1章
学校の期末テストも終わり、あとは長い夏休みを待つだけとなった、7月の朝。
年々日本全体が、異常な猛暑に襲われることが当たり前になりつつあるこの時代。
小さい頃はこの山に囲まれた地域も、避暑地として有名だったはずなのに、今では耐えられない暑さを毎年更新している。
今年は6月に入っても雨が少なく、7月に入って過去最高気温を記録する猛暑日が続くだろうと、今朝のニュースでもキャスターが言っていた。
毎年、どんどん夏が暑くなっていく。
今朝もうだるような暑さの中、僕は友人の武本昭雄と一緒に停留所で修善寺駅行きのバスを待っていた。
「あちい」
隣で昭雄は、今朝だけで3回目のその台詞を吐き、団扇を仰ぎながら制汗スプレーを鞄から取り出して、ワイシャツの下に吹きかけた。
冷気を噴出するスプレーを見ていると、昭雄が「使うか?」と僕に手渡してきた。
「ああ、ありがとう」
スプレーを受け取り、僕もワイシャツの下の肌に噴射した。
暑さでじりじりと焼ける肌に浴びせた強烈な冷気で、つかの間の涼しさを得る。
「悪いな」
「おう」
昭雄にスプレーを返し、僕はたまらず鞄からハンカチを取り出して額と首筋の汗を拭った。
「いよいよ温暖化も本気出してきやがったな」
団扇を仰ぎながら昭雄はだるそうに言った。
「この調子じゃ北極と南極の氷が溶け尽くされるのも時間の問題だな」
「まるでウォーターワールドの世界だな」
「はあ、ユニバ行きてー」
「夏場は人混みでさらに暑そうだけど」
そんな他愛もない会話をしていると、ようやくバスが停留所に到着した。
バスに乗り込むと、冷房の効いた中と外の寒暖差で、少し頭がぼうっとなった。
僕らは後ろの席に座り、じっと窓の外を眺める。
緑豊かな山々と、その下に広がる狩野川。
いつ見ても悪くないと思える田舎の風景。これでこの猛暑がなければ、もっと最高なのに。
「プールも行きてーな」
隣で昭雄が呟く。
それについては僕も同感だった。
「休みにでも行ってみるか?近所の市民プール」
「いいね。賛成」
昭雄はふっと笑って反対側の窓に視線を向けた。
昭雄と僕は、高校1年からずっとクラスメイトだった。しかもお互いの父親同士が幼馴染だったらしく、父親同士が子供の頃は祖父母の家に遊びに来るほどの仲だったらしい。
昭雄の家は僕の祖父母の家の近所だから、彼が小学校の頃は、よく僕の家の近くの川で釣りをしたり、友人たちと庭でかくれんぼとかもやったようだ。
僕が五島家の人間だと知ると、昭雄はすぐに僕と友達になってくれた。
それこそ、往年の親友に接するかのように。
それからというもの、昭雄は頻繁に僕の家に遊びに来てくれるし、彼の通う学校のことやクラスメイトのことも色々聞かせてくれた。
彼のサポートのおかげで、僕は転校先でも余所者として周囲から扱われることもなく、早々にクラスに馴染むことができた。
そんなことを思い出しているうちに、バスは学校前の停留所に到着する。
再び僕らは猛暑の中へと放り出される。
僕らの通う学校まで5分ほどの距離だが、そのいつもの距離がえらく長く感じられた。
通学路には、僕たちと同じ制服を着た生徒たちが、ちらほらと学校に向けて歩いている。
「あっ、そういや柳の課題、忘れてた」
通学路の途中で、昭雄が思い出したかのようにそう言うと、さらにげんなりとした表情になった。
「あいつ、宿題忘れるとねちっこく責めてくんだよな」
「災難だったな」
残念ながら、僕は柳先生の授業は受けていないから、今の僕には同情することしかできない。
「おはよう!」
そんな陰鬱なムードを吹き飛ばすように、炎天下の中を笑顔で駆けてくるショートヘアの女子が、僕らの背後から元気よく駆けつけてきた。
同じクラスの友人の清水美咲だった。
「おはよう」
「おっす。今日も絶好調だな」
「まあね。こう見えて元陸上部だったし」
美咲は堂々と胸を張って言った。
「あんたたちも、もう少し体を鍛えたら?朝のランニング、気持ちいいよ」
「筋トレなら毎日やってるっての」
「じゃあ何?なんでそんなに元気ないのよ」
「暑いからに決まってんだろう」
「それと、柳先生の課題、忘れたんだってさ」
「えー、なにやってんの?」
昭雄はともかく何故か僕にまで、美咲は呆れたと言わんばかりの表情を向けた。
「あいつの授業取ってるなら、もっと気をつけないと」
「わかってるよ。でも昨日は忙しかったんだ」
「どうせ夜遅くまでゲームやってただけでしょ?」
「そうだよ。日課なんだから仕方ないだろ」
昭雄は額から滴る汗を手で払った。美咲も汗を掻いているが、彼女には何故かそれが清々しく見えるから不思議だ。
「てか、こんなクソ暑い中でよくランニングできるな。しかも学校行く前に」
「なによ。馬鹿にしてんの?」
「まあまあ。二人とも」
この二人のやりとりを制止するのは、いつも僕の役目だった。
しかしこうも暑いと、いつもの二人のじゃれ合いも最後まで聞く気になれない。
「涼も少しは鍛えなよ。あっ、今度私と一緒に走る?」
「いや、遠慮しておく」
僕がそう言うと、「つれないなー」と美咲はふてくされた。
美咲も1年の頃から同じクラスだった。
彼女は小学校の頃から昭雄と友達だったらしく、僕も昭雄から紹介されて仲良くなった。
彼女もまた2年になってクラスが同じになり、しかも席も僕を挟んで隣になった。
そこまで来ると、僕らの間には運命的な何かがあるんじゃないかと感じてしまうが、今の所、僕らは友人以上でもそれ以下でもない。
三人で一緒に教室で雑談し、昼休みに机を並べては弁当を食い、通学路を並んで歩く。
ただ、それだけだった。
社交的で快活な美咲は、文化系の僕とも積極的に仲良くなろうとしてくれた。
ちなみに、僕らは三人揃って帰宅部だ。
「ほら、早くしないと遅刻するよ」
「はあ、帰りてー」
美咲にせかされ、僕らは校門へと足早に向かった。
教室はすでに喧騒で溢れていた。
皆、楽しそうに自分たちのグループを作り、群れの中で笑い合っている。
そういう光景は良いのだが、とにかく教室が暑いのが難点だった。
都内の学校では教室にクーラーをつけているところもあるらしいが、ここのような田舎の学校では、未だに扇風機が1台、気休め程度に置かれているだけだ。
あとはせいぜい、窓を全開にするくらいで、何とか暑さを凌ぐよう強いられている。
「はあ、だりいな」
昭雄は教室に入ると、席に着くや否や、机に突っ伏した。
「全然涼しくねえよ」
「まあ、しょうがない」
僕の席は昭雄の右隣にある。席に座って汗を拭いた後、僕は水筒を取り出して、中でキンキンに冷えた麦茶を一口飲んだ。
「飲むか?」
僕が水筒を昭雄に差し出すと、昭雄は「ありがたい」と言って、水筒を受け取ってごくごくと飲んだ。
「あー、生き返った。ありがとさん」
「いいよ。スプレーの貸し」
僕が水筒をしまうと、昭雄はうんと背伸びをする。
「そういえばこの時期、よくかけっことかしたよな。家の近所で」
「ああ、そうそう。近所の空き地に小さい旗を差しておいてさ。先に旗を取った勝ちだったよね」
昭雄が美咲の方を向いてそう言うと、美咲は懐かしそうに笑顔を浮かべた。
「それで、負けた方がジュース奢る約束したことあったっけ」
美咲も昭雄も、楽しそうに当時のことを思い出す。
「昭雄、昔は足も遅かったし、よく転んでばっかりだったけど、だんだん私に追いつけるようになってさ」
「まあな。高学年になってからは俺が勝つ時の方が多かった」
昭雄は小学5年生の頃からバスケットをやっていた。
どうやら、彼の兄の影響があるようなのだが、今の昭雄はバスケをやっていない。
その理由も、彼の兄に原因があった。
僕は、彼からその理由を未だに詳しく聞けないでいたが、昭雄には内緒で、美咲に理由を尋ねたことがあった。
