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ドームの世界



 繊維強化プラスチックのボートで出発したのに、帰還は木の舟だ。そこに幾ばくかのおかしさを感じつつ、ホゥジュは灯台の下に舟をつけた。途中からミタマの力をほとんど使えなくなってしまったので、格段に速度が落ちたが、飛嶺がさっとオールを取り出したことで全ては解決した。ドームにまで伴って良かったと思った瞬間である。

「……死の都だな」

 舟を岩に結び終えた飛嶺が顔を上げ、そのどんよりと曇りきった空と、その後ろに佇む要塞を見て呟いた。全てが灰色に染まっている世界だ。帰ってきた。

「行くわよ。まずは農園に行かなきゃ」

「農園?」

「母が作ったの。このドーム近辺で唯一、健康な野菜が取れる場所。今思えば、ミタマの力を限定的に発揮できるよう、魔法陣を描いたんだと思う」

 舟から下りて、すたすたと歩き始める。その後ろに飛嶺が着いてくる気配が分かった。

「……病んでる、な。穢れてる」

 歩を進めながら丘を登り、その枯れた大地を見渡して、飛嶺はそう評した。異論はない。これが人を犠牲にするのを拒んだ代わりに、世界を喰らって生きてきた結果だ。誰かを犠牲にしないことを誇りたいのに、目の前に広がるのはあまりに寒々しい光景だった。島の世界とはあまりに違う。まるで、光と闇みたいに。

「――行くわよ」

 島の世界では、遠くに移動するのにはコチに乗ればそれですんだ。けれど今、コチは小さな子猫になって肩に乗っている。姿を保っているだけでもすごいことなのだと、今のホゥジュには分かっていた。大切な友を肩に乗せて、歩く。自分の足で。

 母の農園は、ドームの東にあった。ドームと風の島を結ぶ直線の上に位置するのが、母の計算だったのだと今では分かる。

 農園はガラスで覆われた場所だった。そのガラスも、強化ガラスのような化学物資ではない。透かして見ると歪んで映るような古びたガラスは、この大地からミタマを守るため、母が作り出した装置なのだと今になって気づく。そのガラスには、模様が刻まれていた。そう、魔法陣だ。大地を浄化し、風を清める魔法陣によって、この農園の野菜や果物だけは、安全で豊かに育っているのだ。

「この中に通信機があるの。それで姉を呼ぶわ。姉ならあなたがドームの中に入るための、一時的な証明を発行してくれるはず」

「証明」

「私は一応王女だから顔認証で入れるけど、あなたは登録されてないから扉が開かない。だから、登録してもらわないと」

 そう言いながら、農園のガラスに手を当てる。ホゥジュのミタマを感じ取って、結界がホゥジュを受け入れる。ホゥジュと、その同行者を。

 開いたガラス戸から農園に入ると、ようやくホゥジュは呼吸が楽になった気分になる。この場所だけ、淀んでいない。そういう風に思う。コチも伸びをしているし、しかめっ面だった飛嶺も顔を和らげている。

「――ここは臭くないな」

「島ほどじゃないけどね」

 入った場所には果樹が植えられている。そこから奥に進むにつれて、根菜類やら葉物野菜に変わる。ハーブも植えられていて、それが茂りすぎないような仕組みさえあるのだ。水やりを担うミタマが浮いていて、ほとんど自動で野菜は育つようになっている。刈り取りは専用の機械人形が必要で、その時期にだけ、この農園は少し元気をなくすのだが。

 農園の最奥には、小さな小屋がある。丸太でできた、まさしく掘っ立て小屋なのだが、ホゥジュはよく母とここに泊まった。ドームの豪華な部屋で暮らすよりも、この掘っ立て小屋で過ごす方がずっと楽しかったし、呼吸が楽にできた。そこに、通信機もある。

 小屋に入り、一瞬目眩がした。最後に母と来た時と、変わらない。今にも後ろで母が、『ホゥジュ、水やりを手伝ってくれる?』と声をかけてきそうな。

「おい、大丈夫か」

 母とは全く違う、男の声に振り返りそうになって、ぎゅっと拳を握って息を吐いた。

「……平気」

 低く呟いて、通信機のある机に向かう。素朴な木の椅子に座り、通信機をタップした。タブレットが起動して、姉の端末を呼び出す。後ろで飛嶺が

「なんだ、その光ってる板は?」

 と驚いているが、説明は後だ。そもそもどう説明したものか、その点にも苦慮する。

 呼びだし音が続いた後、タブレットが姉の顔を映し出した。

[ホゥジュ! 帰ってきたのね!]

 姉の声を懐かしく感じる自分が、少しおかしい。

[ただいま。あのね、お願いがあるんだけど。一人分の入国パスポートを用意してくれない? 島から連れてきた人がいるの]

[まぁ、だぁれ? 母の親戚の方?]

 親戚なのか? と思い飛嶺を見ると、頷いている。

「え、親戚なの?」

「父が先代様の、はとこだな」

 ということは、飛嶺とホゥジュも親戚ということになる。信じがたい思いだが、まずは姉への用事が先だ。

[えぇと、そうみたい。男性なんだけど]

 姉にそう言って、飛嶺をタブレットの前に押し出す。

[この人。島でお世話に――なった、かな? だから、ドームを案内したいのよ]

 一応、食事の世話はしてもらった。島の案内もしてもらったので、世話になったと形容してもいいだろう。嘘ではないはずだ。

[まぁ、じゃあ入国したらご挨拶したいわ。パスポートを送るわね]

 今の一瞬で飛嶺の写真を撮ったらしい。メールで入国許可証が添付されてきた。

[ありがと、姉様]

[ねぇホゥジュ。お父様が心配してらしたわよ]

 付け加えられた姉の言葉に、顔をしかめる。

[その話は聞きたくない]

[もう、この子ったら。とにかく早く帰ってらっしゃいね]

[うん、また後で]

