中編 湖上の石の民
夕日に伸びる長い影。
丘を下りて村の門にたどりついた二人は、集会所から賑やかな声が聞こえてくるのに顔を見合わせた。
「今日なんかあったっけ」と少年。
「なかったと思うけど……ヨルグ先行ってて。私も羊を戻したら向かうね」
手を振った少女は、羊の群れを引き連れて村の外れに建つ羊小屋へと向かう。
少年は集会所の扉をそっと開いた。
「ーー村長は追放だ!」農夫の一人が、厳しい声で叫んだ。
賛同する声と反対する声がわっと上がる。事情を悟ったヨルグは、集会所の片隅にかたまっている屋敷の使用人たちを睨みつけて叫んだ。
「裏切ったやつ出てこい!」
「ヨルグ、やめなさい」
村長が目を伏せて言い、深く深く頭を下げた。
「みんな。期待を裏切って、大変申し訳ないことをした」
その姿を見て、今にも乱闘に発展しそうなほど騒いでいた連中が落ち着きを取り戻す。
顔を上げた村長が、凛とした声で告げる。「急だが、数日中に次の村長を決めてくれるか。引き継ぎを終えたら、私たち一家はこの村を出ていくよ」
ヨルグは目を泳がせる。「な、なんでだよ、親父は村のみんなが飢えないように、村のためにーー」
木こりの男がぴしゃりと言った。「異教徒に土地を明け渡すことの、どこが村のためなんだ」
「そうだ、俺があの土地を取り返すよ、そしたらーー」
村長が静かな声でたしなめる。「息子よ、それは強盗というんだ」
それなら、と後ろの方に座っていた牛飼いの男が、手を挙げて言った。
「あの僧侶に金を返して、売った土地を買い戻せばいいんじゃないか? それで元通りだ」
そうだそうだ、と賛同する声がいくつか。
村長はなおも浮かない表情で首を振り、隣に立っていた補佐役の男に当時の帳簿を差し出した。それを見てぎょっとなった男は慎重に桁を数えたあと、震える声で金額を読み上げた。
場は一気に騒然となる。
「当時必要だったのは村人全員の食糧だけじゃない。それらすべてを凍らせずに保管しておけるだけの大きな食料庫も、家畜の飼料も、苗木もだ。それから、それに加えてあの人はーー皆が忌み嫌うあの異教の僧侶は、村を樹獣から守るために建てたあの柵と、門の横の警鐘、学校を建てるための資金も必要だろうと言って、金額を上乗せしてくれたんだ。みんなが当たり前に使っている、例えば水車や馬鍬の造り方なんかも、あの人が教えてくれたものだ」
村長が告げる隠されていた事実に、顔を見合わせてどよめく村人たち。
「ーー嗚呼、なんてことだ!!」みな聞き覚えのある、村で一番良く通る声が叫んだ。
みなが視線を集めた先、全身を震わせながら、真っ青な顔で呪術師の老人が叫んだ。「私も、私もーー皆に話すべきことがある。聞いてくれるか」
なんだって、とヨルグは背筋に冷たいものを感じながら顔をしかめた。
刺青だらけの両手の指先を合わせ、脂汗を浮かべながら、呪術師は絞り出すような声で言った。
「先日も宣教師が来ただろう。最近このあたりの土着宗教の村は、次々と彼らの宗派に染まっていっているんだ。昔ながらの土着の宗教よりも新しく、分かりやすく、生きていくのに役立つ知識をたくさん教えてくれる。さらに彼らは、我々の知らない武器もたくさん持っている。我々の剣や槍や弓矢では到底太刀打ちできないほどの力を持っている。だが、この村に力尽くで踏み込んで改宗をすすめてこないのには、ひとつ、大きな理由があるんだ」
ふと言葉を切った呪術師が、ヨルグを呼んだ。
「すまない、ひとつ嘘をついた」
「嘘?」
「門に貼ってある、あの、異教を追い払う札のことだ」
「ーーまさか」
顔色を変えた少年に、呪術師はゆっくりと首肯した。
「あの僧侶の宗派は、宣教師たちの宗派と不可侵の盟約を結んでいる。それを示すのが、あの札なんだ」
呪術師の老人は、村の皆に向けて、先ほど村長がしたのと同じように深く頭を下げた。
「私の力不足だ。どんな処罰でも受ける。村長を追放するのなら、私も同罪だ、いつでも出ていこう」
村人たちは、ただざわめくばかり。
***
数日後。
村人たちは夜になると集会所に集まり、平行線の議論を連日繰り返していた。
「もう意見は出尽くしただろう、決を取ろう」くたびれた声で誰かが言った。
村長と目を合わせてうなずいてから、村長補佐役の男が皆に向き直った。
「まずは次の村長を決めよう。続投か、他の誰かか。自推でも他推でも構わない、ふさわしいと思う者の名前を書いて、この箱に入れてくれ」
そう言って、集会所の片隅に積んであった投票用の木箱を手に取ったところでーー
どどどど、とすさまじい地響きの音がとどろいた。
四方の窓がガタガタと鳴る。子どもたちが悲鳴をあげ、赤子が泣き出す。妙な隙間風が、いくつかの蝋燭の炎を吹き消した。
扉や窓に近い者たちが、蝋燭を手に何事かと集会所を飛び出した。
「ーー土砂崩れだ! 丘へ逃げろ!」
と焦った声。
皆が息をのむ。
