3章
翌日。
朝から少し体に気怠さがあった。
たぶん、昨日力を使い過ぎた所為だろう。
以前にも兄に頼まれて霊との交信をしていた頃にも経験した倦怠感だったから、風邪ではないと思う。
昼頃には倦怠感も弱まったので、僕は昼食後に自宅の蔵に忍び込むことにした。
今時、蔵がある事自体珍しいことだが、期待できるようなお宝は一切ないと思う。
あるのは、埃を被った絨毯や僕が赤ん坊の頃に使っていた養育玩具の詰まった段ボール、もしくは弦のないクラシックギターか、本棚にしまわれた黄ばんだ古い文庫本くらいだ。
値打ちのある品々は、僕が生まれるずっと前に売りさばいてしまったらしい。
ただ広いだけというだけで、ごく普通の物置となんら変わらない。
ただ、古い資料や写真などがしまわれているとしたら、間違いなくここだった。
少しは課題の役に立つものがあるかもしれない。もしなかったとしても、図書館に行けば資料なんていつでも手に入る。
祖母のノートも使えるかもしれないが、それだけでは課題をこなすには少々情報不足だと感じていた。
蔵へと続く重たい扉を開けると、湿気の漂う生ぬるい空気と黴の匂いが暗闇の中から溢れてきた。
手元にあった電球のスイッチを入れると、ごちゃごちゃした蔵の全容が見えた。
縦長の二階建ての蔵は、相変わらず段ボールや衣装ケースなどで埋め尽くされている。
随分前に聞いた話だが、父と叔父はよく悪さをするとお仕置きとして祖父にこの蔵に閉じ込められていたそうだ。
電気を消された真っ暗な中で閉じ込められた時は、子供ながらに絶望と恐怖を感じて失禁したと叔父は語っていた。
冬はとにかく寒くなり、夏は熱がこもって熱くなる蔵の中は、まさに当時では絶好のお仕置き部屋だったそうだ。
今では考えられない話であるが、それも許された時代は確かにあったのだろう。
僕も小さい頃に初めて蔵を見た時は、子供心にこんなところに閉じ込められるようなことだけはしないようにと、戒めたような記憶もある。
今では入る事自体なんてことはないけれど、この重苦しい雰囲気だけは未だになれない。
まるで、ここだけ時の流れが止まってしまっているかのように感じて息苦しいのだ。
ひとまず、本の保管場所である2階を物色することにした。
ミシミシと音を立てる急な階段を、板の底が抜けないように慎重に上がり、それらしい資料がないか手探りで探してみた。
ところが、埃だらけの本棚や積まれている段ボールの中身などを丁寧に確認していくものの、それらしい資料などは見当たらなかった。
これ以上探しても欲しいものは見つからないと思った僕は、ダメ元で1階を見てみることにした。
1階は2階以上に物がごちゃごちゃしているし、古い電化製品とか、大型の荷物ぐらいしか置いていないので、たぶんここには目当ての代物はないと考えていた。
それでも意外な見落としがあるかもしれないと思い、僕はしらみつぶしに物色を始めた。
中位の段ボールを引っ張り出し、蓋を開けて中を見てみた。
段ボールの中には古新聞が詰まっていた。それを丹念にどかしていくと、陶器の破片のようなものが出てくる。
「あっ」
それを見て、僕は思い出した。
その陶器の破片は、陶芸をやっていた祖母の、晩年の作品の一部だった。
他にも、いくつもの陶器の器や花瓶などが出てきた。
割れた陶器の破片は、僕が小学生の時、この家に家族と遊びに来た時に壊したものだった。
暇を持て余していた僕と兄は、庭でボール遊びをしていた。
その時、僕はボールのコントロールを誤って、家の中にボールを投げ入れてしまったのだ。
その直後に、ガシャンという、心臓に悪い音が響いた。
血の気が引きながら確認しに中へ入ると、案の定、祖母が大切にしていた陶器のコレクションが、粉々に壊れてしまっていた。
あの時、僕らは祖父に物凄く怒られたし、祖母はとても悲しそうな顔をしていた。
両親にもその後すぐに怒られた。それ以降、祖母は作品を家の玄関に置くことをしなくなった。
祖父や両親に怒られたことも悲しかったけれど、祖母が大事にしていた作品を失った時のあの寂しげな表情が今でも忘れられない。
祖母は昔から、人を怒ったりすることがなく、むしろ他人に気を使いやすい人だった。
だから、「万が一、また陶器が壊れて子供たちが怪我をするといけないから」とか、そういう理由でこうして作品をしまい込んだのだろう。
どうやら、僕はあの頃の暗い歴史の蓋を偶然開けてしまったらしい。
その暗い歴史の断片である陶器の破片を、僕は慎重に手に取ってみた。
ここに破片をしまっておくくらいなのだから、祖母はやっぱり、僕にコレクションを壊されたことが、相当悔しかったんだろう。
僕は、自分が思っていた以上に、祖母にえらく迷惑をかけてしまったようだ。
「おい!」
そんな矢先、背後から突然、低い怒声が聞こえた。
振り返ると、祖父がいつの間にか背後に立って、こちらをじっと睨み付けていた。
「何してるんだ!こんなところで!」
「いや、ちょっと探し物を・・・」
「勝手に蔵を荒らすんじゃない!」
僕の言葉を最後まで聞かずに、祖父は低い声で怒鳴って、僕の持っていた祖母の陶器の破片を奪い取った。
「全く、こんなに散らかして!余計なことをするな!」
そんな風に怒鳴られるほど、蔵が散らかった様子はない。
「ちゃんと元通りに片付けながらやってたよ」
「いいから!とっとと出ていけ!」
まるで僕の話が聞こえていないかのようだった。祖父は苦々しい顔で、蔵の扉を指差した。
「・・・・」
なんだか、僕も腹が立ってきた。
祖父の横をすり抜け、蔵の外へと出てそのままクーラーの効いた2階の自分の部屋に上がり、火照った体を冷やしながら、さっきまでの祖父の顔を思い浮かべる。
僕が知る祖父は、あんな偏屈じじいなんかじゃない。
いつだって笑顔が絶えない優しい人だった。
いや、もしかすると、僕が知らなかっただけで、祖父の本性はあんなものなのかもしれない。
これまで、僕は長い休みのときでしか、祖父に会うことはなかったのだから、普段から祖母に対して、ああいったきつい言動を繰り返していた可能性もある。
祖母の死をきっかけに、急に厳しくなったというのは、僕の理想でしかないのかもしれない。
もう正直なところ、祖父のことを昔のように好きにはなれなかった。
気分の悪いことが続くことはよくある。
例えば、今日がそういう日だったのかもしれない。