「昭雄のお兄さん、3年前に事故で亡くなったんだよね」
美咲の口からそう言われてしまえば、それ以上聞くのは野暮というものだった。
おそらく、昭雄は兄の死に影響を受けて、バスケから退いた。
そんなところだと思うしかない。
そして、美咲からはその話をしたことを昭雄には言わないでと釘も刺された。
誰しも、何かしら触れられたくない過去というものはある。
例えば、クラスメイトの郡山真白にも、そんな過去があるのかもしれないと、雰囲気で感じていた。
ふと、視線を教室の窓際に移すと、今日も彼女は相変わらず、端っこの自分の席で独り、黙々と読書をしている。
このクラスに馴染んで3ヶ月以上が経つが、未だに真白は周りと積極的に関わるそぶりを見せない。
なんと言うか、自分の周りに人が存在しないかのように振舞っている。
寂しそうな雰囲気は一切ない。それどころか、彼女は常に気配を消しているようで、彼女の半径1メートルから50センチの距離に近づいても、存在に気付かせないようにしているみたいだった。
まるで、全ての人間から自分を隠そうとする、世捨て人であるかのように、彼女の周辺には静寂が漂っていた。
こんな暑い中でも常に黒いマスクで口元を隠している彼女のその奇妙な相貌も、ある意味近寄りがたい雰囲気を纏っている。
「どこじっと見つめてんの?」
突然、美咲に肩を叩かれた。
「昭雄はともかく、涼まで気が緩んでたら話にならないでしょ」
美咲は呆れた様子で僕に言った。
「てか、涼さ。ずっと郡山さんのこと見てたけど、そんなに彼女が気になるわけ?」
「えっ?いや、そういうわけじゃ・・・」
「まあ、涼は黒髪ロングヘアの子がタイプだからな」
「なっ!お前・・・」
「だって、お前の持ってる漫画のヒロイン。皆そういうタイプじゃん」
べらべらと僕の嗜好を話しだす昭雄の口を塞ごうとした。
「なんだよ。本当のことじゃんか」
「ここで言う必要ないだろ」
「ふーん、そうなんだー」
美咲がじとっとした様子で僕を見てきた。なんだか、その視線が痛い。
「まあ確かに彼女、美人ではあるよね。顔もちっちゃいし、スレンダーで凛とした感じもあってさ」
「でも、一切の人間を寄せ付けない堅物だけどな」
昭雄はちらりと澪の後ろ姿を見て言った。
「これまで何人も男子たちが話しかけに行って、にべもなく玉砕してるんだ。難攻不落の要塞だよ」
「せめて高根の花って言ってあげなさいよ。そこは」
美咲はため息交じりに言った。
「まあ、なんていうの?男って、皆高い理想を求めすぎだよね?」
「おいおい、よく考えてみろよ?自分に妥協して、別に好きでも無い相手と付き合いたいと思うか?そんな相手と一緒にいたって、地獄みたいなもんだろ?」
「違うって。あたしが言いたいのはさ・・・」
美咲が持論を展開しようとした矢先、ホームルームのチャイムが鳴った。
「はあ、ともかく、もっと身の丈にあった恋をするのだって楽しいって話よ」
「身の丈にあった恋愛って言われてもな。理想を求めてなんぼな気もするけど」
昭雄は腕を組みながら言った。
「言っとくけど、僕は郡山さんにそういうことは思ってないからな」
「はいはい。今は、だろ?」
昭雄ににやつかれ、思わず深いため息が出た。
勘違いしてほしくはないが、この時の僕は本当に真白に対してそういう感情を持っていたわけではないのだ。
ただ、彼女のことはある程度のことを聞いていたから、少し気になってはいた。
彼女も僕と同じで千葉出身だし、彼女からあるお願いをされたこともあった。
僕はそれが少しだけ気になっているだけなのだ。
僕が単なるクラスメイトでしかない真白のことを、そこまで気にしているのには、ちゃんと理由がある。
真白とは同じ千葉県内の近い地域に住んでいた上に、中学校も同じだった。
とはいえ、彼女と直接話をしたことはない。あくまで彼女は別のクラスだったし、廊下ですれ違うことがあるかないか、それくらいの関係だった。
その頃から、彼女に関するちょっとした噂も耳に入ってきていた。
「あいつは売春をしている」
「親から虐待を受けた所為で、顔に大きな火傷の痕がある」
当時の僕は、くだらない噂程度にしか思っていなかった。
どうせ、スクールカースト上位の連中が、退屈しのぎに根暗の奴をイジる目的で流したしょうもないデタラメだろう。
だけど、それが事実か嘘かは、当時はどうでもよかった。
真白という存在自体、僕の人生には何の影響も及ぼさない、ただの群衆の一人でしかなかったからだ。
たまに授業で顔を見かけるだけで、関わりは一切ない。昔から彼女は、いつも一人で本を読んでいる典型的な根暗だった。
当時から彼女が周囲に発している雰囲気は、夏場でも凍てつくような冷気を含んでいた。
そんな人間と関わることはないと、僕はずっと思っていた。
そう、4月のあの日までは。
「・・・・」
ぼんやりと真白のことを思い返していた僕は、ツンツンと背中に尖ったものを刺されて我に返った。
そっと振り返ると、美咲がペン先で僕を突いていた。
美咲は「前を見ろ」と目配せした。
言われた通り前を向くと、僕の前に座るクラスメイトが、回されてきたプリントを僕に渡そうとしていたところだった。
一向にプリントを受け取られないので、前の席の男子がチラッと僕を睨んでいた。
「おっと」
慌てて受け取って後ろに座る美咲に回した。
「悪い」
美咲にそう呟くと、美咲は身を乗り出し、僕の耳元で、「夜明けの行灯」と呟いた。
「えっ?」
僕が聞き返そうとしたとき、先生が話をし始めてしまった。
その様子を、僕の隣に座る昭雄がニヤニヤと笑っていた。
今は今学期最後の日本史の授業中。
教室内は、なんとなく気怠けな雰囲気に包まれていた。
「それじゃあ、夏休みの課題についてですが、さっき説明した問題集の他に、今配ったプリントの内容にも取り組んでもらいます」
問題集のどこが課題範囲か聞き逃してしまったが、あとで美咲に聞けばいいと気を取り直し、とりあえず目の前のプリントを注視した。
プリントには、「自分の住む地域について調べる」と書いてある。
「皆さんの住むこの地域の郷土史や文化などを調べてレポートにまとめてもらいます。写真を載せても結構ですが、A4サイズ400字詰めで最低5枚以上は書いてもらいます」
先生の言葉に、周囲は少し面倒くさそうな反応を見せた。
「歴史を学ぶにあたって、自分の住んでいる地域を知るというのは一つのきっかけになると思います。自分の生まれ育った土地に対する愛着にも繋がると思いますので、皆さんには真剣に取り組んでもらいたいです」
その後、授業終了のチャイムが鳴り響き、今学期最後の日本史の授業が終わった。
「もう、ぼーっとしすぎ。ちょっと夏休み早めに来ちゃった感じ?」
席を立ちながら美咲は茶化すように言った。
「まあ、ちょっと考え事をね。それでさ、あとで問題集の範囲、教えてくれる?」
「えー、どうしよっかなー」
僕が頼むと、美咲は優越感で満ちた笑顔を浮かべる。
「ジュース奢るから、頼むよ」
「じゃあいいよ」
僕も席を立ち、教科書とノートを無造作に鞄に入れた。
昭雄もうんと背伸びをした後、ゆっくりと立ち上がった。
「はあ、腹減った。早く飯食おうぜ」
「だな」
「私もお腹ペコペコ」
昼食が待ち切れない様子の昭雄と美咲に対し、僕は敢えてマイペースな感じを出した。
その方が、なんとなく僕らのバランスが取れるような気がした。
「あっ、さっきの課題だけどさ」
「ん?」
美咲が何かをひらめいたように、人差し指を立てていった。
「皆で一緒にやらない?それぞれで協力しあって、調べ物とかするの」
「は?それって大丈夫なのか?」
「複数でやってはいけないって言われてないし」
「まあ、その方が早く終わるだろうな」
どうなんだろう。本当にいいのだろうか?
