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父の世界


 夜になると、ドームには人工の月が出る。ちゃんと満ち欠けがあって、今はちょうど三日月だ。その月光が霞むほど、ドームの中には光が満ちている。夜は、パーティーの時間なのだ。酒を飲み、踊り、噂を囁く楽しいパーティー。庭はイルミネーションで飾られ、窓からは明々とシャンデリアの光が洩れる。そこかしこで嬌声が聞こえ、はしゃぐ大人の声がする。

 子ども達は眠る時間だ。子ども達が眠る間、大人達は放埒に耽る。そんな浮ついた空気の中をキャリッジは走り、大聖堂に着いた。言われていた通り裏口に回ると、警備ロボットの光が消えていた。その横を通り過ぎ、裏口のドアに端末をかざす。ピ、と電子音が響いて、ホゥジュと飛嶺は中に入った。背後で扉が閉まる。

 大聖堂の中は、非常灯が灯っていた。足元が暗くならないよう、弱い電気がついている。天井の電気は消えていて、もう閉館したのが分かる。

 当然とも言えた。夜はパーティーの時間だ。そんな時間を、神や先祖に見守られたくはないだろう。

「こっち」

 王女として当然、大聖堂には何度も来たことがある。ホゥジュの祖母は彼女が幼い頃はまだ元気だったので、一緒に伴われることもあった。……今思えば、不思議だ。彼女は王太后だった。純血の頂点ともいえる女性だったのに、不思議とホゥジュやハァルが彼女から冷たく扱われた記憶がない。むしろ、母に対しても温もりのある態度だったと思う。今の父よりも、よほど。

 裏口から大聖堂を回り込み、天井に見事なステンドグラスが幾つも施されている大ホールに進む。大ホールの奥に、王族の廟室があるのだ。祖母も、母もそこに眠っている。

 明かりの消えた大聖堂に、周囲からの電灯でステンドグラスが床に煌びやかな影を作る。月影ではなく、虚飾の明かりによる影。母が眠っているこの場所が、安らげる場所なのか不安に思い、目を伏せる。

「こっちよ。廟室には、ここから入るの」

 ここにもロックがかかっている。王族のためだけの場所だ。王族と王族が伴う人間だけ、入ることを許される。そのロックを端末をかざして解除し、中に進む。

 ロックを解除したことで、廟室内に穏やかな光が灯る。廟室は、大ホールの半分ほどもあろう広さだった。壁に幾つもの段が刻まれ、その段の一つ一つにそれまでの国王や王妃の棺が収納されている。広間に置いてある棺は、初代国王、王妃のものと、二代前までの国王、王妃のものだ。一番手前にある棺が、母の入っている棺だった。

「……母様」

 そっと近づき、棺の高さに合わせて跪く。

 棺は強化プラスチックの蓋に覆われていて、顔から胸元までは透明だ。外からでも見られるようになっている。組んだ手から下は、大理石調の模様が施されていて、中は見えない。

 母は、まるで眠っているようだった。最後に息を吐いたあの時から、時間が止まっているみたいだった。

「これが、先代様……」

 ホゥジュの後ろから、微かに震える声が聞こえる。伝説の偉人と、まみえた気分になっているのかもしれない。

「……母様。もう少し髪が必要なの。もしかしたら姉様が持ってるかもしれないんだけど、今は会えなくて。だから、ごめんなさい。眠りを、邪魔して」

 蓋に手を当てて囁く。この穏やかな寝顔を邪魔することが、とても悪いことに思える。けれど、母の願いを叶えるためには必要なことで。

『いいのよ』

 風のようにそっと呟く声が聞こえたけれど、それは母にそう言ってほしいという、ホゥジュの願望が聞かせたものかもしれない。

 母は、穏やかな人だった。怒ったところを見たことがない。ホゥジュは母の分まで怒るようなところがあって、そうやって機嫌を悪くしているホゥジュを、どこか面白そうに見つめていた。怒り方を知らない人が、興味深そうに見守るみたいに。

 別居するようになって、父は次々と愛人を作っていった。幼いホゥジュにもそのことが届くほどなのに、母は困ったように笑うばかりで。だから、だろうか。だから余計にホゥジュは、自分が怒らなければならないように感じていたのかもしれない。母の分まで。

