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水の島 下



 昨夜ホゥジュが泊まった屋敷は、水の王に縁のある者の屋敷だったらしい。ホゥジュが無事に大長姫と面会し、その知己を得たということで、待遇は跳ね上がった。それまで飛嶺が主役だったのが、ホゥジュに対象が移った感じだ。

「宝樹林様は水の試練もお済ませになったとか。どうぞいつまでもこの水の島にご滞在くださいませ」

 と、昨夜はホゥジュと一言二言交わしただけの貴人がねんごろに語りかけ、逆に困惑した。

「いえ、私は土の島にも行かねばなりませんので」

「それはなんたる無念。ですが用事を済ませられたなら、その暁にはぜひともこの島に、もう一度ご来臨くださいますよう」

 はぁ、と答えて曖昧な笑みを浮かべる。

 ホゥジュの人生でこれほどたいそうに扱われるのは、実は初めてのことである。しかも、もしかすると厚遇してもらえるのでは、と思っていた母の故郷ではなく、母の友の島でこうなるとは。

「長ってそんなに便利なものなのね」

 貴人が下がり、ようやく静けさが戻ってきて思わずホゥジュはそう、呟いていた。

「お前、馬鹿なのか。便利なんて言葉で片付けるな」

 横柄な声で返事があり、ホゥジュはうんざりした。そうだ、一番面倒な男が側にいた。

「便利でしょ。武器にも恵みにもなる。誰かの言いなりに操縦できれば、これほど便利な装置もないわ」

 王や王女といった称号だけでは、こうはならない。名誉に加えて実際の脅威となるような力を持つのだ。

「誰かの言いなりになるような長なんて、粛清されるに決まってるだろ」

 部屋に入っても側に置いている刀に、飛嶺の手がとんっと触れた。明らかに示威行為である。しかも彼は、ミタマを封じる香とやらを隠し持っているはずなのだ。

「分からないわよ。本人には言いなりになってる自覚なんて、ないかもしれないんだし」

 たとえば誰かに恋をしてしまったら、恋は盲目と言うではないか。恋した相手に我知らず便宜を図るなんてこと、ありえる話だと思うのだが。

「――……あ」

 不意に、すとんと納得した。

 どうして母が、島からドームに行ったのか。

 少し不思議だったのだ。島であれほど――というか、老人達のホゥジュへの極端な対応を見ていて想像したに過ぎないのだが――尊崇されていたのに、どうして母はドームへ移ったのか。島では長だった。けれど、ドームに赴いたからといって、島と同じような扱いを受けるはずはない。母がそれほど愚かな人だったとは思えないし、正直なところ、島出身の母を王妃にできたというのは父の唯一の長所だったと思っている。それほどに、ドームの人間から見た島の民は、侮蔑の対象だったのだ。混血の王女を嘲笑うくらいには。

 だが母は、それらを覚悟して移ったのではないか。恋心を抱えたまま風の長としてい続ければ、いつか父にその思いを利用されると思ったのではないだろうか。そして父なら絶対にそうするという確信もある。

 ドームは、移動する。その土地の資源を食い尽くしながら移動するのだ。大陸をずっと移動し続けて、そしてあの海辺に辿り着いた。資源豊かな場所をほしがるのなら、次は風の島だ。海を越えて島を搾取する。そういう手段を取るのは、非常にありえそうな話だ。それを母は、妨害したかったのかもしれない。妨害。妨害だろうか。島が滅びる手助けをしたくないという、後ろ向きな考えだったのかもしれない。