 通信を切って、ため息をつく。この後、島に移住しますっていうのを、どうやって姉に納得させよう。

「石でできた彫り物みたいな方だな」

 悩む暇もなく、飛嶺の言葉に顔を上げた。

「えぇ? どういう表現なわけ?」

「顔が白すぎて、人形みたいに見える」

「ふぅん?」

 姉は、父譲りの美貌だ。ホゥジュは母に似たが、姉は父によく似ている。ずっと姉みたいな白い肌になりたかったが、飛嶺からすると白すぎて不気味に映るらしい。あんなに綺麗な姉に、なんて無礼な。けれどそういう感性が、面白くもあった。

「島に来たのが、お前で良かった」

 しみじみと呟かれ、油断していたホゥジュは少し赤面した。ホゥジュは、選ばれない方の王女だ。出来損ないで、嗤われる方。そのホゥジュで良かったと言われると、面映ゆいものがある。

 机の中にしまっておいた、ホゥジュ専用の端末に飛嶺のパスポートを移動し、それを胸元にしまってから立ち上がった。

「さ、行くわよ。母様の野望を達成させてあげなきゃ」

 母の遺髪は、母が遺言したせいでまだ残っている。その遺髪をドームの地下にある、核施設に埋めなければ。どうにかして。


 端末をゲートにかざし、飛嶺をドームに入国させる。誰にも気づかれぬよう、と思いたいが、いかんせん二十四時間監視システムがある。ドームの人間ではない者が入国してきたことは、すぐに父へ警告のメールが届くはずである。ただし、同行者がホゥジュであるのが分かれば、あの父のことである。また末娘の酔狂が始まったと思い、興味をなくす――のが、一番ベストの結末だ。そうでなければ呼び出しなどで、なかなかに厄介なことになる。

「とにかく、姉様の部屋に行くわよ」

 ドームは球状の屋根に覆われた街だ。コンクリートのマンションが並ぶ市街地と、王宮のあるパレスがある。ホゥジュ達が住むのはもちろんパレスの方で、移動用のロボットに乗ってパレス行きを選択する。普通の市民はパレスに行こうとしても機械がエラーを起こすのだが、ホゥジュの端末をかざせばエラーは解除される仕組みになっている。

「ほら、乗って」

「なんだこれ。それにこの臭い。ひどいな」

 ぶつぶつぼやきながら飛嶺が乗り込んでくる。移動用のロボットはキャリッジと呼ばれていて、たいていが二人乗りだ。四人乗りもあるのだが、あまり多くない。夫婦で移動することが多いからだろう。キャリッジの中どころか、ドームの中全体が電子機器特有の臭いを漂わせている。島から帰って余計に、その機械臭さに顔をしかめる。島出身の飛嶺なら、なおさらだろう。

「すぐに着くわ」

 行き先を登録すれば、自動で運転される。

「それもミタマの代わりに、世界を削った力で動くのか?」

「そう」

 短く返事をし、前を見る。移動用ロボット専用道を通るので、凄まじい速度だ。あっという間にパレスに到着して、正面玄関ではなく、王族専用のビルに添って浮かび上がる。最短で着くよう、登録したからだ。

 ロボットが広いテラスに舞い降りて、そこからホゥジュは飛び降りる。後ろを振り返ると、飛嶺も無言でついてきた。テラスに面したガラス戸に端末を押し当てると、ドアが開く。

「ようこそ、私の部屋へ」

 ドアを開け、それから振り返って飛嶺を招く。飛嶺は奇妙な顔をしていた。

「どうしたの?」

「いや……本当に、王女だったんだな」

 飛嶺の視線は、室内の装飾に向けられていた。いかにも女性好みしそうな、ピンク色の壁紙。天井からは小ぶりなシャンデリアが吊され、書き物机は華奢な流線型を見せつけ、化粧机まである。その前に並べられた化粧品はどれもガラス瓶に入っていて、その瓶がこれまた美しい曲線を描いている。

「基本的に住んでないけどね」

「あぁ?」

 テラスから飛嶺を招き入れ、居間の隣のワードローブに入る。これまたきらきらした色合いのワンピースやらドレスやらに満ちている。しかも姉みたいに白い肌でないと似合わないような、紫色や青色のドレスが多い。見る度に嫌気がさすワードローブである。

「母親気取りの愛妾方が、親切ごかして贈ってくださるってわけよ。しかも、絶妙に似合わない服や、全然趣味じゃない匂いの香水とか。もしうっかり喜んで着ようものなら、影でせせら笑われるって寸法よ。あんな肌の色じゃ、似合わないのにね、っていう」

 ドームではミタマの代わりに世界の力を削って、豊かで恵まれた暮らしをしている。誰もが労働の義務はなく、ドームに住むということが特権階級であることを表している。つまり、暇なのだ。父の愛情を競い、混血の王女を嗤うことが、娯楽の一種でさえあるのだろう。

「すごい、無駄だな」

「それが選ばれた民の証なんだって。無駄こそ特権階級ならでは、ってことね」

 ホゥジュの言葉に、飛嶺は鼻を鳴らした。ミタマを操る者以外は貧しい、島の現状に思いを馳せたのではないだろうか。日々暮らして、生きていくだけで精一杯。子どもでさえ働くし、弱い者は死んでいく過酷な世界、らしい。飛嶺によると。そんな世界を治める側の人間として、飛嶺はこのドームの世界をどう見ているのだろう。

 ワードローブの奥に隠れるように置いてある、地味な色合いのワンピースを取り出す。島の衣装が今ではもう、好きになっている。だがこの格好のまま動き回るのは、さすがに目立ちすぎるという自覚はある。

「問題は、あなたよね」

 さすがに男物の服はない。父の服が置いてあるとか、そういうこともない。彼には彼のワードローブがあるし、スーツやタキシードくらいしか着ていないのに、その量は膨大だ。まさに無駄の極み。色違いで五着くらいしか要らないと思うのに、今でも途切れなく仕立てさせている。

