6章
夕方頃、少し早めに家を出て、西都やに向かった。
今日の祭りに、真白は「行けたら行く」と言って、それから返事はない。
僕は個別に真白に「今日は来るのか?」とメッセージを送ったが、それも返事はなかった。
だから僕は祭りの前に、直接真白と会うことにした。
どうしても確認しておきたいことがあったから。
「今、西都やの前にいる」
そうメッセージを送ったら、すぐに既読が付いた。
しばらく待っていると、白いシャツと黒いスカート姿の真白が、旅館の従業員出入口から出てきた。
「何か用?」
真白は僕の姿を見つけると、挨拶もなしに不躾な態度でそう言った。
「祭り、来ないのか?」
僕の問いかけに、真白はすぐに答えずに顔を背けた。
「・・・さっき、叔母からきつく言われたの。もうあなたと会うなって」
「僕に?」
「ええ。ついでにバイトのこともバレて、今すぐ辞めるように言われたわ」
だから、そんな悲しそうな顔をしているのか。
僕はたまらず尋ねた。
「なんでか理由は聞いたか?」
「いいえ」
「この間のことが原因か?」
「そうじゃない」
「じゃあなんで?」
問い詰めるように矢継ぎ早に質問してしまい、僕は途中で口を噤んだ。
「・・・ごめん」
「またそうやってすぐに謝るのね」
その時の真白は、以前に僕のことを褒めた時と打って変わり、憐れむような目で僕を見ていた。
彼女と見つめあった瞬間、僕の体は動き出していた。
「えっ」
真白の手を取り、僕は強引に彼女を引っ張っていた。
「ちょっと!離して!」
「嫌だ」
真白は抵抗したが、振りほどこうとする力は弱々しかった。
「どこに連れて行く気?」
「祭りだよ。皆、君を待っている」
「だから行かないって」
「僕と会うことを禁じられているだけだろ?」
そう言うと、真白ははっとなって、脆弱な抵抗を止めた。
「昭雄と美咲と会うだけなら、別に構わないはずだ」
「・・・なんでよ」
真白は震える声で言った。
「なんで君は・・・君たちはなんで、私を放っておかないの?」
「友達だからだよ!」
今まで僕が大声をあげたことなんて、数えるほどしかない。
その数える中でも、今のは心の底から湧いて出てきた叫びだった。
真白がびくっと震えたのが、掴んだ手から伝わってきた。
僕は立ち止まり、手を掴んだまま真白の方に振り向いた。
「君を見ていると、昔を思い出すんだ。僕も昔は、君みたいに誰とも関わらない方がいい。いっそ社会からひっそりと消えたいって思って生きてきた」
「・・・・」
「それだけのことを、僕はしたんだ。僕の所為で兄は・・・」
そこから先の言葉を出そうとしても、つっかえて出てこない。
今でも、あの日のことは僕の中では強いトラウマとして焼き付けられているから。
「僕は幸せになっちゃいけない人間なんだって、ずっと思ってきた。一生、業を背負って生きていくしかないんだって。でも、そんな中で僕は、昭雄と美咲に出会った。彼らは僕のことを詮索せず、普通の人間として接してくれたんだ」
山からの風がすっと僕らの間を縫うように吹いていき、ひぐらしが一層切なく鳴き叫んだ。
「最初は、罪の意識を感じたよ。僕なんかが幸せになっていいのかって。孤独じゃなくていいのかって。でも、僕はやっぱり心の奥底で望んでいたんだ。本当は、幸せになりたい。誰かと繋がっていたいって。それを、昭雄と美咲は教えてくれた」
僕は握っていた真白の手を少しずつ緩めて言った。
やがて、ゆっくりと彼女の手を離し、しっかりと彼女と向き合った。
「君も、僕と同じなんじゃないか?何かの罪を一人で背負って、自分は幸せになっていけないって思っているんじゃないか?」
「・・・・」
真白は答えず、目を逸らしながらゆっくりと俯いた。
「君は僕と同類だ。そんな気がする。いや、そういう確信がある。だからこそ言っておきたい」
そして、改めて僕は真白へとそっと手を差し出した。
「君だって幸せになれる。友達を持ってもいい。そうやって一人で十字架を背負うことなんてないんだ」
真白は再び僕を見た。潤んだ瞳をきらきらと輝かせながら。
「あいつらの、友達になってくれよ」
一瞬だけ時間が止まったように思えた。
真白は戸惑いつつも、ゆっくりと手を伸ばし、僕の手をそっと握った。
まるで弱さを感じさせない程、しっかりと僕の手を握ってくれた。
「一つはっきりさせておきたいことがある」
「何?」
バス停のベンチに、絶妙な距離を置いて、僕と真白は腰かけた。
真白はそっぽを向いて、遠くで強い橙色を放つ夕焼けを眺めている。
「君はどこまで知っているんだ?安住さんのことについて」
「・・・・」
真白はそっぽを向いたまま答えない。
だから僕は続けてこう言った。
「安住さんは妊娠していたんだ。・・・僕のおじいちゃんの子供を」
ようやく真白は僕の方に振り向いた。
最初は驚いた顔をしたが、すぐに冷静な表情になって俯き、「そう」と一言呟いた。
「その様子だと、何か知ってるんだな?安住さんも、君に聞いたらわかるって言っていた」
「・・・確かに、君の知らないことを私は知っている」
真白は俯きながら、両手を膝の上に置いて言った。
「聞きたいなら話すよ。君にその覚悟があるなら」
「・・・ああ」
安住さんに衝撃の事実を突きつけられても、僕は真相を知りたいと思っていた。
その真実が、僕にどんな影響を与えるのかはまだわからない。おそらく、良い影響にはならないだろうとは思う。
それに、真実を知ったところで何かがどう変わるかもわからない。
でも、ここまで来た以上、引き返すつもりはなかった。
「・・・これは母と叔母の話を総合した私の見解も入っているけど」
そう前置きして、真白は淡々と話し始めた。
「あなたのおじい様は、聖湯館を祖母に売ったらしいの。もともと祖母が生まれた家は旅館を営んでいた。だから旅館の経営ノウハウも作法もわかっている祖母が、新しく聖湯館だった土地に旅館を建てた。それが今の西都や」
祖父が奪い取ったあの写真に、真白の祖母も映っていた。一緒にあの写真に映っていたのは、少なからず祖父と深い関係だったのだろう。
もしくは、あの写真に映っている誰かと繋がりがあるのかもしれない。
「もともと、祖母は安住さんの紹介で、聖湯館の立ち上げに関わっていた。だから土地の買収もスムーズに進んだらしい。そして聖湯館が西都やに変わった頃、女将をやっていた祖母のもとに、安住さんがやってきた。その頃にはもう出産していて、祖母に子供を預けて出て行ったらしいわ」
「ちょっと待って。そもそも安住さんと真白のおばあちゃんは、どういう関係なの?」
そう聞くと、真白は一瞬言いづらそうに間を置いた後、小さな声で言った。
「・・・祖母と安住さんは、姉妹だった」
「えっ?」
「祖母が姉で、安住さんが妹。だから安住さんは祖母に子供を預けたわけ」
さらに真白は、まるで他人事のように続きを話し始めた。
「祖母はその子を育てることにした。祖母にはすでに自分の娘、つまり叔母がいたわけだけど、子供を2人育てていたことになる。でも妹の子供とはいえ、所詮は自分の子供ではないし、ほぼ仕方なく預けることになったわけだから、その子はあまり良い待遇は受けていなかったそうよ」
「つまり、その子が・・・」
「ええ、それが私の母。その母から生まれた私は、あなたのおじい様の血をひいているってこと」
外はまだ暑いのに、背中から寒気がした。
僕らの信じられない秘密と、その事実を淡々と話す真白に、現実離れしたものを感じたからかもしれない。
「・・・つまり、僕らは親戚同士みたいなもの?」
「そういうことになるわね」
そういえば、以前に真白の考えがなんとなくわかるということを思ったことがある。
もしかしたら、僕らに血の繋がりがあるからかもしれない。変な話かもしれないが、無関係とも思えなかった。
「いつから知ってたんだ?僕らがそうだったって」
「あの日、安住さんの写真を見たときに確信した。以前から母の生い立ちについて、母自身と叔母から少しずつ聞かされてきたから」
「僕のおじいちゃんのことも?」
「ええ。だから五島家と関わるなって叔母は言っているんだと思う」
人は信じがたい事実を前にすると、思考が止まるのだと僕は実感した。
その思考が止まるという感覚を、この時しっかりと把握できた。
何をどう言ったらいいのかわからない。感情を言葉に変換するのが難しかった。
「どう?聞かなきゃよかったって思う?」
しばらく黙っていた僕に、真白がそう聞いてきた。
「どうして?」
「だって、君のおじい様の浮気が原因で私が生まれた。つまり私はおじい様の汚点が具現化したようなものじゃない。私みたいなのと少しでも血が繋がっているのよ?嫌じゃないの?」
自嘲気味に自己否定する真白の言葉で、僕はまた思考を動かすことができた。
「嫌じゃないよ。ただ、ちょっと・・・いや、かなり驚いたけれど」
「でも、おじい様のことを幻滅させてしまったわ」
「おじいちゃんのことは前から幻滅してたよ。今に始まったことじゃない」
「でも・・・」
「もういいって」
何かと自己否定を繰り返そうとする真白を、僕は制した。
「君が親戚だろうが、友達であることに変化はないよ。これからも友達として接していくつもりさ」
そして僕は真白に向き合い、しっかりと彼女の目を見て言った。
「むしろ君にとってはどうだった?僕と親戚関係だったというのも含めて、僕の祖父のことを恨んだり、家族を憎んだりして辛かったんじゃないか?」
真白は僕の方をじっと見た後、目を細めてフルフルと首を横に振った。
「確かに恨んだり憎んだりしたことはあったけれど、今はどうでもいいと思ってる。あなたのおじい様のことも、別に大丈夫」
「そっか。まあ、僕も同じ気持ちさ。最初は驚いたけど、なんだか案外普通でいられる自分でよかった」
祖父の間違いを今更糾弾するつもりはない。だって、正直僕の人生にそこまで影響があるとは思えなかったから。
真白は少なからず影響はあったけれど、彼女も今では吹っ切れているように見えた。
むしろ、祖父が間違いを犯したからこそ、僕は真白という友達を作ることができたのだ。
だから、運命に文句を言うつもりはないし、むしろ感謝している。
「・・・ありがとうな」
「えっ?」
「生まれてきてくれて」
思わず僕がそう言うと、真白はきょとんとなった後、素早く顔を横に逸らした。
「いきなり変なこと言わないでよ」
たぶん照れているのだろうと、なんとなくわかった。
僕としてもくさい台詞だったと思う。自分で言っておきながら、狂ってるなとも感じている。
ただ、それだけはどうしても言葉にして彼女に言っておきたかった。
バスの車窓から見える夕日は、徐々にその顔を山の向こう側に隠し始めていて、夜の帳が少しずつ空を侵食していた。
隣に座っている真白を横目で見ると、一冊の本を取り出して読んでいた。
ブックカバーがしてあるので、タイトルはわからない。
「その本、何?」
「凍てつく森」
どこかで聞いた気がするので、少し記憶を遡ってみた。
確か夏休みが始まる前日に、野木さんの店で4人でお疲れ会をしたときに真白が言っていた。
「面白いの?」
「いいえ。面白いわけではない。むしろ暗い話」
「誰が書いた本?」
それを聞くと、真白は本の表紙を閉じてしまった。
「・・・悠木明日奈」
「えっ」
「この本は、彼女が書いたの」
真白は本の表紙を愛おしそうに撫でながら言った。
「小さい頃から、彼女はお話を作るのがうまくて、よく私に自分で考えた面白い話を聞かせてくれた。彼女が引っ越した後、本格的に小説を書くようになって、新人賞にも応募してたみたい」
僕は真白と明日奈の書いた本を交互に見た。
ブックカバーはところどころ染みや汚れがついている。たぶん、真白はずっとこの本を持ち歩いているのだろう。
他にバッグとかの持ち物がないのに、この本だけは持ってきているぐらいだから。
「・・・あの子が死ぬ前に、私にメールが届いたの。凍てつく森の原稿が添付されていた。あの子が死んだ後、私は原稿を冊子にして、こうして持ち歩くようになった」
「どんな話なんだ?」
「それはまた今度ね」
僕のその質問に真白は答えようとせず、本をスカートのポケットにしまった。
