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水の島 上



 翌朝、海上に浮かび上がったホゥジュは、ミタマの伝えてくれる情報を集めつつ辺りを見渡した。予想外なほど近くに、あの男の乗ったボートはあった。

「どういうこと」

 むっとしたホゥジュは、波の上に立ち、その波を移動させながらボートに近づいた。

「ちょっと! どうしてまだこの辺にいるのよ」

 むっとしてボートの近くに立っていると、呆れたような顔で飛嶺が言った。

「非常識な女に何ができて何ができないか分からないから、待っててやってたんだろ」

「はぁ!?」

 非常識とはなんたる無礼。憤りも露わに飛嶺を見据えると、彼ははっと鼻で笑った。

「どこの長が海中で寝るんだよ。どういう理屈だそれ。先代は確かに海上を歩かれたって逸話があるけど、なんでお前みたいにありがたみのない歩かれ方しなきゃならないんだよ」

「歩き方にありがたいもなにもないでしょうが」

 今度はホゥジュが呆れる番である。どれだけ母が好きだったんだろう。同じことをしても神聖さに違いがあるなんて、単に見ている側の問題だろうに。それをこちらにぶつけないでほしい。

「いいから乗れよ。ずいぶん遅れただろ」

「あなたのせいでね」

 普通に追いつける距離だろうに、この辺に留まっていたのは飛嶺のせいである。眠っている間に先に進めると思っていただけに、落胆も大きい。

 ざっとボートに飛び移り、帆に風を当てる。

「っ、おい!」

 飛嶺の叫びを無視して、限界まで風を当てる。さっさとやるべきことを遂行したい。そうして、この男を打ち負かして……それから? それから、どこに帰るのだ。母には帰りたい場所があった。けれど、ホゥジュはどこに帰ればいい。少し途方に暮れた気持ちになりつつ、帆が痛むという声に少しだけ、風の力を弱めてやった。


 水の島近海に着いたのは、夕暮れだった。

 水の島は幾つもの島が寄せ集まったような地域で、その中で最も大きな島が長のいる島らしかった。幾つもの群島を、夕陽がきらきらと照らす。風の島みたいに高い山は一つもない。緩やかな稜線を描く島が、大きな湾を広げていた。

 飛嶺は長のいる島にボートを着けた。

 風の島の民と同じような、浅黒い肌の人々が飛嶺の周りに集まり、何事かを話し始める。ホゥジュはというと、それらの人々からちらちらと視線を感じつつも、所在なく佇んでいた。案内人が喋り込んでいるから仕方ない。

 やがて話し終えたらしい飛嶺が、ホゥジュを呼んだ。

「おい、急ぐぞ。日が暮れる」

 分かったと答える声を聞いているのかどうか、飛嶺はさっさと歩き出した。その傲慢な言動にむかむかする。他人が意に添うのが当たり前とでもいうようなやり方だ。老人達と全く同じ。異なるものは排除する。それが嫌なら、彼らの望むモノになれと言い放つ。老人達どころか、ドームに住む貴族達とも全く同じだ。お互いに憎み合っている彼らの、なんと似通っていることか。そこまで思って、ホゥジュはおかしくなってきた。愉快ではない。だが、軽蔑を孕んだ滑稽さを感じたのだ。視野が狭く、愚かしい。それでいながら、己をホゥジュよりも尊い存在だとでも思い込んでいるかのようだ。

[母様]

 こんな場所に、帰りたかったの。


 日が暮れると、島の世界は闇に落ちる。

 ドームのように、光を生み出す電気がないのだ。ミタマを使って明かりを得る手段はあるだろうが、そうできる人間は限られているのだろう。

 飛嶺が日暮れとともに飛び込んだ屋敷は、誰ぞの貴人のものらしいが、その屋敷にも蝋燭で得た明かりがか細く震えているだけだった。

 ホゥジュが通された部屋は、木でできた床の上に、草で編んだ平べったいカーペットのようなものが敷かれていて、そこに靴を脱いで座るのだという。椅子はない。ドームから着てきたワンピースのまま座り込むが、足が痛くてしょうがない。

