受信ログ5032
改めて亀丸が科学室の中を確かめる。「しまった。きゅーちゃんにペンライト借りとけばよかった」
「だいじょぶそう?」
「まぁ」入口近くの壁のタンブラスイッチを何度か押す。「でも電気つかないな。…あ、蛍光灯割れてるわ」斎藤さんが住むには狭すぎたのだろう。薄暗い床にガラス片が散らばっている。「銀河、暗いの駄目だっけ?」
「べ、別に大丈夫だし」こ、恐くなんかないし。「あ、ちょっと、待って」銀河は亀丸の背に手を伸ばす。預けたリュックの中に確か…「じっぽー!」ジッポーの火を灯す。ぼんやり、中の様子がわかるようになる。手元の物ならはっきり判別がつくだろう。旧科学室にはシンクの付いた六台の大きな実験机が規則正しく置かれ、黒板の前にはそのハーフサイズの物がある。銀河達のいる教室の後ろ側と、奥の方には薬品や機材の置かれた棚が並べられていた。探すなら棚だろうか。炎を揺らし、恐る恐る銀河は中に足を進めた。すえた感じの変な臭いがする。銀河が科学室手前の棚を前に足を止めると、亀丸は更に奥に向かった。「見えるのそれ?」
亀丸は胸ポケットから出したサングラスをしている。「一応」それから、スレートを出して画面を見せる。「これの明かりもあるし。時間があるわけじゃないから、手分けした方がいいだろ?」うん。奥の実験机手前で、不自然に亀丸が立ち止った。「…あー、銀河は、こっち、あんま来ない方がいいかも」
「え?何?」
「いや、こっち、見んな」
何?何があんの?「ぎゃっ!」亀丸の足元にはサッカーボール大の何かがあった。ボールにしては歪な形をしていて、そこから出た幹の様な物が実験机の陰へ伸びている。うわー。何だろう。斎藤さんの貯蓄だろうか。「うん。そっちにはいかないようにする」
「…お、おう」意を決した様子で亀丸はそのサッカーボール大の何かを越えた。「うわー。やべー。一つじゃないじゃん。積んである」
「じ、実況しなくていいよ!」何だよー、何が積んであるんだよー。
亀丸の方を見ないようにしながら棚の中の物を検分していった。扉のガラスも蛍光灯と同様に割れ、棚の上で破片がきらきらと光っている。スレートに記録された調査会の情報を参照すると、銀河の欲している万能薬は通称『リポビタンT』と呼ばれていて、茶色い細身の瓶に入っているらしい。それ以外はよくわからない。それっぽい物は一々、手にとって見るが大体、何とか酸とか、何とか液とか、普通っぽい物ばかりだ。「亀丸ー、あったー?」
「あったら、言ってるって」まぁ、そうだ。
時間が刻々と過ぎていく。乙女達は大丈夫だろうか。
手前から見ていっている銀河と奥から見ている亀丸の距離が近づいていく。亀丸の方へ近づくと臭いがきつくなる。もう、これ以上、奥には行きたくない。ジッポーの火で間にある棚を照らすと、ぱっと見、瓶のような物は見当たらなかった。もしかしたら棚には無いのかもしれない。少し視点を変えてみる。黒板のある教室前方に開きかけの扉があった。ここからでは距離が離れていて、向こう側は見えない。棚を亀丸に任せ、銀河は教室を横断し、開きかけの扉の前へと行った。
「おい、銀河?」
「この先、準備室かな?」だとしたら、そっちも探したほうがいいかもしれない。扉に手をかける。蝶番が壊れかけているのか、ぎぎぎと嫌な音がする。
「あんまり、勝手に行くなよ」
ジッポーの明かりを中へ入れる。「…何だ、これ」狭い室内。やはり準備室だったらしく、壁には科学室にあったものと同じ棚が据え付けられ、奥に一台、白いツードアの冷蔵庫があった。そして天井一面に張り付いたベージュ色の何かもこもこした物。建材の一部…じゃ、ないよなー。
「うわ、何あれ」亀丸も準備室を覗きにきた。
「こっちはいいって。棚見ててよ」
「いや、あれ、やばくね?」
「や、やばいかなー?」そもそも何だかわかんないんだけど。
「中で何か動いてる」もこもこした物を見上げ亀丸が言う。
「え?嘘?」銀河も目を凝らすが、よくわからない。ほら、と亀丸がサングラスを銀河にかけた。突然視界が変わり、びっくりする。「何これ?」
「非可視光線グラス。このツナギの付属品」
「…何でそんなもん持ってんの?」
「いいから、あれ、見てみろって」亀丸に借りたグラスを通して天井もこもこを見てみる。裸眼で見ていた物とは全く違う映像。もこもこの内部が透けて、小さな赤い物がもぞもぞと蠢きながら密集しているのが見えた。気持ち悪い。
「…これって、もしかして斎藤さんの卵?」斎藤さん、子沢山…。
「もしかしなくともそうじゃね?」亀丸が銀河のグラスを外して、かけ直す。「もう生まれる寸前かも」
「そ、それってやばいじゃん!」
「だからそう言ってるじゃん。多分、あそこに積んであったのはこいつらの餌だろうな。どうする?逃げる?」
「…一応、あの冷蔵庫だけ確かめたい」
「そうか。がんばれ、銀河!」
「か、亀丸が確かめろ!」
「やだよ…。この中、入るとか、フラグだろ。お宝、手にした瞬間、ばってあいつら、降ってくるぜ」ぎゃー。変なこと言うな。
「亀丸ー…」
「お、俺、銀河の事、好きだし、下僕だから基本的に命令は聞くけど、自分の命には代えられない」何でこの男はそういう所、ドライかなー…。亀丸と付き合い始めてから何度目かの失望を覚える。
「ふ、藤咲先輩との約束はどうした!」