懸念を抱く僕とは裏腹に美咲はノリノリだったし、昭雄もやぶさかではないような感じだった。
「大丈夫だって。内容が被らなければいいんだから」
「珍しいな。真面目なお前がそんな提案してくるなんて」
「別にいいでしょ?私だって面倒な課題をとっとと終わらせて、夏を満喫したいの」
昭雄の言葉に、美咲はふてぶてしい笑みを浮かべてそう答える。
実は以前から、僕らは夏休みに旅行に行こうかと計画していた。
そこまで遠くに行けないが、日帰りで行ける場所とかを探しているところだった。
「旅行計画のためにも、こんな課題、早めに終わらせておきたいし」
「まあ、確かにそうかもな」
美咲の提案に、昭雄も納得はしているようだった。
友人と一緒に宿題、か。
なんだかそれって青春っぽいな、と思う自分がいた。
「・・・そうだね。そうしようか」
「よし!じゃあ決まり!」
僕が提案に乗ると、美咲はにっと歯を見せて笑った。
ふと、そんな僕らの横を、真白がすっと通り過ぎていく。
一瞬、彼女が僕らの方を一瞥するのがわかったが、他の2人は気づいていなかった。
「うわー、美味しそう」
美咲が僕の弁当箱を覗き込んで感嘆する。
今日の弁当は叔母が作ってくれたオムライスだった。
黄色の焼き卵がチキンライスを覆っていて、箱一面に敷き詰められている。
「毎回思うけど、涼の叔母さんってマジで料理うまいよね」
「それを聞いたら叔母さんも喜ぶと思う」
「いいよなー、見てるだけで美味いってわかる」
美咲と昭雄に褒められ、僕が作ったわけではないにしても、良い気分だった。
「美咲のお弁当だって、美味しそうじゃん」
「ん?そう?」
美咲は首を傾げながら自分の弁当を見た。
のりたまのふりかけが掛ったご飯に、唐揚げとタコウィンナー、卵焼きというオーソドックスな弁当だった。
彼女はいつも、自分で弁当を作っているらしい。
「よくある弁当だよ。時間がなかったら、唐揚げは冷凍にしているし、タコウィンナーは昨日の弟の弁当の余りだし」
「弟の分も作ってんのかよ」
「うん。朝早くに起きて」
「俺には出来ねえな」
感心している昭雄はというと、購買で買ってきたクリームパンとカツのサンドイッチだった。
彼は今は母親と二人暮らしで、母親が仕事で朝が早く夜も遅いため、基本は弁当を作らずに購買で買うか、学校の途中のコンビニで買って済ませていた。
「私も涼の叔母さんに料理習おうかな?」
「えっ?」
ふと、美咲がそう呟いた。
「私、もっと料理のレパートリー増やしたいんだよね。そしたら女子力も上がりそうじゃない?」
「女子力ってお前」
乾いた笑顔を浮かべる昭雄に「何よ?」と美咲が噛み付いた。
教室の隅で食事を持ち寄り、こうして賑やかに食べる。
もし、ずっと千葉にいたとしたら、僕はこんな一時は送れなかっただろうと思っている。
そしてふと、自分の席に座っている真白に視線が移った。
彼女はいつものように本を読んでいる。
そういえば、真白が食事を食べているところを僕は見たことがない。おそらく、誰もがそうだと思う。
「おーい。また目移り?」
俺の視界の中に美咲の手が出てきた。
「あっ、ごめん」
「そんなに好きなら告っちゃえばいいじゃん」
美咲は面白半分に僕を茶化してきた。
「だからそんなんじゃないって・・・」
「でも、郡山さんとは近所でしょ?チャンスならいくらでもあるじゃん」
「なんだよ、チャンスって」
本当に、僕は真白にそういう想いは抱いていない。
「そういうのじゃないよ」
「まあなんにせよ、涼にはもったいねえよ。あんな美少女は」
昭雄はチラッと真白を横目で見て、小声で言った。
確かに真白は傍から見れば整った顔立ちをしている。しかし、常に人を寄せ付けないオーラを出しているような人間なので、男子もなかなか寄り付かないみたいだ。
「・・・あのさ。せっかく郡山さんの話になったから、ちょっと提案したいんだけど」
そんなことを考えていた時に、美咲が急に真神妙な面持ちになって、こう切り出してきた。
「旅行のメンバーに、郡山さんも加えていいかな?」
「は?」
「えっ?」
僕も昭雄も、一瞬唖然となる。
「さすがに女子が私一人だと、親も心配するしさ。もうひとり女子がいた方が、それだけ旅行もしやすいと思うの」
「まあ、そうかもしれないけど」
「ね、いい考えだと思わない?それに課題も4人でやれば、その分早く終わるよ」
美咲からの意外な提案に、僕は戸惑った。
「へえ、面白いじゃん」
一方の昭雄は、ふてぶてしく笑っている。
「俺は全然オッケー。なんか楽しくなりそうだし」
「あっ。あんた、今変なこと考えたでしょ?」
そんな昭雄に、美咲がじっと睨みつける。
「なんだよ。変なことって」
「涼。ちゃんと昭雄の手綱を握っとくんだよ?いい?」
「それどういう意味だよ?」
なんとなく、ここで別の意見を言うのが憚られた。
僕は納得なんてしていない。
真白が一緒となると、「彼女」も旅についてくることになるだろう。
それだけは、僕としてはなんとしても避けたかった。
僕が真白と最初に関わったのは、4月の音楽の授業のことだ。
芸術科目は選択式になっていて、僕は小学校の頃にピアノを習っていたこともあり、音楽を選択していた。
その日の授業は教科書の指定の内容を読んで、その感想を書くというものだった。
先生は指示を出した後に、音楽準備室の方へと引っ込んでしまったので、周囲はボリュームを押さえつつ、雑談に興じていた。
この授業に関しては知り合いがいなかったのだが、僕の隣にはあの真白が座っていた。
これまで彼女と僕には何の接点もなかったし、これからも関わりがあることはない。
僕は勝手にそう思っていた。
教科書を見比べながら、ノートに感想を書き込んでいた時、足元でカランと何かが小さく音を立てた。
ノートから顔を逸らすと、鉛筆が一本、僕の足元にコロコロと転がってくる。
「・・・・」
隣で真白は鉛筆を睨み付けていた。彼女の右手が先程まで鉛筆を持っていたかのようなフォームで止まっている。
どうやら落ちているのは真白の鉛筆のようだが、彼女はそのまま何事もなかったように筆箱の中を探りだした。
親切心で、僕は机の下に手を突っ込み、彼女の鉛筆を取ってやった。
真白はまるでその厚意が意外だったかのように、僕の方を見て目を見開いている。
「はい。これ」
僕が真白に鉛筆を差し出すと、彼女は僕の方を一瞥し、また鉛筆に視線を戻した。
「・・・ありがと」
かろうじて聞こえる程度の小さな声で、真白はお礼を言ってきた。
初めて聞く彼女の声は、まるですぐに割れるプレパラートみたいに、繊細で細い声だった。
彼女の細くて白い手が、僕の持つ鉛筆に伸びてくる。
その時、たまたま僕の指と彼女の指が触れた。
その瞬間、僕は真白の背後に女の子を見た。
髪は黒いおかっぱで、セーラー服を着ていたその子は、じっと真白を見つめていた。
ところが、次に僕の方に顔を向けて、切実な表情を浮かべて呟いた。
「探して」
その瞬間、女の子はすっと消えた。
代わりに目の前には怪訝な表情を浮かべる真白の顔があった。
「あっ」
僕は我に返り、鉛筆を持つ手を緩めた。
「ごめん」
そう謝るが、真白は鉛筆を受け取った途端、さっと顔を逸らしてしまった。
ふと、背後に視線を感じて振り返る。
遠くの席で二人の女子がクスクスと笑っていた。
別のクラスの人間だった。
彼女らの笑いから、僅かに悪意を感じる。
僕も姿勢を前に正して、再び作業に取りかかるが、その間も真白と僕の間に気まずい雰囲気が漂う。
作業をしながら、「あれ」を再び見てしまったことに、僕は頭を悩ませた。
その日の放課後、昭雄が僕の家に遊びに来た。
明日から休みだし、のんびりと過ごしたいらしく、僕のクリアできなかったゲームを途中まで進めてくれることになった。
「よっ、ほっ」