でも、それはこれからやってくる幸せを嚙みしめるために、必要な道のりだったりする。
これは祖母の言葉だった。
その日の夕食も祖父は荒れていた。
「なんだか食欲がない」
そう言って祖父は、叔母の食事に少ししか手を付けなかった。
「無理せずに、お腹が空いたら食べてください」
そう言って笑う叔母の顔は、少し寂しそうだった。
食べない代わりに、祖父は酒を飲み続けた。
そして、「庭の手入れがなっていない」とか、「離れの部屋が汚かった」とか、重箱の隅を突くような小言を述べ始める。
果ては、僕が蔵の中に入ったことを、「俺の許可なく勝手に荒らした」と表現した。
「おい、淳。お前からも涼に言っておけ」
「はいはい。わかったよ」
叔父は苦い作り笑いを浮かべて言った。
僕は、祖父のこの「おい」という声が嫌いだ。
それだけで他者を圧迫する力を持っている。
正直、耳障りでもある。
「澄江さんももっと、俺のことも配慮した飯を作ってくれ。こんなものじゃなく」
祖父は目の前に置かれたカツレツを指さして叔母を睨みつけた。
「すみません。お義父さん」
叔母は頭を下げたけど、雰囲気から怒っているのは、僕でも理解できた。
カツレツが良いと言ったのは僕だ。
叔母は何も悪くない。
だからこそ、被害を被った叔母には申し訳ないし、祖父に対するイメージも徐々に下がっていった。
「全く、ばあさんなら俺のことをよく理解してたのに」
そう言って、祖父は日本酒をお猪口に注いだ。
「・・・そんなに、おばあちゃんに会いたいの?」
「あ?」
今日一日、いろんなこともあったし、蔵の件で理不尽に怒られたのもあって、僕は機嫌が悪かった。
いや、ずっと祖父に対して抱いてきた苛立ちが、ここにきてついに溢れてきたのだろう。
たまらず、僕はそう呟いていた。
「何言ってるか聞こえない。ぼそぼそしゃべるな」
本当に、祖父は耳が遠かったのだが、その時の僕は、それを単なる挑発と受け止めてしまった。
「いい加減にしなよ。おばあちゃんはもういないんだ。いるのは僕と叔父さんと叔母さんだけなんだよ。おばあちゃんの代わりにはどうしたってなれないけれど、僕たちだって一生懸命やってるんだ。それなのに文句ばっかりで、感謝の言葉もない。もう、うんざりだよ」
「涼くん」
叔母がそこで僕の言葉を止めた。僕は祖父から怒鳴られることを覚悟したが、祖父はしばらく顔を僕らから背け、酒を口に含んでゆっくりと飲み込んだ。
「・・・ここは俺の家だ。俺のやり方が気に入らないなら出て行け」
「父さん。涼くんには後で言っておくから」
「出てけ!」
叔父は宥めようとしたが、祖父は大声で手をしっしと僕らに振った。
その様子に、僕はなんだか我慢することが馬鹿らしくなってしまった。
すっと立ち上がって、僕は自分の食事を持って部屋へと戻ろうとした。
「涼くん!」
叔母は立ち上がったが、僕を追いかけようとはしなかった。
自分の部屋に戻って、僕は少し冷めたカツレツを口に頬張った。
せっかく、叔母に頼んで作ってもらったのに、口の中で全く味がしなかった。
それでも、叔母のために最後まで食べきり、そしてベッドの上でしばらく横になった。
僕は、祖父に抗議したその瞬間まで、祖父のことを思いやっていたつもりだった。
だから言葉を選んだ。
「そんなにおばあちゃんがいいなら、いっそ、おばあちゃんと同じ所へ行けばいい」
本当はそういう台詞も頭を過ったのだ。
でも、それは言いたくなかった。
祖父が絶対に傷つくから。
さっきのだって、祖父には堪えたかもしれないが、僕はこれまでの祖父の態度について、思ったことを述べただけである。
でも、実は僕の方が、自分の言葉に堪えていた。
ふと、廊下から叔母の物らしき足音が聞こえてきた。
「涼くん?入っていい?」
襖の向こうで、叔母が小さく言った。
「うん」
僕が返事をすると、叔母はすっと襖を開けて、中に入ってきた。
ゆっくりと襖を閉じて、僕の寝転ぶベッドの方に近づいてきた。
「ご飯、ちゃんと食べてくれたんだね」
「それはまあ」
「偉いね。涼くんは」
叔母はにこりと笑った。
「こういうの、子供っぽい質問だけどさ」
僕は起き上がって叔母の方を見た。
心なしか、少しくたびれているように見えた。
「おじいちゃんは、僕たちのことが嫌いになったわけ?それとも、怒りっぽいのは歳の所為?」
僕の問いに対し、叔母はほんの少しだけ、溜息を吐いて言った。
「おじいちゃんは、自分が嫌いになったのよ」
叔母は畳の上に腰を下ろして次の言葉を続けた。
「昔と違って、体も心も環境もみるみる変わっていく。それも自分の思い通りにならずに。そんな変化に付いていけない自分に腹が立っているんだと思う。そして怒りをうまく消化できないから、ああいう口調になるのよ。きっと」
「その怒りは、どうにかできる?」
その問いに、叔母は即座に首を横に振った。
「残念ながら、私たちにはどうすることもできないわ。そこは、おじいちゃん次第。たぶん、本人でもその怒りをなんとかすることはできないんじゃないかな」
叔母の言葉は、残酷な真実だった。
希望もない話だけど、僕はそれを清々しい気持ちで受け入れられた。
「その代わり、私たちがおじいちゃんの気持ちを理解してあげることはできる。言葉の選び方や接し方一つで、少しはこの状況も乗り越えていけると思うの。おじいちゃんとお別れするその日まで、ね」
「具体的に、どうすればいいのかな?」
「叔母さんも、まだ模索してる最中だけどね」
叔母は力なく笑った。
叔母も叔母なりに祖父との接し方で苦労しているのだろう。
手探りの中で、少しずつヒントを見つけていこうとしている。
「わかった」
僕はそんな叔母を見て頷いた。
「僕なりに、理解する努力はしてみる」
きっと難しいだろうけど。
とは敢えて付け足さなかった。
きっとそれは、叔母が充分理解していることだろうから。
「涼くんは良い子だよね」
叔母はニコリと笑った。
「昔から物分かりが良すぎて、ちょっと心配になるくらい」
「そっちの方が、育てやすいでしょ?」
「まあね。でも」
叔母は何かを言いかけて止めた。
「何?」
「・・・まあ、ちょっとぐらい、憎たらしさとか、反骨精神があってもいいよ。涼くんぐらいの年頃なら」
「何それ?」
心に余裕ができた僕は、少しだけ笑って聞いた。
「真面目ちゃんじゃあ、つまんないから?」
「そうじゃないけど、悪い部分も少しあっても、育てがいはあるだろうなって話」