「それは別だろ。…何だろう、銀河がピンチに陥ったりして、泣きそうな顔してぷるぷるしてたら、その場のノリで英雄的行動に走る事も吝かじゃないけどさー。この場合は、わざわざ、虎穴に手を突っ込む訳だろ?ちょっと違うじゃん…」
「ううう。…じゃあ、私に行けと?」ぷるぷる。
「あー…。銀河、今、すごくいい顔してる。何か、その顔、見れただけで着いてきた甲斐あった気がする」何だよそれ!まじめにやれよ!「いや、行けとまでは言わないが、銀河も、たまには自分のことは自分でやるべきだと思う」
「ま、マジで…?」
「わりかしマジで」
「…し、死んだら化けて出てやるからな」
「死んだ人間は残念ながら何もできん」全く以て、その通り。
「じゃ、じゃあ、行く…」
「マジで!?行かないって選択肢もあるぞ?」こ、こうなったら意地だ。私だって自分の事ぐらい、自分でできたりするということを今、この場で証明してやる!…必要はあるのか?やっぱり恐い。
「つ、着いてこい!」
「…お、おー」銀河が科学準備室に足を踏み出すと、なんだかんだ言って亀丸も着いてくる。「銀河、上、やばい!こっち気付いてる。めっちゃ、動き始めた」
「んー…!」震える足で、狭い準備室内を走る。こてん。御約束のように転ぶ。痛い。膝すりむいたかも。死ぬ。
亀丸、転んだ銀河を乗り越え、先に冷蔵庫に辿りつく。おい、私の自立はどうした!ばん、と勢いをつけて冷蔵庫を開け、中身を適当にぶちまける。オレンジ色の庫内灯が室内を淡く照らす。「無い!」そしてダッシュで戻ってくる。
「ま、待て!」銀河も何とか立ち上がり、慌てて準備室を出て、扉を閉めた。「た、助かったー…」
「…いや、収穫無かったけどな」
「う、うん」恐い思いだけして、何にも無かった。「どうしよう…」
「まだ時間はあるけど、棚、探すか?」
「んー…」ぼとっ!ぼとぼとぼとぼと!背にした扉の向こうでやわらかい物が落ちる音。「…も、もしかして助かってない?」
「な、ないかも」
「ひん!」だからなぜ転ぶか。何もない所で。ジャイロか何か壊れてるんじゃないのか?痛い。真っ暗。もぞもぞぎちぎち、音がする。落としたジッポーを見つけるが、焦って火をつけ直せない。いや、そんなことより逃げなくては…。立ち上がり、もう一度走る。もう一度転ぶ。今度は仕方ない。足に何かが引っかかったんだからって「ぎゃあっ!」死体!死体山!死体のの山!腐ってる!「ぎゃあ!ぎゃあ!ぎゃあっ!」
「お、落ち着け銀河!」死体の山から起き上がり、尻もちをついたまま、慌てて後ろへ下がる。
「うぎゃっ!」せ、背中に何か触れた!振り向き見上げる。段々、銀河の目も慣れてきている。「か、亀丸!」一人で先に逃げてしまったものとばかり。亀丸は準備室へ続く壊れかけの扉を押さえていた。「何してんの!?」って、斎藤さんジュニア達が出てこないように扉を押さえてくれているのか。偉い!
「大丈夫か銀河?」
「だ、だだだだ、大丈夫だぜ」多分。
「とりあえずどうするよ…」扉は上の蝶番が外れかけ、傾いでいて、それでできた隙間からぬらぬらとした粘液に濡れた鎌や細い足がたくさん蠢き出ていた。
「…逃げる?」
「ど、どうやってだよ!動いた瞬間、こいつら出てきちまうよ!」もぞもぞぎちぎちかさかさ。
「…銀河が一人で逃げる?」
「ふざけんなコラ」うう。ですよねー。
「ちょっと後ろ向いて」
「何?何で?」
「いいから」今まで、背中で扉を押さえていた亀丸が反転し両手で押さえるようにする。亀丸の背には銀河のリュックがあった。中を漁る。あった。「ごきじぇっとー!」これでも喰らえ!と扉の隙間から斎藤さんジュニア達にゴキジェットを噴射する。ぶしゅー!
「何でそんなもん持ってるんだよ…」呆れ顔で亀丸が言う。手元が狂ってゴキジェットを亀丸の顔面に噴射しそうになる。
「色々、あって持ってるの」隙間から這い出そうとしていた斎藤さんジュニア達の動きが鈍くなる。「おお、いけるかも!」更にぶしゅー!
クサイ!クルシイ!アタマガワレル!クラクラキチャウ!小さな斎藤さん達が呻く。生まれたての斎藤さんも喋るのか…。小さな斎藤さんの小さな瞳が噴霧された薬剤の靄越しに銀河を睨みつけている。ナゼ、ウマレタバカリデシナネバナラヌ!ウラメシヤ!い、いや、こうしないと襲ってくるでしょ…?襲う気まんまんでしょ?ぶしゅー!調子に乗っていると、静かになった斎藤さんジュニア達を押し退けて元気な斎藤さんジュニア達が扉の向こうに押し寄せてきた。ぶしゅー!切りが無い。
「銀河、とりあえずきゅーちゃんに連絡とろう」
「え?」何で?
「こいつらがいたんじゃ、合流地点にも向かえない」ああ、そうか。斎藤さんジュニア駆除の手を休め、服の下にストラップで吊るしていたスレートを取りだした。音声操作もできるがやったことがないので、失敗したら恥ずかしいからやらない。スレート画面に表示されたリンクしているメンバー、藤咲きゅーぶのアイコンをタッチしてコールをかける。『はぁ、はぁ…はいっ!』雑音混じりのきゅーぶの声。息が荒い。
「藤咲先輩!大変です!緊急事態!」へるぷあす!
『こ、こっちも緊急事態です!』え?『斎藤さん!マンティス斎藤さん!つがいです!雄がいました!い、今、そっちに向かってまっ…!』きゅーぶの声が途切れ、代わりに銃声が響く。そのまま通信も切れてしまった。
「お父さんがいるのかよ…」お父さん?
