57、今後の予定と学習の進度
「もしかして……やっぱり、引っ越せないのか?」
その落ち込み方がこの世の終わりみたいにズーンと重くて、私はすぐに手を横に振ってお兄ちゃんの言葉を否定した。
「いやいや、全然違うよ。その逆。もうすぐにでも引っ越せるんだけど、どうするか皆に相談しようと思ったんだ」
「……どういうことなの? まだお金が足りないでしょう?」
「それがね、ダスティンさんが私に金貨三枚をくれたの」
金貨三枚という言葉がかなり衝撃だったのか、皆は私の言葉が上手く飲み込めないようで言葉を発さない。沈黙がしばらく場を支配して……最初に口を開いたのはお父さんだ。
「な、何で、そんな大金を……?」
「ダスティンさんは魔道具工房を開いてる魔道具師だって話はしたよね?」
「ええ、聞いたわ。魔道具は確か、魔法で起こせる現象を再現できるものなのよね?」
「そう! お母さん凄いね。ダスティンさんはその魔道具の研究もしててね。私がその研究にアイデアを話したら、それが役に立ったんだって。そしたらアイデア料だってお金をくれて、これからもその魔道具が売れたらお金をくれるって」
この話は少し難しかったみたいで、皆は不思議そうに首を傾げている。アイデアにお金が支払われるとか、馴染みがないもんね……
「とりあえず、私が役に立ってダスティンさんから報酬がもらえたってことだよ。だから予定よりも早くお金が溜まるんだけど、引越しの日ってどうする?」
市民権は金貨一枚で買えるから、もう三人の市民権は購入できるのだ。だからあと必要なのは部屋を借りるお金と当分の生活費。
それも給料を何回か貰えば十分貯まるだろうから……あと数週で引越しの準備が整えられる。
「それはもちろん、早く引越ししようぜ!」
「ふふっ、お兄ちゃん凄く嬉しそう」
「だって楽しみが早く来るんだぞ? それは嬉しいだろ」
「そうね。引っ越せるなら遅くする理由もないし、早めましょうか」
「そうするか。レーナ、ありがとな!」
お父さんはニカっと満面の笑みを浮かべて、私の頭をガシガシと撫でた。そして私の顔を真剣な表情で覗き込む。
「引っ越したら父さんは頑張って働いて稼いで、レーナに恩返しするからな」
「俺もだ。街中に行けるのはレーナのおかげだからな」
「そうね。お母さんもレーナには本当に感謝してるの。街中に行ったら、私も家族のために頑張るわ」
「皆……」
恩返ししてもらいたいなんて思ったことなかったけど、そう言ってもらえると嬉しい。本当に家族には恵まれてるよね……お父さんもお母さんもお兄ちゃんも大好きだ。
「ありがとう。一緒に頑張ろうね」
「ええ、まずは勉強からね。今日も頑張るわよ!」
「そうだな。美味しいカミュを食べてやる気は十分だ」
「レーナ、また教えてくれるか?」
「もちろん!」
引っ越しが予定より早くなるなら、勉強のスケジュールも少し変更しないといけない。とりあえず読み書きは完全に後回しにして、敬語からかな。
初対面の印象は大切だから、そこで全く敬語が使えなかったら皆がダメな人認定されてしまう。それは絶対に避けたい。
読み書きは仕事で使わない限り、日常生活ではできなくても何とかなるだろう。スラムではとにかく敬語を重視して、他は引っ越した後かな。
「じゃあ皆、今日はご近所さんと雑談をする想定で敬語を勉強しようか。話す相手は、引っ越した部屋の隣に住むお母さんと同じぐらいの歳の女性ね。引越しの荷物を運び込んでたら話しかけられるの」
そこで言葉を切って少しだけ皆に考える時間をあげると、皆は頭の中にその様子を思い描けたようだ。
「あら、新しくここに住む方ですか? この言葉になんて返す?」
「……そうなのです。あなたは隣の人です?」
「うーん、ちょっと違うかな」
「俺は分かるぞ! そうなんだす。あなたは隣に住んでるんだ、ます?」
「ふふっ……っ……」
や、やばい、お兄ちゃん面白すぎる。笑っちゃダメなのに、面白すぎる……!
「何だよ、違うのか?」
「う、うん。全然違う……っ、」
だ、ダメだ、苦しい。完全にツボに入った。私が声も出せずに引き攣るように笑いを堪えていると、お兄ちゃんに頬をグニっと摘まれた。
「レーナ、直してくれなきゃ分からないぞ?」
「わ、分かってる、……ふぅ、正解はね、そうなんです。あなたは隣の部屋の方ですか? かな。お母さんはかなり惜しかったよ。そうなんです。じゃなくて、はい。だけでも良いかな」
「ルビナは凄いな」
「ふふっ、敬語のことが分かってきたわ」
お母さんはお父さんに褒められて、嬉しそうに笑みを浮かべた。本当にお母さんは凄いんだよね……やっぱり市場に買い物に行く回数が一番多かったからなのだろう。少しでも敬語を聞く機会が多かったのは、アドバンテージになってるんだと思う。
「じゃあお母さん、その言葉の後に隣の女性が、そうですよ。これからよろしくお願いします。って笑顔で言ってきたらなんて返す?」
「こちらこそ、よろしくお願いします。かしら?」
「お母さん凄い! 完璧だよ!」
この調子ならお母さんは、そのうち普通に丁寧語を使えるようになりそうだ。あとはお父さんとお兄ちゃんだね。
「語尾は〜です。が多いってことを覚えた方が良いかも。疑問系になる時は〜ですか? だよ」
「じゃあ俺は腹が減った。を敬語にすると、俺は腹が減ったです。になるのか?」
「いや、その場合は俺はお腹が空きました。かな」
「全然違うじゃねぇか!」
確かにそう言われると、固定で覚えるのは良くないのかな。やっぱりよく使う例文の暗記が一番かも。
「俺はカミュが好きだ。とかなら俺はカミュが好きです。ってすれば敬語になるよ。〜だ。っていつも言ってるやつは、〜です。にすれば正解になるかも」
「じゃあレーナ、俺の仕事は木を切ることです。俺は力があるんです。これで合ってるか?」
「うん! 今の二つは完璧!」
私が手を叩いてお父さんを褒めたら、お父さんの表情が一気にデレっとなった。お父さん……分かりやすすぎるよ。
「それは覚えやすくて良いな!」
「でも全部に当てはまるわけじゃないと思うし、そこは気をつけてね。段々と慣れればその辺は感覚で分かるようになると思う」
それから私たちは、皆が引越しの予定が早まったということでいつになくやる気を発揮し、かなり長めに勉強をしてからベッドに入った。
準備は順調だし、引っ越す日が楽しみだな。
 




