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受信ログ5025

 あれから一週間、銀河は外出禁止となった。別に銀河が悪かった訳じゃないのに。でも、それを御爺様改め御父様に言うのも面倒だった。あの人は忙しいらしくいつも以上に気が立っていたから。忙しくしてくれていて、銀河に構わないでくれているのはいい。でも、使用人達に当たり散らすのは止めて欲しかった。屋敷内がもうずっとぴりぴりしている。

 「怪獣が来るのよ」双子が銀河を挟み、両耳にそっと囁いた。銀河のフォークを握っている手が汗ばんだ。怪獣が来る…。怪獣みたいに恐い事が起こる。確かに銀河が戻ってから屋敷に漂っている雰囲気は東宝の怪獣映画の冒頭の緊張感に似ていた。大体、怪獣映画というのは怪獣が出てくるまでがおもしろい。実際に怪獣が現れると途端に着ぐるみショーになる。久留美ちゃんは着ぐるみショーの方が好きだった。かわいいかわいいと言いながら、銀河をハグしてくれるのでそれも良かった。そんな事を考えたのは、実際には双子の言う怪獣が恐かったからだ。双子は銀河を恐がらせるのが得意だ。

 その怪獣が来る瞬間の銀河はドレスに生まれても良かった様な仕立てのいいカーテンに包まり、窓の外を見ていた。ちらちらと大粒の雪が降り、敷地の向こうは暗くてほとんど何も見えない。昼までは車や人が忙しなく蠢いているのがわかったが、今はそれも静かになってしまった。屋敷の使用人達の緊張もピークに達しているようだった。双子は怪獣と銀河を脅しつけるぐらいだから、それが実際には何なのかわかっているようで、余裕があってむかついた。

 うーうー、と遠くでサイレンが鳴る。確かに怪獣の声みたい。食堂のテーブルの上にはモニターが並べてあって、その全てにニュース番組が流れている。銀河には難しくてよく意味がわからない。ミサイルとか細菌兵器とか言っている。ミサイルは飛ぶ物。細菌兵器は細菌をばら撒く兵器。それぐらいしかわからない。サイレンが止んだ。静かになった。逆にモニターの中のニュースキャスター達は煩くなった。

 …ミサイルは不発弾だった。でも、それは秘密らしい。初めから不発弾だったのだ。そして本当はどこの誰が飛ばしたのかも秘密。「秘密よ」「秘密」くすくす。双子がベッドの中の銀河に囁く。秘密なら話さないでいて欲しい。次の日のニュースにはミサイルが槻城市に落ちる映像が繰り返し流されていた。それ以外の映像はその件に関して皆無。嘘のミサイルが嘘の細菌兵器を槻城市近隣にばら撒いてしまって、槻城市近隣には今後10年は人が住めなくなったという嘘のニュースをやっている。

恐い。

銀河は嘘の街に住んでいる。


 ***


 御局の桐壺(偽名)と秘書連筆頭の浅丸泉(偽名)の許可を取り、銀河は糞爺の部屋のブザーを鳴らした。ぶぶー。「はーい」と声がして、胡蝶ちゃん(偽名)が顔を出す。胡蝶ちゃんは相変わらず他の使用人達と同様、ナースの格好をさせられていた。胡蝶ちゃんは医師免許持っているのだから、桐壺がしている女医のコスプレをするべきだと思う。というか鰐に噛まれた銀河に、唾付けとけば治るとかいう、投げやりなアドバイスをくれる桐壺が女医姿なのがおかしいのだ。ばばあだから、似合っていると言えなくもないが。でも、よく考えてみると胡蝶ちゃんが女医の格好したらコスプレじゃなくて、本当に本物の女医になってしまうのか。うーん、難しい。とりあえず、ナース姿の胡蝶ちゃんはかわいい。「あら、銀河さん」

 「御爺様のお見舞いに来ました」畏まって銀河は言う。まぁ、どうぞ、と胡蝶ちゃんは部屋の中に招き入れてくれた。

 「何しに来やがった」と入った瞬間、辟易とした怒号が飛んだ。声がでかい。ベッドには糞爺、桐生善四郎がクッションに上半身を埋めながら横たわっていた。部屋の内装がいつもと違った。まるで病室の様になっている。壁にかけられたモニターにはひらひらとただ一枚の枯れ葉を残した幹が表示され、随分、病身をお楽しみの様だ。サイドテーブルにはガラスの大皿に入れられたシロップ漬けの桃まであった。本当に全部、ただのプレイなんじゃないのか…?善四郎の服の上からでもわかる無駄に逞しい筋肉を見てそう思う。