「そういうことなの…?」
「お母さんがいて、ガキがいたら…。そういうことだろ」どういうことだよ。大体、斎藤さんの雄ってなんだよ…。どう見分けがつくわけ?雌が赤くて雄は黄色なの?「そんなことよりよ、こっちに向かってるって…」パパ!?オトウサンサン!オトウサンガクルッテ!斎藤さんジュニア達のテンションが上がる。ぶしゅー!落ち着けお前ら。
「向かってるって襲ってくるの?」
「知るかよ。でも、仲良くできると思うか?」
「んー…。思わない」こっちからしてみればいきなり襲ってくるような奴らだし、向こうからすれば縄張りを侵しにきた奴ら。もう既に遺恨の歴史ができあがっている。ただで済むはずない。「どうしよう…」やっぱり銀河一人で逃げる?ちょっと銀河はそのことについて真面目に考えてみるがあまり良い予測が成り立たない。銀河が一人で逃げようとすれば亀丸も追ってくるだろう。扉を押さえる者がいなくなり、飛び出してきた斎藤さんジュニア達に真っ先に飛びかかられる運命にあるのは恐らく足が遅くてドジで間抜けでその上、ぶしゅっと一発恨みを買っている銀河だ。
「…銀河、ちょっとここ代わって」亀丸が言う。
「え?何?…一人で逃げる気?」それなら成り立つ気がする。どうせすっ転ぶ銀河を囮にしてさっさと逃げるんだ。亀丸め。
「馬鹿。そこまで見くびるな。ちょっと頑張る」
「頑張るって…?」
「とにもかくにも斎藤さん雄がこっちへ来るならやらなきゃならんだろ。扉を押さえたまんまじゃ、どうしようもねーよ」
「扉を押さえてなければどうにかなるのん?」銀河が首を傾げる。上手い事言って銀河を騙す気じゃないだろーな、このやろー。
「いいから、代わって。揉めてる時間無いだろ」
「う、うん…」亀丸の口調があまりに真剣なため、強く出られると何事にも逆らえない性分の銀河は扉を押さえる役を代わる事にする。亀丸と扉の隙間に小さな身体を滑り込ませ、亀丸がしているように両手を伸ばして扉を押さえた。向こう側で斎藤さんジュニア達が蠢いている感触が掌に振動で伝わってくる。ぎちもそぎちもそ。気持ち悪い。恐い。
「ちゃんと支えた?離すぞ?」
「ううー…」キモコワくて、返事をする心的余裕がない。徐々に亀丸の掌が扉を離れていき、銀河の掌にかかる重みが増してくる。同時に伝わる感触も増す。扉の傾きが大きくなって、今まであった外れかけの蝶番の余裕が無くなり、がちゃがちゃ、擦れた音を立て始めた。「無理、これ、無理!」トビラオサエテルノ、ヨワソウナノニカワッタ!キタコレ!イケル!オセオセー!斎藤さんジュニア達がわっと湧く。生後数分のくせに舐めやがって…。亀丸が完全に手を離す。ずしっとくる。銀河は思い切り、両手両足をつっぱり、全体重を扉へ向けた。ぷるぷるぷる…、何とか耐えられるかも。
「どう?大丈夫そうか?」
「うう、…ずっとは無理だと思うけど」ズットハムリダッテ!ジャア、ジキュウセンダー。アタシ、イチバンノリシタラ、ノウズイススルネ!ズルイ!アンタナンカビリッケツ!…ああ、ぶしゅっとしたい。しかしゴキジェットはスカートのポケットに無理矢理ねじ込んであって、手も離せる状況じゃない。
「オッケー。わかった」何がオッケーやねん。
「どうするの?」
亀丸が銀河のリュックを床に降ろし、ベルトから下げたナイフを抜く。まさかそれで銀河を刺殺して、やっぱり囮に…。「まぁ、見てろって。いや、見えないんだけどさ」何、言ってんだこいつ。亀丸がフードを被る。「ドライブオン」ドラえもん?
「え?何?」銀河は首を無理に捻って銀河のやや後方で背を向けている亀丸を見ていた。その亀丸の象が歪む。亀丸だけじゃない。亀丸を中心にして空間そのものが歪んでいくようだ。魚眼レンズとか、そういった特殊なレンズが突然、銀河の前に現れたみたい。「何?何何!?」意味わからない。理解不能。亀丸を中心とした球体状の空間の歪みは段々と小さくなっていき、きゅうっと閉じてしまう。亀丸はその歪んだ空間に飲み込まれ、消えてしまった…。「か、亀丸!?」何?波が来たの?でも、それなら、銀河も波に飲まれている筈。「亀丸ー…!」
「おう。銀河、安心したまえ。ちゃんといる」
「え?え?どこ?」亀丸の声だけ聞こえる。何かが銀河の頭をふわっと撫でた。「ふひゃっ!」
「お、おい!…危ねーな。ちゃんと支えてろって!」思わず手を離してしまった扉は見えない何かに支えられている。
「何ぃ?何なの?恐いよ、亀丸ー!」
「落ち着けって。まず、扉、支えてくれよ」亀丸の声に従い、銀河は扉を今度は背で支えることにした。つっぱっていた腕が楽になり、教室全体を見渡せる。やっぱり亀丸の姿は見えない。身体を動かしたとき、何か、熱い物に手が触れた。布越しにプラスティックとか、金属とか、そういった物を触った感触。
「も、もしかして、亀丸、見えなくなってる…?」私、馬鹿な事聞いた?
