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5章

相変わらず、僕はバイトに明け暮れ、夏休みの課題に打ち込む日々を送っていた。

少し変化があるとすれば、昭雄がまたバスケを始めたいと言ってきたので、一緒に練習に付き合うことになったことだ。

市民体育館の外にあるコートで、ひたすらボールをパスしあったり、攻守を交代しては1 on 1のゲームをしたり。

たくさん汗を掻いた後は、近所の銭湯に行って汗を流した。

昭雄自身は腕がなまったと言っていたけれど、僕は彼の動きについていくのがやっとだった。

まだバイト終わりの夕方という時間帯なのが救いだった。日中に練習をしていたら、きっと僕は倒れていたと思う。

「いつも悪いな」

「何が?」

パスの練習をしている時、昭雄は言った。

「こうして毎日練習に付き合ってくれて」

「気にするなよ」

正直、僕は嬉しかった。昭雄がまたバスケをしたいと思うようになったのは、彼がたかひろさんの死から少し吹っ切れたからだと思っていたから。

「バスケ部に入るつもりなのか?」

今度は僕がボールをパスしてそう聞くと、昭雄は「いや」と首を横に振った。

「部活に入る気はない。今更入っても、練習についていけるかわからないし、人間関係も面倒くさいから」

確かに、途中から運動系の部活に入って、自分の立ち位置を確立するのは用意ではないと思う。

僕は運動系の部活に入ったことはないが、その大変さはなんとなく想像できた。

「これからは趣味の範囲でやるつもりさ。大学生になったらそういうサークルに入るかもしれないし、社会人になっても何かしらやっていると思う。それくらいでちょうどいいよ。俺は」

さっぱりした考え方に、僕は少し安心した。

またいつもの昭雄の雰囲気が戻ってきている。やっぱり彼はこうでなくては面白くない。

「ところで、15日はどうすんだ?」

「えっ?」

「祭りだよ。当然、美咲に声かけたんだろ?」

突然その話をされて、僕は苦笑いをした。昭雄はふてぶてしく笑っている。

「ああ、一応」

「一応って、なんだよ?どういう意味?」

「誘ったよ。本人は当然行くってさ」

「それだけ?」

「それだけ」

以前、昭雄に美咲を夏祭りに誘えと言われ、その通りに美咲に直接メッセージを送った。

なんてことはない、普通に「今度の夏祭りは行くのか?」と聞いただけだ。

そしたら「そのつもりだけど?」と彼女は普通に返事をしただけだった。

「まさかお前、俺や郡山さんも一緒に行くって思ってないか?」

「えっ?違うのか?」

「お前なあ」

昭雄は呆れたように言った。

「俺たちがいたら意味ないだろうが。俺が言ったのは、二人で行こうって誘ったら、美咲も喜ぶぞって言いたかったんだよ」

「ああ、そうなのか。てっきり、後で二人きりになる時間があるのかと」

「まあ、それでもいいけどよ。こういうのは誘うときから肝心なんだよ。あいつは不器用だから、お前からアプローチされるのを待ってるんだよ。お前が声をかければ、あいつは特別に感じるだろうから、きっと気合い入れてくるだろうし」

