冥府総督府の今日の事件、もういっちょ!?
今日は宅飲みの日である。
「いやー、まさか冥王様から『雪色銀月』の大瓶を貰えるとは思わなんだ」
「しかも2本も貰ってしまった訳だが」
呵責開発課の課長であるオルトレイ・エイクトベルは「楽しみだなあ」と弾んだ声を上げる。
楽しみにしているのは、友人である冥王第一補佐官のアズマ・キクガが腕から提げた2本の酒瓶だ。実は冥王ザァトが「自室に5本も届いた。そんなに飲まないから2本くれてやる」と言って押し付けてきた訳である。キクガも酒はそれほど飲まないので、蟒蛇並みに酒が強いオルトレイが名乗りを上げたのだ。
代償は酒のつまみを作ることである。こう見えてオルトレイは料理上手であることを自負しており、晩酌をする際には自分でつまみを作るぐらいだ。前々からキクガの食事の面倒も見ていたので今更である。
食材が詰まった買い物袋を揺らすオルトレイは、
「とりあえず手羽元と、痺れミョウガと海藻のサラダは作るぞ。この前、料理本を見てピンと閃いたのだ」
「それは果たして口にしても大丈夫な代物かね?」
「おいキクガ、オレの料理の腕前を疑うのか? 心配ない、他人に食わせる料理は自分が『美味い』と感じたものだけだ。失敗作など意地でも食わせん、格好悪いだろう」
「どこかの第三席も見習ってほしい訳だが」
「ほぼ名前を言ってないか?」
七魔法王が第三席【世界法律】の名前を冠する真っ赤な淑女は、自分が料理下手であることに気づいていない必殺料理人である。彼女の料理を口にしただけで冥府にやってくることが出来ると言わしめるほどだ。
どう考えても失敗作以外に見えない代物を「自信作」と称して持ってくるのだから笑えない。他人の口に入れるものは、きちんと食えるものでなければならないのだ。料理で命を奪うなど、料理好きの風上にも置けない。
小さな嘆息を漏らしたキクガが、自宅の扉の鍵を開ける。
「キクガさん、お帰りなさい」
そして静かに扉を閉めた。
「キクガよ、いい加減に慣れろ。何度目だ」
「毎日やっている訳だが」
「そろそろ奥さんから怒られるぞ」
「かもしれん。だが、未だに現実を噛み締めることが出来ない訳だが」
キクガは頭を抱える。
数日前、彼が誕生日を迎えてからずっと奇跡が続いている。上司である冥王ザァト曰く「他所の地獄から引き取りを頼まれたから移管した。其方の血縁者なら其方で面倒を見るのが筋だろう」らしい。
オルトレイも最初に紹介された時、非常に驚いたものだ。まさか本当に妻帯者だったとは衝撃の事実である。本当に妻なのかと疑ったが、あらゆる魔法で調べても本物だと証明されてしまい、挙げ句の果てに彼女の生前の記録が冥府総督府に移管されてきたのでもう何も言えなかった。
扉の前で深呼吸をするキクガに痺れを切らしたオルトレイは、
「こーのいくじなし、嫁さんのいる我が家に帰れる現実を夢だ何だと切り捨てるな阿呆め」
「しかし」
「いいからとっとと扉を開けろ、そして現実を見ろ。お前の奥さんは現にお前の目の前にいるのだと」
オルトレイはキクガの背中をどつき、扉を開けさせる。
扉を開けた先には見慣れた玄関と綺麗に掃除された廊下、そしてその先に広がる居間に佇むエプロン姿の女性が1人。
艶やかな黒髪を肩口で揺らし、黒曜石の如き双眸が帰ってきたキクガを真っ直ぐに映す。花が綻ぶような可愛らしい笑顔を見せた彼女は、心底嬉しそうな声でキクガを出迎えた。
「お帰りなさい、キクガさん」
最愛の妻、サユリに出迎えられたキクガは、幸せそうな笑顔で応じていた。
「ただいま、サユリ」
☆
「オルトレイさんもよくいらっしゃいました。連絡は受けておりますので、お料理も簡単なものですが用意させていただきました」
「おお、すまんなサユリ嬢。相も変わらず気が利く娘だな、キクガとお似合い夫婦だ」