「俺?」

「島の服じゃ、目立つから」

 だが、男物の服が必要だ。姉に相談してみるか。帰郷の挨拶もしないといけないし。

 飛嶺を締め出し、着替えてから居間に戻る。ドームの世界における貴重品というのは、ホゥジュにとってそう多くはない。最重要なのが端末だ。これがないと、立ち入ることができる場所が、非常に限られてしまうのだ。その端末を取り出し、姉にメールを送信する。部屋に帰ったという報告だ。これで姉もすぐに来るだろう。ホゥジュが姉の部屋に行くよりも、反対の方が格段に楽なはず。姉の周囲の警備は厳しい――というよりも、未来の婿候補が群がっているので、それをホゥジュが退けるのは非常に困難なのだ。

「姉が来るまで、お茶でもいれたげる」

 島で味わったお茶は美味だった。馥郁とした香りがたまらなかった。それに比べるとずいぶん貧相な味だとは思うが、喉を潤すためと思えば我慢できるだろう。

「水でいい」

「農園のお茶よ。母様が運営してた」

「…………飲む」

 母由来と思うと心が揺れたらしい。そんな飛嶺を今では、それほど不快にも思わず相対していられる。彼にとって母は特別な存在なのだろう。たとえば歴史上の偉人のような。

 母が丹精込めて作った農園の茶葉も、島で味わったような香りには遠い。それでも、安全に飲める。それだけでこのドームでは、たいそう重宝されてもいる。たとえば愛妾方へのお礼として贈っても、突っ返されない程度には。

 ポットに水を入れ、湯を沸かす。火を使わないその有り様を、飛嶺は物珍しく眺めている。

[――これはね、電気を使ってるのよ。電気の力で加熱して、お湯を沸かしてるってわけ]

「でんき。どうしてそのでんきってのが、熱に変わるんだ? 元々熱いものなのか?」

 飛嶺の問いに沈黙する。実はホゥジュも、電気がどのように変換されて熱に変わるのか、詳しい原理を説明できる自信がないのだ。

[電気っていうのはエネルギーの元で、それを偉い人が仕組みを考えて、熱に変えるようにしたのがこの機械なのよ]

 ホゥジュは笑顔を作ってポットに手を置いた。飛嶺が感嘆したような目でポットを見ているのに、多少罪悪感が疼く。別に嘘はついてないけれども。

[明かりもそうよ。ここにまできたキャリッジを動かす動力も、電気]

 ついでにそう言うと、飛嶺が少し考え込むように俯いた。かと思うと

「つまり、そのでんきってのを生み出す仕組みが、穢れを生みだしてるってことだな」

 と言ったのだ。そういう風に理解が及ぶとは。

「……うん、そう……」

「そのでんきを生み出す場所に、先代様の遺髪を捧げればいいってことか」

「そうですね……」

 ピーッとポットが電子音を立てて、それに飛嶺がびくっと肩を震わせた。それをきっかけに、ポットからお湯を注ぐ。ティーポットは美しい曲線を描く磁器で、こればっかりは愛妾方からの贈り物を喜んだ一つになっている。ティーセットも同じく。そろそろだろうと見越して、カップは三つ。それに蒸したお茶を注いでいく。

 頃合いを見計らったように、部屋のチャイムが鳴った。

「はーい。入って、姉様」

 端末に向かって声をかけると、部屋のドアがロックを解除して姉を招く。ロックを開けたのは姉の端末だ。ホゥジュの部屋のロックは、姉と父の端末でしか開けられない。父の権限は外したいのだが、こればっかりはどうしようもない。父の端末は、いわばマスターキーなのだ。全ての鍵になる。彼の前に開示されない場所も、情報もない。

[ホゥジュ]

 姉は柔らかそうな水色のワンピースを着て現れた。室内の光では茶が勝っているその髪は、同色のリボンでハーフアップにされている。上品で美しい王女様。父の、自慢の娘。

[おかえりなさい、ホゥジュ。無事で良かったわ!]

 姉にしては珍しく、やや小走りに近づいてきて、ぎゅっとホゥジュを抱きしめた。

[ごめん、心配させちゃったかな]

[するわよ、それは。当たり前でしょう?]

 少し拗ねたような顔をする姉は、どこまでも美しい。だが、こういう顔をするのはホゥジュの前だけだと知っている。普段の姉は、あまり表情を露わにしない人なのだ。無表情というわけではなく、笑顔で武装しているというか。

[――それで、ホゥジュ。こちらの方は?]

 優雅に居住まいを正して微笑む姉に、飛嶺を紹介する。

[こちら、風の島の次期王である、ヒレイよ。父君が母様のはとこだったんだって]

[まぁ! ようこそ、ドームへ。ホゥジュの姉の、ハァルですわ。母の親戚に会えるなんて、嬉しいこと]

 おっとりと優雅に、それでいて目の奥が思案深げに深く染まっている。この姉に実は彼は、ホゥジュの暗殺を狙っていたとか、そういう過ぎ去った些細な過去を追加するのは躊躇われる。

[初めまして、王女様]

 そして飛嶺は、意外なほど礼儀正しくハァルに挨拶をした。初対面で島の老人達と険悪な関係になったホゥジュからすると、ちょっと普通すぎて面白みがない。飛嶺だって後から思い出すと、のたうち回りたくなるような過去を作ればいいのに。

[さぁ、あちらでの話を聞かせてちょうだい、ホゥジュ]

 催促する姉に頷き、それぞれをソファーに座らせる。その前に先ほどのお茶を出して、ホゥジュも座った。

 それから島での出来事を語る。当然、暗殺などの部分は省略だ。今は父が余計な口出しをしてくる前に、母の遺髪を融合炉に捧げたい。感じたこと、懐かしんだこと、苦しかった思い出話はそれからでいい。

[ミタマが、そんなに大きな存在なの? それから、お母様がミタマに、なんて……]

[姉様。急ぐの。父様に邪魔されたくないから]

 ホゥジュの言葉に、俯いて思索に耽っていたハァルは顔を上げた。

[ホゥジュ]

[姉様。母様の計画が完成すれば、病んだ子は生まれなくなる。ドームから外に出ても、生きていけるのよ]

[あなたの推測は分かるわ。でも、もし母様が復讐を考えていたら? 浮気を繰り返す夫とその国に、母様が献身するなんて、本当にありえると思う?]

