後編 異教のよそ者
月明かりが照らす暗い丘の上で、合流した家族と抱き合う者たち。わあわあと子どもが泣く声。
人だかりから少し離れたところで、村を睨むように見下ろす少年のもとへ、同い年の友人が駆け寄った。「ヨルグ、何か見えるか?」
人より少しばかり夜目の利く少年は、懸命に目を凝らしながらうなずいた。「崩落は止まったみたいだけど、礼拝堂と学校と水車……あのあたりは全部土砂に埋まってる」
友人がため息をひとつ。それから、岩肌を剥き出しにしている西側の山脈を見上げる。「あっちの山が崩れたのか」
「……今、なにか動いた」
村から少し離れた森の中の草地を指さしてヨルグが呟くのに、
「まさか逃げ遅れか? ーーなぁおい、まだ来てない奴は?!」
友人が後方へ声を張り上げ、村人たちは慌てて互いに顔を見合わせる。おそらく殿を努めただろう屈強な男たちの名前がいくつか上がり。
「あと、村長がいないぞ」「呪術師さまも」
「だれか、アルアを見てないか!」丘を駆け上がってきたアルアの父親が、血相を変えた様子で叫んだ。
「あれはーー羊だ」
なおも村のほうを見つめたままのヨルグが、ぽつりと呟き。
足元に放り出していた剣をつかみ、近くに立っていた男の手から火の灯った松明をうばって、少年は転がるように丘を駆け下りる。呼び止めるいくつかの声を無視して砂利道を駆け抜け、坂を下り、まとわりつく羽虫を振り払いながら走る。
数頭の羊が駆けてくるのとすれ違い、息を切らして村の門に飛び込んだ。肩で息をしながら、闇夜に向かって叫ぶーー
「アルア! どこだ!」
ーー羊を逃がしに行って、逃げ遅れた少女の名を。
村の奥から、獣のうめき声と、建物が壊れる音がした。少年が集会所の角を曲がり、そこにーー深く身をかがめ、今にも獲物に飛びかからんばかりの体勢で牙を剥く巨大な樹獣。その前に対峙するのは、槍を構えてじりじりと後退する数人の男たち。その中には村長の姿もある。
そして、獣の後方、夕涼み用に村長が植えた太い木の根本に、腰を抜かしてへたりこんでいる羊飼いの少女と、魔除けの呪文を唱えながら玉串を振る呪術師の老人。
獣の足元に、血まみれの小さな獣がうずくまっているのを見つけて、少年が目を見開いた。「なにして……」
獣の、ピンと立った耳が小さく動く。
「ーーその槍では刺さりません、早くお逃げなさい」
獣の背後の茂みから現れた袈裟姿の優男が、異国語訛りで男たちにそう告げると、へたりこんでいる少女を抱え、呪術師の手を引いて、近くの茂みに飛び込んだ。
「てめ、アルアを!」少年が叫ぶ声に、獣が顔を向けた。少年は慌てて反対側の森に飛び込む。槍を抱えた男たちも続いた。
「一度、みなで丘へ退こう。あの樹獣が立ち去ってからーー」
茂みを掻き分けながら村長が言いかけーー
ヨルグが唇に指を当てた。とっさに口をつぐんだ男たちの耳に、馬が駆けてくる足音が届く。街道の小石を蹴飛ばしながら近づいていくる、いくつものひづめの音。景気の良い口笛。
茂みの隙間から門のほうを見た一人が言う。「……盗賊だ」
「なるほど。土砂を崩したのも、傷だらけの樹獣の赤子を村に投げ入れてきたのも、あいつらか」別の一人が舌打ちと共に呟く。
息をひそめる村人たちの前で、馬を下りた盗賊たちが、樹獣から遠い位置の家屋に次々と入っていく。続々と増えてくるひづめの音。圧倒的な数的不利にどよめく男たちの中、村長が低い声でみなを呼んだ。