「まあ、オルトレイさんったら」
宅飲みをするとあらかじめキクガが連絡を入れておいてくれたので、サユリはオルトレイも笑顔で自宅に迎え入れてくれた。「お似合い夫婦」と茶化されても彼女は笑っているだけである。
サユリとは互いに料理のレシピを教え合う間柄だ。オルトレイも料理を嗜む手前、常に学ぶことは欠かさない。特に彼女は異世界の料理知識が豊富で極東料理を得意とすることから学ぶことは多く、またその対価としてオルトレイも得意料理を教えているのだ。
オルトレイは食材が詰まった袋を掲げ、
「いや何、サユリ嬢だけに料理をさせる訳にはいかんからな。オレも料理本を読んで新しいレシピを思いついたので、ぜひ披露を」
「オルトレイさん」
サユリは朗らかな笑みを見せたまま、オルトレイの手から食材の詰まった袋を自然な動きで回収する。
「お客様にそんなことをさせられません。お座りになってお待ちくださいな、お酒のおつまみをご用意します」
「お、おう」
有無を言わせぬサユリの圧力に屈したオルトレイは、助けを求めるような視線をキクガに向けてきた。
「オレは何かサユリ嬢の気に触ることをしてしまったか? 妙に機嫌が悪いようだが?」
「そうかね?」
キクガは部屋着である浴衣に着替えながら応じる。
初めて紹介された際は、これほど圧力をかけてくるような女性ではなかったはずだ。笑顔の裏側に得体の知れない感情を秘めており、どことなくオルトレイは「機嫌が悪いんだな」とアタリをつける。
ただ、機嫌が悪いと理解をしていても理由が分からないので対処の仕様がない。果たしてどうすることが正解なのか皆目見当もつかないので、底知れない末恐ろしさを感じるのだ。
仕事着をハンガーにかけるキクガは、
「君は客人なのだから、もてなされるべきな訳だが」
「ううむ、そうは言ってもなァ」
オルトレイは両腕を組んで考え、
「何と言うか、お前って他人の料理を口にしなくなったな。オレもお前に料理を作ることをしなくなったし、昼食を冥府総督府の食堂で済ませることもなくなったし」
「サユリが弁当を持たせてくれているので助かっている訳だが」
妻のサユリと暮らすようになってから、キクガは毎日のように愛妻弁当を持ってきていた。しかもそこら辺の売店で並んでいるような量産型の弁当ではなく、高級料亭が思いのほか高い金額を請求してくるような綺麗な弁当を作ってくる訳である。
これにより、密かにキクガを狙っていた女性職員が地に沈んだ。そもそもキクガは最初から亡き妻一筋だから他の女性など眼中にないだろうが、あからさまに実力差を突きつけられて敗北を喫する羽目になったとか。
つまみの準備をサユリに任せ、キクガは風呂敷に包まれていた酒の大瓶を取り出す。机の上に置かれた酒瓶には『雪色銀月』と達筆で描かれており、透明な瓶には真っ白い酒が揺れる。
「まずは硝子杯を取ってくる訳だが。オルトは座って待っていてほしい」
「キクガさん、硝子杯ならここにありますわ」
「ああ、すまない」
オルトレイが持ってきた食材で料理中だったサユリが、その作業を一時中断してキクガに人数分の硝子杯を差し出す。適度な大きさの硝子杯は酒を飲むことに適しており、曇りひとつなく綺麗に磨かれた状態にされていた。
キクガは硝子杯をサユリから受け取り「ありがとう、助かる」とお礼を言う。サユリはそれに対して小さく微笑んだだけで、パタパタと再び台所へ戻っていった。
その一部始終を眺めていたオルトレイは、
「キクガ、お前は普段から亭主関白とかじゃないよな? サユリ嬢を殴ったり蹴ったりして調教していないよな?」
「私が妻にそんな乱暴を働くとでも?」
キクガは心外なと言わんばかりに唇を尖らせ、
「サユリは本当によく気がついてくれる女性だ。私を影ながら支えて、家を守ってくれる彼女には感謝してもしたりない」