「はあ」

「・・・なあ、ちゃんと確認したいんだが、お前は美咲のこと、マジで好きなのか?」

いつになく真剣に聞かれ、僕は少し間をおいて、ボールを返しながら答えた。

「ああ。そうかもしれない」

「かもしれない、か」

僕の答えに、昭雄は不服そうだった。

「それはあれだろ?あいつがお前のこと好きだから、自分も好きになったってやつだろ?違うか?」

「・・・うん」

昭雄はボールを寄越さずに、溜息を吐いてそのままベンチに向かった。

僕も付いていき、一緒にベンチに座った。

「なあ。美咲は真剣にお前のことが好きなんだよ。だから、お前もそれに答えるべきだ。そうだろ?」

「・・・・」

昭雄の言葉に、僕は答えかねた。

実際、僕は美咲のことをどう思っているのか。

今まで友達だと思って接してきて、そしたら向こうが僕のことを好きだと思っている。

その思いに対する戸惑いはあった。

昭雄の言わんとしていることもわかる。でも、僕にだって選ぶ権利はあるんじゃないだろうか。

僕は、これまでの関係でいられなくなるのが、少し怖い。

「・・・美咲、今年の秋には転校すると思う」

「えっ?」

「俺も本人から言われたわけじゃねえよ。それらしい話を聞いただけだ」

昭雄は顔を背けて言った。

「いつ聞いたんだ?」

「6月くらい。職員室で、先生とそれっぽい話をしているのが少し聞こえただけだ」

「確かなのか?」

「さあな。けど、あいつの親父さん、ずっと単身赴任してるみたいだからさ。そろそろ家族で引っ越すことだってあり得るだろ」

なんと答えたらいいのかわからなかった。

今まで美咲からそういう素振りは感じなかった。

いや、もしかしたら彼女のことだから、僕らに気取られないように振る舞っていた可能性はある。

美咲が転校。

また、僕は大切な友人を失おうとしているのか。

「だからさ。あいつにはせめて、楽しい思い出を作らせてやりたいんだ」

昭雄は僕の方を見て言った。

「あいつの気持ちに、真剣になってやってくれねえか」

そして頭を下げられる。

昭雄にとっても、付き合いの長い友人への思いを無碍にされたくないのだろう。

僕だって、美咲に辛い思いはしてほしくない。

でも、だからこそ、僕は今の気持ちがわからなくなった。

「考える時間をくれないか?せめて、夏祭りの日までは」

今の僕には時間が必要だ。

美咲への気持ちを整理するためにも。

「ああ。そうしてくれ」

昭雄は頷き、空を見上げた後に手を叩いて立ち上がった。

「おし。そんじゃ、あともう1回練習したら、帰るか」

「ああ」

昭雄が伸ばしてきた手を取り、僕も立ち上がった。


翌朝。

部屋で祖母が残してくれた手記をもう一度読み返しながら、友人たちが来るのを待っていた。

すでに何度も読み返しているだけあって、ページもだいぶくたびれてしまっている。

この本には五島家の歴史が詰まっている。

そして僕はその歴史を受け継いでいるわけだが、壮大すぎていまいち実感は湧いてこない。

今はちょうど、祖父と祖母の出会いの場面を読んでいるところだ。

二人が出会ったのは20代前半。祖父が婿養子として五島家にやってきて、そのまま当主になった。

記録によると、西都やを含むこの辺り一帯はもともと五島家の土地らしく、バブル崩壊後に手放したらしい。

当時のことはよく知らないけれど、かつての栄光も時代の流れとともに薄れてしまっていることは確かだ。

その時、玄関のインターホンが鳴った。

ちょうど約束の時間の20分前である。

叔母も叔父も仕事でいないので、僕が玄関の扉を開けに行った。

引き戸を開けると、目の前に白いワンピースの真白が立っていた。手には白いトートバッグを持っている。

「おはよう。早かったな」

「ええ」

相変わらず無表情な真白は一礼したあと、小さな声で「お邪魔します」と言ってから家に上がった。

優雅な仕草で玄関の靴もしっかり揃えて上がるところを見ると、礼儀を厳しく叩き込まれているようだった。

「昭雄と美咲はまだ来てない」

「そうでしょうね」

1階の畳の間に真白を案内しながら、僕は聞いた。

「随分早かったけど、僕に何か用でもあった?」

「いえ。遅れるより早めに着いた方が都合がいいでしょ?」

「まあ、そうだね」

会話もそこそこに畳の部屋で真白を待たせ、台所に行って冷たい麦茶とコップを4つ用意して戻ってきた。

部屋に戻ると、真白は縁側に立ったまま、庭を眺めていた。太陽光で白いワンピースが反射し、どこか神々しさすら感じさせた。

「広いお家ね」

「昔は金持ちだったらしいから」

麦茶とコップをちゃぶ台に並べながら、僕は言った。

「今はそこまで裕福ではないけれど」

「でも、ここ一帯はあなたの家の土地だったんでしょ?」

僕は手を止めて真白を見た。

「・・・なんで知ってるの?」

「叔母から聞いた。西都やがあなたの家に随分お世話になっているみたいだから」

「ああ、なるほど」

たまたまさっきまで読んでいた内容のことだっただけに、僕は少しだけ戸惑った。

でも、真白の家のことを考えると、僕の家のこともそれなりに詳しく知っていることは頷けた。

「いいお庭ね」

真白は無表情で庭を見つめながら言った。それがお世辞なのか、それとも心の底からそう思っているのかはわからない。

「君の旅館の庭も立派だろ?」

「あれは立派なだけ。君の家の庭とは大違い」

僕にしてみれば、雑草と木が乱立して、手入れも大変なこの庭よりも、西都やの整然とした庭の方が、よっぽど良いと思う。

まあ、何をどう感じるかは、その人の感性にもよるけれど。

そこにちょうど、インターホンが鳴った。

庭から覗くと、昭雄と美咲の姿が見えた。

「さて」

玄関に向かい、引き戸を開けると太陽光に照らされた二人の笑顔があった。

「おっす!」

「やっほー!」

昭雄は歯を見せてニカッと笑っており、美咲ははにかんだ笑顔を浮かべていた。

「おはよう。郡山さんはもう来てる」

「えっ。早いね」

「真面目だな」

「さっき来たばっかりだよ。さあ、上がって」

「お邪魔しまーす」

二人とも汗を拭いながら部屋に上がった。

日に日に更新される記録的な暑さにやられたらしい。

「暑かったろ?」

「そりゃまあな」

「先にお手洗い借りてもいい?」

僕が頷くと、美咲は一人トイレの方に向かった。

彼女も以前、昭雄と一緒に僕の家に遊びに来たことがあるので、家の間取りはだいたい把握しているようだった。

「課題、どんだけ進めた?」

「あまり進んでない」

昭雄の質問に適当に答えながら畳の部屋に入ると、真白がちゃぶ台にノートと筆記具を出して、正座しながら待っていた。

背筋をピンと伸ばして、こちらにゆっくりと顔を向けた。

「おっす。遅くなってすまん」

「そんなことない。まだ時間じゃないから」

「郡山さん、やっぱ真面目だよな」

腕時計を確認する真白に、昭雄が笑いかけた。


「お待たせ」

麦茶を飲みながら待っていると、美咲がハンカチで手を拭いながらやってきた。

「郡山さん、こんにちは」

「ええ」

美咲の挨拶に、真白は目を合わせずに答えた。

「にしても、相変わらず広いよね。涼のお家って」

周りを見渡しながら、美咲はその場に座り込んだ。

「そうだな。広いおかげで掃除は大変だけど」

「でも、夏は涼しいだろ?こんだけ広いと」

「冬は死ぬほど寒いけどね」

そんな雑談に興じつつ、各自荷物からノートやら本やら筆記具を取り出して並べた。

「オッケー。じゃあ早速始めましょ」

美咲は手を合わせて言った。

以前から予定していた課題と宿題を協力してやる会。

4人で力を合わせれば終えられるからと美咲は言っていたが、たぶん今日だけで終わることはないだろうと思っている。

「んで、まずは何からやる?」

「とりあえず、共通課題からやろっか」

「だな」

昭雄は頷いて、リュックから一冊の本を取り出した。

「この間、図書館に行ってきたんだが、その時に見つけた」

本には「修善寺の成り立ちと歴史」というタイトルがつけられていて、田舎風景を撮った白黒の写真がカバーになっていた。

「へえ。あんたが図書館なんて、雪でも降るんじゃない?」

「俺だって図書館くらい行くっつうの」

ふざけたやり取りもそこそこに、美咲は真白の方を見て言った。

「郡山さんは、何か資料とか見つけた?」

「一応」

真白は一冊の古いアルバムと写真をテーブルに置いて前に出した。

「私の曽祖父が撮影した写真と、当時の日記。細かく当時の生活とかが載ってる」

「つまり、戦前ってこと?」

「大正時代からだとは聞いている」

僕の質問に真白はしれっと答えるが、僕と昭雄と美咲は少し驚いていた。

「へえ。大正時代って、結構古いね」

「ダメかしら?」

「いや。ダメじゃない。むしろすごくいいと思う」

美咲は期待を込めた目で真白を見つめた。

一方の昭雄は、目の前の真白の資料をまじまじと見て驚いていた。

「どっかに売ったらそれなりに価値あるんじゃね?」

「それはないと思う」

値踏みする昭雄に、真白がすかさず否定した。

「それに売るつもりもない」

「だよな」

ヘラヘラと笑う昭雄に、真白は冷ややかな視線を送っていた。

さすがに昭雄も咳き込む。

「私もとりあえず図書館で色々漁ってみたんだけど」

美咲は4冊ほど本を取り出して並べた。どれもこの地域の郷土史に関するものばかりだ。

「よく見つけたな。俺は1冊なのに」

「あんたの調べ方が悪かったんじゃないの?」

「うっせー」

残りは僕だけになった。

とりあえず、祖父が探してくれた本と、祖母のノートを取り出して見せた。

「僕はこれだけ。家の蔵に眠っていたのと、おばあちゃんが書き残したノートかな」

色々あった中で、この地域に絞った本だけを選んだところ、「修善寺温泉の変遷」というタイトルの本一冊だけになった。

「へえ。蔵にあるなんて便利ね」

「そうでもないよ。おじいちゃんはあまり蔵に入らせてもらえないし」

感心する美咲に、僕は肩をすくめながら言った。

すると、今度は昭雄が祖母のノートを凝視しながら聞いてきた。

「なあ。このノートに触れて、涼のばあちゃんとか見えたりしなかったのか?」

突然、力のことを聞かれ、僕は一瞬驚いたものの、首を横に振った。

「いや。残念ながら」

「そっか」

実は祖母が亡くなってすぐに、何度か試してみたことはある。

でも、いくらやっても、祖母の姿を拝むことはできなかった。

「この世に未練がないってことじゃない?」

すると、真白が僕の方を見て言った。

「君が交信できる霊は、現世に何かしらの未練や思いをもってるんでしょ?見えないってことは、きっと安心してあの世にいるということじゃないかしら」

意外なフォローに、僕も昭雄も美咲も、顔を見合わせた。

「なんか郡山さんって、ロマンチストなんだな」

「そうでもないわよ」

昭雄が半笑いでそう言うと、真白はそっぽを向いてしまった。

「でも、そうだといいね」

一方、美咲は優しい笑顔で僕を見て言った。

「安心して天国にいるなら、それに越したことはないじゃん」

「そうだな」

僕もつい笑みを浮かべた。

便りがないのがいい便りというのか、見えないということは、祖母は何も悔いなく召されていったということになるのかもしれない。

でも、やっぱりもう一度会いたいと思ってしまう。

「・・・とりあえず、始めよっか」

美咲は仕切り直すようにシャーペンを握った。

「まず、お互い持ち寄った資料を読んでみない?」

「賛成」

早速、課題に取り組むことになった。

各々、並べられた資料を手に取り、ざっと読み通していった。


壁に掛かった時計を見ると、皆で課題を始めて1時間が経過していた。

割と時間が経っていたことが意外だったが、それだけ僕らは集中して取り組んでいたというわけだ。

「なあ、ここの表現ってどうすりゃいいんだ?」

「ん?それだったらそっちの方が自然じゃない?」

お互いに必要最低限の会話しかせず、時々質問し合うくらいだった。

少し心地よい風が吹いていて、風鈴の綺麗な音が鳴っているのも、なんだか落ち着く。ここは集中して何かをやるにはちょうどいい空間だった。

「ねえ」

ふと、真白に呼ばれる。

「今度はこの本、貸してくれる?」

真白は僕の用意した「修善寺温泉の変遷」を手に取って聞いてきた。

「ああ、いいよ」

祖父が蔵から持ってきた古い本だから、ところどころ埃がこびりついて、黄ばんでもいる。

早速、真白は本の表紙を丁寧に開き、ページをさらさらと流し読みしていった。

「ん?」

すると、本から何かが落ちてきて、美咲の足元に滑り込んでいった。