「そう。銀河にしては理解が早くてよろしい」マジかよ。
「さ、さっき、頭触ったな痴漢野郎!」
「…ごめん。ちょっと、怯えた銀河に興奮して…ってそこかよ」亀丸の声はすぐ近くでしている。マジで透明になって近くにいる。「実は俺、超能力者だったんだ」
「嘘!?」
「嘘」
「…」
「…」
「信じた?」
「馬鹿にして。信じない。何だ、どういうトリックだ、こら」いや、ちょっと信じかけたかもしれなくもないけど。少なくとも人間が生身の状態で透明になんてなれやしないよな。
「トリックはあるけど秘密。この事も他言無用。言ったら銀河でも殺されたりするかも…。いや、言われちゃったらもう手遅れだから、口封じに殺されるのは俺かもしれないな。だから、できれば言わないで欲しい。俺にも付き合いがあるから」どんな付き合いだよ…。
「何?それって旧校舎の技術か何か?」
「だから秘密。それよりちゃんと扉、押さえてろよ。別に俺、不破さんみたいに強い訳じゃないから、斎藤さんの子供出てきたら困んだから」
「う、うん」銀河の背中にかかる重みが増す。今まで見えない亀丸が支えてくれていたらしい。「亀丸…いる?」亀丸が黙ると一人きりで取り残されたみたいで不安になった。
「おう」
「何か喋っててくれないと恐いんだけど」
「いや、斎藤さん雄に存在を気付かれたくない。だからもう黙る。ちゃんと傍にいるから安心して」
「…ま、マジで黙る?」…返事は無い。「もう黙った?」やっぱり返事は無い。本当にいるのかよ…。さっきまでは亀丸の声のする方へ銀河は顔を向けていたが、途端にどこを見ればいいかわからなくなる。ガランとして薄暗い科学室。幸い人体模型は無い。けれど真っ黒い死体の山はある。あれは旧生徒の死体なのか、それとも銀河達と同じような探索者達の死体なのか。「スカートの中とか覗いてないよね?」覗いてるかも。
静かだ…。フゥ、ツカレチャッタ。ミンナ、キュウケイシマショ?ソウシマショ。…ト、ミセカケテ、アターック!いや、そうでもない。斎藤さんジュニア達の突撃に合わせて、銀河は思い切り足を踏ん張った。がちゃっ、と外れかけの蝶番は音を立てたが何とか壊れずにいてくれている。アタックッテイッタデショ!ミンナ、キョウリョクシテヨ!斎藤さんジュニア達は、チームプレイが得意ではないようだ。
段々状況が馬鹿らしく思えてくる。私は一体、こんな所で何をしているのだろう。乙女や亀丸まで巻き込んで。後、藤咲先輩。恐い。そう、恐い思いまでして。
ゲームなど少し我慢すれば良い物を動機に。何故か思いついた時は勢いがあったんだよな。万事、そういうものかもしれないけど。あの時はそれで、全て丸く収まるものとばかり思っていた。ついでに糞爺も助かるし。
ああ、先走ったなー…。何もかも捨ててどこか遠くへ、しがらみの無いパラダイスに行きたい…。そんな所、この世のどこにもありゃしないけど。
オト。オトガスルネ。斎藤さんジュニア達がまた騒がしくなった。オトウサンカナ?浮遊的な思考が打ち切りになり、感覚器的な銀河になる。耳を澄ます。斎藤さんジュニア達のぎちかさ音とは違う、もっと重いぎちかさ音が確かに廊下の方から響いてくる。ぎちかさぎちかさぎちかさ…。早い。来る。もう来る。亀丸…。亀丸、本当にいるんだろうなぁ…。逃げてないよなぁ…。恐いよ、亀丸ぅ…。心臓がばくばくして、自分の胸の動きが信じられない。気持ち悪い。誰かの心臓を無理矢理、移植されたみたい。息が荒くなってくらくらしてくる。これが酷くなると気絶してしまう。何度もなったことがあるから、慣れている。ゆっくり息を整える。できるだけ遠くを見るようにする。楽しい事を考えようとする。プレハブ小屋で乙女とごろごろする。亀丸とゲームする。桐生家の使用人達の生態を眺める。これが終わったら全部できる。…別にこれは死亡フラグじゃない。大丈夫だ。しゃきっとしてきた。扉越しの斎藤さんジュニア達の蠢きが激しくなる。がちゃがちゃがちゃがちゃ。蝶番の音がひっきりなしに続く。つっぱっている足が本当に棒の様。もう銀河の意志とは関係なしに扉を押さえている。背中の方はまだ慣れていない。汗が溜まって、ぐじゅぐじゅしてむず痒い。ぎちかさぎちかさ…。
音が止まった。
ダレダオマエ?顔が覗いてそう言った。
廊下の蛍光灯から注ぐ光に斎藤さん雄の顔は照らされている。雌とは違い、それほど大きくはないのか、覗かせている顔の位置は科学室の引き戸の高さの半分ほどの位置だった。枯れ木色の鎌が拭う様な仕草で口元を覆った。
斎藤さん雄が覗いているのは教室後方の、銀河達が入ってきたままに開け放たれていた扉で、教室前方奥で科学準備室へと続く扉を押さえている銀河とはまだ距離がある。斎藤さん雄が銀河を警戒しながら、ぎちかさと教室へ入ってくる。身体を起こすと身長は大体、普通の人間サイズ。人間の上半身に巨大なカマキリの身体が着いているところは斎藤さん雌と変わらないが、身体のバランスと色が違った。斎藤さん雌より人間部分の比率が大きく、カマキリの尾の部分は大体、1メートル半程。色は胸の谷間、裂けたセーラー服から伸びている鎌と同じ、枯れ木色をしている。
人間部分は全く、雌と同じで、女性の身体をして、顔まで同じであるが、藤咲きゅーぶがこれを雄と言うのなら雄なのだろう。きゅーぶが見た個体とは別の個体だとは思いたくない。そんなにいられちゃ困る。
斎藤さん雄は教室を奥まで進み、机の陰に隠れていた死体の山を発見した。距離はあるが、銀河の真正面だ。亀丸は何をやってるんだろう。とっととやっつけろ。人間部分の腕をだらりと下げ、死体の山に顔を近づける。瞳はまだ銀河を警戒している。一瞬だけ、死体の山へと視線を写し、薄らと口元を動かした。暗いし、廊下から伸びる光からは陰になっているので、それが最終的にどういった形に結ばれたのかはわからない。ただどんな形だとしても不気味であることには変わりないだろう。身体を起こし、再び視線は銀河へ。ナニヲシテル?いや、あんたのお子さん達を必死に押し留めています…。斎藤さん雄は床に積み上げられた死体の山を避け、滑らかな仕草で二つの机を乗り越え、銀河に近付いた。銀河の後ろでジュニア達が騒ぎ出す。パパ!ダディ!オトウサン!