「おい、ちゃんと座れよ」

 この屋敷の主が挨拶に来るというので、飛嶺は足を折りたたんで座っている。

「どうやって座るのよ、そんな格好で」

「普通に座るだけだろ?」

 心底意味が分からないという顔をされて、尋ねるだけ無駄だと悟る。見よう見まねで飛嶺に似た座り方をしてみるが、十秒ほどで足が痛んできた。

「ちょっと、痛いわよこれ!」

「黙って座ってろ」

 すげなく言い放った飛嶺は、やがて現れた屋敷の主と、対等な話を始めた。対等というよりも、飛嶺の方が偉そうに見える。相手は壮年の男性なのだが、そちらの方が飛嶺を気遣い、飛嶺はそれに鷹揚に応えているように見えるのだ。

 が、観察しているうちにも足はどんどん痛みを増す。見知らぬ習慣を強制されたホゥジュは、ついに忍耐を放棄した。

「コチ」

 コチを呼びだし、そのさし出した腕に腰掛けなおしたのだ。足はじんじんと痛みを訴え、それが痺れに変わっておかしな痒さをもたらしてくる。これ以上我慢するのは限界だった。

「――おいっ」

「なんと、これほど神々しいミタマは初めて拝見しましたな。それでは、こちらが先代様の……?」

「あぁ。それで、(おお)(おさ)(ひめ)に目通りは叶うだろうか」

「これ以上ない証を拝見しましたので。必ず大長姫にはお伝えしておきましょう。翌朝にまた、詳しいお話を」

「助かる」

 飛嶺と男性は頷きかわし、それから男性がホゥジュを向いて恭しく頭を下げた。まるで蛙が這いつくばったような姿勢である。恐らくは敬意の表明なのだろうが、どういう反応が最適なのか理解に苦しむ。ちらりと飛嶺に視線を投げると、彼は苦り切った顔をした後、男性に話しかけた。

「姫はこちらの作法に詳しくないのだ。失礼を許してもらえるだろうか」

「おぉ、そうでしたか。通りでそのように、抜けるような白さをお持ちなのですなぁ。風の長姫様。どうぞこのわたくしめにお任せください」

 飛嶺がくい、と顎をしゃくるので、ホゥジュは意味が分からないなりに、

「……よろしく頼みます」

 と声を出した。男性が笑顔になり、飛嶺がほっとしたような顔をしたので、それほど間違った対応ではないのだと信じたい。

 その夜、草の編み物の上に敷かれた寝具はホゥジュ一人分しかなく、飛嶺は別室で休むのだと知って心の底から開放感に満ちたホゥジュは、湯を浴びて島の民が着る寝衣を着て、眠りに落ちた。もちろん、なにかあったら起こすよう、コチには言い含めている。

 その翌朝、準備されていた島の民の衣装を見て、ホゥジュは首を傾げる。

「いつまでも白き民の服でいられたら目立ってしょうがない。買い取ったから、それを着てろ」

 と飛嶺が言って、その青と白で染色された、大きな布を見つめる。

「風の長なら、着るものは青と白だ。文句は言うなよ」

 苛立たしげに飛嶺が言っているが、ホゥジュが戸惑っているのはそこではない。

「着れない」

「贅沢言うなって――」

「――着方が、分からない」

 言葉を切った飛嶺は、途方に暮れたようにホゥジュを見つめた。これほど弱気な顔を見るのは初めてだが、決して嬉しくはない。

「……侍女を呼ぶ」

 上を見て下を見た飛嶺は、ややあってそう言葉を絞り出した。さすがに悪いなと思ったものの、ホゥジュは頷くに留めた。できないものは、しょうがない。


 服を着つけられ、髪を整えられた。

 予想外なことに、島の民の衣装はそれほど着づらいというほどではなかった。何度か繰り返せばホゥジュにも着ることはできるだろう。一枚布を羽織り、胸元で合わせ、帯を巻く。帯には手前に止めるボタンがあって、それを止めてからくるりと巻いて、結べばそれなりに見えるようだった。彼らは靴下ははかず、裸足で歩いている。靴も、木でできた板状のものを加工して履いている。綺麗な布で板と足を巻きつけるようにしていて、それはそれで履きやすそうではあった。ドームで、室内ではくサンダルみたいなものだ。