「なにこれ?」

一枚の写真だった。美咲は拾い上げ、一瞬眺めた後に僕に手渡してくれた。

「これ、もしかして涼のおじいちゃんじゃない?」

「えっ?」

手渡された写真を見ると、若い男女が2組映っている。後ろの背景は古い日本家屋だった。

気になったのか、真白が僕の隣にやってきて、昭雄まで僕の後ろに立って写真を覗き込んできた。

「・・・確かに、おじいちゃんだ」

祖父と祖母が結婚した当初の写真が額に入って冷蔵庫に貼られているのだが、その写真に写る祖父と同じくらい若く見えた。

しかし、祖父の隣に映っている女性は祖母ではなく、ついでにもう一組の男女も見覚えはない。

「あ」

すると、美咲が何かを思い出したように声をあげた。

「この人、私のおじいちゃんだ!」

そして美咲は、祖父ではない男性を指さして言った。

「でも、横にいる女の人はおばあちゃんじゃないな」

「・・・その人は、私の祖母」

「えっ?」

すると、真白が静かに横でそう呟いた。その目は見開かれていて、彼女自身も動揺しているようだった。

「それと、この背景の家は・・・」

そこまで言って、真白は我に返ったように、口を噤んだ。

「マジかよ。皆のじいちゃんばあちゃんが写っている写真とか、めっちゃレアじゃん」

昭雄は感嘆の声をあげた。

「確かに。仲良さそうだね。いつの写真かな?てか、おじいちゃん、めっちゃ若いし髪もまだ生えてる」

美咲も珍しい物を見つけたように、うきうきした様子で笑っている。

でも、僕はその写真に妙な違和感を抱いていた。

その違和感の正体は、すぐに現れた。

僕が視線をあげると、祖父の隣に映っている女性が、写真に写るままの姿で廊下の奥に佇んでいたからだ。

そして、僕の方を見て不気味な笑みを作ってきた。

「五島くん?」

真白に呼びかけられ、僕は我に返った。

「・・・ああ」

真白は気づいたのかもしれない。また、僕が霊を見てしまったことを。

「ちょっとトイレ行ってくる」

そして写真をちゃぶ台に置いて立ち上がり、僕は逃げるようにその場を後にした。


洗面台で顔を軽く洗った後、背後にいた女性の霊に声をかけてみた。

「あなたは誰ですか?」

「・・・・」

女性の霊は微笑むだけで何も答えない。

「あの写真に映っていたのは、あなたですよね?祖父と何の関係が?」

「・・・やっぱり、あなたは勇蔵さんの孫なのね」

僕の質問には答えず、女性の霊は目を閉じて溜息を吐いた。

「ええ。僕は祖父・・・五島勇蔵の孫です」

「そう」

女性は僕から目を逸らし、愁いを帯びた表情を浮かべた。その様子がどこか艶めかしくて、なんだか変な気分になった。

「あなたは一体・・・」

「五島くん?」

真白がいつの間にか背後に立っていた。無表情なまま、僕をじっと見つめていた。

「ああ。ごめん」

よくわからないが謝罪の言葉が出た。

「また、霊が見えたのね」

「・・・うん」

やはり真白は気づいていたらしい。そして僕を心配して様子を見に来たといったところか。

「どんな人?」

「さっきの写真に写ってた女性。僕のおじいちゃんの隣にいた人」

僕の視線の先を追って、真白も女性の霊の方を見つめた。

「何者かわかった?」

「いや。答えてくれなかった」

「そう」

なぜか真白はその女性の正体を知りたがっているようにも見えた。

「郡山さんは何か知っているの?」

そう聞くと、真白は一瞬固まったが、すぐに首を横に振った。

「・・・知らない」

「そっか」

何かを隠しているようにも見えたが、これ以上追及する必要も今はなさそうだったので、僕は皆のいる畳の間に戻ろうとした。

僕の後を、真白も静かについてくる。

「ねえ」

「何?」

ふと、真白に背後からこんなことを聞かれた。

「その力を、恐れたことはない?」

「なんで?」

「見えないはずのものが見えるってことに、恐怖を感じたことはある?」

急にそんなことを聞かれ、僕は少し妙に思いつつも、すんなりと答えた。

「それは最初のうちだけだったよ。今はなんとも思ってない」

「そう」

「ただ、強いて言えば」

そこに付け加えるようにこう言ってみた。

「僕は、人間の方が怖いと思っている」

それを聞いた真白は、目を見開いた後、すぐに目を細めた。

「私もそう思う」

どうやら笑っているようだった。マスク越しで口元は見えないけれど、声の感じからして、そんな気がした。

すると突然、奥の方から祖父の怒鳴り声がした。

「おい!何をしている!」

そんな声だった。

畳の間に急いで戻ると、祖父が美咲の手から先ほどの写真を奪おうとしていたところだった。

「おじいちゃん!」

祖父は写真を奪って美咲をつき飛ばし、怒りに任せて怒鳴った。

「きゃっ!」

「勝手に触るな!この写真をどこで見つけたんだ!」

美咲も昭雄も困惑した様子で祖父を見ていた。

僕はさすがに看過できなくて、祖父に詰め寄った。

「おじいちゃん!何やってんだ!美咲に謝れ!」

「うるさい!この写真をどこで見つけたと聞いとるんだ!」

どうやら相当頭に血が上っているのか、会話すら真面にできそうになかった。

「本の中に挟まっていました」

すると、後ろから真白がそう言って、テーブルの上の資料を指さして言った。

それを聞いた祖父は、ちゃぶ台にあった「修善寺温泉の変遷」までも取り上げ、舌打ちをした。

「何でもかんでも俺の物に触るんじゃない!これだから全く!」

「おい!謝れよ!」

美咲を突き飛ばして、訳も分からず怒鳴り散らす祖父に、僕は楯突いた。今まで祖父に怒られても、ここまで怒ったことはない。

今回は大事な友達に危害を加えられたから、僕も黙ってはいられなかった。

自分の部屋へ戻ろうとしていた祖父は、僕を睨みつけて言った。

「すぐにそいつらを追い出せ。今すぐにだ」

「いい加減にしろよ」

たがが外れたように、僕は祖父に詰め寄り、そのまま胸倉を掴みそうになった。

「すみませんでした」

しかし、そこに美咲が割って入るように、立ち上がって深々と頭を下げて祖父に謝った。

「写真を勝手に触ってしまってごめんなさい。それと、今日はお暇させてもらいます」

そして、美咲は後ろにいた昭雄にも目くばせした。昭雄も祖父に頭を下げ始める。

「ふん」

祖父は鼻を鳴らして、険しい顔で自分の部屋に戻っていった。

そんな祖父の背中を、僕はこれまでにないくらい、憎しみを込めた目で睨みつけた。


課題と宿題を協力してやる会は、唐突にお開きになった。

なんだか申し訳が立たなくて、僕はバス停まで昭雄と美咲を送っていった。真白も一緒に来てくれて、4人で並んで歩きながらバス停までの道を歩き続けた。

昭雄は自転車で来ていたので、僕らの歩調に合わせて自転車を押していた。

「今日はごめん」

たまらず僕は皆に謝った。

「おじいちゃんには、後で謝罪させるから」

「別にいいよ」

美咲は乾いた笑顔を浮かべて言った。

「涼の所為じゃないから、気にしないで」

「でも・・・」

「まあ、俺たちもちょっとは非があるような気もするし」

昭雄も僕を気遣ってか、そんなことを言ってくる。

いや。2人とも何も悪くない。完全に僕と祖父に非がある。一番は祖父が悪いのだが、僕だってもっとちゃんと資料の中身を確認しておけばよかった。というか、祖父の用意した資料に頼らなければ、こんな事態にはならなかったかもしれない。

「自分を責めてもしょうがないよ。それに、涼のおじいちゃんも、年齢的に反省とかしないと思うし」

美咲にそう言われ、僕は頷くしかなかった。

でも、やっぱり嫌な思いをさせてしまった責任は感じてしまう。

「今後は図書館とかでやろうか。勉強会」

「そうだな」

でも、2人は優しかった。

すぐに思考を切り替えて、次のことを考えている。彼らが僕を気遣ってくれるのは嬉しかったが、今回は僕なりのけじめをつけたいと思っていた。

「とりあえず、バイト終わりとか、1時間くらい会って一緒にやろ?」

僕らを交互に見ながら、美咲は微笑みかけた。

「早く終わらせて、旅行に行こうよ」

「旅行と言えば、やっぱり熱海にしないか?」

昭雄が思い出したかのようにそう言った。

そういえば、旅行の計画は明確に決まっていなかった。行こう行こうと話していても、そこまで話を詰めてはいない。

「そうだね。今度のバイト代とか考えると、近場の方がお金も掛からないし」

「・・・そのことなんだけど」

すると、真白が急に立ち止まってこう言った。

「行きたいところがあるの」

僕ら(特に昭雄と美咲)はきょとんとなって、真白を見つめた。

「あー、そういえば郡山さんの意見も聞かなきゃだよね」

「郡山さんの行きたいところって?」

すると、真白は視線を落として黙ってしまった。

遠慮しているのか。・・・いや、どうも話しづらいことのように思えてならなかった。

そこで僕はまた見てしまった。真白の背後に佇む、少女の霊を。

そして思い出した。真白に憑いている霊の、探し物のことを。

「・・・また、場所と時間を改めて話したい」

やはり言いづらいことなのだろうか。真白は結局その場での明言を避けた。

「そうだね。また今度、ちゃんと旅行の計画とか立てよっか」

美咲は真白に微笑みかけて、また歩き出した。

でも、その後彼女の顔を見ると、緊張した顔で深呼吸していた。

美咲の様子に違和感を覚えつつ、僕らはまたバス停へと歩き出す。

やがてバス停が見えてきたところで、美咲と昭雄とは別れた。

「じゃあ、またバイト先でな」

「じゃねー」

2人は最後まで僕に気を遣って、何事もなかったように振舞っていた。

でも、僕は特に美咲が心配だった。祖父に突き飛ばされて、突然大声で怒鳴られたのだから、精神的ダメージはあるだろう。

また後で、チャットで声をかけてみようと思った。

2人と別れて、僕と真白はまた来た道を引き返す。

「なあ、さっきの話だけど」

僕の前を足早に歩いていた真白に声をかけた。

「もしかして、君の霊に関係する場所に行こうとしたかったのか?」

直球を投げてみると、真白は立ち止まった。どうやら図星らしい。

そして僕の方に振り向き、鋭い視線で見つめてきた。

「やっぱり、その子に関係することなんだな?」

「・・・・」

真白は観念したようにこくりと頷いた。

「そろそろ、君の目的を話してくれないか?」

そう聞くと、真白は重い口を開いて言った。

「いずれ、私の目的は話す。その時は君だけでなく、あの2人にも聞いてもらいたい」

どうやら、この場で話すつもりはないらしい。それは譲るつもりはない感じだった。

「でも、場所だけは先に言っておこうと思う」

そして遠慮がちに目を伏せた後、また僕の方を見て言った。

「行きたいのは千葉。そこに、私の親友が眠っている」


千葉、という単語に僕は顔をしかめた。

彼女も僕も、千葉に所縁のある人間である。とはいえ、僕らはそこに良い思い出は何一つない。

心のどこかで、彼女が千葉に行こうとしている可能性も浮かんではいたが、まさか実際にそうだとは思わなかった。

「親友ってのは、僕に霊視してもらいたいっていう女の子のことか?黒髪のおかっぱの」

真白は頷いた。

「名前は悠木明日奈。私にとっては、最初で最後の親友だった」

帰り道を歩きながら、真白は僕に話を聞かせてくれた。

真白が言うには、その明日奈という少女とは、小学校時代からの付き合いだったらしい。

その当時、2人の家はお隣さん同士で、いつでもどこでも一緒に行動していた。

「まるで姉妹みたいって、近所のおばさんによく言われていた。確かに背格好はそっくりだったし、そのことを面白がって、一緒の洋服を貸し借りしたり、髪型も一緒にしたこともあった」

真白は懐かしそうに目を細めて言った。

「私の火傷の痕のことも怖がらずにいてくれて、これからもずっと一緒だって思っていた。このマスクも、彼女が私のためにプレゼントしてくれたの」

真白は自分の口元を覆う黒い布マスクを指差した。

彼女にとっては、幼馴染との大事な思い出の品だったのだ。それを無事に彼女に返せたことに、僕は少しほっとする。

話はさらに続いた。小学6年生の時に、明日奈は親の仕事の関係で、別の市に引っ越すことになってしまった。

距離的には電車で5駅程らしいが、それでも2人にとっては辛いことだったらしい。

たった5駅の距離でも、今まで姉妹同然に過ごしていた日々を送ることができなくなるという現実は、2人にとっては耐えがたいことだった。

「引っ越しの前日はお泊りして、2人で夜通しお話して、いつの間にかお互い涙が止まらなくなって。気づいたら朝になっていた。でも、明日奈は『これでお別れじゃない』って、最後に言ってくれたの」

