序章
伊豆市修善寺は、奈良時代の高僧「行基」によって温泉が発見されて以来、温泉地として古くから栄えてきた。
子宝の湯と呼ばれるようになったのはもっと後の時代で、江戸時代に徳川家康の側室「お万の方」がここで湯に浸かるようになってから、子供を授かることができたという伝承が残っているからだ。
そういう目的ではないものの、生まれつき体の弱かった僕の曾祖父も、実家を離れてここの温泉に浸かりながら養生をしていたらしく、そこで世話役の女中と結ばれて、祖母を産んだ。
自慢ではないが、僕の曾祖父はモーターの開発販売をしていた大企業の跡取りの一人だった。それまで金には困っていなかったものの、日本が戦争に負けてからは会社も倒産し、曾祖父もしばらくして亡くなった。
曾祖母と祖母は、相当な苦労をしてきたらしく、祖母も高校へと行かずに働いていたようだが、そこで今の祖父と出会えたらしく、僕の父が生まれて、やがて僕が誕生した。
一昨年亡くなった祖母は生前、その地域の歴史や僕の家計の歴史、それまでの自分の生い立ちなどを一冊のノートに纏めていて、自分が死んだ後に孫である僕、五島涼に渡すように頼んでいたらしい。
僕は自分の一族、五島家の歴史を何度も読み返した。
もう今はいない祖母の筆跡が、この世界に確かに祖母が存在した証のような気がして、一字一字が、どうも愛おしく感じてしまう。
祖母が亡くなって1年後。
僕は祖父と叔父夫婦の住む、修善寺へとやってきた。
これまでも何度か長い休みの時に、父の故郷であるこの場所に遊びに行っていたが、まさかそこが僕の本当の棲家になるとは思いもしていなかった。
けれど1年も経つと、さすがに特別な感じはしなくなったし、この地での生活リズムにも慣れてしまった。
この辺りは山の多い場所であり、山特有の時間の進み方なのか、朝の始まりも陽の沈みも、異様に早く感じるので、僕らの中の体内時計も少なからず狂ってしまう。
だいたい4時間ぐらいの誤差があるので、夜7時くらいで眠たくなることもしばしばだ。
それが1年も経つと、誤差は完全に修正される。人間の適応能力には驚かされるばかりだが、僕がまだ10代という若さなのも理由かもしれないけれど。
そんな修善寺での、2年目の夏が訪れようとしている。