 「こんにちは、御爺様。御加減はいかがですか?」

 「如何も何も見りゃわかるだろ。死にそうだよ。阿保」どこがだよ。糞爺。ぴんぴんしてるようにしか見えんわボケ。「何しに来やがったかって聞いてんだ。言っておくけどな、遺産はお前にビタ一文やらんぞ」遺産だと…?

 「遺産なんていりません。私は御爺様の御身体が一日でも早く良くなられればと思いまして」嘘だよ、欲しいよ、遺産欲しいよ、超欲しいよ!くそー。

 「おめえにまでそんな事言われると、気が滅入ってくるわ」おえー、と善四郎が嘔吐く振りをする。「俺、本当に死ぬんじゃねーの?」死ぬ気なんかこれっぽっちもないくせに。

 「銀河さん、善四郎様、こんなだけど、本当に具合が悪いのよ」と胡蝶ちゃんが表情を陰らせて言う。素直な胡蝶ちゃんが言うのなら、それは間違いないのだろう。第一、善四郎はマグロの様にあくせく動きまわっていないと酸欠に陥りそうなタイプの人間だ。それが、こうして昼間からベッドに横になっているのだから、具合が悪いというのは疑いようがない。ただ立っていようが横たわっていようがこの糞爺の人でなしの性根は変わらない訳ではある。

 「御爺様、それで私、考えたのですけどね」そう、ここ数日間、銀河はずっと考えていた。…来月発売される新作ゲームの内、一体、どれを買うべきかを。ドラゴンをクエストするゲームか、はたまたファイナルをファンタジーしたり、ファイトするゲームか、もしくはメがテンになるゲームか。その他にもまだあるし、正直、今月発売分でも欲しくて買っていないタイトルが残っていた。そして銀河の出した結論はこうだった。全部買う。無理してでも買う。…どうせ一部は積みゲーになるんだろうなー、と思いながらも我慢できない。そして、つまり、お小遣いが足りない。

 銀河が申し出をしようとしているのに、それを阻むように善四郎が大仰に手を振るう。「やめろ、やめろ!お前の考えなんて聞くだけ無駄だ」何だと、この野郎。「お前みたいな馬鹿はな、考えれば考えた分だけ馬鹿になるんだ。余計な事するな、阿保」うう。身に覚えはあるが…。しかし、今回はめげない。めげない、しょげない、泣いちゃ駄目…。

 「私、旧校舎に行こうと思います」

 善四郎が喚くのを止めた。…どうだ!恐れ入ったか。少し黙って考える様子を見せ「なるほどな…。それで?」疑わしそうに眉を顰める。

 「旧校舎には色々、不思議な物がありますし、きっとその中に御爺様の御身体を直す物もありますわ」

 「馬鹿!」また怒鳴られる。な、何がいけなかったし。「そうじゃねえよ、そうじゃ。いつも本題から話せって言ってんだろ、このトンマ。俺はな、お前と違って忙しいんだよ」今は寝たきりじゃん!「何が欲しいんだ?金か?幾らだ?」ううー…。

 人が下手に出ていれば…。「そうだよ、糞爺!今月の小遣いあげて欲しいんだよ!馬鹿!」

 「幾らかって聞いてんだろ、クソガキ!人の話をちゃんと聞け!」善四郎がサイドテーブルのガラス皿からシロップ漬けの桃を引っ掴んで銀河へ投げつける。べちゃっと、銀河の顔面に桃の切り身が当たる。

 「善四郎様、そんなに興奮なさらないで…」胡蝶ちゃんがおろおろと善四郎を気遣う。所詮、胡蝶ちゃんも善四郎の使用人なのだ。シロップの匂いに塗れた銀河など、見ちゃいない。わかっとるわい、と善四郎は更に吠えてガラス皿そのものを太い腕を振るってはね飛ばす。ばしゃんと胡蝶ちゃんがシロップ塗れになる。老害め…、死ね!と銀河は思うが、今、死なれても遺産ももらえないし、銀河に得は無いだろう。それどころか、遺産は全部、舞と蝶々が相続する訳だから、銀河ハウス(プレハブ小屋)も奪われかねない。くそー。

