母の願い
落ち込むと農園に行きたくなる。母の最後の息がまだ残っているようなあの場所で、あの小屋の小さなベッドに丸まって眠りたくなる。眠って母の夢を見て、そうすればまた頑張れるような気がする。
きっと夢の中でホゥジュは、小さな少女になっている。まだ不安のなかった頃。父と母が二人で暮らしていて、あの父もまだ、笑顔を浮かべていた頃。
『ねぇホゥジュ。今日はどこを探検しようかしら』
風の長だったはずの母は、けれどどこか少女のような人でもあった。思慮深い大人しげな顔をしているのに、時々いたずらっぽそうに目を輝かせて、新しい景色を見つけては喜んでいた。
そうだ、そういえば。そういう日々の中で、ドームの外に出る秘密の通路を見つけたのだった。排水に使われているのだろう、大きなチューブで、そこを通って外に出て、そうして見つけたのだ。芋虫みたいな外郭を。
[……あ]
柔らかくホゥジュの背を押した、姉の言葉。
『タイヤを覚えている?』
覚えている。芋虫の足みたいに、幾つも外郭にくっついたタイヤのことを。それからあの時、母が見上げた先にあった、梯子。
『きっと、排気口ね』
あの排気口は、どこからの空気を排気するためのものだ? 外郭最下部が繋がっている場所。ドームの地下。地下にあるのは――融合炉。
力なく横たわっていたベッドから、勢いよく起き上がる。部屋の中を見渡し、使えそうなものを物色する。
そもそもホゥジュは部屋で謹慎を言い渡されていた。だが、監視はない。あるとすると父の監視だろうが、あの父がモニターの前にじっと座って、ホゥジュの行動を監視するようなタイプには思えない。それほど暇でもないだろう。愛妾方のご機嫌取りだって、彼にとっては重要な仕事だ。たぶん。
いつも父は、午後から愛妾達のいずれかの部屋へ出かけていた。というのも、大人は夜遅くまで起きている。その必然的な結果として、朝が遅いのだ。だから大人の訪問は午後からというのが、マナーになっている。
うっかり昼食を抜いてしまったが、部屋の机にはロボットが運んできた食事がそのまま置いてある。冷えたそれをホゥジュは急いで口に運んだ。空腹では動けない。次にいつ食事を食べられるか分からないのだし。
そうやって腹ごしらえをしてから、水を飲む。水筒のようなものがほしい。ごそごそと部屋を漁り、ワードローブまでひっくり返してからついに、ホゥジュは小さい頃に使っていた水筒を発見する。そこに水を詰め、端末をウェストポーチに入れる。服は奥の方から出してきた、運動用の服だ。護身術を習う時に着ていた服で、地味だしズボンタイプなのでこういう時にぴったりだと思う。
ぎゅっと髪を後ろで括り、部屋からの脱出手段を考える。普通に出ていこうと試してみたが、さすがに中から開かないよう、施錠してあった。ならばテラスからだ。
飛嶺がしたような離れ業は、ホゥジュには無理だ。テラスから顔を覗かせると、真下に下の階のテラスがある。周りを見渡して、隅に非常用の梯子があるのを、発見すると同時に思い出す。
下の階は客室になっていて、普段は無人だ。そこからなら、室内を通って廊下に出て、それから地上にまで降りられるのでは。
非常用梯子のボタンを押して、下まで伸ばす。伝って降りて、そこからテラスの窓へ向かう。ホゥジュの端末がロックされていなければ、この窓は開くはず。
[……開いた!]
