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土の島



 その夜は、ボートで眠った。

 警戒していると全身で主張するような行動が、馬鹿らしくなったからだ。自棄になったともいう。

 翌朝、海の上には濃い霧がかかった。その中を、きらきらと輝くミタマが漂ってきた。

「……なにあれ」

「長の御使いじゃないか?」

 自棄になって身を預けてみれば、飛嶺は世話好きな甲斐甲斐しい一面のある男だった。今も朝食の準備を器用にしていたが、その輝きを見てそう解説している。

「お前のその虎みたいに、長を守るミタマを長の御使いと呼ぶんだ。……ほら、ちょっとゆっくりだけど、亀だからだな」

 言われて海面に目を移すと、大きな亀のような姿をしたミタマが、海に浮かびながら進んでくる。黒い亀で、その表面が金属みたいにぴかぴか光っている。

「長って、土の?」

「亀だから、そうだろ。水は蛇だし、風は虎だ。それで土は亀。そういう風に、決まってる」

「そうなんだ……トラ。ライオンだと思ってた」

 コチのふわふわの毛皮を撫でる。確かにライオンにしては顔の回りが寂しい。縞模様も入っているし。トラという獣がどんなものかは知らないが、ずいぶん綺麗な生き物だと思う。

「来たな。案内してくださるようだ」

 ボートのへりまでやってきた亀は、顎をしゃくるような仕草をした。どうやら挨拶をしているようだ。それから向きを変え、もと来た方向へ帰っていこうとしている。時折首を伸ばしてこちらを見ているので、ついてきているか確認しているようだった。

「なんか、可愛い」

 のたのたと短い足を、どうやら一生懸命動かしているらしい。その仕草が可愛らしい。亀の進度に合わせて風を帆に当てると、忍びやかな吐息が届いた。飛嶺の方を見ると、その頬に笑みの余韻が残っている。

「なによ」

「長の御使いを可愛いなんて聞くのは初めてだと思ってな。普通は恐れ多くてひれ伏すもんだが」

「あなた、ひれ伏してないじゃない」

「俺は風の民だ。風の長以外に頭は下げない」

 誇り高い、と一目で分かるような目をしている。好感の持てる目だが、いかんせんこの男はホゥジュの命を狙ってもいるのである。長に向けるのと同じ誇りが、ホゥジュの命を断てと言っている。

 哀しいな、と思う前に、ホゥジュは

「お腹空いた」

 と訴えることにした。


 亀の泳ぎに合わせて進むうちに昼食もボートで済ませ、海岸についたのは昼過ぎだった。

 そこは小さな湾で、木立に守られて隠れるような場所だった。岸辺に杭が一つ二つだけ打ちつけられている小さな泊まりにボートをつけ、二人は舟から下りた。

 亀は地に足をつけると同時に、これまでが嘘のような足取りの軽さで素早く進んでいった。

「は、速い!?」

「土の御使いだからな。大地がある方が、力は増すんだろ」

 言いながら走り出す。ホゥジュはコチに乗って進んだ。それほどに速い速度だったのだ。

 亀は獣道のような場所をすいすいと進み、それから小さな洞穴に案内した。枯葉で入口を隠してある洞穴で、木々をくぐってそこに入ると、中は意外なほど綺麗だった。土と思いきや、石畳で整備されている。その石も綺麗に磨かれた黒曜石のようで、踏んでいいのか躊躇うほど。そこを亀が驚くほどの速さで進んでいく。亀が進むと同時に、洞窟の上部に明かりが灯っていく。天井まで黒曜石でできた、美しい洞窟だった。夜空の中を進んでいくみたいだ。

 しばらく、十分ほどだろうか。幾度か道は直角に曲がりつつ進み、そうして出口に辿り着いた。その出口も枝で覆われ、そっと葉を退けると、下に向かう梯子が見えた。縄梯子で、飛嶺がそれを解いて下に垂らした。そのまま彼はするすると降りていき、