 「えっと…」色々と頭の中で計算を巡らす。幾らあれば足りるんだろう?「ひゃ、百万円?」と、駄目元で言ってみる。

 「ひゃ…」と胡蝶ちゃんに宥められていた善四郎が驚いた声を出す。だ、駄目かな?「お前なぁ…、安過ぎるわボケ」マジかよ。「俺の命は百万か?」

 「じゃ、じゃあ、一千万!」

 「百万でも、一千万でもくれてやる。できると思うんならな、とっとと行ってこいクソガキ!」ほ、本当だな!

 「ううー…、死ね!糞爺!」捨て台詞を吐き、銀河は善四郎の部屋から急いで退散した。扉を閉めると善四郎がまた何かをやらかしたのか、ガラスか何かが、がしゃんと割れた音がする。それから、ぜぇぜぇと言う荒い呼吸音。銀河は扉の前になけなしの小遣いで買ったお見舞い用のシクラメンの植木鉢をこっそり置いていく事を忘れないようにする。…爆弾にしておけば良かった。


 ***


 今、思い返してみれば、確かに善四郎にしてはおとなしかったかもしれない、と昨日の事を乙女と亀丸に教室で話しながら銀河は思った。少しやつれてさえいたかもしれない。いい気味だ。…しかし、死の臭いがしない事は善四郎の唯一の美点でもあったのに。あれで肉体から死の臭いを発散させ始めたら最低だ。銀河のもう一人の祖父。長い事、入退院を繰り返し、挙げくには死んだ父方の祖父は善四郎とは違い、人柄は良かったが、その点では最悪で、か細く、弱く、汚らしく、腐臭がして、一緒に歩くと蛞蝓と散歩させられている気分になり、こっちまで死で蝕んできそうだった。

 「と、言う訳なんだけど…」背筋を伸ばし、足を揃えて椅子に座る猫被りモードの乙女の顔を伺う。表情だけは取繕えず、不愉快そうな目元に口元。「ね、乙女、いいでしょ…?」

 「やっぱりそうなるのね」少し考える間。「…そうね、焼肉食べ放題」焼肉食べ放題!?

 「今、お金ないし…」無いから、行くんじゃん。考えろよー、乙女ー。

 「馬鹿。後払いにしてあげるわよ。感謝しなさい」ちょっと頼ったぐらいで乙女はすぐに得意げな顔をする。

 「よし。これで、三人と…」三人いれば調査会の定めたチームの最低人数をクリアできる。

 デスクの下にPSPを隠していた亀丸が顔を上げる。画面をちらっと見ると、最近、嵌っているらしい、秋葉四十八(狩)とかいう、日本各都道府県に散らばった巨大なアイドルを狩るというバグ満載のクソゲーだった。まだやってたのか、それ。「ちょっと待って銀河。それ、俺、入ってない?」

 「え?当然でしょ?」下僕の意志を確認するとでも思ったか。

 「いやいやいや…。だって、ずるいだろ。不破さんは焼肉奢ってもらうんだろ?」そうきたか。

 「むぅ。…じゃあ、亀丸も焼肉食べ放題すればいいじゃん」自腹で。

 「いや、焼肉はいいよ。別に。…そうじゃなくてさ」亀丸がちょっと口籠る。…こいつ、良からぬ事を考えてやがるな。「デート一回」

 「はぁ?」で、デートだと…。「…」で、デート。「デート…、だと」

 「銀河、良く考えろ。デートの際にかかる諸費用は俺が持つ。損は無いぞ…?」

 「…い、家でゲームしてたい」わざわざ出かける事が、そもそも面倒くさい。しかも亀丸となんて。

 「後、俺は…」言い淀む。ん?「いや、いいや」

 「な、何だ?亀丸、今、何、隠した?」

 「んー…。ていうか、銀河、本気で旧校舎、行く気なの?」当たり前だろー。

 「そう言ってんじゃん」

 亀丸が渋い顔をする。「不破さん、銀河に何か言ってやって」

 「別に…」とモニターを見に戻っていた乙女は素っ気なく言う。いつも通り、ビデオの内容は頭に入っていない様だ。目が死んでる。「馬鹿な銀河が馬鹿な事言いだしたって、今更、驚きゃしないわ」馬鹿な乙女に言われたくはない。

