4章
次の日、バイト先に昭雄は現れなかった。
昨日、昭雄とシフトに入っていた美咲は、昭雄があまりにも不機嫌だったことに憤りつつも、心配していた。
「あいつ、何かあったの?」
今日は昭雄の代わりに急遽、美咲がシフトに入ることになり、バイトの休憩中に僕に話しかけてきた。
「野木さんも心配してた。私が普段みたいに話しかけても、ずっとシカトしてムスッとしてるし。メッセージも既読無視だし」
昨日の出来事をうまく伝えられる自信がない。
僕でさえも、あれがなんだったのかを消化しきれないでいた。
約1年の付き合いではあるが、昭雄は決して理由なく人に襲いかかる人間ではない。楽観主義者ではあるが馬鹿ではないし、脳天気に見えて思慮深いところがある。
そんなあいつが、あそこまで激昂して八城さんに殴りかかるなんて、未だに信じられないでいた。いっそ、白昼夢でも見ていたのではと思ってしまう。
「今日、昭雄の家に行ってみる」
僕は昨日の出来事については答えなかった。
とりあえず、様子だけでも見に行こうとは、ずっと考えていた。
「だったら私も・・・」
「いや、ひとまず僕だけでいい」
美咲の言葉を遮ると、美咲はじとっとした目で僕を見た。
「・・・やっぱり何か知ってるの?」
「詳しくはわからない。だから確認しに行く」
「なんで私は行ったら駄目なの?」
「それは・・・」
言葉に詰まった。
あの現場を知らない美咲を連れて行くのはどうかと思ったのもあるし、昭雄にとってもあれは隠したい何かを孕んでいる気がしたから、美咲を連れて行くのが憚られた。
という考えが浮かびつつも、なんでそう思ったのかまでは、自分でも説明できないでいた。
「男って本当にそういうところだよね」
しかし、静かな口調で美咲は僕を責めた。
「男同士のことに女は口を出すなってこと?男同士だったら腹を割って話せるけれど、そこに女はいらないって?」
「そういうわけじゃ・・・」
「もういい。勝手にすれば」
美咲は憤慨しながら休憩室を出ていこうとした。
「・・・ずっと、あんたたちは友達だと思ってたのに」
最後にそう呟き、美咲はホールに戻っていく。
その小さな一言が、鋭利な刃物のように僕の心臓を貫いた。
その後、僕らはバイト中、一度も目を合わせなかった。
バイト終わり。美咲が先に帰った後、野木さんは一言呟いた。
「良くないな」
「えっ?」
「店の雰囲気に合わない」
野木さんは腕を組みながら、店の外を眺めていた。
「君たちは普通に接客しているように振る舞っていたけれど、険悪な雰囲気ってのは、お客さんにはしっかり伝わるものなんだよ」
野木さんは鋭い視線で僕をちらっと見た。
思わず僕は唾を飲み込む。
「すみません」
「昭雄のこともそうだけれど、何があったのかは一旦置いといて、仕事に支障がないよう、3人でよく話し合うんだ。君たちは仕事仲間で、お金を稼いでいるんだから」
「わかりました」
僕は一礼して、そそくさと店を出た。
野木さんの言葉が、口の中で噛みしめるまもなく、食堂を通って胃に流れ込んでくるようだった。
このままだと、3人仲良くクビになるかも。なんて言葉が頭を過ぎった。
まずは昭雄に話を聞きに行こう。そして、美咲にもちゃんと謝ろう。
今日の空模様も、不快な灰色で染まっていた。
思えば、昭雄の家に行くのは随分久しぶりだった。
ちょうど1年前のこの時期に一度だけ遊びに行ったことはあるが、彼がパソコンにインストールしたいソフトがあるから、その設定をしてほしいと頼まれた時以来である。
それからは、昭雄が僕の家に遊びに来ることの方がほとんどだった。特にそれを変に思ったことはなかったし、僕も昭雄の家に行きたいと強く思ったことはなかった。
昭雄の家は、僕の家から自転車で5分の距離にあった。
一旦、家に帰ってから自転車で昭雄の家に向かった。
車が容赦ないスピードで走る国道に沿って自転車を走らせる。
ある意味、焦燥感でペダルを漕いでいるようなものだった。
昭雄のことが心配でもあったが、このままではバイト先に迷惑がかかるというのもあったし、美咲のことも脳裏に浮かんでくる。
一つずつ片付けていくしかないのだが、どうにも「早くなんとかしないと」という気持ちに支配されそうになる。
やがて白塗の壁に蔦が絡まった一軒家が見えてきた。
昭雄の家は1年前に訪れて以来、何も変わっていなかった。
庭には向日葵が立派に咲いていて、葉っぱから雫が垂れている。たぶん、水をやったばかりなのだろう。
家の前に自転車を置いて、僕はインターホンを押した。
昭雄の母親が応じてくれた。相手が僕だとわかると、明るい声で挨拶をしてくれて、すぐに家のドアを開けてくれた。
「いらっしゃい。昭雄は中にいるから、会ってやって」
「お邪魔します」
家に上がらせてもらうと、昭雄の母親に案内されてリビングにやってきた。
リビングの隣に閉じられた襖があり、母親がノックをした。
「昭雄、五島くんが来てるわよ」
「ああ」
襖の奥で、のそのそと起き上がる音がして、襖がゆっくりと向こうから開いた。
「よお」
対面した昭雄は、なんだか少し老けたように見えた。
無表情で目はくぼんでいて、いつもの笑顔が遠い記憶の出来事だったかのように思わせた。
襖からちらりと奥が見えた。
畳の部屋に和箪笥があって、その横に仏壇があった。
線香が一本だけ焚かれていて、ゆらゆらと小さな煙を上げながら、独特の匂いを振りまいていた。
「やあ、調子は」
「まあぼちぼち」
挨拶もそこそこに、僕らは昭雄の部屋に向かった。
漫画で埋め尽くされた本棚と、ゲーム専用の小さなテレビ、年季の入った勉強机、オンラインゲームの主人公がポーズを決めたポスター。
この部屋も1年前となんら変わっていなかった。
「大方、野木さんに言われてきたんだろ?」
昭雄はベッドを背にしてもたれかかって座り、僕はあぐらを掻いて昭雄と向き合った。
「それもあるけれど、僕も心配だったから」
「・・・昨日のことについては悪かった」
乾いた声でそう言った昭雄は、疲れが滲んだ笑顔を浮かべた。
「バイトは明日からちゃんと行く。心配かけてすまなかったな」
「うん。それより、大丈夫か?」
「・・・・」
そう聞いた瞬間、昭雄は僕から視線を逸した。
「お前には見られたくないもん見せちまったな」
「なあ、八城さんと何かあったのか?」
僕が「太陽書堂」での一連の出来事を聞こうとすると、昭雄は顔を逸した。
「・・・すまない。答えたくない」
「そうか」
聞かれたくないことは誰にでもある。僕にだって、昭雄に話していないことはたくさんあるし、話したくないことだってまだある。
そんな僕が、他人の秘密を知ろうとするなんて、おこがましいにも程があるだろう。
だから、僕はそれ以上無理に聞こうとはしなかった。
「とりあえず、明日バイトには来れるんだな」
「ああ。それは大丈夫」
「ならいいけど、無理すんなよ」
「無理することなんてねえよ」
こんなに気まずい雰囲気で話をするのは初めてだった。
今までの僕らの関係は完璧だと思っていたけれど、訳のわからない出来事によって、今まさにもろく崩れ去ろうとしているようだった。
なんてあっけないのだろう。
僕は心の中で落ち込んだ。
今まさに、僕と昭雄は友人からクラスメイトに降格しそうになっている。でも僕はそんな状況を甘んじて受け入れてしまいそうになっていた。
家を出ると、外はポツポツと雨が降り始めていた。まだ小雨だけど、もう少ししたら大雨になりそうだ。
あんな昭雄は初めてだった。普段なら嫌なことがあっても、僕の前では笑い飛ばして、何一つ友人には心配をかけないという男だったのに。
初めてあいつの弱った姿を見て、僕はなんて声をかければいいのかわからなかった。
そして、彼との関係が悪化しつつある兆候を前に、僕は半ば諦めの気持ちを持ってしまった。
たぶん、これまでの経験に基づく心境だと思う。
これまでの僕は、まともな交友関係というものを構築できていなかった。
千葉にいた頃は友人らしい友人はいなかったし、できたとしても彼らはいつの間にか僕から離れていってしまう。
その原因が何なのか、僕はわかっていた。わかっていたからこそ、去りゆく友人たちの背中を追うことはせず、「ああ、また独りか」と寂しさに身を委ねるだけだった。
人が自分から去っていく現状に諦めを抱くことに、僕は慣れきってしまっていた。
そんな僕の前に昭雄は現れた。この1年で親友と呼んでも差し支えなかったと思う。
今、そんな親友を失おうとしているのに、僕の心の中で経験による慣れが支配しつつあった。
昭雄を失いたくない気持ちはもちろんある。でも、そのためにどうするべきなのかがわからない。
ペダルを漕ぐ足が自然と重くなっていき、自宅までの5分の距離が酷く長く感じた。
やがて中間あたりの距離で雨脚が早くなっていき、やがて土砂降りになった。
途中にある「西都や」の看板が掛かった東屋に入り、雨宿りをした。
びしょ濡れの体のままベンチに腰掛け、深呼吸して目をつぶった。
そして目を開けた瞬間、目の前に幽霊が立っていた。
「うわっ!」
僕は驚いて体をのけぞらせた。
「太陽書堂」の前にいる霊だった。彼は僕の方を切なそうに見ていた。
「弟と話をさせてほしい」
そして芯のある太い声で僕にそう言ってきたのだ。
「弟?」
「ああ。俺の弟、昭雄と」
「えっ?」
「五島くん?」
幽霊に聞き返そうとした時、いつの間にか近くに真白が立っていた。
彼女は傘を持っていなくて、僕よりもずぶ濡れだった。
ちょうど、幽霊と真白が並んで立っている状態になった。
「郡山さん、なんでここに?」
「病院からの帰りよ」
真白は相変わらず無表情で淡々と話をした。濡れきった長い黒髪から覗かせる顔が、少し不気味さを出している。
「それより、誰と話していたの?」
そう聞きながら、彼女はすでに答えがわかっているようだった。
「まさか、明日奈と?」
「明日奈?」
真白は自分の言葉にハッとなったように、目を見開いて僕から視線を逸した。
「なんでもない。また幽霊と話してたんだね」
「ああ」
僕は幽霊に視線を向けつつ、真白に聞いた。
「明日奈っていうのは、君に取り憑いている霊の名前?」
「・・・・」
真白は答えなかった。
代わりに、僕を鋭い視線で睨むように横目で見つめた。
「・・・今話していたのは、男の子の霊だよ」
これ以上の質問は、真白を不機嫌にさせるようだったので、僕は目の前にいる霊のことについて話した。
「どんな話を?」
「昭雄と話したがっている」
「武本くんと?どういう関係なの?」
「・・・・」
何から話していいのかも少しわからなかった。昭雄が起こしたあの事件について触れるべきかも判断しかねた。
真白も事件のことは全く知らない。彼女に話をするべきかは躊躇われた。
「そういえば、武本くん。様子が変だったよね?」
しかし、真白は勘が良かった。
「チャットでも、清水さんの呼びかけにまともに答えてなかった」
バイトを休んだことについて、美咲が心配してメッセージを送ったのだが、昭雄は「大丈夫」とか「ごめん」としか返信していなかった。
「普段の武本くんとは違う気がした。なにかあったわけ?もしかして、その霊と関係あること?」
「関係あるかどうかはわからない」
率直にそう答えたが、僕自身も目の前にいる霊が、昭雄の起こした事件と無関係とは思っていない。
彼はあの現場にずっといて、こうして僕に会いに来て、昭雄のことを弟と言った。
無関係だと思う方がおかしい。
「ねえ、君さ」
すると、真白が僕の隣に腰掛け、狙いを定めるような視線で見つめてきた。
「言っていることと気持ちが矛盾しているよね?」
「えっ?」
突然の追求に、僕は戸惑った。
「まず、君自身が武本くんとそこにいる霊との関係が偶然ではないと気づいているのに、言葉では否定しているところが一つ。もう一つは、私と友だちになりたいとか、仲間として迎え入れるっておきながら、私を関わらせないようにしていること」
「別にそういうわけじゃ・・・」
「また矛盾してる」
真白は静かに、でも有無を言わせない説得力を持って、僕の言葉を制した。
「私は契約のために君たちと仲間になった。だから、君が私を仲間だと思っているのなら、それなりに信頼するのが筋だと思う」
