い出せるようにしたかった。

ふと、ノートから顔を上げて、時計を見ると、夕方の5時になっていた。

すでに2時間近く、僕はノートと格闘していたことになる。

そろそろ昭雄たちも来る頃だろうと思い、僕はノートを閉じて、財布だけ持って家を出た。

バス停まで歩いていき、東屋で三人が来るのを待っていた。

今日は僕以外の皆がシフトに入っている。だから三人同時に来るだろうと思っていた。

案の定、バスが到着すると、中から昭雄と美咲、真白の順で三人がバスから降りてきた。

「おっすー」

「お疲れ」

8月も終わりに近づいている所為か、陽が落ちるのが少し早くなったように思う。

西の空が、少し赤みがかっていて、ひぐらしが切なく周囲で鳴いていた。

「今日の店はどうだった?」

「割と忙しかったかな。昼過ぎに団体さんが来てたし」

何気ない僕の雑談に、美咲がうんと背伸びをしながら答えた。

「婦人会っぽかったよな。どっかの誰かさんの噂話ばっかりでつまんなかったけど」

「そうね」

昭雄の隣で真白が頷いた。真白の首にはソラマチで買った美咲とお揃いのネックレスが光っていて、右手薬指には白い指輪がはめてあった。

どうやら、昭雄もやることはやったらしい。

「そろそろ行こうか。あれは持ってきた?」

「ああ、もちろん」

昭雄はリュックサックを叩いて見せた。

赤みがかった西の空を背に、僕らは橋へと向かった。


自宅の近くの橋まで来て、僕は周囲を見回す。

僕ら以外に人はいない。ひぐらしの鳴き声と川のせせらぎだけが辺りにこだましていた。

「これ、まだ明るいけれどやるのか?」

昭雄がリュックサックから、おもむろに花火セットを取り出した。

「その前に、あの子との話でしょ?」

「まあ、そうだけどさ」

美咲に指摘され、昭雄は頬を掻いた。

確かに、花火をやるにはまだ時間は早いが、祖父から明るいうちなら花火をしてもいいと許可が出ている。

けどその前に、僕らにはやることがある。

昭雄も逸る気持ちはあるようだが、今回は花火はついでだ。

「じゃあ、呼び出してみる」

僕が真白の方を見ると、彼女は頷いて、僕に手を差し出してきた。

雪のように白くて、繊細な細い手を、僕はそっと握った。

握ってみると、以前よりも体温を感じた。血の通った生者の手。

人の手を通じて、僕は幾度となく死者を呼び出してきた。

いつだって、呼び出してきた死者は、この世に未練を残してこの世界に居続けている者たちだ。

彼らの伝えようとしていることを、僕は生者に伝えてきた。

今回は、僕らが伝える番だ。

瞬きをした後、真白の隣に明日奈が現れた。

「今、君の隣にいる」

僕が指を差した方を、3人が同時に見た。

「君の小説、読ませてもらったよ。今日は感想を言いたくて」

僕がそう言うと、明日奈はわずかに口角を上げた。

「ありがとう」

消え入りそうな小さな声で、明日奈はお礼を言った。

「先に、真白からでいいか?」

美咲に尋ねると、彼女は首を縦に振った。

そして真白は僕が指差した方、明日奈の正面に向き直った。

「ずっと、あなたの物語を読んできた。最初に読んだときは、私とあなたがモデルになっていると思って、胸が張り裂けそうだった。こうやって、あなたは自分の生きた証を残したんだって、ずっと思っていた。でも、読み返していくうちに思ったの」

真白は自分の胸に手を当てて、目を閉じた後、改めて彼女のいる虚空を見つめた。

「あなたが残したかったのは、自分の生きた証の他に、私に生きていてほしいっていう思いだったんじゃないの?だから、物語の結末を敢えて抜いておいて、あの場所に隠していたんじゃないの?いつか、私が探しに来るかもしれないと思って」

僕も昭雄も、美咲も真白の方を一瞬見た。

「思い出したことがある。以前、電話で涼のことをあなたに軽く話していた。霊と話せる子が学校にいるって。あなたはそれを聞いて、こんなことを思いついたんじゃないの?私がいつか、その子に霊となったあなたとの交信を頼むかもしれない。その時に、探してもらおうって」

言葉を失い、僕は唖然となって真白を見た。

「私に続きを探させたのは、あなたのためじゃない。私に生きていてほしかったから。そうでしょ?」

その話が本当ならば、明日奈は死ぬことを前提にしていたことになる。

自分の犠牲で、真白に生きてもらうきっかけを作った。そういうことになる。

それを聞いた明日奈は、目を閉じた後、微笑みながら言った。

「私ね。本当は生きていたかった」

彼女の言葉に、僕は後頭部を殴られたような衝撃を受けた。そして、彼女の思いが、彼女の言葉と共に流れ込んでくる。

「私もあなたと一緒に歳を取って、勉強して、友達と遊んで、恋愛をして、仕事の大変さを知って、家庭を持って、本当の最後に、良い人生だったって思いたかった」

それは複雑なものだった。

喜び、羨望、悲しみ、妬み、そして、祝福。正と負の感情が入り混じって、僕の心をかき乱した。

「涼?」

美咲に呼ばれて、僕は自分が泣いていることに気づいた。

もう涙を流すことのできない明日奈が、僕を通じて泣いているのか。

「ごめん」

涙を拭って、僕は震える声で明日奈の気持ちを伝えようとした。それが、僕の使命だから。

「でも、この世界で私はきっと生き残れない。それに早く気づいてしまった。人の顔色を伺って、孤独に耐えて、その先には何も残っていないことに気がついたから。私は他の人のように器用に生きれない。そんな思いを、あの物語に託したの」