 「うーん…。デート一回な!」と勝手に亀丸は銀河に約束を取り付けた気になってしまう。「旧校舎探索はビギナーだけでチームを組めない。…すごい経験者を知っている。一応」


 立ち入り禁止のファサード付近を回り込み、いつも通り、人気の無いお昼の旧校舎裏。行くと決めると、四角四面の正立方体に少し高さが足りない情けない、この旧校舎のお墓みたいな灰色の壁も、ちょっと威圧感がある様に思える。乙女にはそんな感慨は湧かないみたいで、さっさと藪の中に隠してある電子七輪を引っ張り出し、弁当箱から取り出した生の鶏胸肉を焼き始めた。銀河も藪からアウトドア用の折りたたみ椅子を出してきて、埃を掃ってそこに座り、リュックから出した食パンを鶏胸肉に触れぬようにして電子七輪の網の上に置いた。パンの焼ける香ばしい匂いと、滴った血の焦げる臭いが混ざる。

 表面だけ軽く炙り、生としか言いようのない鶏胸肉の塊を乙女が手掴みで口に運ぶ。「あんた、さっき言ってたの、本当?」野蛮な肉食人間の割に、袖から出るフリルを汚さぬところは相変わらず器用だ。

 「え?さっきって何?」食パンを裏返す。ちょっと焦げた。その隣に乙女が二枚目の鶏胸肉を置く。あっという間に一枚目は胃の中に収められていて、乙女は口元を指先で拭っている。

 「あんたの爺さん、死にそうってやつ」え。あ。そうか。そういえば言っちゃいけない事だった。忘れてた。どうしよう。まぁ、いいか。乙女だし。

 「うん。何か良く分からないけど、死にそうなんだって」良く分からないけど。

 「ふうん…。いい気味ね」流石、善四郎。乙女にまで嫌われている。この調子で街中のみんなが善四郎を嫌ってこの王国にクーデターでも起こしてくれればいいのに。…いや、でも、私って、一応、善四郎の義娘な訳だし、その場合って処刑されちゃうのか?それは嫌だな。「あれは?」

 トーストが焼き上がったので、銀河はポケットからリボン包みにしてある小さな台形のチョコレートを取り出し、それを頬張り、トーストと一緒に食べた。「ふぁれ?」さっきからぼんやりした事ばっか言いやがって。

 「旧校舎に行くって話」…今更かよ。

 「うん。行くよ。乙女も行くよ」さっきのは冗談とかじゃないぞ。

 「私はいいけど、あんたは行かなくてもいいんじゃない?」乙女も二枚目の鶏胸肉を頬張る。そして、三枚目が焼かれる。うえ。見ているだけでお腹がいっぱいになってくる。「トラウマとか、そういうのあると思ってたけど」

 「別に。昔の事だし」確かに舞と蝶々に嵌められて、旧校舎に迷い込んだ時、色々と恐い思いをしたような気がするけど、昔の事で、大して覚えてないし、それに今では銀河も高校生だ。小学生の頃とは違う。多分。残念ながら見た目は変わっていないけれど。

 「ふうん」乙女の冷めた視線。な、何だよ。

 「むしろ乙女は恐くない訳?」チョコを頬張りつつ、トーストを半分程食べた所で、銀河の胃袋は満杯になった。持て余してしまう。乙女は肉しか食べないし、亀丸が来た時にでも喰わせよう。

 「恐い訳ないじゃない。肉のためなら何だってするわ」流石、自称・食物連鎖の頂点。「あんたも少しは肉喰いなさい。肉喰わないから、いつまでも、そんな華奢でチンチクリンなのよ」乙女だって身長で言えば、銀河と10cmしか変わらないチンチクリンの癖に。それなのに体重は銀河の二倍もある癖に。「もちろん、私の肉はあげないわよ」と意地汚くも乙女は付け足す。

 「お肉は固いから嫌いなの」それにもし私が肉を食べていたら、乙女は即効、ジャイアニズムを発動して横取りするじゃないか。

 「肉はいいわ。血が滾る。肉こそ全てよ」勝手に滾ってろ。肉信者め…。乙女が三枚目を口に運ぶ。フォークもナイフも使わず手掴みで、ほとんど生の鶏胸肉を丸々、頬張るこの乙女の野蛮な姿。校内にいる乙女の隠れファン達に見せてやりたい。普段は砂糖とミルクだけで生きてますなんて、人形みたいな澄ました顔しやがって…。銀河も猫被りな所があるが、本当に乙女には負ける。

