ありがとう。ちゃんと見ているわ。
花散里(偽名)の部屋のブザーを鳴らす。ぶぶー!反応が無い。更に鳴らす。ぶぶー!鳴らす。ぶぶー!鳴らす!ぶぶぶー!がちゃり「もー、何?」扉が開く。まっ暗い部屋、強いヤニの臭い。「銀河さん。あれあれ、まぁまぁ、珍しい」まぁ、お前らの部屋に用なんて滅多にないからな。「今日は非番なんですけどねぇ。なんざんしょ?」花散里は眠そうな顔をして、ほぼ下着だけの格好だった。パンツに膨らみは無い。花散里は男ではない、と。桐生邸の使用人達の中に潜む男が誰なのか、消去法的に段々と絞り込めてきた。いや、でも、小さい人だと、わからなかったりするのかな…?
「えっと、借りた物、返しに来た」と、ジッポーを差し出す。使用人達に借りた物の内、ジッポーはてっきりヘビースモーカーの松風(偽名)の物だと思い、返しにいったのだが、松風が貸してくれた物はてっきり常夏(偽名)の物だと思っていたセクシーランジェリーだった。理由を聞いたら『女の武器です』と、しょうもない想像の部分だけは一致していた。松風を除けば、この屋敷で煙草を吸うのは善四郎と秘書の浅丸泉(偽名)とこの花散里だけだ。「え?これ、私のじゃないですよ?」…じゃあ、誰のだよ。「私が貸したのは虫眼鏡っぽいやつです」
「虫眼鏡…っぽい?」あれか、存在すらも忘れかけていたあれか。「…なぜ?」
「皆さん、お忘れみたいですけど、メイドの姿は仮の姿。私の専門はナノテクですよ」花散里は一応、善四郎のサイエンスアドバイザーだ。もっと専門的な人間は善四郎の子飼の中にたくさんいるのだろうが、ちょっとした事を聞く時は身近に居てくれる方がいい。双子と銀河の家庭教師をしていた事もあった。
「それと虫眼鏡とどういう関係がある訳…?」
「シンボルですよ」
「シンボル…?顕微鏡とかの方がらしいんじゃない?」
「顕微鏡持ってきました?」いや、持ってかないけどさー…。
「シンボルとか、サイエンティストの言う事じゃないと思うんだけど…」
「あー、あー、いいんですよ。口から出るものなんてね、全部、ゲロみたいなもんですよ。何でもいいんです。それらしければ。大事な物は」頭を指す。「ここにあるんですから」適当だなー…。
「それで飯食ってる癖に…」
「ゲロ吐いて、それを必要な人が喰らって金出すんです。だから、いいんですよ。そんでもってその人がまた適当な所でゲロ吐いて、金もらって。大体、それの繰り返しです」
「き、汚い話はもういいよ」ていうか、その虫眼鏡、本当、なんだったの?ていうか、じゃあ、夕顔は銀河に何を貸してくれた訳?うう、面倒くさい。「このジッポーは誰のか知らない?」言っている間に花散里は部屋に引っ込んでいってしまう。花散里の部屋は他の使用人達のより広い。研究用のプライベートな物が多いから、という善四郎の配慮だ。中に入ると、まっ暗い部屋の壁際にたくさんの機材が並び、中央には大きな机があって、そこにはアナログな資料が山積みになって埃を被っている。少しは掃除をしろ。…やっぱり子供の頃に迷い込んだ藤咲さんの所に似た雰囲気がある。机の向こうのベッドから絹の様な煙が上がる。
「松風のじゃないですか?」ベッドに横たわってだるそうに言う。ジッポーを見て、反射的に煙草を吸いたくなったと見える。
「松風のとこにはもう行った。違うって」
「んー…」少し考える。「じゃあ、私でも松風でもない、誰かのですね」うんうん。そうに決まってるだろ。
「うー!真剣にシンキング!屋敷中、探してるのに誰もいないし、もう歩き疲れたー!」
「わざわざ、返して回ることないんじゃごじゃーせん?サロンのテーブルにでもまとめて置いときゃ、みんな勝手に持ってきますよ」それじゃ、答えがわからなくてもやもやするー!…じゃなくって。
「このジッポー、もうちょっと借りたいの」
