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短編集

遠い呼び声~飛ばされてきた「魔力なし」の女ですが、辺境の魔術師さんと恋をしてそれなりに幸せです~

作者:

(助けて)


 確かにその声は、そう言った。

 森の奥へとづつく小道を急ぎ足で進みながら、マナは胸元で手を握りしめる。

 ほんの一言で途切れた声。それからマナがどれだけ耳を澄ませても、再びその声が聞こえることはなかった。


『ほんとに、ほんとなの。僕たちには全然、聞こえなかったけど』


 まわりのみんなはそう言った。マナよりずうっと耳の良い者も、遠くの気配が分かる者もいたのに。

 でも、確かに声は聞こえたのだ。それは、他の声にはない、不思議な響きをしていた。



『ここからは、少し結界を、強めるよ。ちょっと足が重くなるけど、頑張って』


 耳元で声がする。同時にふわりと自分の周りの空気が重みを増すのが分かった。

 今いる場所は、森の最奥に近い。生身の人間が防御もなしに入ったら、生きて帰れる保証はない。本当は足を踏み入れたくはない場所だったが、背に腹は代えられない。マナは厚みを増した結界の粘りのある空気に足を取られながら、懸命に歩き続ける。

 水の中を進むような抵抗に、徐々に息が上がってくる。


 その時突然、視界が開けた。


「ああ……」


 遅かった。

 結界の重たい空気越しに、漂う焦げ臭さを感じる。

 深い森のその部分だけがぽっかりと円形に、焼き払われていた。焼け焦げたむき出しの土と岩だけの地上に、点々と散らばっている炭の塊に見えるものは、おそらく、人の、名残りだろう。それはほとんど生き物の形を成しておらず、呆然としたマナの目にはほとんど入らなかった。


 マナの視線は、一点に引き寄せられる。

 黒と灰色に覆われた光景に、鮮やかに浮かび上がる白い塊。


 駆け付けると、そこに横たわっていたのは、裸の男だった。その白い肌は汚れひとつなく、真っ黒の大地がそこだけ切り取られたように見える。


 はっと我に返り、マナは背負ってきた袋から、道具箱・・・を取り出した。


「大丈夫ですか、大丈夫ですか」


 男の傍らにひざまずくと、ほとんど条件反射で、肩を叩きながら呼びかける。


「一、二、三……」


 不思議に落ち着く、魔法の呪文。唱えながら、男の口元に頬を寄せ、同時に胸の上下を確かめる。

 そして、眉を寄せた。

 男の胸部は明らかに不自然な動きをしていた。肩が動くほどに激しく鎖骨を引き上げようとしているのに、腹部と胸郭に連動する動きはなく、ひくひくと不規則に震えるだけだ。


「麻痺。下から……?」


 つぶやきながら、頸動脈に手を当てる。安定した拍動を感じた。

 マナは男の耳元で、やや声を張る。


「分かりますか。あなたは呼吸ができなくなっている。これから補助をしますが、なるべく喉の力を抜いて下さい」


 男の瞼がひくりと動いた。


 マナは取り出したバギングバックを素早く組み立てる。男の顎を軽く持ち上げると、マスクをあてがい固定しバッグをゆっくりと押しつぶした。

 男の目が見開く。


「大丈夫」


 マナがささやき、彼の肩の動きに合わせてゆっくりと空気を送り込むと、男はうまく喉を開く。この道具を見るのも、もちろん使われるのも初めてだろうに、この人物はかなり、状況把握能力が高いようだった。


「レイラ、聞こえる」


 バッグを押し続けつつ、男の全身を素早く観察してから、マナは仲間・・に呼びかけた。


『はあいー?』


 おっとりとした女性の声が応えた。


「悪いんだけれど、この人の喉に、気の道を作って頂戴。あまり強くすると喉と肺が裂けるから、優しく、優しくね。風の量は、私と、おんなじくらい。はじめの10息だけは、火の使いの気を、半分混ぜてあげて」


