60、筆算の研究発表
その日もいつものように仕事をこなしていると、ギャスパー様が資料室に顔を出して私を商会長室に呼んだ。何を言われるんだろうと緊張しながら付いていくと……商会長室にあるソファーを勧められる。
「突然ごめんね」
「いえ、大丈夫です。何か仕事に関して問題などがありましたでしょうか……?」
何かやっちゃったのならせめて自分から話を切り出そうと思ってそう聞くと、ギャスパー様はすぐに首を横に振った。なんだ、やらかしたわけじゃないのか。
良かったと安堵しつつ、それなら何の話だろうと僅かに首を傾げると……ギャスパー様が一枚の紙を机の上に載せた。それは私がやっている筆算の授業中に、ギャスパー様がメモをしているものだ。
「今日は筆算について話があるんだ。今までの授業で筆算のやり方を理解したけれど、これはうちの商会だけで共有していれば良いようなものじゃない。だから筆算を、研究として国に提出しようと思っているんだ。そこで発案者のレーナに意見を聞きたい」
私はギャスパー様のその言葉を聞いて、驚きすぎて何も言葉を発せなかった。国に研究として提出とか、そんなレベルの話になってたなんて。
確かに皆の反応を見てたら、私が思っている以上に大事になるかもって気はしてたんだけど……
「研究として国に発表して、その内容が有益なら国に名前が売れる。さらにはその研究に関して何かしらの事業が始まる場合、研究者にもお金が入ることが多い。その情報をしっかりと認識した上で考えて欲しいんだけど、研究をレーナの名前で発表するので構わないかい?」
ギャスパー様のその問いかけに、私はまだ事態を飲み込めていないけれど、ほぼ反射で首を横に振った。するとギャスパー様は苦笑を浮かべて、もう一度私に質問してくれる。
「そう言われる気がしていたけれど、本当に良いのかい? 国に名が売れれば、国の研究機関などに雇われることだってあるんだよ?」
「……はい。私の名前は出さなくて良いです」
確かに名前が売れたらメリットはあるんだろうけど、絶対それに伴うデメリットもたくさんあるはずだ。
私はそこそこの暮らしができれば他に望むのは平穏だけだから、目立つのは避けたい。ましてや国に名前を覚えてもらうなんて、名誉というよりも厄介ごとの匂いがする。
「筆算を研究として提出することはもちろん構いませんが、名前は別の方にしていただけると助かります」
「……分かった。レーナの望みならばそうしようか。では研究者名はロペス商会にしておくよ。あれは組織名でも受理されるからね」
「そうなのですね。ではそれでお願いします」
私が良かったと安堵して頭を下げると、ギャスパー様は僅かに苦笑を残したまま頷いてくれた。
「研究として提出するには資料を作らないといけないんだけど、その資料作りはレーナに頼んでも良いかい? 助手はポールに任せよう」
「もちろんです。ポールさんが手伝ってくれるのならば安心です」
ポールさんはすでに一部の筆算について、私よりも深く理解してるからね。ポールさんの頭の良さには本当に驚く。数学的なことに関する才能は商会の誰よりも、もしかしたらこの国の誰よりも高いんじゃないかと思っている。
「ありがとう。じゃあ二人で資料作りができるように、仕事の内容を少し変更しておくよ。そうだね……レーナは基本的に午後は計算だったかい?」
「そうです」
「それならば、その時間の一部を資料作りの時間にするのが一番かな。ポールの配達予定がある日は他の人にずらしてもらって……」
それからギャスパー様はメモ用紙に私たちの仕事について決めたことを書き込み、最後には私に対して優しい笑みを向けてくれた。
「レーナ、君には褒美を出すから何か欲しいものを考えておいて欲しい。レーナが願ったとはいえ、レーナの研究をロペス商会がもらって発表する形になるのだから。もちろんボーナスも渡すけれど、それ以外でも一つ褒美をあげるよ」
「本当ですか! ありがとうございます」
私は褒美という単語が嬉しくて、思わず身を乗り出してしまった。だって褒美をもらえるなんて、瀬名風花時代も合わせて初めてだったのだ。
しかも私の意見を加味してくれるなんて、やっぱりギャスパー様は良い上司だよね。
「そこまで高いものじゃないとありがたいかな」
私の勢いが凄かったからかギャスパー様がそう付け足したので、私は大きく頷いた。
「常識的な範囲内のものにします」
「それでお願いするよ。……それにしても、常識的なんて言い回しをよく覚えたね」
「……読み書きを教えていただくときに、一緒に難しい言葉も覚えてるんです」
これはあながち嘘ではない。ただそれ以外に、普段の会話から言葉の意味を予測して覚えてるっていうのもあるけど。
「本当にレーナは頭が良いよ。これからも頑張ってね。期待しているよ」
「ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします」
「じゃあポールにも話をしたいから、呼んできてくれるかい? レーナはポールに話をしたら仕事に戻って良いよ」
「かしこまりました。失礼いたします」
そうしてギャスパー様との話を終えた私は、商会長室から出てほっと息を吐いた。やっぱり雇い主の部屋に呼ばれるのって緊張する。
ポールさんは店舗で接客の仕事をしているはずなので、一階に降りて店舗内のカウンターに繋がるドアをそっと開けると、ちょうどポールさんがいた。
「ポールさん、ギャスパー様がお呼びです。お仕事に余裕がある時に商会長室にお願いします」
お客様の接客じゃなくて商品の包装をしているのを見て小声で声をかけると、ポールさんはすぐ別の商会員に続きを頼んで裏に来てくれた。
「僕が呼ばれてるの? 何の話だろう……」
「筆算に関する話です。さっきまで私が呼ばれていて、次にポールさんに声をかけて欲しいと言われました」
「ああ、そういうことか。了解しました。じゃあ行ってくるね」
「はい。よろしくお願いします」
ポールさんを見送ったら、私はまた資料室に戻って仕事の続きだ。時計を確認すると、終業時間まであと一刻ほどだった。一刻もあればかなり進められるだろう。
私は椅子に腰掛けて、ペンを持って帳簿を捲った。