「ジッポーを?銀河さんが?…ちょっと見ない間に不良になりましたね」
「そういうんじゃないから」
「メンソールは駄目ですよ。若い奴はメンソール吸うから馬鹿になるんです。つまり、松風は馬鹿です」
「そんな非科学的な煙草論はいいよぉ…」メンソーレとか知らないよぉ。煙いよぉ。部屋に新鮮な副流煙が充満してきた。
「まぁ、何に使うか知りませんけどね。いいんじゃないですか?そんなに大事な物なら、そもそも銀河さんになんか貸したりしませんよ」
「うう」そうですかい。そうですかいよー。「わかった。もうちょっと借りてくからね!花散里の責任で借りてくからね!」紙に埋もれた机の向こうで鬱陶しそうに花散里の煙草を挟んだ右手がひらひらと動いた。
結局、誰のだかわからなかった殺虫剤をサロンのテーブルに置き、ポケットにジッポーを隠した。丁度、そこに御局の桐壺(偽名)と秘書連筆頭、浅丸泉が階段から降りてくる。この二人は苦手だ。偉そうだし、銀河を邪険に扱うから苦手だ。でも、善四郎に会うにはこの二人の内、どちらかを通さなくてはいけない。「あの、御爺様にお会いしたいんですけど」
二人とも、冷たい顔して、銀河に目線を送った後、どかっとそのまま階段に腰掛けてしまった。メイド姿の桐壺は久しぶりに見る。女医姿よりはいい。少しロッテンマイヤーに似ている。浅丸泉はいつも通り、できる女ファクトリーから直送されてきたみたいなフォーマルなスーツ姿だ。…その二人が、二人とも、居合わせて、尚且つ、階段に座るなどという無作法な事をするとは珍しい。二人は顔を見合わせるでもなく、互いに深い溜息をつく。「ね、ねぇ、爺さんとこ、行っていい?」
「どうぞ」と浅丸泉が言う。俯いている口元が少し、自重気味な笑みを見せた気がした。
同様の笑みを見せ、桐壺も「お好きになさってください」と言う。…お、おう。何だか不気味だが、お好きになさってやる。桐壺と浅丸泉を避け、銀河は階段を昇った。
糞爺の部屋のブザーを鳴らす。ぶぶー!出ない。ええい、面倒だ。ぶぶーぶぶーぶぶーぶぶー…。あれ?いない?ぶぶー…。そんな訳は無いと思うが。少し考えてノブに手をかける。かちゃり。…鍵がかかっていない。用心深い善四郎のくせに?中に入る。部屋の内装が変わっていた。白い病室みたいな内装から、前の事務的で素っ気ない部屋に戻っている。楽しい遊びを終えた後の様に…。ベッドの上の白いシーツが軽く盛り上がっている。脇に置かれた枯れかけのシクラメン。…爺さん?善四郎ってこんなに小さかったっけ…。恐る恐る近づく。白いシーツは顔も覆ってしまっている。嘘…。そりゃ、初めから、間に合わないかもしれないって話だったけどさ…。「御爺様…?」シーツをゆっくりと捲る。小さな頭。…ふざけんな、胡蝶ちゃん(偽名)じゃねーか。
胡蝶ちゃんはすーすーと寝息を立てている。シーツをもう少し捲ると、肌が露わになる。下まで捲くりあげた訳じゃないが、恐らく素っ裸。「ん…、善四郎様ぁ…」むにゃむにゃと、胡蝶ちゃんが寝惚けた寝言を言う。
「何だ、起きたのか…って」わ!「おめーは何してんだ…」いきなり後ろから善四郎に声をかけられる。善四郎は白いガウンを羽織って、盆にココアか何かを二つ乗せて持っていた。盆をサイドテーブルに置き、鬱陶しそうな表情を作って舌打ちする。「桐壺と浅丸泉だな。…あいつら、露骨な邪魔をしやがって」何?もしかして、銀河、あの二人の嫉妬に利用されたの?
「ていうか、善四郎、治ったの?」がんと、思い切り頭を殴られる。痛い。また瘤ができる。死ね。善四郎。
「お前はほんと、口が悪いな。頭が悪いんだからよ、少しはそういう所でカバーしろ、馬鹿」う、煩い。
「お、御爺様、お病気はどうなされたのですか?」
「おう。あれな。結局は駄目だった」駄目だった?
