15、身嗜み
仕事は明日からだし今日は家に帰ってまずはお母さんに話をしよう。そう思ってジャックさんのお店を離れようとすると、ジャックさんに慌てて引き留められた。
「ちょっと待て、昨日言ってた櫛を買ってきたんだ」
そういえばそんな話をしたっけ……雇ってもらえたことが衝撃すぎて忘れてた。ジャックさんが取り出した櫛を見てみると、木製のシンプルなものだった。でも私の生活にはないプロが作った商品だ。私は感動して、恐る恐る櫛を手に取る。
お父さんが作ったものと違ってしっかりと磨かれてるから、とても手触りが良い。レーナとしての十年間は、こういうものとは本当に縁がなかったよね……
「これ、凄く良い櫛なんじゃない?」
「いや、そんなことはないぞ。小銀貨二枚で売ってたんだ。後これも買ってきた。髪につけると髪の質が良くなるんだってよ。それに木製の櫛がこの液体の成分を吸収して、櫛が育つ? とかって聞いたぞ」
そう言ってジャックさんが取り出したのは、瓶に入っている液体だ。街中は普通に瓶が使われてるんだっていう感動と、整髪料まで追加で買ってくることができるジャックさんの財力に感動する。
ジャックさんってこんなところで働いてるけど、ちゃんと商会に雇われてるから給料も良いんだろうな……本当にジャックさんに声をかけた私、最高の選択だったよ。
「これを付けて櫛で髪を梳かせば良いんだね」
「おう、やってくれるか?」
「もちろん! でもさ、今日は昨日よりも綺麗なんじゃない?」
「そうか? あっ、昨日は髪を洗ったからじゃないか? いつもは面倒でたまにしか洗わないからな」
「えぇ〜、毎日洗いなよ」
私なんて水の女神様の加護を持ってる近所のおじさんに頼んで、皆に不思議がられながら毎日髪を綺麗に洗っている。汚れてないしたまにで良いじゃんって言われるけど、毎日洗わないと痒くなるのだ。
「面倒なんだよなぁ」
「でも商売は見た目も大事だから、綺麗にすれば売り上げが上がると思うよ」
「そうなのか?」
「そうだよ。ロペス商会の人達だって身綺麗にしてるでしょ?」
「そう言われてみれば……そうだな。でも俺はスラムの支店担当だぞ?」
「それでも商会に顔を出すんだから、綺麗にしとかないと」
私のその言葉にジャックさんは、まだ少し首を傾げつつも頷いてくれた。ジャックさんの地位が上がれば私にも良いことがあるかもしれないし、これからはジャックさんを私にできる限りで変身させよう。
ついでに私の身支度を整えても良いよね。同じお店で働くんだし。
「じゃあそこに座ってくれる?」
「ああ、お願いするぜ」
瓶に入っている整髪料は、柑橘系の良い香りがしてトロッとした質感だった。少しだけ手のひらに出してジャックさんの髪につけると、見違えるほどに輝いて髪が綺麗になる。
「これ凄いかも……」
櫛で梳かしていくと、日本でしっかりと手入れをしていた瀬名風花の髪みたいになった。この整髪料、良いものなのかな。この世界ってスラム街は生活レベルが地を這ってるけど、街の中は日本より優れた文明があったりするのかもしれない。精霊魔法がある世界だし、日本とは別の発展をしてる部分があってもおかしくないよね。
「綺麗になるか?」
「うん。この整髪料凄いよ」
「なら買って良かったな」
綺麗に梳かして最後に紐で綺麗にまとめると、ジャックさんはかなり若返った。というかジャックさんって、ちゃんとしたらかなりイケメンじゃない……?