「お前って家事できなかったっけ?」
「出来ないが」
「でも今まで掃除とか洗濯とかやってたろ」
「それは今でもやるが、大体は仕事から帰ってくるとサユリが全て終わらせていてくれる。私が担当するのは休みの日ぐらいな訳だが」
「料理は完全にサユリ嬢の領域だしな」
「ああ」
「お前、1人で生活できなくない?」
「別にそんなことはない訳だが。ただ、サユリがいるから1人で生活しようとは思わない」
しれっと平気でそんなことを言うキクガは、オルトレイに磨かれた硝子杯を差し出してきた。
「まずは飲もう、オルト」
「そうだな、料理が出揃うのを待つか」
酒瓶を開封したオルトレイは、雪のように真っ白な酒を硝子杯に注ぐのだった。
☆
長い髪が隅々まで綺麗に手入れされてくるようになった。
どこか肌艶もよくなったし、疲れている気配も感じられない。仕事はいつもより早めに帰ることが多くなった。
極め付けは毎日の愛妻弁当である。それだけ妻がしっかり者で面倒見がいいのだろうが、オルトレイはどことなく異常を感じていた。
「サユリ嬢、このうな玉最高だな。作り方を教えてくれんか」
「もちろんです。私も今度はビーフストロガノフというものを作ってみたいので教えていただけますか?」
「よかろう、我が家の秘伝を教えてやろうではないか。ただあれは準備に手間がかかるから覚悟するがいい」
「元より承知です」
硝子杯を満たす真っ白な酒を呷り、オルトレイはサユリの料理に舌鼓を打つ。
さすが料理が得意と豪語しているだけあって、見事な極東料理の数々である。むしろこれだけで金を取れるレベルの領域だ。鰻と玉子を合わせたうな玉と呼ばれる料理や、捻れオクラとミナカミイモのとろろを和えた小鉢など酒の肴に合う品々が取り揃えられているのは見事の一言だ。
ただ、使われている食材があからさまに『精のつくもの』に限定されていた。気のせいだとは思いたかったのだが、精のつく食べ物として代表的な『バギラカメ』と呼ばれる食材を使った雑炊が出てきたら、もうそういうことを想定して準備していたと言ってもいいだろう。
気まずさを若干感じながらも手酌で酒を注ぐオルトレイは、キクガに視線をやる。
「んむ……」
「うおおおい!? お前、まだ1杯目だぞ!?」
「んにゃ……」
キクガはふらふらと頭を揺らしていた。
よほど度数がきつい酒だったのか、それとも疲労が彼の眠気を後押ししているのか不明だが、とにかく1杯でダウンしてしまうとは想定外である。この『雪色銀月』はオルトレイが消費するとして、ふらふらと頭を揺らすキクガはどうにかせねばなるまい。
とりあえず、オルトレイはキクガが手にしているまだ中身の残った硝子杯を回収した。中身をこぼして妻のサユリへ迷惑をかけたらたまったものではない。ついでに硝子杯の中身の酒はもったいないから全部飲んでおいた。
眠たげなキクガを寝かせてやろうとするオルトレイだが、
「キクガさん、お布団を敷きましたよ。そちらで寝てくださいな」
「んに……」
サユリが肩を叩いてキクガの移動を促す。
見れば、部屋の隅にはキクガが使っているものらしき布団がすでに敷かれていた。こうなることを見越しての行動だろう。さすが気の利く妻である。
だが、誘導はあまり上手くいっていなかった。キクガはサユリの導きによって立ち上がろうとするのだが、足に力が入らないのかすぐに尻餅をついてしまう。酔っ払いの典型的な症状である。
何とか自分の旦那を布団に寝かせてやろうと肩を貸そうとするサユリだが、そもそも身長差がありすぎるので肩を貸す行為は非常にまずい。妻とはいえ、サユリは小柄な女性である。長身痩躯の男を引きずるのは重かろう。
「サユリ嬢、オレが運ぼう」
「いいえ、大丈夫です」