「・・・君こそ何を言っているんだ」
真白の言葉の矛盾を、僕も指摘した。
「渋々仲間になったみたいな態度のくせに、こんな時に仲間だから信頼しろって?少し虫が良すぎるだろ」
言った直後に僕はしまったと思って、真白から顔を背けた。
今、僕はそれなりに最低な事を言ってしまったと思う。
「・・・確かに、それもそうね」
すると、真白はすくっと立ち上がり、東屋から出ていこうとした。
その時に僕を一瞥してくる。
雫が伝った黒髪から、瞳が覗いて僕を見下ろしていた。
その瞳は、深い黒だった。底知れない、海の底の暗さと同じ黒。
直感的に、僕は彼女を傷つけたのだと理解した。
真白はそのまま、雨の中へと独り出ていった。
また一人、僕から身近な人が去っていく。心の距離が離れていく。
今日はそういう日なのかもしれない。
朝のニュース番組の星座占いでは、そんなことは言っていなかったと思うが、こうも立て続けに人と距離を置かれるのは、やっぱりなにかあるのだろう。
もうたくさんだと思った。
「おい!」
僕も雨の中へと飛び出し、真白に追いついて言った。
「・・・話を聞いてくれないか?」
道の途中で真白は立ち止まる。
このままで良いはずがない。昭雄と美咲、そして野木さん。もちろん真白も。
僕は彼らを失いたくない。これ以上、身近な人が僕から離れていくのは、うんざりだった。
「君の力を貸してほしい」
だから、僕は助けを求めた。
この状況を共に乗り越える人が必要だった。
真白はゆっくりと僕の方に顔を向ける。そして、湿りきった黒いマスクを外した。
「それは、君の本心?」
「ああ」
火傷の痕が残る彼女の頬が、少し歪んだ。
珍しく真白が微笑んでいる。
それを見た僕は胸を撫でおろした。
台風が近づいている。
強い雨風が容赦なく人の生活を脅かし、全てを無に還そうとする。
これは人に与えられた試練だ。夏という開放的な気持ちに対する自然からの戒め。
でも、それをうまく乗り越えたら、後は静かで穏やかな日々をもたらしてくれる。
生前の祖母はこの時期に台風が多いことを、そんな風に例えた。
こういうときこそ、人と人がうまく協力しあえるかが試されるのだとも。
「人に頼ることは悪いことじゃない。でも、人っていうのはなんでも独りでしょいこんでしまう」
僕が小さい頃、台風の前の生暖かい風が吹き付ける外を見ながら、祖母は言った。
「人なんて、独りではちっぽけなもの。両手に抱えられるものなんて、ごく限られているんだよ。だからね」
そして振り向いて、僕に優しい笑顔を向けてくる。
「強い風が吹くときほど、人に頼りなさい。その時は、自分の身に何かが起きる予兆なんだから」
その言葉の意味を、当時の僕はよくわかっていなかった。単に、台風の日は協力して生き残るということだと思っていた。
でも祖母はきっと、この日のことを言っていたのかもしれない。
自分にとって大きな変化をもたらす風が吹いた時、誰かの力が必要になってくると。
雨と共に風も強くなっていく中で、僕は真白と東屋で隣り合っていた。
体温が緩やかに失われつつあるのか、指先に寒さを感じつつあった。マスクを外した真白を見ると、少し唇が紫色になっていた。
「武本くんとその霊の間に何かがあるのは間違いないね」
真白はカーテンのように降りしきる雨を見ながら、そう呟いた。
僕も同じ方向を見つめて頷く。
昭雄が八城さんに殴りかかったことについて粗方話したものの、真白にどう協力してもらうべきかはまだ決めていない。
彼女は昭雄のことをよくわかっていない。彼がむやみに人を殴る人間ではないということから話さなければならないと思う。
「聞いた限りだと、その八城さんって人が武本くんに何かをした。偶然、八城さんの姿を見かけた武本くんが、我慢ならずに殴りかかった。そういう風に聞こえる」
「おそらくな」
僕は昭雄に非があるとは思っていない。
あいつはおちゃらけた奴だけど、人を傷つける真似だけはしない。そう信じている。
「でも、八城さんという人も、悪いことをしたように思えない」
真白は冷静にそう言った。
今は彼女の客観的な意見も必要だと思う。特に俺の秘密を知る彼女は理解も早い。
「全ては、武本くんのお兄さんが知っているかもしれない」
真白がそう言った後、僕はずっと東屋の隅っこで、僕らを見下ろして立っている霊を見た。
何かを訴えずにはいられない。そんな顔をしている。
これまで交信してきた霊は大抵、そういう顔をしてきた。
「今は、その人の話を聞くべきだと思う」
真白はようやく僕の方を見つめてきた。
「この人が武本くんではなく、八城さんのいるお店の前にいて、且つ八城さんに触れた後で見えるようになったというのも、少し引っかかるから」
「うん」
真白の言う通り、僕は今まで昭雄と一緒の時間を多く過ごしてきたのに、昭雄の兄を名乗るこの霊の影を全く感じなかった。
よりによって、なぜ八城さんに触れてから見えるようになったのか。そして、何が彼を「太陽書堂」に結びつけているのか。
「あなたは、昭雄のお兄さんなんですよね?」
霊に向かってそう聞くと、彼はこくりと頷いた。
「名前は?」
「たかひろ」
霊はか細い声で名乗った。
確か以前に美咲が、昭雄が兄を交通事故で亡くしたという話をしていた。名前までは知らないけれど、そういうことになっている。
「たかひろさんは、なんで『太陽書堂』にいたんですか?」
そう尋ねると、霊は顔を俯かせて言った。
「あいつがいたから」
「八城さんのことですか?」
さらにそう尋ねると、少し間を置いた後にたかひろさんは頷いた。
どうやら、たかひろさんが見えるようになったのは、八城さんが関係しているとみて間違いないようだ。
「八城さんとはどういう関係?」
すると、今度は真白が尋ねてきた。僕が見ている方向を、同じようにじっと見つめて。
たかひろさんにも真白の声は聞こえている。霊は生きている人の言葉は聞き取れるけれど、向こうから発信することはできない。だから、僕がこうして通訳のように間に立っているわけだ。
「・・・・」
たかひろさんは答えなかった。
僕は真白の方を向いて首を横に振った。
「嫌な思い出でもあるの?」
しかし、真白はさらに追求してきた。
「とてつもない怒りや憎しみがあるとか?例えば死に追いやられる程の」
「おい」
僕は真白の追求を制止する。
たかひろさんは黙ったままだが、寂しそうな笑みを浮かべている。
「・・・昭雄と話をさせてほしい」
そして、真白の質問に答える代わりに、そう呟いた。
「あいつと、もう一度話がしたい」
たかひろさんは僕の方を見た。寂しそうな笑顔はそのままだが、彼から途方も無い切実さが伝わってきた。
「わかりました」
僕は頷いた。
「明日、昭雄と話ができるようにしてみます」
そう約束すると、たかひろさんは笑顔で頷き、僕が瞬きをした瞬間にはもういなくなっていた。
直後に、体から空気という空気が抜けていく感覚に襲われた。
「大丈夫?」
真白が心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。
「顔色、悪いよ?」
「ああ」
疲労感がとてつもなかった。真白の部屋での時みたいに鼻血は出ていないようだが、やはり体からエネルギーが失われた気がする。
バイト終わりの疲れも相まって、しばらく動けそうになかった。
ベンチに深くもたれかかり、少しずつ呼吸を整えた。
「雨、まだ止みそうにないね」
真白は外の方を眺めながら呟いた。
「もう少し、待つしかないね」
そして、少しでも暖を取ろうとするかのように、僕の横にぴたりと体を近づけて座ってきた。
女の子特有の、いい香りがした。
でも、真白という一人の女の子が密着しているという現実に、高揚と緊張を覚えられるほど、今の僕の体調に余裕はなかった。
真白はそのままゆっくりと目を閉じる。
僕も瞼を閉じて、少しでも体力を回復させることにした。
雨音が妙に心地よくて、眠りにいざなわれるのに時間はかからなかった。
真白がたかひろさんに追求したことについては、僕にも思い当たることはある。
霊は強い思いをこの世界に残すからこそ、そこに結び付けられる。
自分が死んだ場所や死に関係する人。または未練が残っている物、そういう思念の強いものの側にいるものなのだ。
中学生まで仕事をこなしていく中で、僕はこの力についていくつかの法則を知った。
この力をもう二度と使うことはないから、自然と頭の隅に追いやられていった知識だったけれど、またこうして思い起こそうとしている。
僕がこの力を使った仕事を始めたのは、小学校6年生の頃だった。
ちょうど、僕に霊と話す力があることを知った母が、僕を気味悪がってあちこち病院に連れて行こうとした頃である。
中学生だった兄は人間関係を構築する手法に長けていた。生まれた頃から、こうすれば人が自分になびくという術を知っていた。
でも、所詮それは自分にとって有益だと思う人間に向けられたもので、兄の欠点は自分より弱いと思った人間に対してはとことん虐げる嗜好があったことだ。
僕も兄のその嗜好の犠牲者だった。
玩具もお小遣いも本も、ありとあらゆる物を奪い取られ、僕の物だったそれらを、兄の許可なく持ち出すことは禁じられた。
兄の宿題の手伝いをさせられることもあったし、酷いときには兄が友人たちを呼んで、僕をストレスのはけ口にいじめたこともある。
僕は時間すらも兄に管理されていた。
兄のために時間を割いたことで、自分の宿題も勉強もできず、学校で先生に何度も叱られた。
そんな僕を、両親は出来が悪いと見るようになり、その分の愛情は兄に注がれた。
全てが、兄の思惑通りだった。無力な僕には、抵抗する力などなかった。
そんな兄が、僕の力に気づいて提案してきたのが、霊感商法だった。
「俺のクラスメイトに事故で弟を亡くした奴がいてさ」
放課後、僕を呼び出した兄は、唐突にそう切り出した。
そして、僕をある一軒家へと連れ出した。
「そいつ、事故の前日に弟と喧嘩したらしくて、どうしても謝りたいって言ってんだよ。だからな」
僕の肩に腕を回し、兄はニヤニヤと笑いながら言った。
「お前の力でそいつの弟に話をさせてやってくれよ」
それだけなら、僕も悪い気はしなかった。
だが、兄はそれを金儲けの手段にしようとした。
「あいつからはすでにもらうもんもらってんだ。今更断るなんてことはしないよな?」
兄の腕に力が入り、僕は息が苦しくなった。
反対しようにも、後で兄に何をされるかわからない。だから、僕は断れなかった。
「でも、うまくいくかどうかわからないよ?」
「その時は適当に誤魔化せばいい。弟はもうお前を許してやってるとかな」
「そんな・・・」
「要は辻褄が合えばいいんだよ。それにやらないって選択肢はもうないんだ」
切実な思いを抱える人たちに対しても、そして親族を亡くした人たちに対しても、そして亡くなった魂に対しても、今思えば冒涜のような行為だったと思う。
「うまくいったら、報酬の1割はお前にやるよ」
しかし、僕は逆らえなかった。兄に対しても、兄がちらつかせた条件に対しても。
最初に仕事に行った家で、僕は兄のクラスメイトの女の子と対面した。真面目そうだけど、整った顔をした子だった。
その子はすがるような目で僕を見て、「お願いします」と深々と頭を下げられた。
そんな対応をされてしまえば、男である僕もなんとかしたいと思ってしまった。
その時、僕は生まれて初めて女の子の手に触れたが、雑念を取り払って意識を集中させた。
弟の姿が現れて、僕はあの世との通訳に回った。
霊となった弟は、自分が死んだことを申し訳なく思っていて、姉であるその女の子は、涙ながらに弟と会いたいと叫んだ。
まるで、霊能力者が登場した心霊番組の一幕のようだった。
互いの言葉を介しているうちに、僕も2人の想いがシンクロして、涙を流してしまった。
最後は喧嘩のことなんてどうでもよくなり、最終的にいつか天国で待っている的な話に落ち着いた。
最初の仕事は涙ちょちょぎれる成功体験に終わった。
「ありがとな」
家を出た後に、兄は僕に千円札を一枚渡した。
