19、噂と嬉しい知らせ
お兄ちゃんとハイノと一緒に家に戻ると、ちょうど夜ご飯の準備が始まるところだった。私はお金をお母さんに付けてもらったポケットに仕舞って、準備を手伝うために調理場に向かう。
「レーナ〜、聞いたよ! イケメンなお兄さんの元に嫁ぐんだって!?」
「え……全然違うよ?」
エミリーが私に駆け寄りながら発した言葉があまりにも現実と違って、私は思わず首を傾げてしまった。噂って怖いね……こんなに事実と違うことが広まっちゃうなんて。
私は周りにおばさん達や他の女の子たちもいるからちょうど良いと思い、大きめな声で事実をエミリーに伝えることにした。
「市場にあるお店の一つで雇ってもらえることになったの。そこの店主がかっこいいってだけだよ。別に嫁ぐわけじゃないよ」
「なんだ〜そうだったの? レーナとお別れかと思って一日落ち込んでたんだよ?」
エミリーはそう言って私にギュッと抱きついた。そんなふうに思ってくれる友達がいて幸せだな。
「私はまだまだ嫁がないよ。だって十歳だよ?」
「そうだよね。さすがに早すぎるかなとは思ってたの」
「それに私はエミリーみたいに可愛くないから、そんなにすぐ嫁ぎ先なんて見つからないって」
「え、レーナはめちゃくちゃ可愛いよ! もう、何言ってるの?」
「――私って、可愛かったの?」
スラム街には鏡がなくて、水面に映った自分しか見たことがないから自分の容姿をよく分かっていないのだ。ただお父さんとお母さんは特別美形じゃないし、お兄ちゃんもかっこいいってわけじゃないから私も平凡だと思っていた。
「レーナはスラム街で一番可愛いよ! 逆に整いすぎてて可愛いね〜って気軽に言えないというか、可愛いというよりも美人なのかな」
「そうだったんだ」
エミリーの言葉にはお世辞が含まれているようには思えなくて、私は素直に信じて自分の顔をペタペタと触ってみた。確かに鼻は高い……気がする。今度街中に行くことができたら、どこかで鏡を使わせてもらおうかな。
美人なら結婚相手にはあんまり困らなくてラッキーだったかも。私はそんなふうに安易に考えて、自分が美人なことを素直に喜んだ。
「というかレーナ、そんな話よりも雇い主がカッコいいっていうのは本当なの?」
「うん。まあカッコいい部類には入ると思う」
「そんな人の下で働くなんて羨ましい! 今度見に行くね!」
「ありがとう。楽しみにしてるよ」
そうしてそれからはエミリーと楽しく話をしながら、手はせっせと動かして夕食を作った。夕食は代わり映えのしない焼きポーツだったけど、いつも通りに美味しかった。
それからの私の日常は、今までの生活にジャックさんのお店での仕事が加わった。その代わりに保存食作りや家の手仕事をする時間がなくなってしまったので、午前中の畑仕事の時間をたまに家の仕事をする時間にしている。
お母さん曰く、結婚したら家の仕事ができないと困るから教えるのはお母さんの義務なんだそうだ。確かにスラム街で結婚するなら、家仕事の技術は必要不可欠だよね。
私はスラムから出る予定だから必要ないんだよね……と思いつつ、とはいえどこかでは役立ちそうな知識ばかりだからとありがたくいろいろなことを教わっている。
そうして前よりも忙しくなった毎日を過ごして十日ほどが経った頃、いつものようにお店に向かうとジャックさんが嬉しそうに報告してくれた。
「レーナ、三日後にレーナを街中に連れて行くことになったぞ!」
「本当!?」
ついに街の中に行けるのか……めちゃくちゃ嬉しい。レーナとしてこの世界に生まれてから、初めてスラム街以外の場所に行ける。ちょっと緊張するかも。
「ギャスパー様がレーナと会う時間が取れるらしいんだ。五の刻に本店にレーナを連れて行く約束をしてるから、四の刻には外門前で待ち合わせをしたい」
「分かった。四の刻ってどのぐらいの時間?」
「うーん、日が昇るのが三の刻ぐらいだから……朝食を食べて少しゆっくりしてから、外門に来るぐらいでちょうどいいと思うぞ」
日が昇るのが三の刻で、お昼ご飯の頃が六の刻だったよね。ということは……日本の時間に例えると三の刻が午前六時で六の刻が午前十二時ぐらい? この世界の一刻は地球での二時間と同じぐらいなのかな。
日本での時間に換算しても仕方がないんだけど、その方が理解しやすいのでついつい日本での知識と比べてしまう。そのうちこの世界の時間にも慣れないと。
「じゃあ遅れるのは嫌だし、朝ご飯を食べたら早めに外門に行くよ」
「分かった。俺がいなかったら外門の近くで待っていてくれ。街中に入ったら少し時間があるから、ギャスパー様との約束の時間までは通りを見て回れるぞ」
「え、それ本当!? それならできる限り早く街中に入りたい!」
街中を見て回れるなんて、そんなチャンス最大限に活用しないと。今までのお給料を貯めた銅貨数枚で何か買えるものはあるかな。
「ははっ、そんなにか? なら早めに迎えに行ってやるよ」
「ジャックさん……ありがとう! すっごく楽しみにしてるね」
「凄い笑顔だな。じゃあそれまでに敬語を頑張って覚えるか」
「そうだよね、ギャスパー様は商会長なんだもんね。頑張って勉強する!」
日本での知識があるからか十日間でかなり敬語はマスターしたけど、まだ曖昧な知識も多い。変な言葉遣いをしないようにちゃんと覚えないと。
「そうだ、ジャックさんとの会話を敬語でやれば良いかな。そうすれば習得が早くなると思わない?」
「確かにな……いや、でもそれは止めよう」
ジャックさんは何度か頷いた後に私の顔を見つめて、微妙な表情を浮かべてから今度は首を横に振った。
「レーナに敬語を使われるのは俺がむずむずする」
「そう? ――ジャックさん、おはようございます。今日も一日よろしくお願いします。こちらのお客様、ラスートを袋に半分だけ欲しいとのことですが、いかがいたしますか?」
「うわぁぁ、ダメだ、すっごく変な感じがする!」
「ふふっ、ちょっとこれ楽しいかも」
「おいレーナ、俺に敬語はダメだからな。勉強には付き合ってやるから……そうだ、ギャスパー様に話すと思って挨拶の練習をすればいいじゃねぇか。それが合ってるかは確認してやるよ」
ジャックさんはよほど嫌だったのか顔を顰めて代案を提示してくれた。これはジャックさんを揶揄う時には使えそうだね。たまに発動させて効果が無くならないように気をつけよう。
それから私はお客さんが途切れた時に、ジャックさんとキャスパー様への挨拶を練習して、そのほかにも一般的な敬語の使い方の復習や、スラム街では使われないけど街中では一般的なものの名称などを教えてもらい、知識を詰め込んで三日間を過ごした。