『わかった、けど、何かちまちま、面倒だなあ』

「埋め合わせはするから。帰ったらとっておきのお香を焚いてあげる」

『約束だよ』


 途端にご機嫌になった女性の声が消えると同時に、男の首がびくりと反った。


「レイラ、待って」


 マナは一度仲間を制し、男をのぞき込んだ。目を見開き、生理的であろう涙を流す彼に、そっと声をかける。


「苦しいですか」


 男の麻痺は、みるみる進んでいるようだった。すでに喉周りの筋肉も動かないと見え、えずくこともできないようだ。しかしその眉根ははっきりと寄っている。


「喉を無理やり開いているので。反射で、吐き気や咳の刺激が……。眠ってしまう方が、楽ですが。そうしますか」


 涙を流しながらも、男の美しい灰青色の瞳がはっきりとした拒絶の色を見せた。


「……分かりました。喉元だけ、一時的に感覚を麻痺させます。違和感はあるでしょうが、お許しくださいね」


 男の目が微かに動く。


「モンテス。聞こえる」

『ええ、俺? そいつ、人間だろ。めんどくさいなあ。俺、殺しちゃうかもしれないよ』

「凄腕のあんたがそんなヘマするわけないでしょ。あんただから頼むんだから」

『へ、へへ。で、何』

「この人の舌の奥から気の道の入り口まで、軽―く痺れの毒を使ってあげて。表の皮一枚だけよ。血の道に乗せたら承知しないからね」

『はいはい。相変わらず、注文の多い魔女さんだな』

「私は注文をかなえられる相手にしか注文しないわ」

『はいはい』


 男の眉根の皺が徐々にほどかれていく。やがて呼吸が規則正しく保たれはじめ、胸が穏やかに上下しているのを確認すると、マナは静かに、男の左右の胸と、そして最後にみぞおちに聴診器を当てた。


「レイラ、分かってたけど、さすがだわ。食の道は上手に避けてくれてるわね」

『当たり前でしょ。私を何だと思ってるの。あんたにどれだけしごかれたか』

「ふふ、そうね」


 男の瞳がゆっくりと動き、マナの瞳を捉えた。そこには、純粋な疑問の色が浮かんでいる。


「色々お聞きになりたいのでしょうけれど、今、あなたは麻痺に犯されています。声を出す筋肉も使えない。それに、気の道を開いたままにしているので、いずれにしてももうしばらくはお話はできないの、ごめんなさい」


 男の目がゆっくりと瞬く。


「私ができるのは、ここまでです。街に使いをやりますから、数刻後には、迎えが来てくれるでしょう。それまでは結界を張っておきますので、ここでしばらく、お休みになっていて」


 男の目が見開いた。


「勝手なお願いですが……私のことは他言しないでいただけると、有難いです。できれば、忘れてください」


 マナは静かに立ち上がる。

 それからふわりと、男の身体にマントをかぶせると、彼女は振り返りもせずに立ち去った。



『ねえ、あんなところに人間、置きっぱなしにしてきて、良かったの』


 アロマオイルを一滴垂らすと、小屋には華やかな香りが広がった。オイルの瓶を持ち上げ日に透かす。それはかなり、残り少なくなっていた。

 マナは無意識に吐息を漏らす。


「仕方ないじゃない、街の人たちと鉢合わせるわけにはいかないんだから。あの人は大丈夫よ、かなり力がありそうだったから」

『それはもちろん、分かったけどさあ』


 風の精霊、レイラの言葉に、マナは男の物問いたげな目を思い出す。自分にだって、彼に聞きたいことは山ほどある。あなたは何者か。どうして森の最奥部で、あんな姿で倒れていたのか。あの場所で何があったのか。しかし、彼が話をできる状態になるまで、あの場に留まることはできなかった。


「おそらく、ものすごく強い魔獣か、もしかしたら、魔術師にやられたのかもしれない。彼も解毒の力はあったようだけれど、それを使う前に麻痺が進んでしまった。多分今頃、ゆっくり体から麻痺の毒を抜いて、動けるくらいにはなっているはず」


 街からの迎えが来る頃には、彼は自分で呼吸できているだろう。マナの施した応急手当の痕跡は、跡形もなく消えているはずだ。

 彼の記憶をいじる勇気は、自分にはなかった。彼が自分の願いを聞き入れてくれることを、祈るばかりだ。


「それにしても、あの声――」


 マナが独り言ちた瞬間、小屋の扉が開いた。

 まったくの不意打ちに、マナは息を飲み、入り口に立つ人影を凝視する。


「失礼する」


 侵入者はやや掠れた声でつぶやくと、激しくせき込んだ。


「ちょっ……と、あなた」


 先ほどの男だ。小屋の中に一歩踏み入れて膝をつき、肩で息をする様子を、マナは驚きのあまり硬直して眺めることしかできない。


「ぶしつけな訪問を、お許し願いたい。どうしても貴方に、御礼を……」


 ひゅうひゅうを喉を鳴らしながら、妙に律義な言葉を紡ぐ男に、マナははっと我に返る。


「まだ、動ける状態じゃ、ないでしょう。なんて無茶なこと……」


 あわてて駆け寄り、崩れかかる男の身体を支える。マナのマントを羽織っただけの男の全身から、汗が噴き出していた。


「あのままあの場にいれば、すぐに治療士が駆け付けたでしょうに……」


 マナが男を支えて立ち上がらせようとすると、ふわりと彼の身体が宙に浮いた。


『運ぶの、ベッドでいいの』


 不機嫌そうな風の精霊の声に、マナは知らず微笑む。


「ありがとう、レイラ」

『まったく、何なのこの人間。迷惑千万だわ』

「……かたじけない」


 紙のような顔色の男がつぶやく。

 死にそうな顔をしているが、立ち去ったマナの痕跡をたどり、目くらましをかけたこの小屋を見つけ出し、マナや精霊たちに全く気取らせずに小屋の結界を破って扉に手をかけ、今、この男はここにいるのだ。