 「お、おーい。いるかー…」することが無くなり、手持無沙汰で四枚目の鶏胸肉を口に咥える乙女を銀河が観察している所に亀丸の声が聞こえた。何故か、疲労困憊した口調。乙女が口に咥えていた鶏胸肉をぼとりと落とした。振り返ると丁度、旧校舎の壁の角から亀丸が姿を現していて、身を低くしている亀丸の頭の上に大きなおっぱいが乗っかっていた。「つ、連れてきたぞー」な、何それ。い、いや、何じゃなくて、誰か。大きなおっぱいの持ち主は亀丸を抱え込むようにしている。どういうご関係だよ…。

 「こんにちわ。私、藤咲きゅーぶです。よろしくお願いしますね」その女性がにこりと銀河と乙女に向けて微笑みかける。亀丸の頭におっぱいを乗っけたまんま。多分、乙女が肉を落としたのはその衝撃故だろう。乙女はバストのサイズに自信があるようだから。しかし、これは幾ら、乙女でも完敗している。メロンとか、そういうサイズだ。

 「えっと…。俺の幼馴染。ちょっと変わってるけど、旧校舎探索のベテラン」重そうなおっぱいを頭に乗せ、後ろから抱きすくめられ、亀丸は苦しそうにして言った。銀河から目を逸らしている。お、幼馴染?そういう親密さに見えないぞ?「きゅ、きゅーちゃん…。あの、そろそろ、離して」

 「えー。久しぶりなんだから、いいじゃないですかー」藤咲きゅーぶが更に強く亀丸を抱きすくめる。

 「お、お願い、きゅーちゃん。約束は守るからさ」

 「うーん…。そうですねー。きちんと約束を守ってくれるのなら、こちらも少しは我慢しなくてはなりませんねー」亀丸が懇願すると、ようやく藤咲きゅーぶは亀丸から身体を離した。身長が高い。胸以外の部分はスレンダー。子供っぽい表情の割に顔は大人びていて、長い髪は毛先の方でくるんと可愛らしく内側にカールしている。そして時代錯誤なセーラー服。いやらしい。何だかすごくいやらしい。槻城高校は服飾選択自由で、乙女みたいに制服をフリフリに改造している変人もいるが、そんな時代錯誤なセーラー服なぞ、わざわざ着ることなかろうに。ブルセラ時代の人か、お前は。「銀河さんですよね?」にこり。微笑みかけられる。いきなり下の名前とは馴れ馴れしい。しかし、桐生さんと呼ぶと、それは双子の事だから、この学校では致し方ない。

 「…えっと、はい」ちょっと頭を下げておく。

 「銀河さんの事は亀丸君から良く聞いていますよ。ちっちゃこくってとっても可愛いですね!」ちっちゃこいじゃねーよ。

 「お、俺、きゅーちゃんに銀河の事、話した事ないと思うんだけど…」赤くなった顔をずっと俯けていた亀丸が顔を上げた。

 「え、でも、亀丸君が部屋に一人でいる時の音声を録音したのには入ってましたけど…」と藤咲きゅーぶが首を傾げる。その発言に思わず銀河も首を傾げる。どういうこと?音声?録音?

 「い、いやいや…。きゅーちゃん、待って、押さえて」亀丸が慌てる。藤咲きゅーぶがポケットから携帯電話を取り出し、それを少し操作すると亀丸の声がその携帯電話のスピーカーから流れ始めた。『銀河…、銀河…!』…。亀丸がきゅーぶから携帯電話を取り上げ、音声は中断。「銀河、これは何かの誤解だ。合成だ。第一、俺が部屋に一人でいる時という前提があるから、おかしな想像ができるだけで!」と何やら言い訳めいたものをはじめる。どうでもいい。気持ち悪い。