「僕にもっとワルになれってこと?」
「んー、そうだね。でも、今のままでもいいかな」
親心というものは、今一つよくわからない。
品行方正に、誰かに迷惑を掛けることなく生きていくために、親は子を叱るし、褒めたりするものだろう。
子供だって、親のことを気にして「良い子」になろうと努力する。
やがて良い子でいる対象は、親ではなく社会に変わっていく。
そうなったときに、親は自分の子の成長を喜ぶ一方、自分の手から離れていく子供に寂しさも感じるのかもしれない。
手がかからなくなったことで、心に余裕ができた、ということだろうか。
しかしながら、僕はこれから反抗期を迎えるつもりは毛頭ないから、叔母にはあと少し物足りなさを感じてもらうけれど。
そんな叔母が改まってこう言った。
「おじいちゃんもさ」
「うん」
「決して涼くんのことを嫌っているのではないんだよ。それだけは、忘れないで」
「・・・うん」
それはわかっているつもりだ。
わかっていても、時々忘れそうになってしまう。
どうすれば、祖父とうまくやっていけるのか。
その課題をクリアすることで、また一つ、僕は成長できるような気がした。
翌日、10時前には「喫茶 ノギ」に到着した。
外の容赦ない猛暑を浴びている所為か、緊張感が和らいでは昂ってを繰り返していた。
滴る汗をタオルで拭った後、「準備中」と書かれたドアを開けた。
「おはようございます」
店内にはすでに野木さんと昭雄がいた。
昭雄は黒いエプロンを着けている。
「おっす」
「おはよう。今日からよろしく頼むな」
野木さんも昭雄も笑顔で僕を出迎えてくれた。
その笑顔に、また一つ緊張がほぐれていった。
「はい。よろしくお願いします」
「それじゃあ、早速このエプロンを着て待っててくれ」
野木さんから昭雄と同じエプロンを渡され、その場で着てみる。
これが従業員のユニフォームということらしい。
「あとは美咲だけだな」
昭雄がそう言った矢先、店のドアがゆっくりと開いた。
「おはようございまーす」
ドアから美咲がひょこっと顔を出していた。
「ああ、おはよう。今日からよろしく。これで全員揃ったな」
そして、野木さんは両手をパンと叩いた。
「じゃあ、美咲ちゃんがこれを着たら、朝礼を始めよう」
「はい」
美咲も野木さんから黒いエプロンを渡され、その場ですばやく装着した。
「よし。じゃあ、今日からよろしくな。みんなには基本的に接客とか会計をやってもらうけど、昭雄はそれに加えてキッチンの手伝いも頼むな」
「うっす」
「涼くんと美咲ちゃんも、いずれはキッチンの手伝いもやってもらおうと思ってるけれど、まずはホールの仕事を覚えてくれ。わからないことがあったら、遠慮なく俺か昭雄に聞いてほしい」
「はーい」
「わかりました」
野木さんはそれからも、テキパキと仕事の内容や注意点を話してくれた。
僕も美咲もメモを取り、時折質問も交えていった。
その後、昭雄と野木さんが客に扮して接客の練習もしてくれた。
1時間位それをやった後、休憩を挟んでいよいよ開店時間になった。
店内には落ち着いた雰囲気のボサノヴァ音楽が流れ出したが、僕の心臓はさっきから鼓動を早めていた。
練習はしたものの、うまくできるだろうかという不安で、顔も強張っているのが自分でもわかった。
「涼、大丈夫か?」
固まっている僕に、昭雄が背後から声を掛けてきた。
「すげー顔になってるぞ?」
「・・・ああ、ごめん」
店内に置かれた大きな姿見で、自分の立ち姿を見た。
雰囲気は店員なのだが、顔も含め、立ち姿がカチカチに緊張している。
「大丈夫だよ」
すると今度は野木さんがにっこりと笑顔を浮かべて言った。
「ここのお客さん、常連さんしかほとんど来ないし、その常連さんも良い人しかいないから」
「確かに、野木さんが良い人だからな。同じタイプの人しか集まらないみたいだし」
「また調子いいこと言いやがって」
緊張をほぐそうとして、野木さんと昭雄がそう言って笑い合っていた。
次に美咲から背中をぽんと軽く叩かれる。
「心配ないって。私も最初にバイトを始めた時はそんな感じだったけれど、なるようになるから」
美咲もニッと歯を見せて笑ってみせた。
「・・・そうだな」
僕は自分の両頬を両手で軽く叩いて、気合を入れ直した。
大丈夫。僕以外にも昭雄に美咲もいるんだ。僕らならどんなことだってやっていける。
すると早速、店のドアベルがカラコロと音を立てた。
「はい。いらっしゃい」
「いらっしゃいませー」
野木さんが声を掛けたと同時に、昭雄も同じくお客さんに挨拶した。
杖をついた老人が軽く会釈をして帽子を脱ぐ。
「どうも、お久しぶりです」
「うん。ここ最近、入院してたから」
「あっ、そうだったんですか?足の具合で?」
「そうだね。他にも色々と」
馴染みのお客さんなのか、野木さんと老人は軽く雑談を交わしていた。
その間も、昭雄はテーブル席のセッティングを済ませていた。
「お席にご案内しますね」
そして美咲は老人をテーブル席へと案内していく。
「ああ、どうもどうも。見ない顔だね?新人さん?」
「はい。私達、今日から働き始めたので」
「そうかそうか。若いのに偉いね」
老人はニコニコと笑顔を浮かべながら、テーブル席に腰掛けた。
そこにすかさず、昭雄が冷たい水の入ったコップを差し出した。
「こちらお冷です。ご注文はどうされますか?」
「ああ、それじゃあ、アイスティーを」
「はい。少々お待ちを」
昭雄はさらさらと伝票に注文を書いて、カウンターまで持っていく。
その姿は普段のおちゃらけた昭雄とは別人だった。
すでに、僕はどうすればいいのかわからなくなる。
「いやー、今日も暑いね」
すると、老人は今度は僕に声を掛けてきた。
「あ、そうですね」
急に話を振られてびっくりしたが、当たり障りなくそう答えた。
「でも、ここはいい感じに冷房も聞いているし、何よりコーヒーがうまい。まあ、私はカフェインを控えるように言われているから、もう飲めないけれどね」
「そうなんですね」
老人はうんうんと笑顔を浮かべながら頷いている。
「私は10年前からこの店に通っているけれど、マスターも他のお客さんも本当に良い人だよ。君たちにも良い出会いがあるといいね」
老人の穏やかな言葉を聞くうちに、僕はまた少し緊張がほぐれたように感じた。
まずは少しでもいいから、やれることを増やしていこうと思った。
