130、家庭教師
「は、初めまして。レーナです」
家庭教師の先生にはどういう態度が正解なのか分からず微妙な丁寧さの挨拶をすると、とりあえず最初の段階では特に指摘されず挨拶を返してもらえた。
「レーナお嬢様、初めまして。ウラリー・フィスと申します。よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いいたします」
「ではどうぞ、こちらにお座りください」
テーブルセットの奥の席を示されたのでそこに腰掛けると、フィス夫人は私の向かいに腰掛けた。
「ではお嬢様、ご入学までお時間がないということですので、さっそく授業を始めさせていただきます。まずお嬢様は私への接し方に悩まれていると思われますが、貴族には身分が優先される場合と、立場が優先される場合がございます。この場合はお嬢様が教えを乞う立場ですので、私には丁寧な言葉をお使いください。しかし謙りすぎる必要はございません」
――うぅ、難しい。丁寧な言葉は使うけど、謙りすぎないで話せば良いんだね。そして先生と生徒という立場は、貴族の身分よりもその場だけは優先されるってことか。
「分かりました」
「はい。この場合はその言葉遣いが正解です。しかし私とお嬢様がパーティー会場で会ったとしましょう。その場合は私がお嬢様に謙り、お嬢様は私に堂々と接さなければなりません。フィスという家名の爵位は分かりますか?」
「いえ、存じておりません」
「フィスは子爵位と男爵位を持っておりますが、私はフィス子爵の妻です。お嬢様は公爵家のご息女ですが、お嬢様が丁寧な言葉を使われる必要があるのは、基本的に伯爵以上の当主とその配偶者のみです」
公爵家の娘でも、伯爵位以上の当主には丁寧な態度が必要ってことか。公爵家の人間とは言っても、当主ではない子供だと公爵という名前の通りに上というわけじゃないんだね。
「あの、今聞いたことをメモしても良いですか?」
「もちろんでございます」
複雑すぎて聞いただけでは全く覚えられそうにないので、これからはメモ必須だ。
「貴族の家名を聞いてすぐに爵位が分かるようにならなければいけませんので、フィスという家名についてもメモをすると良いでしょう。あとで貴族名鑑はお渡ししますが、それを眺めて覚えるのは大変です」
「分かりました。メモしておきます。……あの、先生のことはなんとお呼びすれば良いのでしょうか?」
「そうですね……先生でも良いですが、フィス夫人とお呼びください。公の場ではフィス子爵夫人です」
親しい場所では爵位を取って、家名に夫人を付けて呼んでも良くて、公の場では爵位も必須。そんな内容を必死にメモしてまとめていく。
「それでは本格的に授業へと入りましょう。本日最初の授業は、言葉遣いについてです。ここが出来なければ、貴族社会で生きていくことはできません。まずお嬢様は公爵家のご息女ですので、目下の者と話す時の口調からにいたしましょう。ではお嬢様、私のことを爵位が低い同級生だと思って声を掛けてください。学院に入学して最初の挨拶です」
フィス夫人の言葉に頷いてから、頭の中で場面を想像しつつ緊張しながら口を開いた。
「初めまして、レーナです。あなたの名前は?」
「はい。ではこちらの言葉を直していきましょう」
直していきましょうってことはダメなんだね……うん、分かってた。貴族の女性ってお嬢様言葉みたいなやつを使うよね。でもそれは今まで勉強したことがないから分からないのだ。
「よろしくお願いします」
「まず、『初めまして』はそのままで良いでしょう。しかし次の名乗りの部分はいけません。まず第一に、必ず家名まで名乗ってください」
あっ、確かに……今までの癖で名前だけ名乗っていた。これからはレーナ・オードランなんだ。
「そして〜です。というのは丁寧な言葉遣いで悪くはないのですが、爵位が下の同級生にその言葉遣いをすると、少し舐められるかもしれません。特にレーナお嬢様は養子ですから、隙は見せない方が良いでしょう。そのため〜よ、だったり〜だわ、を使ってみてください」
「分かりました。初めまして、私はレーナ・オードランよ。あなたのお名前は? ……こんな感じでしょうか?」
教えてもらったことから文章を組み立てていくと、フィス夫人は私のことを褒めるように笑みを浮かべてくれた。
「お嬢様はとても賢いですね。先ほどの挨拶ならば完璧です。では私のことを引き続き爵位が低い同級生と思い、会話を続けてください。――レーナ様は創造神様の加護を賜られたのですよね?」
「――ええ、そうよ。加護を賜ったことで、陛下が私の保護を決めてくださったの」
「創造神様の加護なんて凄いですね。指輪を見てもよろしくて?」
「もちろんよ」
私が手を持ち上げながらそう声を発すると、フィス夫人は手を取りながら首を横に振った。
「そこでは『もちろんよ』ではなくて、『どうぞ、ご覧になって』の方が良いでしょう」
確かに……その方が良いのかもしれない。でも言われるとなんとなく分かる程度で、その言葉がすぐには出てこない。やっぱり慣れてない口調って難しいね……。
「どうぞ、ご覧になって」
「ありがとうございます。……わぁ、とても美しいお色の宝石ですね」
「ええ、これを賜ったときには驚いたわ。……あなたはどちらの女神様から加護を賜ったの?」
会話を途切れさせるのはいけないのだろうと質問を投げかけてみると、フィス夫人はその質問に返答はせず、ふんわりとした柔らかな笑みを浮かべてくれた。
「お嬢様、とても素晴らしいです。細かい部分でぎこちなさは感じますが、最初からこれほどできるとは思っておりませんでした。これならば毎日私と会話をして、侍女や護衛と話をしていればすぐに慣れるでしょう」
フィス夫人からの思わぬ高評価に、私の頬は緩んでしまう。やっぱり日本人だった頃の記憶が役に立ってるよね。この世界での言葉が分からないだけで、話し方自体や会話術は比較的身についているのだ。
「ありがとうございます。これからも頑張ります」
「私もお手伝いさせていただきます。では次に目上の方との会話について練習いたしましょう」
それからは敬語の使い方について練習をして、敬語はロペス商会で学んでいたのですぐにフィス夫人からの合格がもらえ、授業は言葉遣いから礼儀作法に移った。
そして美しい立ち方や座り方、ドレスの扱い方についてをみっちり教えてもらって、全身がプルプル震え始めたところで、今日の授業は終わりとなった。