「大丈夫だ。降りてこい」

 と声をかけた。ホゥジュの安全に気をつかうその有り様がまさしく護衛のようで、最後までは殺さないと言っていた言葉を保証するかのようでもあった。

 縄梯子を使わず、ふわりとミタマの力で舞い降りる。

 そこは森の中に開けた広場のような場所だった。太い木々が周囲を囲い、広場自体にも下草が生い茂っている。そのごく中央部だけ芝生のように柔らかい草が生え、そこに敷物を敷いて一人の男性が、端正な居住まいで座っていた。その男性の側に、亀が這っていって座り込む。ふぅ、とでも言いたげな、一仕事を終えたような風情だ。

「……おかえり、(ふう)(じゆ)(りん)

 通る声が、そう囁いた。木々の間を通り抜ける風のような静けさだった。男性にしては少し声が高いような気がする。

 胸元に手を当てる。固い箱の向こうで、母がただいま、と言ったような気がした。

「こちらにおいで、可愛い子。よく来てくれた。()(すい)()が知らせてくれて、本当に助かったものだ」

 安堵を滲ませた声で、ホゥジュらを呼ぶ。その声に従って、ホゥジュは彼に近寄った。後ろで飛嶺が腰を下ろし、控えるような気配がする。

 側まで近寄ると、もう一つの敷物がふわりと飛んできた。男性がそれを指し示す。

「さぁ、そこにお座り。最後の一日を、これほど悔いなく終えられることになるとは、想像もしていなかった」

「あの……」

 言葉に含まれる意味に戸惑うと、男性はほんのりと穏やかに微笑った。

「あぁ、まだ名乗っていなかった。我は(とう)()。可愛い子、名前を教えておくれ」

 可愛い子、と彼が呼ぶたびに、彼がホゥジュの存在を心から慈しんでくれているのが伝わる。

「ホゥジュ、です。こちらでの名前は、(ほう)(じゆ)(りん)

「宝樹林。宝だね? 楓樹林の愛した娘。心から歓迎しよう」

「……私は、ドームの人間です。母は、島を裏切った身の上で……」

「だからどうだと言うのだね。我が楓樹林を心から愛したことに変わりはないし、楓樹林の娘を歓迎するのにいかなる障りもない」

「母を、愛していた……」

 ここまで直接的に、母を愛していたと言う人に、初めて会った。

「愛していたよ。溺れる者が流木にしがみつくような愛だったろうが、それでも我にとっては本物だった。彼女が誰を愛そうが、それで終わらせられるほどの思いでは、なかったのだよ」

 母への愛を語る桐夜の姿に、哀しさが滲んだ。流木にしがみつくような愛、と自嘲した。もっとよい愛し方があったのに、それを見つけられずに終わった、と言いたげな様子だった。

「そこにいるのだろう、楓樹林。会いたかった。最期の日にこうして会えるなど、どれほどの喜びを我にもたらしてくれたことか。ようやく会えた。ようやく、終わらせることができる……」

 ほぅ、と桐夜が息を吐いた。それから居住まいを正す。

「だが、時間がないのも事実。可愛い子。そなたの用事を終わらせよう。聖域に赴き、楓樹林の欠片を捧げるのだろう?」

 ホゥジュは頷いた。

「はい。お許しいただけますか」

「もちろん許す。だが、一つだけ願いがあるのだ。私も同行させてほしい。楓樹林の欠片が土の島を巡る様を、この目で確認したいのだ」

 母の欠片が島を巡る――ホゥジュは、聖域で母の遺髪が輝きながら溶けるように消えていく瞬間を思い出した。溶けて、聖域から島を巡っているのだろうか、母の遺髪は。母の存在は。

 かえりましょう、と母は言った。かえるとは、生身の体を捨てて、この島の世界を巡ることだったのだろうか。

「それは、もちろん」

 ホゥジュは頷いた。今さらながらに、どうして母があのような言葉を遺したのか、考えてしまう。初めは単に、墓のつもりなのかと思っていた。ドームの世界で墓を作られるのが嫌で、島の世界に墓を残したいのかと思っていたのだ。けれど、それよりももっと、深い意味があるのだとしたら。