 そっと棺の横にあるボタンを押す。ふわり、と棺の蓋が開いた。さすほどの冷気が洩れてくる。腐敗を止めるため、中の温度は下げられているのだ。この中に眠る人が、この温度の中で生きていられるはずもない。冷たさを感じてようやく、ホゥジュは目の前の母が本当に命を失っているのだと、心から感じた。目の奥が熱くなる。それをこらえて、母の髪に手を伸ばした。

 凍るほどではないが、充分に冷たい空気によって、母のさらりとした髪も冷え切っていた。母の右側の髪が、ところどころ短くなっている。棺に入る前に切った場所だ。

 ホゥジュは左側の髪の一筋を手に取った。

「……あ」

 切るものを持ってきていなかった。そう思った瞬間、後ろから飛嶺がそっとさし出してきた。短刀だ。

「……ありがとう」

 受け取ろうとすると、すかさず鞘を抜かれ、柄の部分をさし出される。それを受け取って、母の髪に当てる。

 よく研いであるのだろう。当てただけで髪は、ふつふつと離れていった。

 母の肌に、触れたい。触れたくない。

 亡くなったことを目の前に突きつけられたくはないし、亡くなった母を抱きしめたい。あなたを愛していたと、今では伝えられない思いをそれでも叫びたい。 

 吐く息が、白い。

 いつまでも蓋を開けていては、温度が上がってしまう。うつむき、きゅっと口を引き結び、それからホゥジュは顔を上げた。短刀をことりと床に置き、母に話しかける。

「またね、母様」

 切った髪をしっかりと握りしめ、棺の横のボタンを押した。蓋がするすると閉まっていく。温度が上がったせいだろう、蓋越しに見える内部は曇っていた。それがゆっくりと澄んでいく。

「あなたと似た方だな」

 澄んでいく様子を見守っていると、そう声をかけられた。それでようやく、ホゥジュは飛嶺を振りかえる。

「そうね。母と私は似ていて、姉と父が似ているの」

 それまでの静かな空気を払拭したくて、明るい声音を意識する。

「他の棺は?」

「母の奥にあるのが先代国王と先代王妃の棺よ。つまり、私の祖父母。その奥にあるのが初代の国王夫妻ね。他の代の棺は、壁に収納されてる」

 説明していると、普段の感覚が戻ってくる。いつもの自分が戻ってきたようで、ホゥジュは小さく息を吐いた。

「ふぅん」

 そぞろ歩きを始めた飛嶺をよそに、ホゥジュは切り取った髪を胸元のポケットに入れていた、小箱に入れる。髪紐も忘れていたのだ。準備不足に乾いた笑いが洩れる。

「――おい」

 どこか驚いたような声に視線をやると、飛嶺が一つの棺を見下ろしていた。先代王妃の棺だ。つまり、ホゥジュの祖母の。

「どうしたの?」

「これ――こちらは、どなただ」

 妙に敬意のこもった喋り方に首を傾げつつ、

「お祖母様よ、私の」

 と答えた。飛嶺は顔を上げ、ホゥジュをまじまじと見つめる。

「……この方は、水の巫女だ。そう、思う」

「えぇ?」

 驚いて祖母の棺に近寄る。

「少なくとも、水の巫女の血を引いてらっしゃると思う。水の気配がする」

 そう言われて、不信の入り混じった目で祖母を見下ろす。祖母の顔も穏やかだった。祖父の顔はどこか厳めしく、見ているだけで叱られそうな顔なのだが、祖母は今にも笑顔を浮かべそうな、おっとりと柔らかな表情をしている。

 祖母の髪は、白い。加齢によって白くなってしまったので、元の髪の色は分からない。目の色は、今は閉じられているので分からないが、確か薄い茶色だったと思う。肌の色は白い。姉のように。つまり、ドームの人間として違和感のない女性なのだ。

「ちゃんと視ろ。ミタマの気配がするだろ?」

 叱り飛ばされてむっとしつつ、改めて祖母を見つめる。水の大長姫、糸翠花を思い出す。彼女の濃密な水の気配を思い出し、それから祖母を見下ろす。

 糸翠花の、あの滝のように濃密な水の気配。それに比べると、祖母からは春に降る、淡い霧雨のような気配を感じた。死者だから気配と呼ぶには不適なのかもしれない。息遣いというよりも、彼女の背景に感じるのが春の霧雨、というような。

