67、引っ越し先の決定
「さっきの部屋はどう思いました?」
ダスティンさんの意見を聞かなかったなと思って、もう一つの部屋に向かいながら聞いてみると、ダスティンさんは顎に手を当てて少しだけ考え込んだ。
「悪くはなかったな。トイレが水場の奥というのが、複数人で住むときには少しだけ面倒だとは思ったが、まあそこは家族なら問題ないだろう」
確かにそうか……ユニットバスみたいなものだもんね。誰かが体を洗ってたりしたらトイレに入りにくい。
まあでも、スラムのあのプライバシーのかけらもないボロ小屋に住んでる私たちとしては、そんなもの些細なことだ。
「家賃が安い部屋はどうしてもその間取りになってしまうのです。もう少し広い部屋になると、水場とトイレがそれぞれ独立するのですが……」
「そうなのですね。今回そこは妥協しようと思います」
日本で一人暮らしをするために、都心で部屋を探した時を思い出す。ユニットバスは嫌だと思ってシャワールームがあるところを探したんだけど、結局は家賃が上がっちゃうからって諦めてユニットバスの部屋にしたんだよね。
いつかはもっと良い部屋に引っ越すぞーって気合を入れてたけど、日本では叶えられなかったな。その夢はこの世界で叶えることにしよう。
「そろそろ建物が見えてまいります。……あちらの建物ですね」
おおっ、外見はそこまで悪くない。でもさっきコームさんが言っていた通り、周りに高い建物がたくさんあって、それらの建物のすぐ近くにあるから日は全く当たらなそうだ。
「入り口はこちらでして、階段を上がってすぐのお部屋でございます」
コームさんが鍵を開けてくれて中に入ると……そこはさっきの部屋とあまり変わらない間取りだった。でも明確に違うのはその明るさだ。この部屋は暗くて少しジメジメしている。
「これは……高くてもさっきの方が良いかもしれません」
「そうだな。ここでは洗濯した衣服も乾かないのではないか?」
「パリッとは乾きませんね」
最近は洗浄の魔道具開発の影響で自宅で服を干すことが多いからか、ダスティンさんは服が乾かないという部分で眉間に皺を寄せた。
安いのは魅力的だけど……さっきの部屋の方が良いかな。なんだかここに住んでたら気持ちも沈みそうだ。やっぱり日当たりと明るさは重要だよね。
「コームさん、せっかく連れてきていただきましたが、一つ目の部屋でも良いでしょうか?」
「もちろんでございます。では先ほどの建物に戻りましょう。このまま契約に進んでしまって構いませんか?」
「はい。よろしくお願いします」
それからさっきの部屋がある建物に戻った私たちは、部屋には上がらず一階にある管理人室に向かった。管理人だというご夫婦はとても優しそうな方々だ。
「あらあら、今回の契約者さんはとても可愛らしいお嬢さんなのね」
「こんにちは。レーナと申します」
「確か四人家族だと聞いていたんだが、今日はいないのかい?」
「はい。今日は私だけで来ました。引っ越しの日に家族皆で挨拶に寄らせていただきます」
この人たちへの挨拶の練習をしないと。今日帰ったらさっそく勉強会かな。
「とても礼儀正しいお嬢さんね〜。楽しみにしているわ」
「契約書はこれなんだけど、内容に問題がなければ署名をしてもらえるかな?」
「分かりました。少しお待ちいただけますか?」
「もちろんだよ」
私は笑顔のご夫婦から契約書を受け取ると、ダスティンさんに屈んでもらって一緒に契約書を読んだ。まだこういう固い文章は完璧には読めないのだ。
「署名しても大丈夫でしょうか?」
「ああ、問題ない。ごく一般的な内容だ」
「ありがとうございます」
ダスティンさんからのお墨付きをもらえたことで、私は安心して署名をした。もうダスティンさんは、私の中の信頼できる人ランキングでかなり上位だ。
「ちゃんと署名されているね。これで契約は完了だよ」
「ありがとうございます。これからよろしくお願いいたします」
私のその挨拶に、ご夫婦は優しい笑みを向けてくれた。なんだかこの二人を見てると和むな……この部屋にして良かった。
「引っ越しはいつにするかい? その日までに部屋の掃除をしておかないといけないから、正確に決めておきたい」
「そうですね……ちょうど十日後が休みなのですが、どうでしょうか?」
「十日後だね。うん、私たちも空いているから大丈夫だよ」
「良かったです。では十日後に引っ越しでお願いします」
これでついにスラム街から抜け出せる……! 瀬名風花の記憶を思い出してから長かったような短かったような、なんだか感慨深い。
管理人夫妻と別れて建物を出た私たちは、ギャスパー様に報告をするためにロペス商会まで戻ってきた。しかしギャスパー様はまだ出先から戻られていないようだったので、報告は後日にして今日は解散することにする。
「コームさん、今日はありがとうございました。とても良い部屋を借りることができて良かったです」
「こちらこそ、ご同行させていただきありがとうございました。お引っ越しの日にも立ち会わせていただきますので、よろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いします。ではまた十日後に」
コームさんと挨拶をして見送ると、残ったのは私とダスティンさんだけだ。
「レーナ、これからどうするんだ? もう帰るか?」
「そうですね……まだ時間は早いですが、引っ越しの予定を皆に早く伝えたいですし、今日は帰ることにします。次のお休みは引っ越しで潰れてしまうので、しばらくは工房に行けませんね」
「それは仕方がないな。次にレーナが来る時までに、洗浄の魔道具と染色の魔道具を完成に近づけておこう」
楽しそうに少しだけ口角を上げながらそう言ったダスティンさんを見ていると、凄く羨ましくなる。私も魔道具開発にもっと関わりたいな。
人間の欲望って留まるところを知らないよね……今の私の現状は最高なはずなのに、もっとこうしたいって欲がたくさん湧き出てくるんだから。
「頑張ってください。楽しみにしています」
「ああ、レーナも家族でスラムから街中に引っ越すなど大変だろう。何かあったら私を頼ってくれて構わない」
「良いんですか……?」
迷惑じゃないのだろうかと少し緊張しながらダスティンさんの表情を伺うと、ダスティンさんはすぐに頷いてくれたので、私は満面の笑みを浮かべてお礼を言った。
「ありがとうございます」
やっぱりダスティンさんって凄く優しい人だ。ギャスパー様、ジャックさん、ニナさん、ポールさん、それにダスティンさん。こんなにも街中に味方がいるんだから、これから大変なことがあってもやっていけるだろう。
「じゃあそろそろ行きますね。また休みの日に」
「ああ、配達もしっかりと頼んだぞ」
「それはもちろんです!」
そうしてダスティンさんと手を振って別れた私は、外門に向かって一歩を踏み出した。十日後に引っ越しできるって伝えたら喜んでくれるかな。皆の反応が楽しみだ。