「おいで、可愛い子。聖域はこちらだよ」

 桐夜はゆったりと立ち上がった。成人男性の中では、それほど背は高くない方だろう。中性的な、おとなしやかな男性に見える。それなのに、何故だか不思議と、父を感じさせた。一方的に注がれる、無償の愛。そういったものを感じてしまうのだ。本当の父からは、感じたことのないものなのに。

 桐夜はゆったりと、森の奥へ入っていった。巨木が幾つも立ち並び、その木々の向こうにゆっくりと日が沈んでいく。赤い夕焼けに木立の黒が、鮮やかに映えた。

「さぁ、こちらだよ」

 しばらく歩くと桐夜はそう言った。巨木と、黒く豊かな土壌。それが混在する場所。巨木の中でもさらにひときわ大きな木が根を広げ、その木は半ばを朽ちさせていた。その朽ちた中身に、黒く豊かな土壌が溢れている。

「これが、土の島の聖域だ。大きく木を育て、それが朽ちることで豊かな土壌が生まれる。育ち、朽ちる。その循環が豊かな島を作るのだよ」

 桐夜がそっと手を伸ばしてきて、ホゥジュはその手を握った。そうするのが自然なことに思えたからだ。

 手を握ったまま、桐夜はその巨木の洞に踏みいった。ふわりと温かに沈む土壌が、二人を飲み込んでいく。まるで、母なる大地に還るかのよう。温かく湿った土壌の中を下り、やがてゆらゆらと輝く光を見つけた。

「これが、命だ。万物を生み出す命。その源」

 胎動しているように、どくん、どくんと光が揺らめく。炎のような、けれどそれとは全く違う光が揺らめいていて、ホゥジュは遺髪を握った手を伸ばした。

 紐で括られた髪が、ふわりと光を帯びた。夜空のように美しい光。それがふつふつと弾けるようにして、溶けて消えていく。

「――おかえり、楓樹林」

 最初に言った言葉を、桐夜は繰り返した。胎動する光と、母の光が混ざり込む。光は、よりいっそう温かな色を帯びたような気がした。

「母様……」

 光の中に、だが母は留まっている。流れ、巡るにはまだ何かが足りないのだと、悟った。ホゥジュの中に推測が積み上げられる。

 母は。裏切るしかないのだと、絶望の中ドームへ逃げた母は。遺髪を聖域に捧げ、そして聖域に溶け、それから巡り――母は、変わったのではないか。泣いて絶望して逃げた母は、変わったのだとしたら。もしかしたら、ホゥジュ達を生んだことで、変わったのかもしれない。糸翠花のように。

 ホゥジュの中にうっすらとした推理が始まる。だが、まだ確証は何もない。本当に桐夜の言うよう、巡るのか。巡った先に、どこを目指しているのか。それが分かるならば。

「戻ろう、可愛い子。もうすぐ時間が来る」

 繋いだ手を、優しく引かれた。

「時間……」

「そう、時間」

 柔らかい土壌を今度は、昇る。風の膜に隔てられてするすると昇っていく二人に、柔らかい土壌は温かさを伝える。二人は大樹の洞に戻っていた。

「ほら、このように巨木は朽ちて、豊かな土となる。それが定めだ。長と王も、そのような定めなのだよ。どれほど巨木が朽ちるのを厭うても、どれほど土を食んで伸びるのを厭うても、定めは変わらない。そのように循環することが、我らの定めなのだよ」

 王と長の定め。土の民の。

 ホゥジュは桐夜を見上げた。繋いだ手を、ぎゅっと握りしめる。

「それは、政権交代の話? そんなの、従う必要はない」

 桐夜の手を握ったまま、踏みとどまる。元いた場所に彼が帰る。それこそが引き金ではないかと思って、その場に踏みとどまった。

「摂理なのだよ、可愛い子。誰も喜んで従うわけではない。けれど、冬の次には春が来ねばならない。夏でも秋でも、許されないのだよ。そうして土の民は、これまでずっと生きてきた。季節の恵みに、厳しさに、同じように敬意を払って」