距離は離れても、心は一つ。

明日奈の言葉通り、その後も2人は心を通じ合わせた。

手紙を送りあったり、電話をしたり、時々2人で遊びに出かけたり。

一緒にいられる時間が少しだけ減ったというだけで、友情までが薄れることはなかった。

そう信じていたものの、2人が中学校に進学してからは、やり取りの頻度も減ってしまった。

お互いに部活だったり、勉強だったりと、小学校の頃とは比較にならないくらい忙しくなっていたから、2人の時間も取れなくなった。最初はそう思っていた。

「その頃、私も両親との関係がぎくしゃくしていたし、両親も離婚寸前だったから、色々と精神的に追い詰められてはいた。学校でも馴染めなかったし」

中学の彼女のことは知っている。確かに、ずっと独りきりで過ごしている子だった。

そんな彼女に親友がいたなんて、当時は想像すらつかなかった。

「やがて、明日奈と連絡が取れなくなった。手紙も電話も、一切が急に途切れてしまった」

「何があったんだ?」

そこまで聞こうとして、僕の家が見えてきた。

「・・・今日はここまで」

そして真白は僕の方を向いて、手を振ってきた。

「続きはまた今度ね」

唐突に話が終わり、僕は少しもやっとしたものの、なんだか無理に聞けそうになかった。

なんとなく話の内容からして、ここから先は彼女が話したいと思った時に聞くべきだと感じたから。

僕も手を振って、踵を返した真白の背中を見送った。

「・・・君のおじいさま」

「えっ?」

しかし、真白は立ち止まって、背中を向けたままこう言った。

「あんな怒り方をする人を、私は他にも知っている」

それだけ言って、真白はまた歩き出した。


翌日、バイト先で昨日のことをふと思い返してみた。

祖父が隠したがっていた写真。謎の女性の霊。そして、真白の親友の明日奈。

色んな情報が散らばっていて、昨日の夜の間にまとめることはできなかった。

「おい」

そこで、昭雄に肩をこつんと突かれた。

「何ぼーっとしてんだ」

「ごめん」

今日は客足が少なくて、ついつい気が緩んでしまった。

「何か考え事か?」

「ああ」

昭雄に聞かれ、僕は頷く。

「涼のじいちゃんのことなら気にすんな。美咲も俺も別に怒ってないし」

「ありがとう」

祖父の行った行為については今でも許せないが、きっと何を言っても無駄だということはわかっていた。

だから、敢えて考えないようにしている。

「そういえばさ。ちゃんと聞いてなかったけれど」

すると昭雄が改まってこんなことを聞いてきた。

「霊が見えるって、どんな感じなんだ?」

「そうだな」

今のところ、お客さんもいなかったので、僕は昭雄に力のことを少し話した。

どういう条件で見えるようになるとか、どれだけ体力を消耗するのか。そこまでのことは話しておいた。

「なるほどねー」

すると、背後から声がして、僕らはさっと振り返る。

「あ、ごめんごめん。ちょっと早めに着いたから」

いつの間にか、午後からのシフトだった美咲も現れて聞き耳を立てていた。

「盗み聞きするつもりはなかったんだけど、ちょっと気になって」

「いや、別にいいけど」

「てかさ。そういう力があるんだったら、テレビとか出れそうじゃん?」

昭雄の言葉に僕は固まった。

「ほら、よく夏の心霊番組とかで、阿闍梨とか霊媒師とかが出てくるじゃん。そういうのに出ようとは思わなかったのか?」

僕は言葉に詰まった。

かつて、兄にも同じようなことを言われたし、以前の仕事だってそれに近いことではあったから。

「それで有名になって、ギャラもらえたりするんじゃねえの?」

「ちょっとあんた。何考えてんのよ」

美咲が呆れた様子で昭雄に言った。

「まさかとは思うけれど、涼の力を使って金儲けする気じゃないでしょうね?」

「いや、ちげーよ。ただ、そんなこともできるんじゃねえのって話」

美咲が注意してくれたおかげで、僕はまた我に返ることができた。

「・・・そういうのは、別にいいかな。やるつもりはないよ」

「そっか。わりいな」

僕がそういうと、昭雄は頬を搔きながら軽く謝ってきた。

そう。もう僕はこの力を金儲けのために使うことも、有名になるためにも使うつもりはない。

これ以上、大変な思いをするのは嫌だった。

そこにドアが開いて、カラコロとベルが鳴った。

「いらっしゃい。・・・あっ、お疲れ」

店に入ってきたのは、真白だった。

今日は制服を来ていて、ぺこりとお辞儀をしてこう言った。

「店長はいますか?」

そこにちょうど、カウンター奥の暖簾から野木さんが顔を出し、真白を見てニコッと笑いかけた。

「ああ、いらっしゃい。とりあえず、こっちに来てくれる?」

真白はまたお辞儀をして、野木さんに促されて奥の暖簾をくぐっていった。

「何?どういうこと?」

「さあ」

どうやら昭雄も知らないらしく、僕らはただただ顔を見合わせた。

それから30分後。

野木さんと真白が奥から出てきて、僕らを呼び集めた。

「明日から彼女、郡山さんもバイトとして入ってもらうことになったから」

「えっ!」

僕らは目を丸くした。

真白は遠慮がちに僕らにお辞儀をしてくる。

「とはいっても、ホールスタッフとしてではなく、厨房での料理担当だけどね」

「マジで?」

真白がバイト仲間になるなんて意外だった。

というか、真白にバイトなんてできるのか、僕には疑問だった。

確かに、ディスコミュニケーションの塊みたいな彼女には、接客は難しいだろう。だから厨房スタッフというのは、まだわかる。

そもそも、彼女はなんで急にバイトを始めようと思ったのだろうか。

「歓迎はするけどさ。野木さん、こんなに人雇って大丈夫なの?」

昭雄が心配そうに言うと、野木さんは「全然問題ないよ」とあっけらかんとして言った。

「もちろん、人が増えたからって君らの給料は変わらないから、安心して」

それから野木さんは嬉しそうに言った。

「実は彼女、料理が得意らしいんだ。お家の人から色々と習っているらしくて。聞いてみたら、あの西都やがご実家だっていうからさ」

「そうなんだ」

美咲も意外そうな顔で言った。

「あそこの懐石料理、昔食べたけれど、絶品だった。そこで料理の勉強していたみたいだから、腕も期待できそうだし。というわけで、これから仲良くしてあげてな」

「ああ。よろしく」

「うん。わからないことがあったらなんでも聞いて」

昭雄も美咲も切り替えが早く、笑顔で真白を迎え入れた。

僕もそれに倣って、「よろしく」と愛想笑いをした。

真白は無表情のまま、深々とお辞儀をするだけだった。


その日、真白は野木さんと軽く業務内容の研修を受けて帰っていった。

僕らも4時ごろにバイトを終えて、その後図書館で真白とまた合流し、夏休みの課題を協力して行った。

「郡山さん、料理が得意なんだね」

早速、美咲がそのことについて触れると、真白は無表情のまま顔を伏せた。

「将来は旅館を継ぐとか?」

そして昭雄も質問をするが、それがよくなかった。

「そんなつもりはない」

真白ははっきりと否定した。それも強い口調で。

「叔母が無理やり私に教え込もうとしただけ。どうせ私の将来には、ここにしか居場所がないと思っているみたいだから」

一気に周囲の空気が凍り付いた。

「悪い。全然知らなくて。俺・・・」

「気にしないで」

謝る昭雄に、真白はそう付け加えたものの、席を立ってどこかへ行ってしまった。

僕は少し心配になり、少し経ってから真白の後を追ってみた。

図書館のトイレの前で、真白を見つけ、僕は声をかけてみる。

「大丈夫か?」

「ええ」

真白はそう言いつつも、無表情な顔に少し苛立ちが見えた。

「昭雄も悪気があって言ったわけじゃなくて・・・」

「わかってる」

僕の言葉を遮り、そのままスタスタと席に戻っていった。

真白と西都やには、複雑な事情があるのは、なんとなく察してはいた。

そして、僕は真白とある種の共通点を持っているとも思っていた。僕も彼女も、実の親元から離れて静岡という土地で新しい人生を歩もうとしていた。

でも僕と違って、真白は今の環境でも折り合いが悪いらしい。彼女の普段の態度は、そういった積み重ねもあって、他者を拒絶するように出来上がってしまった。

そんな風に見えた。

課題もそこそこに、僕らは図書館を出て、各々帰路についた。

帰りのバスの中で、僕は真白と2人きりになり、思わず聞いてみた。

「バイトをするなんて、どういう風の吹き回しだ?」

すると、真白は僕の方を睨みつけるようにして見てきた。

「料理が好きってわけでもないんだろ?それに、金には困ってないってこの間言ってたじゃないか」

真白は小さく溜息を吐いて、前に向き直った。

「・・・ただの興味本位よ。それに」

「それに?」

「一緒に旅行に行くのに、私だけ何もしないってわけにはいかないでしょ?あと、自分の力でお金を稼げるって証明してみたいの」

強い眼差しで真白は言った。

「叔母は私が社会の落伍者だと思っている。家庭環境に難があって、性格が歪んでしまったから、どうせ真面な生き方なんてできないって、決めつけている。だから、そんなことはないって証明して見せたい」