「……この、霧雨みたいに感じるのが?」

「霧雨……これだから力のある長は。この繊細な違いが分からないのか」

「繊細だから分からないんでしょ。慣れてないんだもの」

 人を怪力馬鹿みたいに言うのはやめていただきたい。

「とにかく、この方には水の巫女の血が流れてる。……この方が、祖母? だからあなたの姉君が、水の巫女なのか」

「んん……姉様の御使いが蛇ってこと? だから姉様が水の巫女って言いたいのね? 母様が風の長だったのに、姉様が水の巫女なのは、お祖母様が水の巫女だったからって言いたいの?」

 一つ一つ情報を整理するように問いかけると、飛嶺が安心したように頷いた。

「そう、そうだ。良かった、思ったより推理力はあるんだな」

 馬鹿にするというよりも、心底安堵している様子なのが逆に気に障る。ごほんと重々しく咳払いをしつつ、だがホゥジュは反論した。

「でもお祖母様はドームの貴族出身よ。確かラグラン子爵家の令嬢だったはず。島の血が入ってるなんて、聞いたことないわ」

「じゃあ、その家の庶子だったとかは? 水の巫女の試練は厳しいと聞いてる。海の底から生還しなければならないんだと。それに失敗して、仮死状態で大陸に流れ着いたんだとしたら? それをドームの貴族が手籠めにしたんだとしたら?」

「最低すぎる……」

 最低すぎるが、ありえるとも感じてしまう。やりそう。

「庶子を正妻の娘と強弁したんだとしたら? 国王に見初められて、嫁に出すために多少の嘘はつくんじゃないのか」

「やりそう……」

 水の聖域を思い出す。長にならなければ殺される、と囁いていた、怯えた小さな声達。その一つが、曾祖母のものだったのかもしれない。仮死状態になった曾祖母がこの海辺に流れ着き、望まぬ交合を強要され、娘を産んだとしたら。それが祖母で、先代国王と思わぬ出会いを果たしたのだったとしたら。

「――だからお祖母様は、私達にも優しかったのかしら……」

 王家の息子の嫁が、蔑まれる島の娘。その娘や、その娘が産んだ孫娘達に、本当に優しくできるものなのだろうか。

 単純に、祖母が親切な人間だからだと思っていた。争い事の嫌いな、穏やかな人間だからそうなのだと。でも……。

「どれだけできた人間でも、息子の嫁に島の娘がきたら、普通は虐待しそうだよな。ドームの人間なら」

 飛嶺の言葉を否定できない。島の人間を身内として扱うことにさえ、普通の貴族ならば抵抗があったはずだ。

「……あ、そういえば……母様が父様と別居を始めたのって、お祖母様が亡くなってからだったわ……」

 そして父は、愛人を量産することを始めた。

 もし、ルイスの言っていることが正しかったとしたら。母とホゥジュらを守るための行動が愛人作りだったのだとしたら、祖母が生きている間はそれを、せずにすんでいたのだ。それはつまり、祖母が母を庇護していたということに、なりはしないだろうか。

 島の娘を正式な王妃とすること。そもそもそれだって、反対意見が続出したはずだ。それなのに母を王妃にできたのは、祖母が賛成してくれたからでは……?

 ホゥジュは、祖母の棺を見下ろした。穏やかな人だったと思う。けれど彼女は、ドームの常識も知り尽くしていた。姉の教育は祖母が自ら施してくれていたらしい。ホゥジュにもその教育は始まっていたが、すぐに祖母は亡くなってしまって、中途半端にしか学んでいない。

「……お祖母様……」

 彼女が教えてくれたのは、ドームでの生き延び方だ。効率のいい嘘のつき方。味方をより分ける嗅覚。揚げ足を取られない、礼儀作法の学び方。中途半端にしか学んでいないホゥジュだったけれど、あの教えがなかったら今頃どうなっていたか、肝が冷えるようだ。

「先代様がここで生きていけたのは、この方のおかげかも、しれないな……」

 飛嶺が跪き、棺に向かって頭を下げる。敬意を表しているのだろう。ホゥジュはなぜか泣きそうな気持ちになりながら棺の蓋を撫で、それから座って、棺の蓋に額を当てていた。




 ルイスのビルに無事戻った二人は、その夜を侯爵邸の客室で過ごした。その翌日、ルイスから呼び出された二人は安堵の息を吐いていた。

[あぁ、良かった……]