「これから楽しいことが待っているのに、嫌な話は聞かせられないもの」
そう言って、僕の方を見て目元で笑みを浮かべた。
やがて遠くからお囃子の音が聞こえはじめる。
景気のいい太鼓の音がドンドンカンカンとリズムを刻んでいて、盆踊りの歌声も徐々に大きくなっていった。
そして、暖色の灯りが一際輝いている光景が見えてくる。
お祭りの会場の手前で、バスはゆっくりと停車した。
浴衣姿の男女が何組か降りた後、僕らもバスの外に足を踏み出した。
広場の入り口からずっと奥まで、たくさんの屋台が軒を連ねている。
かき氷に綿あめ、金魚すくいや射的、焼きそばやアメリカンドッグ。
人ごみがゆったりと海を揺らす波間のように蠢いていた。
その光景に隣にいた真白は圧倒されているようだった。
「どうした?」
「いえ。初めての光景だから、少し・・・」
「よっ」
真白が最後まで言い切る前に、僕らの後ろから呑気な声が聞こえた。
よくわからない英語が書いてあるシャツと短パン、サンダルというラフないでたちの昭雄と、青い睡蓮の模様が描かれた浴衣を着た美咲が立っていた。
浴衣に合わせるように、美咲は青色の花柄のかんざしで髪を綺麗に結っていた。
見違えたように綺麗になった美咲を少し目で追った後、僕も手を振った。
「悪い。待たせたか?」
「いや。俺らもちょうど来たところ」
「真白は浴衣着なかったの?」
「ごめんなさい。時間がなくて」
「えー、私だけ浴衣じゃつまんないじゃん」
美咲はいたずらっぽく頬を膨らませた。
「・・・それは申し訳ない」
「大丈夫。責めたわけじゃないから。さあ、行こ行こ」
美咲はいつもの明るい笑顔を浮かべて、真白の背中を押してうきうきしながら歩き出す。
「俺たちも行こうぜ。腹減った」
「そうだな」
美咲と真白の3歩後ろに続いて、僕と昭雄は広場へと歩き出した。
「あっ!また切れたー!」
ちぎれた糸を見て美咲が残念そうに叫んだ。
彼女が狙っていたヨーヨーは、ぷかぷかと小さなプールをまた流れ始める。
「先っぽ持ってたら楽なんじゃね?」
「それじゃあズルになるじゃん」
チョコバナナに噛り付く昭雄の言葉に噛みつきながら、「もう一回」と美咲は100円を取り出そうとした。
「てかヨーヨーなんて欲しいか?ガキじゃあるまいし」
「ガキで悪かったわね」
目的はヨーヨーではなく、祭りを全力で楽しむということにあることは、僕でもわかった。
「真白はまだやってないのか?」
まだ糸を持ったままの真白は、コクリと頷いた。
「こういうの、やったことがないから」
「簡単だよ。その糸で流れているヨーヨーを引っかけるんだ」
「・・・ちょっと難しいかもしれない」
「とりあえずやってみなよ。せっかくお金払ったんだから」
彼女はまだ楽しみ方をわかっていなかったんだと思う。
僕は真白の横で、彼女がヨーヨーを掬うのを見届けることにした。
真白は冷静な表情で狙いを定め、素早く糸を垂らしてさっと掬った。
「あっ」
勢いが強かったのか、彼女の掬ったピンク色のヨーヨーが宙を舞い、後ろの屋台を囲んでいた集団に当たった。
「あ?」
ヨーヨーを当てられた黒いタンクトップの男が振り返る。
どこかで見た顔だったが、昭雄の反応ですぐに思い出した。
「んだよ。てめえだったのか」
「・・・冴島」
以前、真白が上野たちの指示で万引きをした日、コンビニで鉢合わせした昭雄の古い友人だった。
冴島の横には私服姿の上野もいた。
「こんなところで負け犬に会うとは思わなかったな。最近、バスケの練習してるみてえだけど、その実力で今更部活に入る気か?」
「・・・・」
いきなり冴島は挑発してきたが、昭雄はそんな彼に毅然とした様子で向かい合った。
一方、上野はヨーヨー掬いの屋台にいる真白と美咲を見て、馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「なんか騒がしいと思ったけど、ガキみたいに浴衣着てヨーヨー掬いとか、マジでウケるんだけど」
「はあ?」
美咲は上野を睨みつけたが、上野はそんな美咲を鼻で笑った。
「てか忠告したよね?そこの疫病神と一緒になってもろくなことないって」
「あんた!」
美咲が上野に食って掛かろうとしたが、それを昭雄が制止した。
「人にヨーヨーぶつけといて大した態度だな」
「もう行こう」
昭雄は僕たちを連れてその場を去ろうとした。
しかし、去り際に冴島が後ろからさらに挑発をかけてきた。
「八城先輩をサツに売ったんだろ?」
昭雄と僕は振り返った。
冴島は口元で笑っていたものの、目は笑っていなかった。
「兄貴の復讐が果たせてさぞ気分がよかっただろうな」
「八城さんは万引きで捕まったんだ。復讐なんかじゃない」
思わず僕は口を出してしまった。
冴島は僕を鋭く睨みつける。
「は?てめえは関係ねえだろ。俺はこいつに聞いてんだよ」
昭雄は一瞬目を閉じて深呼吸し、冴島に静かに言った。
「・・・お前が俺を嫌ってるのはわかる。俺たちは一緒にバスケをした仲だから」
「あ?何知ったかぶって・・・」
「八城さんが捕まった時、俺は何も感じなかったよ。あの人が破滅すれば兄貴の無念が晴らせると思ってた。でも違った。八城さんと兄貴の思いがしっかりわかったから」
昭雄の言葉は淡々としていた。まさに自分の気持ちを遜色なく話そうとしていた。
「はあ?わけわかんね」
冴島の顔は次第に険しくなる。
「確かに、俺は兄貴が死んで、八城さんが憎くてバスケをやめた。お前らと一緒に最後までバスケをやり続ける約束は守れなかった」
「・・・うるせえ」
冴島は拳を震わせ、小声で唸りだした。
「でも、俺には時間が必要だった。気持ちの整理をつける時間が」
「黙れ」
「そのおかげで俺はこいつらと出会えて、やっと解放されたんだ」
「黙れって言ってんだろ!」
冴島は昭雄に詰め寄り、拳を振り上げてきた。
咄嗟の行動だった。
僕は昭雄を突き飛ばし、あいつの顔面に直撃するはずだった冴島の拳が、僕の頬を思い切り抉った。
あんなに強いパンチを食らうのは初めてだった。
まだ小学生の頃に兄に殴られた時も、ここまで強くはなかった。
「涼!」
美咲と真白が倒れた僕に駆け寄った。
一連の騒動に野次馬も寄ってくる。
「冴島ー!」
昭雄も僕に駆け寄った後、冴島を睨みつけて詰め寄ろうとした。
「ちっ」
冴島は僕を殴ったことにバツが悪くなったのか、さっさと人混みの中に隠れてしまった。
そんな冴島を追って上野も立ち去ろうとしたが、一瞬だけ僕らを見て、「ざまあみろ」とでも言いたげな笑みを浮かべた。
祭りのお囃子と人の喧騒は、僕らを残して流れ続けた。
昭雄は冴島を追いかけ、真白はそんな昭雄を呼び戻そうと彼を追いかけ、僕は美咲に連れられて、人のいないお寺の境内の隅にあったベンチに座っていた。
美咲は水道でハンカチを濡らしてくれて、僕に手渡してくれた。
「これ使って」
「ありがとう」
冴島に殴られたところにハンカチを当てる。痛みの後に冷気が伝って、気持ちよかった。
「大丈夫?」
「うん。少し腫れただけだと思う」
「それ、大丈夫とは言わないでしょ」
「このくらい平気だよ。慣れてる」
僕がそう言うと美咲は複雑そうな顔をした。
「他に殴られた経験があるの?」
「うん。兄と母にね」
美咲が唾を飲み込んだのがわかった。そして申し訳なさそうに謝ってきた。
「・・・ごめん。私、知らなくて」
「いや。別にいいんだ。・・・いつかは話そうと思ってたし」
「えっ?」
「前にも言ったろ?僕の過去、ちゃんと話すって」
二人は僕が実の親でなく、親戚の家に住んでいる事も含めて、それなりに事情を抱えていると察して聞いてこなかった。
でもそろそろ、こうして僕の力の秘密も知った以上、僕の事情も彼らに話しておくべきだ。
美咲に、そう約束したから。
「無理に話さなくてもいいよ」
「いや。聞いてほしいんだ」
僕のことを思って美咲は制したんだと思う。でも、二人には知っておいてほしかった。
「僕ばっかり秘密を抱えているのは不公平だし」
「だったら私も・・・」
美咲が何か言いかけたその時、ピューと甲高い音が周囲に響いて、次の瞬間に赤や緑の光が夜空に弾けた。
打ち上げ花火はその後も色鮮やかな光を夜空に放ち続け、僕も美咲も会話を忘れて見惚れてしまった。
「・・・やっぱり、今日は話さないでおくよ」
花火を眺めながら、隣りにいる美咲に語りかける。
「だって、せっかくのお祭りだから」
「・・・うん」
僕の過去は、こういう場には相応しくなかった。その話はまた、昭雄と真白がいるときに、改めて話そうと思った。
そのまましばらく美咲と花火を眺めた。
そう。今は美咲と二人きり。これってかなりいい雰囲気なのでは、と途中で僕は思った。
でも、何かを言おうと思っても、すっかり花火に夢中になっている美咲に声をかけるのは難しいと思った。
やがて夜空も一旦落ち着き、また周囲が暗くなった。
「これ、ありがとう」
「えっ?あ、うん。もう平気?」
「ああ」
美咲にハンカチを返したものの、僕らはまだしばらくそこにいることにした。
そして以前に昭雄に言われたことを思い出す。
「あのさ。夏休みが終わったら、転校するのか?」
「えっ?」
唐突だったとは思う。僕の質問に美咲も驚いていた。
でも、いつかは聞こうと思っていたし、ここなら静かで誰もいない。
「前に昭雄から聞いたんだ。あいつが職員室で、君が先生に東京に行くっていう話をしてたの、聞いたって」
「へ?」
美咲は唖然として言った。
「それで私が転校?なんでそうなるの?」
「違うのか?」
「違う違う!転校なんてしないよ!」
手と首をぶんぶんと横に振って美咲は否定した。
「じゃあ、東京に行くっていうのは?」
「それは進路の話。卒業したら東京の大学に行く予定だから」
「・・・・」
僕は言葉が出なかった。その代わり安心して溜息が出た。
「なんだよ。そうだったのか」
「なになに?二人して私がいなくなるって思ったの?」
「だって、昭雄がそう言ってたから」
「あいつも早とちりだねー。てかそんな勘違いをずっとしたわけ?」
美咲はけらけらと笑った。
それにしても昭雄の奴。あとで文句の一つでも言ってやりたい。
「・・・私さ。教師になりたいんだ」
ひとしきり笑った後、美咲は静かにそう言った。
「教師になって、少しでも悩みを抱える子供たちの力になってあげたいの。そのために東京の大学に行って、ちゃんと勉強したい」
それが美咲の夢らしい。
夢を語った後、美咲の顔が一瞬寂しそうに歪んだ。
「私ね。昔、いとこを亡くしてるんだ」
「えっ?」
「その子、自ら命を絶ってしまった。私も何度か相談に乗ってあげたんだけど、結局力になれなくてさ。そういう苦い経験があるから、私はもっと強くなって賢くなりたい」
「そうだったんだな」
「うん。ごめんね。嫌な話聞かせて」
「いや、大丈夫」
美咲が東京に行く理由も、夢を追おうとしている動機も、僕は彼女らしいと思った。
「やっぱり、美咲はすごいな」
「えっ?」
「そんな風に将来のことを考えて、強い思いを持っていてさ」
「そんなにすごくないよ」
美咲は照れ隠しをするように、顔を背けた。
「あのさ」
そして少し間を空けた後に聞いてきた。
「涼は、卒業したらどうするの?」
聞かれたものの、まだ僕は自分の将来のことなんてまだ何も考えていなかった。たぶん、大学には行かせてもらえるのだと思う。でも、そこで何を勉強したいかなんてわからなかった。ましてや、なりたい職業なんて思いつかない。
「まだわからない。たぶん、大学には行くと思うけれど」
「じゃあさ」
すると、美咲は思いつめたように言った。
「私と、一緒に東京に行こうよ」
美咲は切なそうな顔で僕を見つめてきた。
そんな表情をする美咲を、僕は初めて見たし、浴衣でしっかりとおめかしをしている所為か、彼女がいつもと違って特別に見えた。
「僕が東京に?」
「うん」
頷いた後、美咲は頬を赤くして俯いた。
「やっぱり、一人だけで東京は寂しいから」
「だったら、昭雄も真白も一緒が・・・」
「二人は今は関係ない」
「えっ?」
「私、涼と一緒がいいの」
真剣な美咲に見つめられ、僕は困惑した。
これはもしかしたら、遠回しに告白されているのでは?