昭雄はテレビの画面を凝視しながらコントローラーを巧みに操作して、ステージをどんどん進んでいく。
昭雄に勧められて中古で購入したアクションゲームだが、僕には少し難しすぎた。
「よっしゃ!見たか?ざっとこんなもんよ」
ステージをクリアした昭雄は自信満々でコントローラーを置いた。
「やっぱり凄いな。昭雄は」
「なんてことねえよ。日々の練習の成果さ。お前、毎日やってるのか?」
「実は、あんまり・・・」
「じゃあ今日から特訓だな」
たかがゲームぐらい、だと思うかもしれないが、僕は今まで何かを突き詰めて極めたことがない。
むしろゲーム一つにも熱を持てないのであれば、一体何に夢中になれるというのだろうか。
「二人とも、入るわよ」
そこにちょうど、叔母がジュースとお菓子を持ってきてくれた。
「あっ、すみません。ありがとうございます」
昭雄は何度も叔母に会釈を繰り返した。
「いいのよ。昭雄くん、いつもありがとうね。涼くんの友達でいてくれて」
「いやいや。こっちこそ、いつも涼には世話になってますから」
昭雄は調子の良いことを言ってニカニカと笑っている。
叔母もそれに答えるようにニッコリと笑って「じゃあ、ごゆっくり」と言い残して去っていった。
「お世辞なんて言っても何もでないぞ」
叔母がいなくなった後、僕は昭雄にそっと言った。
「いやいや、本当のことだって。勉強だって教えてくれるし」
「でもたまにだろ?お前の方が僕より成績はいいんだから」
「まあとにかく、俺の友達でいるだけでも感謝してるんだよ。そう自分を卑下するなって」
そんな台詞を淀みなく言える昭雄は、やっぱり大したものだと思う。
「ところでさ。夏休みの予定だけど、どうする?」
そこで不意に、昭雄が話題を変えてきた。お菓子のポップコーンを1つ摘んで口に放り込む。
「まだ4月だぞ?」
「今のうちに決めておきたいって美咲が言ってたんだよ。なんかそっちは予定でもあるのか?」
「いや、特にはないけど」
昭雄の問いに、首を傾げつつ答えた。
「だったらさ。旅行でも行かねえか?熱海とかそこら辺」
「旅行?」
「ああ、美咲も誘っての一泊二日。それか日帰りで温泉旅行とか」
なかなかの提案だった。
去年までは近場のレジャースポットで遊ぶことがせいぜいだったのに、急に熱海なんて。
「温泉なら、この近くでも入れるじゃん」
「そういう問題じゃねえよ」
昭雄は至って真面目そうだった。
「いいか。来年は俺たちも受験でそんな暇もないくらい勉強漬けの夏を過ごすことになるんだ。これは言わば思い出を作るラストチャンスなんだよ」
「思い出って僕たちの?」
「まあ、それもあるけど、お前と美咲のだよ」
「えっ?」
「お前、わかんねえの?美咲がお前のこと、どう思ってんのか」
何のことかわからないでいると、昭雄が呆れた様子で言った。
「マジかよ。お前、一年もあいつと一緒にいて気づかなかったのか?」
「・・・もしかして、美咲って僕のこと」
「そうだよ。ずっと前からな」
「いや、まさか。僕みたいな奴を?」
にわかに信じがたい話だった。
今まで、僕は美咲のことを単なる友人としか見ていなかったし、美咲もそうだと思っていた。
「あいつはこの夏休みに賭けてるはずだ。でも、あいつも女だからな。お前からそういう言葉を掛けてくれるのを待ってるはずだ」
「本当に?」
「てなわけで、まずは今年の夏祭りに美咲を誘え」
「えっ?」
「もちろんお前からな。んで、そこで告るか、旅行の時に告るかはお前の自由だ」
「いや、ちょっと待てって」
僕はまだ覚悟ができていない。
というか、美咲が僕にそんな気持ちを抱いていたことも今知ったばかりなのだ。
展開が急すぎて、僕はどうしたらいいかわからなかった。
「大丈夫だって。いつも通りに誘えばいいんだよ」
「いつも通りって言ってもな」
そんな話を聞いたら、僕も妙に意識してしまうではないか。
次に美咲に会う時に、僕はどんな顔で会えばいいというのか。
「ていうか、旅行って言っても、その費用とかどうするんだよ。言っとくけど、そこまで懐事情に余裕はないぞ」
「それは心配ない。俺にいい考えがあるから」
昭雄が不敵に笑い、妙案を口にしようとした矢先、下から怒鳴り声がした。
「おい!涼!」
昭雄もさすがにびくっと体を震わせた。
ああ、またか。
僕は溜息を吐きながら下の階に降りていく。
「何?おじいちゃん」
廊下では祖父が険しい形相で仁王立ちしていた。
「昨日頼んだ庭の仕事はどうしたんだ?」
「あれは明日やるって叔父さんに言ったはずだけど?」
「何?そんなこと聞いてないぞ!」
「いや、さすがに学校終わった後には無理だって・・・」
「家に籠って友達と遊ぶ暇はあるのにか!」
腹の底まで響くような怒鳴り声に、僕は一瞬たじろいだ。
「とにかく。今日は無理だから、明日の昼までにはやるよ」
それを聞いた祖父は大きな舌打ちをした。
「・・・絶対にやるんだぞ。まったく」
どしどしと足音を立てながら、祖父は廊下の奥へと消えて行った。
再び溜息を吐いた後、僕はまた階段を上って部屋へと戻る。
昭雄は再びゲームを始めていて、テレビの画面を食い入るように見ながら、コントローラーを小刻みに操作していた。
「悪いな、驚かせて」
「いや、大丈夫」
そう言いつつも、昭雄は最初のステージでミスをしてキャラクターを死なせていた。
コントローラーを置いた昭雄は、うんと背伸びをして、すくっと立ち上がった。
「やっぱ、部屋にこもりきりってのも良くないよな」
そう言って、自分の荷物を手に取り、階段の手すりに手を掛けた。
「なあ、ちょっと外行こうぜ。おすすめの場所があるんだ」
「・・・ああ」
昭雄に手招きされ、僕も荷物を持って階段を下りた。
今はなんとなく、この部屋にいることが悪いことのような気分になっていた。
近所を歩いていくと、少し生ぬるい風が独特の青々とした香りを運んでくる。
道路にも枝が侵入するほど木々が生い茂っていて、草木からしても放つ存在感がちょっと違う。
自然の中に人々が住まわせてもらっているような感覚だ。
田んぼと清流、そしてうっそうと緑を茂らせる山々。
前を走る昭雄は、うんと背伸びをした後に、欠伸を掻いた。
「なあ、どこに行くんだ?」
「すぐそこの旅館」
うっそうと茂る木々のアーチが掛かった脇道へと入ると、昼間だというのに、木々の枝が重なり合った所為で、道は日が当たらずに道路に影を落としている。
そのまま坂を下って行くと、しばらくして大きな和風の旅館が現れる。
門構えには大きな提灯が灯っており、そこには「西都や」と書かれている。
「せっかくだから足湯でも入るか?」
昭雄にそう提案され、僕は頷く。
この旅館を抜けた先にはパン屋があって、そこには誰でも入浴自由な足湯があった。
「お前はいいよなー。いつでもここの足湯が利用できるんだから」
「今までこっちには来たことなかったよ」
「マジかよ!勿体ない!」
うきうきとした様子で昭雄は僕の前をどんどん歩いて行く。
整えられた庭園と大正時代の趣のあるレストランを横切り、石畳の橋を渡ると、プールのような貯め池のあるテラスへと、僕らは辿り着いた。
奥には広い芝生と天幕の付いたテーブル席が4つあり、ドッグランスペースもある。
テラスの奥に横に伸びた小さな建物がパン屋であり、フランスパンやサンドイッチ、ピザなどが窓ガラス越しに置かれている。
そしてパン屋を出てすぐそこの貯め池の前には黒い大理石のテーブル席があって、数人の旅行客らしき人たちが座っていた。
そこが僕達がこれから浸かろうとしている足湯である。
横から見ると、テーブル席の下に掘りごたつのようなスペースがあり、全員が座椅子に腰かけて足を突っ込めるようにできている。
「俺、アイス食いたいから買ってくるけど、お前は?」
「僕はジュースかな」
