46、掛け算九九と筆算のやり方
「ではレーナ、八と七をかけると?」
「五十六です」
ギャスパー様の質問に間髪入れずに答えると、四人は表情を驚きに変えた。暗記してなかったら、答えを導き出すのって大変だもんね。
「じゃあ、九と六は答えられるか?」
「五十四です」
「レーナちゃん、五と八は?」
「四十です」
ジャックさん、ニナさんと尋ねられた計算にもすぐに答えると、全員が感心したような表情を浮かべて私を凝視した。
「本当に覚えてるんだな……すげぇな」
「確かにこれを覚えていたら楽になるね」
「さすがに僕でも暗記はしていなかったよ……」
「掛け算や割り算の筆算で、一桁の掛け算を暗記していることは重要なので覚えて欲しいです。……では暗記は皆さんにお願いするとして、筆算のやり方の説明に入ります」
私はまず簡単なところからということで、足し算と引き算のやり方から説明することにした。この商会で働く皆は筆算のやり方を知らないだけで、数字の概念はしっかりと理解しているので問題なく授業は進む。
これが繰り上がりが分からないとか、そういう数字の概念から教えないといけないようだとかなり大変だよね。小学校の先生って凄かったんだな……。
「足し算と引き算に関してはシンプルだね。問題なく理解できたよ」
「良かったです。桁が増えても同じ方法で計算できますので、後でやってみてください。では次は掛け算を教えていきますね」
私はまず一番簡単な、二桁と一桁の掛け算を黒い板に書いて皆に見せた。そしてかけていく順番や、十の位の数字をメモする位置なども説明していく。
「これが筆算なのですが、どうでしょうか」
「やはりこれはとても素晴らしいよ。算術に革命が起きるかもしれないね。レーナ、もっと桁が多い計算をやってみてくれないかい?」
「分かりました。では数字が大きい二桁同士の掛け算と、三桁の掛け算もやってみますね」
私が間違えるとややこしくなるので慎重に、皆に分かりやすいように説明しながら計算していくと……私が計算を終えた時に理解できていたようなのは、ポールさんだけだった。
「レーナちゃん、これは凄いよ! 僕は今、感動してる。計算機なしでこんなに大きな桁の計算結果が出せるなんて……!」
ポールさんの勢いに若干引きながら良かったですと答えると、ギャスパー様が苦笑しながら口を開いた。
「計算機はかなり大きなものだし値段も高いし、どこででも使えるものではないからね。こうして紙とペンさえあれば答えが出せるというのは本当に画期的だよ」
やっぱり計算機って高いのか。確かに複雑そうだし大きかったよね……日本の電卓みたいなものがあれば筆算のありがたみは薄れるんだろうけど、この世界ではかなり有用なはずだ。
「凄いのは分かったんだけどよ……俺は自分で出来る気がしなかったぞ」
「そうねぇ。私も途中から何をやってるか分からなかったわ」
「私もだね。ただポールは分かったのかな?」
「もちろんです! とても覚えやすく規則的な計算方法ですよ。これを思いついたレーナに僕は感動が止まりません!」
なんかポールさんから尊敬の眼差しを向けられている。ポールさんって計算が得意なだけじゃなくて、数学が好きなんだね。
「分かった分かった。ポール、ちょっと落ち着きなさい。私たちも理解できるようレーナに説明してもらうから、ポールは自習していて良いよ。ぜひレーナがいなくても筆算を使いこなせるようになってくれ」
「かしこまりました!」
ギャスパー様はそう言ってポールさんを静かにすると、私に視線を戻した。
「ではレーナ、やり方の説明を詳しくお願いしたい」
「かしこまりました」
そうしてそれからの授業時間ではひたすら掛け算のやり方を覚えてもらい、二桁の計算をなんとかできるようになってきたかな……という頃に、授業が終わりの時間となった。
あと何回かは掛け算に特化して、それから割り算かな。後は九九の暗記状況によるだろう。今日は九九の表を見ながら計算してもらったから、かなり時間がかかったというのもある。
「ふぅ、少し疲れたね」
「俺はもう頭がおかしくなりそうです……」
ジャックさんは青白い顔で机に突っ伏してそう言った。ジャックさんは計算が苦手と言っていただけあって、他の三人よりもかなり苦戦してたからね……
ギャスパー様とニナさんは一般的には優秀な部類だと思う。ただポールさんが優秀すぎて霞んでいたけど。
「凄く楽しかったです。ご飯を食べる時間以外でこんなに楽しいのは久しぶりです。レーナ、君は天才だよ」
「ありがとうございます。私からしたら、ポールさんもかなり天才だと思います」
私は天才じゃなくて日本の義務教育が凄いだけだから、ポールさんは本当に凄いと思う。こういう人を見つけて雇ってるギャスパー様も凄い。
「じゃあ今日は解散にしようか。レーナ、続きはまた今度よろしくね。他の皆も何グループかに分けて授業を受けてもらうから、今日と同じように頼むよ」
「かしこまりました。精一杯頑張らせていただきます」
最後にギャスパー様からの言葉をもらい、初回の授業は概ね成功で終わりとなった。ふぅ、ちょっと肩の荷が降りたかな。緊張してたけど、上手く説明できてよかった。
―ギャスパー視点―
「筆算とは、本当に素晴らしい発明だね」
私はレーナの授業を受けたあと、商会長室で先ほどの授業で取ったメモを眺めている。足し算と引き算ももちろん凄いけれど、何よりも掛け算だ。掛け算を計算機なしでできるなど、どれほど有益か。そして一桁の掛け算を全て暗記するという大胆な方法もとても良い。
あれを暗記するのは大変だろうけど、そのメリットは計り知れない。なぜ今まで暗記しようと思いつかなかったのかと、自分を責めたいほどだ。
割り算のやり方は少し聞いただけで理解はしていないけど、あちらも掛け算同様に画期的な手法なのだろう。そちらも学ぶのが楽しみだ。
「さて、これをどうするか」
うちの商会だけで秘匿して良いようなものではないことは確かだ。大々的に広めなければいけない。やはり……研究として国に提出すべきかな。
私は算術にあまり詳しくないからなんとも言えないけれど、あれは上で情報を独占しているというよりも、内容の難しさからほとんどの人が理解していない学問という感じだったはずだ。
だから算術の分野の研究を発表しても、学者などから目をつけられることはないはず。それどころか、算術がより多くの人に知ってもらえる機会だと喜ぶ可能性の方が高いだろう。
うん、諸々考慮して研究として提出するのが一番かな。
あとの問題は研究者の名前だ。レーナに話をして名前を使って良いのであればレーナの名前で、もし嫌がるのならロペス商会の名前で提出しても良い。
有益な研究はそれ自体がお金になることはないけれど、とても名誉なことで国から名前を覚えてもらえる。さらにその研究結果によって何か事業が始まる場合、研究者にお金が入ったり、監修を求められて給金がもらえたりする。
「まずはレーナに話をしないとかな」
私はそう結論づけると、掛け算九九を暗記するために頭を使うことにした。商会長として、商会員に負けるわけにはいかないのだ。