「この調子でどんどん稼いでいこうぜ。俺たち2人なら、すぐに大金持ちになれる。そのうち、テレビに出演できるかもな」
兄は満足そうに僕に肩を叩いて笑った。
その時、僕は不思議と兄のことを好きになれた。
今まで兄にされてきた底意地の悪い行いを全て許してやれそうにもなった。僕は初めて、兄に弟として認められた気分になった。
兄にとっては、僕は黄金を呼ぶ案山子でしかなかったのだろうが、それでもよかった。この仕事を続けていれば、僕らは兄弟という絆を確かめられる。
そんな浅はかな期待を抱いてしまった。
それからは、兄が仕事を持ってきて、僕が実際の仕事を行うという流れができた。
ある時からは、兄に信頼されるようになって、一人で仕事に行くことも増えた。
死者と遺族には申し訳ないが、僕は充実していた。
残された者に思いを伝え、死者に遺族への気持ちを介してやる。その仕事にそれなりに意義も見出していた。
何より、その仕事を通じて得る兄弟らしさを僕は噛み締めていた。
すべてが順調だった。両親にもバレている様子はなかった。
でも、やはり僕らは罰当たりなことをしていたんだと思う。
思えば、あの出来事は僕らへの天罰だったのかもしれないと、今になって思うのだ。
ゆっくりと瞼を開けると、雨はすっかり止んでいた。
代わりに、周囲は真っ暗で、時折車のヘッドライトが行き交っていた。
肩に重さを感じて横を見ると、真白の頭が乗っていた。
僕に体を預けて寝息を立てている。
なぜかその状態に驚きはしなかった。それよりも、今が何時なのかの方が気になった。
腕時計を見ると、すでに7時を回っている。もうすぐ夕飯の時間だ。
「おい。起きろ」
真白の肩をそっと揺すると、「ん」と一言唸って、真白はゆっくりと頭をもたげた。
そして、ぼうっとした顔で僕の方を見る。そして、改めて自分がどういう状態だったのか気がついたのか、目を見開いた後にさっと顔を逸した。
「ごめん」
そして一言謝って、また黒いマスクで口元を覆った。
「別にいいよ」
僕は立ち上がり、立てかけておいた自転車に手を伸ばした。
サドルはすっかりびしょ濡れになっていた。
「雨も止んだし、そろそろ帰らないと」
「うん」
真白は僕と顔を合わせずに立ち上がり、そのまま東屋を出た。
僕も自転車を押しながら、真白の後を追った。
僕らの間に沈黙が漂った。
僕がというより、真白が沈黙を望んでいるかのようだった。
「明日、昭雄に話をしてみる」
だけど、僕はその沈黙を破ってみた。
なんだかずっと黙ったままというのもあれだし、それに夜の道を静かに歩くというのも、なんだか心細い。
「その方が良いと思う」
真白も間を置いてからそう答えた。
「あのさ」
僕は遠慮がちに真白に頼んだ。
「できれば、その場に君もいてほしいんだけど」
真白は僕の方に顔を向けて、意外そうに目を見開いた。
「どうして?」
「だって、昭雄にどう説明したらいいのかわからないし。あいつには、まだ僕の秘密は話してないから」
「そうなんだ」
今度は真白は目を細めた。そして前を向き直る。
「だから、一人でも証人がいるといいなって思って」
「私なんかにそんな役割が務まるとでも?」
「でも、他にいないし」
確かに、真白一人がいたところで、僕の秘密を昭雄が信じてくれるとは思えない。
でも、たかひろさんと約束した以上、昭雄には納得してもらった上でたかひろさんと話をしてもらわなければならない。
今はそれが、僕ら3人の関係を修復するきっかけになるかもしれないという期待があるから、やっぱりやり通すべきだと思っている。
「・・・明日の夕方」
すると、真白は小さな声でそっと言った。
「あの喫茶店に行くから、その時にでも」
「ありがとう」
僕は軽く笑みを作った。
真白が話に乗ってくれたことも嬉しかったけれど、彼女も割と律儀なところがあるのだということもわかって、少しほっとなった。
「私、君に仲間に誘ってもらえたこと、実はちょっと嬉しかった」
「えっ?」
真白は空を仰ぎながら、そう呟いた。
「正確には、嬉しいっていう感情を思い出させてくれたのかな。私なんかにそういう感情はもうなくなったって思っていたのに」
真白は目を細めて夜空を見つめている。
マスク越しでにも、笑っているのがわかった。
「私も人間なんだってことがわかった。どんなに孤独でいようとしても、人との繋がりを欲せずにはいられない。ただのちっぽけな人間なんだって」
まるで、それまで自分が人間以下だったとでも言いたげだった。
「だから、君に協力するのはそのお礼。一応感謝してほしい」
「・・・すまない」
感謝しろと言われたのに、僕は謝罪を吐き出した。
「さっき、酷いことを言ってしまって」
「別にいいよ。あれも事実だから」
真白はしれっとそう答えた。
やがて、僕の家の前にある橋が見えた。
「それじゃあ、ここで」
真白は橋の手前の分かれ道の方に向かうと、一度振り返って僕に手を振った。
「また明日」
「ああ」
そのまま、真白はゆっくりと旅館までの暗い道のりを歩いて行った。
郡山真白。
最初は身も心も冷たい人間だと思っていた。でも、それは彼女が纏っていた一面に過ぎなくて、その氷の中には、割と普通の人間が閉じこもっていた。
今、僕は真白の氷を溶かそうとしているのかもしれない。
溶かした先に何があるのかはわからないけれど、溶かすのをやめる気にはなれなかった。
予報によると、台風は明日には方向を北に変えて過ぎていくらしい。
今日は雨や風はないものの、灰色の雲が陰鬱と空を覆っていた。
昨日の言葉通り、昭雄は出勤していた。
しかし、その顔にはどこか疲れが滲んでいるようにも見えた。
そのことを指摘したくても、僕はなかなかできなかった。休憩中に昭雄と話をしたくても、あいつはまるで僕と会話をすることを避けたいという雰囲気を漂わせていた。
それでも、接客のときはいつも通りの屈託のない笑顔を浮かべていたし、常連客とも冗談を交わす場面もあった。
「今日はお客さん少ないだろうから、少し早めに上がっていいよ」
昼を過ぎた頃に、野木さんが読んでいた新聞を畳みながら僕らにそう言った。
このお店、売上は本当に大丈夫か?とも思うが、どうやら夜はバーもやっているらしい。
「昭雄」
僕は最後のお客さんが利用していたテーブルを拭いていた昭雄に、そっと声を掛けた。
「ん?」
「今日はこの後、どうするんだ?」
「ああ。俺、ちょっと用事があるんだ」
「そうか」
昭雄は右手で首筋を掻きながらそう言った。
その時、僕はふと店内の隅で直立不動だった、たかひろさんに目線を向けた。
昨日の約束を待っているのか、彼はずっと店内で僕らの様子をじっと伺っていた。
たかひろさんは、ふるふると首を横に振った。
「隠し事をするとき、あいつは首筋を弄るんだ」
たかひろさんはそう呟いた。
どうやら、用事があるというのは嘘らしい。
やはり、僕と話をすることを避けているのだろう。
それでも、僕は昭雄と話をしなくてはならない。そろそろ彼女も店に来る頃だ。
「ん?」
野木さんが店の外に目を向けた。
3時ちょうどに、ドアの開く音が鳴る。
真白はゆっくりとドアを閉めた後、野木さんに優雅にお辞儀をした。
黒いワンピースを着ている所為か、葬式にでも行ってきたような雰囲気を纏っていた。
「やあ、いらっしゃい」
野木さんは無表情な真白に、相変わらず満面の笑みを向けていた。
「テーブル席は空いていますか?」
「うん。どうぞ」
真白が小さな声で尋ねると、野木さんは奥のテーブル席に彼女を促した。
テーブル席に腰掛けた真白のもとに、昭雄がさっと注文を取りにやってくる。
「この店、気に入った?」
「ええ。そうね」
「注文は何にする?」
「ブレンドコーヒーのホットで」
「外、蒸し暑かったけど、今日もそれでいいの?」
昭雄が何気なくそう聞くと、真白はじっと昭雄の顔を見つめた。
「・・・あっ、ごめんごめん!余計なことだったよな!」
おそらく、真白が「いいから黙ってもってこい」と無言の圧力を掛けてきたと思ったらしい。昭雄は戸惑いながらそう弁明し、さっさと注文を取りにカウンターへと引っ込んでしまった。
その後、僕が真白のもとに近づいて、そっと声を掛けた。
「さすがに圧を掛けすぎだろ」
「圧なんて掛けてない。ちょっと戸惑っただけ」
どうやら、急に質問をされたことに驚いたらしい。
「私、無表情だから、人から勘違いされやすいの」
「あー、なるほど」
こういうのを不器用というのだろうが、自分でそれがわかっているのならば、改善しようとは思わなかったのか。
いや、それができないから、不器用なのだろう。
「はい。ホットコーヒー」
そこに昭雄がトレイにコーヒーカップを乗せて持ってきた。
ゆらゆらと湯気を立たせるコーヒーを受け取ると、真白はすぐに一口飲んだ。
「・・・私、冷え性なの」
「えっ?」
カウンターに戻ろうとした昭雄は、真白に声を掛けられて振り向いた。
「体質的に寒がりなんだけど、過去にあることをしてから体の温度調節ができなくなった」
「・・・えっと、そうだったんだ」
昭雄は苦笑いを浮かべた。
僕は以前に真白からそういう話を聞いていたものの、後天的に温度調整ができないことは初めて聞いた。
「それはともかくとして」
コーヒーカップを静かに置いた真白は、昭雄の方に顔を向けた。
「この後、少し時間ある?」
「えっ?」
「実は、ちょっと話したいことがあるの」
思わぬアプローチに、昭雄は戸惑いながら笑っていた。
「えっ・・・まあ、ちょっとなら別にいいけど。ていうか、郡山さんなら大歓迎!」
「そう。よかった」
どうやら、照れ隠しで笑っているようだった。
昭雄はたぶん浮かれている。
その後も、早めにバイトが終わるまで、鼻歌なんか歌いながら、ご機嫌さを隠さなかった。
野木さんもそんな昭雄を見て、やれやれと肩をすくめている。
さっき僕が真白と同じ質問をしたときは、用事があるなんて言っていたのに。
どうやら、僕と話をするのは憚れるけれど、女の子なら話は変わってくるらしい。
僕は呆れつつも、嘘を吐くほどに僕との時間を拒むということに、ただならない思いを抱えた。
「・・・で、なんでお前らまでいるんだよ」
早めに店じまいした後、野木さんは気を使って外出した。
それと入れ違いで、美咲も店にやってきた。バイト終わりに店に来てほしいと、僕が連絡しておいたのだ。
僕たちはこうしてテーブル席に腰掛けている。ちょうど、僕と真白が昭雄と美咲と向かい合っている状態だ。
「僕もお前と話がしたかったんだ」
「いや、だからって今じゃなきゃだめなのか?」
何かを期待していた昭雄は不服そうに顔を歪めた後、気づいたようにはっとなった。
「まさか、お前ら最初から・・・」
「悪い。郡山さんにも協力してもらった」
「くそっ」
昭雄は舌打ちをして僕らから顔を逸した。
「それで、私まで呼び出して、何の話?」
美咲はよくわからないという顔をしている。
微妙な空気の中、真白は本題に入ろうとした。
「今日は武本くんと話をしたいって人がいるの」
「えっ?俺に?」
「まさか、他にも誰か呼んでるの?」
戸惑う昭雄と美咲に対し、真白はふるふると首を横に振った。
「実は、もうここにいる」
僕は部屋の隅でこちらをずっと見つめている、たかひろさんを一瞥しながら言った。
僕の視線に気づいた美咲は、背後を振り向くものの、当然ながら彼女にはたかひろさんのことは見えない。
「えっ!なになに?怖いこと言わないでよ!」
冗談と思っている美咲は半笑いを浮かべるが、僕が真剣な表情のままであるのを見て、みるみる顔を引きつらせた。
「僕、まだ2人に言っていないことがあってさ」
今まで隠してきた事実を語ろうとしたものの、なかなか声が出なかった。
胸の奥がむくむくと痛み、言葉を出そうにもストップが掛かってしまう。
いつかはこういう日が来るかもと、心のどこかでは思っていた。でも、いざその瞬間になると、こうも踏ん切りがつかないものなのか。
「彼には幽霊が見えるの」
だが、そんな僕に代わって、真白が静かに言葉を紡いだ。
「見えるだけじゃなくて、話もできる」
その場がしんと静まり返り、時計の針の音だけが響いた。
「えっ?冗談だろ?」
昭雄も美咲も、愕然とした表情をしていた。