 髪はくるりと巻いて、細い棒状のもので留める。これまた木の棒で、その先端に綺麗な石の飾りがついている。なんだかお洒落をしているようで、心が踊った。

「まぁ、見れるんじゃないのか」

 同行者はこれだが。

 朝食をもらい、それから歩いて庭に出る。庭には背の低い木々が、なんらかの美意識のもとに植えられていた。その中央に、大きな一枚岩がある。予想通り、そこには魔法陣が描いてあった。

「お前が起動させるか」

 飛嶺の言葉に頷いて、その中央に立つ。飛嶺が魔法陣に乗ったのを確認して、ミタマの力を通す。陣の文字が光り、淡い光が二人を包む――。

 一瞬後に、別の場所にいた。

 そこは広い廊下のような場所だった。木でできた廊下で、屋根がない。廊下の床の上に、先ほど見た魔法陣が小さく目立たぬよう、彫り込まれているのが分かった。

 廊下の片方は突き当たりで、大きな扉が遮っている。もう片方は長く伸びていて、その先端が右に曲がって折れている。

「こっちだ。いいか、礼儀正しくしろよ。今代の水の長は、歴代水の長の中でも最強と謳われる大長姫だ。失礼があったらたとえお前でも、庇うことはできないからな」

「ふぅん」

 母よりすごい人なのだろうか。気になったが、飛嶺は緊張を露わにしている。よほどすごい人なのだろう。楽しみだと思う気持ちと、それから伝播した緊張で体が小さく強ばった。

 折れ曲がった方の廊下へ進んでいく飛嶺に従い、歩を進める。裸足の足に、ひんやりとした木の温度が伝わって、小さく震える。その耳に、さぁぁ、と音が響いた。耳を澄まし、ミタマを感じる。濃いミタマが、この先にいる。風のような、波のような音。廊下を曲がると、一気に視界が開けた。大きな空間に、滝がある。だが滝は、驚くほど軽い音を立てて霧のように降っていた。さぁぁ、という音はこれだったらしい。降っているのに登っているような、不思議な滝の根元に、一人の女性がいた。

 ほどいた黒髪も艶めかしいその女性は、ふ、と目を開いた。艶々した目が、ホゥジュを真っ直ぐに見つめる。赤い唇が、ゆったりと開いた。

「――おかえり、楓樹林」

 その視線はしっかりとホゥジュの胸元に当てられて、それでホゥジュはその人が、ホゥジュと母を間違えたのではなく、懐に持つ母の遺髪に向けて放った言葉なのだと分かった。掌に、箱の固い感触を覚える。かえろうと囁いた母と、おかえりとかけてもらえた言葉。ぎゅっと箱を押さえ、ホゥジュは目を閉じた。

 きっと、こう言ってほしかったのだ。そういう言葉を、母にかけてほしかった。崇拝でも、憎悪でもなく。

「――ありがとうございます……」

 その場に座り込み、ホゥジュは頭を下げていた。


 滝の根元に張り出した高台のようになっている、その女性が座る場所へと手招かれ、ホゥジュは飛嶺を振り返った。その指示に従うのが礼儀にかなっているのかどうか、判断がつきかねたからだ。飛嶺は小さく手を振った。行け、ということらしい。ホゥジュに対する相変わらずの雑な扱いに思うところはあるが、その変わらぬ粗雑さに落ち着きを感じる。自分でも不本意なのだが。