[こんなことをしなくても、大丈夫だと言ったけどね、僕は]

 今朝は何故か前髪をゴムで括ったルイスは、飄々としてそう言った。

[あのね、結果的に大丈夫だとしても、姉様が嫌な思いをするかもしれないのが、私は嫌なの。貴族的にはこんなの、大したことないのかもしれないけど、家族だもの。心配したっていいでしょ]

 嫌な思い、怖い思いをしながらも、姉はそれを乗り越えられる技量を持っている、かもしれない。けれどそんな機会はなければいいと、ホゥジュは思っている。家族くらい、そう思う人間がいていいはずだし、逆の立場なら、きっと姉は心配して行動してくれると思う。

[過保護な姉妹だねぇ……それで僕に借りを作るってのは、割に合わないと思うけど]

[これからも協力してほしいから、ついでよ]

 ルイスという変人くらいにしか、ホゥジュの目標を共有できそうな人間はいない。それに。

[それに、私の目的が達成できたら、それから先の方が、ルイスの協力は必須だもの]

[ふぅん?]

[今までドームの中で満足してきた貴族達が、本当にドームの外に出ようとするのか。変わっていく世界に、本当に気づくのか。その上で行動しようとするのか。ちょっと気がかりなのよね]

[気づかないはずないでしょ、それ……って言いたいけどね。否定しがたいよねぇ……]

 ルイスが遠い目をした。

 もし母のミタマが巡るなら、ドームの世界も変わらなければならないし、変わることが、できる。だがここは変わることを拒否する人間が多いように思うのだ。そういう中で、ルイスという人間は貴重である。変人だけど。それとその貪欲な知識欲がどこに向かうか、不安要素もあるのだけれど。

[とにかく、今回はありがとう。姉もパレスに帰れたみたいだし、大聖堂に入れたのも助かったわ。飛嶺の服も]

[彼とはもう少し色々話してみたいんだけど]

[忙しいからそれはまた今度にして]

 飛嶺の顔は満更でもなさそうだ。どういうところで気が合ったんだろうか。

[そろそろ帰るわ。また後で]

[またね、ホゥジュ。君の姉上に、結婚相手に困ってるなら相談に乗るって言っといて]

[あぁ……うん]

 相談に乗った時点で決定しているようなものだと思うが、とにかくルイスの方は姉と結婚してもいい心積もりらしい。変人ストックトン公爵の合意があるというのは心強い、んじゃないかな、姉も。少なくとも他のよりはましなはずだ。うん、たぶん。

[じゃあ、ありがとう。ルイス]

[どういたしまして、お姫様]

 綺麗なお辞儀をしているが、括った前髪がぴょこんと跳ねていて、格好良くもなんともない。どうしてその髪型にしてしまったのか。

「世話になった」

[また話そう、ヒレイ]

 男同士のやり取りの方が、よほどまともだ。納得しがたい。

 とにかくそう挨拶を交わし、ホゥジュは再びキャリッジでパレスに戻ったのだった。


 自分の部屋に戻り、姉にメールする。ちなみに破壊されたドアは直っていた。誰が手配したんだろう。

 姉からはすぐに向かうとメールが返ってきて、お茶を準備するうちに姉がやって来た。

[姉様!]

 姉が部屋に入るや否や、姉に飛びついて抱きしめる。

[大丈夫だった? なにもされなかった?]

 ついでに姉の胸元から首を伸ばした蛇の頭も撫でる。

[もう、この子ったら。誰の助けを借りたの? 本当に大丈夫な相手なの?]

 むしろ姉の方がホゥジュを心配していて、非常に不本意である。

[ルイス。ちょうどいいから、力を貸してもらったの。ほら、母様のミタマが巡るなら、その後も考えたらルイスを引き込んでた方がいいでしょ?]

[でも、ホゥジュ……]

[結婚の相談に乗ってもいいって言質は取ったよ?]

 たぶん姉も満更ではないはず。そう思って褒め言葉を待っていると、ハァルの眉が曇った。

[ホゥジュ……ルイスはあなたの初恋でしょう? それなのに、いいの?]