父は、ホゥジュの端末を完全にはロックしなかったらしい。部屋に鍵をかけるだけで放置してくれたことに感謝しつつ、客室に入る。
「――おい?」
誰もいないと思っていた部屋から人の声が、それも聞き慣れた飛嶺の声がして飛び上がった。
「っ、びっくりしたぁ」
「俺の台詞だ。どうした?」
答えようとして、口を噤む。盗聴されていた記憶は新しい。
「――ついてきて」
ホゥジュ一人で行くよりも、飛嶺がついてきてくれた方が、成功率は格段に増す。そう確信するから、あなたは待っていて、なんてお上品な言葉は口から出てこなかった。
「分かった」
そして飛嶺は当然のようにそう言った。それになんだかこそばゆいような心地になりつつ、神妙な顔で頷く。客室の扉はホゥジュの端末でも開いて、そこから周囲を気にしつつ、極力なんでもない顔で地上へのエレベーターに乗る。そのまま人気の少ない通路を選びつつ、パレスのビルから外に出た。
パレスの正面は公園になっている。その反対側に向かって足早に進む。ホゥジュの後をついてくる気配に励まされつつ、昔母と見つけた排水溝跡にやって来た。
「――これ、なんだ?」
「排水溝跡よ。パレスに降った雨を排水するものだったんでしょうけど、最近は雨が流行らないの。だから使わなくなったんだと思う」
「ちょっと待て。雨が? 流行らない?」
「ほら、ここはドームでしょ。天気も人工で操作できるのよ。晴れとか曇りとか、好きなように演出できるってわけ。昔は雨の日に物思うっていうのが流行ってて、しょっちゅう雨を降らせてたみたいなんだけど、最近ではそういうの、流行らなくて。そうしてるうちに、降水の操作法が下手になっちゃって、それで余計に雨が嫌われるようになっちゃったんだって。だからこれは使わなくなったのよ」
絶句したようだった飛嶺は、少しして息を吐いた。
「全く別の世界だってこと、今ものすごく実感した」
「そう? 意外に順応力あるのね」
褒めたのだが、飛嶺は顔を歪めた。
「ここから下に進むと、ドームの下に出るの。行くわよ」
直近の目標を告げてから歩き出す。ホゥジュの背丈の半分ほどのチューブが、人工の木の陰に隠れるようにしてあった。その中をしゃがみながら進む。
以前来た時は、もう少し綺麗だった気がする。今は埃が積もっていて、薄汚れている。その中をゆっくりと下っていくチューブを進み、最後の方の急なカーブを見てうんざりとしたため息をついた。
「……あのね、汚れちゃうと思うけど。でも滑っていった方が安全だと思う」
そう告げると、スーツ姿の飛嶺は頓着なくチューブに座りこんだ。そういう人だよね、と思いつつ、妙に愉快な気持ちになってホゥジュもその姿勢を見習った。それから遊具のように、チューブの中を滑っていく。最後の部分だけ投げ出されるようだったが、どうにかバランスを取って、地面に飛び降りた。すかさず場所を空けると、飛嶺がそこに飛び降りてくる。そうして降り立った場所から外を見上げる。
「……これ、なんか虫みたいだな」
「でしょ」
ドームの下は、緩いカーブの球体になっている。球の一番尖っている部分が平らになっていて、その部分に幾つものタイヤがついていた。近くで見れば大きいのだが、支えるドームが大きいせいか、虫の幼虫が持つ小さな足にしか見えない。
「あそこ、見える?」
ドームの上の方を指さすと、飛嶺が背伸びをした。
「あれ……梯子、か?」
「そう。あのね、確実な話じゃないんだけど」
「なんだよ」
「ドームの地下に、融合炉はあるのね。言ったでしょ、エネルギーを生み出す場所のこと」
「あぁ、覚えてる」
推測だけで人を動かそうというのが、これほど怖いものなのか。もし間違えていたら。もし全然違う場所に繋がっていたら。でも、姉はタイヤと言っていた。姉が全然違う場所へのヒントを言うだろうか。推測と、姉への信頼。それだけでその先へ進もうとしている。
「あの梯子の先は、排気口なの。空気を入れ換える場所なのね。あれをさかのぼっていけば、融合炉のコントロールルーム――制御室に行けるんじゃないかと思うの」
「そうか」