 立ち上がり、大長姫と呼ばれる女性の元へ近づく。ふわり、と草で編んだ敷物が宙を飛んできて、その女性の隣に敷かれた。

「ここに」

 座れ、ということらしい。頷いて、その敷物に座る。飛嶺の方は下座で、昨日貴人と会った時と同じ、足の痛くなる座り方をしていた。

「名はなんという、楓樹林の娘」

「ホゥジュです」

「なんと書く」

 重ねて問われ、ホゥジュは少しはにかんだ。他者から初めてそう聞かれたからだ。母がホゥジュにつけてくれた、大切なもう一つの名前。

(ほう)(じゆ)(りん)。宝で、後は母と同じです」

「宝樹林。楓樹林がつけたのであろ? よもやあの男が島の字を、そのように使うとは思えぬ」

 あの男、というのが父だと推測する。父が娘に名をつける? なかなかに斬新な考え方だ。

「そうです。母が」

「楓樹林がどれだけそなたを愛したか、分かるような名よの。のぉ、風の次期王よ」

「は……」

 従順な飛嶺の態度に、気味の悪いものを感じる。むしろ同一人物なのだろうか、あれ。影武者とかではなかろうか。

「宝樹林を、そなたら風の民はどのように扱ったのだ」

 からかうような、軽やかな声だった。なんとなく、彼女はこの答えを知っているような気がする。

「聖か邪か、判じている途中でございます」

「まこと、風の民は楓樹林に心酔し過ぎて愚かよの。のぉ、宝樹林。そなた、水の島に来ぬか。ここでわらわの手助けをしてはくれぬか」

「大長姫様」

 予想外な大長姫の言葉に、飛嶺の言葉がかぶさる。

「黙りゃ。王でもなく水の民でもなきそなたが、邪魔をするでない。長がどれほど献身しようが、それを当たり前に受け取る、愚かなる民よ」

 恐ろしげに響く声だが、その声はどこか切なくも響いた。顔を見つめると、美しい顔に愁いが覗いた、ように感じた。

「大長姫、様……」

 呼びかけると、その人はホゥジュに向き直った。

「そうじゃ、わらわは()(すい)()。そう呼んでたもれ」

 慕わしげに両手を握られ、当惑する。

「あの、どうして……母は、あなた方を裏切ったのでしょう? そうして父の元へ走ったから、あなた方は母の娘である私を、憎んでいるんでしょう?」

 風の民は、母に心酔していたと聞いた。だから母へ憎しみは向かず、ホゥジュに向けられたわけだが、他の島の人間からすれば、母もホゥジュも憎しみと軽蔑の対象ではないのか。

「憎む……」

 糸翠花と名乗った大長姫は、意外なように憎む、と呟いた。憎むという言葉を口の中で転がし、吟味しているようだ。

「憎い、とは思わぬ。……ただ、男の趣味は悪いと思うた」

「完全に同意します」

 思わずホゥジュは即答した。百パーセント同意する。あの母が、どうしてあの父に恋をしたのか。実のところ、風の島の聖域で母の記憶に触れるまで、母は誘拐されてきて、やむなく王妃にされたのではないかとさえ思っていたのだ。ドラゴンに攫われたお姫様みたいに。

「じゃが思い返してみれば、わらわも(とう)()も、楓樹林に憧れておった。彼女ならばどんなことでもできるのだろうと、偶像のように思うておった。同じ長であるわらわ達でさえそうなのだから、楓樹林を取り囲む全てが、彼女にとって対等ではない、守らねばならぬものだったのかもしれぬ。そういう隙にあの男が取り入って、そうは言っても世間知らずな楓樹林ゆえ、ころっとしてやられたのかもしれぬなぁ」

「ぐうの音も出ない……」

 なんだかそれしかないような気がしてきた。そうか、お姫様は騙されて連れ出されたのか。結婚詐欺に遭ったのと同じではないか!

「先代様はそのような――」

「黙りゃ。会うたこともない人間を、伝聞だけで語るような愚か者なのかえ、風の次期王は」

 ぴしゃりと言われて飛嶺が黙り込む。

「ともあれ、宝樹林。わらわは楓樹林を憎く思うたことはない。確かに一度、裏切られたと思うたことはあった。じゃが、彼女の気持ちが分かるようになると、とてもではないが、恨み続けることなどできはせなんだ。……さ、旧き友の娘よ。そなたはなにゆえここに参った。その胸元の懐かしき気配に、関わりあることなのであろ?」