そう思ってしまった。
「あっ」
だが、美咲は自分が言ったことの重大さがわかったのか、途端に耳まで真っ赤にしてそっぽを向いた。
「ごめん!急に変なこと言って!一応さ、向こうに友達もいないし、涼がいたら安心かなって思って・・・」
「僕も」
「えっ?」
「僕も、美咲と一緒に東京に行くよ」
それは思い付きでしかなかった。東京に行って何をするかなんてまだわからない。
でも、今は美咲の思いに応えるのが優先だと思った。
だって、彼女はあんなに恥ずかしがってまで、僕に一緒にいてほしいと言ってくれたんだから。
「そんな本気にしなくてもいいよ」
美咲は慌てて前言撤回しようとした。
「だってまだ、将来のことなんて決めてないんでしょ?それにさ、涼はやっぱり昭雄と一緒にいた方が楽なんじゃない?」
「昭雄は今は関係ないよ」
「じゃあ真白は?あの子のこと、気になってるんでしょ?私なんかよりも、真白と一緒にいたいんじゃ・・・」
「真白は」
一瞬言葉に詰まったが、この際美咲には言っておくことにした。
「僕と彼女は親戚同士だよ」
「えっ?」
「さっき知ったばかりなんだけどね」
僕はその経緯について簡単に美咲に話した。そして、このことはできる限りに内密にしてほしいとも。
「・・・そうだったの」
「うん。だから、僕が真白と親密な関係になることはまずない」
そして改めて美咲に向き直って言った。
「美咲、好きだ」
美咲はびくっと体を震わせた。
その言葉を美咲が望んでいたのかはわからない。早とちりをする昭雄が「美咲が僕を好きだ」とまた思い込みをしている可能性もあった。
でも言わずにはいられなかった。
僕は、美咲に恋していた。
「・・・私」
美咲は僕から顔を背けて小さく言った。
「涼が思ってるほど、できた女じゃないよ?」
いつもの自信たっぷりの美咲はそこになく、恥じらった一人の小さくなった女の子になっていた。
そんな美咲が、あまりにも愛らしかった。
「一緒にいて気づいたんだ。僕は美咲が好きなんだって」
また体を震わせた後、美咲は僕の方に恐る恐る顔を向けた。
「私でいいの?」
「うん」
やがて美咲は戸惑いつつも僕に顔を近づけようとしてきた。
僕はそれを受け入れようとした。
その瞬間に、花火がまた夜空に上がり、甲高い破裂音と共に夜空が輝いた。
「おーい!」
突然、遠くから昭雄の声が聞こえてきた。
僕らはさっと顔を離し、慌てて前に向き直った。
僕らを見つけて手を振る昭雄の後ろから、真白も顔を覗かせていた。
「ここにいたか」
昭雄は僕らの方に駆け寄ってくる。
「ああ。そっちはどうだった?」
僕は平成を装いながら昭雄に尋ねると、昭雄は苦い顔をして答えた。
「人ごみに紛れ込まれて逃げられた。悪いな。次は絶対あいつに謝らせるから」
「いいよ。気にすんな」
僕は苦笑しながら言った。
昭雄は走り回っていたのか、玉のような汗を流していた。
「大丈夫?」
すると、真白が美咲の様子に気づいて彼女に声をかけていた。
「ちょっと様子が変だけど」
「えっ!別に大丈夫!」
真白の問いかけに、美咲は慌てた様子で答えた。それがまた二人に疑惑を抱かせることになった。
「なあ、さっきまで二人で何してたんだ?」
「えっ?」
「なーんか良い雰囲気だった気もするけど?」
昭雄は次第にニヤニヤといたずらっぽく笑い始める。
「な、なんでもないわよ!」
美咲はすくっと立ち上がり、ずんずんと歩き出そうとした。
「早く行くわよ。お祭り、終わっちゃうかもだし」
「いや、まだこれからだって」
昭雄はやれやれと肩をすくめた後、僕を見て言った。
「よくやったな。さすが」
「えっ?」
昭雄がどこまで僕らのやり取りを見ていたかはわからない。たまたま僕らを見つけて声をかけたと思っていたが、もしかしたらずっと様子を伺っていた可能性もある。
「なあ、もしかして全部見てたのか?」
「見てはいないぜ。聞いてたかもしれないけれど」
しれっと答える昭雄の横で、真白が目を細めていた。マスク越しにでも、それが笑っていることがわかった。
僕も途端に恥ずかしくなって、目元を指で抑えた。
「さあ。まだ祭りを楽しまないとな」
先に行った美咲を追いかけるように、僕らはお寺を後にした。
その後は4人で屋台を回って、またヨーヨー掬いにチャレンジしたり、金魚掬いやくじ引きをして楽しんだ。
真白はヨーヨーを3個、金魚を4匹も釣り上げたが、どれも叔母の目が厳しくて家に持ち込めないため、美咲がヨーヨーを、昭雄が金魚を預かることになった。
くじ引きでは昭雄が欲しいゲームがあったようで、2000円分も散財したものの、結局は飴玉しか当てられなかった。
射的をやった時は、美咲が欲しいと言っていたキーホルダーを僕が撃ち落として、かなり喜ばれた。
散々遊んだ後、たこ焼きを食べながら三度目の花火を一緒に眺めた。
真白は花火を見て恍惚とした表情を浮かべていて、昭雄は「これこそ夏だ」とでも言わんばかりに清々しい顔をしていた。
美咲は団扇を片手にうっとりとした表情で色とりどりに弾ける花火を眺めている。
そんな3人の横顔を眺めて、僕はこれが夢でないことを祈った。
こんな風に僕に友達がいることも、一緒にかけがえのない時間を過ごした日々も、その全てが夢ではなく現実だと信じていたかった。
もし、ずっと千葉の実家にいたとしたら、僕はこんな幸せを味わっていなかった。
人生は選択の連続だと誰かが言っていたが、僕の選択は間違っていなかったと、今でははっきりとそう言える。
目の花火が弾けては儚く消えていく。その一瞬の美しさを楽しみながら、この一瞬がずっと続いてほしいとも思った。
夏祭りが明けた翌々日。
真白はいつも通り「喫茶 ノギ」に来て、厨房で仕込みをしていた。
「大丈夫だったのか?」
叔母からバイトに行くなと言われていたはずだったが、真白は「うん」と頷いた。
「なんとか叔母を説得することができた。料理の勉強のためだって言ったら、渋々承諾してくれた。でも、君がいない日にシフトを入れることを条件に出してきたけれど」
「えっ?でも今日は僕・・・」
「大丈夫。叔母はシフト表をちゃんと見てるわけじゃないから、いくらでもごまかせる」
そう言って、真白は目元で笑って見せた。
彼女がたった一人で苦手な叔母を説得したことは大したものだと思う。僕は祖父に対していまだに向き合えていないというのに。
あれから安住さんは現れないし、祖父との関係に変化もない。
祖父の過ちを今さら暴露する気はなかったし、糾弾することもしたくなかった。
だから、今まで通りの生活を送ることにした。
僕の場合は、それで良いと思っている。
「おはようございます」
そこに美咲もちょうど出勤してきた。
「おはよう。今日もよろしく」
「はい」
野木さんに挨拶した後、僕とも目が合った。
「おはよう」
「あ、うん」
美咲は気まずそうに僕の方を見て、すぐに奥の従業員スペースに引っ込んでしまった。
まだ告白して2日しか経っていないけれど、あれから僕と美咲の関係ははっきりしていない。
美咲からちゃんと答えを聞けたわけでもないし、むしろ彼女は僕とどう接したらいいのかわからないような雰囲気を出していた。
仕事が始まってからも、僕との会話を避けようとしているのが美咲から伝わってきて、ちゃんと話をすることができなかった。
結局、終業までの間、僕らは最低限の仕事での言葉ぐらいしか交わさなかった。
仕事が終わるタイミングで、なぜか昭雄が店にやってきた。
「ちわーっす」
「おっ。来たな」
野木さんはニコッと笑って奥の従業員スペースへと引っ込んでいった。
「どうしたの?こんな時間に」
美咲が尋ねると、昭雄は不敵な笑みを浮かべた。
「何って、今日は給料日だろ?だから受け取りに来た」
「あっ」
その事実に気づいた僕らのもとに、野木さんが戻ってくる。手には4人分の封筒を持っていた。
「皆、今日までご苦労様。郡山さんは途中から入ったから3人よりも金額は少ないけれど」
「いえ、それでもありがとうございます」
申し訳なさそうにする野木さんに、真白は丁寧なお辞儀をした。
僕らは野木さんは給料の入った封筒を手渡しされる。
封筒は少しだけ重みがあって、これが僕が約1か月頑張ってきた証なのだと実感した。
「貴重な体験だな」
昭雄は僕に笑顔を浮かべて言った。
「今時、給料を手渡しなんて珍しいけど、こうじゃないと味わえない達成感もあるだろ?」
野木さんも微笑んでいた。
確かに、こういう形で給料をもらうと、自分の努力の結晶みたいな感じがして、絶対に無駄使いできない。
「いいもんだな」
「そうね」
僕も美咲も真白も、自分の封筒をじっと眺めながら、思わず笑みが零れた。
その後は少しだけゆっくりと帰宅の準備をして、僕ら4人は一緒に店を出た。
「それじゃ、明日もよろしく」
「はい。お疲れさまでした」
店のドアを抜けて、昭雄はうーんと背伸びをして言った。
「よっしゃー!これでようやく旅行に行けるな!」
「あっ!でもどこに行くか、まだちゃんと決めてなかった!」
美咲が思い出したようにそう言った。
そういえば、安住さんの件や宿題やらで、肝心の旅行先を決める時間が取れていなかった。
「ごめん。私としたことが」
美咲は手を合わせて僕らに謝ってきたが、美咲一人が悪いわけではない。
「いや、僕らもうっかりしてたし」
「まあ、電車で行ける距離ならなんとかなるだろ。ホテルも今ならぎりぎり予約が取れるだろうから」
ひとまずどこに行くかについて帰りながら話しあおうとした時、「ねえ」と真白が声をあげた。
「あの、私・・・」
「あっ、まだ居たんだ。ラッキー」
そこに真白の声を遮って、聞きなれた嫌味な声がした。
僕らの後ろから、上野とその取り巻きたちがニタニタと笑いながら近寄ってきた。
「上野」
僕らは警戒心を込めて上野たちに向き合った。
特に美咲は上野を強く睨みつけている。
上野は僕らを見下すような笑みを浮かべて言った。
「あんたら仲良くバイトなんかしてたんだ。しかもこんな安っぽい店で」
「はあ?」
昭雄が途端に険しい顔になった。
「てか前から見てたけどさ。この店って全然客いないよね?そのうち潰れるんじゃない?」
「なんか店主のおっさんも気持ち悪いしね」
「どうせあんたらも大した額は稼げてなんでしょ?もっと割のいい仕事紹介してあげよっか?」
上野と取り巻きたちが安っぽい挑発をしてきた。昭雄は拳をぎゅっと握ったものの、深呼吸して落ち着いて言った。
「少なくとも真面じゃないお前らよりも野木さんは真っ当な人だよ。店だってそれなりにやっていけてんだ。お前らが客として来なくても充分やってけるくらいには」
「何それ?馬鹿みたい」
冷静に言い返した昭雄を、上野たちはさらに馬鹿にしたように鼻で笑った。
「なあ、もういいだろ。俺たちもお前らに付き合ってるほど暇じゃないんだ。皆、もう行こう」
僕もこれ以上、上野たちに関わりたくはなかったから、皆を連れてその場を離れようとした。
「そこの疫病神が人殺しだって知ってても友達ぶるわけ?」
しかし、上野は踵を返そうとした僕らの背後でそう言った。
真白はその場で固まり、僕も昭雄も思わず真白を見た。美咲も目を見開いて俯いたまま固まっている。
「色々と調べたんだよね、そいつのこと。昔、自殺しようとしてた子に手をかけて、死体を森に捨てたってさ。マジでサイコパスだからね、そいつ」
その時、僕の視界に悠木明日奈が再び現れた。彼女は切実な表情で首を横に振っていた。
「てめえ、適当なこと言ってんじゃねえよ!」
「適当じゃねえし。なんだったらあんたらも調べてみれば?ネットにそいつのこと上がってるから」
昭雄は怒鳴るが、上野は全く動じていない。さらに上野と取り巻きたちは馬鹿にした笑みで捲し立ててきた。
「クラスメイト殺してのうのうと生きてる奴とか、マジで社会のゴミだよね」
「人として恥ずかしくないわけ?まあサイコパスならその感覚も麻痺してるか」
「こっちは親切にもあんたたちに忠告してやってんだよ。こいつといたらそのうち殺されるかもよって」
「てめえら!」