昭雄の後に続いてパン屋へと入った。
さすがに家でお菓子を食べた後なので、お腹は空いていない。
だが喉は乾いていたので、僕はオレンジジュースを購入し、昭雄は限定バニラと銘打っているアイスクリームをレジへと持っていった。
買ったものを持って足湯の方へと向かい、その場で素足になると、座椅子に腰かけて湯の中に足をゆっくりと浸からせた。
「くはー!疲れに染みるー」
顔を綻ばせた昭雄は、そのまま脱力していた。
足の先の細かい血管までポカポカと温まるような感覚が心地よかった。
僕も体の力を抜いて、しばらく神経を休めてみる。
足だけ湯に浸かっても、こうまで癒やされるのだから、足湯というのは不思議なものだ。
「よしっ。じゃあ食うか」
しばらくして、昭雄は購入したアイスの蓋を開けて、プラスチックスプーンを真っ白なクリームへと突き刺す。
それから黙々とアイスを掬っては食べ、掬っては食べを繰り返していった。
「なんか俺、結構贅沢なことしてないか?」
「そうか?」
「だって、こんな景色の良いところで足湯に浸かりながらアイス食うなんて、そうそうできることじゃねえじゃん」
「そうだな、確かに」
目の前には緑に覆われた山々と、透き通った溜め池がある。
後で聞いた話だが、夜はちょうど溜め池の水面に月の光が差し込むようになっており、秋になると紅葉で覆われた山々を一望できるのだそうだ。
「なんか、癖になりそうだな」
昭雄はそう言いながらアイスに夢中になっている。
その間、僕もストローからオレンジジュースを啜り、周囲の景色を見渡してみた。
すると、先程僕らが歩いてきた橋をゆっくりと歩いてくる人物を視界にとらえた。
灰色のパーカーと黒いスカートを履いていたので、一瞬気が付かなかったが、長い黒髪とマスク姿には見覚えがあった。
真白だった。
真白は僕らから見て右手にある橋の手すりにゆっくりと手を掛け、どこか遠くの景色を眺めているようだった。
ただ、実際は何を眺めているのかはわからなかった。マスクをしているから表情もわからない。
しかし、真白がこんなところで一体何をしているのだろうか。
「お前も一口食うか?」
そこで昭雄が声を掛けてきた。
彼の方に顔を向けると、アイスの乗ったスプーンをこちらに差し出していた。
「ああ、ありがとう」
アイスを一口食べると、昭雄が「なっ?うまいだろ?」とどや顔を向けてきた。
「うん、うまい」
「お前も買えばよかったのに」
「いや、お腹いっぱいだったし、喉が渇いてたから」
「まあ、お前はいつでも食えるもんな」
昭雄は笑いながら残りのアイスを食べ始めた。
もう一度、僕が橋の方に視線をやると、真白はすでにいなくなっていた。
人違いかもしれないが、結局はそれもわからずじまいだった。
「さてと、もうちょっとだけいるか?」
アイスを平らげた昭雄は、そのままくつろいだ状態で僕に聞いてきた。
「そうだな」
正直、足湯の気持ちよさを一度知ってしまった所為か、今は立ち上がることすらも面倒という感覚になっている。
「なあ、涼のばあちゃんって、どんな人だったんだ?」
すると、昭雄は唐突にそんなことを聞いてきた。
「俺、ばあちゃんだけは生きているんだけど、本当に優しくてさ。涼のばあちゃんはどうだったのかなって思って」
「ああ、優しかったよ。小さい頃はよく手作りのお菓子とか作ってくれた」
「ふーん」
僕が小さい頃、家族とこっちに遊びに来た時に、祖母は僕が退屈しないように何かと家族で出かける口実を作ったり、ちょっとした遊びを考えてくれたりした。
「坊主めくりとか、花札とか教えてもらったし、おじいちゃんも家の裏にある竹藪で切った竹を使って、竹とんぼとか弓矢なんかも作ってくれたんだ」
「すごいじゃん。涼のじいちゃん、手先が器用なんだな」
「そうだな。あの頃はおじいちゃんも優しかった」
僕はぽつりとそう漏らした。
昭雄も少し寂しそうな顔をする。
「昔から少し頑固なところはあったけれど、あんな怒り方をする人ではなかったよ。あんな風になったのは、おばあちゃんが亡くなってから、かな」
祖母が亡くなってからというもの、祖父は常に不機嫌そうな顔をしている。
大切な人を失った悲しさからか、それとも別の理由があってなのかはわからない。
「まあ、年寄りなんて、皆段々と怒りっぽくなっていくもんだよ」
「そういうもんか?」
「ああ、次第に自分の体のことも周りのことも思い通りにならなくなって、常にイライラしだすもんだよ。俺の死んだじいちゃんもそうだったし」
だから気にするな、と昭雄は俺の肩を叩いた。
正直、この家に来てからというもの、祖父は僕に段々と厳しくなっていく。
僕が叔父と庭の手入れをしても、やり方がよくないとか、ここが気に入らないとか、たびたび文句を言った。
叔母の作る料理に対しても、一切うまいとか褒めない代わりに、もっとこうしてくれとか、やたらと難癖をつけてくる。
昔と違い、今の祖父に対して、僕はどう接していけばいいのかわからなくなっている。
「また、昔みたいになってくれたらいいんだけど」
僕はそう言って、ほぼ空になりかけているジュースを啜った。
「涼くん、ちょっといい?」
翌日、祖父から頼まれていた庭仕事を終えてすぐに、叔母に呼ばれた。
「何?」
廊下で、叔母はエコバックを持って待ち構えていた。
「ごめん。ちょっとお使い行って来てくれる?これからおじいちゃんをデイケアに送らないといけないから」
そう言って、叔母は僕にエコバックを押し付けてきた。
そうか。となると祖父はしばらく帰ってこないのか。
そう思うだけで、幾ばくか気が楽だった。
「わかった。行ってくる」
「ありがとう。これ、買い物リストとお金ね。余った分でアイスとか買っていいから」
メモ用紙と5000円札を渡され、早速僕は自転車を漕いでスーパーに向かうことにした。
車がぎゅんぎゅんと行き交う道路に沿って自転車を漕いでいき、目的地へと辿り着く頃には、吹き出した汗で体中がべったりしていた。
4月とはいえ、今日は暑かった。
これから梅雨がやってきて夏を迎える頃には一体どうなっているのだろうか。
そうなる頃には、ちょっと外に出ただけで干からびてしまうのではないか。
そんなくだらないことを考えながら、自転車を駐輪所に停めようとした。
駐輪所の奥の方で、同年代の女子のグループ四人組がたむろしていた。
その中の一人は、あの真白だった。
少し、不穏な空気を感じ取ってしまった僕は、自転車を停めながら、横目で彼女らの様子を観察した。
グループの中心らしき金髪と耳にいくつもピアスを空けている女は知っている。
別のクラスの上野麗。
スクールカーストの上位のグループを率いていて、あまり良い噂は聞かない。
真白以外の2人は、上野の取り巻き連中だった。
何度か彼女らを同じ授業で見かけることはあったが、基本的に彼女らは授業中は寝ているか、周囲の友達とおしゃべりに興じているかのどちらかで、学校でのあらゆる最悪な態度を凝縮したというのが、僕の印象である。
それでも毎回、先生に怒られないことが、僕は前から不思議でならなかった。
そんな3人と、日陰者である真白の組み合わせは異質でしかないが、ある可能性が頭を過ってくる。
しばらくして、上野が笑いながら真白の背中を叩いて、彼女をスーパーの中へと送り出した。
真白はマスクをしているため、表情は分かりにくかったが、虚ろな目で自動ドアをくぐった。
その様子を最後まで見届けた後、僕は上野たちに気づかれないように、さっさと店内に入った。
彼女らとは関わりを持たない方がいい。直感的にそう思った。
右手に買い物カゴを、左手に叔母から渡されたメモを持ちながら、僕はのんびりと買い物をしていた。
じゃがいもに人参、たまねぎ、そして牛肉。メモにある内容から察するに、今日の夕飯はカレーか肉じゃがのどちらかだろう。