[はぁ!?]

 まさかの初恋を姉に把握されていたという驚愕に、姉から飛び離れた。飛嶺を見れば、なんとも言いがたい、生温い顔をしていた。驚きというよりも、小さな子どもが背伸びしているのを見守る年長者のような目である。あまりの不本意さに顔が火を噴くように発熱した。

[ち、違うわよ! なんなのその誤解!]

[あらそう? ルイスなんて一時期、すごくあなたに気を使ってたじゃない。彼があんな風に、貴族的でない振る舞いをしているのなんて、あなたの前でだけしか見たことないわ]

[貴族的じゃないって……なに、それ。いつものあれのこと?]

 あの猫背のぼさぼさ頭は貴族的とは言いがたいが、あれが彼の通常運転じゃないのか。

[彼は、ストックトン公爵家の人間なのよ。いくら変人と有名でも、あなたの前でいるみたいにしてたら社交界を追放されてしまうわ]

 今朝見たルイスの姿を思い出す。前髪を括った、お世辞にも格好いいとは言いがたい姿だ。

 思わず怖々と姉に問いかける。

[……ねぇ、あれってルイスのいつもじゃないの……? いつもはもっと、ちゃんとしてるってこと?]

[そうよ。もっと堂々としていて、令嬢方の目を奪っているわよ。それなのにあなたったら、そうじゃないルイスのことが気に入ってるんだもの。ルイスも迷ったと思うけれど、結局今みたいに、あなたの前では不格好に振る舞っているのよ。……もちろん、素ではあると思うけれど]

[うっそぉ……]

 衝撃である。初恋が周囲にばれていたばかりか、変に気遣われていて、その結果あの奇天烈なルイスの変人振りを目の当たりにしてしまっていることが、だ。もうちょっと違う方向性での気遣いがほしかった。

[もちろん、ルイスなりに気に入ってるのよ。友達としてでしょうけど]

[そりゃまぁ……]

 あっさりと初恋を終えた後は、今の変人なルイスの有り様が気に入ってもいて、それなりの交流があったわけだが。こういう時に頼る程度には信頼してもいるわけだし。人となりは分かっている。だが複雑である。むしろ記憶を消してほしい。あんな過去はなかったのである。

[とにかく! 姉様がその気なら婿入りしてもいい感触だったから! それだけは伝言しておくわね]

[分かったわ。彼なら信頼はできるものねぇ]

 おっとりと微笑むハァルは、それ以上の感情を表に出していない。姉の初恋が誰だとか、今現在思っている誰かがいるのかとか、不肖の妹にはさっぱり分からないのだ。

[それで、大聖堂で母様の髪を手に入れたんだけど、姉様、今から行ける?]

[まぁ、ありがたいわ。実はわたくし、部屋に戻れなかったの。いつもより集まる方々が多くって]

 困ったように、ほんの少しだけ眉をひそめて、姉が笑った。集まる方々というのは、姉への求婚者だろう。すわ傷物になったかもしれない姉の傷心を癒やし、婿の座に滑り込もうとする猛者達である。パレスには姉の隠し部屋が幾つかあって、その一つに隠れていたようだ。

[じゃあ、いい? 今から行っても]

 母の遺志を確かめる。ホゥジュは母が復讐など考えていないと確信しているが、姉にはその確信がないのだろう。まだ少しの迷いを残しつつ、姉は頷いた。

「えぇ、行きましょう。お母様がなにをあなたに、わたくし達に託したのか、見届けましょう」

 頷いて、立ち上がる。

 核融合炉へのエレベーターは、王族専用階の一番奥にある。姉の部屋にご機嫌伺いに訪問することはできても、エレベーターに至る道には侵入できないようになっている。それにはもちろん、理由がある。

 人気のない通路を姉と飛嶺と一緒に歩きながら、少し笑みを含みつつ飛嶺に話しかける。

「この辺は人気がないでしょ? これね、実は馬鹿馬鹿しい昔話があってね」

 向かう先にエレベーターの扉が見える。

「ん?」

「あのエレベーター……乗り物はね、王と後継者しか動かせないの。あのエレベーターが向かうのが、この前言っていたエネルギーを作る場所なんだけど。昔にね、この先にある機械の、操作手順書を破棄した人間がいるのよ。王位を継げない腹いせに、手順書をぜぇんぶ、データごと壊しちゃった人がいたの。そのせいで、機械の点検や整備のやり方も分からなくなっちゃって。それ以来、故障してるかどうかも分からない状態で、下の機械は動いてるの」