「生きてんじゃん」がんっ。また殴られる。
「死にかけたんだよ。マジで」どっちにしろ、生きてる。最悪。銀河の苦労は何だったのだ。「双子からな、旧校舎で拾ったっつー、怪しい薬を貰ってあったんだ。多分、おめーが馬鹿面でのこのこ取りに行ったのと同じやつだろうな。…けど、あの二人はどうも油断ならねーからな。何、考えてんのか、さっぱりわかんねーだろ?だから、できるだけ使いたくはねーし、お前が同じ物取って来るって言うんなら、そっちの方がナンボかマシかと思ってな。待ってたんだけどよ。…まぁ、駄目だったんで、結局、飲んだわ。飲む前に花散里の奴に検査させたけど、どうなることやら。少なくとも、今はぴんぴんしてる。…だから、な、帰れ」善四郎の股間の盛り上がりとかが見えて、銀河のSUN値が激減する。やなもの見た…。でも、引きさがる気はないぞ。
「私、カタコンベの魔女に会いました」善四郎がぽかんとした顔をする。…あれ?キメすぎて外した?わかりにくい?単に隠者とか言った方が良かったかな…?と銀河が不安になっていると善四郎はようやくピンときたようだった。
「そうか」それだけかよ。
「元気にしてたか…、ぐらい無いんですか?」みんな、お前が悪いんだぞ。藤咲さんだって、善四郎に悪い影響を受けなきゃ…。
「じゃあ、元気にしてたか?」じゃあ、って何だよ。くそっ。
「…元気でした。もう手がつけられない位パワフルでした」
「そうか。良かった」善四郎は特に表情も変えずにベッド脇のソファに腰掛け、ココアを飲む。銀河はポケットに入れてあった薬の瓶をことんと手を離さずにサイドテーブルに置いた。
「これ、まだ価値ありますか?」もう駄目かもしれない、と思いつつ。でも、そんな事はないだろう。あって困る物でもない。
「…いいだろう。お前にしては首尾良くやったみたいだな。そもそも、条件に俺の体調に関する事は無かった。言い値で引き取ろう」善四郎がにやにやと笑う。うざい。
「御金はいいです。時間をください」
「時間?」
「色々と御爺様にお聞きしたい事があります」
「なるほど。普段だったら、釣りあわねーけどな。今は病み上がりで、桐壺と浅丸泉が煩くてな、仕事ができん。いいぞ、何でも聞け」
「…藤咲きゅーぶとはどういう関係だったんですか?」
「関係って。…そうだな。俺が金を出して、あいつがそれで何か作る。それだけだ。あとちょっとやった」…何を!?いや、聞きたくない!「それに、だったじゃない。それは今も継続している。ちょっと、あいつが作った物を俺が受け取りにくくなっただけの話だ」
「藤咲さんが何をしようとしてるかは知ってますか?」
「まあな。…随分、あいつと話し込んだみたいだな」嫌んなる位、話しこみました。
「答えてください」
「知ってるよ。いや、あいつが一方的に話してきて、俺はそれを聞いただけだ。実際、理解不能だったね。あいつはちょっと変わってるからな」
「引きとめなかったんですか?」多分、止められたんなら、あんただけだったんだぞ。ていうか、あんたが金を出さなきゃ、藤咲さんはあんな所に閉じこもれやしなかった。それが無ければ、この街だって普通のままだったろうし、使い捨てみたいに未成年が旧校舎に送り込まれる事もなかったし。別にそんなことどうだっていい訳だけど。
「なぜ?あいつがやりたいと言っていて、それが俺の邪魔をする訳でなければ止める理由は無いだろ」善四郎はむしろ不思議そうな顔をしている。
「なぜって…。藤咲さんは御爺様を尊敬していらっしゃるようでした」こんなにも人でなしでいらっしゃるのに。
「一貫性というやつか。ありゃ、あいつの勘違いだ」銀河もそう思う。「俺は生まれてこの方、俺だった事なんて一度もねえよ。なめくじの這った後みたいに俺がやった事が残されていくだけだ。それも現実ですらない。今という時点から眺めてみて、俺がやったことなんじゃないだろうか、という幻だけが残る。それだけだ」なめくじ。あんたは少なくともなめくじには見えない。あれは死の臭いがする。どうして死にそこなった。
「じゃあ、どうして…」あんたは何かしようとするんだ。余計な事を。本当にそう思うなら、黙って、背を丸めて死ねばいいんだ。「まだ聞きたい事はあります」
「…多いな」それだけ、あんたが余計な事をしてきたってことだよ。
「乙女とはどういう契約なんですか?」
「今更だな、おい…」ホットだよ!ホットな話題だよ!少なくとも私にとっては!「話は聞いてるんだろ?」
「…乙女からは」
「じゃあ、俺から話す事は無いな」
「乙女は私のボディガード?」だから銀河といるの?