 尋常な力でなせる業ではない。


 ふわり、と掛け布をめくったベッドに横たえられた男は、忸怩、という単語に顔を付けたらこうなるか、という表情をしていた。

 マナは軽くため息をつき、その硬い横顔を眺める。


 まごうことなく、美しい男だった。

 肌は抜けるように白くあくまでなめらかで、絹のような光沢を帯びている。均整の取れた身体つきと相まって、ギリシアの彫刻を思わせる。背中の中ほどまである、癖のない絹糸のような銀髪が、今は無造作に枕に散っていた。彫りの深い、しかしあっさりとした印象の顔立ち。通った鼻梁、薄い唇、細い顎。切れ長の目に輝くのは、灰青色の瞳だ。澄んだようで濁ったその色合いは、マナの心を落ち着かなくさせる。


 ふいにその灰青色の瞳が、マナに向けられた。

 しげしげと男の顔を眺めていたマナは、思わず赤くなり目を逸らせる。


「……ありがとう。すまない、手間を取らせて。挙句にベッドを、汚してしまった」


 彼に悪気はないのだろうが、先ほどから根本的に、気にするポイントがずれている。


「そんなこと。ベッドなんて、あなたの力が戻れば、浄化するのは造作もないでしょう……なんで、あそこで、じっとしていなかったの。あとほんの数刻で、あなたは完全に、力を取り戻せたのに」


 マナは、声に非難が混じるのを止められない。彼は毒が抜けきれない身体で無理に動いたせいで、内臓が傷ついていた。ここに来るまで、想像を絶する痛みだったはずだ。


「あ、の。……焦ってしまって」

「焦って?」


 マナを見つめ続ける男の瞳がふいに光を帯び、日の光の下で揺らめくブルートパーズのように明るく輝く。


「すぐに捕まえなければ、貴方に、二度と、会えない気がして……」


 マナはぎくりと身を強張らせる。


「でも、捕まえた」


 男の右手が、マナの手首に伸びる。その手は冷たく、しかし予想外の力強さで彼女の手首に巻き付き、まるで枷のように、がしりと彼女を捉えた。




「ま……って、待って」


 病人かと思って油断すればこれだ。

 男の腕は易々とマナをベッドに引き込み、背後から抱え込んでいた。

 すり、と冷たい鼻先がうなじに擦り付けられ、マナはびくりと身を反らせる。


「あ、……やっ……」


 男の手が優しくマナの首筋をなぞると、ぞくぞくとした快感が背筋に広がりマナは目を見開く。


(何、これは)