「それは問題なのか」

「機械ってね、点検して整備しないと、正常には動かないのよ。それなのに、エネルギーを生み出す一番大切な機械が、整備されてない。……そのせいでドームが不純物を出してるんだと、私は思ってる。だから大地や大気を穢すんだって」

[ホゥジュは昔からそう言ってるわね。お父様はそうは思っていないようだけど]

[問題から目を逸らしてるだけでしょ。島から来た母様でさえ気づいたのに]

 島から来た母でさえ気づいた……否、外から来た母だからこそ、気づいたことなのかもしれない。昔からずっとそうで、それで問題なくエネルギーは供給されていた。だから見過ごされていたのかもしれない。

 エレベーター前までたどり着くと、姉が自分の端末をかざした。国王とその後継者しか動かすことのできないエレベーター。ホゥジュの端末では起動しない。それなのに。

 ビーッと電子音を立てて、エレベーターが拒絶反応を示した。

[この端末によるロック解除は制限されています。この端末によるロック解除は制限されています。この端末による――]

 機械音声が何度も繰り返す。

[どういうこと……?]

 姉は国王の後継者だ。姉の端末ならばこのエレベーターのロックは解除できるはずなのに、その機能が制限されていると言う。

[……くそじじい]

 それができるのは、ただ一人だ。

[ホゥジュ、でも]

[父様以外の誰にこんな操作ができるってのよ!]

 拳を口元に当てる。あらゆる情報に介入できる、たった一人の男。それはつまり、会話も盗聴できるということでは。

[姉様。父様に会わなきゃ]

 なんのつもりなのか、聞かなければ。聞いた上で、説得する必要もある。それができない場合。

 ホゥジュはちらりと飛嶺を見た。彼と視線を合わせ、呟く。

[父様は、私達の会話を盗聴してたかもしれない]

 姉の表情が落ちる。すとんとした無表情の奥で、姉が思考を巡らせているのが分かる。僅かに眉が寄っていて、それで姉がこの事態を重く見ていることが伝わった。


 姉に、父と話をしたいとメールしてもらう。ホゥジュがやるより返事が来る可能性があるからだ。 エレベーター前で姉が端末の操作をしているのを見守っていると、やがて姉が顔を上げた。

[お父様は、謁見室にいらっしゃるそうよ]

[うっわぁ]

 謁見室というのは王族専用階の中でも一番大きな部屋で、なにかの儀礼がある時に使用される。叙任式とか陞爵式とか。結婚式や葬儀は大聖堂で行われるが、それ以外の国事行為はこちらの謁見室で行われることが多いのだ。

[誰かいるの?]

[誰も。お一人だそうよ]

[なによそれ]

 謁見室はかなり広い。二百人くらいなら余裕で入るだろう大きさだ。そこにぽつんと一人。

[……侘しい……]

[ホゥジュったら]

 広間にぽつんと一人座って待っているだろう父を浮かべると、迫力とかそういうのよりも、一人ぼっちの侘しさの方を感じてしまう。

 通路を真っ直ぐ進むと父の部屋の前を通り、そこから先にあるのが謁見室だ。ホゥジュの部屋はもっと右手にあるし、ハァルの部屋は左手にある。

 大きな扉を、姉が端末をかざして開ける。自動で音もなく開いた扉のずっと向こうに、父が膝を組んで腰掛けていた。侘しいというよりも偉そうである。

[来たか、ハァル。それに馬鹿娘]

 開口一番そう呼びかけられ、ホゥジュの額に青筋が浮いた。姉は良い意味での特別扱いで、ホゥジュは悪い意味での特別扱いである。

[お父様、どうしてエレベーターをロックされたのです]

 姉にしては直球な問いかけだが、貴族的な言い回しを排除したのだろう。確かに父相手にそうした演技は不要にも思える。

[子どもの悪戯を防止するためだ]

[聞いてたの、私達の会話]

 違うと言われても確信してはいたが、父が馬鹿にしたように鼻を鳴らすので、ぐっと拳を握った。この拳を父の頬めがけて振り抜いたら、さぞかし心地よかろうと思う。

[いきなりドームから出て、そうかと思ったら島の民を連れて帰る。監視しないはずがなかろう、馬鹿娘]

[母様の親戚だってば]

 馬鹿娘はもはや雑音である。そう割り切って主張した。

[どうせ豹牙の血縁だろう。似たような目をしている]

 斜め後ろで僅かに身じろぐ気配に、ホゥジュは正解を悟る。それにしても、父が島の民の名前を知っているとは。

[お父様、その方は……?]