「…しつこいな。そうだ。双子がやりすぎないようにな。…いくら、お前がグズで馬鹿の鈍間の役立たずで双子に着いてきただけのオマケだとしてもな、一応、一年に無理を言ってもらった物だからな」一年。陰の薄い銀河と双子の実父。どういう訳だか、善四郎は一年の事を高く評価している。昔は善四郎の秘書の一人で、善四郎の娘の理恵子、銀河達の母と婚約していたが、桐生の姓で結婚することを嫌った理恵子によって誘拐、拉致され、結局、実家の姓で結婚したヘタレ。今も変わり無ければ売れないコピーライターをしている筈だ。
「それで、御父様への義理立てで、私が双子に殺されないように、パパと慕っている人と逃げていた乙女を捕まえて、脅して無理矢理、私のボディーガードにしたんですか」
「酷い言い草だな。それじゃ、まるで、俺が極悪人みたいだ」
「違うのかよ」がつんとはやれないぞ…。距離があるからな。…と、舐めていたらびゅんとココア入りのマグカップが銀河の顔のすぐ横を掠めていった。…ううう。でも、今日はめげない。めげない、しょげない、泣いちゃ駄目。これで全部、最後にするんだ。「そもそも、乙女みたいのを作る怪しい研究にお金を出して…。それが用済みなら、全部、潰そうとして」
「あれは危険だった。俺の手を離れて暴走しかかっていた。人遺伝子を弄らせるというのが不味かったな。おかしな連中しか集まらんかった」
「そういう御爺様の自己完結した評価に興味はありません」
「じゃあ、何が聞きたいんだ」…この男には罪悪感というものが無いのだろう、というのは、銀河がずっと前から知っていた事だ。今更だ。
「乙女は普通の子です」
「…ああ、そうだな。肉しか消化できず、定期的に薬剤に頼った栄養補給をしなければならない、好戦的で野蛮な、ちょっと力の強い普通の女の子だな」
「乙女を解放してください。その薬も乙女に上げてください。乙女が逃げた研究員の人と十分にやっていけるだけのお金を渡してあげてください」
「そりゃ、質問じゃない。要求だ。飲めんな」
「私との話じゃないです。乙女との話です」
「尚更、飲めん。俺はあいつを今は対等に扱って仕事を与えている。お前がどうこう言う領分の話じゃない。それにな、その研究員なら、とっくにおっちんでるぞ」
「え?」嘘。
「ここに来る前に死んでいる。言っとくけど、俺がやったんじゃないぞ?病気だ」そ、そうなんだ。
「じゃ、じゃあ、乙女の分だけでいいです」
「しつこいな…、今までうまくいってたんだろ?」善四郎が立ち上がる。また殴られるのかと思い、身構えていると、すたすたと銀河の前を通り過ぎていき、机の前に立った。老眼鏡をかけ、外す。「こりゃ、すごいな。気付かなかった」薬の効果。ついでに老眼まで治ったらしい。それから棚のファイルを漁りだす。「あいつと喧嘩でもしたのか」
「そういう情緒的な話じゃないです」そんな話はしてないぞこら。
「じゃあ、何だって言うんだ」
「別に…。迷惑なんです」乙女は喧嘩っ早いし、非常識だし。…それは銀河を守らなきゃならないから、という部分もあるのかもしれないけど。
「嘘を吐くな」善四郎は目当ての物を見つけたのか、ファイルを一つ、手に取って広げた。「乙女にはな、お前の事を逐一、報告させてる。すごい量だぞ?あいつの報告のせいでな、実を言うと部屋一つ埋まってる。読む方の身にもなれと、伝えておけ」え?何それ。乙女、そんなことまでしてたの…?聞いてないことばっかじゃん。「…今まで、私以外友達が一人もいなかった奥手の銀河に友達ができた」
「な、何?」
善四郎は構わず続ける。嗜虐的ににやにやしている。「時田亀丸。驚くべき事に男。私の記憶する限りでは、親族以外の、つまり、桐生の爺以外の男と銀河が会話した事があるのは15回だけだ。ありえない。おかしい。何があったのかわからない。とりあえず時田亀丸をぼこした」ぼこした…?そういえば、亀丸と親しくなってから、すぐの頃、なぜかぼろぼろになってたことがあったような、なかったような…。「鞄の中に私宛のラブレターを見つける。どうやら時田亀丸は私に気があり、それを銀河伝てに渡そうとして、自分に気があると勘違いした銀河と一悶着あったらしい。銀河には手を出さないと確約するので、しばらく様子を見る事にする」
「な、…何が言いたい?」というか、今のは真実かね?亀丸が乙女にラブレターを?ほお…。
「たまに、こうして中々、おもしろいエピソードを書いてくる事もある。どうだ?その後、時田の息子とはうまくやってるか?」あ?…あ?