 「それから、えっと…」きゅーぶが今度は鶏胸肉を落として、口をあんぐり開けたまんま固まっている乙女に矛先を移す。

 「そっちは、不破乙女さん」うんうん、と亀丸が頻りに頷きながら早口で言う。

 乙女が放心状態から回復する。まず落ちた鶏胸肉を拾う。砂を掃う。ちょっと食べようか迷っている。止めて。お願い、止めて。それやったら、今度こそ絶交する。銀河が念波を送る。流石に初対面相手に諦めたのか、乙女は結局、鶏胸肉を名残惜しそうにしながらも藪に向けて放った。「…よろしく」

 「何だか、皆さん、ちっちゃこいので、妖精さんのお茶会みたいですね」うふふ。…何だよ、それ。


 「あのな、きゅーちゃん、今はあんなだけどな、昔はもうちょっとまともだったんだよ。いや、昔からおかしな所はあったけど。っていうかおかしな所しか無かったけど。でも、ああいうベクトルにおかしかったんじゃなくって、もっと、バランス良くおかしかったっていうか、全方位的に死角なくおかしかったっていうか、どちらかと言えば熱しやすく冷めやすいタイプというか、あっちを見ていたかと思うと、気付いたら、全く別の方角を向いているみたいな。雲を眺めているとかと思ったら、蟻を観察しているかと思えて、いやまた、すぐに今度は道端に落ちてた火の残った煙草の煙を見ているみたいな…。俺ともそんな感じで、ふらっと来て、ふらっといなくなっちゃうみたいな…」教室に戻ってから、亀丸は延々と藤咲きゅーぶの擁護を続けている。火に油を注ぐ結果になりかねないので銀河はあまり口を挟みたくない。それに今の亀丸はヒートアップし過ぎて藤咲きゅーぶの証言者として的確だとは思えなかった。

 「…別にあの人の人格、どうのこうのなんて構わないけど、腕は確かな訳?」乙女が喰ってかかる。やっぱり、おっぱいの大きさで負けた事が腹立たしいらしい。その感覚は勝負から降りている、否、参加資格すら与えられていない銀河にはわからない。ただ単に乙女が何につけても好戦的すぎるだけかもしれない。

 「え、うん。まぁ、それは。…舞さん、蝶々さんのチームにいた事もあるぐらいだから」げ。あの人、双子の仲間かよ…。今から、あの二人の顔を見なきゃならないことになるかもしれないというだけで憂鬱だと言うのに。「それに経験数が違う。何てったって、俺が小学生の頃から、ここの生徒で、ずっと旧校舎に潜ってるんだから」え?

 「今、亀丸なんつった?」思わず銀河の口から素っ頓狂な声が出る。亀丸が小学生の頃からここの生徒?亀丸が小学校六年生だったときにあの人が高校一年生だとしても、…それでも三回は留年してることにならないか?ていうか、今、いくつだよ。二十歳は越えてるぞ。それでセーラー服!?犯罪だ!

 「あ、安心しろ。頭は悪くないから。多分、わざと留年してるんだと思う」

 「な、何で?」それ、何か得がある訳?

 「…そうすれば、俺が高校に上がった時、一緒に登校できるからとか言っていたけど」亀丸が目を逸らす。い、意味がわからん。それを頭が悪いと言わずして何を頭が悪いと言うんだ。亀丸と一緒にいたって、何もいい事無いぞ。「いや、本当か、どうかは知らないからな。俺は悪い冗談として受け取っている」

 「ふ、ふうん」

 少し考え込んでいた風の乙女がまた噛みつく。「旧校舎って、発狂するからって年齢規制あるわよね?確か、それ、二十歳まででしょ?そもそもあの人、中に入って大丈夫な訳?」ああ、うん。そうだ。忘れてた。そうだよなぁ。いくら、ベテランだからって、一緒に入った途端に発狂されたら困る。…さっきも発狂しているようなものなんじゃないかとも思えたけど。

 「うーん…」亀丸が格好つけて俯き加減で口元に手をやる。「二十歳っていっても、それは一応、目安の話だからなぁ…。今でも、調査会には探索者として登録しているはずだし、何とかなってるんじゃないかなぁ…?」と曖昧な返事。

 「大丈夫なの?それ?」と乙女は何が何でもケチをつけたいみたいだ。まぁ、確かに不安ではある。

 「まぁ、駄目なら調査会が止めると思うけど…」

 「そう…」乙女がふんと鼻を鳴らす。「でもね、どっちにしろ私、彼女はあまり信頼できそうにないと思うわ。弱そうだし」と今度は白けた態度。乙女は我儘だ。我儘乙女。

 「ま、ま、不破さん」何か言いたげに亀丸が軽く苦笑いをする。言いたい事はわかる。人間、ぶん殴るだけが能じゃない。乙女にはそれがわからない。「あれできゅーちゃん、しっかりした所もあるからさ」