そう言った後、真白は自嘲気味に言った。

「まあ、それが叔母から嫌というほど叩きこまれた料理の腕で証明するんだから、皮肉よね」

少し意外に思った。真白もそんなことを考えるのかと。

あらゆることに興味も熱意も示さないタイプかと思ったが、案外秘めた思いとか、義理堅さも持っているらしい。

「今、意外だと思った?」

そんな僕の考えを、真白は見抜いていた。

「私だって人間だもの。こう見えて感情はあるわ」

「まあ、だよな」

バスはやがて停留所に到着し、僕らはゆっくりとステップを降りた。

「そういえば、あなたに話しておきたいことが、もう一つある」

バスがゆっくりと発進したタイミングで、真白は僕に言った。

「何?」

「昨日の写真に写っていた建物のこと。あれは西都やの旧館」

「えっ?」

「かつて、あの土地一帯はあなたの家の土地だったでしょ?今の西都やは、あなたのお家から譲渡されたことになっている」

再び、真白は僕の知らない情報をもたらした。

そして、これからまた厄介なことが起こる予兆のように、周囲の森からカラスが一斉に鳴きながら飛び出してきた。


少なくとも、西都やは僕が生まれる前からあった旅館だが、僕がこっちに引っ越して来た頃にはリニューアルしていた。

そのリニューアルによって、主な施設は新館に移ったため、旧館は従業員のための施設になっており、真白の部屋があるのもその旧館だった。

真白に案内され、旧館を外から見れる場所に向かった。

従業員通用口と書かれた外の扉を開けると、真白は僕を手招きした。

「入っていいの?」

「ええ。今は誰もいないから」

やはり許可は得ていないようなので、僕は周囲を確認しながら後に続き、扉をくぐって石畳の通路を一緒に歩いた。

「旧館の中でも一番古い建物はこの奥にある」

真白によると、そこはほぼ手つかずの状態で残っており、日本家屋のような佇まいらしかった。

通路を歩きながら、従業員に出くわさないか不安はあったものの、誰とも出くわさずに、目的の場所についた。

「ほら、写真にあった通りでしょ?」

真白が指さす建物は、確かにあの写真に映っていた日本家屋だった。

「たぶん、この辺りから写真を撮ったのだと思う」

少し後ろに下がって真白は指でカメラを構えるような仕草をした。

「なんで僕をここに?」

まだ僕をここに連れてきた理由を聞いていなかった。

僕としては、あの写真と女性の霊について、そこまで気になってはいなかったのだが、真白は何か気になることがある感じだった。

「・・・・」

だが、真白はすぐには答えない。僕を見ることすらせず、ただただ日本家屋をじっと見つめていた。

そして真白の背後から、またあの日の女性の霊が現れる。

「どうやら、この子は気づいているみたいね」

女性の霊はふっと笑って言った。

「なに?」

思わずそう呟いてしまった。

真白が僕の視線を追って、後ろを振り返る。

「また見えているの?」

「ああ。あの写真に映っていた女性がね」

すると、真白は僕が見ている空間を同じように見て、目を見開いた。

「まだ、名前を聞いていないです」

「安住よ。安住聖子」

女性の幽霊はそう名乗って、真白の隣に立った。

「僕の祖父とは、どういう関係なんですか?」

「・・・・」

改めて、以前にも聞いた質問を尋ねてみると、安住さんは真白を一瞥してから、僕にこう言った。

「この旅館、昔は聖湯館って呼ばれていたの」

そして、旧館の方を懐かしそうに見つめた。

「ずっと、勇蔵さんと一緒に旅館を経営するのが夢だったの。その夢が叶って、友達と一緒に旅館を切り盛りしていた」

「えっ?」

初めて聞く話だった。

祖父が西都やの前に旅館を経営していた?

確かに、ここ一帯は五島家の土地ではあったけれど、祖父がそこまでしていたなんて知らなかった。

「あなたは知らないのね。勇蔵さんからは聞かされてない?」

「はい」

「でしょうね」

安住さんは鼻で笑いながら、僕を見ていた。

その瞬間、昔を思い出す。

今回はあからさまではないものの、こうして幽霊から敵意に近い行為は向けられたことはあった。

その敵意の結果、兄は・・・。

「ここで何しているの!」

すると、突然背後から女性の大声がした。


空気が一気に張り付き、真白も僕も体を震わせた。

「叔母様・・・」

真白は震える声で小さく呟いた。

着物姿の老け込んだ女性が、鋭い視線を僕らに向けていた。

「ここは従業員以外立ち入り禁止です!」

「すみません。僕は・・・」

「私の友達。五島涼くん」

真白が僕よりも先に答えると、女性は目を見開いて驚いた表情をした。

だがそれも一瞬のことで、すぐにまた厳しい表情に戻った。

「あなたが真白の友達の?」

「・・・はい」

「それも五島さんのところの」

「ええ」

女性は次に、僕を汚らわしいものを見るような目で見てきた。僕にはそう感じた。

「今すぐここから出て行ってください。それと真白、あとで私の部屋に来なさい」

「・・・・」

「返事は?」

「はい・・・」

真白は女性に怒鳴られ、体をびくつかせて小さく返事をした。

女性に睨まれながら、僕らは旧館を後にする。

その時には安住さんもいなくなっていた。

真白はずんずんと先に歩いていき、僕も心なしか足取りは早かった。

「ごめん」

なんだか申し訳なくて、僕は速足で歩く真白にそう謝った。

でも、真白は何も答えず、振り返りもしないで前を歩き続けた。

やがて従業員出入口のところまで来て、ようやく足を止めた。

「君はすぐに謝るよね」

「えっ?」

そこでようやく真白が僕に振り向いた。いつも通りの、無表情な顔で。

「あの二人にも、そうやって謝ってばかりいるの?」

「いや。そういうわけでは・・・」

何を言わんとしているのか、僕にはわからなかった。

「少し羨ましい」

次に真白はそう言って、顔を背けて俯いた。

「そうやって、すぐに自分の非を認められる姿勢が」

皮肉にも聞こえそうだが、真白は確かに羨望を抱いているようだった。

なんだか不思議な気持ちになりつつ、僕は謙遜した。

「そんな大したものじゃないよ。僕はただ、臆病なだけさ」

そう。いつも自分を守るために、無難な対応として謝罪を口にするようになっただけだ。決して羨ましがられることではない。

「臆病ってことは、それだけ世渡りがうまいってことだよ」

けれど、珍しく真白は僕を持ち上げてきた。

「・・・なあ、大丈夫か?」

なんだかしおらしい真白が心配になり、そう声をかけると真白は小さく頷いた。でも、体は少し震えている。

「叔母のことは任せて。君に火の粉が降りかからないようにするから」

「・・・ありがとう」

本当に大丈夫なのだろうか。

先ほど初めて会った真白の叔母は、話に聞く以上に人を怯えさせる眼光と迫力を持った人だった。

あんな人にこの後説教をされるとなったら、僕は怖くて仕方がないと思う。

「なあ、僕も一緒に怒られるよ」

真白一人に一切を背負わせるのはどうかと思った。

僕の言葉に、真白はそっぽを向きながら、手を僕の前に出して制した。

「いい。君は悪くないんだから」

「でも・・・」

「もうやめて」

はっきりと、真白は僕を拒絶した。

その理由を、真白の横顔を見て僕は少しわかった気がした。

「・・・わかった。じゃあ、今度はバイト先で」

「ええ」

そのまま僕は踵を返し、家に帰った。

真白は単に、叔母に怒られている自分の姿を僕に見られたくないのだ。彼女だって、年相応に羞恥心も抱く。

だって、同じ人間で、同じ年代の子で、思春期の女の子なんだから。


翌日、真白は普通にバイトにやってきた。

野木さんから厨房の仕事を任せられていたけれど、この店はそこまで忙しいことは稀だ。

しかし、その日は珍しく昼のピーク時に混雑した。

見た感じ、客層は若いカップルや家族連れ、大学生っぽいグループが多かった。

そろそろお盆も近いし、旅行で来たのだろう。

お昼は客足が途切れず、大盛況だったので、僕と美咲はホールを行ったり来たりでてんやわんやだった。

こんな日に限って昭雄はシフトが休みだった。

仕事慣れしているあいつがいたら心強かったとは思う。

真白にとっては初日にこんな混雑である。キャパオーバーでパンクしてないか、何度か心配になって料理を取りに行くついでに様子を見てみた。

料理をしている真白は真剣そのものだった。

鋭い視線はずっと目の前の料理に向けられ、声をかけるのも憚られるほどだった。

さらにオムライスを作りながら、同時に別の料理のサラダを盛り付け、揚げ物も作っている。

焼き飯を炒める際のフライパンの扱いも見事なものだった。

完全にこの状況に場慣れしている。

そういえば、昨日の恐い叔母さんに、徹底的に料理を叩き込まれたと言っていたっけ。

本人は嫌々そうだったのに、今はまるで料理人さながらの迫力だった。

「ちょっと!ナポリタンセット、まだ?」

「あっ、ごめん!」

思わず圧倒されているとホールから美咲に急かされた。

そこに真白がすっと僕に、ナポリタンの乘ったプレートを差し出す。

「ん」

できてるから持っていけということか。

ここでの真白は普段の彼女とは別人だった。

「ありがとう」

なんだか、そんな彼女が頼もしく見えた。


そんなこんなで、昼のピークも過ぎ、客足も嘘のように一気に途絶えた。

「はあ。疲れた」

「お疲れ様」

美咲はうんと背伸びをして、野木さんが笑顔で僕たちのためにコーヒーを淹れてくれた。

「こんなに混む日がくるなんて・・・。あっ、別に悪い意味じゃないんです」

「わかってる。まあ、今日はちょっと異常ではあったな」

美咲にコーヒーを渡しながら、野木さんは笑顔で言った。

「今日からお祭りが始まるからだな。きっとそれ目的で来てる人たちだろう」

「あっ!お祭り!」

それを聞いた美咲は素っ頓狂な声を上げた。

「そうだった!今日からだった!全然準備してなかったー!」

そして頭を抱えて呻いている。

「準備って何があるの?」

「女の子には色々あるの!」

僕が聞くと美咲は察しろと言わんばかりの顔で言った。

僕も少し頭から離れていたけれど、明日には昭雄と美咲の3人で祭りに行く予定だった。

その時に美咲に告れと昭雄から言われてることも思い出す。

同時に、美咲が転校するかもという話も。

「・・・なあ、聞いた話なんだけど」

僕が美咲に転校の真相を聞こうとした時、厨房から真白が出てきた。

「マスター。仕込み終わりました」

「おー、ご苦労さん。君もこっち来てコーヒー飲みなよ」

「ありがとうございます」

野木さんに手招きされ、真白はお辞儀して僕らのところに来た。

「今、なんか聞こうとした?」

そして美咲がきょとんとした様子で尋ねてきたが、僕は「なんでもない」と返してしまった。

話の腰を折られた瞬間、なんだか聞くのが恐くなった。

美咲が転校なんて、少しも考えたくない。

野木さんにコーヒーを渡され、真白はゆっくりとカップに口をつけた。

「でも、本当に助かった。郡山さんがいたおかけで昼はなんとかなったし。初日なのに大したもんだ。ありがとうな」

「いえ、別に」

野木さんに褒められても、真白は無表情のままだった。

「そうそう。真白の料理、美味しかったって評判だったよ」

「えっ、今なんて?」

「あっ、ごめんごめん」

美咲に呼び捨てにされた真白は、困惑していた。

「私達、もう友達だから、ついつい。嫌だった?」

「・・・別に」

真白は複雑そうな顔でまたコーヒーをちびちびと飲んだ。

きっとこういう状況に慣れていないから、どう反応すべきか困っているのかもしれない。

「ねえ、せっかくだし、明日のお祭り、一緒に行かない?」

「えっ?」

「私と涼と昭雄で前から予定立ててたの。一緒に行こうよ」

さらに美咲からの突然の誘いに、真白は唖然となった。

「いいじゃん。青春してるなー」

野木さんも微笑ましそうに見ている。

真白はついに助けをもとめるように僕を見た。

「そうだな。きっと楽しいと思う」

「・・・行けたら行く」

そう言って真白は照れたようにコーヒーを飲んだ。

十中八九来ない答えだけど、真白のことだから、きっと来てくれると僕らは信じた。


バイト終わり。一緒に店を出た僕らだったが、真白は一人帰り道とは逆方向に向かおうとした。

「あれ?一緒に帰らないの?」

美咲が首を傾げると、真白はコクリと頷いた。

「ちょっと用事があって」

「そっか。じゃあまたね。お疲れ様」

「ええ、また」

美咲は普通に手を振って別れたけれど、僕はなんだかちょっとだけ奇妙に感じた。

というのも、真白の様子に違和感を感じたとしか言いようがない。まるで僕と美咲に何かしらの配慮をしているように思えたのだ。その配慮の意味が何なのかは、あえて言わないでおく。