 切なく、懐かしいものを見る目に、ホゥジュは微笑んだ。母を懐かしく思う人がいることが、嬉しい。父への評価もホゥジュと同じだし。

「聖域に入ることを、お許しいただきたいのです。母の遺言で、遺髪を捧げたくて」

「そう、遺髪か……」

 悼む目に頭を下げる。

「良い。許そう。じゃが長だけじゃ。次期王は来ることを許さぬ。表で待っておれ」

「大長姫様」

「まこと頑迷よの、風の民は。楓樹林が消えた時からいっかな変わろうとせぬ。ようやくもたらされた夜明けを、そなたらは己が手で消そうとさえする。次期王よ。曇った目を刮目せよ。己が頭で考え、心で答えを出すべきじゃ。そうせねば楓樹林が寄越した贈り物を、他ならぬそなたらが壊すことになろうぞ」

 そう言い置いて、糸翠花は立ち上がった。ホゥジュはそれについて立ち上がる。飛嶺は何事か言い返そうとした様子だったが、やがて諦めたように口を閉じた。心底悔しそうに、権威に逆らえず無理に口を閉じさせられたようなその有様に、ホゥジュは初めて飛嶺に、同情のような憐れみを感じたのだった。


 糸翠花は滝をくぐった。

 糸のような霧雨をくぐった先には、続く砂浜があった。その砂浜の中に、ぽっかりと井戸のような水たまりがあった。

「聖域は、ここじゃ」

 まさしく井戸のような大きさの水たまりだ。だが近づくほどに、それが水たまりと呼ぶような深さではないことが分かる。透き通った水はどこまでも透明で、それゆえに底が見えない。そして遠い水の先から、ゆらゆらと明かりが見えた。まるで、海底から水面を見上げ、分厚い水の層を通して太陽を仰ぎ見るような。

「――ここで幾人が死んだことか」

 ぽつりと零された言葉に、ぎょっとして糸翠花を見た。彼女は聖域を見下ろしつつ、哀しげな顔をしていた。

「長になれるのではないかと見込まれた巫女を、ここに投げ込むのじゃ。生きて帰った者だけが、長になる資格を得る。わらわはかろうじて生き残ったが、帰れなかった幾人もの命が、ここには眠っておる」

 糸翠花が強大な力を持っていることは、ホゥジュにも伝わる。ホゥジュと比べてどちらが強いのか分からないが、決して弱い力ではない。それでも生き残れるかどうか、微妙なほどの試練なのか。

「水の試練は、厳しいものなのですね」

 思わず呟くと、糸翠花がふふ、と笑った。

「いや、そうではない。かつてのわらわは、今より遥かに弱かった。長になれるかどうか、危ういほどの。じゃが子を生んで、変わったのじゃ。己でも驚くほどの力を手に入れた。……ほれ、早う遺髪を。楓樹林の願いであったろ?」

 出産と力の変化ということに驚いていると、そう促され、ホゥジュは頷いた。まずは、母の遺志を遂行せねば。箱から母の遺髪を一房取り出す。

 特に気負いもなく、その水に足をつけた。底のない水は、一瞬でホゥジュを飲み込んでいく。力強いミタマの気配が、活き活きと喜んで、渦巻いているのが分かる。気配の濃い方へ、風の珠を操り、進む。

 魚が泳ぐ。貝が眠る。珊瑚が光り、海藻が揺れる。

 その中に、しんしんとわき上がる、海底の泉があった。砂がふわふわと舞い上がり、時折空気の球が水面に向けて昇っていく。ここだ、と分かった。遺髪を、そのわき上がる水にかざす。ふわりと髪がほどけるようにして広がり、淡い光の粒となって、消えていく。

『長にならなければ、殺される』

 不意に、強い恐怖の声が響いた。

『女にされて、殺される』

 強い強い恐怖の声が、哀しく響く。

 糸翠花の声だと、直感する。

 子を生んで変わったと微笑っていた彼女が、女にされて殺されると恐怖していた。そこに繋がる糸を、たぐることをやめる。ホゥジュが踏み込んでいいことではない。結果として彼女は長になり、子を生んで強大な力を手に入れた。それが、事実だ。その背後にあるものを、ホゥジュが想像してみたところで、真実は掴めない。そういう気がする。