爽やかな塩顔イケメンというよりも、彫りが深いいわゆる醤油顔イケメンだ。うわぁ、ここまで見違えるとは予想外だった。
「どうだ?」
「ジャックさん、絶対にちゃんと髪を整えたほうが良いよ。五歳は若く見えるし、めちゃくちゃかっこいい」
私が本心からそう伝えると、ジャックさんは照れたのか少しだけ顔を赤くしながら、手のひらで首の後ろを撫でる。
「ありがとな。じゃあお礼に、レーナの髪もやってやるよ」
「本当に!? ありがと!」
私はこの世界で初めておしゃれをすることができるのが嬉しくて、満面の笑みでジャックさんの前に立った。
「座らない方がやりやすいよね?」
「そうだな。そのまま少しじっとしててくれ」
ジャックさんはぎこちない手つきで瓶から整髪料を取り出して、私の髪に付けてくれる。私にも惜しみなく整髪料を使ってくれるとか……本当に良い人だ。
「こんな感じで良いのか?」
「うん。最初は少なめから試してみるのが良いんじゃないかな」
「じゃあこんなもんだな。梳かしていくぞ」
「うっ、ちょっとジャックさん、絡まってるところは痛いから髪の毛を掴んでやってくれない?」
遠慮なく絡まった部分に力を入れられて、かなりの痛みに涙が滲む。髪の毛を櫛で梳かすこと一つとっても、慣れてないとできないんだね……私は日本での知識なんて全く役に立たないと思ってたけど、自分でも思わぬ知識がこの世界で役に立つのかもしれないと思い、これから気をつけようと心に決めた。
スラム街で生まれ育った子供を逸脱しちゃったら、誰かに目を付けられて平穏な生活ができなくなっちゃうかもしれないから、私はあくまでもスラム街の中では優秀だよねぐらいを狙って、スラム街脱出を目指すんだ。
「おお、ごめんな。こんな感じか?」
「うん、ありがと。街の中には自分の顔を映せるものってあるの? 水に映るみたいに」
「ああ、鏡か? もちろんあるぞ」
この国での鏡って単語はそういう発音なのか。ジャックさんと話してるといろんな言葉を知ることができて本当に勉強になる。
「そんなに高くないもの?」
「いや、鏡は意外と高いな。まあ買えなくもないって感じだ」
「そうなんだ。一度で良いから街の中に入ってみたいな。スラム街の市場では売ってないものがたくさん売ってるよね」
「そうだな。ここにはここで売れるものしか持ってこないからなぁ。でも近いうちに街の中に行けると思うぞ?」
街の中に行ける……って、私が!?
「それどういうこと!?」
私はジャックさんの言葉に驚いて、髪を梳かしてもらってることも忘れて後ろを振り向いた。
「レーナ、動いたら綺麗にできないぞ」
「あっ、ごめん。私が街中に行けるかもしれないなんて驚いて……」
「ギャスパー様が少ししてレーナが有能だったら、一度本店に連れてきてくれって言ってたんだ」
そんなことを言ってくれる人だなんて……ギャスパー様、めちゃくちゃ良い人じゃん!
「入街税はギャスパー様が払ってくれるってよ」
「私……お仕事頑張るね!」
有能だって思ってもらえるように精一杯頑張ろう。計算ができることを示すだけじゃなくて、何かロペス商会に益があることを示した方が良いかな。
「おお、頑張ってくれ。よしっ、こんなもんか?」
ジャックさんが梳かしてくれたまだ結んでない髪を触ってみると、さらさらと流れるような質感になっていた。
「凄い……ありがとう」
私は自分のごわついていた髪が綺麗になったことが嬉しくて、頬が緩んだ。スラム街での暮らしに美は求めないって諦めてたけど、やっぱり自分が綺麗になると嬉しいな。
「見違えたぞ。じゃあ綺麗になったところで明日から頑張ってくれ」
「うん! また明日……六の刻だっけ? 日が一番高い時間に来るね」
「ああ、待ってるぞ」
私はジャックさんに手を振って、急いで自宅の小屋に向かって駆け出した。すぐに帰る予定がかなり長く話してしまったので、お母さんが怒ってるはずだ。
帰ったらまずはお母さんに話をして、夜にはお父さんとお兄ちゃんに話をしないと。皆がどんな反応をするかちょっと怖いけど……報酬をもらえるんだし喜んでくれるよね。