 ホゥジュは思わず微笑んだ。ホゥジュはずっと、父の不誠実な行動に怒っていた。けれどハァルは違うように見えた。いつもホゥジュをたしなめ、父には父の理由があるのだと言っていた。それなのに、今になってそう言う。つまりは、ハァルも不愉快には思っていたわけだ。

[ふふ、姉様も怒ってたのね]

[まぁ、わたくしも女ですもの。お父様の愛人方を、諸手を挙げて歓迎する、というわけにはいかないわね]

[やだ、早く言ってよ、そういうことは。……でも、母様はそういうことはしないと思う。ねぇ、母様は私達のこと、愛してくれてたでしょ? 私達のために、そして引いては島のためにもなるのよ、ドームの廃棄物を浄化することは。ずっと昔に手順書もなくなって、メンテナンスの仕方も分からなくなった核施設を母様が、ミタマとして再生しようとしてるんだと思う。姉様、信じてあげてよ、母様のこと。復讐なんてちんけなこと、するような母様じゃないでしょ]

[信じたいわ。でも、絶対じゃないでしょう?]

 姉は確実性を重視する。それだけ慎重なのだ。その性格が、今は少し憎らしい。

[じゃあ、万が一復讐だったら、私が母様を止めるわ。核融合炉の暴発を阻止する。私なら、たぶんできるんじゃないかと思う。母様がミタマの道を巡らせてくれた後でなら]

 巡らせる前ならそんなことはできないかもしれないが、その時は母のミタマも力を発揮できないはずだ。

 飛嶺は、ホゥジュとハァルの会話をじっと聞いている。彼にとっては専門用語が多くて、完全に理解できるか怪しい会話ではあるが、島の命運がかかっている。ホゥジュの邪魔をしないよう、じっと控えてくれている――その気配が頼もしかった。

[……どれだけ考えても、解決法はないわね]

 やがて姉は苦笑して立ち上がった。

[姉様]

[おいでなさい、ホゥジュ。融合炉へのエレベーターは、わたくしとお父様の端末でしか起動できない。だからわたくしに相談したのでしょう? 賢い子なんだから]

 ハァルの言葉に、へらりと笑う。実はちょっとだけ思っていたのだ。ハァルには事後報告でもいいかな、と。だが融合炉へのエレベーターを考えた時、ハァルを味方に引きずり込むしかないと、考えを改めたのだ。

[ありがと、姉様。それからお願いがあるんだけど]

[まぁ、他にもあるの?]

 他にもって、お願い事は二つだけなのに、と口を尖らせつつ、飛嶺を目で示した。

[彼。こっちの服がないの。ちょっとでも目立たない方がいいかなって]

[あぁ……]

 ハァルは飛嶺を礼儀正しいさりげなさで観察し、ホゥジュに目を戻した。

[ホゥジュ。彼は服を整えても、目立つことに違いはないと思うわ]

 ハァルの言葉にため息をつく。

 そもそもこのドームでは、黒髪の人間がいない。例外はホゥジュと母、楓樹林だけだ。そこに現れた、黒髪の男性。どんな服を着ていようが、目立つことは間違いない。

[そうなんだけど……でもほら、帽子を被って、遠目には気づかれないくらいの小細工はしたいなって]

[……そうね……でもあなた、どうするの? 先に融合炉へ行きたいんでしょう? 誰かの服を頼むとしても――たとえばルイスに貸してもらうとしても、そんな余裕、あるの?]

[父様にばれないよう動きたいから、少しくらいなら――]

 そうホゥジュが返事をしかけた時、ホゥジュの部屋の扉から異音が聞こえた。同時に室内に、ビーッビーッという警告音が鳴り響く。

[侵入者です。排除しますか。侵入者です。排除しますか――]

 警告音と共に流れるアナウンスが、突如静まる。

[な、なんなの……?]

 驚くだけのホゥジュと違い、姉は扉に向かって立ち上がっていた。一方の飛嶺も、ホゥジュの手を掴んで、テラスの方へ退避している。

[警備システムを誰かがハッキングしてるわ。ホゥジュ、気をつけて]

 その姉の言葉に被せるようにして、扉が嫌な音を立てつつ開く。その向こうに並ぶ顔ぶれを見て、ホゥジュの顔が歪んだ。

「おい、誰だ。味方か」

「敵」

 端的にそう答えると、飛嶺が力を溜めるよう、静かに息を吐いた。

[まぁ、驚きましたわ、ハミルトン侯爵。妹の部屋に、どうしてこのように無理なことをなさったのです?]

 姉の言葉は凜としていた。丁寧な言葉遣いなのに、毅然としている。思わず従いたくなるような王族の威厳があるにも関わらず、ハミルトン候らは耳障りな笑い声を上げた。

[これはこれは、ハァル殿下。我らはクーデターの陰謀を阻止するために参ったのです。あなたを消して王位を奪おうと企む、妹君からね]

[はぁ!?]

 思わず声を上げると、ハミルトン候の目がホゥジュを見た。

[ほれ、卑しい民を引き入れて、殿下を亡き者にせんと企んでおる。卑しき混血の王女めが]

 ホゥジュは諦めたように、はぁ、とため息をついた。真実、諦めている。彼らと対話することをだ。

「飛嶺、逃げられる?」

「楽勝」

 姉に視線をやると、姉は静かに頷いた。姉を連れては逃げられない。それを申し訳なく思ったからだが、姉はそれを理解しているようだ。

「大丈夫よ。わたくしは高貴な餌だから」

 島の言葉でそう告げてくる姉に、苛立ったようにハミルトン候が動く。それと同時に飛嶺が動いた。

 小脇にホゥジュを抱え、テラスに飛び出る。強化ガラスに彼の刃を鞘ごとぶち当て、それで割ったのだ。なんたる非常識。そのまま飛嶺はホゥジュを抱え――テラスから飛び降りた――!