 経験したことのない感覚だった。鼻先の冷たい感触がふと離れ、次の瞬間、熱く湿った感触がうなじを襲い、マナは息を飲みのけぞる。


「あ、あ、……」


 瞬間。

 ぴしり、と乾いた音が響き、マナを拘束していた重いぬくもりが離れた。


『いい加減にしろやエロ魔術師。その頭、潰してやろうか』


 乾ききった風の精霊の声が響く。


「レ、イラ」


 マナの全身が脱力する。


「す、すまない。何てことを。……一瞬、意識が、飛んで……」


 ひどく狼狽した様子の男の声が、背後から響いてくる。


『マナ。こいつ、俺たちが喰ってやろうか。不味まずそうだが、お前のためなら、骨の髄まで残さず完食するぜ』


 ベッドの足元から響くのは、真冬の凍てついた大地のような、地の精霊の声。


「モンテス、大丈夫よ、ありがとう。……とりあえず、動けないように縛り上げてくれる」


 瞬間、床から岩の触手が湧き出した。それは男の首から下をぐるぐると巻き上げる。

 男は首だけが出たミノムシ状態で、ぱちくりと瞬いた。


「私が魔力なしだからって、甘く見たら痛い目に遭うわよ。……もう、遭ってるか」


 マナは立ち上がり、目を眇めて、ベッドに横たわるミノムシ男を見下ろす。


「こんなことのために、わざわざ後を追ってくるなんて。この世界の人間の、“魔力なし”への劣情は、本当に、見下げ果てたものだわ」

「いや、違う、それは誤解だ! ……あ、いや、不埒を働いたのは事実だし、申し開きもできないが……」


 男は脂汗を流しながら、それでも真摯な瞳で言いつのる。


「でも、違うんだ。俺は貴方に、あなたに、惚れました。弟子にしてください、『魔の森の魔女』」


 小屋の中はしんと静まり返る。マナは絶句して、間抜けな姿の男をただ見おろしていた。





 人生の大きな流れには逆らわない。それがマナの信条だ。だがしかし、最近の自分の人生の流れは、果たして素直に身を任せてよいものなのか、真剣な疑念がぬぐえない。


 目の前で甲斐甲斐しく床を磨く男の、美しく引き締まった背中を眺めながら、マナは軽く息をついた。


「床磨き、終わりました。水を、汲んできますね」


 立ち上がった男は嬉々として、天秤棒を担ぎ早足で小屋を出て行く。


『ねえ、あの人間、いつまでここに来させるつもり』


 男の消えた小屋の中に、いらだちを含んだ風の精霊の声が響いた。


『あたしたちに害がないのは分かったけど、……あいつ、おかしいよ』


 そう、彼はおかしい。マナはぼんやりと彼の背中が消えた扉を眺めながらうなずく。




「俺を、弟子にしてください」


 あの日。ミノムシ男の真剣そのものの声に、小屋には沈黙が落ちた。


「弟子、って。……私に魔力のかけらもないのは、あなたなら当然、分かるでしょう。『魔女』って言うのは、魔力なしの私に向けた、からかいの蔑称よ」

「いや。あなたには、得難い力がある。精霊と対等に意思疎通し使役する人間など、見たことがない。それに、あなたのその、医術への深い造詣、そして冷静沈着で適切かつ迅速な処置。このような技量を持った方を、私は他に知らない……」


 それは、そうでしょうとも。マナは男の、良く動く薄く整った唇を見つめる。だてに6年も、現代医学の最先端を叩き込まれてはいない。


 マナは、いわゆる異世界転移者だった。もといた世界の科学技術のレベルは、今いる世界よりも格段に高く、医学もその例外ではなかった。

 その世界の、日本という小さな島国で、彼女は医師の資格を得て、研修医として働いていた。ちなみに、医学知識の充実度で言えば、国家試験を終えたばかりのこの時期が、実は一番レベルが高い。たいてい、医師歴が長くなるにつれ、自分の専門外の分野の知識は、アップデートもされず忘れていくからだ。


 研修先に選んだ病院は、救急診療に積極的な大病院だった。そこでマナは様々な経験を積み、そして羽ばたく、はずだった。

 その、続いていくはずの道は、ある日突然に断たれた。休憩中に強い揺れを感じ、同時に聞こえた「助けて」と言う声に、待機所から救急セットを抱え飛び出したマナは、突然目の前にぽっかりと開いた真っ黒い穴に、足の先から吸い込まれた。そして気がついたときには、この世界にいたのだ。


(そう、あの、声)


 今日、自分を、この男のもとへ向かわせた、声。おそらくあれは、あの時に聞いたのと、同じ声だった。

 物思いに沈もうとした彼女の意識を、目の前のミノムシ男の声が引き戻す。


「毒の残った身であったとはいえ、おのれの意識をまともに保てず、貴方に不埒を働いたことは事実。どのような罰でもお受けいたします。ただ、もし、おそばに侍ることをお許しいただけるならば、私の命に誓い、あなた様をこの世界の人間よりお守りし、お役に立つことをお約束いたします。私を、弟子として、おそばに置いてください」


 魔術師の言葉には、呪縛の力がある。彼らが自分の口から出した『誓い』は彼らを不可抗力に縛る。そのくらいは、マナでも知っていた。

 魔力がことわりの基本にあるこの世界で、魔力のない世界から飛ばされてきたマナは、これまで散々な目に遭ってきた。この男の申し出は、とても魅力的だ。

 しかし。


「私の知識は、この世界では通用することも、しないこともある。人に教えられる代物ではないわ。それに、精霊と仲良くなる方法は、あなたには絶対、真似できないものだと思う。ここにいても、あなたにメリットは、ないと思うわ。……私も、困る」

「……そうですか」


 率直に告げると、男はしゅんと項垂れた。

 数刻後、完全に回復した男は、繰り返し礼を述べて小屋を後にした。肩を落として歩み去っていく後姿を小屋の窓から見送りながら、マナは何度目かのため息をついた。



 それが、二月ほど前のことだ。


 それからあの男――ソーマ、と名乗った――は、三日おきに小屋に現れた。彼は毎回毎回ご丁寧に、小屋に入る直前に、自分の魔力を封印する。そして、魔力なしのマナと全く同じ条件で、手足を使って家事を手伝ってくれたりしながら、午後のひとときを過ごす。


 初めの訪問日、ソーマは、マッチと燻製肉、スパイスセットを携えてやって来た。ふいに開いた扉にあっけにとられ、次に目を吊り上げて男を追い返そうとしたマナは、久しぶりに嗅いだ肉の良いにおいに、思わずゴクリと、喉を鳴らしてしまった。


 この世界に飛ばされ、街から追放されてから半年間、マナは、人里離れた森で暮らし、地の精霊に生成してもらうビタミンミネラルと、野草や森の恵みの木の実、風の精霊がどこからか攫ってきてくれた野生のヤギの乳で、何とか食いつないでいた。本当に久しぶりに見る、肉だったのだ。