[楓樹林の信奉者だ。よく絡まれたものだ]

 へぇ、と思ってしげしげと飛嶺を見つめる。もしかして風の島で出会った、無礼な老人達の一人かもしれない。

[お父様。わたくし達、融合炉に用事があるのです。ロックを解除していただけませんか]

[駄目だ]

 ハァルへの口調は比較的柔らかいのだが、それにしても父はきっぱりと断った。

[母様は復讐なんて、しない]

[子どものお前になにが分かる。人の心なぞ結局、他人になど理解はできぬものだ]

 固い父の顔を見るうちに、ホゥジュの口元が緩んでいった。

[なぁんだ]

 笑みが殺しきれない。

[父様だって、悪いって分かっててやってたんじゃない。いかにも正しいことしてますって顔してたのに]

 あの葬儀で、愛人を伴う父の非常識を糾弾したのはホゥジュだ。母の葬儀でくらい、悼む姿勢を見せてほしかった。母の遺体の前でまで、愛人の手を取ってほしくはなかった。けれどあの場で、悪いのはホゥジュになっていた。世間の正義とホゥジュの正しさが違っていて、怒りと同時に心許なさを感じたのだ。ホゥジュの感じる怒りが正当なものではないと言い切られてしまえば、反駁する心の声が弱くなる。本当にはホゥジュは、正しくなかったのかもしれない。そうとさえあの時、実はこっそりと思っていたのに。

[子どもが知ったような口を聞くな! 私には責任がある。ドームを守るという責任が。一人の女の憎悪などに、引きずられるわけにはいかないのだ]

[父様が、なにを知ってるっていうのよ。母様の、なにを]

 間違った恋をしてしまったと、負け犬のように島を去った母のことを、彼は本当に知っているのだろうか。怒るホゥジュを面白げに見ていた母が、父を憎む? そんな単純な人じゃなかった、と思う。母は、もっと大きなものを見ていた。父だけではなく、ドームに住む人間、全てのこと。それから島の世界全てを。

[少なくとも、お前よりは知っている。馬鹿娘]

 微塵も揺らがない父を見て、少しおかしくなった。父にとって、母は死後も復讐を企てるような人間に見えているわけだ。あの、母が。

[本当に、母様は男を見る目がないわよね]

[ホゥジュ!]

[お前は謹慎していろ、馬鹿娘。無礼が過ぎる。頭を冷やして、感情で動く癖を少しは省みろ。それからそこの島の民。ハァルが許可したとはいえ、自由な行動は禁じる。お前は別のフロアで謹慎していろ]

 父の言葉を聞き流しながら、じっと父までの距離を測る。父の端末はきっと、彼が身につけているはず。それを奪い取ることができたら。

 じりっと体の重心を動かしかけたホゥジュを見て、父はため息をついた。

[それから。私の端末は別室に置いている。基本的に顔認証でどこへでも行けるからな]

 ホゥジュは動きをぴたりと止めた。

[家族以外が私に触れようとした場合、警備システムが作動する。島の民なら処刑は覚悟するんだな]

 斜め後ろの気配も止まり、ホゥジュは息を吐いた。まぁ飛嶺はそうなるだろう。だからホゥジュの動きの支援をしてもらえれば、とか期待していただけなのだが、なにも言わないでも通じていたらしい。少しは信頼関係が構築できたのだろうか。

[父様。母様は島だけじゃなくて、ドームの世界も浄化しようとしてるのよ]

[証拠は。どこにある。遺言状でも残されているのか]

[遺言状なんて、信じる父様じゃないでしょうが……]

 結局、父は結果でしか判断しない。母が浄化を目的としていたという結果を見てからでないと、許可は出さない。そして許可を出さないから、浄化される未来もやってはこないわけだ。