「っきゃぁぁぁぁぁぁっっっ!」

 絶叫、である。

 ドームにはミタマがいない。というか、ごく僅かな力しか持たない。ゆえにパレスの十階から落ちた場合、島と違って生存率がものすごく低い。たぶん、恐らく、絶対に、死ぬ。

 絶叫しているホゥジュの口元を、飛嶺の掌が塞いだ。そのまま器用に刀の鞘を使い、落ちる角度を調節して斜め下のバルコニーに飛び降りる。ぐるん、と回転して立ち上がった飛嶺はそのままホゥジュを抱えて再びテラスから飛び降りる。斜め下へ、ぐるん。それを何度か繰り返し、ホゥジュは無事に地上に到着した。

「――……げほっごほっごほごほ」

 全くの無事というわけでもないかもしれない。確かに肉体上の傷はなさそうだが、精神面でのダメージが大きい。突然の浮遊感と回転、浮遊感と回転の連続なのだ。しかも事前相談のない。

「あ、ありえない……っ」

 うっかり死の淵を見てしまった。あれだけ大変だった島の世界でも、ここまでのことはなかったのに! 

「おい、これからどうするんだ」

 一方の飛嶺は冷静である。うっかり非難しそうになって、ホゥジュはきゅっと口を噤んだ。それから慎重に口を開く。

「……ありがとう」

「あぁ。風の島でもよくやってたから。――いきなりで、悪かったな」

 首を真上にしないと頂上が見えない、高い山を思い出す。あそこでこんな遊びをしていたのか。しかも、飛嶺はホゥジュよりも格段にミタマの使い方が下手だ。その上で、こんな危険なことを。もう一度ありえない、と心で呟いてから、がくがくする足を支えつつ、ホゥジュは立ち上がった。ぼうっとしている場合ではない。この先どうするか、だ。

「――すごく気が進まない、けど。でも姉様のことだから。父様に連絡するわ」

 姉をクーデターから守ると称して、姉を侯爵邸に拉致しそうな気がする。自邸に連れ込んでしまえば、姉をどうしようが彼らの自由だ。そういう過程でハミルトン侯爵の長男が姉の婿になるなんて、絶対にお断りだ。

 端末を取り出し、父の番号を表示する。それから深呼吸をして、思い切って通話ボタンを押した。三度、呼びだし音が響いた。そのまま出てくれるなと、呼び出しておきながらそう祈るように願っていたのに、無情にも呼びだし音は途切れた。

[――なんの用だ]

「うっわぁ」

 開口一番、娘に対する言葉が、それ。思わず声に出してしまったのを、なかったふりをして父に報告する。

[姉様がハミルトン侯爵に連れて行かれた、と思う。助けないと]

 ホゥジュはともかく、ハァルは父の愛娘である。そう報告さえすれば父は動く、と思っていたのだが。

[ハァルならハミルトン如き、いいようにあしらえるだろう。用事はそれだけか]

[ちょっと! 父様!]

[勝手に島に行って、島の民を連れ込んで。お前はなにがしたい。馬鹿娘の後始末をするつもりはないぞ]

 言いたいだけ言って、父との通話が切れた。端末画面に映る自分の顔を見つめる。明らかに怒りに震えていた。

[っっこの、くそじじい!]

 娘の貞操が心配じゃないのか。何かあったらどうするつもりなんだ。ホゥジュはともかく姉にまでそういう対応なんて、いったいどういうつもりなんだ!

 言いたいこと全部をくそじじいという言葉に押し込めて、ホゥジュは長い息を吐いた。平常心、大事。

 それから考える。今しないといけないこと、最優先課題、そのために遂行しなければいけないこと。

「……とにかく、姉様を助けないと。まずはそれが最優先。母様のは、その後」

 母だって、姉を心配していると思う。それに、母の願いを叶えるためには、姉の存在が不可欠だ。

「……あ」

 そうだ、母の遺髪だ。ホゥジュが持っていた遺髪は全て使ってしまっている。姉なら持っているかと思っていたが、その姉は連れて行かれた。だが、そもそも姉が持っているかの保証がない。いざ融合炉に行っても、遺髪がないならどうしようもない。

「あぁぁぁ……えぇと、うん。でもやっぱり、姉様だわ。父様は使えないし、代わりはルイスかな……」

「るいす?」

 しゃがみ込んだホゥジュを立ったまま見守る飛嶺を見上げ、ホゥジュは頷いた。

「うん。姉の婚約者候補筆頭なんだけど。でもなんていうか、やる気がない人なのよ。味方かどうかもちょっとよく分かんないんだけど」

「頼って大丈夫なのか、そいつ」

 言いたいことは分かる。味方だと断言できない人間を頼るのは、怖い。けれどドームの世界で、味方だと断言できる人間なんて、姉と亡き母しかいない。それならば多少の不安には、目を瞑るしかないではないか。

「なにかと引き替えにしなきゃいけないかもしれないけど。でも、能力はある。ハミルトン侯爵を押さえられるのなんて、ルイスのストックトン公爵家くらいしかないから」

 ふぅん、と気のなさげな返事に、強く頷いた。

「うん、やっぱりルイスだわ」

 多少の気まずさはあるが、それはホゥジュの方の事情だ。彼の方でなにかを思うことはないはず。

「こっち。行こう」

 ビルの影にひっそりと置いてあるキャリッジを見つけ、それに乗り込む。パレスは王族が住み、行政機関があるビルだ。公爵家や侯爵家はパレスに一番近いビルにそれぞれ住んでいる。ビルの一棟がその公爵家のもの、という具合だ。一番近いにも関わらずキャリッジを使うのは、身許を隠したいという思惑もある。が、それなりに遠いのも理由の一つだ。パレスの周辺には高いビルを作ることが許されない。だから、近いなりにも礼節を保った距離に、公爵家のビルはあるのだった。

 一区画、と言ったところだろうか。人工芝の植えられた広大な公園を突っ切った先に、ストックトン公爵家のビルはあった。パレスのように真っ直ぐなビルではなく、積み木の三角形を幾つも上に積み重ねたような形状のビルだった。公爵と言うからにはドームの世界で国王に次ぐ有力者なのだが、ストックトンの人間は変人が多い。このビルを作ったのもそういう類いの人間だったらしい。だが逆に、公爵という高位の人間が俗世に興味のない変人、という家系は、王家にとっては好都合だったのだろう。