「かまど、あまり、お使いになっていないようだったので。差し出がましいですが、食事を、作らせてください」


 マナは食の誘惑に負けた。


 それから3日ごとに、ソーマは少しずつ、色々な物を持ってきてくれた。今では小屋の台所の調理道具のラインナップは、いっぱしのものだ。


 それにしても、いつの間にこんなことになっているんだろう。鼻歌交じりに鍋をかき混ぜているすらりとした後姿を、見るともなく眺めながらマナは思う。


 魔力のフィルターの外れたソーマは、少しぼんやりとした恥ずかしがりの、料理とカードゲームの好きな、美しく、穏やかな青年だった。

 もう体裁を繕うこともなく、ただ会いたいからマナのところに通っている、と公言してくる。そのくせ、あの日以来、彼女に指一本触れることはなく、迫るそぶりは皆無だった。


「……味見、してくださいますか」


 振り向いた彼の、灰青色の瞳が微笑む。

 差し出されたスプーンに、マナはふうふうと息を吹きかける。それからスープを吸い込むと、スパイスと野菜のうまみの混じった、優しい味わいが舌に広がった。


「……うん、おいしい」


 軽く首をかしげていたソーマの口元が嬉しそうに微笑む。

 マナは思わず手を伸ばし、人差し指で軽く、その唇に触れた。


「……!」


 ソーマの目が見開き、それからゆっくりと、その目はマナの方へと近づいてくる。そして二人は、ごく自然に唇を合わせた。


 ちゅ、と音を立てて唇が離れると、二人はお互いに、相手の瞳の奥に、揺らめく炎を見出す。

 かちゃん、とソーマの手元からスプーンが滑り落ち、彼の両手は恐る恐る、それからしっかりと、マナの肩と腰を抱き込んだ。



 飢えていたのは何も、食べ物だけではなかった。男の唇が身体のあちこちに触れるたびに背を反らせ、抑えきれない甘い声を漏らしながら、マナは実感する。


「一つになりたい。……いいですか」


 急に許可を求められ、切れ目のない快感にただあえいでいたマナは、知らず笑い声を漏らした。

 とっても、彼らしい。


「聞かないで。好きにして、良いのよ……」


 マナの甘い声に、男は切なそうに眉をひそめてから、ゆっくりと身体を沈めた。



 なかなか、熱が引かない。

 以前の世界でも経験がないわけではなかったが、これほど穏やかで優しく、それでいて狂おしいほどの交わりは、初めてだった。

 仰向けになり深い呼吸を繰り返すマナに身体を向け、脚を絡めながら、ソーマは柔らかく微笑む。


「辛いところは、なかったですか」

「うん。……すごく、気持ちよかった」


 マナの素直な言葉に、ソーマの赤らんだ頬はさらに上気する。

 あんなことまでしたのに、今更照れるなんて、なんてかわいい人なんだろう。

 マナは思わず、彼の頭を引き寄せ口づける。


「あ……」

 ソーマは困ったように、さらに赤くなった。


「マナ、ごめんなさい、……もう一回……」


 おそるおそる、と言った彼の言葉に、マナはこらえきれず噴き出しながら応える。


「いいわよ、もちろん。……好きなだけ」


 がばり、と、男の身体がマナに覆いかぶさる。彼女を貪る唇は、とてつもなく甘い。


 その日初めて、ソーマはマナの小屋で一夜を明かした。





「……魔力のない世界」


 3日ごとの逢瀬の度、甘い時間を過ごすようになって3か月。マナは、自分の身の上をソーマに打ち明けた。

 そもそも本来、この世界に存在しないはずの、魔力のない人間。魔女と畏れられる程の、人体への知識。マナに特殊な事情があるのは、誰の目にも明らかだ。それでも、話しながらマナは、内容のあまりの突飛さに、恋人ですらこの話を信じてくれないのではないかと、不安を募らせていた。


 彼女の話を聞くソーマの目には、あまり見たことのない、いっそ鋭いと言ってよいほどの光があった。


「不思議な、声」


 彼がマナの話の終わりに発したのは、その一言だけだった。


「ええ。他にはない響きの声。ここに飛ばされた時と、あなたと初めて森の奥で会う直前、その2回しか、聞いたことがないの」

「……そうか……」


 彼はふいに、伏せていた目を上げて、マナをまっすぐに見つめた。


「話してくれて、ありがとう。……俺も、君に、話さなくてはならないことがある。でもそれは、自分の力でカタを付けてからにしたい。恥ずかしい話だが、何年も俺はそこから、逃げ回っていた。でも、もう、終わりにする」


 マナの額に軽く唇を落とすと、ソーマは立ち上がった。


「これからしばらく、留守にする。1週間か、ひと月かかるか……とにかく、必ずここに戻って来るから、俺のことを、待っていて欲しい」


 彼が「森の番人」と呼ばれる、隣国との国境の森を警備する役割を担った魔術師であることは、マナはすでに知らされていた。あの日の彼は、隣国が差し向けた人工的に強化された魔獣と交戦し、罠にはめられたのだった。

 