「はい。アイスティーできたよー」
「はい!」
野木さんの声を聞いて、僕はカウンターに向かった。
ちらっと目線を横に向けると、昭雄と美咲が僕の方に笑みを浮かべていた。
開店から3時間後。昼のピークも無事にやり過ごし、最初に来ていた老人もお会計を済ませて席を立つ準備をしていた。
「今日はありがとうね」
老人は僕らを見て、そう感謝の言葉を述べて会釈をした。
「ありがとうございましたー」
老人が店を出た後、野木さんも笑顔でサムズアップをした。
「昭雄は慣れているからいいけれど、2人もなかなか良い働きだったよ。ありがとうな」
僕と美咲はそう褒められて、少し照れくさかった。
「私は前にも似たようなバイトをしていたので。でも、涼はバイト自体初めてだったよね」
「うん。でも、これからもうまくやれそうな気がする」
なんだか思った以上に、ここにいると自分に対する自信が付きそうだと思った。
案外、僕の心配事なんて、杞憂でしかなかったのかもしれない。
「とりあえず、ピークも過ぎたし、交代で休憩に入っていいよ」
野木さんがそう言った矢先、またドアベルが鳴り響いた。
「いらっしゃい。・・・ああ、君」
「えっ?」
僕らがドアの方を見ると、白いワンピース姿の真白が立っていた。
そして無表情な顔で、軽く会釈をしてきた。
「ようこそ。カウンター席でいい?」
「ええ」
昭雄が案内しようとする前に、真白はカウンター席に颯爽と歩いていき、スツールに腰掛けた。
僕も美咲も、少し驚いていた。
「ご注文は?」
「ブレンドコーヒーをホットで」
「外は暑かったけれど、ホットでいいの?」
「はい」
「オッケー」
堅物の真白に対しても、野木さんは笑顔を崩さず、コーヒーを淹れる準備を始めた。
その間、真白は店内をゆっくりと見回していく。
「どうかした?」
僕が尋ねると、真白は「別に」とそっけなく答えた。
「こういうお店、普段から来たことがないから」
「なるほど」
サイフォンからゆっくりと滴るコーヒーの雫とお湯の沸騰する音、そして振り子時計のカチカチ音だけが静かに響いている。
「やっぱり、この店気に入った?」
そこに昭雄が二カッと笑いながら、真白に話しかける。
「そうね。落ち着いている感じは嫌いじゃない」
「だってさ。野木さん」
「そりゃまあ、そういうコンセプトでやってるからな」
野木さんはサイフォンから淹れ終わったコーヒーカップを、真白の前に差し出した。
「どうも」
真白は受け取り、マスクを少し外してふーふーと息を吹きかけて少し冷ましていた。
「地域に根ざした喫茶店ってのは、開業前から考えていたからな。この辺りの人の憩いの場に少しでもなればと今でも思ってる」
そう言った後、「ま、どこも一緒だろうけどな」と野木さんは一人で笑った。
僕らも一応笑顔は作ってみたが、真白は無表情のまま、コーヒーをゆっくりと啜って、またマスクで顔を隠した。
そこに、美咲がずいっと前に出て、真白の横に立って言った。
「ねえ、郡山さん」
「何かしら?」
「私、バイトが16時に終わるんだけど、よかったらその後時間ある?」
美咲は笑顔を浮かべて真白にそう尋ねた。
しかし、真白はすぐに顔をふるふると横に振る。
「ごめんなさい。この後、病院に行ってからすぐ帰らないといけないから」
「そ、そっか。ごめんごめん」
断られた美咲は笑顔を作りながらも、少し動揺しているようにも見えた。
「どっか悪いのか?」
すると、今度は昭雄が心配そうに声を掛けた。
「ええ。少し体の中がね」
真白はお腹を擦りながらそう答えた。
「・・・ああ、ごめん」
昭雄もさすがに申し訳無さそうな顔を浮かべた。
先程からこのやり取りを見ていて、僕は真白が以前言ったことも、あながち間違いではないかもしれないと思った。
真白に対して、僕らはどう接したらいいのかわからないままでいる。
それはつまり、彼女のことをつまらないと思うには時間がかからないということでもある。
見た所、真白自身が人と距離を置こうとしているのはわかる。そんな彼女に、僕らが無理をして合わせる義理もない。
ただ、真白との約束がある限り、この状況を続けなければならない。
昭雄と美咲には、状況を知らぬまま無理をさせてしまっているわけだから、だいぶ申し訳無さは感じていた。
「・・・そろそろお暇するわ」
しばらくして、真白は飲み終えたコーヒーのカップをカウンターに置き、スツールから降りた。
そのままお会計を済ませ、店を出ていこうとした時、野木さんが真白に声を掛けた。
「いつでも寄っておいで。うちは地域の憩いの場所だから」
笑顔を浮かべる野木さんに対し、真白は一瞬目を見開いた後、ペコリとお辞儀をしてドアを開けて出ていった。
「・・・郡山さん、やっぱり不思議な人だよな」
昭雄は苦笑いを浮かべ、美咲は俯いたまま真白のいたカウンターを拭いていた。
「ああいう子はね。自分の居場所を探し続けているのさ」
そこに、野木さんがコーヒーカップを洗いながら言った。
「人から距離を置こうとしていても、やっぱり人との繋がりを求めずにはいられない。だから、ここにやってきたんだと思うよ」
「どうしてわかるんですか?」
思わず野木さんにそう尋ねると、野木さんは僕の方を見て、笑顔でこう答えた。
「そういうお客さんが、うちにはよく来るからね」
16時頃に初めてのバイトが終わり、僕と美咲は先に店を出た。
昭雄は残って、野木さんの手伝いを少しやっていくことになった。
店の前で別れようとした時、美咲に袖を引っ張られた。
「ねえ、少し付き合ってよ」
「付き合うって?」
「これから図書館に行くから」
先程、真白を誘おうとしたのはこのことらしい。
別に断る理由もなく、「うん。いいよ」と二つ返事で美咲に付いて行った。
自転車を押す美咲と並んで、図書館までの道をゆっくりと歩く。
「今日はお疲れ様」
「ああ、お疲れ」
初日だったこともあり、緊張感が一気に溶けて少し疲れはあった。
でも、美咲の誘いだったら、断るわけにはいかない。
それに図書館に行くのであれば、ついでに資料を漁るのもいいだろう。
「なんかいい雰囲気だったね、あの店」
「そうだな」
「昭和の温かさっていうの?その時代を知らないけれど、ああいうレトロな感じは嫌いじゃないかな」
美咲はしみじみとそう言った。
そう言えば、前はカラオケでバイトをしていたと言っていたけれど、そこはどうしたのだろうか?