僕はひとまず、首を横に振った。
時間が止まったように沈黙が支配した。
「・・・武本くんと話したがっているのは、君のお兄さん」
「は?」
そんな沈黙を、真白は思わぬ形で破った。
それこそ、ガラスをハンマーで叩き割るかのような破り方だった。
「お兄さんが、どうしても君と話がしたいって言ってるの。五島くんを通じて・・・」
「あのさ」
真白の言葉を遮った昭雄は、真白を見据えていた。目を見開いて、固い表情を浮かべて。
「冗談でもそれはねえよ。俺の兄貴のことをネタにすんのやめてくれないか?」
「冗談ではなくて・・・」
「もういいよ」
昭雄は乱暴にテーブルに手をついて、そのまま自分の荷物を手に取り、立ち上がった。
「昭雄」
僕が呼び止めても、昭雄はさっさとドアを開けて出ていってしまった。
「・・・ちょっと、昭雄!」
美咲がさっと席を立って昭雄を追いかけた。
僕も席を立とうとしたが、結局追いかけられなかった。
今の昭雄には、どんな言葉をかけても無駄だと思ったから。
僕は力なく溜息を吐くしかできなかった。
「・・・ごめんなさい」
隣で真白がそう呟いた。
横目で真白を見ると、彼女はぼうっとした目で俯いて、テーブルをじっと見つめていた。
「・・・・」
僕は何も声を掛けなかった。
不器用な真白より先に、僕が自分の口で説明するべきだった。それができなかった不甲斐ない僕の所為でもある。
しばらくして美咲が戻ってきた。項垂れた僕らを見て、彼女は深々と溜息を吐いた。
「どうするの?あんなことして」
そして、僕らに鋭い声で言った。
「あいつのお兄さんのこと、話題にするなって言ったよね?」
ここで弁明しようとしたが、逆効果になると気づいて、すんでのところで言葉を飲み込んだ。
「あんな変なこと言われたら、あいつだって怒るに決まってるじゃん!」
「・・・ごめん」
美咲の顔を凝視できず、僕も真白と一緒にテーブルに視線を落とした。
謝罪ぐらいしか、言葉が思いつかない。しかも、その謝罪の相手は、美咲ではなく昭雄に向けるべきなのに。
僕はただ、僕らの関係を修復したかった。昭雄の悩みを、なんとかしてやりたかった。それだけなのに。
「・・・全部話してよ」
凍りついた空気の中で、美咲が声を発した。
「こんな事態になった理由を全部。2人が冗談でこんなことするはずないだろうから」
一旦落ち着こうとしたのか、美咲は深呼吸をしてからそう言った。
「私だけ何も知らないなんて、いい加減許さないからね」
カウンターからインスタントのコーヒー缶を拝借し、ドリップして3人分注いだ。
野木さんから、自由に飲んでいいと言われていたものだ。
「おまたせ」
真白と美咲にそれぞれコーヒーを渡し、一息ついた。
美咲には僕から順序立てて事の詳細を話した。
僕が幽霊と交信できること。真白から依頼されていること。昭雄が八城さんに突然殴りかかったこと。
美咲は険しい顔でそれらを全て聞いていた。口を挟まず、頷きもせずに。ただ、目線だけは僕と真白の方を交互に動かしていた。
「・・・信じられない内容だけど、その様子だと本当なんだよね?」
美咲はコーヒーを一口飲んだ後、そう切り出した。
「ああ」
僕は静かに頷く。
「なんで、私と昭雄に黙っていたの?」
「・・・・」
「どうせ話しても信じてくれないと思った?」
「違う」
美咲の言葉を、僕は強く否定した。
「こんなこと、正直に打ち明けたらきっと引くと思ったんだ。きっと、二人共気味悪がって離れていくと思った」
「私達がそんな薄情な人間だって言いたいの?」
「それも違う。そう思ったのは最初の頃だけだ。いつしか、話すタイミングも失くしたし、話す必要もないくらい、能力を使うことがなかったから」
「ふーん」
美咲は微妙な表情をしている。心底納得していない感じだった。
確かに、僕はまだ隠していることがある。僕がその力を使って、兄と汚い商売をしていたことは話していない。
彼らにそれを話して拒絶されるからではない。僕自身があの頃のことを忘れたいから、話したくないのだ。
「今さ」
美咲はコーヒーカップを両手で包み込むように握った。
「今、昭雄のお兄さんがいるんだよね?」
そう聞かれ、僕はたかひろさんの方を一瞥した後、「ああ」と答えた。
「じゃあ、お兄さんが死んだのはいつ?」
「え?」
「能力が本物なら、お兄さんに聞いてみてよ」
どうやら、僕のことを試したいらしい。これまでの話が本当のことなのか、証明してほしいようだ。
僕がたかひろさんを見ると、彼は僕に向かって、静かな声で話し始めた。
「・・・8月3日。7時過ぎに、踏切に入って電車に轢かれた」
僕がたかひろさんから教えてもらったことをそのまま伝えると、美咲はびくっと体を震わせた。
「自分から線路に入って、大の字になって・・・」
「もういい」
美咲は顔を逸して僕の言葉を遮った。苦悶の表情を浮かべ、肩で息をしていた。
「・・・自殺だったのか?」
少し間を置いてそう聞くと、美咲は小さく首を横に振った。
「詳しいことはわからない。ただ、あいつのお兄さんが、その日に電車に轢かれて死んだのは本当」
彼女は他にもたかひろさんの身に起きていたことを知っていた。
「・・・噂に聞く限りだけど、昭雄のお兄さん、部活が辛かったみたい」
そこから、美咲はぽつぽつと語り始める。
あくまで自分が知る限りのことを。
「バスケ部の主将としてチームを引っ張っていたみたいだけど、ある日を堺にメンバーとの折り合いが悪くなって、孤立しちゃったんだって」
「それは、いじめってこと?」
そう聞くと、美咲はふるふる首を横に振った。
「わからない。でも、私はたかひろさんのことは知ってる。昭雄と同じく社交的でノリの良い人で、メンバーともうまく付き合っていける人だった。なんでそんなことになったのかはわからない」
美咲から聞けることはこのくらいだろう。
僕は真白と顔を見合わせた後、深呼吸して考えをまとめることにした。
「ひとまず、どうやって昭雄とたかひろさんを引き合わせるかだけど」
「あの様子だと、取り付く島もなさそうね」
僕と真白はそう言って、目線を上に上げた。
美咲も腕を組んで考えあぐねている。
「そもそも、たかひろさんはなんで昭雄と話したいのかな?」
小さな声で美咲は疑問を口にした。
「それは・・・」
僕は答えようとしたものの、言われてみればその理由を当の本人から聞いたわけではない。
大抵、死者もまた、残された者に伝えたいことがあって現れる。それは以前の仕事を通じた経験則だったが、なぜ伝えたいことがあるのかまで、僕は考えたことがなかった。それが当たり前だと思っていたから。
「・・・昭雄に、何を伝えたいんですか?」
僕は改めてたかひろさんに聞いてみた。
たかひろさんは目を閉じた後、こう答えた。
「昭雄を助けてやりたい。あいつを、呪縛から解放してやりたい」
「解放?」
「・・・兄である俺自身からだ」
そう答えるたかひろさんは、真剣な眼差しで僕を見据えていた。
バスに揺られること10分。僕ら3人はなんの変哲もない国道沿いの停留所で降りた。
停留所の後ろには小さな雑木林と空き地があって、ビニールハウスが3つほど建てられていた。
5時とはいえ、曇り空の所為で辺りは若干暗かった。
「あいつ、本当に来ると思う?」
美咲は周辺を見渡した後、訝しげにそう言った。
「とりあえず、待っていよう」
僕はそう答え、空き地へと歩き出した。その後を真白が黙って付いてきた。
今から30分前、まだ店にいた時にたかひろさんから、この停留所のことを伝えられた。
「3つのスツール。バッテンの下。俺たちのお気に入り」
たかひろさんは、まるで謎掛けのような台詞を口にした。それを昭雄に伝えれば、あいつならわかるとも言った。
なんのことかはわからなかったが、昭雄にチャットで連絡を取り、たかひろさんの言葉をそのまま伝えてみた。
しばらくして昭雄から、この停留所で落ち合おうと返信があった。
「こんな場所と昭雄になんの関係があるわけ?」
「さあな」
美咲も僕もちんぷんかんぷんだが、たかひろさんがこの場所のことを口にして、且つ昭雄が突然会おうとしてきたのだから、何かしら関係があるのは確かだ。
「ねえ。その暗号、私達で解いてみない?」
美咲がふてぶてしく笑って言った。
「あいつが来るまでの退屈しのぎにさ。あいつが何を隠してるのか、知りたいし」
「うーん。そうだな」
僕も気になっていたが、勝手に秘密を解いて良いのか。
「3つのスツール」
考えあぐねている横で、真白が何かを指差して言った。
「あれのこと、かな?」
僕と美咲が視線を這わせると、ビニールハウスの後ろに、丸太でできた椅子が、三角形の点を作るように配置されているのが見えた。
「ああ。確かにスツールっぽいね。郡山さん、ナイス」
美咲は真白に笑いかけた。その反応に、真白は「別に」と顔を背けた。
仕方ない。ちょっと探してみるか。僕も気にはなっていたし。
「行ってみよう」
早速、3つの丸太のスツールに近づいてみた。地面が雨で泥濘んでいたので、慎重に一歩を踏み出す。
近づいてよく見てみる。小さい頃に祖父が同じような丸太の椅子を作ってくれたことを思い出した。家の裏山で切った木材で作ったお手製の椅子だった。
今はもうどこにあるのかはわからなくなってしまったけれど。
「3つのスツールっていうのは、これで間違いないな」
僕らはその辺りを見回してみた。でも、これといって何かがある感じはしない。
「あとは、バッテンの下と、俺たちのお気に入り、だっけ?」
残りの暗号を口にして、美咲は考え込むように腕を組んでいた。
僕ももう少し周辺を探してみるが、特に何かがある様子はない。
「バッテンといえばさ。小学校の頃に読んだ本で海賊の宝の地図にそういうのがあった」
「は?」
僕が何気なくそう呟くと、美咲は呆れた感じの声を上げた。
「ほら、海賊が宝の在処を記した地図には、宝の隠し場所の上にバッテンのマークを書いてたりするだろ?」
「へー、だから?」
「いや、だからその・・・こういう地面とかにバツ印がないかなって思って」
そう呟く僕を、美咲がじとっとした目で見つめてきた。「何言ってんだ、こいつ」とでも言いたげな表情である。
「夢見すぎでしょ?そんな子供っぽいこと・・・」
「いや、子供だとしたら?」
美咲の言葉に、真白がそう被せてきた。
「私たちにはなんのことかわからないけれど、武本くんとたかひろさんにはわかっている。こういうのって、2人にしかわからない暗号みたいなものでしょ?子供の頃、そういうものに憧れなかった?」
「えー、でもさ」
真白の指摘に、美咲は辟易するような顔をした。
「例えそうだとしても、ベタすぎでしょ?バッテン印の下に宝物とか」
「子供の発想だとしたら、凝ったことはしないと思う」
意外に思った。
真白はそういう子供の抱くロマンには、縁もゆかりもない性格だと思っていたから。
彼女から男子の心をくすぐるような話が出てきて、ちょっとびっくりしている。
「というか、見る限りそれっぽい印なんてないけれど」
美咲も僕も見回したが、地面にも丸太の上にもバッテンなんて書かれていない。
だとしたら、「バッテンの下」というキーワードには、別の意味があるのだろうか。
「やっぱり、そんなベタなオチじゃないでしょ」
美咲は腕を組んで溜息を吐いた。
「やっぱり、あいつに聞いた方が早いかな?」
「でも、今の武本くんが正直に話してくれるとも限らない」
そんな美咲の言葉に、真白が間髪入れずに反論を入れた。
「だよねー」
半ば投げやりな美咲と、思いの外真面目に取り組もうとしている真白。
2人の性格が、入れ替わったようだった。
「・・・入れ替わる」
気づいたら声に出していた。
「ん?なんか言った?」
僕は近くにあった丸太を手に持ってみた。
そんな単純なわけないと思いつつ、丸太の一つを持ち上げて上下をひっくり返してみる。
丸太の底にはやはり何もなかった。置かれていた地面にも、それらしいものはない。
「何してんの?」
美咲の問いかけに僕は答えず、もう一つの丸太を同じようにひっくり返した。
やはり何もない。
やっぱり、そんなわけはないか。