 でも、マナは早い内から、彼ほどの魔術師が辺境勤めを続けるのには、何かわけがあるのだろうと思っていた。ソーマの時々ひどくぼんやりした様子は、何かに深く傷ついて、ここで休息をとっていることを窺わせた。

 マナは微笑む。


「分かった。……待ってるね」


 いつものように、去っていく恋人の背中を見送る。

 でも、マナがこの小屋の扉から彼を見送ったのは、それが最後だった。





 ソーマが旅立った翌週、マナの住む森は突然、焼き払われた。


 その日、真夜中に焦げ臭いにおいで目を覚ましたマナは、即座に土の壁に覆われた。


「ちょ、モンテス、周りが見えなっ」

『しばらく、じっとしてな』


 土の壁ごと、ふわりと身体が浮き上がる気配がする。


『森はもうだめだわ。火が届かないところまで、運ぶよ』


 風の精の声は、常になく沈んでいた。

 しばらくして土の壁がボロボロと崩れ落ち、風を感じる。マナは、森のはるか上空にいた。

 目の前には、信じられない光景が広がっていた。

 森は炎に包まれ、地平は見渡す限り、火の海と化していた。マナの小屋も、すでに炎に飲まれ在処ありかもわからない。


「……どうして。いったい何が」


 呆然とつぶやくマナに、土の精、モンテスの声が応える。


「魔力と、土の油の力の混じった炎だな。大方、人間どもの大げんかだろ。これだけ燃えちまうと、森は何百年かは、生き返らねえな」

「……」

 

 マナは唇をかみしめ、燃え上がり崩れ落ちていく森を見つめていた。


 炎の奥から、おびただしい人間と、何かの獣の群れが、流れ出してくるのが見える。

 どこかに魔力で、通路を作っているようだった。


(私の知っている街の人たちとは、顔立ちも服装も違う。おそらく、隣国の……兵士たち)


 街は、無事だろうか。そして、ソーマは。

 マナは目を閉じる。今、自分が、為すべきこと。


「レイラ。一番近くの、治療所まで、運んで」

 

 マナの身体が上空高く舞い上がる。みるみる遠くなっていく炎に包まれた森を、マナはじっと見つめ続ける。


(さよなら、『魔の森の魔女』。さよなら、私とソーマの、休息の場所)





 王国歴203年に起こったその軍事衝突は、ロズワルド王国では「魔の森の変」と呼ばれる。隣国アサーラ皇国とロズワルド王国は、数年来国境線を巡り小規模な衝突を繰り返していたが、その年の秋、アサーラ皇国は突如として魔力と火力を持って国境の森を焼き払い、大規模な侵攻行動へ打って出た。

 

 後年行われた、双方の軍事記録や書簡を基とした歴史検証によれば、直前に行われた小競り合いにより、ロズワルド王国の魔術師の双璧の一人、第3王子シャウムが死亡したとの誤情報を、アサーラ皇国が信じたことが、突然の強引な軍事行動の背景にあったという。

 

 実際には、第3王子シャウムは死亡してはおらず、しかも数年の隠遁を解き王都に帰還した直後であった。直ちに王都より派遣された、ロズワルド王国の魔術師の双璧『二頭の鬼神』率いる魔術師団により、アサーラ皇国の侵攻軍は完膚なきまでに叩きのめされ、広大な『魔の森』の跡地は、ロズワルド王国一国のものとなった。ここに200年来不変であった両国の国境線が、あらたに引き直されることとなったのである。



****



 からんからん。


 来客を知らせる陽気なドアベルの音。

 表の店員のターニャの明るい声がする。

 店の奥の部屋で、目を落としていた書物から顔を上げ、マナはゆっくりと伸びをする。


 春の日だまりの心地よさは、殺人級だ。油断するとあっという間に、眠りの沼に引きずり込まれる。特に、難解な文字を丹念に追っている、今の自分のような者にとっては。


 言葉を聞いたり話したりすることは、この世界に来た直後から、全く問題なくできた。それは、相手の魔力のなせる業らしい。この世界にはただ一つの言語しか存在しない、あるいは一人一人が違う言語を話している。それらは魔力を介して、過不足なく意思を伝達する。

 しかし、書き言葉となると話は別だ。地域別、階級別に様々な文字と言葉の体系があり、この世界で生まれ育ったものでも、全てを使いこなすことは不可能に近い。

 文字を読めない人間も多く、生活に支障はないけれど、マナは今、この世界の文字を学ぶことに挑戦していた。


 出来れば、系統だった学問に耐えうる書き言葉を習得したい。そしていつか、自分の持つ知識を、書物としてこの世界で医術を志す後世の若者に残したい。それが今の、マナの目標だった。