「前のバイトは辞めたの?」
「うん。退職します!って店長に引導叩きつけてやった」
「いや、引導ってそういうものじゃないから」
「そんな雰囲気だったって意味だよ。それ聞いた店長がさ、最初は好きにしろって言ってたくせに、いざ最後の時間になると、やっぱり辞めないでくれって頭下げてきてさ。なんかスカッとした」
「店長、嫌なやつだったのか?」
「まあね。普通に怒鳴るし、残業代も渋るし。しかも怒鳴るのは気の弱そうな若い人だけなんだよ?ありえなくない?」
「確かに」
美咲は表情をコロコロ変えながら説明するので、なんだか見ていて面白かった。
「涼は人生初のアルバイトだったんでしょ?どうだった?」
「うーん。そうだな」
思ったほど感慨深いものはない、というのが正直な感想だった。
「さすがに緊張はしたよ。働くってどういうものなのかなって、ちょっと不安はあった。でも、初日からそこまで忙しくなかったし、野木さんは良い人だったし、それに2人が一緒に働いてくれたから、なんとなくやっていけそうな感じではあったかな」
「ふーん。そっか。私のおかげか」
「そうだね。あと昭雄も」
美咲はふんふんと嬉しそうに鼻を鳴らした。
「そういえば、図書館で何するの?」
「課題のことで調べ物するだけ」
僕の問いに、美咲はさらっとそう答えた。
「なんだ。僕もそうしようと思ってた」
「へえ。何について調べるの?」
「うちの近所の歴史を・・・」
そこまで言いかけて、僕は昨日の祖父のことを思い出した。
「涼?」
急に言葉を止めた僕に、美咲が不思議そうな顔をして覗き込んできた。
「・・・いや、なんでもない。ちょっと昨日のことを思い出して」
「何かあったの?」
「うん。まあ、おじいちゃんとね」
せっかくだからと、美咲に昨日の祖父とのやり取りを話してみた。
美咲はふんふんと頷いたり、時折「マジで?」とか反応を見せた。
「・・・涼も色々と苦労してんのね」
「まあ、それなりに」
こんな話を聞かされて、正直いい気分はしなかったと思う。
それに美咲は正義感が強くて生真面目だ。僕を慰めようと真剣に悩むかもしれない。
「やっぱり予定変更」
「えっ?」
すると、美咲は突然押していた自転車を方向転換させ、来た道を戻り始めた。
「これから美味しいもの食べに行こう」
「えっ?図書館は?」
「そんなのいつでも行けるし。それに今日は私が奢ってあげる」
美咲は二カッと笑って、自転車に跨がり始めた。
「さあ、ほら!行くよ!」
「あっ!ちょっと!」
自転車を漕ぎ始めた美咲を、僕は追いかける羽目になった。
「ほらほら!早く早く!」
前方で僕の方を振り返りながら、美咲は楽しそうに自転車を漕ぐ。
こんな暑い中、走らされるなんて。と思いつつも、僕は別に嫌な気分にはならなかった。
商店街を抜けて、西日の照りつける田舎道を通って約10分。
美咲の後を追って辿り着いたのは、一軒の駄菓子屋だった。
酸化してボロボロになった看板には「ふじきや」と書かれている。
店の入り口左横には煙草の看板とベンチがあって、右横にはアイスの入ったレトロなクーラーボックスが置かれていた。
昭和の面影をそのまま残した店構えに、僕は非日常を感じて、ここまで走ってきた疲労も少しは忘れられた。
店の邪魔にならない場所に自転車を停めた美咲は、ちょいちょいと僕を手招きする。
そして、クーラーボックスからソーダー味のアイスバーを2つ取り出し、引き戸を開けて店の中に入っていった。
僕もつづけて入ると、小学生くらいの子供3人組が、店内に所狭しと並んだ駄菓子を吟味していた。
「おばあちゃん、来たよー」
美咲が店のカウンターの方に声をかけると、奥から人の動く気配がした。
しばらくして、腰の曲がった白髪の老婆がのそのそと奥から出てきた。
「おや、美咲かい。よく来たね」
老婆は美咲の姿を見ると、ニカッと笑顔を浮かべた。
「うん。最近来れなくてごめんね」
「別にいいよ。学校、忙しいものね」
「昨日から夏休みだけどね」
「そうかいそうかい」
老婆は「よいしょ」と言いながら、カウンターの中の椅子に腰掛けた。
どうやら、美咲はこの店主らしい老婆と知り合いらしい。
「今日は友達連れてきたの」
そこで不意に美咲に紹介され、僕は老婆に会釈をした。
「あらあら、そうだったの。美咲もそういう年頃なんだね」
「えっ?あっ、違うよ!ただの友達!」
ムキになって言い返す美咲を、老婆はニコニコと笑って見ていた。
「あっ、この人、私のおばあちゃん」
「えっ!」
「どうも、孫がお世話になってます」
老婆は軽く驚いた僕に、ペコペコと頭を下げた。
知り合いどころか、身内だったらしい。
「すみませーん!これください!」
そこに、先程から店内にいた小学生たちがカウンターにやってきて、フーセンガムを3つ、老婆の前に置いた。
「はいはい。30円ね」
「ありがとー」
小学生らはお金をカウンターに置くと同時にすぐにフーセンガムを手にとって店を出ていった。
「私達もこれちょうだい」
美咲も手に持っていたアイスバーと120円をカウンターに置いた。
「はいはい、どうも。暑いから気をつけるんだよ」
「うん。また来るね」
美咲は笑顔で老婆に手を振り、外に出たので、僕も老婆に会釈して後に続いて店を出た。
「さあ、食べよ食べよ」
美咲は僕にアイスバーを一つ渡し、自分の分の袋を破いた。
「ありがとう」
アイスバーを受け取り、僕も袋から取り出して齧りついた。
「ちょっとがっかりした?」
「何が?」
「奢るって言っといて、アイスだったことに」
「いや、全然」
美味しいものを奢ると言われて、まさか定価60円のアイスバーとは思わなかったが、友達が奢ってくれたものであれば、別になんだって感謝はする。
それに、こんな場所に昔懐かしい駄菓子屋があることを知れたのも十分良いことだった。
「この駄菓子屋、いつからあるの?」
「おじいちゃんが生まれるずっと前から。ここ、おじいちゃんの生家だったんだよ。おじいちゃんはもう亡くなっているから、今はおばあちゃんがお店をやってるけれど」
美咲はアイスを小さな口で咀嚼しながら僕に色々と教えてくれた。
「私、小さい頃からずっとここに入り浸っていてさ。友達をここに連れて、ちょうどこのベンチに座って、アイス食べたりベーゴマやったりしてよく遊んでたよ」
「そうだったのか」
「まあ、その子も転校しちゃったんだけどね」
しばらく美咲の思い出話が続いた後、店主である彼女の祖母の話になった。
美咲の祖父とは幼なじみで、ここで幼少期を過ごして結婚。
美咲の母を産んで、やがて孫である美咲が産まれた。
「ああ見えて、昔は結構怖かったんだよ。おばあちゃん」
「そうなの?」
「うん。昭和の常識にどっぷり浸かってた人だから、男はこうあるべきとか、女なんだからこんなことだめとか、私も小さい頃は色々と言われたよ」
「例えば?」
「私、女の子とおままごとするよりも、男の子と混ざって遊ぶのが好きだったんだよね。さっき言ったベーゴマもそうだけど、鬼ごっこしたり、土手でダンボールを敷いて、そりみたいにして滑ったり、喧嘩もいっぱいやったよ」