僕としては、カレーの方がありがたいが、肉じゃがもここ最近食べていないし、どちらに転ぶかはその時のお楽しみである。
買い物を終え、レジで会計をしていると、お菓子の売り場の前で真白がぼんやりと佇んでいるのが見えた。
彼女はじっとお菓子の棚を凝視している。
「お会計、2450円です」
「あ、レジ袋は結構です」
僕は真白から一度視線を外し、会計を済ませた。
会計後に荷物をエコバックに詰め、少し経ってから店を出ると、出入り口付近が騒がしかった。
「あなた、自分が何したのかわかる?」
「・・・・」
見ると、スーパーの買い物袋を腕に下げたおばさんが、真白の腕をがっしりと掴んでいた。
真白は、俯いたまま、腕を掴まれて立ち止まっている。
「あなた、この近くの学校の生徒よね?ちょっと来てもらえるかしら」
おばさんはそう言って真白を連れてどこかへ行こうとした。
その時、真白と目が合った。
「あの、どうしたんですか?」
気づいたら、僕はおばさんに話しかけていた。
「何でもないわよ。部外者には関係ないから」
「いや、でも・・・」
「もしかして、あなた、この子の知り合い?」
おばさんは僕を睨みつけて言った。
その問いにどう答えるべきか悩んでいた時、真白が突然、マスクを外しておばさんの腕に噛みついた。
「ぎゃああああ!」
おばさんはたまらず真白を掴んでいた手を放した。その隙に、真白は全速力で駐車場へと駆けだして行く。
「あっ!こら!待ちなさい!」
おばさんは持っていたスーパーの袋を放り投げ、全力疾走する真白を追いかけて行った。
もう、いろいろとカオスである。
店の中にいた人も、何の騒ぎかと駆け付けてくる始末だった。
駆けだして行った2人の姿が消えた後も、僕はしばらくその場で、先程までの光景を脳内で振り返っていた。
あの騒ぎ以上に、マスクを取った真白の顔が忘れられない。
彼女の口から頬にかけて伸びた痛々しい火傷の痕。
中学の時の彼女もマスクをしていたけれど、あの火傷の痕を隠すためにしていたのかもしれない。
そうだ。マスク。
僕は真白が立っていた場所に落ちていた黒いマスクを、ゆっくりと拾い上げた。
布製で、裏側に刺繍で「M」と書いてある。
僕はそれを、騒ぎを聞きつけて出てきた周囲の人に気づかれないようにズボンのポケットにしまった。
その足で駐輪場に行くと、さっきまでいたはずの上野達の姿は見当たらなかった。
僕は自転車の鍵を開けて、ゆっくりとペダルを漕ぎだし、スーパーを後にした。
途中でコンビニに寄り、お釣りでソフトクリームを買った。
コンビニの外に置いてあるベンチに座りながら、僕は考える。
たぶん間違いなく、真白は万引きをしたのだろう。
それで、あのおばさんはスーパーの万引きGメンとかだったのかもしれない。
ともかくも、僕はなんだか両方にとって、悪いことをしてしまったような気がしてならなかった。
というか、そもそも大人しい性格の真白が万引きをするような人間だとは到底思えない。
思い当たることがあれば、スーパーの外にいた上野たちだろう。
これは僕の想像でしかないが、たぶん上野達が真白に万引きをするようにけしかけたのかもしれない。
ひょっとすると、真白も何か断れない事情を抱えているのかも。例えば、弱みを握られている、とか。
まあ、上野達ならやりかねない。
美咲に聞く限りでは、上野は中学のときにある女子をいじめて、相手を不登校に追いやったこともあるそうだ。
上野と同じ学校に通っていた美咲が言うのだから、たぶん本当のことなんだと思う。
つまり、真白は僕の知らないところで、上野達にいじめられている、ということになる。
「あれ?涼、こんなところで何してんだ?」
ソフトクリームを食べながらぼーっと考え事をしていた僕の前に、自転車に乗った昭雄が現れた。
首には白いタオルを巻いている。
「昭雄・・・」
昭雄は自転車を押しながら、僕の座るベンチへとやってきて、僕の隣に置いてあったエコバックをちらっと見た。
「何?買い物帰りか?」
「まあね。そんなところ」
「ふーん。しかし暑いな、今日は」
昭雄は額の汗をタオルで拭いながら言った。
「そっちは?こんな暑い中どこに行ってたんだ?」
「ん?ちょっとばあちゃん家の手伝い。畑仕事して今帰ろうとしてた」
昭雄の祖母の家はワサビ農家をしている。
静岡といえばお茶の生産地というイメージだが、この辺りはワサビも有名だ。
叔父がこの辺りで採れたワサビを使ったワサビ漬けを、夕食のときに酒の肴でよく食べていた。
「ご苦労様なことで」
「へへっ。おかげで肌がひりひりしてるけど」
自転車を適当に置いた昭雄は、僕の隣にどかっと腰を下ろした。
「そう言えば、さっき郡山を見かけたな」
「えっ?」
「なんか、全速力で向こうに走って行ったけど」
昭雄はス―パーへ向かう道とは反対側の方を指さして言った。
「・・・そうなんだ」
「ついでに、変なおばちゃんが息切らして道の隅でへばってたな」
どうやら、真白は逃げおおせることには成功したらしい。
でも、今は逃げられたとしても、後から調べられたらどうしようもない気がするが。
「なんだか、今日はいろんなことがあるな」
「だな」
そう言って、僕らはしばらく真っ青な空に浮かぶ雲の流れを目で追った。
暑さの所為で、ちょっとした会話をする気力も削がれていく。
「はあ」
昭雄はため息を吐いた後、「俺もアイス買ってくる」と言って立ち上がった。
その時、ちょうどコンビニのドアが開いた。
「あいつ、マジでやっちゃったね」
「てか、あいつとババアのやり取り見た?マジ傑作だったんだけど!」
「あいつらが全力失踪するところもやばかった!動画撮ったから、あとでアップしてやろ」
先程、スーパーにいた上野たちが出てきたところだった。
彼らと鉢合わせになった昭雄に上野たちが話しかけていた。
「ん?武本じゃん。どうしたの?こんなところで」
「いや、アイス買いに来ただけ」
昭雄がそう答えた矢先、背の高い男がぬっと店から出てくる。
髪は刈り上げで、肌は浅黒い。見るからに威圧感のある風貌だった。
「冴島・・・」
昭雄は男を見て瞠目し、男は昭雄のことを見て、急にニタっと笑い出した、
「なんだよ、昭雄か。久しぶりじゃねえか。まだバスケは続けてんのか?」
「・・・・」
「ああ、コイツ、うちらと学校一緒なんだよね」
背の高い男に、上野が笑いながら言った。
「でも、今は帰宅部なんだよね。コイツ」
「マジで?なんだよ。やる気のねえ野郎だな。まあ、昔から大した実力もなかったしな。お前の兄貴と同じで」
その言葉に、昭雄は見開いて、冴島と呼ばれる男を睨みつけた。
「ああ?なんだよ、その目は。もしかして、まだ兄貴のこと、引きずってんのか?」
冴島の言葉に、昭雄は今にも彼に詰め寄ろうとしていたので、僕は昭雄の肩を持って彼を止めた。
「バスケを途中で辞めた奴にしては、威勢がいいじゃねえか」
冴島は勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
「やめたくせにそのリストバンドもまだつけてるのかよ。いつまで兄貴のこと引きずってんだよ、てめえは」
そして冴島は、昭雄の左手首にはめていたリストバンドに目線を移した。
確か、昭雄がバスケを始めてからずっと肌身放さずつけているものだと聞いていた。
僕もなんだか、冴島のその態度に腹が立ってきた。
「ねえ、もう行こうよ、冴島。こんな奴らほっといて」
上野がそう言って冴島の腕を掴んだ。
「だな。負け犬にかまってる暇なんてねえし」
そう言って4人はその場を去ろうとした。
「てか、さっきの動画、マジで上げようよ。絶対バズるって」
「・・・なあ、待ってよ」
上野のその台詞に、僕は待ったをかけた。