 捨て鉢な感情が胸を占める。

 父と対面していると、いつも冷静には話せなくなる。ホゥジュにはホゥジュの考えがあって、だからそれを論理的に開示しようと思うのに、その順番がばらばらに混ざって、どこから話せばいいのか分からなくなってしまう。そうするうちに、どうせ、という言葉が頭の中に広がるのだ。

 どうせ、父はなにを言っても変わらない。彼がホゥジュを重視することは、ない。ホゥジュの言葉を聞こうという姿勢には、ならないのだ。これから先もきっと、永遠に。

 どうして姉は、父と普通に話すことができるのだろう。父の前ではホゥジュは、いつもの自分よりももっと小さい、五歳くらいの子どもになった気持ちになる。言いたいことが伝えられなくて、癇癪を起こすだけの子ども。そう振る舞うことでさらに父はホゥジュへの信頼を損ね、そういうことを繰り返した先に現状がある。

[もし母様が復讐を考えているんだとしたら、私が止める。だから――]

[お前にそんなことができると、誰が証明するんだ]

 かろうじて声を出しても、言葉が重くて詰まるようだ。彼は理解しない。ホゥジュを決して理解しない。……親子なのに。

 もう、いい。そうやって、今まで対話を断ち切ってきた。今だってそうしたい。もういい。もう父様とは話さない、と。

[……なら、試せばいい。母様の農園でなら、ミタマの力が使える。そこで私の力を試せば、父様にだって私に力があるって、分かるでしょ]

[そんな力は、ドームには不要だ]

 ぐっと、ホゥジュの全身が冷たい水に浸かったような圧迫感を覚えた。ホゥジュが頑張ろうとする意欲を削ぎ、うずくまって癇癪を起こすだけの子どもに変えてしまう、冷たい冷たい、水。

[なんで、……]

 どうして、分かろうとしてくれないのだろう。家族なのに。親子なのに。分かってくれないことを悲しむホゥジュの心が幼く、子どもなのだろうか。分かってもらうことを期待して、その期待の上で理想を語るホゥジュが、間違っているのだろうか。

 分からなくなる。あの葬儀の日と同じように、なにを言うべきか、どう説得すべきか。そもそもホゥジュの考え自体が間違っているのではないかと、分からなくなる。

[部屋に戻れ、馬鹿娘。頭を冷やせ]

 これ以上なく体も心も冷えているのに、父はそう言って会話を打ち切った。


 姉がホゥジュの肩を抱く体温が、温かい。

[泣かないで、ホゥジュ]

[泣いてない]

 それだけは主張する。泣いてない。涙が、出てこない。[お父様は、あなたを心配しているの。若いあなたが島の人達に洗脳されて、それであんなことを言い出したんじゃないかって]

[姉様は、誰の味方なの]

 とぼとぼと歩く方向は、ホゥジュの部屋だ。

[わたくしは、わたくしの味方よ。誰もがそうでしょう? 結局人間は、自分の味方しかできないもの]

[……姉様らしいわ]

 おっとりと穏やかで、いかにも皆のことを考えている風なのに、姉はその実、意外にしたたかだ。ホゥジュはそのことが実のところ、嬉しい。姉がこのドームの世界でも強く立っていられるのではないかと思えることが、安心できるのだ。

[ねぇホゥジュ。覚えている? まだお母様がドームにいた頃。よく散歩したでしょう? 時々、思いがけない場所に出てしまって、それで探検したことがあったわね?]

 それは本当に昔のことだ。姉の勉強の合間を縫って、母と一緒にドームを探検していた。今思えばそれは、母がこのドームを知り、穢れを浄化するにはどうすればいいのかを、探るための時間だったのかもしれない。

[――タイヤを、覚えている?]

 タイヤ、と言われて首を傾げていると、部屋の前に出た。姉が優しくそっと、ホゥジュの背中を押す。

[少し、休んだ方がいいわ。それからどうするか、考えましょう]

 穏やかな笑みが、ホゥジュを案じる気持ちを乗せつつそう言った。

[うん……]

 どうしたら姉みたいに、強くなれるのだろう。どうして自分はこんなに弱いんだろう。

 そっと姉から目を逸らし、ホゥジュは逃げるように部屋に入っていった。



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