「いくらか賊が退いたあとで出てこい」
「親父、それどういうーー」
「ーーこらえろよ」
剣の鞘が、地面に落ちる音。
同時、茂みの中から立ち上がった村長が一人、剥き身の剣を構え、盗賊たちのほうへと飛び出した。
「村長!!」誰かが叫んだ。
多勢にためらうことなく飛びかかっていく初老の男の背中。
一瞬ののち、ほかの男たちも慌てて加勢する。
わっと乱闘騒ぎになったその場に、近くをうろついていた樹獣が振り向く。舌打ちを鳴らしたヨルグが、おそらく何の効き目もないだろう剣を握って、向かいくる獣に特攻しようとしてーー
どすん、と鈍い音がした。皮を切り裂く音。
獣が、噛み締めた歯の間から低い悲鳴を上げる。その額には深く石が突き刺さり、周囲の毛に、ゆっくりと鮮血がにじんでいく。
ヨルグは目を見開いた。
あんなに硬い石はこの地方には存在しない。あれはーー
「森に、戻ってっ」
少年の背後に立っていたのは、投擲紐を構えた、石の民の少女。
小さな手のひらを広げると、そこにふわりと生まれる、鋭く尖った翡翠のかけら。
盗賊の男たちがそれを見て目の色を変える。素早く少女に駆け寄ったヨルグが、少女のひんやりとした身体を抱き込んで、
「きゃ」
茂みの中に押し込んだ。一拍ののち、少女が立っていたところへ、盗賊たちの矢がいくつも通り過ぎる。
茂みの中にしゃがみ込んで、それを茫然と見上げる少女。
「……ってぇ」少年の苦悶の声。
薄暗闇の中、間近で漂う鉄の匂いに青ざめる少女。「お、おにーさん」
「かすっただけ」短く答えた少年は身を反転させて剣を構え、「こっから撃て。絶対に出てくるなよ、一発撃ったら移動しろ、いいな!」
一気に言うと茂みを飛び出し、少女のいた位置をかばうように立つ。
と。
西側の山から地鳴りが轟く。崩落部分から土砂が流れ、全員が顔を向け。
「ーーどうもありがとう」
そんな声とともに、一頭の馬が、流れ込んだ土砂の上から駆け下りてきた。盗賊らしき二人の男を地面に放り投げ、馬上の僧侶は平静そのものの声で村人たちに「遅くなりました」と告げた。僧侶の背中にしがみついているらしい、呪術師の必死な祈祷文が、その背後から聞こえてくる。
肩にかけていた弓を手にとった僧侶が、鞍にぶら下げた大量の矢筒から一本を引き抜く。矢柄に鏃が付いていないのを見て、盗賊の一人がせせら笑う。
僧侶が、一人の名を呼んだ。
茂みの中から、石の民の少女の元気な返事。
一気に引き絞られた矢の先端に、またたく間に現れたのは、ひどく鋭利な緑色の鏃。月光の下、緑色の線を描いた矢が、身をよじった獣の肩口に突き立つ。
ぐおおおと悲鳴を上げた樹獣が、矢を立てたまま森の中に逃げ込んでいく。
すぐに次の矢を構えて、それを盗賊たちに向けながら、僧侶が殺生を詫びる言葉を呟いた。
「……な、なんだよ聞いてないぞ、権力争いの真っ最中の、ただの古い村じゃねぇのかよ」
地面に残る樹獣の血痕と、祈祷の呪文を背負った異様な迫力の異教の僧侶とを交互に見て、盗賊の中の若い数人が慌てた様子で村を飛び出していく。数人がそれに続いた。
交戦中の村人たちが野太い声を張り上げ、残る賊を数人、馬から引きずり下ろし、数人を門の外に押し出す。
盗賊を二人ほど切りつけ門のほうへと蹴り飛ばしたヨルグが、僧侶の馬の近くに寄り、「アンタに礼言われる義理はねーよ」と不機嫌そうに吐き捨てた。