「あ?何?まだなんかあんの?」
「動画ってさ。さっきのスーパーのあのやり取りのこと?」
「はあ?なんのこと?」
「さっき見たんだ。スーパーで郡山が万引きしたの。その場にいたよね?そっちも」
もっと白を切るつもりかと思ったが、上野は案外すぐに開き直った。
「だったら何?あんたには関係ないっしょ?」
「それ、本気でアップするつもりか?」
「てめえ、さっきからなんだよ?」
すると冴島が気分を害したように、僕に凄んできた。
「その動画さ。アップしたところで、叩かれるのはそっちだと思うよ」
冴島たちの態度に、少し動揺しながらも、僕は勇気を出して、あくまで冷静さを保ちなが忠告した。
「今の世の中、面白半分でそういう動画を流しても、酷いバッシング受けるのはそっちだよ。どうせ、大炎上してアカウントを消さざるを得なくなるのは目に見えてるし。最近、バイト先で変なことやって動画に載せている人が、訴えられたケースだってあるだろ?そういうのって、アップするだけ大きく批判されるのがオチだよ」
「てめえさっきから何様のつもり?」
「別に。ただ忠告してるだけだよ。そういう動画を掲載しても、ろくなことがないって。たぶん冗談じゃすまない事態になるから」
「チッ。むかつくな」
「いいから、もう行こうよ」
4人は興が削がれたような表情で、僕らに背を向けてコンビニを後にした。
昭雄は悔しそうな表情で拳を握りしめ、彼らを睨んで立っていた。
あんな表情の昭雄を見たのは、初めてだった。
「昭雄、僕らも行こうか」
「・・・ああ」
昭雄は僕に背を向けたまま、自転車に乗って駆け出した。
僕もその後に続いて、自転車を走らせた。
家までの道中、僕らは一言も口を利かなかった。
今は話しかけるような雰囲気ではない。
だから、一人で先程のやりとりについて考えた。
冴島という男。
僕の学校では見たことがないから、たぶん他校の人間かもしれない。
昭雄の知り合いでもあるようだが、たぶん会話の内容からして、バスケ仲間かもしれない。おそらくは中学のバスケ部時代の付き合いといったところか。
だが彼らの様子からして、二人は仲がいいとは言えない。
それどころか、昭雄は冴島を敵視していた。
敵視していながら、一方でどこか怯えた様子もあった。
彼らの間に何があったかは知らない。
ただきっと、さっき冴島が言っていた、昭雄の兄貴に関する何かであることは確かだ。
まあ、考えたところで、当の本人に聞かない限りは真相はわからない。そしてそれを尋ねるのは野暮というものだ。
僕は頭を振って、頭をクリアにしようとした。
それにしても、僕も大胆なことをしてしまったものである。
真白の映った動画を公開させないように、彼らを説得するなんて。
これではまるで、真白のためにそうしたような感じになるではないか。
上野たちには、そう思われたかもしれない。
最悪、彼女らのことだから、「涼は真白に気があるのでは?」と勝手に解釈されるかも。
いや、きっとそうされたに違いない。
別にまずいわけではないけれど、そうやって今後彼女らに茶化されるのは避けたいものがある。
一体、なんで僕はあんなことをしたんだろう。
あの時の4人の態度に少なからず腹を立てていたのもあるが、真白という他人のために、そこまでしてやる義理はない。
でも、僕の脳内では、何故かスーパーで僕を見つめてきた真白の顔が浮かんできた。
彼女は、僕に助けを求めていた、と思う。
あのおばさんの拘束から、だけでなく、彼女の身に降りかかっていた、あの場では見えないあらゆる全てのことに対して。
僕はおばさんに声をかけて真白の逃げる隙をつくり、上野たちに動画を流さないように釘を刺した。
けれども、あの行動には意味があったんだろうか。
僕みたいな奴が何かを言ったところで、真白の罪は消えないし、上野のようなタイプが素直に僕の忠告を聞くとは思えない。
単に僕は、恥ずかしい真似をしただけだったんじゃないか。
そこまで考えつくしているうちに、僕の家までの道が見えてきた。
そこが、僕と昭雄の分かれ道になっている。
昭雄は一旦自転車を停止させた。
「じゃあ、ここで」
「うん。また学校で」
「ああ、お疲れ。・・・あとさ」
「ん?」
僕が自転車を今にも漕ぎだそうとする前に、昭雄は左手首にはめていたリストバンドを外し、僕に手渡した。
青と白の縞模様の、使い古されたリストバンド。
「これ、やるよ。お前に」
「えっ?いいのか?」
「ああ、ちょうど手放すタイミングも探してたところだし」
昭雄の表情からは特に寂しさとかは感じられなかった。
でも、僕もそれを受け取るのははばかられた。
なんとなく、それが昭雄にとって大切なものの気がしたから。
今では唯一、そのリストバンドが彼とバスケを繋いでいる存在のように感じた。
それを手放すという心境はどういうものなのか。
先程、冴島に指摘されたことが、彼には堪えたのかもしれない。
結局、埒が明かなそうだったので、僕はそのリストバンドを受け取った。
「いやー悪いな。なんか、変なところ見せちまって」
「いや、別に」
「気分悪かったろ?」
「気にしてないって。大丈夫」
昭雄はいつもの調子に戻り、ニタニタと笑った。別に、あれぐらいのことで、昭雄と僕の友情に変化があるわけではないが、そんなことよりも、昭雄のことが心配だった。
「悪いな、本当に」
僕の顔を見て、昭雄は安心したようにふっと笑った。
「じゃあ、また明後日な」
「ああ。これ、ありがとうな」
僕がリストバンドを掲げると昭雄はサムズアップをした。
自転車を漕ぎだした昭雄の姿が遠くになるまで、僕はしばらく彼の背中を見送った。
月曜日。
真白は学校に来なかった。
詳しい事情は先生も話さず、クラスメイトの誰もそれを聞こうとしなかった。
なんとなく、土曜日のスーパーでの出来事が気になって、僕は職員室に戻ろうとする担任の佐藤を呼び止めた。
「郡山さん、何かあったんですか?」
「ああ、まあちょっとな」
佐藤は言いにくそうな表情を浮かべ、言葉を濁した。
あの日、僕が真白の犯行現場にいた事実を伝えようかとも思ったが、それを話したところで何も変わらないような気がした。
真白が万引きをしたのは紛れもない事実だし、上野に唆されてやったという証拠も持っていない。
僕一人が騒ぎ立てたところで、事を厄介にするだけだった。
「・・・何か僕にできることはありますか?」
代わりにそんな言葉が口をついて出た。
その場にいたのに何もできなかったことへの罪悪感なのかは判断しかねるが、なんとなくそう言っておいた方が自分の心境的に納得できそうな気がした。
「そうだな。・・・お前、〇〇5丁目に住んでるよな?」
佐藤は少し考える間を置いたあと、僕にこう言った。
「郡山もあの辺りに住んでるんだ。確か、西都やって旅館があいつの家なんだ」
「西都や・・・」
以前、僕と昭雄が足湯に浸かりに行った旅館だ。
そういえば、あの付近で真白を見かけたが、そういうことなのだろうか。
「悪いが、今日の帰りにあいつにプリントを持っていってもらえないか?こっちとしてはすごく助かるんだ」
「はあ」
「すまんが頼んだぞ」
佐藤はそう言って、気だるそうに手を振ってその場を後にした。
そんなわけで、適当な気持ちで善意を見せた結果、真白の家に行く羽目になった。
昭雄はその日は掃除当番だったため、僕は一人で帰ることになった。
自宅の前をスルーし、その足で西都やへと向かう。
こんな近所に真白が住んでいたなんて、クラスメイトなのに今まで知らなかったが、それだけ彼女は謎めいているということでもある。
いや、謎めいているように見えるだけで、実際は僕を含む周囲の人間が彼女に興味を持っていないだけなのだろう。
それは酷く悲しくて寂しいことだが、真白はそのことは気にしているのだろうか。