 ホゥジュは後ろを振り向いた。用事は終わった。母の髪は水の島にも還った。母の友が守る島へ。

 ざばり、と音を立てて井戸から砂浜に戻る。

 糸翠花は優雅に敷物に腰掛けていて、側に少年を連れていた。

「早かったの。さすがは楓樹林の娘じゃ」

義母(はは)上様。こちらはどなたなのです?」

 よく躾けられた、と称していいだろう。十四、五歳ほどの子どもは、上品に問いかけた。髪を肩まで伸ばしていて中性的だが、不思議なほど男の子だと分かる。

「宝樹林、これはわらわの養い子じゃ。(せい)()、宝樹林じゃ。義母の大切な友人の、娘御でな。聖域に潜ってたった今、戻ってきたのじゃ」

「聖域に? それでは長になられるのですか? 私が王になる時、この方が私の長姫になられるのでしょうか」

「さて、どうじゃろうなぁ。どうじゃ、宝樹林。なってくれるか?」

 悪戯っぽく糸翠花が問うてきて、ホゥジュは苦笑した。

「どうでしょう。私は風の長になる権利もあるようなので」

「あの若造を飼い馴らすのは、骨が折れるぞ?」

 若造という言葉に飛嶺を思い出し、ホゥジュは眉をしかめた。そもそも飼い馴らしたくもない。

「あなたは水の長姫にならないのですか? ここは好きになれませんか?」

 少年が哀しげな顔をするので困惑すると、糸翠花がころころと笑った。

「罪作りな女子じゃのぅ、宝樹林。養い子にべそをかかせて」

「それは糸翠花様が、そのようにそそのかされたせいでは」

 思わず本音を言うと、糸翠花はさらに笑った。

「ほんに、楓樹林によぅ似ておる。楓樹林もそれは簡単に人の心を奪ったものよ。誰でも選べる身でありながら、よりによってという相手の手を取って。……昔、弱かった頃は楓樹林のそうしたところが嫌いじゃった。妬ましかったのやもしれぬなぁ。じゃが今、誰よりも強いと称された今となっては、楓樹林の孤独がよく分かる。わらわは楓樹林の、真の友ではなかったのやもしれぬ。今ならばその孤独を、心から分かちあうことができるであろうに」

 悼み、惜しむ。その気持ちが分かって、ホゥジュは微笑んだ。

「母は生前、私に島の話をしてくれました。水の島には、親友がいたのだと話していたので、私はこの島に来るのが楽しみだったのです」

 糸翠花ははっとしたように顔を上げ、じっとホゥジュの目を見つめた。そこに偽りがないかどうか、見抜くように。強く毅く見つめた後、彼女は顔をくしゃりと歪めた。

「……そうか……」

 噛みしめるように、呟いた。

「そうか……親友……そうか……」

 と。

「義母上」

 と心配げな声を出す少年を抱き寄せ、少年をというよりも自分の心を落ち着けようとする糸翠花は、少年の実の母であるように見えた。ミタマを通して見ずとも、二人から濃い血縁関係を感じる。王になるとこの少年が言うのならば、彼は王の息子なのかもしれない。

 ホゥジュは動きたがる思考を止めた。

 別に、いいではないか。糸翠花が誰の子どもを産もうが、今の彼女が強い力を持ち、亡くした友を悼む優しい心を持っているのならば。

「私、そろそろお暇します。土の島にも行かなければ」

 ホゥジュの声に顔を上げた糸翠花は、厳しい顔をしていた。

「宝樹林。気をつけよ。王は、王を名乗る者共は、ミタマを封じる香を代々伝えられておる。いつでも長を殺せるよう。……あの若造の短慮に、気をつけるのじゃ」

 ホゥジュはしっかりと頷いた。

「心得ています。香と分かれば、対抗する術はあるように思えますから」

 糸翠花はその言葉に頷き、それから立ち上がった。出口まで見送ってくれようとするその好意に甘え、ホゥジュはその背中に従った。己を監視する男と合流するために。



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