昭雄がずいっと前に出ようとしたが、それよりも先に美咲が前に出て、上野を思い切りビンタした。
「あんたに何がわかるんだ!」
美咲は怒りで震える目に涙を溜めて言った。
「真白も、明日奈のことも何も知らないで人の過去を根掘り葉掘り探ってさ!真白だけじゃなくて死んだ明日奈のことも馬鹿にして!あんたたちの方が人でなしだよ!」
僕は驚いた。
なんで美咲が悠木明日奈のことを知っているのか?だがそれを今すぐに聞くことはできなかった。
ビンタされた上野は美咲を睨みつけて言った。
「てめえ、うちに手え出したな?あんたら全員、絶対後悔させてやるから」
「あーあ、これって学校に訴えたらあんたたち終わりなんじゃない?」
「麗のママってそれなりに学校に顔が利く人だかんね。最悪退学かもよ」
そういえば、以前少し聞いた話だが、上野の母親も父親も公務員でそれなりの地位のある人らしく、しかも相当なクレーマーらしい。
噂だけど、上野の数々の校則違反をクレームでもみ消してきたという話は耳に挟んだことはあった。
「くっ!」
悪びれるどころか、僕らを脅してきた上野に、美咲はさらに手を振りかざそうとした。
「もうやめて!」
だがその瞬間、これまでずっと背を向けて黙ったままだった真白が叫んだ。
そして振り返り、上野と向き合って、鞄から先程もらったばかりの給料の入った封筒を取り出す。
「これあげるから今日のところはもう帰って」
「真白!」
上野に給料の封筒を押し付ける真白を、僕らは止めようとした。
だが、そんな僕らを真白が片手で制した。
上野は真白を睨みつけつつも、封筒を奪い取り、中を確認し始める。
「はあ?これっぽっちで謝る気なの?あんた馬鹿?」
「はあ!?あんたねえ!」
美咲は怒鳴るが、そんな彼女を真白が睨んで止めた。
「今月は少ししか働いてないから。また改めてお金は用意する。それで手打ちにして」
信じられないことを言い出した真白を、上野は鼻を鳴らして見下した笑みを浮かべた。
「明日までに持って来いよ。でねえとマジであんただけじゃなくて、そいつらも潰すから」
上野はそう言って取り巻きたちを連れて立ち去って行った。
帰宅後、ベッドに横になりながら、僕は真白と美咲からの返信を待った。
あの騒動の後、昭雄と美咲は真白が渡した金を上野から取り返すと言っていたが、真白は「もういい」と言って頑なに止めた。
「悪いけど、これ以上は君たちにも迷惑がかかるから」
真白は辛そうに笑ってそう言うだけだった。そのまま、真白は「用事があるから」と言って僕らとは反対方向の道に一人で行ってしまった。
その後を僕らは追おうとしたけれど、やっぱり彼女を連れ戻すことは叶わなかった。
美咲は涙を溜めて冷静になりたいからと一人でどこかに行ってしまい、僕と昭雄は悶々としたまま帰ることになった。
だから、夕食前に真白と美咲にチャットで連絡を送った。
「電話で話せるか?」と連絡したが、真白は既読だけ付いて未だに返信はない。美咲はまだ未読だった。
真白のことも心配ではあるが、美咲についてはそれ以上に聞きたいことがあった。
彼女が悠木明日奈のことをなぜ知っているのか。思えば今まで、彼女と真白との間に妙な関連性があったようにも思う。
そもそも、真白を僕らのグループに入れようと言い出したのは美咲だった。そして夏休みが始まるタイミングで野木さんの店で集まった時にも、真白の読んでいる「凍てつく森」のことを知っているような感じだった。
もしかすると、真白と美咲は明日奈の共通の友人だった可能性もある。
本人たちに聞かないとそれはわからないけれど、話してくれるかどうかは怪しかった。
そこにちょうど、スマホが一定の間隔でバイブレーションした。
美咲が電話をかけてきてくれた。
「もしもし?」
「もしもし。今大丈夫?」
心なしか、美咲の声は少し元気がなかった。
「うん。というか、ありがとう。電話してきてくれて」
「ううん。私も涼と話したかったから」
あんな騒動がなかったら、今の言葉にときめいていたと思う。
でも今はそんな気分にはなれなかった。
「その、さっきのことだけどさ。大丈夫か?」
「・・・大丈夫ではないかな」
美咲は声を落として言った。
「なんというか、一言では表せないけど、真白のことが心配って気持ちと、上野たちのことが憎いって気持ちがあって、このままじゃ絶対にダメだっていう気持ちもあるのに、私なんかに何ができるんだっていう思いもある」
彼女が言わんとしていることはわかった。
そしてそれは僕にも痛いほどわかった。
「僕も同じ経験がある。なんとかしなくちゃいけないのに、どうしたらいいのかわからないというか。そもそも自分が関わるべきなのかって」
「うん」
冷たいかもしれないが、上野のことは真白の問題でもある。真白が金を渡すことで事を丸く収めたのは彼女の決断だ。
それは何の解決にもならないし、余計上野たちを増長させるだけだと批判することはできるかもしれないが、真白があれでよかったと思っている以上、僕らは彼女の気持ちを踏みにじることはできない。
それに、真白はあの場で金を渡したことで、僕らを守ろうとしたとも考えられる。
その手段は間違っているのかもしれないけれど、あの場であれ以上、僕らに何ができたというのだろうか。
「実はさ。電話しようと思ったのは、君が心配だったのもあるんだけど、他にも聞きたいことがあって」
「えっ?何?」
「美咲は、なんで悠木明日奈のことを知ってるの?」
それを尋ねた瞬間、美咲が唾を飲むのが電話越しにわかった。
「・・・なんで明日奈のこと知ってるの?」
逆に質問されたが、その疑問は真っ当だと思う。
「実は前から真白に彼女の霊が取り憑いてた。何度か真白に頼まれて、明日奈の霊と交信したこともある」
「明日奈が、真白に?」
そういえば、このことは美咲にも昭雄にも話していなかった。
特に話すようなことではなかったし、真白もあまり人に話してほしくなさそうだったから。
美咲は意外そうに驚いた後、こう聞いてきた。
「明日奈はなんて言っていたの?」
「大切なものを探して欲しいって言ってた。真白と明日奈を繋ぐものらしいんだけど」
「・・・・」
しばらく、美咲の息遣いだけが受話器から聞こえてきた。
「なあ、ここまで聞いといてなんだけど、言いたくないことだったら無理には聞かないよ」
「ううん。いいよ、別に。でも、明日奈と話をしたんだね。あの子、魂になってこの世界にいるんだ」
美咲は嬉しいのか悲しいのかわからないような声で言った。
「私と明日奈のことが知りたいんだよね?」
「うん。あの時、名前が出たから気になって」
「いいよ。少し長くなるけれど」
そう言うと、美咲は一呼吸おいて、僕に話してくれた。
端的に言えば悠木明日奈は美咲の父方のいとこに当たった。
毎年、お盆と年末年始にあった親族の集まりで会う程度だったが、一緒に宿題をやったり、ままごとや縄跳び、ローラースケートをして遊ぶ程度には仲が良かったらしい。
「中学に上がる頃からかな?明日奈が集まりにも参加しなくなって。何かあったのか聞いてみても、大人は口を噤んで教えてくれなかった」
後で母親から聞くと、明日奈は引きこもりになってしまい、部屋から一歩も出れない状態になっていたそうだ。
「何が原因なのかは、母も知らなかったみたい。でも、なんとかなく私は察しがついていた」
「というと?」
「・・・ここだけの話。私も当時のクラスメイトがいじめにあって転校したことがあってさ」
美咲は言いづらそうに話してくれた。
いじめを受けた子が身近にいたから、明日奈も同じ境遇にさらされているのではないか。そう思ったらしい。
明日奈の家庭環境は決して悪くはなかった。
考えられることとすれば、家の外だろうと思い、美咲は明日奈に思い切って連絡したらしい。
「彼女にメールをしたんだけど、最初は当たり障りのない話をして、それで本題に入ろうとした。でも、彼女は『ちょっと調子が悪いだけ』って、私の追求をかわすだけだった」
それ以上、美咲は何も聞けなかった。
それから半年後、悠木明日奈は自ら命を絶った。
「千葉の房総の森の中で自殺したんだって聞かされた。彼女とその場で一緒に自殺しようとした子もいたんだけど、その子は自殺できなくて、警察に通報したらしい」
その事件は全国的にもニュースになったらしい。そういえば、そんなニュースをテレビで見たことがあるように思う。
ただ、僕が静岡に引っ越した後に起こった事件だったので、当時は僕自身も兄の死などがあったり、新しい環境でバタバタしていたから、記憶にしっかりと残っていなかった。
「もしかしてさ。一緒に自殺しようとした子って・・・」
「うん。真白のこと」
美咲は頷いた後、しばらく間を開けた。
「うちの高校に真白が引っ越してきた時には、正直驚いた。すぐにでも明日奈の死の真相を知りたかったけど、怖くてできなかった。それを知ってしまったら、私の中にある明日奈がまた死んでしまう気がしたから」
上野は確か、真白がクラスメイトを殺して森に捨てたとネットで知ったと言っていた。
クラスメイトというのが明日奈のことだとは想像が付く。
だがネットというのは不確かな情報が多いし、それを面白半分で騒ぎ立てる場所でもある。
実際、真白と明日奈がクラスメイトだったのは小学6年生までだった。
ネットが絶対の真実を映し出すとは限らない。
全ては生き残った真白だけが知っているのだ。
「真白を僕たちのグループに入れたかったのは、それが理由か?」
「うん。ごめん。でもそれだけが目的ってわけじゃない」
「というと?」
さらに僕が尋ねると、真白は躊躇いながらも答えた。
「なんていうかさ。あの子がいじめられているのが見てられなかった。私はそもそもいじめなんて卑怯で最低な行為は許せないし、明日奈がそれが理由で死んでしまったのだとしたら、それを止められなかった自分も許せない」
美咲は正義感が強い。
彼女は絶対に強者が弱者を虐げる現実を、見て見ぬふりはしない。
それが彼女の長所、そして短所でもあると僕は思っている。
「あの子は・・・真白は明日奈の最後を知っている子で、それを差し置いても、私の前でいじめが原因で苦しんでいる人間を放っておけない。・・・明日奈を守れなかった後悔が、そうさせてるのかもしれないけど」
その時、僕は胸騒ぎがした。
美咲は絶対にいじめを許さないという決意を持っている。それも並ならないものだということが電話越しにも伝わってきた。
だとしたら、今日の出来事は美咲にとっては耐え難いものだったに違いない。
「なあ、美咲」
僕は心配になって堪らず言った。
「一人で解決しようと思ってるなら、それはおすすめできない」
そういうと、美咲は押し黙った。
「ごめん」
そして力なく答える。
「もう決めたことだから」
「美咲・・・」
「ありがとう、涼。話に付き合ってくれて」
そう言われた直後に電話が切れて、ツーツーと無機質な信号音だけが鼓膜を震わせた。
これ以上、僕が何かを言っても無駄だと理解してしまった。
美咲は一度決めたらてこでも曲げない節がある。
彼女はきっと一人で全てを解決しようとしているのは間違いない。
友達として、そして愛する人として、彼女を止めるべきだと思考は訴える。
でも、具体的にどうするべきか、それがわからなかった。
夜になると川のせせらぎと蛙の合唱が響いてくる。
ここに来たばかりの頃は、慣れない自然の音色にうまく眠れなかったが、今では子守歌のようにすら思える。
しかし、今日だけはその音が鼓膜を執拗に刺激してくる。
完全に頭が冴えてしまって、ひたすら横になりながら天井を睨みつけた。
眠れないのは音の所為だけではない。
ひたすら無力な自分自身が悩ましくて、何かをすべきなのにどうしたらいいのかわからない知恵の無さに絶望して、それがどうにも僕を焦燥感へと引きずり込む。
窓辺で風に当たろうかとも思ったが、体を起こすのすら面倒になってくる。
これは単に蒸し暑さの所為だ。些細なことすらも起こす意欲さえも邪魔してくる暑さは、本当に厄介だと思う。
ふと、蛙の鳴き声がしんと静まり返った。