そういえば、僕はなんで真白に対してそんな感覚を敏感に感じられるのだろうか。

今までもそうだが、無表情の真白の僅かな仕草で彼女の考えがわかるような気がしている。

僕らは親しくなってまだ日は浅いのに、まるで長く一緒にいるからこそわかる微妙な違いに気づく幼馴染かのような感じだった。

なんでそんな風に思えるのか、僕にはわからなかった。

「ねえ。涼」

物思いにふけっていると美咲が声をかけてきた。

「ん?何?」

「実はちょっと気になることがあってさ」

美咲は真顔でこんなことを言い始めた。

「一昨日、涼と私のおじいちゃんと、真白のおばあちゃんが映ってた写真があったじゃん?」

「ああ、あれか」

その話題で、また祖父が美咲にしたことを思い出して、ちょっと気分が悪くなった。

「なんだか、あの写真がずっと気になっててね。なんでなのかはわからないけどさ」

「うん」

「それで私、おばあちゃんにちょっと聞いてみたの、おじいちゃんのこと。そしたらさ」

「うん」

「私のおじいちゃん、昔は旅館の料理人してた時期があったんだって」

そこで僕は足を止めた。

まさに目の前に、安住さんが現れたから。

「涼?」

「ん?ああ、ごめん」

突然立ち止まった僕の視線を、美咲はゆっくりと追った。

「・・・もしかして、誰か見えてるの?」

「いや、別に・・・」

「嘘」

美咲は険しい顔で僕をじっと見た。

「涼は嘘付くの下手だからすぐにわかる。誰か見えてるんでしょ?」

「・・・まあね」

これ以上誤魔化しても仕方ないと思い、僕は頭を垂れた。

「ねえ、涼」

すると、美咲は今度は心配そうな表情を浮かべてこう言った。

「私、時々涼が辛そうにしてるのが、見てて辛いの」

「えっ?」

「涼は私達と仲良くしてくれるけれど、話してないこととかたくさんあるじゃない?前から思ったけど、それがなんだか距離を置かれてる気がして辛くなる」

「美咲・・・」

「そりゃ、誰にだって秘密はあるよ。言いたくない過去だってあると思う。でも、私達は友達だから、友達が辛い感じだと、こっちにも伝わってくる」

美咲は唇を噛み締めた。

言われてみると、僕は確かに昭雄と美咲に一定の距離を保つようなことをしていたと思う。

僕にとっては、それが彼らにとっても程よい距離感だと思っていたけれど、知らずのうちに、僕は彼らに遠慮をしているように思わせていたのだろう。

「ごめん。説教じみたこと言っちゃって」

美咲は申し訳無さそうにそっぽを向いた。

彼女は、彼女なりに僕を心配してくれている。

だとしたら、それがこれ以上負担にならないよう、僕にはすべきことがある。

「怖かったんだ。実は」

「えっ?」

僕がそう言うと、美咲はこちらを振り向いた。

「君たちはきっと、僕の力を知っても、ずっと友達でいてくれるとはどこかで信じてた。怖かったのは、僕の過去まで知られてしまうことだったんだ」

「過去?」

「うん。確かに、僕はまだ二人には言っていないことがある。正直、今は話すことはできない」

大きな瞳で僕を見つめる美咲を、僕もしっかりと見据えた。

「本当は、君たちには知らないままで友達を続けようと思ってた。でも決めたよ。今は話せないけれど、いつかは君たちにも話すから」

「涼・・・」

「これからは、なにかあったらちゃんと君たちに頼ることにする。約束する」

「・・・うん」

美咲は優しく笑いかけた。

ひとまず、僕らをじっと見つめてきている霊について、一通り話すことにした。

「一昨日の勉強会で、僕らのおじいちゃんたちが映った写真があったろ?あれに触ってから、写真に映っていた女性が見えるんだ」

「それって、どっちの女性?」

「僕のおじいちゃんの隣に映ってた人。安住聖子さんって言うらしい」

「安住聖子・・・」

美咲は顎に指をかけた。

すると、今度は安住さんが僕に尋ねてくる。

「与平さんのお孫さんなのね」

初めて聞く名前だったが、流れ的に美咲の祖父のことを言っているのかもしれない。

「ねえ、美咲のおじいちゃんって、与平って名前?」

「えっ?ああ、うん。そうだよ」

「何か聞きたいことがあるんですか?」

今度は僕が安住さんにそう問いかけた。すると安住さんは、「別に」と顔を逸した。

「私以外、皆幸せな家庭を築いていたみたいね」

そう続けて呟いた安住さんは、なんだか自嘲気味に笑っていた。


バス停まで歩きながら、美咲は僕にこんなことを言ってきた。

「またおばあちゃんに会ってみる?おじいちゃんのことや、安住さんのことも何かわかるかもしれない」

「えっ、なんで?」

「だって、その安住さんって人、涼に何かしてほしいんじゃないの?」

美咲にそう言われ、僕ははっとなる。

そういえば、僕はまだ安住さんが何の目的で僕の前に姿を見せるのか、まだ聞いていなかった。

「なんかさ。私も気になってるんだよね」

そして美咲も考え込むようにして言った。

「あの写真、どうも何かあるような気がしてる。そう思うと、気になってしょうがなくてさ」

そうして歩いているうちにバス停に辿りついた。

まだバスは到着していない。

「わかった」

僕は意を決して答えた。

「明日、美咲のおばあちゃんに会いに行こう。僕ら、シフトは休みだから、昼からでもいい?」

「うん。いいよ」

美咲は親指を上げて嬉しそうに言った。

そこにちょうどバスがゆっくりとロータリーに入ってきた。

「じゃあ、また明日ね」

「ああ、また明日」

美咲は手を振りながら、元気よく歩き出していった。

そこにまた、安住さんが現れて僕の隣に立って言った。

「彼女、あなたに気があるわね」

昭雄と同じことを言いながら、安住さんはいたずらっぽく笑いかけた。

「あの真白って子と一緒にならなくてよかったわ」

「は?」

そして、意味の分からないことを言ってきた。

安住さんの方を振り向くと、彼女はまだ笑顔を作っているが、それは何かを隠しているかのような含みのある笑顔だった。

「一体どういう意味ですか?」

「いずれわかるわ。あなたたちが、私たちの秘密を明らかにしたときにね」

バスが到着し、ゆっくりとドアが開く。

意味深な言葉に不安を抱いた僕は、さらに追求しようとしたが、ひとまずバスに乗ることにした。

しかし、安住さんは一緒にバスに乗ってこない。

僕が振り返ると、安住さんは手を振ってきた。

そこでバスのドアが容赦なく閉まる。

その瞬間には、安住さんは消えていた。

安住さんの目的が何なのかは聞けなかったけれど、彼女の目的が何某かの秘密を暴いてほしいというものに思えた。

その秘密というのが僕の祖父、そして真白の祖母と美咲の祖父に関係するものだとしたら、なんだか、僕らはとてつもない真実に首を突っ込んでいる気がしてきた。

軽く身震いしたところで、バスが発進したため、急いで空いている席に腰かけた。


以前は霊視で消耗していた体力も、少しずつ慣れていったのか、今では疲労感はあまり感じなくなった。

昔は1日1回の霊視だけで、倦怠感を感じていたから、翌日の授業中に居眠りすることも多かった。

けれど、あの頃から僕も成長したわけだし、それなりに体力も維持できるようになったのだと思う。

とはいえ、昼間に思わず欠伸を掻くほどには疲れも感じてはいる。

美咲と駄菓子屋に向かうまでの間、2回も生欠伸を掻いて、美咲に変な目で見られた。

「寝不足?」

「いや。昨日は10時には寝たよ」

「何時に起きたの?」

「9時くらい」

「そんなにたくさん寝てて、なんで欠伸ばっかりなわけ?」

「ちょっと疲れが溜まってるのかも」

僕がそう言うと、美咲は霊視で体力を消耗する話を思い出してか、「ああ」と理解したように頷いた。

「また、この間みたいなことにはならないよね?」

「うん。大丈夫だと思う。もう心配はかけない」

「ならいいけど」

すたすたと前を歩く美咲に、僕は別の話題を話してみた。

「なあ。今夜の祭りだけど」

「うん」

「真白も来ることになってよかったね」

美咲が真白を呼び捨てにするようになってから、昭雄も彼女を下の名前で呼ぶようになり、僕もこの頃から同じようにした。

当の本人は、下の名前で呼ばれることが随分久しぶりだったらしい。彼女に取り憑いている悠木明日奈にそう呼ばれて以来だとか。

「うん。真白はどんな浴衣で来るのかな?」

「美咲も浴衣で?」

「当たり前じゃん。今がちょうど浴衣が一番似合う年頃なんだから」

美咲はむきになってそう言った。

「そういうもんか?」

「そういうもんだよ。私はまだピチピチのJKなんだから」

「ピチピチって、死語じゃない?」

「うっ・・・別にいいじゃん。とにかく、若さはじける頃の浴衣なんだから、そりゃ気合いもいれるっての」

そうやってむきになる美咲は、やっぱり可愛らしかった。

ああ。なんだかんだ言って、僕は美咲に惚れているらしい。

人生初めての異性の友達が、恋愛対象になるというのは、ありがちなのかもしれない。けれど、そこから本当に恋人同士になる確率はどれくらいだろうか。そこからずっとこの先も人生を共に歩んでいけるだろうか。