「俺が先導する! 行くぞ!」右手に蝋燭、左に剣を持ったヨルグがすぐさまそう声を張って、老人や子どもたちを引き連れて集会所を出た。暗い夜道に土埃が舞う。ざらざらと土石の崩れる音を背後に聞きながら門に向かって駆け出そうとしてーー
ぴたりとその足を止めた。
止まりきれなかった子ども数人が、少年の腰のあたりに次々とおでこをぶつける。
「ーーみんな騒ぐな、こっちだ。森を抜ける」
少年は、低く押し殺した声で告げると、後方の男たちと無言で目配せをし合ってから、靴先を90度曲げ、いつもの道を外れて、茂みの中へと分け入る。
混乱の中、少年の声がわずかに震えていたことに気づいたものはいない。
門扉の向こうの闇に浮かぶ、一対の金色の双眸に気づいたのはーー
おそらく、日ごろから狩りに出て感覚を研ぎ澄ませている男衆だけだ。
理解せずとも異様な雰囲気にあてられた幼子たちと、彼らを宥めながら覚束ない足取りで続く老人たち。
茂みを掻き分け先導する少年に、
「ヨルグ、どうして道を通らないの?」不思議そうにたずねる子ども。
「あっちはもう崩れてるのが見えた」うそぶく少年。
枝葉の音と、後ろに続くものたちの足音とささやきを聞きながら、少年は早鐘のように打つ心臓を宥めようと深く息を吸う。
獣道を横切り、木の根をいくつかまたいで、大岩の脇に出る。
おや、と老人の一人がヨルグを呼んだ。「この先は湖だよ」
「最短距離だ。非常事態だし、通してくれるだろ」
つるや枝の下をくぐり、柔らかな草の上を進みーー少年たちは湖のほとりに辿りついた。
静謐にたゆたう水面に、ぼんやりと映る月明かり。湖畔を歩く少年たちが、僧侶の住居と思しき簡素な掘立小屋の横を通り過ぎたところで、
「あ、あのう……なにか、あったんですか?」
とても小さな、泣きそうな声がした。
聞き覚えのない声にヨルグは足を止めて、剣を持つ手に力をこめる。
「あそこ!」と子どもの一人が叫んだ。
湖面に飛び出た岩の影、水面の上に『座り込む』少女が一人。
少年たちは息を呑んだ。
陶器人形のグラスアイのような温度のない瞳が不安げに揺れる。髪や肌や、服以外の全てが、まるで鉱物のようにテカテカと月明かりを反射している。丸めた背中には、確かにアルアが言っていたとおり、たてがみのように生えている結晶柱。
「い、『石の民』……」老人の一人が茫然と呟く。
「あっごっごめんなさい、そうです、はじめましてっ」慌てて頭を下げた少女が、ひどく不安そうな顔をして言う。「あのう、僧侶さんが村の様子を見に行ったきり戻らなくて……私、探しに行こうかと」
だめだよ! 危ないよ! と子どもたちが飛び跳ねながらわめいた。
周囲を見回しながら、耳をすましながら、ヨルグが言う。「土砂が崩れたんだ。ここも低地だから危ないな。あんた、湖の外には出られるのか? 今からみんなであの丘に避難するから、あそこで一緒に僧侶を待とう」
西にそびえる小高い丘を指さしたヨルグが、同意を求めるように後方を振り返る。老人たちがうなずく。
「……一緒に行っても、いいんですか?」少女の瞳から水滴がこぼれ、音を立てて湖面に跳ねた。「ありがとう、ございます」
ほっとしたように表情をゆるめて笑顔を見せた少女は、スカートを揺らして立ち上がり、水面を軽やかに駆けてくる。湖畔に揃えて置かれていた小さな靴を引っかけて陸に上がる。涙をぬぐって、手招きする少年の横に並んだ。
一緒になって枝葉を掻き分けようとする少女に「持ってて」と蝋燭を渡し、少年が一歩分前に出る。少年の後頭部を見ながら足元を踏み固めて進みつつ、少女がぽつりと言った。
「村の揉め事、僧侶さんから聞きました。ごめんなさい、あれは私のせいなんです」
ヨルグが少女を見る。「どういうこと?」
揺れる蝋燭の明かりにうっすらと照らし出される、つるりとした少女の腕を、もう片方の手が撫でる。
「この身体、ある特殊な石を定期的に摂取しないと、どんどんヒビが入ってしまって。だから、私を拾ってくれた僧侶さまは、色んな国を渡り歩いて純度の高い石を探してくれて……でも、純度の高いものは、あの湖の底にしかなくって」
少女はゆっくりと俯いて、風にかき消されそうなほどか細い声で呟いた。
「誰かの迷惑になるくらいなら、私はもういいよって、僧侶さんには何度も言ったのだけれど」
「は?」ヨルグは少女を睨みつけた。「それって、ヒビ割れたら死ぬってことなんだろお前」
「で、でも」
少年は大きく息を吸って、それから、少女の目を見てはっきりと告げた。「いいか、確かに俺たちは余所者や異教のやつを嫌うけど、それは、侵略者から村を守るためだ。あんたの命を奪うためじゃない。これが落ち着いたら、村のみんなで話し合おう。絶対、わかってくれるよ」
あのかっこつけめ、と内心で僧侶への悪態をつきながら力強く言ったヨルグの後ろから、老人たちがそうだそうだと大声を張り上げた。
作業BGM:パリピ孔明