突然の異様な静けさに、僕はさっと体を起こした。
部屋の隅に安住さんがいた。僕の方をじっと見つめてくる。
「眠れないようね」
暗闇の中でふっと口元を歪める安住さんは、少し不気味だった。
「今更何の用ですか?」
「別に。あなたも大変だと思って」
そしてゆっくりと歩き出し、僕の部屋を見渡し始めた。
「若いって大変よね。些細なことで傷ついて、人間関係をこじらせないように気を張って。そんなもの、大人になった時には対して役に立たないものなのに」
「僕が苦しんで満足ですか?」
安住さんに皮肉を込めて言った。
「あなたが恨んでいる人の孫が悩んでいる姿は滑稽でしょうね」
「・・・あなたなんて別にどうでもいいわ。それに勇蔵さんのことも今では何も感じない」
「じゃあなんで僕の前に姿を現すんです?」
「気まぐれよ。深い意味はないわ」
僕は生前の安住さんは知らないが、きっと自然と人をかどわかす魔性の女だったのだろう。猫のように気まぐれで、その飄々とした掴みどころの無さが人によっては魅力的に映って、気づいたら蜘蛛の巣に掛かった羽虫のように、彼女のペースに乗せられる。
祖父もきっと、そうやって彼女の魅力に抗えなかったのかもしれない。
「でも、強いて言うなら」
安住さんは僕の勉強机にもたれ掛かりながら言った。
「少しあなたのことを見直したわ。勇蔵さんと私の孫娘の真実を知っても、日常を崩さずに今まで通りの生活を維持しようとする。真実を知っても平静だったところを見る限り、肝は座っているようね。それに、あなたは年の割に物事をよく見ている。大したものだわ」
「そりゃどうも」
彼女に褒められても、ちっとも嬉しくはない。
僕はこれでも必死だった。決して冷静沈着とは言えない。僕はただ、やっと手に入れた普通の生活を失いたくなかっただけだ。
「でもあなたは、周りのことを考えすぎね」
安住さんは僕を見透かしたように腕を組んだ。
「ある意味、周囲を気にしすぎている。相手がどう思うだろうか、傷つけてしまうのではないかということを気にしすぎて、自分の気持ちや意思をいつも後回しにしている。それは見方によっては長所かもしれないけれど、大きな欠点にもなっているわね」
「・・・・」
ぐうの音も出なかった。
思い当たることは多かったし、これまでの過去の生い立ちからして、そうならざるを得なかった。
僕は色んなことを我慢してきた。父からの愛情も、母の暴走も、兄の身勝手さも、僕は全てにおいて、他人を優先してきた。
相手の顔色を伺うことで、自分の取るべきベストな行動を決めてきた。
それが間違っているかどうかなんてわからない。ただ、足枷に感じることはある。
「あなたが好きなあの子。与平さんのお孫さんのことも、あなたはどうすべきか答えが出せないと思っている。でも違う。本当は起こすべき行動は決まっているのに、あの子のことを考えて行動に移せていないだけ」
そう。まさにそれだ。僕は美咲の意思を尊重してしまっている。彼女がこうだと決めた意思を傷つけないように、何も口を挟まないようにしてしまっている。
「でも、それってあなたが安心したいだけでしょ?彼女の意思がとか、彼女を傷つけてしまうからとか、そうやって言い訳にしてしまっているだけ」
「じゃあどうしろってんですか?」
わかったような口で語る安住さんに、僕は少しぶっきらぼうに言った。
「さあ、自分で考えなさいな」
以前のように、安住さんは肝心なところでは決して結論は出さない。
そこが人を翻弄する彼女の悪いところだと思う。
安住さんはそのまま机から離れ、また部屋の隅に戻った。
「でも、一つだけ言うとしたら」
しかし去り際に、安住さんは背後を向いたまま僕にこう言った。
「たとえ相手を傷つける結果になっても、長い目で見れば相手のことを考えていることもある。それに今のあなたを彼女は嫌いになったりしないと思うわ」
そして、顔をこちらに向けて、またふっと笑って見せた。
「あなたたちは若いし、いくらでも間違って許されるんだから。自分の心に従いなさいな」
再び蛙の鳴き声が響き、安住さんは居なくなっていた。
僕はまた枕に頭を預け、天井を眺めた。
安住さんが指摘したことはもっともなことだ。僕は自分の意思を殺して生きている。これからもそれが変わるかどうかなんてわからない。
自分というものがない。言われてしまえばそれまでだが、簡単にこの性質を変えられるとは思えない。
でも、今回だけは変わる必要があるかもしれない。
明日、美咲とはバイト先で会う予定だし、その時にはっきりと言ってやろう。
僕にも協力させてほしいって。
そう思った矢先、瞼が重くなった。安住さんと交信したことで疲れたのか、それとも胸のしこりが消えたからかはわからない。
そこからは夢を見ることなく、ぐっすり眠れた。
翌日。バイト先に行こうとしたところを、祖父に呼び止められた。
「お前、西都やの娘と懇意にしているそうだな」
祖父は険しい顔で追及してきた。
きっと真白のことだろう。そしてそれを快く思っていないことも理解できた。
「だから?」
でも、僕はその追及に真面に答えるつもりはなかった。
「僕が誰と友達になろうが関係ないでしょ?」
「なんだその口の利き方は」
祖父は僕を睨みつけたが、僕は背を向けて靴を履き始める。
「僕、急いでるから」
「あの娘と一緒にいるつもりなら、この家の敷居は跨がせんぞ」
その物言いに、僕もつい苛立って言い返してしまった。
「関係ないね。おじいちゃんは真白のことを恐れてるだけだろ?」
「なんだと?」
「彼女が不倫相手との間にできた孫だから、おじいちゃんは恐がってるだけだろ」
それを聞いた祖父の目があからさまに動揺して見開いた。
本当は黙っておくつもりだったのに、胸のうちにしまっておくつもりだったのに、僕は祖父にたまらず話してしまった。
「・・・・」
祖父は何も言わず、その場で固まっていた。「なぜそのことを知っている?」とも聞かないし、「なんのことだ?」と惚けもしない。
ただ、僕がその事実を知っていることに衝撃を受けている感じだった。
「このことを誰かに言うつもりはないよ。ただ、これ以上僕の交友関係に口を出すなら、約束はできない」
「貴様・・・」
「もう僕にいちいち横柄な態度で口を出さないでくれ」
そう言い切って、僕は玄関の引き戸を開けて、乱暴に閉めた。
僕は祖父のために秘密にしておきたかった。それを話させたのは外ならぬ祖父だ。
全部祖父が悪い。
おかげでこんな気分でバイト先に行かなければならなくなった。とはいえ、その責任をいつまでも祖父に擦り付けるつもりはなかった。
あの人は哀れだと思う。
自分の思い通りに事が進まないから一人で憤慨して、周囲にそのもどかしさと苛立ちをぶちまけている。
はっきり言って、哀れ以外の何でもない。
僕はあんな風な老人にはなりたくない。ある意味、反面教師にしていた。
深呼吸をした後、橋を渡ってバス停まで歩き出す。
だが、今度はまた別の存在が僕を引き留めてきた。
「待って」
背後から声がして振り返ると、悠木明日奈が僕をじっと見つめて、何かを訴えてきた。
その表情は切羽詰まったもので、さすがに何かあったのだと胸騒ぎした。
「どうしたの?」
祖父の時と気持ちを切り替えて、僕は明日奈に優しく尋ねた。
「美咲ちゃんが」
明日奈はそこまで言って、また口を閉じてしまった。
美咲の名前が出て、僕は昨夜の電話のやり取りを思い出す。
「美咲に何かあったのか?」
「・・・彼女、一人で行っちゃった」
「行ったって、どこへ?」
「・・・・」
明日奈はもどかしそうに俯いてしまった。要領は得ないものの、美咲に何かが起きようとしていて、それを言葉にするのが難しいのだということはわかった。
だが、僕もその反応にもどかしさを覚えている。
「美咲はどこに行ったの?何をしようとしているの?」
「・・・ゲームセンター」
明日奈は小さな声で呟いた。
「昨日、真白をいじめていた女の子たちと一緒にいる」
それだけ言い終えて、明日奈はまた消えてしまった。
あまりに情報は少なかったが、それだけでこれから美咲の身に何が起ころうとしているのか、想像できてしまった。
僕はまず、「喫茶 ノギ」に電話した。
2回のコール音の後、野木さんが電話に出た。
「はい。喫茶ノギです」
「あっ、野木さん。すみません。五島です」
「あー、涼くん。どうしたの?」
「えっと、美咲はもう店に着いてますか?」
「えっ?ああ、実は彼女、今日は休みたいって連絡が来てね。だから、今日は涼くん一人でホールを回さないといけないかもだけど」
それを聞いて、嫌な予感がさらに現実味を帯びてきた。
「すみません」
そして動揺しながらも、野木さんに伝えた。
「僕、少し遅れます」
「えっ?何かあったの?」
「理由は後で説明します。すみません」
「ちょっと・・・」
野木さんには申し訳ないが、一方的に電話を切って、僕は家に一旦戻って自転車を取り出して跨った。
とにかく急いで美咲のもとに行かなければ。
自転車に乗りながら、電話で昭雄にも連絡した。
「休みのところ悪い。今すぐ来てもらえるか?」
「いいけど、どこに行けばいいんだ?」
昭雄はすぐに電話に出てくれて、きょとんした様子で聞いてきた。
「ゲームセンターって駅前に1軒しかないよな?」
「ああ。でも、あそこって不良が多いところだぞ?ゲーセンなら三島に行った方が・・・」
「美咲がそこに行ってるんだ。今すぐ向かわないと」
自転車を立ち漕ぎしながら僕は切実にそう訴えた。
さすがに何かあったと理解したようで、昭雄は何も聞かず、「わかった」とだけ言った。
「とりあえず、俺もこれから家を出る。ゲーセンで集合な」
「すまん」
電話を切った後、急いで自転車を走らせた。普段なら心地よくなびく風が、今は行く手を阻む様に吹いている感じがした。
美咲のことだから、上野と決着をつけるつもりではないだろうか。これ以上、真白に関わるなと、はっきり言うつもりなのだろう。
それはあまりにも無謀すぎる。上野は素直に要求を聞いて、約束を守る人間では決してない。
自分以外の人間を同じ人間とは思っていない。自分さえよければ他人がどうなろうが知ったこっちゃない。そういう自分勝手な人間なのだ。
とにかく、今は一刻も早く、美咲のもとに追いつかなければ。
修善寺駅前と言っても、ゲームセンターは駅からだいぶ離れた位置にある。
ボーリングセンターと併設されていて、この辺りでは数少ない娯楽施設ではあるが、昼間からガラの悪い連中の溜まり場にもなっていて、学校からもなるべく近寄らないように言われている悪所でもあった。
汗だくになりながら自転車を漕いで、施設横の駐輪場に自転車を停めておいた。
昭雄を待っている時間も惜しかったので、僕はゲームセンターの敷地内をくまなく探してみることにした。
「こっち」
だが、屋内駐車場に差し掛かったところで、明日奈の霊が現れて、僕を手招きしてきた。
彼女について駐車場の中に入ると、わずかに聞きなれた声が反響してくる。
「呼び出してきたと思ったら何それ?ウケるんだけど」
明日奈と共に声のする方に向かうと、遠くに美咲の後ろ姿が見えた。
そして美咲に対峙するように、上野とその取り巻きたちが立っている。
上野は小馬鹿にしたように美咲を嘲笑っていた。
「別におかしいことは言ってない。もう真白に関わらないでって言ったの」
僕はできるだけ静かに彼女たちに近づき、駐車している車の陰に身を潜めた。
このまま飛び出していこうかと思ったが、一旦冷静になり、考えを巡らす。
とりあえず証拠が必要かもしれない。スマホを手に取り、カメラで録画モードを起動した。
隠れながら、彼女たちの様子を撮影する。
「なんであんたの言うこと聞かなきゃいけないわけ?」
「てか前から思ってたけど、あんたって上から目線なのよね」
「調子乗んなし」
上野と取り巻きたちに対し、美咲は毅然とした様子で対峙していた。
「どこが上から目線?こっちは丁寧に頼んでいるのに。それに調子に乗っているのはそっちでしょ?自分たちの気分次第で真白のことをいじめてさ。そういうのをやめろって言ってるの」