「変な建物だな」

「入ってみると面白いらしいのよ」

 三角形の角になった部分は下が見える展望スペースになっていて、公爵達はそこでお茶をするのを喜ぶという、なかなかに面白い人間性をしているそうだ。一族もみんなそういう感じらしい。上の角ほどではないが、下に並ぶ角達でもそういう喫茶スペースが作られているとか。

 キャリッジは浮き上がり、一番上の三角形に近づいた。不安定な積み木のてっぺんに立つ三角形は、ぐらりと揺らいで今にも落ちそうな、斜めに歪んだ形をしている。とはいえ、それは外見だけだ。中身は住みやすいように整えられていると聞く。

 不安定な三角形の角がテラス――というか、庭に突き刺さっている。人工芝のその庭にキャリッジは舞い降りた。ホゥジュと飛嶺はキャリッジから降りる。

「おい、どうするんだ」

「下手に部屋に入ろうとすると警備システムが起動しちゃうから、ここで待つわ。たぶん、ルイスなら気づいてくれるんじゃないかと思う」

「……ずいぶん信頼してるんだな?」

 怪訝そうな声に、ホゥジュは曖昧に笑った。

「まぁ……変な人なのよ、ルイスって。変だから、島の混血な私達にも、普通に接してくれてるっていうか」

 そういう態度なので、ホゥジュもついうっかり初恋を捧げてしまったりしたのだが。それは過去の話。

「でもそういう人だからって、信頼できるかどうかは分からない。差別を表に出さないってだけの人かもしれないし」

 なにせホゥジュは王女だ。妹とはいえ、王女というだけで利用価値がある、と思う人間だっているだろう。

 ハァルが早世したら。ハァルに子どもができなかったら。そういう理由でホゥジュにもたらされる縁談もけっこうあったのだ。まっぴらごめんだったが。

 適温に保たれたドームで、人工太陽の日差しが柔らかく降り注ぐ中待つことしばし、テラスの扉が開いた。

[誰かと思えば……ホゥジュ]

「ルイス。久しぶり]

 現れたのは、痩せぎすな猫背の青年だった。見るからに無気力そうで、伸ばしているというよりも切るのを億劫がっているだけに見える金髪が、目をほとんど隠していた。

[髪、伸びたのね]

[切ってない]

[やっぱり]

 思わず笑って、それから姿勢を正す。

[ルイス、お願いがあるの。中に入れてくれない?]

[ハァルのこと? ハミルトン邸に招かれてるそうじゃないか]

 的確な言葉に苦笑する。ただ怠惰なだけの人間ならばまだ信頼もできるのに、こういう的確さが、彼はただそう擬態しているだけなのではないかという疑惑を招くのだ。

[そう。姉様のこと]

 ルイスはしげしげとホゥジュを見下ろした。猫背なのに、それでもホゥジュより頭一つ分以上高い。その髪の隙間から覗く青い目が、どこか物珍しそうにホゥジュを見ていた。

[……珍しい。僕に頼るの、ホゥジュ?]

[大切なことだから]

 これまで、見て見ぬふりをしてきた。たぶんお互いに。その擬態を解く時ではないかと思うのだ。それで賭けに負けたら? ぎゅっとホゥジュは拳を握った。たぶん、ルイスは妨害まではしないと思う。協力しないとしても。

 でも、妨害してきたら? そうなったら……今は、引く。母の遺志を叶えたい。そのために一刻も早く、と思うけれど、早くできないのならば、時間をかけるだけだ。

[――いいよ。おいで。話を聞こう]

 丸めた背がこちらを向く。扉を開き、ホゥジュらを招く。戦いに赴く心地で、ホゥジュは扉をくぐった。


 招かれた部屋は応接間だった。

 ルイスは二十五歳。まだ若いが、ストックトン公爵家の当主でもある。というのも先代はルイスが成人して早々に家督を譲り、今は趣味に生きているという。それもどうかと思うが、今この時ばかりはありがたい。

[それで? ハァルを助けたいってこと? でもハァルなら適当にあしらえると思うよ。ハミルトンの長男なんて、単純だから]

 他ならぬルイスにまでそう言われ、ホゥジュは渋面を作る。

[そんなの分からないじゃない。ほら、乱暴とかされたら……]

[このドームの男で、ハァルの蛇を見てもまだその気になる人間なんて、そうそういないと思うけど]

 ホゥジュは口を引き結ぶ。そういう問題じゃない。野心家にあんな可愛いサイズの蛇が威嚇になるなんて、ホゥジュにはとうてい信じられない。

「蛇? 御使いのことか? でもなんで? 先代様の娘だろう? 虎じゃないのか」

 そして飛嶺はルイスという男の観察を終えたらしい。気負いなく会話に入ってきた。マイペースなだけではないと思う。恐らくは彼のお眼鏡に叶ったのではないだろうか。

 というのも、ルイスはきちんと飛嶺にも茶を供しているのだ。普通の貴族なら、島の民を同じ部屋にも上げないだろう。

[みつかい……御使い、かな? ふぅん、やっぱりなにか、決まりがあるんだね?]

 飛嶺は島の言葉を聞き取られたにも関わらず、慌てた様子もない。試したのだと気づいて思わず笑みが浮かびそうになり、ごほんと咳払いをした。

「ホゥジュ様は風の虎だ。ハァル様は蛇というなら水なのだろう。先代様のお子なのに、珍しいことだ」

[そうなのかい。風というのは、属性ということかい? ホゥジュとハァルは違うということ?]