「間違ってる。誰かが死ななくても、季節は巡るはずだわ」

 桐夜は、じわりと滲むように微笑った。

「あぁ、愛しい子。楓樹林も同じように言っていた。同じように、我の定めを憂えてくれた。そうだな。もしかすると、我で終えられるやもしれぬ。かつてこれほどに、互いの定めを愁いあった王も長も、いなかったのだから」

 繋いでいない方の手が、優しくホゥジュの頭を撫でた。泣きたいほど優しい温もりだった。

「行っちゃだめ」

「愛しい子。終わらせるために、これは必要な痛みなのだよ。楓樹林が島を去ったのも、きっと同じような痛みだったのだろう。終わらせるための痛み。我も還ろう。痛みの果ての、幸せを願って」

 ふわり、と桐夜の手が光った。それと同時に目眩を覚える。くらりと傾いた体を桐夜が抱き上げ、するすると進んでいく。

「とう、や……」

「大丈夫。すぐに終わる。目が覚めた頃には、我は命に還っているだろうから」

 柔らかい声が降ってきて、それから飛嶺の声がする。

「すぐにあの道を通って、ここから脱出せよ。……(だく)()は無駄な殺生はせぬ男だ。万一見つかっても、手出しするとは思えぬが、見つからぬならその方が互いに安全だろう」