「いじめとか人聞きの悪いこと言わないでくれる?」
上野はきっと美咲を睨みつけて言った。
「こっちはあの根暗と遊んであげてるの。いっつも一人でスカしているあいつが哀れだから、遊び相手になってあげてるわけ。むしろ恨まれるどころか、感謝してもらいたいぐらい」
「は?」
後ろ姿からでも、美咲が怒りを必死で堪えているのがわかった。
今にも手が出そうな雰囲気だが、そうなるとこちらとしても分が悪い。この動画を撮っている以上、美咲が先に手を出したら意味がなくなる。
「それ。本気で言ってるの?彼女に頻繁に万引きをさせていたのも、お金を巻き上げているのも、全部遊びだったってわけ?」
「はあ?あたしらがそんなことするわけないでしょ?」
「証拠でもあんのかよ」
不機嫌な上野たちに対し、美咲はゆっくりと頷いた。
「ええ。これまであなたたちが真白にやってきたことは、全部記録してる」
「記録?」
「具体的には言わない。でも証拠はあるとだけ言っておく。いつだって公開できる準備はできている」
「はっ」
美咲の言葉に、取り巻きたちは少し動揺しているようだったが、上野はそんな美咲を鼻で笑った。
「だったら何?学校にチクるってか?そんなことしたって無駄だって昨日言ったじゃん。こっちはいくらでも揉み消せるっての」
「別に学校に言わなくてもいい」
「あ?」
「今の時代、SNSで拡散することだってできるし。そうなれば学校が裁かなくても、社会が裁いてくれる。そうなったら、あんたたちはこれまでみたいに表立って外を歩けるかしら?」
「・・・てめえ」
「これ以上、真白に近づかないで。私は本気だから」
美咲は力強く言った。
どこまで本当の話しなのかはわからないけれど、美咲もそれなりに真白のことを考えていたことはよくわかった。
こっちが何かをするまでもなく、美咲一人で解決するための手段と切り札は準備していたらしい。
僕は録画を終えようと、スマホのボタンに指をかけた。
「後ろ!」
そこに明日奈が叫んだ。
その声に振り向くと、男が全速力でこっちに向かってくるのが見えた。
僕は急いでその場から逃げるが、男の方が足が速かった。
「ぐっ」
そのまま、地面に押さえつけられ、スマホが遠くに飛んで行った。
「よう。祭りのとき以来だな」
冴島だった。
奴が僕をねじ伏せながら、不敵な笑みを浮かべていた。
首根っこを掴まれたまま、僕は地面に押さえつけられた。
大きな体格の冴島に体重をかけられている所為で、思うように動けなかった。
「涼?なんでここに?」
美咲は驚いて僕の方を見ていた。その隙に、上野の取り巻きが美咲に掴みかかった。
「ちょっ!やめて!」
二人に羽交い絞めにされ、美咲は必死に抵抗していた。
「やめろ!」
「うっせえよ!」
僕は叫んだ。しかし、冴島にさらに体重をかけられ、やはり動けなかった。
「何?雑魚の分際で助けにきたわけ?ウケるわ」
上野は勝ち誇った顔で僕のスマホを拾い上げた。
「あたしらのこと隠し撮りとか最低。そんな趣味あったんだ」
上野は僕のスマホを操作した後、地面に放り投げる。スマホがバキッと嫌な音を響かせた。
「まあ、ちょうどいいわ。あんたら邪魔だったし、ここで始末つけるのもいいかもね」
「何?」
「もともとあんただけをしめるつもりだったけど、二人仲良く地獄を見せてやるよ」
美咲は引きつった顔を浮かべる。
「・・・はなから美咲に何かするつもりだったのか?」
「まあね。どうせ一人でのこのこ来ると思っていたから、ついでに皆でおもちゃにしてやろうと思ってた。まさか助けを呼んでたとは思ってなかったけれど」
道理で冴島がこんなところにいるわけだ。
上野は冴島も含めて、美咲に想像しがたい最低なことをするつもりだったのだろう。
嫌な予感は的中していた。でも、僕の力ではそれを覆すことはできなかった。
「つっても、こんな雑魚呼んだところで、なんにもならないけどね。ホント頭悪くね?」
上野はニヤニヤと笑い、僕らを馬鹿にしている。
さすがに、嫌悪感でどうにかなりそうだった。
「おい。どっちを先にやる?」
冴島が上野に尋ねた。
「んー、まずはこっちからかな?」
上野は美咲の方を指差した。取り巻きに羽交い絞めにされながら、美咲は顔を引きつらせる。
「おい」
だが、そこに低い怒りが籠った声が響いた。
駐車場の入口に、昭雄が立っていた。
外の光で逆光になっていて、顔ははっきりしなかったけれど、それは怒った昭雄だった。
「あ?んだよ、てめえか」
冴島は昭雄に気づくと、僕の胸倉を掴みながら立ち上がった。
「そいつらにこれ以上手を出すな」
昭雄はズボンのポケットに手を突っ込みながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「は?てめえ何様だよ」
「何?こいつも呼んでたわけ?」
冴島も上野も取り巻きたちも余裕そうに笑っている。
「馬鹿が一人増えただけじゃん」
「ちょうどいいや。お前のことぶっ飛ばしたかったからな」
嫌悪感を抱く笑みを浮かべる上野たちに対し、昭雄は溜息を吐いて言った。
「残念だよ」
「は?」
「冴島。お前がそんな風になっちまうとは思ってなかった。こんな不良ぶったことする奴じゃなかったろ?」
「はあ?うっせーよ!もとはといえば・・・」
「俺の所為か?違うだろ。俺がバスケを辞めたっていうのは当てつけだろ?なんでもかんでも人の所為にすんじゃねえよ」
冴島の声を昭雄は静かに遮った。
「こんな最低な真似するようになったのは、俺が原因じゃない。お前が自分で進んでそうなったんだ。だからやっちまったことの責任を取れ。俺や他の連中の所為にするんじゃなくて、自分の所為だって反省するんだ」
「てめえ・・・」
「残念だよ。本当に」
先程の怒りの表情から打って変わり、昭雄は俯いて悔しそうな顔をした。
彼の背後から、野木さんと真白が現れる。
「えっ?誰?」
上野も冴島も大人が現れたことに一瞬驚いたが、すぐにまた小馬鹿にするように二人を見つめた。
野木さんは昭雄の肩に手を置いた後、ゆっくりと前に出て言った。
「君たち、ここで何してたの?こんなところで喧嘩?いや、カツアゲかな?」
「はあ?おっさん。何調子乗って・・・」
「警察にはすでに応援を要請してある。全員その場を動かないように」
「えっ」
険しい顔の野木さんに、全員が怯んだ。野木さんから有無を言わせない威圧感が出ている。
「警察呼んだからって何?うちら何もしてないし・・・」
「ああ、そういうの、通用しないから。すでに現場は抑えてるし、俺からも君らのことはしっかり報告させてもらうから」
「は?」
野木さんの静かだが強い口調に、冴島も上野もさすがに何も言えなくなった。
「とりあえず、二人を放すんだ。今すぐ」
これまで見たことのない険しい表情の野木さんに圧倒されたのか、冴島は僕の首根っこから手を放し、取り巻きたちもおとなしく美咲から離れた。
その後、パトカーのサイレンが聞こえてきて、二人の警官が駐車場に入ってきた。
「お疲れ様です」
「うん。あとはよろしく」
警官二人は野木さんに敬礼した後、僕らの方にやってきた。
結局、事情聴取はされたものの、野木さんがあらかじめ話を通していたのか、上野と取り巻きたち、そして冴島だけがパトカーに乗せられ、僕らは帰らされた。
店まで野木さんが車で送ってくれた。その間、僕らは無言だった。
美咲は僕の隣でずっと俯いていて、昭雄は助手席から空を見上げている。真白は真ん中の席で視線を落としていた。
「びっくりしただろ?」
唐突に昭雄が沈黙を破った。
「ああ。まさか野木さんに連絡してたなんて」
昭雄が少し気を利かせようとしていると思い、僕は話に乗ることにした。
「まあ、なんかヤバそうだって思ったからさ。移動中に連絡しといた」
僕は運転する野木さんの背中をちらっと見た。
いつも穏やかで優しい印象の野木さんが、あの時だけ別人だった。
「野木さん、静岡県警で刑事やってたんだよ」
「ああ、道理で」
「もう随分昔のことだ」
野木さんは照れくさそうに笑って言った。
「すごいんだぜ。刑事だった頃はどんな札付きのワルでも野木さんの名前でビビってたってよ」
「こら。もうそういうのじゃないんだ」
野木さんが昭雄の頭を軽くげんこつで小突いた。
刑事だったから、さっきの警官たちも野木さんに敬礼していたのか。
あの時の野木さんの迫力は、確かに修羅場を経験してきた人のものだったと思う。
「だからさ。野木さんが色々と手を回してくれると思うから、心配いらねえって」
昭雄はそこでようやく美咲の方をちらっと見る。
「・・・ごめんなさい」
小さな声で美咲は謝った。
「私の所為で心配かけて、迷惑まで・・・」
美咲は震える自分の両腕を必死に抑えていた。
きっと今になって怖くなったのかもしれない。
もし僕らがいなかったら、上野は冴島をけしかけて彼女におぞましいことをしていた可能性もある。
そう思うと、僕も今更血の気が引いてくる。
「とりあえず、これ以上何もなくてよかった。今はそれだけ」
野木さんは震える美咲にそう優しい声をかけてニコリと笑った。
「さて、今日はお店は閉めるか」
そして、思い立ったように野木さんはあっけらかんと言う。
「えっ?いいの?」
「ああ。今日は予約もないし、一日休んだくらい大丈夫だから」
昭雄の問いかけに、野木さんは穏やかに返した。
美咲は申し訳なさそうな顔で野木さんを見ていた。
「・・・すみません。私の所為で」
「そういうのはなし。君の所為じゃなくて、俺の気分でそうしたいだけだからさ」
野木さんはあくまで笑っていた。美咲の事を責めるでもなく、何があったのかを聞くこともない。
ただただ、普段通りの野木さんでいた。
そういうのが、今の美咲にとっては一番ありがたいのかもしれない。
「もう大丈夫」
美咲の横で僕は手を差し出す。
「うん」
美咲は遠慮がちに僕の手を取った。長く友達でいたけれど、美咲の手を握ることは初めてだった。
彼女の手がこんなにも小さいなんて思いもしなかった。
昭雄が軽く振り向いて、手を繋ぐ僕らをちらっと見て安心したように笑った。
店に到着してすぐに野木さんは扉の看板を「closed」にひっくり返し、僕らの分のコーヒーを淹れてくれた。
今日は本当に店を閉めてしまうらしい。
「なんか、ごめんなさい。本当にお店閉めちゃうことにもなって」
「気にしなくていい。別にどうってことないさ」
謝ってきた美咲に対し、野木さんはカウンターで背を向けながら答えた。
「あんなことの後じゃあ、仕事する雰囲気にもなれないだろうし、今は君のための時間が必要そうだから」
野木さんはそう言って僕と昭雄、真白を順番に一瞥した。
僕らが話し合う時間を提供してくれた、ということになるのだろう。
僕は昭雄と真白へ順番に視線を移した後、美咲に言った。
「あのさ。昨日の夜に話してくれたこと、二人にも聞かせてやってくれないか?」
美咲は僕を不安そうに見たが、一瞬考えた後にゆっくりと頷いた。
「その・・・私と真白には共通の友達がいるの。まあ正確には、私のいとこにあたるんだけど」
昭雄は意外そうな顔をして、真白は顔を逸らした。
美咲は言葉を選びながら、昨日僕に話してくれた内容を二人にも聞かせた。
野木さんもカウンターから話を静かに聞いていた。
今だけはボサノヴァのBGMは流れていないため、美咲の声だけが店内に静かに響く。
「・・・なるほどな」
話し終えた美咲に対して、昭雄は頬杖を付きながら複雑そうな顔で呟いた。
「ごめん、真白」
美咲は真白に深々と頭を下げた。
「あなたに近づいたのは、最初はそういう自分勝手な理由だった。でも、今は本当にあなたの友達になりたいと思っている」
「・・・そうだろうな、とは思っていた」
真白は美咲をじっと見つめながらそう言った後、黒いマスクを外して見せた。
彼女の頬に残る火傷の痕を見て、美咲と昭雄は目を見開く。
野木さんも目を細めて痛々しい様子で美咲の顔を見ていた。