そんなものは漫画やドラマの世界だけだと思っているけれど、やっぱりどうしても、夢のある未来というものを望んでしまう。

そりゃそうだ。だって僕もまだ「ピチピチ」の男子高校生なんだから。

「何?ぼーっとして」

そこに美咲が僕の顔を覗き込んできて、僕はちょっと仰け反った。

「いや。何も」

「もしかして、私と真白の浴衣姿、想像してた?」

「そうじゃないよ」

「えー、なんか否定されるのはムカつく」

そんなたわいもないやり取りをしているうちに、美咲の祖母が営んでいる駄菓子屋「ふじきや」の看板が見えてきた。

以前にも何度か道を通ってみたことはあったけれど、その時は小学生くらいの子供がこの時間にたむろしていたが、今日は誰もいなかった。

「おばあちゃん。こんにちはー」

美咲に続いて中に入ると、あまり外の暑さと変わらない空気が漂っていた。

カウンターには扇風機が一台、微風を送りながら首を回しているだけだった。

「おやおや、美咲。待ってたよ」

カウンターの奥から、テレビを見ていた美咲の祖母が立ち上がり、こっちにのそのそとやってくる。

「昨日も話したけれど、涼にもおじいちゃんの話を聞かせてほしいの」

「そうだったね」

美咲の祖母は優しそうな顔で僕に微笑みかけてくる。

「よろしくお願いします」

一応、礼儀として一礼してみた。

「とりあえず上がってくださいな。今、冷たい飲み物とお菓子を出してあげますから」

「あっ、私も手伝うよ」

美咲がさっとカウンターの奥に入っていき、僕も「お邪魔します」と小さく呟いてから後に続いた。


さすがは駄菓子屋というべきか、出されたのは瓶ラムネに麩菓子とカレー味の煎餅だった。

とりあえず、冷たいラムネで喉を潤し、美咲とお菓子をほおばりながら、美咲の祖母、ミキ子さんの話を聞くことにした。

「おじいさん・・・私の夫の与平さんはね。15歳の頃に炊事兵をやっていたの」

「炊事兵?」

「料理を作る兵隊さんのこと。与平さんは戦争中に陸軍に入って、満州に行っていたのよ」

「そっか。15歳で戦争に・・・」

複雑な表情を浮かべた美咲に、ミキ子さんは微笑んだ。

「ええ。でもね、与平さんはもともと料理が好きだったから、炊事兵になれて嬉しかったみたいよ。大勢の兵隊さんの胃袋を俺が支えるんだって誇らしげだった。兵隊さんに俺の飯を食わせてやれば、こんな戦争にも勝って早く国に帰れるってね」

しかし、そう言った直後に、ミキ子さんは悲しそうな顔をして溜息を吐いた。

「でも、戦争はどんどん激しくなっていって、そのうちお米も食材も満足に手に入らなくなったの。雑草汁とか虫とかを調理したり、蛆の湧いたご飯ばっかりしか作れないことも増えていったそうよ。しまいには、負傷兵はどうせ戦えないからって、食事すら満足に配られなくなったってね。与平さんには同じ部隊に友達がいたんだけど、その人も負傷してしまって、栄養失調で亡くなってしまったそうなの。飯さえ食わせていれば、あいつは死なずにすんだのにって、与平さんはずっと悔やんでいたわね」

僕も美咲も、ミキ子さんの言葉の重みを実感していた。

戦争なんて、映画やお盆にやるドラマでしか見ることはないし、ニュースでも遠い国の出来事として報道される。

でも、ミキ子さんも与平さんも、実際に戦争の時代を体験した人たちなのだ。だからこそ、当時を語る言葉にとてつもない重みを感じる。

僕の曾祖父も、太平洋戦争で海軍にいたらしく、軍艦に乗ってそのまま戦死したことが、祖母のノートに書いてあった。

僕が生まれるずっと前に、そんな出来事が実際に起きていたのだ。

「戦争が終わって、与平さんは無事に日本に戻ってきた。当時の経験から、もう料理は作りたくなくなってしまったの。よほど向こうで酷い経験をしてきたのでしょうね。それからは、家業の駄菓子屋を継いで、幼馴染だった私と結婚して、細々とこのお店を営んでいたの」

戦争が終わり、人々が活気を取り戻そうとしていた時代。それが昭和後半だと祖母は書いていた。

これまで抑圧されてきた息苦しさから解放され、自分たちのことを自由に、思うままにしようと息まいていた。

そんな風に祖母の目には見えていたらしい。

でも、与平さんは戦争の傷をずっと抱えたまま、自分のこれからの人生を歩もうとしていたようだった。

「家業を継いで10年くらい経った頃かしらね。与平さんの古い友達が仕事を持ってきたの。これから新しく旅館を営む人がいるから、料理人として働いてみないかって」

「それって・・・」

美咲と僕は顔を見合わせた。

「旅館の名前は聖湯館。支配人は、あなたのおじい様、五島勇蔵さんよ」

ミキ子さんの背後から、安住さんが再び現れた。


「最初は与平さんも断っていたわね。もう包丁を振るう機会はいらないって。よほど戦争でのことが堪えたのね。でも、それからもご友人が何度か説得に来て、与平さんは最終的に仕事を引き受けたわ」

「どうして、おじいちゃんは仕事を引き受けたの?」

そこに美咲が質問を入れた。

「そんなに料理をしたくないって言ってたのに」

「・・・お金に困ってたのよ」

ミキ子さんは複雑な表情で質問に答えた。

「時代はどんどん裕福になっていって、物価もどんどん上がっていった。昔ながらの駄菓子屋だけでは、しっかりと家族を養えなかったの。その頃には私も三人目、つまり美咲のお母さんを妊娠していたから、ちゃんと生活を維持していくために、与平さんは仕事を引き受けたの。幸い聖湯館の仕事は条件がよかったから、引き受ければ何とか生活するには困らなかったわ。このお店も、その頃には私だけでもなんとか回せるようにはなっていたからね」

僕の中では、戦後の日本は高度経済成長でどんどん国が豊かになった明るい時代だというイメージがあった。

でも、その中で時代のスピードに追いつけず、取り残されて生活に苦しむ人たちも少なからずいたのだろう。

いや、そういう人はどんな時代にも必ずいるのだと思う。

「最初は聖湯館は与平さんと勇蔵さんを含めて4人で切り盛りしていた。最初はなかなか軌道に乗るまでは厳しかったけれど、それでも一生懸命頑張って、次第にお客さんも増えていった。時代も、行楽地ブームが到来してきて、やがて従業員も増やすことになるほど、規模は大きくなっていったわ。勇蔵さんも友人をお客さんとして呼んだりしてたそうよ」

それからは忙しい日々が続いたらしい。祖父は友人たちと与平さんとともに、5年間旅館を切り盛りしていった。

特に与平さんの料理は評判だったようで、リピーターも少なからずいたようだった。

そもそも、この辺りは昔から鉱泉が豊富で、色んな所に温泉施設や宿が乱立していた。今でこそ数は減ったものの、当時は各宿がしのぎを削る激戦区だったようだ。

「そんな時代があったんだね」

美咲はしみじみと当時の光景を想像するように言った。

「ねえ。でも、なんで聖湯館は西都やに代わったの?」

「・・・・」

その質問が来ると、ミキ子さんは難しい顔をして口を噤んでしまった。

「おばあちゃん?」

そう言って、ミキ子さんは申し訳なさそうな表情を浮かべ、立ち上がろうとした。

「騙されたのよ」

「えっ?」

ミキ子さんの後ろに立っていた安住さんが、おもむろに口を開いた。

「投資詐欺に引っかかって、勇蔵さんは旅館を手放した」

「どういうことですか?」

思わず声に出してしまった。

僕の声に美咲とミキ子さんが驚いて振り向く。安住さんは不敵な笑みを浮かべてまた消えた。

「涼。どうしたの?」

心配そうに僕を見る美咲に、僕は力なく言った。

「安住さんが言ったんだ。祖父は投資詐欺に騙されたって」

それを聞いていたミキ子さんは、はっとなった。

「今、安住さんって言った?」

「はい」

僕が頷くと、ミキ子さんは険しい顔をして、また座りなおした。

「あの人はもう亡くなっている。30年も前に事故に遭って」

「おばあちゃん。信じられない話かもしれないけど」

僕の代わりに、美咲が僕の持つ力について、ミキ子さんに説明した。そして、どうしてこんな話を聞くことになったのか、その経緯についても。

ミキ子さんは最初は信じられないという顔をしていたが、孫の話を邪険にする気はないのか、ある程度は理解を示してくれた。

「じゃあ、安住さんからある程度は聞いたのね」

「ええ。でも、わからないことはまだまだあります」

「どうして、聖湯館のことを知りたいと思ったの?」

そう聞かれ、正直僕自身も戸惑いを抱いていることに気づく。

なんでこんな昔のことを蒸し返したくなるのか。安住さんの浮かばれない魂のためか。それとも僕自身のためか。真白のためか。

「・・・うまく言えないですけど」

僕は前置きしてこう言った。

「この事実を知ることで、祖父との関係を改善できるような気がするんです」

恥を忍んで、僕はミキ子さんに祖父とうまくいっていないことを伝えた。昔の祖父はこだわりの強いところはあっても優しい性格だった。なのに、なんであんな風に偏屈になってしまったのか。年齢によるところはあるのかもしれないが、もしかすると、過去の何かに原因があるのかもしれないと、縋るような思いも持っている。