「土の長様」

「この子を頼んだよ。風にも様々事情はあろうが、誰ぞの命を犠牲にしなければ進めぬ定めは、そう多くない。我らで終わりにすべき定めを、決して引き継がぬよう」

 沈黙の後、飛嶺の声がした。

「……できる努力は、いたしましょう」

 それきり、ホゥジュの意識は落ちていった。


 映画を観ているようだった。

 暗闇の中、一人の少年にスポットライトが当たる。端正な顔立ちの少年は、先ほど別れたばかりの桐夜によく似ていた。

「葉は、生えかわらねばならない」

 その先に、一人の男が跪かされている。悔しげに、憎しげに桐夜を見上げるその顔は、桐夜の血縁らしい近しさがあった。

「いつか、我が子が復讐を遂げる……!」

「幼い濁翅に、重荷を背負わせる気か」

 哀しげな顔をしつつ、桐夜は毅然と命じた。首を刎ねよ、と。

 暗闇に、再びスポットライトが当たる。今度は二人の少年に当たっていた。少年と、子どもだ。幼いとさえいえる子どもが、桐夜に抱かれていた。

「葉が生え、それが落ちる。落ちた葉は土の養分になって、豊かな土壌になるのだ」

「父様は」

「……そなたの父様は、落ちた葉になってくださったのだ。豊かな土壌となるための」

 髪を撫で、頬を濡らす雫を拭う。

「そしていつか我も、落ちた葉となって豊かな土を作るのだよ」

 額をくっつけあって、誓うように桐夜がそう告げる。その頬に、幼いふっくらとした手が添えられた。

「そんなの、いやだ。ずっとずっと、落ちない葉でいて」

「落ちない葉はないのだよ、濁翅」

「いやだ!」

 ぐずる幼児に、ほとほと困惑する桐夜の気配がする。そして、抱きしめる。

「それでは約束しよう。そなたがもういいと言うまで、我は落ちぬ葉となろう。だから、もう泣いてはいけないよ」

 うん、と頷く幼い子ども。桐夜の後ろ首に回った、ふっくらとした幼い腕。抱きしめ、抱きしめられた二人には確かな絆があるように見えるのに。

 どうして。

「――……ぅして……」

 嗄れた声に、目が覚める。それから跳ね起きた。

「っここは……っ」

「起きたか」

 かけられた声は、飛嶺のものでも桐夜のものでもなかった。

「――誰」

「運が悪いことだな、風の新たなる長姫よ。よりにもよって、代替わりの瞬間に居合わせるとは」

 声をかけてきたのは、青年だった。飛嶺と同じか、それよりも幾ばくか年長なほどの。その顔に、幼児だった頃の面影はない。ないが、纏う気配で悟った。

「……濁翅……」

 呼ばわった名前に、青年が苛立たしげに眉をしかめる。

「風の民はどのような教育を施しているのだ。他島の王を、許可なく呼び捨てにするとは」

「呼ばわったわけではなく、確認しただけだろうと思われる。土の長がそのように呼ばわっていたのだから」

 庇うような飛嶺の声がした。彼もすぐ横にいたらしい。

「――桐夜は!?」

 勢いよく立ち上がった。そして回りが布に囲まれた天幕だと気づく。そしてその天幕ではとても隠せない、焼けた匂いが漂っている。

「っ!?」

 棒立ちになる男達に目もくれず、天幕を飛び出る。すでに日は暮れていた。その闇の中、森の向こうに、火が燃え盛っていた。

「コチ!」

「おい、やめろ!」

 叫んで止めようとする飛嶺に捕まる前に、コチに跳び乗る。そのままコチを宙に走らせて――だが、燃え盛る森の何歩も手前で、コチは止まった。ミタマが近寄ることのできない空間が、そこにあった。

「――っ、桐夜!」

 叫ぶ。届かないと知ってはいても。水を呼ぶ。届かず消せないと分かってはいても。

「桐夜!!」

 必要な痛み。本当に? それが正解だったかどうか、どうやって分かるのだ。大切な人が、もういないのに。

 コチから降り、駆け出す。森の中、その最奥に端然と座った桐夜の姿が思い浮かぶ。還らなくていい、まだ。こんな風に別れることを、いったい誰が望むというのだ。母だって早すぎると怒るに違いないのに。

「待て、宝樹林!」

 踏み出した、ミタマのいない森の中、ホウジュはあっさりと左の腕を捕らえられた。この男に名前を呼ばれるのは、そういえば初めてではないかとぼんやり思う。

「この空間の中ではお前も、ただの人間と変わらない。大聖域に、行くんだろ。まだ死ぬな」

 たしなめてくる、平静な顔を呆然と見上げた。

「どうして、おかしいって思わないの……?」

「土の島の決まりだ。他島のことに口は出さない」

 尊重しているからそう言うのだろうか。それとも変えようもないと諦めているから? もしくは関係ないと見放している?

「誰かが死ぬのが、どうして当然だって思えるの」

「当然なわけない。そうは思わない。誰も死なないならそれが一番いい。けど、そのせいで何か大切なものが壊れるなら、そうしなきゃいけない時もある。誰かの犠牲を惜しんでばかりだと、前に進めないことを俺は知ってる」

 ずっと、島の世界は楽園だと思っていた。そうではないと言われても、それを受け入れたわけではなかった。けれど。

「――ここは、楽園じゃない……」

「言っただろ、そうじゃないって」

「ドームより島の方がいいって思ってた。ドームは腐っててひどいところだって。でも、島の方がひどい。ドームは、ここまでじゃない……」

 ドームの狭い世界では、弱い者を傷つけて楽しむような嗜虐的なところがあった。でも、その世界の安寧を担保するために、誰かを生け贄にするほどひどいところじゃなかった。

「白き民みたいに俺達は、世界を喰らったりしない!」

「その代わりに誰かの命を捧げるの? 世界を喰らう代わりに?」

「世界と一人の人間とじゃ、重さが違うだろ。それくらい、分かるだろ、子どもじゃないんだから」

「世界と、人間……」

 世界と人間は、比ぶべくもない。世界が滅びたら人間は生きていけないけれど、人間が滅びたって世界はびくともしない。だから――だから、人は死んでいい? 誰かの犠牲の上に、安寧を享受してもいいのか?