あの様子では、そこまで気にしていないようにも思える。
5分ほど歩いて西都やに着いたが、真白に会うにはどうすればいいのか、ふと疑問が湧いた。
ひとまず、旅館の正面口から中に入る。
赤いカーペットが敷かれた広々としたロビーには、大きな液晶テレビと重厚なソファーが置かれた休憩スペースとこじんまりした売店があった。
「いらっしゃいませ」
中に入るや否や、フロントにいた男性従業員から静かに出迎えられた。
学生服を着た未成年が訪れたことを端から不審がりもせず、しっかりと挨拶をしてくるところは、さすが老舗旅館だと思った。
「あの、すみません」
まずはフロントにいる従業員に真白の居所を聞いた方が早いと思い、声をかけてみた。
「はい。いかがなさいましたか?」
「僕、郡山真白さんのクラスメイトなんですが、学校から彼女にプリントを渡すように言われていて」
「・・・承知しました。少々お待ち下さい」
従業員の男性は、そのままフロントの固定電話の受話器を取り、誰かに電話をし始めた。
「お疲れ様です。ただいまフロントに真白様のご学友様がいらしておりまして。・・・はい。学校からプリントをお持ちいただいたとのことで。・・・はい。・・・はい。承知いたしました」
受話器を静かに置いた男性従業員は、「あちらでお待ちいただけますか?」と、僕を休憩スペースの方に促した。
なんだか特別扱いされているようで、少し緊張した。
大人から丁寧な対応をされるというのも、なんだかこそばゆい。
言われた通り、休憩スペースのソファーに座って待っていると、しばらくしてから黒い上品なスーツを着た若い女性が足早に僕の方にやってきた。
「お待たせして申し訳ありません。真白のお友達でよろしかったですか?」
女性が深々とお辞儀をしてきたので、思わず僕は立ち上がってしまった。
「はい。彼女にプリントを渡すように言われていて」
「わざわざありがとうございます。ではこちらへ」
すると、女性は何故か僕を奥へと通してきた。
てっきりこの女性がプリントを受け取ってくれるのかと思いきや、どうやら僕が直接渡せということらしい。
「はい」
仕方なく、僕は軽く会釈して女性の後についていくことにした。
「真白とはクラスメイトなんですよね?」
スーツの女性は足早に歩きながら、僕にそう語りかけてきた。
女性の柔らかい口調は、なんとなく安心感を与えてくれた。
真白の母親かとも思ったが、それにしては若い気がする。
「はい。一応」
「学校ではどんな様子なのかしら?あの子、あまり学校生活のことは話してくれなくて」
「えっと・・・いつも静かに過ごしてます」
なんと言えばいいかわからなかったので、正直にそう言ってみた。
彼女が上野たちにいじめられている可能性は口にできなかった。
「そう。やっぱり外でもそんな感じなのね」
女性は溜息を吐いた後、気を取り直したようにこう尋ねた。
「あなたは、真白のお友達?」
さらに答えにくい質問をされ、素早く脳内で考えた答えを述べた。
「・・・あまり話はしないですけれど、心配だったので今日は来ました」
心配だったのは半分本当だったが、担任の佐藤に頼まれなければ、ここに来ることはなかった。
嘘を吐くこともできたが、後々面倒なことになりそうな気がしたし、もともと僕は嘘が下手だ。
「そう。ありがとう。今日は来てくれて」
僕の答えで大丈夫かはわからないが、女性はほんの少しの笑顔を浮かべた。
従業員専用と書かれた札の先に案内され、旅館の連絡通路を通って別の建物に入った。
その建物の階段を女性と上がって、廊下の突き当りの部屋に通された。
シンプルな白い襖の部屋の前で女性は止まり、外から声を掛けた。
「真白。学校のお友達が来てるわよ」
すると中からガサゴソと音がした後、「どうぞ」と小さく声が聞こえてきた。
「それじゃあ、帰る時はフロントに声を掛けてくださいね」
女性はそう言って丁寧なお辞儀をした後、足早にその場から立ち去った。
静かになった廊下で、僕は一応襖をノックしてから入ることにした。
「郡山さん。入ってもいい?」
「・・・・」
声を掛けてみたものの、中からは返事がない。
仕方なく、縁側で靴を脱いで、襖をゆっくりと開けた。
真白は部屋の中央のちゃぶ台の前で正座していた。
「こんにちは」
「・・・・」
真白は挨拶に応えず、僕をじっと品定めするように見つめていた。
今日の彼女は白い紙マスクを付けていた。部屋着なのか、白いTシャツに赤いホットパンツという出で立ちだった。
「先生からプリントを渡すように言われてて」
僕は鞄からプリントの入ったクリアファイルを取り出し、ちゃぶ台にそっと置いた。
「それじゃあ、僕はもう行くから」
「待って」
そのまま踵を返して帰ろうとした僕を、真白は強く呼び止めた。
「部屋で少し待ってて」
振り返ると、真白は強い眼差しで僕を見ていた。
それだけなのに、なぜだか有無を言わせない迫力を感じて、僕は仕方なく畳の上に座った。
ちょうど、真白とちゃぶ台を挟んで向き合う形になった。
「すぐに帰ったら、苗香さんに怪しまれるから」
「怪しまれる?」
「あの人は君を私の友達だと思ってる。それなのにさっさと帰ったら、本当はそうじゃないって思うでしょ?そしたら私は学校で孤立しているって心配するから」
「・・・・」
なんだそれは?というのが僕の感想だった。
つまり、僕は真白の見栄のために、ここで待機させられるということか。
でも、彼女なりに先程のあの女性に心配をさせたくないという気持ちがあってのことなのだろう。
それを責めることは、僕にはできなかった。
「さっきの人、君のお姉さん?」
「従姉のお姉さん。この旅館のマネージャーをしている」
「偉い立場の人なんだね」
「そうね。でも、ここのすべてを取り仕切っているのは私の伯母さん」
「伯母さん?」
「ええ。母のお姉さん。私はただ居候させてもらっているだけ」
一体、真白は何者なのだろうか。
多くを語ろうとしない感じだから、訳ありということだろう。
まあ、それを言ったら僕だって、実の親と暮らしていないのだから、似たようなものだが。
「プリント、持ってきてくれてありがとう」
「あ、ああ・・・」
真白はプリントの入ったクリアファイルを手に取り、早速中身を確認しだした。
彼女がプリントを読んでいる間、僕は部屋を少し見回してみる。
僕は今、生まれてはじめて女の子の部屋に来たわけだが、緊張感をあまり感じさせないほど、真白の部屋は質素すぎた。
畳の部屋には白い木製ベッドと白い勉強机、そして白いクローゼットと目の前のちゃぶ台があるだけだった。
ぬいぐるみとか、本棚なんて一切なかった。
ここが和室でなかったら、牢屋か病室だと見間違うかもしれない。
「幻滅した?」
「えっ?」
真白はプリントを手に持ちながら、僕のことを上目使いでじっと見ていた。
「女の子の部屋にしては監獄みたいだって」
「いや、そんなこと・・・」
「別にいいよ。実際そんなものだから」
真白はプリントを手に持ったまま立ち上がり、机の引き出しにそれをしまった。
「この間のスーパーでのこと、見てたならわかるでしょ?私はしばらく学校に行けなくなった。伯母さんからも外出禁止だって言われてる。だからここは監獄みたいなもの」
淡々と自分の境遇を話す真白が、まるでロボットのようにも見えてきた。
僕はそのまま視線を落とした。
「つまり、今の私には娯楽がほとんどない。人と話す機会すらない。そこに君が現れた。それも一人きりで」
そして、真白はそのまま机にもたれかかり、僕を見下ろしてきた。
「せっかくだから、少し聞きたいことがある。五島涼くん」
「・・・何?」
なんとなく嫌な予感がして、僕は表情を曇らせた。
「君は本当に幽霊と話せるの?」
真白は容赦なく、透き通った声で僕の過去をえぐり出してきた。