「結構活発な子だったんだな」
「まあね」
今の彼女のエネルギッシュな感じは、昔からの要素だったらしい。
確かに、彼女と話していると、女の子と話している感じは不思議としなかった。
まあ、これは言い方を誤れば彼女に失礼だろうから言わないでおいた。
「そのたびにおばあちゃんによく言われたよ。女なんだからお淑やかにしなさいって。あんたは毎回怪我ばっかりして。他の女の子は大人しく遊んでるのにって。そう言われるたびに、私はそんなのおかしいって反発してたな。うちのママも私の教育方針に口出すなっておばあちゃんと言い争いしてたよ」
とてもではないが、先程の老婆はそんなことで言い争いをする人にはとても見えなかった。
体も小さくて、柔らかい表情で笑う人に見えたから、余計にそう思う。
「でもね。私もママもおばあちゃんのことは嫌いじゃなかったよ。だって、おばあちゃんの考え方は昔は常識だったんだから。時代についていけなくなるのは誰にもあることだからね。今ではおばあちゃんも私にとやかく言わなくなったし、お母さんとも良好な関係だからね。まあ、うちの場合は時薬のおかげかな」
「時薬?」
「時間が経てば悪かったものも修復できるってこと。特に人間関係とかね」
美咲はアイスを食べながら、優しい笑顔を向けてきた。
「・・・もしかして、僕のことを慰めてくれてるの?」
そう尋ねると、美咲は「そうだよ」と、さも当たり前というような顔で言った。
「友達が辛そうにしてるんだから、励ますのは当たり前じゃん」
「・・・そうか。ありがとうな」
「あー。でも今の話で慰められたかは微妙か。あくまで私の家がそうだったってだけだし」
美咲は考え込むようにしていたが、手に持っていたアイスは少しずつ溶けている。
「アイス、溶けるよ?」
「えっ?あっ!ヤバッ!」
僕に指摘されて、美咲は慌ててアイスにかじりついた。
僕も同じようにアイスを一口食べるが、美咲が隣で溜息を吐くのが聞こえた。
「やっぱり、私の話なんか、大して役に立たないよね」
なんだか急にしおらしくなったので、僕は「そんなことない」とはっきり言った。
「美咲が僕のことを心配してくれているのはよくわかったし、すごくありがたいと思っているよ」
「でも、こんな話、アドバイスにもなんないじゃん」
「解決できるかどうかより、僕を気遣ってくれたことだけでも嬉しいよ。それに、僕の家も時薬でなんとかなるかもしれないからさ」
「本当?」
「うん」
まあ、僕の家の場合の時薬は、祖父の寿命になるかもしれないが、それは不謹慎すぎて言えない。
「・・・ありがとう」
すると、美咲はじっと僕の横顔を見た後、二カッと笑顔を浮かべた。
美咲の笑顔は不思議だ。向けられるとなんだかホッとするし、内側から活力が出てくる。
今すぐバンジージャンプしろと言われた時にこの笑顔を向けられたら、僕はすぐに飛び込んでしまうだろう。
「なあ、またここに来てもいいか?」
そう言って、僕がお店の方に顔を向けると、美咲は「もちろん!」と言ってサムズアップをした。
「『ふじきや』の売上貢献、よろしく」
「わかった」
それから僕らはアイスを食べた後も、店の前にしばらく入り浸った。
外ではひぐらしの切ない鳴き声が響き始めていた。
「色々とありがとう」
「ううん。気にしないで」
「ふじきや」からの帰り道で、僕は美咲にお礼を言った。
西日が煌々と僕らを照らし、虫たちの鳴き声も少し穏やかになっている。
もうすぐ、日が沈むのも近い。
「おじいちゃんと仲良くできるといいね」
「ああ。それもあるけれど、もう一つ」
「何?」
「郡山のこと、受け入れてくれてありがとう」
真白の件について言うと、美咲は自転車を押すのを止めて、顔を俯かせた。
「・・・まあ、私が最初に呼んだからね」
真白のことについて、僕は美咲がどう思っているのか知りたかった。
でも今の様子から見るに、あまり良い印象は抱いていないらしい。というより、どう扱って良いものかわかりかねているようにも見える。
「やっぱり、絡みづらいと思ってる?」
「わからない」
僕の問いかけに、美咲はそう答えた。
「涼はどう思ってるの?郡山さんのこと」
「僕は・・・」
言いかけてから色々と考える。
霊と交信する取引から仕方なく、なんてことは言えない。
だから、別の理由をでっち上げるしかなかった。
「美咲が郡山のこと気にしていたから、ちょっと話してみたんだ。そしたら、案外いい奴だと思って」
「本当に?」
「うん」
美咲は疑うような視線を向けてきて、少し僕の顔を覗き込むようにした。
「・・・あのさ。ちょっと聞きたいんだけど」
そして今度は目を逸らしながら頬を掻いてこう聞いてきた。
「涼って、郡山さんのこと、マジで好きなの?」
「えっ!違うよ!」
僕はうわずりながら否定したが、返ってそれが疑惑を助長するだけになった。
「・・・やっぱり、郡山さんのことが気になってるんだね?」
「いや、だから違うって!僕はただ・・・」
「ただ、何?」
今の美咲は、いつになく真剣だった。
こういう類の話は、普段なら冗談みたく、僕をおちょくって終わるはずなのに、美咲は何故か追求を止める気配がない。
「・・・郡山さんが家の近所だから」
「それだけ?」
まっすぐと僕を見据える美咲の目を、僕は直視できなかった。
このままでは変な誤解をされたままになるので、僕は美咲に一つ秘密を打ち明けた。
「実は、中学が同じだった」
「えっ?そうなの?」
「ああ。千葉にいたとき、同じ学校に通ってた。でも、その時は全く気にならなかったし、今も好きとかいう感情はない。ただ、同じ学校だったよしみがあるってだけ」
「そっか」
僕の答えを聞いて、美咲はようやく顔を逸し、自転車を再び押し出した。
「同じ学校だったんだね。郡山さんと」
「ああ」
「本当に好きとかじゃないの?」
「ああ」
「そっか。ならいいや」
何がいいのかはわからないが、美咲は笑顔を浮かべて謝ってきた。
「なんか、ごめんね。変に追求して」
「いや、別に・・・」
そこで、僕は昭雄に言われていたことを思い出す。
美咲はやっぱり僕のことが好きなのだろうか。
そうでなければ、こんなに真白と僕の関係をしつこく聞いてくるわけがない。
でも、それを美咲に確認する勇気はなかった。
そうこうしているうちに、バス停に辿り着いた。
「それじゃあ、またバイトでね」
「ああ、またな」
美咲は僕に手を振りながら自転車に跨り、軽快に駆け出して行った。
帰りのバスに乗っている時に、叔母から「今日はお刺身ね」というメッセージが届いた。
昔から祖父は刺し身が好きだった。
たぶん、祖父の要望になるべく答えようとしたのだろう。
時間が解決してくれることがあると美咲は言って、叔母は祖父のことを理解してあげようと言った。
祖父も今年で80歳になる。決して先が長いわけではない。
僕にできることは、いつか祖父と別れるその日までに祖父とうまくやっていくことだ。