そうか、と頷いて、飛嶺はスーツの上着を脱いだ。首に巻かれたタイも、顔をしかめながら抜き取っている。
「なにやってるの」
「邪魔だろ、これ。せっかく貸してもらったもんを、汚すのも悪いし――って、今さらだけどな」
苦笑しつつ、形だけズボンの汚れを手で払っている。それからシャツの袖をまくっていて。
「あのね、確かな話じゃないかも、しれない」
「別に、いい。あなたが可能性を感じる場所なんだろ。行ってみて、違うなら別の侵入経路を探ればいい」
さらっと言いつつ、袖を折ってまくっていく姿に、不覚にも少しどきっとした。が、気のせいだと思う。気のせいに違いない。そう、あれだ。交感神経が生み出す幻想とか、そういう方面のホルモンバランス的な問題に違いない。うん。
「じゃ、じゃあ行くわよ」
行くわよ、と勇ましく声をかけたものの、排気口の入口はけっこうな高所にある。そこへ至る梯子の最下段も、ぶら下がった体を持ち上げるにはちょっと苦労するほどの高さだ。
「……おい」
「なによ、ちょっと待っててよ」
「あのな。このドーム、最初来た時よりもちょっとずつミタマの濃度が増えてる。気づいてるか?」
予想外な言葉をかけられて、いったん梯子から手を離す。
「……そう?」
「あなたは島の聖域に先代様の髪を捧げて、力を巡らせただろう。昨夜行った大聖堂に、先代様の遺体はあった。……もしかして、少しずつミタマの道が繋がりかけてるんじゃないのか。あなたが言う、ゆうごうろ? に遺髪を捧げるのは、聖域に捧げるのと同じような効果があるだろうけど、大聖堂の遺体からも、僅かでもこのドームに繋がってきつつあるんじゃないのか」
思いも寄らない言葉に思考が空転しかけるが、まずはと思って感覚を澄ます。ミタマの力を感じるか、体の周りに意識を集中する。
「……この、薄い粒のようなもの……?」
島で感じたミタマの気配は、そこにまざまざと存在するように感じていた。物体がそこにある、という感覚だろうか。それとは違って、ごく薄い霧のようなものを感じる。
「それだ。ミタマが僅かでもあるなら、あなたもその力を利用すればいい。風で体を運ぶのは無理でも、体重を少し支えさせるとか、力を込める方向に働きかけるとか、そういう利用の仕方をすれば、多少は役に立つと思う」
「ふぅん?」
試しに空気に体を支えさせる方向にイメージすると、ぐい、と梯子に乗り上げることができた。
「本当! すごいわね、飛嶺」
「繊細な力の行使も覚えた方がいい。あなたの使い方は豪快すぎる」
「はぁい」
がさつすぎると言われた気もするが、今回の助言と相殺してやろう。
島でホゥジュは、強かった。何者も本当にはホゥジュを、力尽くでどうにかすることはできなかった。それがホゥジュには嬉しかったのだ。力に溺れているという見方もあるかもしれないが、ドームでのホゥジュはずっと無力な小娘だった。だからその片鱗でも感じると、一気に足元が固まるような気がした。今なら父にも威圧されない……かもしれない。
ぐっと梯子を掴み、排気口の入口にまで登りきる。入口というよりも、排気口からすると、用途上では出口と称すべきか。そこは垂直な部分の後に、水平へと奥に伸びていた。梯子の上段に足をかけ、掴む場所のない垂直な部分を、体重を軽くして跳躍する。水平な床に捕まり、腕の力をミタマで補助して這い上がる。その先は暗い。だがよく目を凝らすと、じわじわと滲むような光を感じた。もしかすると点検のために、蛍光塗料でも塗ってあったのかもしれない。四つん這いになってその先を進んでいくと、水平だった道はすぐに傾斜が始まった。ところどころで垂直な壁が、ホゥジュの背の高さ以上に続く場所もある。そういう時は飛嶺が先に進み、筒の中で両手両足を突っ張って登るやり方を実演してくれる。それを真似て先に進み、ところどころにぽつりぽつりとある非常灯で息をつく。
それを何度も繰り返しているうちに、たった一人でここにいないことをありがたいと思うようになった。まるで世界がこの狭い筒の中だけで、これまでもこれから先もこの筒の中だけで、人生が完結するような気持ちになってくるからだ。進んでいるのかどうかさえ分からなくなる。そんな中で、後ろを飛嶺が守ってくれると思うと、喚きたくなるような焦燥感が和らぐ。