斎藤さん雄はもう一跳びで銀河をその鎌にかけることのできる位置にいる。ジュニア達の声を聞いてもすぐには答えず間を置いた。オマエラナンカシラナイ。ジュニア達に衝撃が走る。ちょっと背中が軽くなった。オマエタチハワタシヲクオウトシタヤツノコ。ワタシガハラヲイタメタワケデモナイ。ムシロニクイ。ワタシハココニ、アイツノエサヲウバイニキタダケ。甲高い声で斎藤さん雄がゆっくりと語る。ジュニア達のどん引き具合が伝わってくる。
…斎藤さんにも色々あるんだな。でもさ、それを言わない優しさとかあっても良くない?銀河は思うが口には出さない。他人の家庭の事情に口を挟むのは面倒臭い。それに、斎藤さん雄の鎌が大きく開かれ、さっきから銀河を威嚇している。パパ、コワイネ…。ヤナヤツー。ゲンメツー。可哀そうな子達。コッカラデタラアイツモススッチャウ!そうでもないかも。ダマレ!と斎藤さん雄がジュニア達を一喝する。また静かになった。
斎藤さん雄と目が合う。肌は青白く、血色が悪い。頬骨が出て、気の強そうな顔立ち。瞳は深い。飢えていて空っぽ。そんな瞳。アンタ、チイサナカオダネ。カワイイネ。かけられた言葉が余りに意外だったので飲み込むのに時間がかかった。な、何?褒めてくれてるの…?デモ、ソノブン、オツムモチッチャソウダ。さいですか。身体を上下させ、銀河の全身を舐めるように見る。カラダモホソイシ、オオキクナッタラビジンニナルヨ。いや、もう高校生なんで。残念ながら、身長は打ち止めみたいなんで。鼻をすんすん鳴らす。…オトコノニオイガスル。深い瞳が銀河を睨みつける。何してるんだ亀丸は…。あいつ、本当に逃げたんじゃないだろうな。いや、逃げたに決まってる。ゆっくりと斎藤さん雄の右鎌が銀河に向かって伸びる。アア、ムカツクネ。ガキノクセニ。ブス。さっきまで褒めてくれてたじゃん。銀河の歯がカチカチ言っている。脚が痺れたみたいで、意識していないとがくがくと震えそう。もう駄目かも。斎藤さん雄が前に出る。完璧に射程内。斎藤さん雄は私をどうする気なんだろう。別に銀河は目的じゃないけど、こう難癖をつけるからには見逃してはくれないんだ。腐った死体を齧るより、生きたまま齧り付く方がいい派の斎藤さんなんだ。牛肉の場合は屠殺後、適切な温度で時間を置き、熟成させた方が酵素の働きで肉がやわらかくなり、アミノ酸、つまり旨味成分が増しておいしいって美味しんぼで読んだけど、でも、そういうことはどうでもいい斎藤さんなんだ。ワイルドに生きたままの鮮血滴る生肉に齧り付くシチュエーションが一番のスパイスとかいうタイプなんだ。わー、乙女と気が合いそう。あの鎌で斎藤さん雄は私をどう殺すんだろう。ゆるやかにカーブして先はピンと尖っている。内は付け根に向かってギザギザハート。普通のカマキリの場合は抱え込んで獲物を仕留める。でも、斎藤さん雄はカマキリっぽくてマンティス斎藤さんだけど、実際にはカマキリじゃない訳だし、カマキリと同じとは限らないかもな。丈夫そうだし、突き刺したりもできるかもしれない。生きたままあの棘でじわじわ引き裂かれるのは嫌だな。物凄く痛くて、熱そう。
アハハ、ナイテルネ。コワイ?うぜー、煽ってくんな。鎌が振り上がる。恐いと涙が出るんだなー。知らなかったなー。あれは興奮して泣き叫ぶから、そのついでで出るもんだと思ってた。多分、鼻水も出てるな。汚い死に顔になるぞ。乙女に見られたくない。鎌が振り下ろされる。ああ、やだよう。
クムゥっとかいう、掠れた音が聞こえて、斎藤さん雄は後ろに下がっていた。
見ると首に亀丸の持っていたナイフが刺さっている。ナイフの柄を伝ってぼたりぼたりと血が流れる。斎藤さん雄は必死に人間の両手を使い、それを押さえようとしていた。ナニヲシタ。掠れてひゅーひゅー言う声。目だけでぐるぐると辺りを見渡している。左右の鎌を大きく構える。
「銀河、拳銃!」銀河のすぐ目の前で亀丸の声。「きゅーちゃんに借りた拳銃!」
「え?え?」
「どこだよ!」
「ポッケ!」
「どこの!」
ダレダ!ダレガイル!
「右!…ごめん!違う!左!…うひゃっ!」生温かい物が銀河のスカートのポケットの中を犯す。乱暴に小さな固い物、拳銃を抜き取った。抜き取られた筈の物は見えない。代わりに銀河のポケットにはべったりと血が着いていた。
斎藤さん雄と銀河の間に陽炎の様な軌跡が現れたかと思うと、斎藤さん雄はカリカリと足音を立て、死体の山に蹴躓いてバランスを崩していた。鎌が振り下ろされて、何かに当たって止まる。パンパン!二発の銃声。斎藤さん雄の胸、二本の鎌の付け根から血が噴き出し、何かで跳ねかえり、下へ流れ落ちていく。…亀丸の透明化はスキンの様な物ではなく、表面に着いた物も透明にしているみたいだ。斎藤さん雄の首に刺さっていたナイフが抜かれ、見えなくなった。首からはもう、ほとんど血が流れない。びくんびくんと、人間部分が痙攣し、カマキリ部分はカサカサと意志も無く蠢く。
見えない亀丸を掴んでいた鎌が解かれた。「ドライブオフ…」血塗れの亀丸が現れる。
「馬鹿!何でぐずぐずしてたんだよ!超恐かった!!」怪我は無い?、ぐらい言えないのか銀河は。本当に馬鹿だな。
亀丸が斎藤さん雄から離れようとするがふらついている。実験机に手を着き、動かない。突然、背中を丸め、俯いたまま動かずに荒い息を繰り返す。
はぁはぁ言いながら、乙女が現れる。「銀河!無事っ!?」扉の淵に手を着いて息を整える。動かない亀丸を見て「何?…どういう状況?」遅いんだよ。乙女ー。
「い、いや…」亀丸が顔を天井に向ける。「だいじょぶ。銀河無事。斎藤さん、やっつけた」片言になっている。
「どこかやられたの?」
「違う…。な、何か…。あまりにウェットな事したから…。血の気が引いちゃって…」ふらふらと頭を揺らし、また俯く。貧血のようだ。