 「焼肉食べ放題」

 「わかってるわよ…」

 担当教諭が腕時計を見て、授業時間終了の合図を告げ、教室を出ていった。銀河もデスクの電源を落とし、荷物をリュックにまとめはじめる。教室はすぐに人気がなくなった。残ったのはわざわざ教室のデスクで学習チャートを続けるいつものひけらかしと、リンクの深みに嵌り授業時間内までに抜け出る事のできなかった真面目で要領の悪い奴ら。「…そろそろ、行こうぜ」と亀丸が憂鬱な顔をして言う。憂鬱なのはこっちだ。亀丸が溜息を洩らす。「待っている人もいるみたいだし…」開いた教室の扉から藤咲きゅーぶがちらちらと見切れていた。亀丸は一体、あの人のどこが不満なのだろう。確かに変わっていはいるようだったが、美人だし、乙女が嫉妬する程、スタイルがいい。やっぱり、亀丸ってロリコンなのか?だから私の体を狙っているのか?と、銀河はまた亀丸の変態性疑惑を根強くする。

 扉を抜けると待ち受けていたきゅーぶからの強烈なハグ「亀丸君の方から私に飛び込んで来てくれるなんて最高です!」を亀丸は意外にも華麗に身をかわす。小さい割に運動神経がいい。そして、空ぶったハグが後ろに控えていた銀河を捕える。運動神経が皆無。運動無神経。痛い痛い痛い。抱き潰される。おっぱいはやわらかい。乙女のおっぱいの感触と比べるとその五割増しぐらいにやわらかいかな、と銀河は思う。「あれ?」自分が抱いているのが亀丸でないと、きゅーぶはようやっとに気付いたようだった。

 「い、痛いです」藤咲先輩、ギブ、ギブ。憐れむような瞳で亀丸が銀河を見ている。むかつく。

 「…銀河さんって、何だか懐かしい抱き心地ですね」何だそれ。更に強く抱きしめられる。いや、だから痛いって。この人は抱き加減と言うのをわかっていない。懐かしき久留美ちゃんのハグを思い出す。久留美ちゃんはハグ上級者だった。久留美ちゃんのハグは人を幸せにする。もし、あのハグを今、男の人にしていたりしたら、と思うと銀河は嫉妬の炎に身が焦がれる。でも久留美ちゃん、もてたからそれくらいもうしちゃってるかもしれない。

 「藤咲きゅーぶ、いい加減にして。銀河が嫌がってる」銀河を後ろから抱きすくめているきゅーぶの腕に乙女が手を伸ばした。銀河は慌てて、身を捩り、自力の脱出を試みる。それは叶わなかったが、乙女が腕を掴む前にきゅーぶは腕を離してくれた。危ないな。乙女は気に入らない相手に容赦しないから。何をするかわかったものではない。

 「え、ごめんなさい」

 「…べ、別に」銀河、息を整える。苦しかった。「あの、でも、できれば、今度からは目標を見誤らないようにしてください…」余計なこと言うなの、亀丸の視線。正しいターゲットを見定めたきゅーぶの視線。

 「きゅ、きゅーちゃん。俺にだって一人の人間としての人権とか、そういうのあるから。約束は守ってくれよなっ。俺も守るから」そういえば約束って何?と銀河が聞くと、亀丸は顔を背けた。どうせこの調子だと一日ハグとかそんなところだろうか。何と馬鹿らしい。

 「うーん。わかってます。わかってるけどじれったいですねー」と、とりあえず、丸く収まり、逃げるような亀丸を先頭に調査会室に足を向け始めた。

 銀河も重くなりつつある頭を抱えながら、それに続いた。後ろの乙女に小声で言う。「藤咲先輩と喧嘩とかしないでね」

 「私、喧嘩なんて野蛮なこと、しないわ」涼しい顔をして答える。どうせ、乙女は一方的な蹂躙はOKとか、またそんな事、考えているのだろう。これだから脳筋は…。

 