丸太にバツ印が書かれているとか、そんな簡単なものではないだろう。
でも、真白の言葉を振り返る。
子供の発想で考えることだ。それにあまりに複雑にしてしまえば、いざというときに自分が見つけられなくなる。
・・・いや、僕は何を真剣になっているんだろう。
最後の丸太を半分まで持ち上げようとして、僕は手を離した。
そもそも、暗号の意味が、宝の隠し場所を示しているとも限らない。
まあ、それを言い出したのは、他でもない僕なんだけれど。
わざわざ手を泥と木くずで汚した甲斐なんて、全くなかったのだ。
「待って」
だが、僕が持ち上げようとした丸太を、真白が凝視していた。
「今、地面になにかあった」
「え?」
まさかと思いつつ、僕はもう一度丸太を持ち上げてみた。
真白が丸太の置いてあった地面を覗き込む。つられて美咲も同じようにかがんだ。
僕は丸太を横に倒して置いた。
地面には、拳大くらいの白い石がめり込んでいただけだった。
なんだ。やっぱりそんなわけなかった・・・。
「あっ!バッテン!」
その矢先、美咲が丸太を指差して高い声を上げた。
指先を辿ってみると、丸太の底に不自然な丸い窪みがあって、十字が彫ってあった。
さらに十字の真ん中は取手のように隆起している。
「マジかよ」
「めっちゃ凝ってるじゃん」
僕も美咲も唖然とした。真白も普段より目を開いていた。
僕はその取手みたいな隆起を掴み、引っ張ってみた。
丸太の底が蓋みたいに取れた。
空洞になっていた丸太の中に手を入れると、何かビニール袋のような感触があった。
引っ張り出してみると、それなりの重量感のある、中身がわからないほど真っ黒なビニール袋が出てきた。口は固結びされている。
「なになに?あいつ、何を隠してたわけ?」
動揺する美咲と、刮目する真白の横で、僕はビニール袋の口をゆっくりと解いていった。
「あっ」
そして、中にあったものを見て、僕は思わず声を上げてしまった。
僕らが昭雄とたかひろさんの「お宝」を見つけて5分後に、昭雄は自転車を立ち漕ぎしてやってきた。
相当急いでやってきたのか、玉のような汗を流して、息も絶え絶えだった。
「・・・遅くなってすまん。あっ!」
そして、丸太の上に置かれている黒いビニール袋を見つけて、素っ頓狂な声を上げた。
「お前ら!まさか中身見て・・・」
「見たわよ。あんたたちのお宝。熟女ものにセーラー服。先生と生徒の秘密の関係とか」
美咲の軽蔑した視線に、昭雄は引きつっていた。
「3Pも好きなのね。しかもどれも巨乳で・・・」
「やめろ!それ以上言うな!」
昭雄は大声を上げて、がくりと地面に膝をついた。
「くそー!兄貴との秘密だったのに!完全に見つからないようにしていたのに!」
昭雄は拳で地面を叩いていた。
彼らのお宝(成人向けの雑誌や漫画)を見つけた時の美咲と真白の顔を、僕はたぶん一生忘れないと思う。
「すまん。お前の名誉のために隠しておくべきだった」
なんだか申し訳なくて、僕は昭雄に向かって頭を下げた。
「まさか、隠していたものがあんな卑猥なものだなんて」
しかし、美咲の非難は止まらなかった。
「本当に最低よね。何が入っているかと思いきや、どれもこれも破廉恥な本ばっかり」
「別にいいじゃねえか!俺だって健全な男子なんだよ!」
「どこが健全よ!SMものだってあったくせに!」
「それは兄貴の趣味だ!」
昭雄がそう言った後、たかひろさんは僕に向かって首をフルフルと横に振った。
「どいつもこいつも男って、性的な目でしか女の人を見れないんだね」
「そういうわけじゃねえって!」
「ふーん、どうだか。その歳でおっぱい離れできてないくせに」
「男ならみんな巨乳好きなんだよ!」
二人共ヒートアップしていき、昭雄に関しては冷静さを失っていた。
そこにわざとらしく真白が咳き込んだ。
美咲も昭雄もハッとなって真白を見る。
「ともかく、私達は武本くんとお兄さんの『秘密』を見つけたわけだけど、これが何を意味しているかわかるよね?」
「・・・・」
真白の指摘に、昭雄は俯いた。そして苛立ったように立ち上がり、丸太の一つに腰掛ける。
「誰に教えてもらった?」
「あなたのお兄さん」
「そんなわけねえだろ。兄貴は死んだんだ」
昭雄は真白をギロリと睨みつけた。しかし、真白は怯まずに昭雄をじっと見据えている。
「昭雄。本当なんだ。僕はお前のお兄さんと話ができる。嘘じゃない」
僕も昭雄を諭すように言った。昭雄は僕の方を見て、次に美咲を見た。
美咲は肩をすくめて、「本当みたい」と答えた。
深い溜息を吐いた後、昭雄は項垂れた。
「確かに、これは俺と兄貴しか知らない秘密だ。他の人間にしゃべったことはない。ここだって、うちのばあちゃんの畑だし、小さい頃から俺と兄貴だけの遊び場所にしていた」
「俺たちのお気に入りってのはこういう意味もあったんだな」
僕がそう聞くと、昭雄は項垂れたまま頷いた。
「本当は、お前らが来る前に回収するつもりだったんだ」
「証拠隠滅?最低」
美咲は昭雄だけでなく、僕にまで軽蔑の眼差しを向けてきた。
何もかも諦めたように、昭雄は僕の方を見た。
「本当に、兄貴と話したのか?」
「ああ」
「兄貴はなんて?」
「お前と話がしたいって」
「そうか」
昭雄は口をきゅっと結んで、また俯いた。
「・・・兄貴は、俺の憧れだった」
淡々とした声だった。昭雄でも、そんな声が出せるのかと、少し意外に思った。
「小さい頃から、俺は兄貴の背中ばっかり追っかけていた。バスケを始めたのだって、兄貴がやり始めたからだった。少しでも兄貴に近づきたいっていうのが、俺の目標だった」
「仲がよかったんだな」
「そうだな」
昭雄は優しそうに笑った。たかひろさんの方も横目で見ると、彼もわずかに口角を上げて、昭雄を見つめていた。
「兄貴は、いつだって自分よりも他人を優先する人間だった。俺がいたずらをして母ちゃんに叱られたときも、兄貴は庇ってくれた。兄貴は俺の人生の半分を占めていたんだ。・・・兄貴が死んだ日から、俺は半分の自分を失った」
さすがに美咲も軽蔑の眼差しを向けてはいなかった。真剣に昭雄の話に耳を傾けている。
そこに、真白が食い込んだ質問を投げかけた。
「お兄さんに何があったの?」
「何って?」
「お兄さんが、死んだ理由」
昭雄はまた俯いて唇をぎゅっと噛み締めた。
どうやら、語ることは憚れるらしい。
「なあ、話したくなかったら別に・・・」
「いや。別にいいよ」
俺の言葉を遮って、昭雄はまた淡々と話し始めた。
ひぐらしが切なく鳴く中で、僕は昭雄が紡ごうとしている言葉を、一具一句聞き漏らすまいとしていた。
美咲も真白も、昭雄が話すのをじっと待っていた。
「バスケ部の兄貴は、本当にかっこよかった。試合中も練習中でも、周りのことを常に気にしていて、女子だけでなく男子からも慕われていたよ。顧問に怒られた後輩のフォローだって完璧だった。兄貴は、いわば皆の兄貴分だったんだ」
昭雄のたかひろさんへのリスペクトは止まらなかった。よほど信頼していたんだと思う。
昭雄の言葉だけ聞けば、たかひろさんは完璧な人間だった。
社交的で面倒見がよく、勉強もスポーツも万能。
話を聞く限りでは昭雄もたかひろさんの社交性は引き継いでいるのだと思った。
だからこそ、そんな人がどうして自殺なんてしてしまったのか。それが僕にはわからなかった。
「兄貴が高校のバスケ部の部長になってすぐのことだ。兄貴が校外で万引きをして捕まったんだ」
「えっ」
美咲は驚いていた。組んでいた腕をそっと下ろして言った。
「そんな話、聞いたことないよ。たかひろさんが万引きなんて・・・」
「学校側がなるべく隠そうとしたんだ。俺たちはまだ中学生だったし、そこまで噂は大きくならずに済んだんだ」
万引き。
今までのたかひろさんに関する話から全く想像できない言葉だった。
「家にも警察から電話がかかってきてさ。兄貴は他にも数件の万引きに関わっていたことがわかったんだ」
「そんな・・・」
「反省しているからっていう理由で、退学にならなかったけれど、部活は辞めさせられた。その日から、兄貴は虫けらみたいに周囲から扱われたよ」
どうやら、たかひろさんは停学処分を受けて、部屋に引きこもるようになったらしい。その間も、クラスメイトから彼に対するたくさんのメッセージが山のように届いたそうだ。
たまたま、昭雄がたかひろさんのスマホを覗いたところ、クラスメイトから彼を心配するメッセージの他に、部活仲間から今までの信頼を裏切ったことに対する非難も多数寄せられていたそうだ。
「俺がスマホを覗いた次の日に、兄貴は自殺した。あの日、兄貴は普段どおりだったんだ。朝、学校に行く前に、部屋のドア越しに兄貴と話しをしたんだ。特になんの変哲もない会話だった。・・・それが最後のやり取りになるなんて、夢に思わなかった」
たかひろさんの葬儀は粛々と行われた。
しかし、クラスメイトも担任も葬儀に参列したのに、たかひろさんの部活仲間や顧問だけは葬儀に来なかったという。
「俺は納得できなかった。まるで、兄貴がいたということすら完全に否定されたように思えたんだ。そもそも兄貴が万引きなんてするはずがない。絶対にありえないって。・・・だから、色々と調べたんだ」
たかひろさんの行いを認められなかった昭雄は、兄のバスケ部の仲間に聞き込みを行ったらしい。
しかし、誰に聞いてもその当時のことを語ろうとする人間はいなかった。まるで、誰かに口止めをされているように。
「話すことはない」と誰もが口を噤んだが、それでも昭雄は頭を下げ続け、執念深く真相を追求し続けた。
そんな彼の姿勢を見て、次第にメンバーの何人かは、たかひろさんに何があったのかを少しずつ話し始めた。
「聞いた話を総合すると、兄貴は万引きをしていない。真犯人に濡れ衣を着せられたんだ」
もともと、たかひろさんはキャプテンになってから、色々と悩みを抱えていたらしかった。
たかひろさんの面倒見の良さと、人をまとめる才能に関して顧問は評価していたし、仲間たちもそれなりに信頼を置いていたが、一部ではそれを面白いと思っていない連中がいた。
それが、副キャプテンだった八城翔平とその一派だった。
「兄貴はチームをまとめるために、八城と仲良くしようとしていた。でも、八城はそんな兄貴に突っかかってばかりだった」
「どうして?」
「奴がキャプテンに選ばれなかったからさ」
美咲に聞かれると、昭雄は苦々しく答えた。
「兄貴がチームとして皆の力を信じるタイプだとしたら、八城は自分の思い通りにチームを動かしたいタイプだった。たぶん、顧問も2人がそういうタイプだとわかっていたし、兄貴の方がプレイヤーとしての実力も八城より上だったから、兄貴をキャプテンに指名したんだと思う。でも、八城はそれに反発したんだ」
それから、八城とその一派の反抗が始まった。
何かとたかひろさんに食って掛かる態度を取り、試合では敢えて指示通りの動きをしなかったり、物を隠すなどの陰湿な嫌がらせも行った。
「チームは兄貴を支持する人間と、八城の一派で二分されちまったんだ。そこに、あの事件が起きた。兄貴が万引きをしたことを最も非難したのは、当然ながら八城たちだ。でも、事実は違う」
僕がたかひろさんの方を見ると、彼は複雑な表情で昭雄を見ていた。
そして項垂れ、悔しそうに顔を歪め始めた。
「実際に、万引きをしたのは八城だった。以前からスーパーやコンビニとかで、奴を支持していたチーム連中とかと、万引きを繰り返していたんだ」
昭雄がたかひろさんのチームメンバーと話してわかったことは、主に2つだった。
まず、八城たちが以前から万引きを繰り返していたこと。そして、その罪をたかひろさんに擦り付けたこと。
昭雄は聞き取った内容をもとに、八城を問い詰めようとしたが、彼は相手にしようとしなかったらしい。
「どうやって擦り付けたかはわからない。もしかしたら、八城が最初から兄貴を嵌めようとしていたのかもしれないし、たまたま兄貴に罪を被せようとしたのかもしれない。ともかくも、奴は兄貴が部活を退部させられた後、バスケ部のキャプテンになって、兄貴の死後も何事もなく過ごして、卒業して大学まで行ったんだ」
昭雄は悔しそうに顔を歪ませて言った。