「…あら、時田君って意外と情けないのね」銀河にも増して酷い奴。
亀丸は無理に背筋を伸ばし、もう一度顔を上げた。ふぅー、と大きく息をして呼吸を整える。身体が震えている。「もう大丈夫。…それより銀河の方、どうにかしないと」
え?あ、そういえば、扉、押さえてなくちゃいけないんだった。
アイツ、ユダンシテルゾー!ワー!イッケー!セカイノトビラヲヒラクンダー!ばっきーん、と音がして科学準備室の扉が決壊した。
***
「何!?何よ、何なのよ、あれ!?」銀河の前を乙女と亀丸が走る。後ろには波の様に押し寄せる斎藤さんジュニア達の大群。大体、一匹30cm程で斎藤さん雄をそのまま小さくしたような奴らだ。色は薄緑。
「ちょ、ちょっと、…待ってよ!」とりあえず科学室をこけずに廊下まで抜け出せただけでも銀河にしてはよくやったと思う。斎藤さんジュニア達の内、最初に出てきた一群ががまだぴくぴくと動く斎藤さん雄に群がってくれたお陰もあるだろう。
「斎藤さんの子供!科学室の奥に卵があった!」
「卵?おへそ無いの!?雷様も恐くないわね!信じらんない!」何を言ってるんだ。乙女はどうも小さくてわらわらと群れて襲ってくるものが苦手らしい。初めて知った。…そりゃ、日常、小さくてわらわらしたものに襲われる機会なんて滅多に無いからな。誰だって苦手か。
そうこうしている間に二人から遅れている銀河に先頭の斎藤さんジュニア達が追いつきだす。数匹が並走し、飛びつくタイミングを窺っている。言葉は無く、目がマジだ。「駄目!だめだめ!待って!やらるるっ!」
「もう!」乙女がUターンしてきて、銀河に纏わりつこうとしていた数匹の斎藤さんジュニアを蹴散らし、よろめく銀河を片腕で拾い上げ、更にUターンする。「ほんと、お荷物!荷物なら荷物らしく背中に取っ手でも付けたら!」さ、さーせん。
「ふ、不破さん、相変わらずパワフルだね…」息を切らしながらも亀丸は苦笑いしている。
「そう?」
「もしかしてスポーツジムとか通ってる?」
「そういうこと女の子に聞く?」
「え?…駄目なのかな?」
「強いて挙げれば肉よ。肉。私の様になりたかったら時田君、肉食いなさい。肉」
「あー、…そういうもん?」苦笑いから引きつり笑いへ。銀河の知る限りでは乙女がスポーツジムに通っている事実は無い。元から筋肉質なのだ。やらかいし、どう見てもたぷたぷの脂肪なのに、乙女の場合はそれが筋肉らしい。ミオスタチン関連筋肉肥大とかの亜種なのかもしれない。きっと解剖してみたら新しい学名がつく。乙女症候群とか。全然、名前に合わないな。
「あばあばあばあば」一方、進行方向に頭を向け、腹で乙女の右腕に支えられている銀河は激しい揺れに耐えている。乙女の言う通り、完全にお荷物。今度、生まれてくる時は背中に取っ手を付けてもらおう。今度、生まれるって何だ?人間、二度、生まれるという客観的観察は知らない。今からでも遅くは無いから、取っ手を付けてもらうべきだろうか。
「ところで不破さん、きゅーちゃんどうしたの?」
「あ?……いや、何?その…急いでたから置いてきたわ。まだ、その辺であのデカブツとやりあってるんじゃないかしら?」
「そんな!」と二人が話していると、225°に曲がる廊下の角から丁度、きゅーぶの後ろ姿が現れる。「きゅーちゃん!」きゅーぶは脚を大きく開き格好良くポーズを決めて手に持った拳銃の煙を吹き消す仕草をしていた。奥には倒れた斎藤さん雌の巨体があり道を塞いでいる。
「あれ?亀丸君!無事だったんですね!」と振り返り目を輝かせ亀丸に言い、それから唇を尖らせ、「乙女さん!置いてくなんて酷いじゃないですか!」と乙女に文句を言う。お荷物は無視。
「悪かったわね。でも貴方一人でもトドメさせそうだったし」
「そういう問題じゃありません!ベレッタの弾無くなっちゃいましたよ!帰りだって何に襲われるかわからないんですから!これじゃ心許ないです!」
「そう!そういう問題じゃない!きゅーちゃん、こっち!走って!」
「え?え?」段々と斎藤さんジュニア達の波が近づいてきている。頭を垂れて見る銀河にはそれが逆さに見えた。すごい数だ。あのもこもこの中に一体、何匹の斎藤さんが入っていたのか。「何ですか?あれ!」
「科学準備室に卵があってさ!」乙女にした説明をきゅーぶにもする。「って、それはいいって!走って!」
きゅーぶが肩からストラップでかけていたをショットガンのグリップを握り、銀河達越しにぱんぱんぱんと何発か斎藤さんジュニアの波に向かって撃ちこむ。一二匹の犠牲者が出ても、その周りがわっと退くだけで、波全体の進行速度は変わらない。「なるほど。これは厄介ですね…」きゅーぶも合流し、科学室があった八角形の内、一番内側の廊下から中廊下を通り、外側廊下へ出た。そこでも内側の廊下から溢れた斎藤さんジュニア達が既に波をつくっている。
脇に階段が見えてくる。「きゅーちゃん、他の階に逃げよう!」
「駄目です!他のフロアはどういう構造をしているかわかりません。階段を昇った所でいきなり行き止まりって可能性もあります!」
「じゃあ、どうすんのよ!」
「ゼブラさん!波の到達予測は?」15プラマイ3minと、きゅーぶの胸元からスレートが電子音声で伝える。「この調子で斎藤さんの子供達と距離を保って波を待ちましょう!」
「15分も?長距離は苦手だって言ったでしょ!」わっとと…。乙女の右腕の力が抜けかけ、銀河がずり落ちそうになる。確かに乙女のペースは落ちてきていた。亀丸ときゅーぶに先行され、後ろでは斎藤さんジュニア達が近づいてきている。
「お、乙女!私、走ろうか?」
謙虚に銀河が申し出るが、乙女はぺっと唾を吐いて「荷物は黙ってて!」と却下されてしまう。銀河をホールドする腕の力が強くなる。ぐえ!