「私は基本的には人を信用しない。この火傷を負わせた母、そして父、周囲の大人は私を邪険に扱ったし、同年代の子たちも私を気味悪がった。だから、私は人と距離を置くことにした」
自分の火傷の痕を指差しながらそう言うと、真白は溜息を吐いた。
「最初にあなたが私に声をかけた理由はわかっていた。でも、あなたはなかなか本題に入ろうとしないし、それどころか友人のように接してくる。何か裏があるんじゃないかと思っていたけど・・・段々と、あなたとのやり取りが楽しくなっていた」
真白は凛とした表情で美咲を見つめる。
二人の間には複雑な繋がりがあった。真実を知りたいという思いと、真実を知りながら話すことを躊躇う思い。
それが今、交錯して交わろうとしている。
「中学2年のあの日、明日奈から電話が掛かってきた。珍しいと思って出てみると、明日奈は泣いていた」
それから真白は静かに真実を語り始める。
明日奈がなぜ自死を選び、真白が何をしたのかを。
「もうダメ。迎えに来てって言われて、私は急いで家を抜け出した。あの日は連休の終わりで、夕方だった。大雨が降っていたけれど、急いで明日奈が待っている駅に向かった。彼女は駅の地下の改札口のトイレの入り口の前で蹲っていた」
悠木明日奈と合流した真白は、ひとまず彼女を連れて、駅の地下にあるカフェに連れていった。
明日奈は憔悴しきっていて、ひとまず彼女から話すのを待っていた。
「ごめん」
最初に明日奈から出た言葉は、謝罪だった。
「こんな時間に急に呼び出して。久しぶりの再会なのに、最悪だよね」
「そんなことないよ」
真白は明日奈を気遣いつつ、彼女の身に何があったのか、どのように聞こうか考えていた。
「何か嫌なことでもあったの?」
とりあえず、単刀直入に聞いてみる。すると、明日奈は「疲れちゃった」と力なく笑っていった。
「何もかもが悪意を持っているように見えて、常に息苦しさを感じて、何をしても人から批判されて非難されて、馬鹿にされて笑われて。もううんざりしちゃった」
以前から、明日奈が学校でいじめに遭っている可能性を、真白は考えていた。事態は相当深刻だった。
「これ、何かわかる?」
明日奈は持っていたザックから、一枚の色紙を取り出した。
それを見た真白は瞠目した。
小さな文字が寄せ書きのように書かれていて、その中心に真白の写真があったが、その目は黒いマーカーで塗りつぶされていて、寄せ書きの言葉も「メスブタ」とか「股の弛い女」など、卑猥な言葉と罵詈雑言が羅列していた。
「・・・何これ」
「先週、机に置いてあった。ご丁寧にクラスメイト皆が書いてくれたんだって。自殺するならこれを持っていけって言われた」
思わず吐き気がした真白は、気持ち悪さを落ち着かせようと色紙を置いて、目を閉じた。
「皆、私が死ぬのを待ってるみたい。だから、今日死ぬつもりだった」
そんな台詞を明日奈から聞きたくなかった。
彼女はいつだって真白の味方だった。親との関係に苦しんでいた真白にとって、明日奈の存在は大きな助けになっていた。
血は繋がらなくとも、本当の姉妹のように思っていた。
そんな大切な人が、死にたいと言っている。目の前にいる彼女は別人のように生気を失っていた。
「でも、恐くてできなかった。死ぬときに伴う痛みも恐いし、何よりこの体から魂が抜けることが、恐ろしくて堪らない」
明日奈は肩を抱いて震えだした。
真白は思わず席を立ち、彼女の体をそっと抱きしめた。
周囲の客が何事かと彼女たちを見ていたが、それでも真白は明日奈を抱きしめ続けた。
「大丈夫。あなたはまだ生きてる。それに私がいる」
真白が優しく語りかけると、明日奈は嗚咽を漏らしながら小刻みに頷いた。
「どうしようもなく辛くても、あなたには私がいる。私たちは二人で一人だもの」
真白も今の家庭環境に苦しんでいる。とてつもない閉塞感に、息をするのもやっとだった。
明日奈もまた、同じように苦しんでいる。
自分たちを苦しめているものは違えど、同じ辛さを抱えている。
だとしたら、この苦しみから逃げるしかない。今の自分たちには、それが必要だった。
「逃げよう」
「えっ?」
「一緒に逃げよう。誰からも傷つけられない、息苦しくない場所に。私も一緒に行くから」
その日、真白は家に帰らなかった。
彼女は着の身着のままで、明日奈と共に町を出た。
「・・・あの時は、その選択がベストだと思っていた。その時の明日奈は、日常が辛くて仕方がなかった。だから、日常を捨てることが彼女にとって一番良いと思った」
真白の横には、すっかり熱を失ったコーヒーが置かれていた。僕らも同様で、真白の話に入り込んだために、せっかく野木さんが淹れてくれたコーヒーに口を付けることも忘れてしまっていた。
「でも、実際は私自身がそうしたかっただけなのかもしれない。いつかは親の元を離れて、孤独に生きたいと思っていた。それを少し早めることができる。そんな期待は確かにあったと思う。私は、それに明日奈を巻き込んでしまった」
真白は目を伏せて、床をじっと見つめたまま、淡々と語る。
僕らはそんな真白の次の言葉を、ひたすら待った。
「船橋から電車とバスを乗り継いで、とにかく遠くに行きたくて、気づいたら四街道に辿り着いていた。すっかり夜が深くなっていて、途中のコンビニで休むことにした。お互いに相当疲れていて、駐車場で肩を寄せあって寝てしまった」
口が乾いたのか、ようやく真白は冷めたコーヒーに口を付けた。その手は僅かだが震えている。
「・・・起きた時には明日奈はいなくて、スマホに電話しようとしたら、彼女からメールが来ていた。『今までありがとう。あなたのおかげで勇気が出ました』。・・・メールにはそう書いてあって、私は血の気が引いてしまった。とんでもないことをしてしまったという思いでパニックになって、とにかく辺りを探し回った。近くに大きな森があって、なんとなくだけど、そこに明日奈がいるように思って、私は森の奥へと入っていった」
壁にかけられた鳩時計の針の音が静かに時を刻み、やがて12時を知らせる鳩の鳴き声が響いた。
その音に驚いて、心臓がきゅっと締まった。
「森の奥を進んでいくと、開けた場所があって、明日奈は大きな木にもたれ掛かっていた。私が呼びかけると、明日奈は虚ろな表情で私を見た。彼女の傍らにはビールの空き缶と睡眠薬の瓶が置いてあった。すぐに彼女が何をしたのかわかった」
僕の隣で嗚咽が漏れた。
美咲が目に涙を溜めて顔をしかめていた。真白も美咲をちらっと見た後、申し訳なさそうに俯いた。
「そんな明日奈のことを見て、私は恐くなった。明日奈のいないこれからの日々を思って。こんな世界に私も居たくない。だったら私も一緒に逝く。そう思って、とっさに明日奈の荷物を漁って、他にお酒と睡眠薬がないか探した。そしたら予備のビールと睡眠薬があって、急いでそれらを一緒に飲み干したの」
僕は唾を飲み込み、昭雄は真面目な顔でじっと真白を見つめていた。野木さんは時折顔をしかめつつ、唇をきゅっと結んで話を聞いていた。
「しばらくして意識が朦朧として、体もだるくなって、同じく意識を失いかけていた明日奈の隣に横たわって、手を繋いで目を閉じた。明日奈は笑っていた。向こうでまた私たちは会える。その時は誰からも傷つけられず、ずっと一緒なんだって。そう思っているうちに、意識が遠のくのを待っていた。・・・でも、薬の量が甘かったのか、途中で意識が冴えてきて、結局私だけは逝けなかった。とてつもない気持ち悪さと吐き気と体の怠さに一人苦しんで、どうしようもなくなって、這いつくばるように森を出て、警察と救急車を呼ぶ羽目になった」
真白は自分の両手を交互に擦りながら言った。
「本当に惨めだった。私と明日奈はすぐに病院に運ばれて、明日奈だけが死んで、私は無茶をした後遺症だけが残った。それからはまたいつも通りの救いのない毎日が続くことになった」
そういえば、以前に冷え性のことや病院に通っていることを話していた。それらがすべて、その時の後遺症によるものなのかもしれない。
「これが、私が経験した明日奈の最後」
しばらく店内に沈黙が流れた。
なんと言ったらいいのかわからない。誰もがそんな顔をしていた。
「なんでよ」
やがて、美咲が泣きはらした目で呆然と真白を見ていた。
震える声で感情を堪えているようだった。真白は申し訳なさそうに美咲から顔を逸らした。
「ごめんなさい」
そして小さく呟いた。
「明日奈を止められなくて。助けられなくて。・・・私だけ生き残ってしまって」
真白の言葉が、僕の心臓を鋭く突き刺すように響いた。
こんなに悲しい言葉はないと、僕は思った。
「そんなこと言わないでよ」
美咲は頭を振って強く言った。
「私が言いたいのはそういうことじゃない。なんで、明日奈は死ななきゃならなかったのかってこと」
「美咲・・・」
僕は思わず彼女の名を呟いた。
「ごめん。私も自分がどういう気持ちなのかわからない。でも、明日奈が死んだのは、真白の所為なんかじゃない。それだけはわかる。でも、やっぱり納得できない。明日奈は、そんな風に死んでいい人間なんかじゃなかった」
悔しそうに顔を歪める美咲の手を握ってやりたかったが、僕は躊躇ってしまった。
それではまるで、弱り切った彼女の心に付け入ろうとしているように見えるから。
「真白だって、そんな形で死んでいい人間なんかじゃない。だから約束して」
「えっ?」
「もうこれ以上、自分なんかいない方がいいとか、迷惑がかかるとか、そういうことはもう言わないで」
美咲は涙で赤くした目で力強く訴えた。
彼女の言葉に、真白はあからさまに困惑していた。
「そうだな。俺もそういう言葉は好きじゃない」
昭雄も腕を組みながら、少しだけ明るい調子で付け加えるように言った。
「自分の存在価値とかなんて、誰かが決めるものじゃないし。そもそも真白は俺たちにとってはなくてはならない存在だからさ」
「ああ。僕も同じく」
僕も昭雄と頷き合って真白に言った。
以前にも、彼女のことを友達として大切に思っていることは伝えたし、何より僕らには血の繋がりもある。
「君はもう一人じゃないよ。真白」
僕らの言葉に野木さんは嬉しそうに頷いていた。
呆然となっていた真白の目が少しだけ震えていた。
「・・・うん」
そして俯いて、膝に乗せていた手をぎゅっと握りしめた。
そんな彼女の背後に明日奈の霊が現れ、彼女の肩にそっと手をかけた。そして、愛おしそうに彼女を見つめていた。
そんな二人を見て、僕は決心した。
「やっぱり、明日奈の思いを果たすべきだと思う」
「えっ?」
「何それ?」
真白と美咲ははっとなって顔を上げ、昭雄と野木さんは不思議そうに僕を見ている。
そういえば、まだ昭雄には真白との契約の話はしていなかった。
「真白、話してもいい?」
「ええ」
真白はコクリと頷く。
「実は、夏休みに入る前から、真白の傍に明日奈の霊がいるのが見えていたんだ」
「えっ?」
昭雄は驚いていた。すると、美咲は僕にこう尋ねてきた。
「今も彼女はいるの?」
「ああ。真白の傍にね」
僕は明日奈のいる方を指差した。美咲はそっちを見て、切なそうな表情を浮かべた。
「真白に頼まれて以前に明日奈と話をしたんだ。そしたら、探してほしいものがあるって」
「何を探してほしいんだ?」
「それはまだわからない」
昭雄の問いに対し、僕は首を横に振った。
「でも、真白は心当たりがあるんじゃないか?だから、僕らの旅行先を千葉にしたいって言い出したんだろ?」
僕がそう言うと、真白は躊躇いつつも、小さく頷いた。
「確証はないけれど、あの日、私たちが死のうとした場所に、何かがあるように思うの。彼女の遺品のほとんどは家族が持っているけど、他に何か見落としているとしたら、現場に忘れてしまったとしか思えない」
具体的に真白も、明日奈が何を探してほしいのかはわからないようだった。
明日奈に聞くのが一番早いけれど、明日奈の霊に視線を移すと、彼女は申し訳なさそうに顔を逸らした。
おそらくだが、あまり大きな声で言いたくないものなのかもしれない。
「ごめんなさい。皆が楽しみにしている旅行なのに、わがまま言おうとして」
「そんなことないよ」