「御爺様は話を逸らそうとなさっていらっしゃる」
ぱたんとファイルを閉じる。「お前の話は要領を得ないか、実現性の無い要求だ。聞くに堪えん。何の実行力もない」
…そうかい、そうかい。わかったよ。くそ。知ってたよ。何、話したって無駄だって。実行力?見せてやるよ、馬鹿!「死ね!善四郎!!」お前がいなきゃ、色々、いいんだ!多分!銀河はサイドテーブルの上から薬の瓶を引っ掴んで床に叩きつけた。もふっ、と毛の深い絨毯に瓶が埋もれる。あれ?こう、パーンと割れる筈じゃ…。
「何しとんのだ」呆れた顔で善四郎が見ている。突然、叫んだので、寝ぼけ眼の胡蝶ちゃんがこちらを見る。ちょっと罪悪感。でも、胡蝶ちゃんも善四郎シンパだ。悪い奴の仲間だ。瓶を拾い上げて、キャップを外し、中のガソリンを振りまいた。「おい!馬鹿!」険しい顔で善四郎が叫ぶ。もう遅い。銀河はポケットからジッポーを取りだし、火を点けた。
***
善四郎の部屋の絨毯は防火繊維でできていた。銀河はすぐに善四郎に取り押さえられ、しこたま殴られ、しこたま説教を食らった。馬鹿みたいだ。いや、馬鹿だ。あれじゃ、ただ単に、病み上がりの善四郎を見舞って、その上、暇つぶしの余興をやったみたいなもんだ。説教中の善四郎は生き生きとしていた。
それから銀河はずっとプレハブ小屋に捕らわれている。お前はみたいなカスは何をしても仕方が無いからと、もう何年も何十年もプレハブ小屋に閉じ込められて、ぼんやりと一人静かに窓の外を眺め続ける日々。もう旧校舎で散った二人の事もあまり思い出さなくなっていた。とても素敵な友達たちだった。さようなら、乙女、亀丸…。
「銀河ー!居るんでしょー!焼肉食べ放題って約束どうなったのよー!」
「銀河-!金返せー!デートしろー!」
あー、あー、あー、何も聞こえなーい。聞-こーえーなーいー。
「約束はきちんと守りなさいよねー!」
「そうだぞー!」
…。ここのセキュリティはどうなってやがる。誰か、あの侵入者、摘まみだせよ。…窓に映る景色の中で騒がしくデモ行動を続ける二人の後ろには楽しげにバトミントンをする常夏(偽名)と幻(偽名)の姿があり、侵入者は半ば、公認されているようだった。常夏と幻のラリーは続かない。二人とも下手過ぎる。普段、勝手に銀河のプレハブ小屋に入ってゲームばかりしているからだ。
「銀河ー!出てきなさいよ!」デモ隊の内の一人がプレハブ小屋の壁を蹴る。うおっ、建物全体がちょっと揺れる。あ、あいつ、壊す気か。
「ふ、不破さん、落ち着いて、穴、開くから、ね」くそー…、こっちは悲劇の銀河ちゃんに浸ってるというのに…。喧しい。
「帰れー!二人とも帰れー!私の事、ずっと騙してた癖にー!」私に秘密なことばっかあった癖にー!
「それとこれとは何の関係も無いでしょー!」乱暴なデモ隊員…、乙女が声を荒げる。関係あるわ!このチクリ魔!善四郎の犬!
「お、乙女なんか、もう友達じゃないからなー!」銀河は一人で孤独に生きると決めたんだ。
「あ、あんたみたいな馬鹿とは初めから赤の他人よ!」乙女が渾身の力を込めて、今度はプレハブ小屋の扉を蹴飛ばした。一晩かけて築いたバリケードが扉ごと崩壊する。乙女が窓から、見下ろす景色から消える。階段を駆け上がる音。ばん、と部屋の扉までぶち破られ、乙女が吠える。「もうどんなにあんたが泣いてたって守ってやらないわよ!」なう泣いてるよ!あんたが恐くて泣いてるよ!
「べ、別にいいし!」
いいいいいいっと歯を食いしばって乙女が唸る。ちょ、超恐い。「時田君!殴って!あいつ殴りなさい!」
「え?何で!?」亀丸がそろそろとぶち抜かれた扉の向こうに現れる。
「私が本気で殴ったら銀河が死んじゃうでしょ!」
「あ、そうか」そうかじゃねーよ!
「か、亀丸!やめろよ!」暴力反対!
「いや、これ、銀河が悪いだろ」てこてこと亀丸は歩み出て、ぼかっと本当に銀河の頭を殴った。痛い。善四郎に殴られた傷も癒えていないというのに、このやろー!
「お、乙女にラブレター書いてたくせに!」聞いたんだからな!
「な、…いや!関係ないだろ!」
「関係あるわ!しかも、謎の組織の一員で銀河の事、利用しようと監視していて、その上、藤咲さんの事好きで!」
「お、俺は銀河一筋だって言ってるだろ!」
「嘘吐け!ハーレムエンド狙ってるんだろー!軽薄なんだよこのやろー!」近くにあったもーもー君を掴んで投げる。手違いでもーもー君が乙女の顔にぼふっと当たる。げ、やばい。
「あんた、いいかげんにしなさいよ!」乙女がスチールフレームのベッドを持ち上げる。待て待て待て、おかしいだろ!