「選ばれなかった人間は、どうなるの。ドームは世界を犠牲にした。そういうことなんでしょ。人間を犠牲にしない代わりに、世界を犠牲にして貪ってる。それがいけないことは、私にも分かってる。でも、世界を守るために、選ばれなかった人は、どうなるの」

 殺される、と水の聖域で聞いた声を思い出す。長にならなければ殺される。そう言って、生き延びられるかどうか分からない危険な場所へ、命を危機にさらしながら向かった巫女達の、恐怖に満ちた声。

「誰も犠牲にせずに進めるほど、この世界は人間に優しくない。……お前には分からない。ミタマを操れるんだから。力が、あるんだから」

 飛嶺は顔を背けた。そこに、ホゥジュの顔を真っ直ぐに見ることができないという、後ろめたさを感じた。

「……あなた……飛嶺。あなた、弱いのね」

 ホゥジュの監視役にして、暗殺者。怖くないと虚勢を張っていたけれど、初めて飛嶺をまじまじと見つめた気分だった。

「あぁ?」

「そうか、弱かったのね。あなたも、あの老人達も。だから、威嚇して、私から折れることを望んだ。弱いから、私が脅威になると思って、殺そうとしてる」

 ははは、とホゥジュの喉から乾いた笑いが零れていった。これほどホゥジュを怯えさせておいて、彼らはホゥジュが怖いと言う。強いのだから、気を使えと言うのか。

「お前、いい気になるなよ」

「違うの?」

 問い返すと、飛嶺は言葉に詰まった。

 ずっとずっと、ホゥジュこそが虚勢を張っていると思っていた。強いふりをして、けれど実際は無力な小娘なのだと自覚していた。けれど飛嶺にとって、ホゥジュはそうではないのだろう。強い。強すぎるからこそ、排除しようとする。強く恵まれた人間だと見なしているからこそ、犠牲を払えと強要してくる。

 ふざけるな。

[……馬鹿みたい]

 息を吐いて、それから勢いを弱めていく火を遠くから見つめる。

[馬鹿みたい]

 この世界は、普通の人間にとって厳しい世界らしい。その世界で強く生きられる人間は、この世界を富ませるための、それぞれの摂理に従わなければならないようだ。王に服従する水の長や、王と骨肉の争いを繰り広げる土の長のように。

 胸元の箱に手を当てる。

[母様]

 母は、この世界を変えたかったのだと思う。変えられなかった。逃げ出した。けれど、死んでから変えるために、この世界に還ってきたのだとしたら。

 ……桐夜の死に、さぞかし間に合いたかったことだろう。彼の死を、母は回避したかったはずだ。でもホゥジュは、間に合わなかった。

[母様。ごめんなさい]

 母の大切な友人を、摂理から救うことができなかった。糸翠花があのように平穏でいられたのは、ただの偶然だったと思う。

「……大聖域に、行くわ」

 母の遺言を完遂する。そうすれば、母が願っていたことがどんなことだったか、分かるだろう。長達を摂理から解放する。そのことは、長以外の人々にもきっと、優しいことに違いない。そう、ホゥジュは信じている。

 ゆっくりと、ホゥジュは踵を返した。

 木が焼け焦げた匂いが辺りを覆っている。下草を踏みしめて、元いた場所に戻っていく。森を抜けた辺りでミタマが戻ってくる。そこでコチに乗り、王のいた天幕に戻った。

 コチに乗って宙に浮いたまま、こちらを鋭く見据える若き王を見下ろす。

「私はあなたを、許さない」

「お前になにが分かる。俺達の、いったいなにが」

「幻を見たわ。小さなあなたが桐夜に抱かれているのを。桐夜はあなたに、もういいと言うまで落ちぬ葉になろうと約束した。……もう、あなたはいいと思ったの。もう落ちてもいい葉だと」

「お前に……なにが分かる」

「分からない。あなたが、大切な人を殺す摂理に従ったということしか」

 土の王が、刀の柄を握ったまま手を震わせている。分からない。深い悲しみを感じていながら、相手を討てるその心が。それならばいっそ世界を犠牲にすると叫ぶ、ドームの心理の方が分かりやすい。

 ドームの人間を厭うてこの世界にやってきた。こちらの世界は美しいのに、残酷だ。母が還ろうとした世界は本当にこの世界なのか、この目で確かめる。

「――さよなら」

 そう言い捨てて、ホゥジュはボートに向け、コチを飛ばしていった。



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