「げ!皆さん!耳を塞いで!口開けて!」いつの間に二手に分かれたのか、先行するきゅーぶ達の前からも斎藤さんジュニア達が押し寄せて来ていた。きゅーぶがそちらへ向かってぽーい、と黒いボールを投げる。音響弾だ。慌てて言われた通りに耳を塞ぎ、口を開く。ぱあん!耳がきーん。斎藤さんジュニア達がたじろぎ、痺れたように制止する。「仕方ありません!籠城戦です!」
「何?何、言ってるか聞こえない!」銀河を抱えているため耳を塞げなかった乙女は少しふらふらしている。きゅーぶが一番近い教室の扉を開け、軽く確認し中に入った。
「不破さん!こっち!」亀丸が日傘を持っている乙女の左腕を引き、教室へ誘導した。戸を閉める。きゅーぶが腰に下げていたペンライトで室内を照らす。妙に細長い構造。覚えがある…。
「亀丸、ここ!」亀丸は後ろで戸を閉めていた。銀河は天井を見上げる。もこもこした物が張り付いている。室内の中央には白い中型の冷蔵庫があった。間違いない。科学準備室だ。冷蔵庫は奥にあるものとばかり思っていたが、どうも、更にその奥があり、廊下からも直接、出入りできるようになっていたらしい。…いや、でも、外側の廊下を走っていた筈だよな
?どういう構造?頭が痛くなってくる。
亀丸も気付いたらしくサングラスを通して天井の卵を透かし見る。「何です?」きゅーぶも上を見上げた。「ああ、卵ってあれですか」気付いてなかったのか。意外と適当だなこの人。
「いや、大丈夫。空だ。それよりきゅーちゃん、向こうにも扉があるんだ」
「はい。バリケードを作りましょう。亀丸君はそっちの方をお願いします。乙女さんはこっちを!」
「え?」乙女は額を押さえている。
「藤咲先輩、乙女、だいじょぶ?」
「大丈夫です。あれはただの脅し用ですから、人体に影響のあるレベルの物じゃありません。だから、斎藤さん達もすぐにまた動き出します!早く!」
「乙女!私、降りる!藤咲先輩がバリケード作るの手伝ってって!」ぷぎゃ!いきなり乙女が銀河を離すので、床に叩きつけられてしまった。生まれたての斎藤さんに付いていた粘液なのか、床はねとねととしていた。身体の前面がぬちょぬちょになる。気持ち悪い。
「煩いわね!聞こえてるわよ…で何?」聞こえてないじゃん!乙女は開いた右手の小指で耳をほじっている。
「あのね!藤咲先輩がバリケード作ろうって!」
「わかったわ」
きゅーぶが机の角を掴む。「乙女さん!そっち持ってください!」乙女が壁に据え付けられていた大きな薬品棚をがこっと外し、持ち上げた。「あ…」
「で、どこ塞げばいいの?」
「え、えっと、こっちに…」のっしのっしと狭い科学準備室内を自分より大きな棚を持ち、乙女が歩く。きゅーぶが若干、いや、かなり引いている。どすん、と科学室へと繋がる扉の前が棚で塞がれる。
「銀河、殺虫剤貸して!」亀丸は左手を引き手にかけ、右手右足で手前の戸の側面を押さえていた。斎藤さんジュニア達は何とか中に入り込もうと、薄い鎌を隙間から滑り込ませ、ぴきーぴきーと喚いている。銀河が亀丸の元まで這って行き、ポケットにねじ込んでいたゴキジェットを差し出す。左足の靴先のゴムをブレーキにして戸を押さえ、引き手から手を離し、亀丸がそれを受け取る。ぶしゅー!ナニコレモーヤダー!慌てて鎌が抜き取られる。殺虫剤、何気に役に立ってるんだけど。ありがとう、花散里(偽名)。
「時田君、退いて」乙女がまた別の棚を取り外し、持ってくる。ぱっと、亀丸が退くとそこにどすんと置く。手をぱんぱん。「完璧ね。初めからこうすれば良かったじゃない」と満足げ。
「そ、そうですね…」ときゅーぶの控えめな同意。この状況は乙女の馬鹿力が無ければ成り立たないと本人は自覚していない。ナンダコレー!トオレナイー!科学室側から入り込もうしてきた斎藤さんジュニア達もそこにある筈の無い薬品棚に驚きの声を上げている。
「いや、駄目だ…」と亀丸が妙に冷めた声を出す。亀丸はまた天井を見上げていた。「あいつら、上からも来るぞ」
「何?穴でもあるの?」
「わからない。でも、天井裏に集まってる」確かに斎藤さんジュニア達の発するぎちかさ音が卵嚢に覆われた天井からくぐもって聞こえてきていた。多分、亀丸にはあの非可視何ちゃらグラスでその様子が見えているんだろう。
無造作にきゅーぶが天井に向けて発砲する。「うぎゃ!」狭い室内でいきなり発砲されたので銀河が変な声を捻り出す。ざざざっと、斎藤さんジュニア達の引く音が聞こえる。
「確かにいるみたいですね。アクセスドアを開けるぐらいの知能はありそうですし、来ますね」
「え、嘘、やだ、どうしよう」ぱらぱらと卵嚢の表皮が剥がれ落ちてくる。相当数がいそうだ。
「落ち着いてください。一度に入ってこれる数は限られていると思います。私が上を狙いますから、亀丸君と乙女さんは下に降りてきたものを潰してください」きゅーぶがペンライトを口に咥え、天井を照らし、ショットガンを上へ向けた。乙女と亀丸が目配せし頷き合う。
「あ、あの藤咲先輩、私は…?」銀河が小さく手を上げる。何かナチュラルに省かれている気がするんですけど。ぱっとペンライトの光が銀河に向く。眩しい。
「ふぉ、ふぉーれふね…」頭を捻る。確かにこの状況で銀河が何かの役に立てるとは思えないけれど。
「あんたはあれにでも入って震えてなさいよ」乙女が顎をくいっとして部屋のど真ん中に不自然に置かれている冷蔵庫を指す。
「何でだよ!」意味がわからん。
「ふぉれ、いいんふぁないれふか?」きゅーぶはうんうん、唸って、また天井に狙いを定める。
室内がオレンジ色の光に染まる。亀丸が冷蔵庫の上の段を開け、中の棚を取り外しだしていた。「え?何?亀丸、何してんの?」
「いや、銀河入れる準備」は?何言ってんだこいつ。棚はすぐに外し終わる。「この室内だったら、冷蔵庫の中が一番、安全だと思うし」た、確かに言われてみればそうかもだけど。
「え?…冗談じゃないの?」乙女が銀河をすくっと抱き抱えた。「お、乙女…?」冷たくしても銀河はおいしくないと思うよ。乙女がじっと銀河を見る。威圧的だ。な、何だよ。そのまま無言で銀河を冷蔵庫に押し込み、ばたん、と扉を閉めた。「ちょ、ちょっと…」すぐに庫内は暗くなる。狭い。脚を畳んで、体育座りの状態、横向きで嵌り込んでいる。思ったより寒くはなかった。というか、自分の体温で蒸し暑い。壊れているのかもしれない。「や、やだよ、恐いよ、これ…」扉に接していた左手で扉を押す。嘘。開かない。「やだ!開けてよ!」返事がない。乙女が扉を押さえているのだろうか?パンと発砲音がした。身が竦む。ヤラレターと甲高い斎藤さんジュニアの声。もう中に入ってきたのか?パンパンと発砲音が続く。斎藤さんジュニア達は冷蔵庫の周りにも纏わりついているのか、ぎちかさぎちかさ聞こえてくる。「乙女!亀丸!」中にいるのも恐いけど、外に出るのも恐くなってきた。
ぶしゅー。「あれ?もしかして、ゴキジェットって効いてない?」亀丸の声。
パンパン。「ふぁっふうがいふぁ、こんきゅうにょきもんろきんぎくにきくやくじゃいれふから、さいろうさんにはききまふぇんよ!」ふごふご言うきゅーぶの声。
ぶちゅっ。ぶちゅっ。「踏みなさい!踏みゃ、死ぬわよ、こいつら!」乙女の声。三人共、まだ無事みたいだ。
「何だよ、今までは嫌がってただけだったのかよ」カラコンとゴキジェットが床に落ちる音。
デブダー、デブガイルー!「ちょっと、今、言ったのどいつ!?」
「お、俺じゃないよ!」
「わかってるわよ!」
オッパイオオキイー、ズルイー!「ほめけもかましかげまふぇんよ?」パン!