「め、目には目を!もーもー君にはもーもー君を!」
「一発は一発よ!」
「ちょ!不破さん!」ベッドが宙を飛ぶ。
よくよく考えてみると銀河は誰の役にも立たないし、必要とされていない。必要としてくれたのは藤咲さんぐらいだ。だからいっそのこと藤咲さんの所へ行ってやろうと、銀河は勢い込んで旧校舎前までやってきた。しかし、いざ来てみるとどうやって調査会の許可なく忍び込めばいいのかわからず、挫折。本当に銀河は一人で何もすることができない。情けなくなる。
いつまでも旧校舎の前をうろついていると目立つので裏へと回る。いつも通り、そこは薄暗く、ひっそりとしていた。灰色の壁に手をやる。墓石みたいに、ひんやりとした感触。
えっと善四郎のためにと藤咲さんがくれた薬なんですけど、事情があって乙女なんかに使ってしまいました。でも善四郎の野郎も勝手に生き延びていたので結果オーライだったと勘弁してください。と折角、来たので藤咲さんに一応、報告を入れておく事にする。別にどこにいたって藤咲さんは読めるのだろうが、何か、ここの方が電波が良さそうな気がする。それにできれば読まないで欲しい訳ではあるが…。
事情というのは、あのときは色々と混乱していたので、うまく伝わっていないかもしれないので、ここで整理しておきます。藤咲さんと別れた後、私の双子の姉の舞と蝶々が旧校舎に現れていきなり襲ってきました。嘘です。よくよく考えれば、いきなり襲いかかったのは乙女の様な気もします。乙女の説明は省きます。多分、知っていると思いますし。生意気にも銀河のボディーガードらしいです。それは別にいいです。乙女は乙女だし。でも勢いで、今までそれに気付かなかった銀河が悪いという事になっているのがむかつきます。別に秘密でもなかったというのに、今まで隠していた乙女が絶対悪いです。だから、これからは絶対にボディーガードなどさせません。できれば一生、顔も合わせないようにします。…えっと、乙女の事は、本当にもういいです。それで双子は強いので、乙女はいともあっさりとぼこられ、それを亀丸が助けようとしました。弱いくせに。銀河は亀丸は藤咲さんの事を今でも好きなのだと思っていましたが、どうも違う様です。藤咲さんも好きなようです。軽薄です。最低です。死ねばいいと思います。その上、よくわからない謎の機関の手先らしく夜な夜な、市内で透明怪盗をやっていたようです。中二病です。気持ち悪いです。…えっと、亀丸の事ももういいです。それから、結局、二人仲良く、双子にぼこられました。銀河に色々と秘密を作っていたのだから天罰だと思います。でも、双子はやりすぎで、銀河は二人が死ぬと思いました。
しかし、何と亀丸は生きていました。ぴんぴんしていました。ナイフは刃の途中で折れていて、胸から流れていたのは血糊で双子がいなくなるまで死んだふりをしていたようです。ふざけています。多分、銀河に知らない所で双子と何か取引したのでしょう。その事にもすっかり騙されました。やっぱりむかつきます。…それで乙女に薬を使った訳です。傷口が余りにも大きかったし、血もたくさん流れていたので、正直、それでも駄目かと思いましたが、何とかなりました。藤咲さんの意図とは違った使い方になりましたが、感謝しています。そのとき乙女には意識がありませんでしたが、旧校舎の外に出る頃には息を吹き返し、いつもの不機嫌な調子で開口一番、『あの双子、今度は狩る…』と言いました。銀河は初めて乙女を殴りました。殴り返されました。まだ死にかけだったので、痛くはありませんでした。折角なのでもっと殴っておけば良かったと思います。
あ、あと、そのあとで空になった瓶に桐生邸の車から抜いたガソリンを詰めて演じた狂態は、勢いだけでやりましたが一応、確信犯です。結果は目に見えていました。あれで、善四郎が藤咲さんの思っているような人ではないということがわかるだろうと思ってやりました。あいつはただの戦争狂いの人でなしです。藤咲さんにケチをつける訳ではありませんが、美しい一貫性は本人も認めた様に幻なのです。
以上、報告を終わります。うん。良し。「うわあっ!」銀河の背後で、がさっと何かが音を立てる。銀河は驚きで自然と振り返っていた。ふ、藤咲さん!何で!?え?出てきたの!?
「あれ、銀河さん?」い、いや、仮想ニューロンが無い。お、落ち着け、これは藤咲先輩だ。藤咲さんに報告をしていた所に現れたので藤咲さんと勘違いしてしまった。…突然、藪から現れた藤咲先輩は葉っぱや蜘蛛の巣まみれだった。
「な、何してるんですか…?」驚かさないでくださいよ。心臓止まりそうでしたよ。
「亀丸君を探してたんです」と相変わらず藤咲先輩は色呆けている。亀丸はそんなところにゃいないだろう…。「銀河さんこそ、何してたんですか?」
「え、えっと…」貴方を作った人に色々と報告をばしていました…とは言えぬ。「ぼ、ぼんやりしてました」うーん。馬鹿みたいな答えだ。
「なるほど。そうですか」納得された。まぁ、いいか。「ところで亀丸君知りませんか?」
「知らないです」あんな奴知らん。
「むぅ。そうですかー。…一体、どこに隠れているのか。私の***、破ってくれるって約束だったのに」はい?