「奴の家はそこそこの金持ちで、市の教育委員会に親族もいるらしい。そんな家柄だから、いくらでも万引きの事実を揉み消すことはできたんだろうな。奴はきっと、親族の力で兄貴に罪を擦り付けて、兄貴の存在自体いなかったみたいに、部員と顧問に圧力をかけて葬式に参列させないようにもしたんだ。兄貴は自殺にまで追い込まれて、奴は悠々自適に過去を忘れて生きながらえている。そんなことって許されないだろ?」
「だから、『人殺し』か」
太陽書堂で昭雄が叫んだ台詞を思い出す。
ここまで聞けば、たかひろさんは八城によって殺されたも同然だった。
「・・・奴に報いを受けさせたかった。でも、奴は高校卒業と同時に町から逃げるようにいなくなった。たぶん大学に進学して上京したからだと思う。そうなると俺も何もできない。だから、復讐は思いとどまったんだ。思いとどまっただけで、奴を許したわけじゃない。奴は、兄貴を殺した男なんだ。絶対に許せない」
僕たちはなんと昭雄に声を掛けたらよいのか、わからなかった。
しばらく沈黙が流れた後、ふと横で声がした。
「・・・少し違う」
「えっ?」
いつの間にか、たかひろさんの霊が僕の横に立っていて、昭雄を見つめて呟いていた。
「どうしたの?」
思わず声を上げた僕に、美咲が尋ねてきた。
「いや、たかひろさんが今いるんだけど・・・」
「兄貴が?」
昭雄ははっとなって顔を上げた。
「それは少し違うって・・・」
「えっ?どういう意味だよ?」
昭雄は立ち上がり、僕の方に歩み寄ってきた。
「なあ、兄貴は?兄貴はなんて言ってる?」
必死な顔で、僕の肩を持って問いただしてきた。
そんな昭雄に、真白が「落ち着いて」と珍しく通った声で制した。
「あっ、ごめん」
昭雄は項垂れて一歩後ろに下がった。
僕はもう一度、たかひろさんの方を見た。彼は柔らかい表情で、言葉を連ねていった。
僕は、それを一字一句、しっかりと昭雄に伝えようとした。
「まず、お前に謝りたいことがある」
たかひろさんは目を伏せながら言った。
「お前を残して死んだこと。そして、死んだ後もお前に苦労をかけてしまったことを」
たかひろさんの言葉を昭雄に伝えると、彼は目を見開いた。
「俺の所為で、大好きだったバスケまで辞めてしまったんだな。本当にすまない」
「いや!兄貴の所為なんかじゃ・・・」
「わかっているんだ。俺が死んだことで、お前と母さん、そしてばあちゃんの人生に影を落としてしまったことに」
「・・・なんでだよ」
たかひろさんの言葉を代弁する俺に向かって、昭雄は拳を震わせて叫んだ。
「だったら、なんでなんの相談もなしに死んだんだよ!兄貴はそんな弱い奴なんかじゃないだろ!俺は誰よりも兄貴のことをわかっていた!あんなふうに死んでいい人間なんかじゃないって!」
その叫びを聞いて、たかひろさんの霊は目を閉じて静かに言った。
「いや、俺は弱いよ」
「えっ?」
「俺はお前が思っているよりも、弱い人間なんだ」
たかひろさんは、自嘲気味に言った。
「昔から人に頼られやすいってのは自覚していたけれど、本当は俺の方が誰かに頼りたかったんだ。誰かに頼られるたびに、俺なんかでいいのかって、自問自答していた。俺はずっと自分に自信がなかったんだ」
「そんな・・・嘘だろ?だって、兄貴はいつも堂々としていて・・・」
「それは虚勢だった。自分には自信がないくせに、だからといって相手に弱みを見せたくない。だから、常に堂々と振る舞うようになってしまった。本当は、いつだって頼りにされるプレッシャーで、押しつぶされそうだったのに」
たかひろさんの言葉を通訳するたびに、僕の中に彼の感情が流れ込んでくる。
僕はこれをシンクロと呼んでいた。
以前に仕事をしていたときも、霊が生前に抱いていた強い気持ち(いわゆる残留思念に近いもの)が、交信している間に無意識に共感するようになる。
たかひろさんが抱いていた苦しみ。
バスケは好きだったけれど、プレイヤーとして活躍するたびに、周囲から頼られるようになる。
彼はもともと人と関わるのが得意ではなかった。生まれた頃から、自分というものに信頼をおけない性格だった。
そんな自分の矛盾を、誰かに相談することもできなかった。それを言葉でうまく言い表すこともできなかったし、その時にはすでに、周囲からの信頼を裏切れないほどの地位に達していたからだった。
なんとか自分の力で乗り越えようとしてきたけれど、ついに限界が来て、彼は・・・。
「・・・五島くん?」
気づいたら、涙が流れていた。
心配した真白が声をかけ、昭雄も美咲も僕が突然泣き出したことに戸惑っていた。
「ああ、ごめん」
僕は涙を拭って、たかひろさんの言葉を引き続き伝えようとした。彼から流れてくる強い悲しみに耐えながら。
「俺はお前が思っているほど、強い兄貴なんかじゃない。バスケの実力だって、実は翔平の方が上だったんだ」
「えっ?」
「あいつは・・・翔平はプレイヤーとして才能があった。チームが県大会にまで進むことができたのは、あいつの高い実力があってこそだった」
たかひろさんによれば、八城は小学校のミニバス時代からエースとして輝かしい成果を残してきたらしい。
たかひろさんの高校が、初めて県大会に残って、準決勝まで進出できたのは、八城の高度な技術があってこそだったと、彼は語った。
「でも、あいつには欠点があった。技術は誰よりもあったけれど、常にワンマンプレーだった。顧問もあいつの実力はわかっていたけれど、キャプテンを任すことはできないと、俺にはっきり言っていた」
そして、たかひろさんは顧問に頼まれた。人望があって、周囲のことをよく見ている、たかひろさんに部を引っ張ってほしいと。
「それを聞いた時に思ったよ。やっぱりこうなるのかって。本当は断りたかったんだ。俺にはそんな資格なんてない。もうこれ以上、俺に負担をかけさせないでほしいって。でも断ればきっとチームはとんでもないことになってしまう。俺にはそもそも選択肢なんてなかった」
たかひろさんの言葉を代弁する僕以外、皆黙りこくっていた。
昭雄はまっすぐに俺の顔を見つめ、美咲は目を伏せ、真白は腕を組んで話を聞いていた。
たかひろさんの絶望感というか、プレッシャーというか、不安とも取れるような、強い感情が僕の胸を圧迫する。
それでも、僕はたかひろさんの言葉を紡いだ。
「俺がキャプテンになった頃から、翔平は攻撃的になった。俺をあからさまに敵視するようになったんだ。入部した頃から、なにかとあいつは突っかかってくることはあったけれど、お互いにそれなりに一目置いていたんだ。けれどもやっぱり、あいつは自分がキャプテンになれなかったことを、ずっと不満に思っていたんだと思う。あいつの不満に対して、俺はしっかり向き合ってやれなかったんだ。だから、あいつはあんなことをした」
「あんなこと?」
昭雄がそう尋ねると、たかひろさんは目を閉じて、唇をぎゅっと結んだ。
そして、僕の中にも、さらに強い感情が流れ込んでくる。思わず、むせ返りそうになるが、我慢して代弁しようとした。
「翔平は、以前から万引きを繰り返していた。狙うのは大きなお店とかじゃなくて、小さな商店とか古本屋とかだった。あいつは欲しいものがあったとかじゃなくて、鬱憤を晴らしていただけだったんだ」
「鬱憤?」
美咲がそう尋ねると、たかひろさんは頷いた。
「毎日が自分の思い通りにならない。だから、そうやってストレスを発散していた。いや、そうやって意識を外に向けていたんだ。いわば、あいつなりの現実逃避だったんだ」
「そんな現実逃避ってあるかよ」
昭雄は苦々しい顔でそう言ったが、たかひろさんは何故か俯いた。
「・・・俺も同じだった。自分の理想とする生き方ができなくて、どこかにはけ口を求めていた。あいつと俺は似た者同士だったんだ」
「そんなことねえだろ」
「いや、同じさ」
昭雄は否定するものの、たかひろさんは間髪入れずに肯定した。
そして、意を決したように、続きを語りだした。
「・・・俺が死ぬ半年前だった。あいつが近所の小さなゲーム屋で万引きをしているのをたまたま見かけたんだ。店の前でばったり出くわした時のあいつは、引きつった顔をしていたよ。その日は逃げるようにあいつは立ち去った。そして次の日、あいつに呼び出されて、『昨日のことは絶対に口外するな』って言われた。『もし誰かに言ったら学校に来れなくしてやる』ともな」
「最低」
美咲は吐き捨てるように言った。
「・・・だとしたら、俺も最低な人間だと思う」
美咲の言葉を聞いて、たかひろさんは自嘲気味に笑った。
「俺は誰にも言わないと約束した。そして、俺にもやり方を教えてくれって言ったんだ」
昭雄も美咲も、真白も目を見開いた。
たかひろさんの言葉を代弁している僕でさえも戸惑った。
その時、僕の中にあるイメージが浮かんでくる。以前に、真白の体に触れた時と同じ現象だった。
たかひろさんの視点から、校舎の裏で八城と向き合って話をしている場面が見えた。
「お前、何言ってるんだ?」
八城は明らかに困惑していた。
「だから、俺にもテクニックを教えてくれ」
そんな八城に、たかひろさんは言った。
「教えろって・・・お前、何がしたいんだよ?」
「俺も、万引きをしたいんだ」
シーンはそこまでで終わり、次にはある小さな商店の前で、八城がたかひろさんに小さく頷き、2人で店の中に入っていった。
そして、八城さんが店員に質問をして意識を逸しているうちに、たかひろさんがバッグにキーホルダーを素早く入れたところが見えた。
イメージはそこで終わった。
「・・・俺は、翔平に万引きのやり方を教わった。そこからは2人で協力しながら万引きを繰り返した」
しずしずと語ったその言葉を、僕は伝えるかどうか迷った。たかひろさんを見ると、彼は僕に頷きかけてきた。
僕は深呼吸をして、彼が言った言葉をその通りに伝えた。
「んなわけあるかよ!」
美咲は唖然となり、昭雄は大声で怒鳴った。
「兄貴は・・・兄貴は決してそんなことする人間なんかじゃねえ!」
その憤慨ぶりに、美咲も真白も体を震わせた。
僕も思わず昭雄から目を逸した。
僕が見た光景は、間違いなく本当にあったことだろう。たぶん、たかひろさんの記憶そのものかもしれない。
なぜ、それがイメージとして見えたのかはわからない。おそらくだが、たかひろさんが真実なんだと強く訴えたかったからこそ、僕の中に記憶が流れこんできたのだと思う。
「すまない。昭雄」
すると、たかひろさんは申し訳無さそうに目を閉じてそう言った。
「俺は、お前たちをずっと裏切っていたんだ。俺は逃げ出したかった。自分が置かれている現実そのものから。万引きは、その現実から逃避できる一つの手段だったんだ。俺と翔平は、ずっとそうやって一緒に現実逃避をしてきた。これからもずっと、俺たちの秘密は秘密のままであり続けるって、ずっと思っていたんだ」
俺はまた、たかひろさんの言葉を代弁する。昭雄の顔は次第に困惑で歪んでいった。
「でも甘かった。悪いことってのは、そうそう長くできるものではない。ある文房具店で万引きをしてた時、店員が店の外で待ち構えていて、俺は捕まりそうになったんだ。なんとか逃げ切ったけれど、俺は店員に顔を覚えられていたんだ。大抵、俺たちは実行役と店員の気を逸らす役を交互にやっていたんだが、その日は俺が実行する役だった。だから、翔平はなんとか無関係でいることができた」
「まさか、兄貴・・・」
たかひろさんは昭雄に苦笑してみせた。
「次の日、学校で先生たちに問い詰められた。その時、俺は絶対に翔平のことは口にしなかった。罪を被るのは俺だけでいい。翔平にも、いざというときはお互いを切り捨てようって約束していた。だから、翔平はその通りに俺とは無関係を装ったんだ。これまで近所で起こしていた万引き事件は、全部俺の仕業だった。そういうことにしたんだ。そこからの流れは、お前も知る通りだよ。昭雄」
そこまで話し終えると、昭雄は呆然となっていた。
いつの間にか、辺りはすっかり暗くなっていた。
「・・・そんな」
事の真相を僕の口を通じて聞かされた昭雄は、崩れるようにスツールに座った。
項垂れて、肩で呼吸をしている。そんな昭雄の様子を見てられなかったのか、美咲は一瞬目を背けたものの、意を決したように昭雄に近づいた。