幾たびも登り、這ったその最後に、遠くから今までとは違う光が洩れてくるのが見えた。あの場所がコントロールルームかと思うと、動かす手足のスピードが速まる。
光までもうすぐという場所で、突如警報が鳴り響いた。
[侵入者です。排除します。侵入者です。排除します]
「――っホゥジュ!」
後ろから抱き込まれ、庇われる。そのホゥジュと飛嶺の前に無数のレーザー銃が現れる。飛嶺の肩の向こうに、照準を示す赤い光が幾つもこちらを射ているのが見えた。
「っっっ!」
一瞬で、多くのことがホゥジュの脳裏を過ぎった。母は、どう思うだろう。母の最期の願いを叶えられなかったばかりか、こんなに早く再会することになって。
飛嶺は、守るのか。ホゥジュを。こんな風に、咄嗟に。あの小さな島で、ホゥジュを殺すつもりだった、この男が。
姉は、どう思うだろう。ホゥジュが息絶えたことが彼女に伝わるだろうか。そうだ、端末がある。端末の位置情報を探ってたどり着いた先に、レーザーで穴だらけになったホゥジュがいる……姉の泣きそうな顔を思い浮かべ、罪悪感が浮かんだ。
父は、きっとまた言うだろう。馬鹿娘、と。彼はきっと泣かない。姉さえ無事だったらきっと、気にしないのだと思う。でも、もしかしたら……あの小さい日、母とまだ暮らしていた優しい父の顔が残っていたとしたら……彼は少しだけ、悲しむかもしれない。
[この、馬鹿娘]
だから父の声を聞いた時、ホゥジュは幻聴なのだと信じた。最期に聞く幻聴が父の声なんて、ちょっと嫌だなとさえ思っていた。そう思いながら瞑っていた目を開いて、そうして瞠目した。
構えられていたレーザー銃ががちゃがちゃと音を立てて、壁に収納されていく。壁の一部がせり出して、その奥に銃がしまい込まれて、せり上がった壁が何食わぬ顔をして元の場所に収まる。そんな凶器などなかったように。
[降りてこい、馬鹿娘]
また声がした。どこかにスピーカーがあって、そこから出てくる声みたいだった。マイクを通したような違和感がある。
「……大丈夫か、ホゥジュ」
「うん」
そっと外された腕が、なだめるようにホゥジュの背を撫でた。その温かさに胸が震える。はぁ、と息を吐いて、それから頬を両手で叩いた。きっと彼は、コントロールルームにいるのだ、もう。その父を、今からホゥジュは再び、説得しなければならない。
光の近くまで這っていくと、どうやら部屋の天井裏に出たようだった。小さな緑色に光っているボタンがあって、それを押すと格子状の枠が外れ、それから折りたたまれた簡易式の梯子が下に伸びていった。非常用の梯子と同じように見える。
下からの光に照らされる飛嶺の顔を見て、その顔がいつも通り冷静なのを見て少しだけ笑った。羨ましいが、心強くもある。
梯子を伝って降りた先には想像通り父がいて、その父がいる部屋には大きな出窓があった。出窓部分には多くのボタンやダイヤルがついていて、その張り出した出窓からは湖のような広い水槽が見えていた。
姉のヒントは、正しかったのだ。それだけでなんだか泣きそうになる。あの暗闇での時間が無駄ではなかったのだと思えたし、最終的には無駄になるという最悪の予想もできてしまっている。だが、最悪の事態にはさせない。この場所には薄いミタマがある。きっといつものホゥジュほど無力ではない、はず。
[私がいなかったら、死んでいたのだぞ、馬鹿娘]
父がため息をつきながら椅子に腰下ろした。それがなんだかいつもの父らしくない振る舞いに思えて、じっとその行動を見守る。
[なんだ、その服は。仮にも王女が、そんなに薄汚れて]
じっと父を見つめて、それでようやく違和感に気づく。父が、ホゥジュを見ていないのだ。いつもの冷たい視線がこちらに向いていない。父の灰青色の目は、普通に見られるだけでも冷たく感じるのに、その目がこちらを向いていない。
[……どうして私が来るって、分かってたの。監視してた?]