「……可哀相な、母様」

 他に取れる手段を考えられなくて、父の元へ飛び込んだ。裏切り者として。そこでホゥジュ達を生み……母の人生は、終わった。かえりたいという遺志を託して。

「先代様を馬鹿にするな」

 鋭い声が響いた。飛嶺は、刀の柄さえ握っている。かなり憤慨しているように見える。ホゥジュは首を傾げた。

「どうして母様を知らないのに、そんなに怒れるの?」

 老人達ならば分かる。だがこの飛嶺という青年は、どれほど多く見積もっても二十そこらだ。つまり、母を知らない世代のはずなのだ。

「先代様が結界を完成してくださったおかげで、俺達は海に出られる。穢れた風に体を壊すことも、病んだ子を生むこともない。あの方の功績はそれほどに大きいんだ、馬鹿娘」

 病んだ子。そう、ドームでも弱い子どもがよく産まれる。自らが食い散らかした資源の残渣が、汚れた大地や水を生みだし、それによって自らも病んでいる。母が作った農園で病んだ子を生む確率は下がったと聞く。それでも、生まれるのだ。病んだ子が。絶望した母親の叫びが、響くのだ。高い高いドームの天井にまで。

 少しずつ腐っていくみたいなドームの世界。腐って淀んで、だから貴族達がホゥジュらに向ける侮蔑も悪意も、そのせいなのだと思っていた。けれど島の世界で、老人達や飛嶺から向けられる侮蔑や悪意はどうだ。彼らとまるっきり同じだ。いや、殺意があるだけひどいかもしれない。

「……移住しようかな」

「はぁ? 阿呆か。水の島には大長姫様がいらっしゃるし、お前のいる場所なんて、ない」

 阿呆かと言いつつ、どこか焦ったように飛嶺が言い募った。

「そもそも水の長は弱い。大長姫様が例外なだけで、生まれる巫女はどなたも長になれるかなれないかの弱い力を持つものばかりだ」

「じゃあ私がいる意味あるじゃない。大長姫の次の長として私なら最適よね? 強いし」

 聖域に入って戻ってくるのに、なんの苦しさも感じなかった。ということは、長として強いはずだ。

「水の長は風の長と違って、男と交わると力を失うと言われている。なのにお前が水の長になったら、風出身だから構うまいとばかりに、ばんばん子どもを産ませられるぞ」

 飛嶺の言葉を咀嚼する。子どもを産ませられる、という衝撃的な話にそれほど驚愕を覚えないのは、他の点に気を取られているからだ。

 男と交わると、力を失う? だが糸翠花は、恐らくはあの養い子の母なのだ。恐らくは、王との子。そしてそれが原因で、力を増した。

「……ねぇ、ほんとに水の長は結婚すると力を失うの?」

 驚きよりももっと深い思考に入り込んだような声に、飛嶺は目の色を深くした。

「そう聞いてる。……お前、なにを見た」

 はっと顔を上げると、近くに飛嶺の鋭い視線があった。元から黒い瞳が、夜空のように深く深く吸い込むような色をたたえていた。

「――……別に。不思議だっただけ。母様はそうじゃなかったから」

 口元を引き上げて笑顔さえ作ってみせる。誰がこの男に、この男を代表する風の民に、ホゥジュの感じた世界を共有させてやるものか。この男はホゥジュを『処分』する気でいる。人間を殺すことを『処分』だと思える酷薄さがある。それがどうしようもなく、疎ましい。そうされる側の人間だから、特に。

 ミタマを封じる、香。暴走した長を殺すための仕組み。

 母は、そうされるのが恐ろしかったのだろうか。自分が守り、慈しんできた対象から悪と断じられることが。だから、逃げたのだろうか。

 逃げるしかないほど母を、彼らが追い詰めたんじゃないのか。そう思うと不愉快な怒りの熱が、腹に沸く。

 ホゥジュは、逃げない。逃げずに戦って、勝ってやる。自分たちの価値観を押しつけてくる、こいつらに。


 翌日、引き留める貴人に慌ただしく挨拶をして、水の島を出た。再びの船旅が、始まったわけだが。監視者と被監視者とでは、話が弾むはずもない。

 奇妙な沈黙が続いた。そのまま半日が過ぎた頃、ホゥジュは口を開いた。

「ねぇ、土の島ってどんなところなの」

 ここから一日半の場所にあるという、土の島。

「代替わりの島だ、土は」

「代替わり……?」

 怪訝に思って首を傾げると、飛嶺ははっと小馬鹿にしたように息を吐いた。ものすごくむかつくので、話の続きを促したりはしない。絶対にだ。

「……そう、代替わりだ。そろそろそういう時期のはずだ」

 ひとり言のように飛嶺がそう呟き、それから真面目な顔で座り直した。

「土の島でお前が行き倒れるのも一興だとは思うが、大聖域にも行く義務があるんだろ。なら、土で死なれると困る。だから話すが」

[もう少しオブラートに包めばいいのに]