「ねえ、アイナ……」


 ふいに店と部屋を隔てるドアが開き、眉を下げたターニャが顔をのぞかせた。困った客が来た時に見せる表情だ。


 マナが立ち上がりかけた時、ターニャの背後に人影が立った。瞬間、ターニャの姿は消え、その人影はするりとドアから部屋へと滑り込むと、背後のドアがぴたりと閉まる。


 目の前に立ったのは、長いローブに、深くかぶったフードの細身の人物だった。はらりとフードが落ち、その人物の灰青色の瞳が露わになり、マナは息を飲む。


 男が一歩、歩を進める。マナは一歩、後じさり、乾いた唇を舐めた。


「モンテス、足止めして」


 マナの声と同時に、男の膝から下は床から生まれた岩にがっちりと埋め込まれる。

 くるりと身をひるがえすと、マナは裏口へと一散に駆け出した。


 瞬間。

 パキン、と軽い音がして、マナは後ろから力強い腕に抱きすくめられていた。


『なにすんだよ畜生。マナ、ごめん。こいつ、やべえよ』


 ぐわんぐわんと鳴る耳に、モンテスの声が微かに聞こえる。


「マナ……」


 背後の男は覆いかぶさるようにマナを抱き込む。その身体と、首筋にかかる息の熱さに、マナの耳鳴りはさらにひどくなり、視界までが狭まり始める。


「逢いたかった。どれだけ、探したか……」


 懐かしい声に、体が勝手に動きそうになり、マナは唇をかみしめる。


「駄目よ。あなたはもう、ソーマじゃない。休暇はとっくに、終わったのよ」

「……何を言っているのか、分からない」


 男の声に、苛立ちが混じる。


「愛している、マナ。どうして、都に来てくれなかった。何度も使いを出したのに」

「だめよ。あなたはもう、気楽な『森の番人』じゃない。この国の王子で、魔術師を統べる立場の、人なのよ。魔力なしの異界の女なんかに関わっちゃ、いけないわ」


 男の腕の力が、強まった。


「愛している、マナ」

「だめよ。それは、命を救われた、すり込みみたいなものよ。患者が医者を好きになることなんて、日常茶飯事の……」

「それのどこがいけない」


 突然、男の声色が変わった。


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 ぎくりとマナの全身が強張る。


(この、声は)


 忘れもしない、この、響き。


()()()()()()()()()()()()()()()

「……っ!」


 その声に、マナの心は丸裸にされる。

 マナはくるりと向き直らされ、男の瞳が正面から彼女をのぞき込む。


「マナ……」


 ブルートパーズの輝きを帯びた、彼の瞳。その美しく懐かしい顔が、視界の中で、涙に覆われぐしゃぐしゃに歪んでいく。

 