これはある意味、祖父に対する同情に近いと思う。
でもそれでもいい。僕だって、今の祖父との関係をこのままにしておくつもりはないから。
残りわずかしか一緒に居られないからこそ、せめて良好な関係でありたい。
だって、僕らは家族だから。
でも、実の両親とも健全な関係を結べていない僕が言えることだろうか。
だって、それができていないからこそ、僕は・・・。
そこまで考えていた時、バスの自動案内が目的の停留所の名前を言い始めたので、僕は停車ボタンを押した。
やがて停留所に辿り着き、むわっとした生暖かい空気を浴びて外に出た。
西日が山の中腹から沈みかけている景色を背に、家までの道を一人歩き出す。
今日はなんとなく足取りが重い。というか体全体が鉛のように硬く感じる。
たぶん、バイトなんて慣れないことをしたから疲れているのだろう。
今日は晩御飯を食べたら、宿題もそこそこに済ませて早く寝たほうが良さそうだ。
いつもの帰り道を遅めに歩き、ようやく家に着いた頃には、陽が落ちて周囲は薄暗くなっていた。
「ただいま」
玄関の引き戸を開けて靴を脱ぐと、叔父が家にいた。
風呂上がりなのか、髪は濡れていて、タンクトップに短パンというラフな出で立ちだった。
「ああ、おかえり。バイトお疲れ様」
「うん」
「どうだった?初めての仕事は」
「ちょっと疲れた」
叔父の問いかけに、僕が力なく答えると、叔父は「そうか」と笑みを浮かべた。
「その疲れもいつかは慣れる。でも、それが働いてお金を得るってことだからな」
「そうだね」
その言葉に、僕は叔父の温かみを感じた。
僕は今日、初めて労働をした。そしてこの一日が、いつかはお金に変わる。
叔父も叔母も、案外大変なことをしてこの家を支えているのだと、僕はこの時実感した。
一方で、僕の父はどうだったのかと、ふと思い起こす。
仕事人間だった父は、どういう思いで仕事をしていたのだろうかと。
「風呂、湧いてるから先に入るか?」
「うん。そうする」
叔父の提案に乗り、僕は自分の部屋に向かった。
そして、自分の部屋へ向かう階段を昇り終えた時、部屋の襖の前に本が積まれているのが見えた。
僕はおもむろに本を手に取る。
タイトルには「〇〇町の昭和史」と書かれていて、白黒写真と細かい解説が書かれていた。
僕の住む地域の歴史について書かれている。
他の本も、この地域や修善寺に関する歴史的な資料集だった。
どれも埃が被っていて、色褪せている。
「涼くん。ご飯できたけど、先にお風呂に入る?」
その時、叔母の声がして僕は我に返った。
「・・・先にご飯にする!」
叔母に向かってそう声を張った後、僕は本を全て抱えて部屋に持ち込んだ。
そして居間に降りると、すでにテーブルには食事が並んでいて、祖父と叔父がビールを飲んでいた。
「お仕事、お疲れ様ね」
「うん」
料理を並べ終えた叔母は椅子に座りながら僕に笑顔を向けた。
「ねえ、おじいちゃん」
「なんだ?」
椅子に腰掛けた僕は、ビールをちびちびと飲んでいる祖父に向かって言った。
「部屋の前にあった本、ありがとう」
叔父も叔母もなんのことかと首を傾げていた。
あの本は全て、たぶん蔵に保管されていたものだと思う。
そして、蔵のことに詳しい祖父が取り出してくれたのだろう。
祖父は、ふんと鼻を鳴らし、刺し身を一切れ取った。
「勝手に蔵を荒らされたらかなわんからな」
素直になれない祖父に、僕は思わず笑みをこぼした。
「とりあえず、ご飯食べようか」
「そうね」
叔父も叔母も察したのか、笑顔を浮かべて両手を合わせた。
「いただきます」
僕も同じように手を合わせ、食事に手を付けた。
バイトを続けて一週間が経った。
そっちは順調だったが、地域の歴史の課題と夏休みの宿題はそうでもない。
祖父が用意してくれた本にさっと目を通してみたが、案外書いている内容が難しすぎて、全部読むには時間が必要だった。
自分にとって必要な箇所だけ抜粋しようと思って取り組んでいるものの、こういう作業は昔から得意ではない。
5教科の宿題に関しては、まあ面倒くささで停滞している。
そろそろ8月に入ろうとしているのに、このペースでは先が思いやられた。
旅行は8月の後半に行くことになりそうだった。
バイトの給料も8月の15日には出る予定だったから、20日辺りで皆考えている。
そろそろ旅行の話もしなければならないだろう。
8月に課題の件で集合するタイミングで、旅行のことも話し合おうと美咲は提案していた。
今日は僕だけバイトも休みなので、午前中から宿題と課題に取り組んでいた。
祖父の用意してくれた資料は、家の歴史についてというより、この地域一帯の歴史について書かれているもので、自分の家のルーツを探るものではなさそうだった。
いっそ、自分の家の歴史というテーマから見直さなければならないかもしれない。
ふと、祖母からもらったノートを手に取る。
もうすぐ祖母が亡くなって2年になる。
この課題を祖母への手向けにするのもいいかと思っていたが、どうにもうまく行かないものだ。
ある意味、僕という人間のルーツを知ることは、僕自身を知ることでもあるような気がしている。
僕の遺伝子には、どういう人間の過去が巡り巡って流れているのか。家系を辿っていく中に、過去の先祖の生き方がある。
僕がどういう人間で、何を彼らから受け継いでいるのか。人間とは、自分が何者であるかを知りたくなる生き物だ。
そのヒントが、過去に隠されているような気がしている。
そこまで思想にふけっているうちに、スマホから電話が鳴った。
叔母からだった。
「はい。もしもし?」
「涼くん、ごめん。家にお弁当忘れてきちゃったみたいなの。台所に置いてあると思うから、届けに来てもらえるかしら?」
叔母はヒソヒソ声で話していた。
「うん。いいよ。すぐにそっちに行くから」
「ありがとうね。本当にごめんなさい」
「うん。大丈夫」
叔母は申し訳なさそうにしていたけれど、バスの運賃は定期でなんとかなるし、もしかしたら「太陽書堂」に行けば、課題に必要な資料も手に入るかもしれない。それにちょうど宿題も区切りがよかったから、外に行くのは良い気分転換でもある。
電話を切ってすぐに、僕は財布だけ持って台所に向かった。
厨房というにふさわしいほどの広さの台所のシンクに、赤いバンダナで包まれたお弁当箱が置かれていた。
保冷剤を入れておき、僕はそれを掴んで外に出た。
今日は珍しく曇り空だった。
風も生暖かくて湿っている。
西日本の方から台風が来ているとニュースでやっていたが、もしかしたらこれから雨が降るかもしれない。
叔母は傘を持っているだろうか。
僕はビニール傘を2つ掴んで一歩を踏み出した。
バスに揺られている間も、雲行きはどんどん怪しくなっていく。
今日はさっさと店内の本を確認して、早めに退散しようと思った。
「太陽書堂」はそこまで大きな古書店ではない。確認するだけ確認して、あれば購入して、なかったら今度図書館でも利用すればいい。