「えっと…、藤咲先輩、亀丸とそんなこと約束してたんですか?」
「はい。旧校舎に一緒に行く代わりに亀丸君が私の***を破ると」藤咲先輩が生々しい単語を繰り返す。…あ、あの野郎。「約束破るなんて最低ですよね!」約束云々かんぬんは銀河も破ろうとしていたので、ちょっと亀丸の事を責めにくいが、約束の内容は間違いなく最低だ。「破るのは約束じゃなくって私の***です!」…その上手い事言った感じの生々しい発言はもっと最低だ。何て返せばいいんだよ…。ていうか、藤咲先輩の身体が藤咲さんのコピーだとすると、***は善四郎に既に破られている可能性が…。ああ、何か、また変な秘密ができてしまった。このままじゃお互い様になってしまう。
「う、うーん…」でも、しかし、考えてみれば、この藤咲先輩というのも哀れな存在である。いくらCPUに演算された人格とはいえ、あんな軽薄な男だけを愛し続けなければならないのだから。そうだ。ちくってやろう。「藤咲先輩、知ってますか?亀丸、乙女にラブレター書いてたらしいですよ」幻滅でしょ?
「はい、知ってますよ。でも、今は銀河さんが好きらしいですね」にこり。何だ、知っていたのか。それに、そんなことはないと思う。
「いや、亀丸は誰でもいいんだと思います。きっと私達の知らない所で他の子にもちょっかいかけてますよ」
「うーん…。そうですねー。亀丸君、ときどき、私の追跡を逃れてどこかにこそこそと行ってしまいますしねー。そういうこともあるかもしれません。もっと亀丸君の事を知らなければ」
「そ、そうですか」めげないなー、藤咲先輩…。
「それじゃあ」とにこりと笑って、くるりと藤咲先輩が身を翻す。あ。そういえば。藤咲先輩を呼び止める。
「明日、亀丸と乙女と出かけるんですけど、…藤咲先輩も一緒に来ますか?」折角だし誘わないのも悪い。旧校舎から戻ってきた打ち上げみたいなものだ。亀丸にデートと偽って、乙女も連れて行き、焼肉食べ放題を奢らせ、約束、約束と煩いあの二人を一挙に黙らせる一石二鳥な完璧な計画。今更、藤咲先輩が増えたところで問題はなかろう。
「はい、行きます!」と満面の笑みで藤咲先輩が答える。
「じゃあ、明日、槻城本駅の西口に朝、10時で」
「亀丸君に会ったら、その場で***を破ってもらいます!」そ、それは止めてください。大事件になります。
「あ、それから」と銀河はポケットに手を突っ込む。「これ、お裾わけです」ビニルのラップに包まれたビスケット。
「ん、何です?」首を傾げて藤咲先輩がそれを受け取る。藤咲先輩は遠慮なく包装を解いた。トウモロコシの匂いがほんのりと香る。「あ、コーンスコーンですね」コーンスコーン?これはコーンスコーンというものだったのか。おもしろい名前だ。「手作りですか?」
「えっと、はい」銀河のではなく、桐生邸の使用人、須磨ちゃん(偽名)の手によるものではあるが。藤咲さんの所で食べたのが、おいしかったので、ぼんやりとした特徴を伝え、作ってもらった。中々の再現度である。藤咲さんに食べてもらう事はできないので、せめて藤咲先輩に食べてもらおうと持ち歩いていたのだが、丁度、渡せて良かった。
「母の好物で家でも良く一緒に作るんですよ」と一口齧って、藤咲先輩がにこにこ答える。ん?何だって?「あ、味まで一緒です」ふふふ。母の好物?一緒に作る?
「も、もしかして、藤咲先輩ってお母さんと一緒に暮らしてるんですか?」そ、それって兎のじゃないよね?人間のだよね?