最後の一人が血みどろの腕を押さえて村の門の向こうに去っていくのを目で追いながら、弓を下ろした馬上の僧侶が答える。
「私が連れてきた子だからね」
「それさっきアイツから聞いた。ーーあんたがここに居座ってんのは、あんたの私欲じゃないってことも」
気まずそうに答える少年の横顔を見つめながら、僧侶はゆっくりと眉を下げて馬を下りる。
「彼女の平穏を願う、私の私欲だよ。この村にとって異物であることは事実だ」
肩に弓を引っ掛けた僧侶が、茂みに向かって手招き。緑が揺れて、石の少女がひょっこりと顔を出す。礼と感嘆の言葉をわめく汗まみれの大男たちに驚いて、小さな頭部は慌ててまた茂みに消える。その様子を微笑みながら見つめ、僧侶が言う。
「私も、さっきアルアさんから話を聞いたよ。ーーこの村のみんなに、特に村長と呪術師とキミたち一家には、大変な苦労をかけたね」
はっと少年が息を飲む声。「そうだ、アルアは?!」
「三本杉の先の洞窟は分かるかい? あそこに隠れてもらってるよ」
怪我の手当てをと寄ってきた男を突き飛ばしそうな勢いで振り払って一目散に森へと駆け出す少年の背を見送り、僧侶はうっすらと白む空をまぶしそうに見上げた。
世話になった土地への礼と豊穣と幸福とを祈る、異国の別れの言葉を、小さく呟きながら。
***
小鳥が鳴く声。枝葉から差し込む朝日が、湖面をキラキラと照らす。
僧侶の大きな手が、少女の頭をそっと撫でた。
「村に友だちもできたし、もう寂しくないだろう?」
少女の、菫色の瞳が揺れた。「ほんとうに、行っちゃうの?」
僧侶はゆっくりとうなずいた。「私は異教の者だからね」
僧侶が大きめの行李を持ち上げて馬に積もうとしたところで、近くの茂みががさがさと動いてーー
「あーやっと着いた」枝の折れる音がして、頭に葉っぱを載せた少年が現れる。「遅いぞ、夕焼けの翌日は狩りだっつったろーが!」
その後ろから、弓矢や剣を背負った村の男たちが、次々に顔を出した。
「え?」
ヨルグは僧侶の袈裟をむんずと掴むと、
「それと、これ、忘れもん」
何かをぐいと押し付ける。
僧侶の目が、見覚えのある書簡を見つめる。昨晩、僧侶が村長に返したばかりの、土地の権利書。
「いえこれは」
「なっにが『あなた方は正当な対価を受け取っただけだ。そこに宗派は関係ない。土地神さまに恥じることはない』だ気取りやがって」
「……聞いていたんですか」
目を丸くする僧侶の視線から逃れるようにそっぽを向いて。
「だいたい、偉そうなこと言う暇があったら、この子にまともな戦い方のひとつも教えてやれよ」
「ああすみません、そうですね、今までは私が守っていましたから」
優しい目を向ける僧侶。うつむく少女。
アルアを抱き上げた僧侶の姿を思い出して、ヨルグが苦虫を噛み潰したような顔をする。
「ーーああもういいから、ほら、行くぞ!」
「いえ、ですから、」
なおも言い募ろうとする僧侶を、少年は睨みつけて黙らせ。
「言葉は通じるわ戦えるわ、分かったからにはサボりは許さねぇ。いいか? 狩りはーー村の男は全員参加の決まりなんだよ!」
目を丸くした僧侶は、数秒固まったあと、ふと表情を緩めて、
「ありがとう、ぜひ一緒させてもらうよ」
馬の鞍に付けていた矢筒を持ち上げた。
その後のおまけ。
僧侶に大きな鹿を狩らせたはいいけど、「信仰上、肉は特別なとき以外食べないんですよねぇ」っておっとり言われて「先に言え!」ってなる。
作業BGM:Mrs. GREEN APPLE