バスを降りてしばらく歩き、「太陽書堂」の古い看板を見つけた。
そして、店の前でずっと立ち続けるあの日の霊も見た。
霊は僕の方に気が付き、ふっと笑みを向けた後、また店内をじっと見つめた。
もしかすると、この霊はこの店の地縛霊なのかもしれない。
でも、以前から叔母のお使いでこの店に足を踏み入れることはあったが、その時は霊なんて見えなかった。
もしかして、真白の霊と交信してしまったことで、また僕の力が強まってしまったから見えるようになったのだろうか。
霊の横を通って、僕は店内に入った。
叔母はカウンター席でパソコンを険しい顔でじっと見ている。
「叔母さん」
僕が声を掛けると、叔母さんは老眼鏡を掛けた目で僕の方を見た。
「あっ、涼くん。ごめんねー、本当に」
「大丈夫。お弁当、持ってきたよ」
カウンターの上にお弁当を乗せる。
「ありがとうね。これ、少しだけど、手間賃」
すると、叔母は財布から千円札を一枚取り出して、僕に渡してきた。
「いや、そんな大したことじゃないし」
「でも、わざわざこんな時に来てもらったし。お昼代にでもして」
「ありがとう」
遠慮しつつも、お金をもらえることは素直に嬉しかったので、僕はその千円札を受け取った。
これで店内の本でも買おうと思った。
「あと、傘も持ってきたよ。雨降りそうだから」
「あら、ごめんなさいね」
ついでにもう一本のビニール傘も叔母に渡し、僕はしばらく店内を物色することにした。
「うーん」
仕事に戻った叔母は、時折何かぶつぶつと独り言を呟き、首を傾げた。
「どうかしたの?」
「いえ、なんかね。前からやっぱり本の在庫が合わなくて」
気になって僕は叔母のいるカウンターの方に回って、一緒にパソコンを見た。
「店長が仕入れた本と、店内に置いてある本の数が合わないのよ」
僕もリストにざっと目を通した。日付と本のタイトルと出版社などが並び、その横に仕入れた数と在庫数などが書かれていたが、確かに個数が合っていないものがちらほらある。しかも、齟齬があるものの金額は1冊3000円くらいのものから、5000円くらいの価格まであり、決して安い値段ではなかった。
「もしかして、万引きとか?」
「それは思ったんだけど、このお店、直接店にくるお客さん少ないし、店内も死角ができないような作りにしてるからね」
「お客さん少ないのにどうやってやりくりしてるの?」
僕がそう聞くと、叔母は「これ」と言ってあるサイトを立ち上げた。
「太陽書堂」のホームページで、ネット販売ができる場所があった。
「今どきは全部ネットで取引みたいよ。他にもいくつか本の買い取り専用の通販サイトに登録してるの」
なるほど、最近の古書店はこうやって生き残っているのか。
わざわざ店に来る必要もなく、どんどん本が売れる仕組みになっているらしい。
でも、それだとなおさら、在庫数が合わないのもおかしい話である。
「澄江さん、ちょっといいですか?」
僕達がパソコンとにらめっこしているところに、エプロン姿の八城さんが奥から顔を出した。
「ああ、涼くん。来てたんだ」
「どうも」
軽く挨拶を交わすと、八城さんは本の仕分けの件で叔母に相談があると言って、叔母を連れ出した。
その間、僕は店内をまた物色してみる。
本棚には本のジャンルが書かれた札が貼られていて、僕は「歴史・学術書」と書かれた札の本棚の前に立って、一つずつ背表紙を眺めていた。
しらみ潰しに探してみるものの、僕が求めている内容の本はなさそうだった。
まあ、そもそも小さな店内だし、僕の目的にマッチした本があるとは到底思えない。それに、ネット通販に重きを置いているのであれば、なおさら店内の品揃えに期待はできなかった。
いっそ、叔母にそういう本の取り扱いがないか聞いてみようかと思った。
その時、店内に誰かが入ってくる音が聞こえた。
出入り口を見たが、すでに人の姿はない。
どうやら、店内の中央に置かれた本棚の向こう側にいるらしかった。
何やらがさごそと音がした後、客はすぐに店を出ていった。
ちらっと店の出入り口を見たが、黒いシャツとジーパン姿、そして中くらいのポーチを下げた若い男の背中が見えた。
ふと、それと同時に店の外に目をやると、まだ幽霊が店の外に立っている。
そして、幽霊は真剣な表情で僕の方を見て、若い男を指差していた。
思わず僕が外に出ると、すでに若い男は遠くにいて、それとすれ違うように、自転車がこちらに向かってやってきた。
「おっす。こんなところで何してんだ?」
昭雄だった。
彼の漕ぐ自転車の荷台には、食材が山盛りになったスーパーのビニール袋が乗っていた。
「よお。叔母さんに用事があって。そっちは?今日はバイトじゃなかったの?」
「ああ。ちょっと買い出し頼まれてさ」
昭雄は自転車に跨ったまま、空を見上げた。
「雨、降りそうだな」
「うん。台風も近いからな」
「こういう日はあんまりお客さん来ないんだよな」
どうやら、今日のバイトは暇らしい。
昭雄はだるそうな表情で頭を振った。
「あっ、昭雄くん。こんにちは」
そこにちょうど、奥の部屋で作業を終えたのか、叔母が戻ってきて昭雄にお辞儀をした。
昭雄も叔母に軽く会釈する。
「どうも。嫌な天気っすね」
「本当よね。昨日まであんなに快晴だったのに」
「確かにそうっすね・・・」
そんな世間話で苦笑いを浮かべていた昭雄が、急に真顔になった。
彼の視線は、奥の部屋の方に向けられていた。
「澄江さん、ありがとうございます。おかげで・・・」
叔母の背後から八城さんが顔を出すが、彼もまた昭雄の方を見て真顔になった。
「・・・てめえ」
次の瞬間、昭雄は自転車から乱暴に降り、店内にずかずかと入ってきた。
バランスを失った自転車が音を立てて倒れ、荷台の食材が地面に転がった。
昭雄は八城さんの胸ぐらに掴みかかり、右手で彼の頬を殴りだした。
「昭雄!」
「ちょっと!何してんの!?」
僕と叔母は突然のことで驚き、八城さんは引きつった顔をしていた。
「てめえ!どの面下げてここにいやがんだ!」
怒気を含んだ低い唸り声を上げた昭雄を、僕は叔母と二人ががりで止めた。
羽交い締めにされてもなお、昭雄は八城さんに向かっていこうとした。
「邪魔すんな!この!」
「澄江さん!警察!」
八城さんは悲鳴に近い声で叔母にそう言ったが、叔母は「とりあえず、落ち着いて!」と昭雄を止めるのに必死だった。
すると、八城さんは慌てた様子で奥に引っ込んでしまった。
「逃げんじゃねえよ!この人殺し!」
昭雄は見たこともない鋭い視線と憎しみで歪んだ顔をしていた。
その後、八城さんはどこかへ行ってしまい、戻ってこなかった。
昭雄はいつしか泣いていて、悔しそうに自転車を漕いで行ってしまった。
僕と叔母は昭雄が暴れた後の後始末をした。
しばらくして警察がやってきた。多分、八城さんが呼んだのだろう。
叔母が対応したけれど、客同士のトラブルがあって、両方とも逃げてしまったとだけ伝えていた。
店の外を見ると、幽霊が辛そうに顔を歪めているのが見えた。