「大丈夫な訳がなかろう。正直に言うが、小柄なお前が細身とはいえ身長の高い旦那を運ぶのは無理がある。ここは力のある男に任せておくがいい」
遠慮するサユリから眠たげなキクガを攫うと、オルトレイは軽々と彼を横抱きにする。こう見えて、文武両道を地でいくエイクトベル家の当主として普段から鍛えているのだ。
健やかな寝息を立てるキクガを布団に転がし、オルトレイは指を弾く。魔法で動かされた布団がキクガの身体に被さると同時に、彼は無意識のうちに布団へ包まって眠り始めてしまった。
キクガを寝かせたオルトレイが一息吐くと、
「すみません、ご迷惑をおかけして」
「いや何、こういう力仕事は男手が必要になる時が来る。遠慮をするな、サユリ嬢」
オルトレイがサユリへと振り返れば、彼女は申し訳なさそうな表情で「すみません」と謝っていた。
何を謝る必要があるのだろうか。
謝る必要があるのは、オルトレイの方だと言うのに。
咳払いをしたオルトレイは、
「サユリ嬢、オレはお前に謝らねばならん」
「え?」
「夫婦の時間を邪魔してしまったな。申し訳ないことをした」
オルトレイは頭を下げる。
精のつく食材を使った料理が数多く並んでいたのは、本日が11月22日だからである。語呂合わせで『いい夫婦の日』と末娘から教えてもらった。
末娘は、キクガとサユリの愛息子であるショウと婚約関係にある。いずれは本当に夫婦となる間柄だ。「こういう訳だからこの日だけは邪魔してくれるなよ、くれぐれもな」と釘を刺されていたから、まあ夫婦の時間も大事だろうと放っておいたのだ。
末娘のことだけを気にして、他の夫婦については一切頭の中に入っていなかった。未婚であるが故の弊害である。
「それに、勝手に台所へ立とうとしたしな。それについても謝罪しよう、本当にすまなかった」
「いえ、あの、それは気にしないで」
「いいや気にするさ。よく考えれば、家を守る者として台所は聖域とも呼べる場所だ。そんな神聖な場所をズケズケと荒らそうとしたのがそもそもの間違いだろうよ。オレとてサユリ嬢に同じことをされたら怒るまでとは言わんが、まあ苛立ちは覚えるな」
オルトレイにとって、台所は自分が使い勝手のいいように改造していく研究室みたいなものだ。料理好きからすれば聖域に近しい存在であるし、ましてサユリぐらいの腕前になればこだわりもあるだろう。
そんな場所に踏み入ろうとしたことが、そもそもの間違いなのだ。サユリからすれば、不躾な野郎だと思われてもおかしくない。
沈んだ表情を見せたサユリは、
「……全部、顔に出ていましたか?」
「いいや」
オルトレイは否定し、
「他人の思考を読み取ることは出来んが、他人の感情の機微を読み取ることは出来る。そういう特殊な眼球を持っているのだよ、オレは」
「…………」
顔を俯けさせるサユリを、オルトレイは片目を瞑って見つめる。
彼女を取り巻く濃い色の紫をしたオーラを確認することが出来た。サユリの背後を渦巻くオーラは邪悪な色を孕んでおり、じわじわとオルトレイに忍び寄ってくる。
あの紫色をしたオーラは『憎しみ』だ。夫婦の時間を邪魔してしまったオルトレイに対して、彼女は少なからず悪い感情を抱いている様子である。出来れば友人の家族とは仲良くしたいオルトレイにとって、この状況は歓迎できない。
そのオーラが徐々に薄くなっていく。黒に近い紫色だったサユリのオーラがゆっくりと藤色へと変わるにつれて、彼女は口を開いた。
「ずっと、嫉妬していたんです。オルトレイさんが羨ましいなって」
「オレが?」
「オルトレイさんだけではありません。冥府総督府で働く同僚の方々や冥王様、それに恥ずかしい話ではありますが貴方の娘さんや自分の息子にまで……」
サユリは自分の顔を手で覆うと、