「しっかりしなよ。あんたらしくない」
気をしっかり持つように言ったつもりだったのだろうが、昭雄は顔を上げようとせず、両手を組んで震えだした。
「・・・ずっと太陽書堂にいたのは、それと関係があるんですか?」
たかひろさんの方を見て、僕は尋ねた。
すると、たかひろさんは顔を逸した
直感的というか、たかひろさんの気持ちが流れ込んできた時に、後悔の念とともに、彼を思う気持ちも感じ取れた。
きっと、たかひろさんは八城のことを心配している。そう思えた。
たかひろさんは僕に弱々しく微笑みかけて言った。
「それもあるけれど、それだけじゃない」
「えっ?」
「あいつが心配だった。あいつは・・・」
途中でたかひろさんの体が消えてしまった。
途端に、僕は強い目眩に襲われて、膝を付いて倒れた。
「涼!」
美咲と真白が僕に駆け寄ってきた。
「・・・・」
鈍い頭痛と吐き気に襲われ、立っているのが難しかった。
「これ、飲んで」
すると、真白が僕の背中を擦り、ペットボトルの水を差し出してきた。
声を出すこともしんどくて、僕はゆっくりとペットボトルを受け取って、震える手で口を付けた。
しかし、たまらなくなって、その場で軽く嘔吐してしまった。
「一体どうしたの?」
「・・・力を使いすぎたんだと思う」
困惑する美咲に、真白が静かに答えた。
「彼はほぼ半日、たかひろさんの霊と交信していたから」
「そうなの?」
「霊との交信には体力を使うみたい。以前、鼻血を出したこともあったし」
真白は僕の背中を擦りながら、状況を代わりに話してくれた。
それを聞いた美咲は、荷物からポケットティッシュを出して、僕に差し出してきた。
「すまない」
美咲からポケットティッシュを受け取り、口元を軽く拭いた。
「大丈夫なの?」
美咲が僕の顔を覗き込むようにして見てきた。
「・・・少し休憩すればたぶん」
僕は体を起こして、その場に座り込んだ。
湿った地面の感触が気持ち悪かったが、この瞬間も襲ってくる胸焼けに比べたら大したことはなかった。
しばらく僕らは沈黙した。
お互いに何を言うべきなのか、言葉を選ぶ沈黙だった。
「これからどうするの?」
そんな沈黙を真白が静かに破った。腕を組んで僕らを見回している。
しかし、昭雄は完全に意気消沈していたし、美咲も目線を逸して考えあぐねている様子だった。
「もう一度」
だから、僕が答えることにした。僕の中にあった一つの結論を言葉にした。たかひろさんから語られた真実を知った以上、昭雄も美咲もきっと心の中では同じ結論を抱いていただろうから。
「もう一度、たかひろさんと話をしてみる」
「大丈夫なの?そんな状態になるのに?」
美咲は心配そうに僕の方を見た。
「約束したんだ。たかひろさんの言葉を一つ残らず、昭雄に伝えるんだって」
僕の言葉を聞いて、昭雄は顔を上げた。
「涼・・・」
昭雄と美咲は困惑している中、真白が人差し指を上げて言った。
「ひとまず、今日はもう帰りましょう。すっかり遅くなってしまったし、私もそろそろ帰らないといけない」
僕らは顔を見合わせた後、真白に向かって首をゆっくりと縦に振った。
「五島くん、歩ける?」
「・・・頑張ってみる」
そう言って僕が立ち上がろうとすると、美咲が右肩を支えようとした。
そこに、さらに左肩にも別の力が入る。
昭雄がさっと僕の横に立って、肩を貸していた。
「昭雄」
「家まで送ってやる。そんな状態だったらどうせ倒れるだろ?」
「自転車はどうするんだ?」
「ここはうちの畑だから、あとで取りに戻れる」
昭雄と美咲に支えられ、僕はゆっくりと一歩を踏み出した。
バス停までの道のりで、昭雄は僕にこう言ってきた。
「ありがとな」
「えっ?」
「そんなになってまで、俺と兄貴をまた繋げてくれて」
「こちらこそありがとう」と言いたかったけれど、そんな体力も消耗していたので、僕は昭雄に微笑みかけるしかできなかった。
そんな風に協力し合ってバス停に向かう僕らを、真白は前を先行しながら細い目でじっと見つめていた。
まるで、羨望の眼差しを送るかのように。
3日後。
僕は太陽書堂の前に立ち、しばらく店内の様子を伺っていた。
スマホを取り出し、時計を確認する。
今は昼の1時。僕らのグループにメッセージを残した。
「現場についた。先に店に入る」
スマホをポケットにしまった後、僕の隣に佇んでいるたかひろさんと目配せをした。
彼は大きく頷き、僕はゆっくりと店内に入った。
扉を開放している所為で、店内は少し蒸し暑かった。
レジカウンターには、スマホを弄っている八城が座っていた。
「八城さん」
「ん?ああ、涼くんか」
僕が声をかけると、八城はスマホから顔を上げた。
「こんにちは。今日はどうしたの?」
「叔母に用事で呼び出されまして。叔母は今はいますか?」
「あー。澄江さんは、今休憩に出ていったよ。しばらくしたら戻ってくると思う」
「では、店の奥で待っていてもいいですか?」
「ん?まあ、いいけど」
「ありがとうございます」
軽く一礼して、僕は店の奥の部屋に入った。
ちゃぶ台と大量の本が置かれた畳の部屋で、僕は少し足を崩して座り込んだ。
肩に下げていたポーチからペットボトルの水を取り出し、一口飲んだ。
少し緊張している所為か、喉が乾いて仕方がない。
カウンター席で店番をしている八城の方を見ると、またスマホを弄りだしていた。
そして、店内にたかひろさんもゆっくりと入ってくる。彼は八城の横に立ち、そっと彼のスマホを覗き込んだ。
しばらくして顔を上げ、僕の方を見て首を縦に振った。
僕はスマホを取り出して立ち上がり、八城の後ろに立って言った。
「ちょっと、本を見ていてもいいですか?」
八城は僕からスマホの画面を隠すようにスクリーンをオフにして、僕の方を見た。
「ああ、いいよ」
そう頷いて、またスマホに視線を落とした。
僕はスマホの電源を入れて、ひそかにカメラの録画をオンにする。スマホを手の後ろに持ちながら、物色するように本棚を眺めて言った。
「この間は大丈夫でしたか?」
僕が質問すると、八城は顔を上げ、「ああ、あれね」と苦笑いした。
「とりあえず大丈夫だよ。でも、恥ずかしいところを見せてしまったね」
「いえ、別に。ちょっと心配だったので」
「それはありがとう。まあ、俺もびっくりしたけれどね」
「・・・・」
それからまた八城はスマホに視線を落とした。
僕は彼の動向を気にしながら、本棚に収まっている本を手に取るふりをしつつ、スマホを素早く本棚の空いていた部分に隠すように置いた。
もちろん、レンズが見えるように。
その後は、代わりに手に取った本を立ち読みするふりをした。
ずっと八城の隣にいるたかひろさんが、「そろそろだ」と僕に言ってきた。
「ねえ、そういえばさ」
そのタイミングで、八城が僕に声をかけてきた。
「この間、お客さんからもらったお菓子があるんだ。よかったら食べていかない?」
「いいんですか?」
「うん。澄江さんにもこの後渡す予定だったし、奥でゆっくりしていってよ」
八城は僕を手招きしてきた。
どうやら、僕をこの場から引き離そうとしているらしい。
「・・・では、お言葉に甘えて」
僕は持っていた本を適当なところに置き、また店の奥の畳の部屋に入った。
八城も一緒に部屋に上がって、自分のバッグからせんべいの入った袋を取り出した。
そしてせんべいの袋をちゃぶ台に広げ、膝をついて袋を破った。
「さあ、どうぞ」
「ありがとうございます」
八城は袋の中からせんべいを1枚取り出して頬張った。僕はすぐにせんべいに手を伸ばさず、八城の様子を見ながら言った。
「店番、大丈夫なんですか?」
「ん?まあ、大丈夫だよ。ここってお客さん、そんなに来ないから」
「そうなんですね」
「実は、朝飯抜いてきててさ。ちょっとお腹空いてたんだ」
八城は少し笑みを浮かべて言った。
その間も、僕はたかひろさんの方をちらちらと見る。
彼は、八城のことを複雑な表情でじっと見ていた。
「そういえば、この間もうちの店の本を見ていたけれど、なんか探しもの?」
今度は八城から質問をされた。
「はい。夏休みの課題に必要な本を探していて」
「そっか。どんな課題なの?」
八城は僕の方に少し身を乗り出したりした。
「地域の郷土史とか、そういうのを調べてこいって言われてて」
「へえ、高校でそういうのやるんだ。面白いね」
そこからは、「宿題は順調?」とか「夏休みの予定とかあるの?」などと色々と質問をされた。
おそらくだが、僕の意識を店先から誘導しようとしているのかもしれない。僕が八城から視線を逸らそうとすると、彼はさり気なく前に来ようと態勢を動かした。
質問に答えながらたかひろさんを見ると、代わりに彼が店内の様子を伺っていた。
やがて、たかひろさんが僕の方に顔を向けて言った。
「来たよ」
それを聞いて僕は溜息を吐く。
すると、八城は不思議そうな顔をして聞いてきた。
「どうしたの?溜息なんか吐いて」
「・・・もう。こういうのはやめませんか?八城さん」
「えっ?」
八城が少し動揺した直後、店の外で自転車が倒れる音が響いた。
すかさず八城は振り向き、血相を変えて店の外に出た。
彼に続いて、僕もゆっくりと立ち上がり、外の様子を見に行く。
「動くな!」
「くそ!離せよ!このガキ!」
店のすぐ横で、黒いシャツと帽子を被った男を、昭雄と美咲が壁に押さえつけていた。
さすがは二人共、元運動部というだけはある。男は抵抗しつつも、痛がっている様子だった。
そういえば、美咲は小学校の頃、3年ほど柔道をやっていたという話を聞いたことがある。
たぶん、関節技でも決められているのだろう。
彼らの横で、真白が無表情のまま立っていた。
「お前ら、何やって・・・」
「翔平!こいつらなんとかしてくれ!」
唖然となる八城に、男がすかさず助けを求めた。
「こ、こいつは俺の友達だ!早く離せ!」
「そうはいかないです。もう警察には連絡済みです。そうだよな?」
八城の背後で、僕は真白に目配せしつつそう言った。
真白もこくりと頷く。
「け、警察って・・・」
「八城さん。もう全部わかってるんです。あなたとこの男がグルで店の本を万引きしているのは」
「は?何言ってんだよ」
八城は呆れたというような口調で吐き捨てたが、その顔は明らかに動揺していた。
「店主がいないときや、叔母の気を逸らせている間に、この男に万引きさせていましたよね?あなたは在庫管理もしているから、どれが高値で売れるかは知っている。そういう本を中心に万引きさせて、その金額を仲間と山分けしていた」
「適当なこと言ってんじゃねえよ!」
顔を真っ赤にして八城は怒鳴った。明らかに焦っているし、図星だろう。
「てめえら!こんな舐めた真似してただで済むと思うなよ!だいたい、証拠はあんのかよ!ああ?」
そんな彼を見て、僕は溜息を吐いてしまった。
「あなたはスマホで仲間にやり取りしていますよね?さっきも、今日のこの時間に来いって指示を出していた」
「えっ・・・」
「もう、やめにしましょう。昭雄と、彼のお兄さんをこれ以上苦しめないでください」
「ふ、ふざけんな!」
八城はそう言いながら、慌ててスマホを取りにカウンターに戻ろうとした。
しかし、彼は引きつった顔で立ち止まった。
「・・・澄江さん」
店の奥から、八城のスマホを手にした叔母が立っていた。そして、店の店主の男性も、畳の部屋で座っていた。
「いつからそこに?」という疑問を顔に出しながら、八城は後ろに後ずさった。
一昨日、僕は昭雄と美咲、真白を家に呼んだ。そしてもう一度、たかひろさんの霊と話をした。
そこでわかったのは、八城が未だに万引きを繰り返していることだった。
高校の時と違って金目のものだけを狙い、友人たちと協力してそれを転売していることも、たかひろさんは教えてくれた。
太陽書堂には、それなりに値打ちのある本が多い。八城はそれをわかっていて、夏休み前からバイトとして働き、店の状況を探っては実行役の仲間数人と万引きを繰り返していた。
時には八城自身が直接万引きすることもあったらしい。
僕らはまず叔母にそのことを話した。最初は信じていなかった叔母も、最近の在庫の差異が合わない事実を思い返し、店主に連絡することにした。