「そんなの、私だって」

明日奈の言葉を代弁した僕の言葉に、真白は悲痛な声で答えた。

そんな真白に、明日奈は微笑みかける。

「あなたと美咲は、私よりも強い。だから、あなたたちにあの物語を送ったの」

僕の中に明日奈の色んな感情が流れてくるのに、彼女はずっと微笑んでいた。

それが辛かった。

「あの物語は、いわば私の子供みたいなもの。あの子のことを最後まで大切にしてくれる人にだけ託したかった」

そして、明日奈の細い手が、真白と美咲の頬に触れた。

「だから、読んでくれてありがとう。探してくれてありがとう。あの子のことを、これからもよろしくね」

「明日奈・・・」

真白の目から涙が伝い、普段感情を表さないその顔が悲しみで潰れ、嗚咽を漏らしていた。

昭雄は心配そうに真白を見た。美咲もまた、涙で目が潤んでいる。

「明日奈!」

美咲が明日奈に向けて叫んだ。

「私も、あなたに生きてほしかった!もっと、あなたの物語を読みたかった!なのに私、あなたの苦しみを理解できなくて・・・ごめんなさい!ごめんなさい!」

その場で膝を付き、美咲は顔を覆って泣き始める。

明日奈はそんな美咲と真白、そして昭雄を順に見たあと、僕の方に向き直った。

「君にもお礼を言わないと。私の願いを叶えてくれた。そして真白と美咲と私をまた繋いでくれた。本当に、感謝してる」

明日奈は僕にニコリと微笑んできた。

その微笑みを僕は直視できなかった。

「みんな、ありがとう。そして、私の分まで、人生を楽しんで」

それが、明日奈の最後の言葉だった。

僕が瞬きをした瞬間、明日奈はいなくなっていた。


蝋燭を設置して、昭雄がチャッカマンで火をつけた。

僕らは静かに花火セットから花火を取り出し、揃って火にかざしていく。

「彼女、ずっと微笑んでたんだ」

泣き腫らした目で花火に火をつけようとしている美咲に僕は言った。

「いなくなるその時まで、ずっと笑ってた」

しけっているのか、不良品なのか、花火はなかなかつかなかった。

それでも僕らは花火をかざし続けた。

「明日奈の感情が色々と流れてきてわかった。彼女は、僕らが羨ましかった。そして、忘れないでほしかったんだと思う。少なくとも、美咲のことを恨んだりしてない」

「本当?」

「うん。僕にはわかる。美咲との思い出も彼女にとっては大切なものだったって。だから・・・」

その時、僕らが持っていた花火が同時に勢いよく光を放ちだした。

「おっ!」

昭雄が弾ける火の粉を避けようと軽くのけぞる。

僕らは一斉に距離を取って、手の先の光をじっと眺めた。

「これ、弔いになるかな?」

美咲がぼそっと言った。

「ああ。悪くないな」

昭雄はふっと笑って、川の方に花火を向ける。

僕らも同じようにして、川の方に並んだ。

「最後に、あの子の気持ちがわかってよかった」

手の先で弾ける花火をじっと見つめながら、真白が小さな声で言った。

「私、まだ心のどこかで、明日奈と一緒に向こうに行きたいと思っていた」

真白の言葉に僕らは一斉に彼女を見た。真白は花火の光を見つめながら、「でも」とさらに続ける。

「今は、この世界に少しでも長くいたいと思っている。明日奈がそれを望んでいるから、だけじゃない。私がまだ皆と一緒にいたいと思っているから」

その瞬間、僕らの花火はふっと同時に消える。

「さようなら、明日奈」

まるで、真白の言葉に明日奈が返事をしたかのようだった。

「皆、ありがとう」

燃えきった花火を水の張ったバケツに入れたあと、真白が口元で笑みを作りながら言った。

「私、この夏のこと、絶対に忘れない」

そう言われた僕らは、顔を見合わせながら笑った。

この夏休みで、僕らはそれぞれに欠けていたものを見つけられた。

それは過去に取り残してしまっていた、かけがえがないのにもう取り戻せなかったもの。

大切な人への思い。そして大切な人からの思い。

僕はそれを繋いだ。呪いだと思っていた力で、僕は皆を幸せにできた。そんな気がする。

もう一度、僕らは花火を手に取り、儚い煌めきを何度でも楽しんだ。

「涼って、やっぱり優しいね」

花火を楽しむ中で、美咲が僕にそっと耳打ちした。

「涼の言葉が、私をいつだって助けてくれる。だから・・・」

火花が勢いよく弾ける音に消えそうなほど小さな声を、僕ははっきりと耳にした。

その声が、昭雄と真白に聞こえていないことを、ちょっとだけ願った。

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