「属性……という考え方をしたことはなかったが、そういうことなのかもしれない。とにかく、違う」

 異なる言葉だが、互いに相手の言葉は聞き取れるらしい。それで会話が弾んでいる。二人の知り合いを結びつけているのはホゥジュなのに、奇妙な疎外感を覚えて再び咳払いをする。

[とにかく! 姉様を助けてもらえない? 姉様に用事があるの。大切な]

 軌道修正するためにそう話しかけると、ルイスの方が飛嶺との会話を惜しむような顔をした。一般的にルイスは、このドームの世界で変人と呼ばれる人間だが、彼はただ、好奇心が旺盛なだけなのだと思う。彼の好奇心はドームの中だけに留まらない。それなのに彼は、ドームの中でしか生きていけない。だからこそ、外からもたらされる知識に貪欲なのだと思う。ホゥジュら親子に彼が親切だったのも、その知識欲を満たすためだったのだろうと思う。

 だが。

 ホゥジュは彼の、その旺盛な知識欲を不安に思う。貪欲な欲求が、世界を飲み込むドームの人間らしいとも思うのだ。彼が今蓄えようとしている島の知識を、どう使うか。それがいずれ島にとって、著しい不利益になるのではないか。そのようにも思う。彼にドームの外に出る、翼を与えていいのか。それが本当に、世界にとって正しいことなのか、ホゥジュには自信がない。けれど、その可能性を示唆すれば、きっと彼は動く。

[僕に協力してほしいのかい? でもたとえばハァルを僕が積極的に助けたとしたら、ハァルに逃げ場はなくなるんじゃないかな?]

[だから、あなたと分からないようにしてほしい]

 ルイスは婚約者候補筆頭だ。筆頭なのに候補に留まっているのは、彼が積極性を見せないからだ。彼が少しでも積極的になっていたら、きっと今頃ハァルの結婚相手は決まっている。そしてそうしないことが、ルイスの好意によるものだとも気づいている。たぶんハァルに、選ぶ自由を与えようとしてくれているのだろう。

[それはちょっと、ホゥジュ。君に都合良すぎない?]

 さすがのルイスも顔をしかめた。無償で何事かを施す、ということをドームの人間は嫌がる。無償の献身は家族に向けてだけ。あとは有形無形の報酬を得ようとするのが、ドームの貴族達だ。

 じっとルイスを見つめる。母は、どう思うだろうか。ルイスに翼を与えてもいいと、母は思うだろうか。


『さぁ、かえりましょう』

 そう言うと、すぅぅ、と母が最後の息を吐いた。

 母の最後の呼吸を、ハァルとホゥジュは一緒に見守っていた。本当なら、父もいるはずだった。大切な人との別れを、自分たち姉妹だけで耐えなければならない。そのことを想像すると苦しくて息もできないように思うのに、母は父を呼ぶのを禁止した。

 あの農園の、あのベッドの上で、母は最後の息を吐いた。その吐息が、あの農園にはまだたゆたっているような気がする。

『どうしてここだけ、浄化されてるんだろう』

 母がまだ元気だった頃、母の特別な許可を得て、ルイスが見学に来たことがあった。その時のホゥジュはまだ少女で、ルイスに密かな思いを捧げていた。だから母と姉妹だけの場所に、彼がいるのが嬉しかった。特別な場所に、特別な人がいる。そのことが特別に嬉しかった。けれど、ルイスの目は。結界に覆われた、浄化された空間を、どこか途方に暮れたように見つめていた。

『昔、世界は全部こうだったそうだよ、ホゥジュ。昔々、空から星が降ってくるまで、世界はこんな風だったんだ……』

 憧れと、諦めが混在しているような目だった。


[外に、出たくない?]

 かつての想い人に、そう問いかける。窮屈に丸めた背が、びくりと震えた。

[私の計画が成功すれば、外は浄化される。そう言ったら?]

 あの時見た、あの目を思い出す。あの目をしたあの人なら、信じられる気がする。でも、人は変わる。変わってしまう。それでも変わった先で、あの目を心の底に、隠し持っていたとしたら。

[――なにを、僕にしてほしい?]

 丸まった背が、伸びた。鬱陶しそうに前髪をかき上げ、鮮やかな青色がホゥジュを射る。

[姉様を、解放してほしい。それから、この飛嶺にドームの服を貸してほしいの。それと、大聖堂へ侵入する手助けをしてほしい]

 無気力そうな雰囲気は鳴りをひそめたが、かといって気力旺盛というわけでもない、ごく自然な様子でルイスは頷いた。

[分かった]

 そこそこに難しいことを頼んだはずなのに、彼はごく簡単そうにそう頷いたのだった。


 ルイスの服を借りて着替えた飛嶺は、奇妙な魅力を放っていた。

「……予想外に似合う……」

 少し不本意でもある。映画の中に出てくるような、見慣れない服を着ているとそうとも思えないのに、見慣れたドームの服を着ているからこそ、こんな飛嶺でもそこそこに見えてしまう。まことに不本意である。

「あぁ?」

「なんかむかつくから謝って]

「どこの暴君なんだ。……それにしてもなんでこんな変な服、着たがるんだろうな。窮屈でたまらない」

 首元が窮屈そうだ。肩も回していて、その度に顔をしかめているから、動きがかなり制限されているように感じるのだろう。

[なかなかハンサムな子じゃないか]

 ルイスが楽しげにうそぶいている。整髪料で飛嶺の髪を整えてやったりしていて、さすがにそこまでされてルイスに、島への偏見があるとは思えなかった。そういう演技をする必要がないと思うし。

「帯がないから困る」

 刀をさす帯がないから、彼はずっと刀を手に持っている。凶器を持った不審者で即刻通報されそうな姿である。

[ふむ……では、これはどうかな]

 ルイスがいそいそと飛嶺にレーザーソードを出してきた。柄の部分だけの剣で、刃がない。柄のボタンを押せばレーザーが出てくる仕組みだ。

[これは制限を外しているから、対人にも使えるよ]

[ルイス!?]