そして僕らも、バイトの合間やシフトを縫って、今日まで太陽書堂を見張っていた。
僕と昭雄は面が割れているので、美咲と真白が主に店内の様子を覗いてくれていた。
昨日、ちょうど八城の仲間が店内で万引きをしているところを見つけ、真白に撮影してもらった。
八城のスマホの中身については、たかひろさんが盗み見て、僕に情報を教えてくれた。
そういうこともあって、今日こうして現行犯で逮捕することができた。
今日もまた万引きを行うという情報を、たかひろさんが八城のスマホから仕入れてきたので、僕らが犯人をその場で捕まえることにした。
念の為に、叔母と店主には店の裏口で待機していてもらい、八城のスマホを先に差し押さえることもできた。
警察には真白から連絡してもらい、あと10分もしたら来てくれることになった。
警察が来るまでの間、僕らは八城と実行犯が逃げないように、彼らを囲んで店の奥で待っていた。
八城たちはずっと項垂れていて、絶望感をこれでもかと漂わせていた。
「なんでこんなことしたの?」
そんな八城に、叔母が険しい顔で尋ねた。
「あなたの仕事ぶりは、私も店長も評価してた。なのに、なんで期待を裏切る真似をしたの?」
「・・・・」
八城は俯いたまで、何も答えなかった。
代わりに、僕がその質問に間接的に答えることにした。
「最近、病院に通ってますよね?」
僕の言葉に、八城と実行犯はようやく顔を上げた。
「三島駅近くの心療内科に、ずっと通っているはずです」
「・・・どこで聞いた?」
険しい表情で八城に聞かれ、僕は一度目を伏せた後、意を決して答えた。
「たかひろさんから聞きました。あなたが今でも万引きを繰り返していることも、その理由も」
「貴大が?」
意外な名前に驚いた後、八城は頭を振った。
「馬鹿な。そんなはずない。だってあいつは・・・」
「僕、話せるんです。死んだ人間と」
僕の告白に、叔母がはっとなる。
「涼くん。それは・・・」
「いいんです。別に」
叔母の心配を、僕は制して続けた。
「あなたは万引きをやめられないまま、今でも苦しんでいる。たかひろさんは、死後もあなたのことを心配していました」
まるで不気味なものを見つめるかのような八城と実行犯の視線を受けながら、僕は信じてもらうべく、言葉を連ねる。
「・・・突拍子もない話だと思っているのはわかります。でも、あなたが心療内科に行っていることも、友人と万引きを繰り返していることも、全てたかひろさんから聞きました」
信じたかどうかはわからない。けれど、八城はまた項垂れていて、小さな声で言った。
「あいつ・・・貴大との万引きがバレた後も、俺はずっと万引きを続けていた」
実行犯は、「おい」と言って八城を止めようとしたが、彼は右手を挙げてそれを制した。
「大学に入ったらやめようと思っていた。でも、今でもなんだかんだやめられない。まるで、ギャンブルにのめり込んじまったみたいで、俺は怖くなった。心療内科に行ったのは半年前だ。今でも治療を受けている」
以前に、学校の授業で習ったことがある。
万引きや盗みをやめられないのは、ある種の中毒や依存症に近いものだとか。
「それを言い訳に、友人を巻き込んで万引きを?」
「・・・いや、こいつらは単に金が欲しかっただけだ。俺がこういう手段で楽に稼げるって教えて、協力してもらっていた」
八城は友人らを庇うようにそう言った。
「なあ。全部の責任は俺にある。こいつらだけは見逃してくれないか?」
「・・・なんだよ、それ」
八城は土下座をして頼んだが、昭雄はそんな彼を、拳を震わせながら睨みつけて言った。
「今言ったことを、なんで兄貴に言ってやらなかったんだ?兄貴は、ずっとあんたを庇って独り惨めに死んだんだ。元はと言えば、あんたが万引きなんかしてたのが悪いんだ。兄貴は巻き込まれたようなものだ」
「・・・・」
「警察に全部吐けよ。兄貴を巻き込んで、死に至らしめましたって。それでも俺はあんたを許さないけどな」
憎しみを込めた低い声だった。
昭雄はこれでもかなり堪えている方だと思う。堪えていても、殺意のようなものは僕ですら感じられた。
八城は何も言わず、ただただ項垂れるだけだった。
「・・・翔平も辛かったんだ」
すると、部屋の奥でたかひろさんが静かに呟いた。
「こいつの家、この辺りではそれなりに有名だからさ。親族が権力者ってこともあって、昔からプレッシャーをかけられていたんだよ」
「・・・今、たかひろさんが言っているんですが」
そう付け加えて、僕はたかひろさんの言葉を通訳した。
八城も実行犯も、困惑した表情で僕を見ていた。
僕を介して、たかひろさんは八城と昭雄に向けて言葉を連ねた。
「小さい頃から常に人と比べられていたって言ってた。勉強もスポーツも、芸術だって人よりも秀でていないとならない。聞いているだけで、翔平の息苦しさが伝わってきて、俺も苦しくなった。翔平は万引きという形で、その息苦しさから逃れようとしていたんだと思う」
代弁された僕の言葉に、八城は困惑していた。
そんな八城を、たかひろさんは憐れむように見つめていた。
「もちろん、だからといってその行為を肯定するつもりはない。俺はあの時、翔平を止めるべきだった。だけど、俺は翔平に自分を重ねてしまった。自分が置かれている現実から、少しでも逃げ出したくて、自分を壊したくて、それで悪いことに手を染めた」
「貴大」
八城はたかひろさんの名を呟いた。
そして、先ほどまで僕を見ていたその瞳は、どこか別の場所を見つめていた。
「あの時、俺が翔平を止めていれば、こんなことにはならなかった。本当にすまない」
「・・・なんで謝るんだよ」
そして、虚空を見ながら震える声で八城は言った。
「全部・・・全部俺が悪かったんだよ。俺が万引きなんてクソみたいなことに手を染めなければ、お前は死ななかったんだ」
「いや、どのみち俺は死んでいたさ」
たかひろさんの言葉を聞いて、代弁していた僕は困惑した。
「お前の万引きを止めたところで、俺の現状が変わるわけじゃなかったし、いずれは苦しみに耐えられなくて、死を選んでいたと思う」
「そんな!」
僕が言葉の通り伝えると、昭雄は思わず大声をあげた。
その場にいる全員が戸惑い、顔を歪ませた。
「俺は弱い人間だ。でも、弱いなりにお前のことは心配だった。おこがましいとは思っている。でも、こうして現世に魂だけを残しているのは、お前に未練があったからなんだ。もちろん、昭雄と母さんたちにも」
そこで、再びたかひろさんの気持ちが僕に流れ込んでくる。
どうしようもない不安と孤独。その中で、確かに八城に対しての思いがあった。
この思いを言葉にするなら、後悔と懺悔に近いものだった。
たかひろさんは、その思いによって、この世界にまだ縛られているのかもしれない。
「クソ」
八城は思い切り顔を歪ませ、嗚咽を漏らしはじめた。
「なんで・・・なんでお前はいっつもそうなんだよ・・・」
やがて八城は声をあげて泣きながら、畳を叩き出した。
全ての後悔と贖罪が、彼の声と涙となって溢れだし、悔しさと絶望を拳にこめて、自身を傷つけている。
八城を見て、僕はそんなことを思った。
やがて、外の方から車が停車する音が聞こえてきた。
店の中に警官が2人入ってきて、叔母と店主が対応した。
「・・・あいつの葬式に、俺は行くべきだった」
叔母たちが警官と対応している中で、涙を滲ませながら八城は言った。
「親戚連中から、絶対に行くなって言われて、俺は従わざるを得なかった。でも、それでも俺は行くべきだったんだ」
警官が部屋に入り、八城と実行犯を連れて行こうとした。
「・・・すまない」
去り際に、八城は俯いて誰とも目を合わせず、小さくそう呟いた。
連れていかれる八城たちを、昭雄は複雑な表情で、最後まで見つめていた。
美咲は俯いていて、真白はいつものように、感情のない目で一部始終を見ていた。
僕は、その全ての光景を目に焼き付けようとした。
昭雄とたかひろさんの思いが行きついた、一つの結末をいつまでも覚えておきたかった。
翌日。
台風が去ったことを喜んでいるのか、炎天下の下で蝉がやかましくこだましていた。
昭雄と美咲、そして真白と共に、バスに揺られて20分。霊園前の停留所を降りると、盛大な蝉の大合唱に出迎えられた。
夏も真ん中辺り。今日は生温い風もあって、少し鬱陶しさもあった。
「ちょっと、水を汲んでくる」
昭雄はバケツを手に、水道を探しに行った。
美咲は白い菊の花を、僕は線香の入ったブリキ缶を持って、昭雄が来るのを待っていた。
「ねえ」
隣で美咲が僕に言った。
「たかひろさんは、今もいるの?」
僕は周囲を見回した後、フルフルと首を横に振った。
「八城さんが捕まった時から、姿を見てない」
いつの間にか、たかひろさんの気配は消えていた。きっと、もう現れることはない。そう思っている。
「つまり、成仏したってことでいいのかな?」
「だといいね」
「そっか」
美咲は菊の花の香りを嗅ぐように、花束をそっと鼻に近づけた。
あれで、たかひろさんが本当に成仏したかどうかは、僕にはわからない。
僕は霊と交信はできても、成仏させることはできない。これまでも、話をすることはあっても、彼らの未練を晴らせていたとは限らない。
あくまで、僕は生者と死者を繋ぐことしかできないから。
「お待たせ」
バケツ一杯に水を淹れてきた昭雄は、それを右手で軽々と持っていた。
「こっちだ」
僕らは昭雄に続いて、霊園の階段を登っていく。いくつもの墓が整然と並んでいると、自然と沈黙しなければならない空気を感じる。
僕らは一言も話さずに、たかひろさんの墓を目指した。
昨日の夜、昭雄から一緒に墓参りに来てほしいと言われた。
「やっぱり兄貴は今でもそこにいるから、ちゃんと報告しておきたくて」
たかひろさんはあの場にいたから、全てを知っている。だけど、これは昭雄なりのけじめなのだと思った。
「ここだ」
階段を登った先に、たかひろさんの墓石があった。
昭雄がバケツの水を掬って軽く墓石にかけてやり、美咲と真白が花瓶の花と水を入れ替えて、菊の花を活けた。
僕はブリキ缶に入っていた蠟燭とマッチを取り出し、火をつけて立てた。
水をかけ終えた昭雄は、ブリキ缶から線香を1本掴んで、2つに折って火をつけた。
続いて、僕らも線香を取って、同じように火をつけて、順に線香を立てていった。
昭雄はしゃがんで両手を合わせ、僕らはその後ろで、立ったまま手を合わせて目を閉じた。
「・・・お疲れ様。兄貴」
瞼を開けた昭雄は、そう呟いた。
「俺、兄貴のことなら、なんでも知っていると思っていたよ。でも、そうじゃなかった」
昭雄は寂しそうにそう言ったが、すぐに口元で笑顔を作って見せた。
「けどさ、やっぱり兄貴は俺がよく知る兄貴のままだよ。相手のことを思いやれて、相手の傍に寄り添ってやれる。死んだ後も、兄貴はそこは変わっていないのな」
「昭雄・・・」
美咲は心配そうに呟いた。
「本当はさ。生きているうちに、兄貴の力になってやりたかった。だって、俺たちは唯一無二の兄弟なんだから。でも、そんなこと言っても、もうどうしようもないから。・・・だからさ」
昭雄はゆっくりと立ち上がり、拳を胸の前で握りしめた。
「だから俺はその分、兄貴の代わりに、一生懸命生きるよ。生きて、自分が守れる人たちを精一杯守っていく。仲間を大事にして、絶対に後悔しない生き方をする」
そして空を見上げた。
広々とした青空には雲一つなかった。
「そこで見守っててくれ」
小さな声が空に吸い込まれていくように、僕らの間にすっと風が靡いた。
たかひろさんの姿は今でも見えない。けれど、その声はきっと、届いていると思った。
「青」
僕の横で、真白が空を見上げて呟いた。
「とても澄み渡っている」
突然、そんなことを言い始めた真白と一緒に、僕らも空を見上げた。
確かに、こんなに澄んでいるなら、空の彼方からでも、たかひろさんは僕たちのことをはっきり見下ろせるような気がする。
魂が本当に空へと還るのかどうかは、僕にはわからない。
でも、そうだと信じたかった。
たかひろさんの魂は、この世界に結びつくよりも、こんなにも澄んだ青に還った方が、きっと幸せだと思うから。