真白が謝ると、美咲はすぐに否定した。そして昭雄も僕と真白に笑いかけた。
「まあ、いいんじゃねえか?熱海よりは遠いけれど、新幹線とか使えば千葉なんて2時間くらいだろ?それに、旅行の目的がちょっと変わるだけだし」
「えっ?」
「だからさ。今回の旅行は、明日奈の遺品探索ってことでいいんじゃね?俺はそっちでも問題ねえよ。友達のためだもんな」
「昭雄・・・」
僕は昭雄をじっと見つめた。
やっぱり、僕は昭雄のそういうところが好きだと思った。
「私もそうしたい」
そして美咲も力強く頷いた。
「明日奈がこの世に居続けるほど大事なものを探してほしいなら、絶対に見つけ出したい」
「美咲・・・」
真白が美咲を見て目を見開く。
「一緒に探そう。明日奈のためにも」
「・・・うん」
美咲がニコリと笑うのと同時に、真白も不器用ながら微笑んだ。
「なんだか話が今一つわかんないけど、まとまった感じ?」
そこにずっと黙ったままだった野木さんが声をかけてきた。
そういえば、この人にまだ僕の能力のことすら話していなかった。きっと今までの会話もよくわかっていなかったんだと思う。
「すみません。何も前置きできなくて。どこから説明したらいいのか・・・」
「いや、大丈夫。とりあえず、これから千葉に行くんだろ?だったら足が必要だよな?」
しかし、野木さんは僕の言葉を制止して、とりあえず納得した感じである提案をしてきた。
「なんだったら、俺が千葉まで車で送ってやるよ。ついでにホテルとかも予約しておいてやるから」
「えっ?」
「だってそりゃあ、この時期に新幹線の予約が取れるかも怪しいからな。それにお金だってそれなりかかるから、俺が送ってやった方が安く済むだろ?」
「いや、まあそうだけど、野木さんも来んの?」
「なんだ?来ちゃ悪いのか?言っとくが、大人がいた方がホテルだって取りやすいだろ」
「まあ、そうかもしれないけど」
昭雄は少し不服そうにしていた。彼の中では、俺たち4人だけの旅に憧れがあるらしかった。
だが確かに悪い話ではない。新幹線だと往復での金額は高いし、それなりの遠出となると、僕と昭雄はともかく、美咲と真白の家がうるさく言うだろう。
ここは信頼できる大人が一人でもいた方がいいと思う。
「僕は野木さんがいた方がいいと思う」
「私も」
僕に続いて美咲と真白も手を上げた。
「・・・お前らがそういうならいいけど」
昭雄も渋々、僕らの意見を聞いた。
「野木さん、本当にいいんですか?」
でも、僕は改めて野木さんに意思を確かめた。
「静岡から千葉って、車だと結構距離がありますよ?それにお店も閉めないといけないし」
実際、今の家に引っ越してくるときに、叔父の運転する車で千葉から移動してきたけれど、5時間以上は掛かった。そんな距離を野木さんに運転してもらうのは少し気が引けるところがあったし、何よりお店をしばらくの間空けさせてしまうのも申し訳ないとも思っている。
でも、野木さんは「別に大丈夫」と親指をぐっと上げて見せた。
「長距離運転は慣れてるし、数日店を閉めるくらいなんでもない。むしろ君たちだけで遠出させる方が心配」
「はあ」
野木さんのしれっとした笑みに、僕も拍子が抜けた。
先程までの重くなっていた空気もいくらか軽くなり始めている。
「さて、詳しいことはともかく、後は旅の日程だな。いつ行くんだい?」
野木さんに聞かれ、僕らは顔を見合わせる。
「できるだけ早い方がいいな。明後日とかはどうだ?」
「僕は大丈夫」
「私もたぶん行ける」
僕は事前に旅行に行くことは叔父と叔母には伝えてある。祖父に関しては、まあどうせ非難するだろうから、無視して構わない。
美咲も、両親には事前に話を通しているのだろう。
一方で心配なのは真白だった。
僕らが真白を見ると、彼女は少し悩ましそうに目を細めた後に言った。
「大丈夫。なんとか説得してみる」
「本当にできそう?」
真白の叔母のヒステリックになった顔が容易に想像できた。彼女を邪険にしつつも、自分の支配下に置こうとしている。まるで彼女を飼い殺しにしようとしている悪意すら感じる。
そんな人を説得なんてできるのだろうか。僕だったら早々に諦める。
「どのみち、数日家を空けるから、伝えておかないと警察呼びかねないし」
これについては、真白を信じるしかない。
「わかった」
彼女を信じて、僕らは良い返事を待つことにした。
「そんじゃ、ようやく旅程が決まったことだし、決起集会すっか」
昭雄が手を叩いて立ち上がる。
「決起集会?」
「ああ。これが自由な夏休みの最後の思い出になるわけだし」
そうだ。来年は僕らも受験生になる。今年の秋ごろから受験に対するムードも本格的になってくるだろうし、こうして自分たちが集まって、一緒にバイトをして、自由に過ごせるのも、もしかしたらこれが最後かもしれない。
「そうだな」
「そうね」
僕も美咲も納得し、昭雄に合わせることにした。
「じゃあ、野木さん!そういうわけでフライドポテトとオムライス!」
「言っとくけど、金払えよ」
「えっ!この流れでサービスしてくんねえの?」
「バカ!こっちは今日仕事締めてんだぞ!で、君らは何がいい?」
そう言いつつも、野木さんはふっと笑いながら作る気満々だった。
それに昼食にはちょうどいい時間である。
「僕はオムライスで」
「私も!」
美咲も元気よく手を上げて注文した。
「はいよ。で、郡山さんはどうする?」
野木さんはそのまま視線を真白に移した。すると真白は不器用な笑みを浮かべて言った。
「ナポリタンをください」
真白は少し照れたように僕らから顔を背ける。
「前から美味しそうだなって思ってたから」
「なんだー。結構可愛いとこあるのな」
昭雄の言葉に、真白は顔を真っ赤にして彼を見た。その目が少しずつ、細くなっていく。
さすがに心外だと思ったのかもしれない。
「いてっ!」
「あんたねえ、もう少しデリカシー持ちなさいよ!」
昭雄の肩を美咲が拳で殴り、きついお叱りを言う。
なんだか夏前の光景に戻った感じがした。
「別に悪い意味じゃねえよ。真白が素直に可愛いって褒めただけで」
「それはキモイ」
昭雄と美咲のやり取りに、真白は笑みを浮かべていた。
先程の不器用な笑みではなく、自然な時にふっと出てくる、柔らかい笑みだった。
夏前と違って今は真白がいて、僕らはほんのわずかでも成長したと思う。
どのくらい成長したのかは実感はないけれど、肌でそれらしいものは感じている。
野木さんも早速厨房で料理を作り始めていた。
そろそろお腹も空いてきている。
感慨にふけるのも、ランチを食べた後で別にいいだろう。今はただ、美味しいオムライスが出来上がるのを待っていたかった。
旅行の日取りは一応決まった。
明後日の朝から野木さんの車で千葉へ移動。ホテルに泊まってから次の日に明日奈の探しものを見つけに行き、そのまま帰るという一泊二日の旅だ。
当初、昭雄たちと思い描いていた旅行とはだいぶ趣旨は違うけれど、これも楽しもうということになった。
どんなことでも、楽しさを見つけて全力で取り組む。
特に友達のこととなれば尚更だと思う。例え、結末が期待していたものでなくとも。
「ありがとう」
昭雄と美咲と途中で別れ、真白と家に帰る道中、彼女は俯きながら唐突にお礼を言った。
横顔をちらっと見ると、髪の隙間から優しそうに目を細めているのが見えた。
「私、こんな風に青春なんて送る資格がないと思ってた」
「僕も最初の頃はそう思うことがあった」
高校に進学した当初、昭雄と美咲に出会う前の僕は孤独だった。
その孤独に甘んじたくはなかったけれど、それ以外の生き方を知らなかった。そしてこれから先、人並みの幸せを得ることはないと思っていた。
そんな僕に、昭雄と美咲は自然な形で手を差し伸べてくれて、僕を友達として扱ってくれた。
そんな僕が、今度は真白に同じように手を差し伸べている。そんな言い方はおこがましいのかもしれないけれど、少なくとも結果的に、僕は真白に自分が経験した幸福をお裾分けしていた。
「でも今はこう思うよ。これまでの道のりは不幸だったというより、人より遠回りだっただけなんだって」
「遠回り?」
「うん。普通の人が歩いている道からだいぶ逸れてしまったかもしれないけれど、巡り巡って今のこの生活がある。僕たちは、ただちょっと人より遠回りしていただけだったんだ。少し険しい道のりだったけれど、いつかは幸せに辿り着けるようになっていたんだよ」
ずっと考えていた。僕はこの幸せを享受していいのかと。でも、誰しも不幸になるために生まれたわけではないと、最近になってわかった。
生まれながらの悪人がいないのと同じように、生まれた環境が不幸だったとしても、ずっと幸せになれないわけではない。
それを、昭雄と美咲、そしてこれまで関わってきた人たちや霊が教えてくれた。
「そうかもしれないわね」
真白は少し考え込むようにした後、納得したように顔を上げた。
僕と真白はどこか似ている。だからこそ、彼女は僕の言わんとしていることがわかってくれる気がした。
橋の前で真白と別れ、家に着いたところで、玄関前に安住さんの霊がいた。
僕は彼女に軽く会釈し、彼女は少しばつが悪そうに顔を逸らした。
家の中に入って居間に向かうと、祖父がテーブルで新聞を呼んでいた。
「ただいま」
「・・・ああ」
祖父は老眼鏡を外し、新聞を折りたたんでテーブルに置いた。その一挙一動がとてつもなく遅くて、祖父が老齢であることを改めて理解させた。
「ずいぶん帰りが早かったな」
「今日は急遽休みになった」
「そうか」
テーブルに出ていた麦茶のポットを手に取り、棚から湯呑を取り出して適当に注いだ。
「西都やの娘と会ったのか?」
「うん」
「そうか」
今朝のやり取りを思い出したものの、なぜか気まずさは不思議と湧いてこなかった。祖父を見ると、僕から目を逸らして、ずっと俯いている。なんだか祖父がいつもよりも小さく見えた。
「おじいちゃん」
「なんだ?」
「さっきはごめん」
その場の雰囲気からして、謝るなら今しかないように思った。
「朝のこと、言い過ぎたよ。あのことは誰にも言わないから」
「・・・・」
祖父はじっと動かず、視線をテーブルに這わせていた。
やがて、もぞもぞと唇を動かす。
「誰に聞いたんだ?」
いつも聞きなれているはずのしわがれた声が、この時だけは余計に印象的に耳に響いた。
「安住さんの霊だよ。僕、また最近幽霊が見えるようになったんだ」
祖父は深い溜息を吐いた。溜息を出すのも一苦労というように、肩を上下させていた。
「彼女は」
再びしわがれた声が躊躇いがちに静かな居間に響く。
「俺のことを非難していたか?」
祖父はゆっくりと僕の方を見た。すっかりしわくちゃになった顔からは、どんな気持ちでそう尋ねたのか、伺い知ることは難しかった。
「少なくとも、多少は辛い思いを抱えていると思う」
僕は言葉を選んだ。実際のところ、安住さんが本心でどう思っているのかわからない。酷く憎んでいる風には見えないけれど、祖父と僕に対して複雑な思いを抱えている様子だった。
少なくとも何かしらの未練が捨てきれないからこそ、現世に魂が残ってしまっている。
祖父は白くなった眉を少し動かした後、さらにこう聞いてきた。
「西都やの、あの娘はどうしているんだ?」
「元気にやってるよ。ちょっと自分の殻に閉じこもったり、人付き合いは苦手だけど、今は僕らの友達だから」
「そうか」
それを聞いた祖父はゆっくり頷いた後、少しだけ口角を上げた。
「涼」
「何?」
「すまなかった。それと、ありがとう」
何に対しての謝罪と感謝なのか、わからないけど笑顔で頷いてみた。
祖父は多くを語らない。というか、他人のことになるとてんで不器用な人間ではある。
その部分については、真白もしっかりと祖父の血を引いているのではないかと思った。
彼女もまた、多くを語ろうとしない人間だから。
いつの間にか祖父の隣に安住さんがゆっくりと近づいていて、祖父の血管が浮き出た小さな手にそっと自分の手を乗せていた。
僕はしばらく、二人のことを見守るように眺めていた。