 一般のレーザーソードは、人には使えないよう制限がかけてある。人感センサーがついていて、人に当たりそうになると消える仕組みになっているのだ。それが、消えないという。

「へぇ?」

 飛嶺が楽しそうにレーザーを出して、試し斬りを始めた。斬られた紙が、じゅっと焦げたようになってひらひらと舞い降りてきた。ものすごく危険である。

[ちょっと、ルイス。危ないわよ。正直、過剰戦力だわ]

[君の、外を浄化するっていう計画。なにがなんでも成功させてほしいと思うんだよね]

 にこりと笑う目を見て、ホゥジュは色々諦めた。

 ハァルの件にしても、ルイスは簡単に解決してみせた。ドームの世界では、コミュニケーション用のツールがある。そのツールにハミルトンの、悪い噂を流したのだ。出所を不特定にばらけさせて。

[さすがに今日の明日でハァルがすぐに戻れるかどうかは、ハミルトン家の危機管理能力次第だと思うけど。僕としてはもう少し情報拡散させたいかな]

 穏やかに微笑みつつ、この際だからきっちりハミルトン家を潰しとこうと思っていそうなあたり、まことに油断のならない男ではある。とはいえ、おかげで姉の解放の目処が立ったわけである。しかも時間もある。というわけで、懸念だった遺髪の件に取りかかろうと思う次第だ。

[ねぇルイス。本当に大丈夫なの?]

[大丈夫。ちょうど夜八時から一時間だけ、警報システムを切るようセットしといたから。その間に大聖堂の奥まで行けるよ。何かあったらヒレイが斬ってくれるはずだし]

[斬っちゃ駄目でしょ……]

 飛嶺が殺人行為をこのドーム内で犯したら、大変なことになる。いち早く逃げて、二度とドームに戻って来ないようにしなければ、即刻捕まって刑に処されるだろう。このドーム内で逃げ隠れするのは無理がある。だからあのレーザーソードの出番はないのが大前提なのだが。

[それにしても、大聖堂にどんな用事があるのかな? 金目の物が目的じゃないだろうし、王族の棺しかないのに、まさか墓荒らしでもするとか?]

 にこやかな探りの声に、ホゥジュも微笑んだ。

[一人で母様に会いたいだけ。葬儀ではあんなことになったし]

[あれは君のせいじゃないかなぁ……]

 厳粛なる王妃の葬儀を台無しにしたのは、他ならぬホゥジュである。反省はしていない。

[だって、おかしくない? どうして妻の葬儀に、愛人連れて出席するの? 意味分からない]

「愛人……」

 飛嶺がぼそりと呟きながら、ソードを振っている。どうやら素振りをして感覚を掴んでいるようなのだ。身綺麗にした部分が全力で無駄になっている気がする。

[最近お気に入りの、スノードン伯爵家の令嬢だね。純血主義の急先鋒。うまく娘が身ごもれば、島の血を引かない純血の王族が生まれることになるって、そりゃあ張り切っていたね]

[ばっかみたい!]

 そんな愛妾を王妃の葬儀に伴うなんて、どれだけ母を冷遇すれば気が済むのか。死んでまで。

[そういう希望があるから、君達が殺されることがないんじゃないか]

 相変わらず穏やかな微笑みを浮かべつつ、ルイスがそう言った。

[なに……]

[純血の王族が生まれるかもしれない。そういう希望があるから、君達混血の王女は見逃してもらえてるんじゃないか。王妃もそうだよね。島の王妃なんて暗殺すればいいだけだ。それなのに黙殺ですんでたのは、愛妾の娘達が正当な血の王子を生むかもしれなかったからだろう? 王妃を殺してしまえば、今度は王妃争いが激化するから。それは避けたかったんだよ、彼らも]

 ルイスの言葉に沈黙で答えるホゥジュに、彼は首を傾げた。まるで無邪気な少年みたいに。

[いくら愛してたからって、よくあの人を王妃にできたよね、陛下も]

[そんな話――]

[――聞きたくない?]

 小さな子どもをなだめるような声音で言われ、言葉がぐっと喉に詰まった。

[でも、聞かなきゃ。君はもう、子どもじゃいられない。だって僕は、子どもの味方はしたくないからね]

 穏やかな笑顔は、少しも優しくない。優しくないのに、彼は確かに味方になってくれたのだと、そんな風に感じた。そのことが悔しさをさらに増す。

[そういう理屈を、受け入れたくない。もっともっといいやり方があったはずだもの]

[それはあったと思うよ。君の母上を愛人ですませておけば良かった。農園の管理人兼愛人にね。そうすれば周りだって、不愉快な思いをせずにすんだよ。混血の王女なんて不名誉だ。そう感じる人間がほとんどの世界だろう?]

[っ!]

 思いっきりルイスを睨みつけた。そんなことはない。ありえない、と主張したかった。けれど、ドームで生きてきた年月が、最も穏やかな解決法をホゥジュに囁くのだ。そうすれば母は、もっと穏やかに人生を全うできたと思えるのだ。

[でも、それだと。たぶんだけど、君が今考えている計画は、思いつかなかったんじゃないかな。君が王女だったからこその計画なんじゃないかな。……上手く言えないけど、僕にはそんな風に思える。だからあの人が王妃でいてくれたことが、ありがたいことだと、僕には思えるよ]

 ホゥジュが王女でなければ。母が王妃でなければ。……どうなっていたのだろう。母はこの計画を思いつかなかったのだろうか。

 想像する。母が農園でひっそりと暮らし、父が訪れてくるのを待つだけの生活を。農園でホゥジュとハァル、母の暮らしは満たされて、そこに時折父が混ざって。

 平穏だったろう。愛人という立場の心許なさはあったとしても、穏やかに生きていけただろう。そして……母は、かえろうと思っただろうか。島を巡らし、ドームにまで恵みをもたらそうと願っただろうか。ドームの問題点に気づけただろうか。全くの部外者が。

[……分からないわ……]

[うん。まぁ仮定の話だから。どのみち君の計画は成立してたかもしれないけれど、でも王女じゃなかったら、ドームに入るのさえ大変だったかもしれないと思って。計画遂行のためには、王女で良かったんだよ、君が]

 全然優しくない笑顔を見つめ、それから自分の掌を見つめる。全然優しくないように感じるのに、まるでルイスは全部を肯定しているように思える。母が王妃だったこと、その苦しみ。父の冷遇。それら全てに意味があって、それがホゥジュの、母の遺志を叶える助けになっている。まるでそういうことが言いたいみたいだ。

[……私は。それでも、やっぱり父様は許せない]

[別にいいけどね、それでも]

 ホゥジュを特別説得したいわけでもないような言葉に、肩すかしにあった気分になりつつ、ホゥジュは息を吐いて気分を切り替えた。


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