三人の口数が段々と少なくなってきた。弾が尽きたのかきゅーぶの発砲音も聞こえない。生きているのか、声をかけても返事は無く、まるでこっちの声が向こうには通じていないようだ。斎藤さんジュニア達の踏みつけられるかした最後の断末魔の叫びだけが淡々と続いている。銀河はスレートをスリープから起こし、画面を見る。波の到達予測は残り、120secプラマイ20。長くて二分半。その間さえ、耐え忍べばいいという訳ではなく、波を越えた後も、斎藤さんジュニア達の内の一部は銀河達と共に再配置されるだろう。どれ程の範囲のジュニア達が着いてくるかはわからない。そもそも波という現象や旧校舎の事自体がわからないのだから仕方が無い。旧校舎調査委員会、双子の仕事はまだそこを解き明かすまでには及んでいない。
「ん?」振動してる?銀河は到達予測のカウントダウンを続けるスレート画面から少しだけ顔を上げる。何だろう?背中がムズ痒い。斎藤さんの卵嚢から垂れた粘液で濡れているせいじゃない。体育座りのし過ぎで痛くなって少し浮かしていたお尻を底に降ろす。ブウウウウンと低い振動が薄い尻肉を通して骨盤にも響く。「え?何?」本当に何だ?スレート画面の明かりで照らされた庫内を見回す。壁に手を触れる。間断なく、強弱の変化なく続く振動は機械の物だ。もしかしてもしかすると冷蔵庫が振動している?壊れていたんじゃないのか?このままじゃ冷やし銀河になってしまう。焦って再び扉を開く努力をしだすが、やはり開かない。自分だけこんな安全な所に隔離されている上、更に助けを求めるのも気が引けるが声を上げてみる。「乙女ー!亀丸ー!藤咲せんぱーい!」誰か気付いてー!何か変だよー!それも駄目。こっちの声は本当に遮断されてしまっている。それどころか、気付いてみると向こうからの音も聞こえなくなっていた。そうだ、スレートで連絡を取ろう!銀河にしては珍しく頭が回る。しかし、スレート画面を見ると、合議リンクを示すOのマークが消えていた。合議リンクがダウンしている。接続先が見つかりません。あれ、やばい。これ、本格的にやばいぞ。斎藤さん雄と対面していた時や、斎藤さんジュニアの群れに追われていた時より地味だけど、確実にやばいんじゃないか?
「誰かー!気付いてー!出してー!」外へ声が届かないとわかっていても諦めきれずに声を張り上げ、扉を叩く。「出してー!出して、出してー!」庫内の振動が少しだけ強くなる。冷えてはこない。爆発とかしたらやだな。「やだ!開けてよー!」浮遊感。急な浮遊感。血が昇ってくる感覚。叫び過ぎておかしくなってる?そんなことない。やっぱり身体が浮いているような感じがする?「何ぃ?今度は何ぃ?」情けない鼻声が検閲なしに漏れる。「落ちてる?もしかして落ちてる?」どこに?意味がわかんない。もしかして波が来たのか?スレート画面を見る。45secプラマイ8。まだのはず。…いや、カウントダウンが止まってる。いつから?スレートが操作を受け付けない。フリーズしてる。固く目を瞑る。ああ、これが夢でありますように。今すぐ、目が覚めますように。
落下の感覚は続いている。もう、目を瞑る事も止めた。スレートはフリーズ状態のままスリープし、目を瞑っていなくても庫内は真っ暗だ。もう一時間も二時間もこうしている気がする。自分が闇に溶けたみたいだ…、と少しロマンチックな事を考えて気を紛らわそうとするが、狭い所に押し込められている所為で身体のあちこちが痛くて、浸ることができない。
ぼんやりととりとめも無く過去の事を思い返した。色々と。善四郎の養子になった頃の事とか、旧校舎に迷い込んだ時の事、乙女と初めて会った時に、亀丸と出会った時。眠りに落ちる直前のまどろみの中の思考の様にそれらは浮かんでは消えして、脈絡がない。もしかして、これは走馬灯に当たるのか?いや、あれって、死にかけで見るんだよな?確かに今の状況は死に近づいているのかもしれないけれど、身体的にはぴんぴんしていて、頭の具合もいつも通りの筈だ。いつも通り悪い筈だ。弱気になって、ただおセンチになっているだけか。膝を伸ばしたい。思いっきり背伸びしたい。このまま背を丸めて死ぬのは嫌だ。いや、どんな姿勢でも死にたくはないけど。息苦しい。落ちている。
落ちている。無限に落ち続けるというのはどういう状況だろう。重力は常に冷蔵庫の底方向へ感じている。わからない。頭が回らない。回っているのか?チューブでできた輪っかがあって、そこを冷蔵庫がくるくる回っている。辺りは無重力で、銀河は、その加速度によって落下しているように感じている。ということは冷蔵庫は常に加速していて、その内、光速に達する?すごい冷蔵庫だ。しかし、それなら、外側に遠心力が働く。だから違う。いっそ何もない無限の空間であってもいい。それなら、直線に加速しつづければいいのだから。目的地の無い、無限の旅を続ける冷蔵庫。できればコールドスリープ機能を付けて欲しかった。乗組員、銀河には有限性がある。
落ちている。落ちているのか?よくわからなくなってきた。恐い。
落ちている。まだ生きている。
落ちている。自分の臭いしかしない。
落ちている。ちょっと寂しい。もしくはハイ。
落ちている。…落ち。