「私があの人と一緒にいた時間より、貴方たちはずっと長くキクガさんと過ごしてきました。私はショウを身籠り、産んで、そしてすぐに死んでしまったから……」
「なるほど」
オルトレイはようやく納得できた。
おそらく、キクガに毎日の弁当を持たせて他人が作った料理の一切合切を口にさせていなかったのはサユリの嫉妬心の表れだったか。そうすることで、キクガと歩めなかった空白の時間を埋めようと目論んだか。
何と言う可愛らしい嫉妬だろうか。オルトレイの周囲にいた女性はここまで可愛らしい嫉妬を抱くような人物はおらず、財産目当てだとか遺伝子目当てだとかそんな連中が多いのだ。
肩を竦めたオルトレイは、
「友人の嫁に言うことではないが、サユリ嬢は阿呆だな」
「あ、阿呆!?」
「ああ、阿呆だとも。旦那のことを見くびりすぎた、戯けが」
ポカンと口を開くサユリに、オルトレイは「大体な」と言葉を続ける。
「キクガの奴がサユリ嬢のことを忘れる訳ないだろう。常日頃から『妻以上のいい女はいない』と豪語している男だぞ」
「えぁ」
「オレを含め、他の連中がどれほどキクガと長い時を過ごそうと、あいつの頭の大半を占めているのはサユリ嬢だ。お前が嫉妬することなど鼻で笑えるぐらい、キクガの愛情はお前にしか向けられておらんよ」
サユリ嬢に勝とうとも思わないが、オルトレイが逆立ちをしてもキクガの中に作られた番付の順位は変わることはない。不動の1位はいつだって妻のサユリである。
彼女が空白の時間を埋めようと可愛い嫉妬心を抱いていたとしても、鼻で笑えるぐらいキクガはサユリしか見ていない。離れている時だって、彼は妻のことを片時も忘れたことがないのだ。オルトレイよりも長い時を一緒に過ごしていることは間違いない。
オルトレイは空っぽになった酒瓶を回収し、
「さて、邪魔者は退散するとしよう。どうせ夫婦揃って飲まんだろうから、残った酒はオレが回収しても構わんな?」
「あ、はい。もちろん」
「やったぜ高級酒が飲める!!」
サユリに許可を得たオルトレイは、まだ封を開けていない酒瓶を大事に抱える。『雪色銀月』はかなり希少な酒なので、これから大事に飲むとしよう。
「あの、オルトレイさん」
「何だ?」
「ありがとうございます」
サユリは吹っ切れたように清々しい笑みを見せ、
「何だか元気づけてもらっちゃいました」
「そうだろう。オレはおよそ世界で2番目に優しい魔法使いだからな」
「それ、1位は誰なんです?」
「決まっているだろう、我が末の娘だ。底知れぬ優しさを持った世界で最も賢く優しい魔女よ」
自慢げに言ったオルトレイは、
「ああそうだ、週末は我が家に夫婦揃って来るがいい。今日の食事の礼だ、今度はオレが手料理を振る舞おうではないか」
「よろしいんですか?」
「もちろんだとも。メニューはビーフシチューにする予定だから、手土産として葡萄酒を所望する。我が家秘伝のビーフシチューは葡萄酒に合うからな!!」
「ではキクガさんと一緒に選ばせていただきますね」
「楽しみにしているがいい!!」
オルトレイは我が家に招待する約束を漕ぎ着けたところで帰ろうとするが、キクガの部屋から出ようとしたところでピタリと足を止める。
確かに今回の食事のお礼として料理の腕を振るうことにはしたが、夫婦の時間を邪魔した罪はまだ清算していない。個人的にもこのまま帰るのは申し訳ない。
見送りに来たサユリへと振り返ったオルトレイは、
「サユリ嬢」
「はい?」
「夫婦の時間を邪魔した詫びとして、お前にはこれをやろう」
オルトレイが転送魔法でサユリの手のひらに乗せたものは、ハートの形をした小瓶が特徴の香水である。女子が好みそうな意匠だ。
香水の瓶を前にして、サユリは黒い瞳を瞬かせていた。おそらく香水をあまりつけない性格なのだろう。
ニヤリと悪魔のように笑ったオルトレイは、