[当たり前だろう。洗脳されているかもしれない娘だぞ]
洗脳と言われて顔をしかめ、それから考える。どうしてここに来るまで、妨害がなかったのか。たとえばパレスから出るまでに捕まえるとか、排水溝跡に移動するまでに捕まえるとか、彼なら警備ロボットに命令できたはずだ。それなのに、排気口からこの部屋に来るまで、妨害はしなかった。侵入者排除システムも、きっと彼が止めたのだろう。そして今、こちらを見ない父。
[……試したの、私を]
ホゥジュがどこまで本気か、試した。洗脳されていても、命の危機に瀕すれば洗脳は解けるとでも思ったのかもしれない。洗脳されていなかったとしたら、ホゥジュがどこまで本気で母の遺志を叶えたいと願っているか、その度合いを測った。そうなのだとしたら。
[だとしたら、どうなんだ]
それならば、姉のあのヒントは。あれすらも、試すための道具だったのか。
[姉様は……]
[ハァル。出てこい]
父の声に、姉が部屋の隅から姿を現した。その顔は青ざめていて、首を振っている。
[違うわ、ホゥジュ]
違う、という姉の言葉は必死で、そこに幾ばくかの恐れを感じた。信じてもらえないのではないかという、恐れだ。それを感じてホゥジュは、小さく息を吐いた。
[……よかった……]
ホゥジュを試したのが、父だけで。
[お父様は、わたくしも試されたのよ。王族の自覚と、あなたへの愛情と。いざという時、どちらを優先させるのかを]
近づいてきた姉が、ホゥジュの両手を強く握った。その目に、だが裏切られたような痛みはない。
[……怒らないの、姉様]
[テストに不合格だからって、試験官に怒ってもしょうがないでしょう]
困ったように笑い、それから父を見た。
[わたくしを廃嫡なさいますか、お父様]
父はそっぽを向いたまま、腕を組んだ。
[いや]
それはそうだろう。ハァルが廃嫡された時に、第一位王位継承者になるのはホゥジュだ。そんな事態はなんとしても避けたいはず。
乾いた笑いが、唇を彩った。今さら父に腹を立ててもしょうがない。別に今回の件でそれほど傷ついているわけではない。だが。
[父様は、母様のことも信じてなかったのね]
娘のことを信じられないのは、もういい。ホゥジュの出来が悪かった。それだけが理由で、それでもういい。けれど父がしたことは、ホゥジュだけではなく、母への不信も露わにしていたのだ。夫婦だったのに。母は全てを投げ出して、父の元へ走ったのに。
[信じたくない。楓樹林が、この地を浄化しようとしているなど]
父の低い呟きに、知らず下げていた目を上げた。眉をひそめて姉を見る。姉は困ったように微笑んでいた。
[恨んでほしかったのよ、お父様は]
[なんで]
思いがけない言葉を聞いて、本気で分からなかった。
[だってお父様は、どんな理由があっても、お母様に裏切られたなら許せない方だもの]
[なんなのそれ]
意味が分からない。
[愛情を、そういう意味で測ってしまわれる方なのよ。お母様はそういう風な考え方をなさらない方だから、あなたには分からないでしょうけれど]
[分かんない。全然。全く]
[愛している人の裏切りを許さないことが、お父様にとっては愛情表現なのよ。それなのにお母様は許さないどころか、お父様に大きな贈り物をしようとされてる。お父様は、それに裏切られたような気分になってらっしゃるのよ]
[意味分かんない]
なんだそれ。
[なにそれ。つまり父様は、母様が父様を愛してないから許せるんだって思ってるってこと? 母様がどれだけ父様のために、みんなのために、死んでからも役に立とうとしてるのか、分かってないってこと?]
[頭では分かってらっしゃると思うわよ、さすがに]
困ったような姉の笑みに、どこか呆れたような色が混ざる。それで姉が本気でそう思っていることが伝わり、さらに全然全くこちらを見ようともしない父が、それを肯定しているのが分かった。
[なにそれくっだらない!]
なんだそれ。どれだけ器が小さいのだ。母を見習え。母の偉大な生き様を少しでも尊重してみせろ。
[本当ね]
ふふっと笑う姉に、意外な気持ちになった。
[意外に辛辣?]
[この件に関してはね]
姉の辛辣さを知っているのか、父は驚いた素振りも表さず、頑なに向こうを見続けている。
[愛情表現なんて、人それぞれじゃないの。母様のやり方を尊重するくらい、父様ならできるでしょ]
島の娘を王妃にできたのだ。ならばその愛情表現を認めることだって、できるんじゃないのか。
[うるさい。子どもが偉そうに言うな]
[うっわぁ]
どうしよう、と姉を見ると、姉は出窓の方を見ていた。
[ねぇ、ホゥジュ。早くお母様の髪を捧げてあげましょう。あの水に捧げればいいのかしら?]
父の賛同はもう必要ないらしい。そう割り切っている姉を見て、こだわっているのが馬鹿らしくなった。母の欠点は本当に一つだけだと思う。男性を見る目がない。それも全く。
あんなに素晴らしい母なのに、残念すぎる。
[あの窓、割れるかな?]
