第四話 私の閉ざされた世界
二ヶ月前、テオディール殿下は私や周りがお止めしたにも関わらず、コリンヌ男爵令嬢を伴って視察へと旅立った。
殿下と私の婚約が決まったのは、お互いに七歳の時だった。
幼い頃は王子教育も真面目に取り組み、私に対しても優しいお方だった。少しプライドが高い部分はあったが、王になるお方だと思えばその点も彼の強みだと思えた。
しかし殿下は徐々に私に対して不満気な表情を見せ始め、それは学園入学とともに表に出ることとなった。
「お前は見た目だけはいいからな。気味の悪い薄ら笑いを浮かべるぐらいなら、そこで黙って立っていろ」
これを毎日……本当に毎日、言われた。
王子妃教育が進むにつれ、彼の態度が冷たくなっていることには気付いていたために、初めて言われた時もひどく驚きはしなかったが、それでも心は傷付いていた。
学園に入るまではお会いするにしても周りに大人がいたために、直接、辛辣なことを言われる機会はなかった。
しかし、学園内で自由を得た殿下は、ことあるごとに私を叱責した。
「何を他人に色目を使っている。お前はいずれ王妃となり、私を支えるのだから、私のためにだけ行動すればいい。周りの人間との接触など不要だろう? 分からないことは自分で本でも読んで調べるんだな」
クラスメイトから少し授業の内容を質問され、答えていただけだった。その場にいたクラスメイトは顔を真っ青にして謝り、それから先、話しかけてはくれなくなった。
殿下は私が言葉を発すると怒り、友人を作ることも許さないとおっしゃった。
一年の半ばでコリンヌ男爵令嬢と出会ってからは、殿下が彼女との時間を作りたいがために、私に彼の執務をするよう命じることもあった。
二年に上がってからは、彼は大半の執務を私に回すようになり、この頃にはもう、私に話しかける学生は誰もいなくなった。
印象的だったのは、私の誕生日にはメッセージカードもない花束が公爵邸に贈られてきただけだったが、コリンヌ男爵令嬢の誕生日には宝石のついたネックレスを贈られたことだ。
殿下からもご令嬢からも直接言われたために、どう反応を返すべきか思案したのを覚えている。
花束を見て、母がえらく怒ってくれていて、その姿を見ただけで私は満足して何も言うこともなく終わってしまった。
口を開けて笑うコリンヌ男爵令嬢を可愛いと褒める殿下を目の前で見ながら、私は殿下のすべき執務をこなす。
婚約者であるはずの私は蔑ろにされ、毎日心が擦り減るような生活が続いた。
私だって笑いたかった。けれど王子妃教育がそれを許してはくれない。そんな私の事情を一番近くで見ていて知っているはずの殿下が、私を貶し続けた。
恐らく、私はもう限界だったのだろう。それが今回の件で溢れ返ってしまったのだ。
そして、間違っても視察は遊びではない。婚約者ならまだしも、そうでない女性を伴って行くことで、殿下が……ひいては王家がどのように見られるのか。
その意味を、殿下は考えられていない。
殿下達を迎え入れるために、数々の手配のために領民のお金を遣うことを。その領民達の生活のために、領主が日々いかに尽力しているかを。
殿下はもう王族であるご自分が、どれだけ周りに影響を与えるのかすら、考えることをやめてしまったのか……
彼は将来、王となる者の誇りすら失ってしまったのか……
こんな人のために……と思えば、止まらなかった。
私は何のために頑張らなければならないのか、完全に見失ってしまった。
私の存在価値は何なのだろう……
私は、自分自身が分からなくなった。
鏡を見ることが恐くなった。
表情のない人形が、こちらを見つめているようにしか見えなくなったからだ。
殿下が出発した翌朝、目が覚めた時は涙も出なかった。
私を孤立させることで優位を感じ、愛はなく、将来の伴侶として尊重してももらえないと分かっている相手を、どうやって敬えば良いのだろう。
こんな気持ちのまま、王妃が務まるとは到底思えなかった。
婚約解消を願い出よう。
そもそもこの婚約は、王家から公爵家の後ろ盾を望んで組まれたものだ。
ベルモンド公爵家は建国時、反国王派だった貴族に対して武力ではなく話し合いで場を収め、その手腕は国を興した立役者として語り継がれている。
貴族の間では公爵家の当主が支持した者が次の国王だと言われることもあるほどだ。
現当主である父も、次期当主となる三歳上の兄も、その歴史を重んじ、国のため王のため、そして領民のために尽力している。
兄は現在、前当主である祖父の元で鍛え上げられているため公爵邸にはいないが、定期的に手紙をくれるなど私の身を案じてくれている。
そんな家族が、ずっと殿下については憤りを感じているのには気付いていた。学園内の話をしたことはないが、日に日に元気のなくなる私を心配していることも。
しかし婚約解消は、幼い頃から王妃になるべく時間を費やしてきた私の努力を無駄にすることになり、また私自身から何も言われないために決断を出来ない様子だった。
今回の件で父は殿下に見切りをつけただろう。
私にももう、殿下に対しての気持ちは何も残っていない。
父の元へ向かおうと部屋を出た私に、来客があると引き止めたのは家令だった。
その日、私を訪ねて来られたのは、テオディール殿下の弟であるヴィクトール様だった。