「……好きよ、好きよ、……愛してる。……ずっと、逢いたかった」


 たまらず漏れ出した言葉に、男はきつくマナを抱きしめ、そして唇を貪った。



 触れられるすべてが熱い。

 男の熱いまなざしが、マナを捉えて離さない。

 これまで見たこともない獣じみた炎を宿す瞳と、荒々しく熱い手のひらと指に翻弄され、マナは薄く開いた唇から、繰り返し浅い吐息を漏らす。

 マナが息を飲む間もなく、男は一息に、最奥までマナを貫いた。


「ああっ」


 弓なりになったマナの上半身を抱きすくめ、男はマナの鎖骨に歯を立てる。


「愛してる、愛してる。もう、俺から、逃げないで……」


 男は狂おしく動き続けながら、マナの胸に顔を埋めて、むせび泣いていた。どうしようもなく甘く鋭い痛みが、マナの胸を満たす。


 あんなに優しくて穏やかな人に、ここまでさせてしまう程、私は彼を追い詰めてしまった。こんなになってしまう程、彼は私を、求めていた。


 マナの視界は、徐々に白い閃光で満たされ始める。すべてを引きはがされむき出しにされるようなその感覚に、マナは本能的に、恐怖する。


「あ、あ、や、駄目、やめて、やめて、……おかしくなる、おかしく、なるからあっ!」

()()()()()()()()()()()()()()()()()!」


 その、不思議に響く声を耳にしたとたん、マナは激しく痙攣し、ガクガクとのけぞる。そしてそのまま、意識を手放した。





 目を開くと、見知らぬ天井が見えた。

 そっと首筋に、暖かい感触が触れる。振り返ると、隣に横たわる男の、いつもの灰青色に戻った瞳が、ひどく苦し気にマナを見つめていた。


「ごめん。ひどいことをした」

「……いいのよ」

「……愛してる、マナ」

「わかった、わかったから……」


 まるで幼子のようだ。

 優しくキスをして、銀糸のような髪に手を差し込み、地肌を軽く梳いてやる。幸福そうに目を細める様子に、知らずに笑いがこみ上げる。


「だめだなあ、私。意志が弱くて。もう絶対、あなたとは会わないつもりだったのに」


 つい口に出してつぶやくと、途端に瞳を真っ黒に曇らせぎゅうぎゅうと抱きしめてくる男の様子に、マナは失言だったと唇を噛む。


「大丈夫、大丈夫よ。……愛してるわ」


 シャリシャリと、男の地肌を指で掻く。ようやく、男の力が弱まった。

 しばらくマナの肌の感触を楽しむように肩口を撫でた後、ごろりとソーマは仰向けになった。


「マナ。元の世界に、帰りたい?」

 尋ねる声は、不自然に平坦だった。


「使ってしまったから、分かっただろう。君が森で聞いた声は、俺のものだ。俺と、俺の弟だけが使える、『呪声』だよ」


 ソーマは一度息を詰めると、一気に言った。


「今の俺には、君を元の世界に戻す力がある」



 しばらく、沈黙が落ちた。


「ずっと、考えていたの。あの森を離れてから」

 マナは静かな声で話し始める。


「この世界に来た当時、私は異端の存在として、暴力も振るわれたし、屈辱的な扱いも受けた。でも多分それは、私が魔力なしだっただけではなくて、この世界に真剣に向き合っていなかったせいもあったと思う。早く戻りたい、そのためにはどうしたらいいか、それしか考えられなかった。誰かと親しくなることも、自分の医学の力をこの世界の人のために役立てることも、考えたこともなかった。あの時あなたを助けに行ったのも、あの声を聞いたから。何とか何か手掛かりが欲しい、そのためだけだった」


 マナは微笑んで、ソーマの手を握った。


「でも、あなたと出会って、好きになって。あの森が焼け落ちるのを見た時、心に決めたの。いつかどうにかしてまた会える時まで、私はこの世界で、生き抜いていく。そのためには、自分もこの世界の人々に、何かを与える立場にならなければ、って……。それで、治療院に押しかけて、頼み込んで働かせてもらった。いろんなことがあったけど、今の私は、この世界に、この世界の人たちに、受け入れてもらえてる」


 そこでマナは、軽くため息をつく。


「まあ、凱旋パレードであなたを見た時には、正直、度肝を抜かれたけどね。凄腕の魔術師だとは分かっていたけど、そこまでの立場の人だったとは。もう会わない方がお互いのためだって、思ったわ」

「俺にとっては、その立場ってやつが、この世で一番厄介な呪いなんだ」


 ソーマの声は、苦かった。


「俺は王族の後継者争いに巻き込まれて、守り切れずに双子の弟を亡くした。君をこの世界に呼び寄せたのは、今際いまわの際の弟の声だった。でも多分、君がこの世界に現れた時には、弟はもう、死んでいた」


 マナの胸が冷たくなる。そっとソーマにすり寄ると、彼はマナの肩を抱き込んだ。


「本来は、呼びよせた者にしか、帰す力はない。でも、俺たちは、双子だから。俺は弟の魂と『最後の会話』をして、君を帰す力を、譲ってもらった。ほんとはあいつを成仏させるために、『最後の会話』をもっと早くにするべきだったんだ。俺が、現実を直視できずに、逃げていた……」


 ソーマの声が微かに震え、マナは彼の胸に、鼻先を擦り付ける。


「君に出会って、前に進む勇気をもらった。でもそれで都に戻ったら、いきなり、戦争だもんな……」


 図らずも国境の小競り合いで磨いた術で、自分でも驚くほど強くなっていた。ソーマは苦笑いする。


「戦争が終わって、焼け野原になった森に帰って。本当にずっとずっと、探したよ。もちろん、君に逢いたかった。でも、それだけじゃない。君が望むなら、俺は、君を元の世界に、送り届ける。そのために、君を、探し続けたんだ……」


 ソーマの穏やかな声に、マナの胸がチクリとする。


「ソーマ……」

「マナ、元の世界に、帰りたい?」


「……ソーマ。あなたの本当の気持ちを、聞かせて」


 ソーマの腕が固くなる。彼はしばらく、身じろぎもしなかった。

 それから、彼の胸が大きく膨らみ、苦しげな声を絞り出す。


「……帰らないで。……俺の、そばに、いてほしい」

「そばにいるわ」


 マナはゆっくり、固く閉じられた彼の目尻にキスを落とす。そしてそこにゆっくりとにじみ出す涙を、やさしく吸った。

 



『とりあえず、マナをこの世界に引き留めた功績は、認めざるを得ないよな。あのスカしエロ魔術師』

『そうよ、ね。なんか癪に障るけど』


 満月を眺めながら、土の精のモンテスと、風の精のレイラは、ぼそぼそと会話する。


『にしてもすんげえ、綺麗な月だな。俺がマナにもらった、オハジキみたい』

『だ・か・ら。あたしがもらったオハジキのほうが、綺麗なんだから!』


 いつものくだらない小競り合いを繰り広げながら、2体の精霊は、夜空を眺め続ける。


 漆黒の夜空には、黄金色の双子の月が、この世界のすべてを祝福するかのように、輝いていた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] おはじき自慢し合うのが可愛いwww
[一言] やー王子かなぁ?っね思ってたらやっぱり王子だったが… 呼び寄せたのは双子の弟だったか〜 モンテスとレイラもいるし何よりソーマがいるからね〜。 マナも幸せに暮らせた事でしょう。
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