「[オブラート]ってなんだよ。包む?」

 答えずにそっぽを向く。実はホゥジュもオブラートの正体についてよく知らない。ものごとを遠回しに表現する時、オブラートに包むという言い回しがあるだけで。

「まぁいい。とにかく、土の島は代替わりの島だ。長の代と王の代が交互にある」

「ふぅん?」

「どうせ知らないんだろうが……島も、それぞれで違う。風は長が一番尊重される。水は、王の方が偉い。今の大長姫の代でこそ、長が尊敬されてるけど、それまでの弱い長達より王の方が絶対的な権威があった。王の下に長がいたんだ」

 せっかくの情報なので、ホゥジュは頭の中で咀嚼する。

「……じゃあつまり、土の島では政権交代が起こるってこと? 話を聞いた感じ、定期的に」

「そうだ」

 ほっとした様子で飛嶺が頷いた。もしかして説明が得意ではないのかもしれない。説明せずにすんで安心しているようにさえ見えた。

「それで、そろそろ政権交代の時期が来たってわけ?」

「そうだ。今は長が実権を握ってるが、そろそろ王に権力が渡るはずだ」

「へぇ」

 そうなんだ、ともたらされる情報に頷いていると、飛嶺が呆れたようなため息をついた。

「なによ」

「脳天気な女だな。交代の時期になにが起こるか知ってるのか」

「知るわけないでしょ。母様は教えてくれなかったもの」

 ここに来て思う。本当に母は最低限のことしか教えてくれなかったのだと。それを恨むという気持ちはない。むしろ、教えたくても己の複雑な身の上を思うと、教えるに教えられなかったのではないか、とも思うのだ。

「殺し合いだ」

 ぼそりと、飛嶺が呟いた。その不穏な響きに顔を上げる。

「長と王が、殺し合う。時期が正しければ交代は成功するし、早すぎれば失敗に終わる。けど、今代の土の王は慎重らしい。よく時期を見てる。ここまで待てば、交代は成功するだろう」

「…………」

 ホゥジュは、晴れ渡った水平線に目を向けた。眩しすぎる日の光が目を射て、頭まで白光りしている。ドームの周りでは得られない、綺麗で力強い、陽光。それなのに。

「……どこも、同じね。権力争い。馬鹿らしい。こっちは楽園だと思ってたのに」

 恵まれた大地。豊かな実り。守られた自然。

 その中に暮らす島の民は、ただただ幸福でおとぎ話のような世界を享受しているのだと思っていた。お姫様と王子様が幸せに暮らすような、なんの愁いもない世界。風の民と会った時、もしかして違うのかもしれないと思った。けれど、おとぎ話の世界にホゥジュが、母の裏切りを持ち込んだためかもしれないとも思ったのだ。そうでなければきっと、いつまでもいつまでも幸せに暮らせる世界がそこにあるのだと。

 けれど、違った。ここに住む者も、強い者が富を得、その富を守るために戦い、虐げる世界なのだ。ドームと同じ。

 ドームを出れば、理想の世界に行けるかもしれないと、期待していたのに。

「楽園にするために、みんな最善を尽くしてるんだろ」

 飛嶺が同じように水平線を見つめつつ、面白くもなさそうな顔でそう言った。言葉だけ聞けば、努力家で真面目、誠実なように思える。けれど。

「だから、殺すって?」

 交代するために、殺す。風の長に相応しくないから、殺す。それ以外の解決策を、探りもしないで。

「長の力は強大だ。でも、それでも、この世界で人間が生きていくのは難しい。長の庇護から離れると、すぐさまこの世界は俺達に牙を剥く。情に流されてやってけるほど、生易しい世界じゃないんだ。その上、白き民は俺達の世界からなにかを奪おうとしてる。まだ余裕のある俺達風の民が、対処するしかないんだよ」