この事実を知れば、少しは祖父との関係を改善できるかもしれない。

ミキ子さんは辛そうに溜息を吐いてからこう言った。

「・・・この事実が良い結果になるとは限らないわよ?」

不安にさせる声色だったが、ミキ子さんは敢えてそういう感じで言ったのかもしれない。

引き返すなら、今のうちだと。

「これから話すことは、ここだけのことにしてちょうだい」


戦後の高度経済成長期。

戦争による恐怖と軍国主義の抑圧から一気に自由になった日本人は、これまで搾取された幸福の時間を取り戻すように、夢を追い続けていた。

祖父も安住さんも、そして真白の祖母の久美子さんも、そんな風に夢を追っていた人たちだった。

まだ20代だった祖父は祖母と結婚してから普通に企業戦士として静岡市で働いていた。

そんな中で、どういう経緯があったか定かではないものの、与平さんの幼馴染であった安住さんと出会った。

祖父と安住さんがどういう気持ちだったのか想像するしかないけれど、2人は一念発起するように、旅館を経営しようと思いつく。

「安住さんの家は、もともと小さな民宿をやっていたんだけどね。空襲で家が焼かれてしまって、ご両親も亡くなったそうなの。たぶん、彼女の中では自分の旅館を持つことが、一生をかけての夢だったのかもしれないわね」

ミキ子さんの安住さんに対する見解はそうだった。祖父はどういう気持ちでそれに協力したのかはわからない。

ただ、祖母のノートには、普通に企業に勤めて定年まで働いていたことだけはしっかり書かれていた。

祖母はその事実を知っていたのか。知っていて、敢えてノートに書かなかったのか。

「勇蔵さんは支配人という立場だけど、現場にいなくてもよかったのよ。あくまでその土地の管理に関わるだけでよかったから」

ミキ子さんの補足に当てはめると、祖父は本職の傍らで、聖湯館の経営に関わっていたということになる。

今で言うところの副業に近いものなのかもしれない。それか、資産運用とでも言うべきか。

ともかくも、祖父と安住さんは仲間たちと旅館を切り盛りし、それなりに評判も地位も盤石なものにした。

でも、その黄金期はたった5年で終わることになる。

「与平さんからの話に聞く限りだけど、旅館の改築費用を得るために、勇蔵さんと安住さんは投資を始めたらしいの。当時は今より利率も良くてね。投資に詳しい人を雇って、資産運用を始めたんですって」

祖父と安住さんは、どこぞで知り合った自称コンサルタントを名乗る人物に、資金を任せて運用しようとしたらしい。

だがミキ子さん曰く、その時代は知識のない人が投資に手を伸ばして、騙される被害が多かったそうだ。

祖父も安住さんも、まんまとそのコンサルタントに一杯食わされた。

「運用を任せていたはずの資産は、全部虚偽だった。それどころか、資産を全部持ち逃げされてしまったそうよ。その頃には旅館の改築も進んでしまっていて、勇蔵さんたちは借金まで背負わされてしまったみたいね」

今と違って投資詐欺に関する警戒や注意喚起も緩かった時代だ。そもそもが性善説で世の中が動いていた時代なので、相手の良心に付け込む詐欺が今よりも横行していた。

祖父と安住さんは大きな損失と負債を被り、旅館を手放さざるを得なかったらしい。

「勇蔵さんが旅館を含む自分の土地の周辺を売り払ったり、色々な手段でなんとかしたらしいけれど、それでも、借金はどうしようもないくらいでね。与平さんたち従業員は一斉に職を失ってしまったわ」

確かに、祖母のノートにも、あるきっかけで土地を手放したという記録が残っている。その土地を買い取ったうちの一つが、西都やであることも。

「土地を購入したのは西都やですか?」

僕がそう尋ねると、ミキ子さんは「うーん」と頭を捻ってから答えた。

「どうだったかしらね。でも、あの一帯が新しく旅館になったとは聞いているから、そうなのかもしれないわね」

「そういえば、あの写真に真白のおばあちゃんも映っていたっけ」

美咲も気が付いたのか、思い出したようにそう言った。

「写真って?」

「祖父が持っていたんです。聖湯館の前で、祖父と安住さんと、与平さんと友人の祖母が映っている写真があって、それがきっかけで今そのことを調べているんです」

「そうだったの」

ミキ子さんはうんうんと頷いた後、ちゃぶ台に置いてあった湯呑を取って飲んだ。


「おじいちゃんはその後、またこのお店に戻ったの?」

美咲がそう聞くと、ミキ子さんは「いいえ」と首を横に振った。

「その後は、静岡市の食品会社でサラリーマンとして働いたわ。お店はずっと私が守ってきたの。料理をしていただけあって、食材の知識は豊富だったから、会社からも重宝されていたみたい」

「そっか」

美咲は胸を撫でおろしていた。

与平さんはなんとか別の仕事について、家計を支えられたらしい。しかも、聖湯館の従業員は、そのまま真白の祖母が西都やで雇ったのだと、ミキ子さんは話してくれた。

「安住さんはその後どうなったんですか?」

そこで僕はさらに突っ込んだ質問をしてみた。

「さっき事故で亡くなったって言ってましたけど」

「ええ」

ミキ子さんは頷くものの、そこから先の言葉を考えているようだった。

「その・・・あくまで与平さんからの話だから、正確なところはわからないんだけどね」

そう前置きした上で、ミキ子さんは話してくれた。

「安住さんは、体調を崩してしばらく入院したみたいなの。その後は静岡を離れて、3年後に事故にあった。その事故も、自殺だったみたいよ」

「えっ?」

「詐欺にあった上に、自分の大事な旅館も失ったのだから、精神的にもまいっていたんじゃないかって、与平さんは言っていたけどね。かわいそうに」

僕も美咲も何も言えなかった。

しばらく沈黙が流れた後、店の玄関口が開き、「すみませーん」という若い男性の声が聞こえた。

「はーい。ちょっと待ってくださいね」

ミキ子さんが立ち上がったため、僕はお辞儀をした。

「今日は貴重なお話ありがとうございました」

「いえいえ。またいつでもいらしてくださいな」

ニコッと笑顔を浮かべたミキ子さんは、カウンターに向かい、僕らもお暇することにした。

店を出てすぐに、美咲に声をかけられた。

「涼。大丈夫?」

「ああ」

心配そうに横から僕を見つめる美咲に、軽く笑顔を作ってみせた。

来た道を戻りながら、僕は考える。

祖母は本当に知らなかったのだろうか。祖父が旅館を経営していて、詐欺の負債のために土地を売ったことについて。

いや、祖母は聡明な人だった。知らないはずがないし、祖父だって祖母に黙っていたとは考えにくい。

だとしたらなんで祖母は、僕にくれたノートに何も書かなかったのだろうか。

「美咲はどう思う?」

考えたことを話してみたら、美咲は暫し黙考した後、こう言った。

「敢えて書かなかったのは間違いないね。勝手な思い込みだけどさ。たぶん、涼には知られたくなかったんじゃないかな。家の黒歴史みたいに思ってたのかも」

「かもしれないな。詐欺に遭って、その所為で旅館も手放して、土地まで売ったなんて、恥ずかしかったのかも」

「あと、それだけじゃなくてさ」

自嘲気味に言った僕の言葉に、美咲はもう一つ何かを足そうとした。

「もう一つ私が思ったのは、涼とおじいちゃんのことを思ってなんじゃないかな?」

「どういう意味?」

「涼のおばあちゃんは、おじいちゃんの名誉を守りたかったんだよ。孫である涼に、おじいちゃんのかっこ悪かったところを知らせたくなかったとかじゃない?涼のおじいちゃん、ちょっとプライド高そうだったから」

そう言った後、「あっ、ごめん。悪い意味ではなくて」と慌てて美咲は謝った。

「別にいいよ。だって本当にプライド高いから、あの人は」

思わずふっと笑った。

美咲の言う通り、祖母は祖父と、そして僕のために事実を隠そうとしたのかもしれない。

そうだと信じたかった。

「じゃあ、私はこっちだから」

途中の分かれ道で美咲は左の方向を指差した。

「今夜は楽しみにしてるね」

「ああ」

改めて予定を思い出し、僕は笑顔を作ってみる。

「僕も楽しみにしてる」

「へへっ。じゃあまた後でね」

美咲は笑顔を浮かべて、颯爽と駆け出して行った。

美咲が見えなくなるまで見送った後、僕は右側の道を進もうとした。

その目の前に、安住さんが立っていた。


「あなた、本気であの子の言ったことを信じるの?」

「えっ?」

「あなたと勇蔵さんの名誉のために、事実を隠したとでも?」

安住さんは少し怒っているようだった。

「・・・違うんですか?」

「ええ。あの人と私との関係を隠そうとしたのよ」

「は?」

「妊娠していたの。あの人との子を」

安住さんはお腹に手を当てて言った。

突然、山からの強い風が頬を強く叩くように吹いてきた。

「入院していたのは、つわりが酷かったから。静岡を離れて、あの人の子を産んだの。あなたのおばあさんはそのことを知っていた。勇蔵さんは言わなかっただろうけど、察してはいたんじゃないかしら。だから、旅館を経営していた事実ごと、あなたに教えなかった」

僕の鼓動が激しく高鳴り、風邪もひいていないのに立つのがやっとという感じだった。

「・・・詳しく聞かせてください」

「嫌よ」

気づいたら安住さんを睨みつけていた。

だが、安住さんは鼻を鳴らして僕を蔑む様に見て言った。

「勇蔵さんが唯一自分の孫だと思っているあなたなんかに話したくはない」

「じゃあなんで僕にまとわりつくんだ!」

思わず大きな声をあげてしまった。

周囲に誰もいなかったことが、唯一の救いだった。

そんな僕に、安住さんは顔を背けて言った。

「勝手に私が見えているのは、あなたの方でしょ」

「僕だって好きで見えてるわけじゃない!」

「知らないわよ。そんなこと」

僕の言葉を一切受け付けない拒絶だった。

でもこれではっきりした。

安住さんは、恨んでいるのだ。祖父と、孫である僕のことを。

恨んでいるからこそ、この世界に魂がまだ残っていて、僕に認知されてしまっているのだろう。

こうなると何も聞き出せない。いや、何も聞きたくなかった。

僕は安住さんを無視して横を通り過ぎることにした。

「真白だっけ?」

通り過ぎようとした矢先、安住さんがぼそっと呟いた。

「あの子に聞いてみたらいいんじゃない?」

「は?」

僕が振り返ると、すでに安住さんはいなくなっていた。

真白がなんで出てくるのか?

訳が分からないと頭を抱えたとき、僕の中にある仮説が浮かんできた。

その仮説に、僕は身震いしてしまった。

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