「え?おかしいですか?母とはずっと一緒です」
「い、いえ…」別に…。「お、お母さんとは仲がいいんですか?」
「はい!家は父がいないので、その分、とっても仲がいいですよ」へ、へー。ふ、ふーん。
「こ、今度、遊びに行ってもいいですか?」
「ええ。是非。亀丸君ちのお隣です」
「あ、いや、やっぱいいです」うん。やっぱ、いいや。
藤咲さん…、本当は何を作ったんだ?「銀河さん?」兎のお母さん。「どうしました?」藤咲さんが最後に見せた顔。藤咲さんの家ではそのコピーである藤咲先輩が藤咲さんのお母さんと二人仲良く暮らしている。そして本物の藤咲さんは一人、宇宙の終わりに向かおうとしていて。「もしかして泣いてます?」う、うーん。わからん。
「前髪降ろしてるから、毛先が目に入っちゃって…」それで痛むんですよ。「ゴムとピン、無くしちゃったんです…」藤咲先輩が手を伸ばして俯いている銀河の頬に触れ、そのまま前髪を掻きあげた。今は止めて欲しい。見ないで欲しい。
「どこで無くしたんですか?」
「え、えっと…。どこなんですかね」あそこは。
「そしてあの薬はどこで?」…ん?「時田亀丸はあのとき、薬の瓶は冷蔵庫の中には無かったと言っていた」…藤咲先輩?慰めてくれてるんじゃないの?
「えっと、藤咲先輩…ですよね?」前にも一度言ったことがあるセリフ。
「はい。しかし、演算人格の方ではありません」な、何だと。
藤咲先輩(脳)は時間が無いからと怒涛の勢いで銀河に話をした。自分はこの肉体固有の意識である。今、この肉体は演算人格の制御下にあるが、この肉体は本来、自分の物だ。自分は、幼い頃の貴方を抱き、旧校舎の出口に向かっている時に目覚めた。恐らく、歩くという肉体的な刺激が活動停止状態であった脳を、この意識、自分を起こしたのだろう。それからは肉体こそ、不自由なものの常に意識のある状態で、ある程度なら、演算人格を誘導することもできた。自分は大脳皮質に埋め込まれている演算人格用のCPUを取り外させるためにオリジナルの藤咲きゅーぶとのコンタクトを求めている。何度も演算人格を誘導し、旧校舎へ向かわせたが、オリジナルとコンタクトを取る事は未だに敵っていない。貴方は過去の事も含め、二度、旧校舎に入り、二度ともオリジナルとコンタクトを取る事に成功している。貴方は何かオリジナルに会うための鍵を握っているのかもしれない。それにCPUには演算人格に優先し、貴方を旧校舎の外まで送りだすという古いプログラムが残っていて、それが貴方を認識すると演算人格に干渉し、不具合を生じさせ、一時的にではあるが肉体を取り返すことができる。自分に協力し、一緒にまた旧校舎へと入り、もう一度オリジナルとコンタクトを取れ。
…。
ふざけんな。
何だと?
さっき、ちょっぴり、しんみりしていたのは、もう藤咲さんに会わない前提でだったんだぞ?一人ぼっちで帰る所も無くなった藤咲さんマジ可哀そうなんですけどー(笑)、ってやつだったんだぞ。
…。くそ。二度とあんな危険な所行かないからな!
「貴方はこの肉体の所有するM4カービンを破壊している」
「…う」痛いところをつく。
「あれは演算人格に調査会から30万円で買い取らせたものだ」
「…ううう」
「もしあれを弁償する能力が無いのであれば…」
「…ううううううううううう」か、亀丸にも借金してるのに。
がくん、と藤咲先輩(脳)が頭を垂れる。そして顔を上げる。ぽかんと呆けた顔。「あれ?私、今、何してました?」…。
「え、えっと、…亀丸、あっちに行きましたよ」と適当に指を指す。
「ほ、本当ですか!」ぴゅうっと藤咲先輩(CPU)がその方向へすっとんでいく。いっそ、指を天に向ければ良かった。空の彼方に飛んで行って二度と帰ってこない事だろう。
静かになる。もう一度、壁に手を触れる。
おい、藤咲さん、ちょっと、どういうことなんですかねえ。何か、すごい面倒なことになってるんですけどぉ。貴方、自分の作った物に対して、責任とか感じないんですかねえ?一貫性の追求とか宇宙の終わりを観測するとか訳のわからない言ってないで、少し、周りを見た方がいいんじゃないですかねえ?ええ?
くそっ。
…藤咲さん、もう一度、会いに行くかもしれません。で、でも、勘違いしないでください。仕方なく行くだけで、銀河は宇宙の終わりとかに興味はありません。あんな寂しい所で一億年も生きていたくはありません。銀河には時速一時間で十分です。例え、誰の役にも立てないとしても、人に頼って生きていくしかないとしても、時速一時間でこっちでのろのろやっていこうと思っています。
し、しかし、藤咲さんが約束を守ってくれるとすれば、これが読まれるのは旧校舎が再加速を始めてからだ。もしもう一度、藤咲さんと会えてしまったとして、問答無用で縛り上げられたりしたら、どうしよう。うーん…。
考えてみても、今のところ答えが出ない。
家に帰ることにする。
帰りにヘアゴムとヘアピン買うの忘れないようにしないとな…、と銀河は思った。