 水平線を見る目は静かだった。だからこそ、飛嶺の言葉は穏やかで、それが彼の本音なのだとも聞いてとれた。

 彼は、守ろうとしている人なのだ、と不意に気づいた。それはそうか、彼は風の次期王だ。王になるべく育てられたからには、国民を守ることを考えなければならない。それが成功してこう育ち、だからこそホゥジュが不穏分子だと思えば、刀を握ることに躊躇いがない。

 ホゥジュは拳を握った。気づいたのだ。彼は、真実ホゥジュを殺すかどうか、判断しようとしている。そこに情は入らない。老人達が飛嶺を寄越した気持ちが分かる気がした。彼は、母を知らない。その功績を知っていても、母の存在で揺らぐ情がない。だから、ホゥジュにどう対処するか、冷静に見極められる。……だから、飛嶺が来たのだ。この世界にホゥジュが必要か否かを、判断するために。

「……私は、ドームの手先じゃない」

「ドーム……白き民のってことか? お前はそうかもしれなくても、白き民がどう考えるかってのは別だろ? お前が風の長になったら、侵略の足がかりができたってあいつらは絶対に考えるはずだ。お前自身が断ったとしても、じゃあお前の子は? お前の子を後見するって言って、あいつらが乗り込んできたらどうするんだ。お前はそれに、ちゃんと抵抗できるのか。気に入らない俺達、風の民のために」

「そんなの……じゃあ、私を最初から受け入れてればよかったじゃない! 最初っから敵意むき出しだった人達に、いったいどうして好意的になれって言うのよ」

「敵意むき出しだったのは、お前もだろ。先代への好意を利用して、賢く振る舞えなかった。それだけの忍耐が、お前にはなかった。そんなこらえ性のない娘が、これから先の、白き民との交渉に耐えられるのか? 風の民を、島を守り続けることができるのか?」

「私は!」

「できないんなら、最初からいない方がいい。白き民に与する勢力なんか、最初から入れなければ安全だ。結界はこの先に生まれるだろう、新しい長に補強してもらえばそれでいい」

 明確な拒絶だった。はっきりと説明できる理由で、ホゥジュの存在は拒絶された。それは、ホゥジュの今までの態度も原因なのだと、否定されて。

「私は……!」

「俺は、人殺しは嫌いだ。けど、誰かがやらなきゃならないんなら、俺が手を汚す。お前にはお前の理屈がなにかあるんだろ。先代様の遺志を叶えようとしてるのも、あの方を尊敬する人間として、ありがたいと思う。でも、それでも譲れない。俺は、守らないといけないんだ」

 言い返したい。お前は間違っていると、大声で叫びたい。圧倒的なミタマの力で、この男を屈服させてやりたい。

 ぐっと拳を握り、胸元に当てた。固い、箱の感触。

「警戒しなくていい。まだ。先代様の遺志が叶うまで、俺はお前も守る。それは約束する」

 全てが終わるまでは、殺さない。その言葉が、だだっ子をなだめるような柔らかい響きを帯びていた。そのことが悔しい。哀しい。

 膝を立てて座り、そこに顔を埋めた。コチがすり、と背中に寄り添う気配がする。コチはあまり、飛嶺に対して威嚇をしない。彼の行いが正しく、思いが真っ直ぐだと知っていたかのようだ。

 自分は正しいと、叫び回りたい。お前は間違っていると、糾弾したい。けれど、その言葉が喉から出てこない。彼を説得する言葉が、見つからない。

 父なんて、大嫌いだ。でも、姉は。ハァルは。姉の優しい言葉に、絆されないなんてことは、きっとない。姉がホゥジュを利用するなんて考えていないけれど、姉の案じる気持ちを上手に利用する誰かの影なんて、簡単に予想できた。

 箱を抱きしめるように、体を折り曲げる。

 母様。

 あなたの世界は、私を拒絶している。


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