「ん? 割るか?」
出番かとばかりにレーザーソードの柄を持つ飛嶺。姉がちょっと残念そうに飛嶺を見やって、首を振る。
[直接浴びるには、あの空気は毒だと思うわ。そうね……確か、水温を測るための装置があったんじゃないかしら……]
姉がボタンの並んでいるパネルに近づく。このパネルで融合炉をコントロールするのだろうが、どのボタンがどういう機能かさっぱり分からない。勝手に触らないよう、姉の後ろ姿を見守る。
[……一番右。下。黄色だ]
後ろからぼそぼそと声が聞こえて、ハァルが頷く。
[分かりましたわ、お父様。あぁ、これね。ここで操作して……ほら、蓋が開いたわ]
パネルの横から筒が出てきて、その蓋が自動で開く。そこから一回り小さい温度計の箱が出てきた。それを姉は取りだして、それからホゥジュを振り向いた。
[ホゥジュ]
呼ばれて、その筒に近づく。胸元の箱から母の髪を取り出した。髪を額に当て、それから筒に落とす。
姉が蓋を閉めて、それから出窓に近づく。なにか変化がないかと、湖をじっと見下ろす。
隣に飛嶺が立ち、それから離れた反対側に、父も並んだ。全員でじっと見下ろす中、ややあってから蛍が一つ、舞った。
実のところ、ホゥジュは本物の蛍を見たことがない。蛙と同じく、映像で見たことがあるだけだ。夜の闇を、ふわりふわりと明滅しながら飛ぶ光。ホゥジュが認識している蛍はそれだけで、湖からはそのような光が二つ三つと、ふわりふわり飛び始めた。
[ホゥジュ……]
姉が密やかな声で問いかけてきて、うん、と頷く。
[うん……母様よ。母様が、かえってきたんだわ]
ホゥジュの脳裏に、この目で見たような光景が浮かんだ。湖にぽちゃりと落ちた髪が、そのまま沈むかと思われ……少しずつ、少しずつ光りながら溶けていく。その光景を視て、ホゥジュの頬に笑顔が浮かんだ。あぁ、良かった。こんなに穢れをまき散らしている融合炉なのに、母は還っていっている。ゆっくりゆっくりと、穢れた機械からミタマへと、存在を変えつつある。
蛍の数が、ゆっくりと増えていく。それらがゆっくりと集まって、やがてどくん、と鼓動を打った。
[お母様……]
「姉様、島の言葉でないと、母様には伝わらないわよ」
「島の、言葉……こう?」
「そう」
頷いていると、震える父の声が聞こえた。
[……楓、樹林……]
その声だけで、伝わるような気がした。
姉やルイスが父の行動を正当化していたのではなく、父が真実母や自分を守るために、ああいった行動をしてきたのだと。無関心ではなく、寄せる心があるからこそ、ああしたのだということが、伝わる気がした。
そのことに父が罪悪感を抱いていたことも、その罪悪感があるからこそ、母の遺志を直視することが難しかったのではないかということも。
……当然、それで許せるものでもないと思う。もっと上手いやり方があったのではないかと思うし、こっそり告白してくれれば良かったではないか。母にだけでも。愛しているからこそ離れるのだとかなんとか。姿を見て悟れとか、そういう姿勢はいかがなものかと思う。あぁ、でも。
死の間際の母は、父を呼ばなかった。
諦めているのかと思っていた。でも、理解していたのだとしたら。呼んでも、父は来ることができない。だから父を苦しめないためにも、呼ばなかった、のかも。
本当に、母も姉もずるい。ホゥジュには最後まで、父のそういうところが分からなかったし、今も理解したくないと思っている。試したことは本気で腹が立つし、当分父とは話をしたくもない。でも、母が怒っていないのに、ホゥジュが怒るのもなんだか違う気もする。筋違いな気がするのに、それでもやっぱり腹は立つ。
『――それでいいのよ、あなたは』
不意に、耳に母の声が飛び込んだような気がした。
「……母様……?」
上げた顔の先に、光がコントロールルームにまで溢れていた。溢れて、流れて、巡ろうとしている。
「――ほらね、姉様」
誇らしい。母が。恨まず、憎まず。そうしてこの世界を巡らし、ドームから父やハァル達を解放しようとしてくれている。
「復讐なんかじゃ、なかったでしょ――」
愛憎なんて、そんな場所に母はいない。もっともっと深い思いで、母は行動していたのだ。もっともっと深い、愛情で。
母の願いを叶えてあげられた。この先の人生で、ホゥジュはこのことをずっと誇りに思えるだろう。あの母の娘なのだと、胸を張って生きていける。このドームの世界の落伍者でも、ホゥジュはホゥジュのままで、生きていけるのだ。これから先、ずっと。