「その香水はな、男をえっちな気分にさせる香水らしい。眉唾だがな」
「え、えっち……」
「今日の料理のラインナップを見て、ああそうだろうなと確信していたのだ。奥ゆかしいのは極東美人の美徳とするところだが、たまには大胆な行動に出るのも一興だとは思わんか?」
オルトレイは満面の笑みでサユリにお節介を焼き、颯爽と「ではまたな!!」と部屋を去るのだった。
☆
宅飲みから次の日である。
「こんな場所にいたのかね」
「む」
冥府総督府の片隅に設けられた彼岸花の咲き乱れる花壇を眺めながら食事を取っていたオルトレイは、唐突に声をかけられて顔を上げる。
そこにはキクガが弁当の包みを持って立っていた。今日も最愛の妻であるサユリの愛妻弁当なのか、とても大事そうに抱えていた。
最近だと執務室で食べることが多かったキクガだが、今日は何故かオルトレイをわざわざ探していたらしい。もしかして一緒に食べたかったのだろうか。
サンドイッチの最後の一欠片を口に放り込んだオルトレイは、
「どうした、キクガ。オレと一緒に食べたかったのか?」
「君が珍しく食堂を利用していないから探してしまった訳だが」
「昼休みが終われば呵責開発課の部屋に戻るぞ」
「寂しいことを言わないでくれないか」
「冗談だ、冗談」
オルトレイが開いた自分の隣を示すと、キクガはその通りに腰を下ろす。膝の上に弁当の包みを置いて結び目を解くと、一般的な四角い弁当箱が出てきた。
弁当箱の蓋を開けると、サユリの手製らしい弁当のおかずがお目見えする。野菜を使った煮浸しや甘酢和え、中央に据えられた魚の切り身は程よい焼き目が美味しそうである。
キクガは両手を揃えてお行儀よく「いただきます」と言うと、
「そういえば、サユリが熱心に葡萄酒を選んでいる訳だが」
「ああ、週末に夫婦揃って我が家へ招待した。ビーフシチューを作る予定だから手土産に葡萄酒を持ってくるがいい、我が家秘伝のビーフシチューは葡萄酒がよく合うからな」
「そう言うことなら、サユリと共にお邪魔させてもらおう」
「パンも焼くから期待していろよ」
「君は器用な訳だが」
オルトレイはちらりとキクガの弁当を見やる。
彼の弁当に詰められていたおかずは、彩りが重視されているものの大半は昨日の宅飲みの残りだろう。つまりは精のつく食材ばかりだ。
昨日あげた香水を、今日試してみるつもりなのだろう。成功することを祈るばかりである。
どこか楽しそうに口の端を持ち上げるオルトレイは、友人の背中を叩く。
「キクガよ、今夜の為に体力は温存しておいた方がいいぞ」
「今夜?」
不思議そうに首を傾げるキクガに、オルトレイは笑って誤魔化すのだった。
その夜、キクガからの通信魔法で「搾り取られた訳だが、サユリに何を吹き込んだ」と恨み節みたいな言葉が飛んできたので、オルトレイは『雪色銀月』を瓶からラッパ飲みしながら盛大に笑い飛ばすのだった。
《登場人物》
【オルトレイ】ユフィーリアの実父。冥府総督府で呵責開発課の課長を務める魔法使いで、文武両道を地でいく両家のお坊ちゃん。あまり空気が読めない性格だが、状況を読むことが出来ればフォローが凄い。洋食を得意料理とし、特に秘伝と自ら語るビーフシチューはユフィーリアの好物でもある逸品。
【キクガ】冥王第一補佐官にしてショウの実父。家に帰るたびに妻が帰りを待っている現実から逃避してから部屋に入ることを繰り返している。妻であるサユリのことを片時も忘れたことはない。夜の大運動会については淡白であり、妻も病弱で手を出そうにも出さない時の方が多い。
【サユリ】ショウの母親にしてキクガの妻。最近になって他所の冥府から移管されてきた。和食料理を得意とする料理人。夜の大運動会については積極的にキクガへ迫り、押し倒す気概を見せる。ただし気分ではない時はそんなことはしない。