 コの字を描く校舎の右辺。最上階である五階、ワンフロアが丸ごと、旧校舎調査会の物らしい。階段を上がると、長い銃を持った兵隊が三人立っている。長い銃は多分、サブマシンガンとか機関銃とかだろう。そういった物が出るゲームもたまにはするが、銀河のそれらに関する知識は乏しい。亀丸なんかだったらわかりそうだな。男の子だし、と思う。兵隊の胸には何か、英語で書かれている。詳しい見分けはつかないが、フェアリーアックスやバタフライピースのスタッフではなく、米軍の人間なのだろう。調査会を完全に私物化させないためだ。というより、させていないという対面を保つためか。実質的には善四郎の後ろ盾を持った双子が完全に掌握している。

 特にそれらの堀の深い恐い人達にきゅーぶは目もくれず、その先にある鉄製の扉へと向かう。乙女も彼らの視線は気にならないようだ。銀河だけが、妙な視線の逸らし方をしてそわそわして落ち着かない。初めての場所だし、それだけで緊張してしまう。亀丸は興味丸出し。

 きゅーぶがスカートのポケットから携帯電話をなぜか取りだす。それを鉄製の扉の脇に据え付けられたパネルに翳した。ピ、と音がして、今度はそのパネルに右掌を重ねる。再びピ。『藤咲さん。御待ちしていました。どうぞ。後の皆さんも、そのまま続いてもらって結構です』とどこかのスピーカーからボーイソプラノ。ノブも無い、二重三重の機械仕掛けの扉が開く。SFみたい。でも、壊れたらどうするんだろう、と余計な心配。多分、人力で開く仕掛けとか、他の通路もあるのだろう。きゅーぶがすたこら、その開いた中へ入っていくので、銀河達も続く。米軍の人達がまだじろじろと見ている。やっぱり恐い。じろじろ見るのが仕事なんだろーな。それか、物凄く近視なのか。銀河が何時までもその視線を気にしていると扉が音も無く閉まった。

 鉄の扉の奥は扉みたいにそれ程、SF染みてはいなかった。扉は廊下の端に通じていて、二教室分ぐらい先はまた鉄の扉で遮られているが、その手前は何だか、会社のオフィスみたいだった。壁は白く塗られ、床には濃度の違う灰色のカーペットピースが互い違いに敷き詰められている。長方形のシンプルな背凭れの無いソファが壁際に置かれていて、その奥に観葉植物。更に奥にはコカ・コーラの赤い自動販売機があった。

 「失礼しまーす」ときゅーぶが間延びした声を上げて、擦りガラスで中の見えない、一番手前の部屋へ入る。規格は校舎内の教室と同じなのだろう室内の手前に、簡素なプラスチック素材の長テーブルが置かれていて、その向こう側に金髪をショートにした白人の美少年ことアーサー・クラウンが椅子に座っていた。その奥はベルベットのカーテンで仕切られていて、そこからくすくす、耳触りで、聞き覚えのあるステレオボイスがする。銀河は乙女の影に隠れ、それを聞かなかった事にした。

 「御久し振りです。藤咲さん。今日は…えっと、何だか…。そうですね…、ひぅっ!」ごにょごにょと歯切れ悪く言った後、アーサーが椅子の上で跳ねた。顔を赤らめ、息を荒くし、何事も無かったかのように続ける。「今日は何だか、引率の先生みたいですね」そして、カーテンの向こうからまたクスクス笑い。いらいらいら。藤咲先輩が引率の先生だとしたら私達は何だと言いたいんだ。カーテンの向こうを睨みつける。どうせ、カメラか何かで見ているのだろう。アーサーは言わされているだけだというのはわかる。まぁ、かと言って、全然、銀河は同情しない。アーサー少年には個人的な恨みがあるから。


 11歳で博士号とやらを取得した10年に一度の超天才という、何だか微妙な触れ込み、鳴り物入りで、アーサー・クラウンが槻城高校へやってきたのは銀河が入学してから間もなくだった。誰だって知っているようにこの世の中は人間の意識というミクロな視点で捕えてみれば不平等だ。でも、そのミクロな視点から人間が解放される日なんて定義的にやってこないから、やっぱりどうあがいても不平等。つまり、銀河が何を思い出したいかと言えば、目の前にいる、今では12歳となった毛唐のガキが超のつくらしい天才であると共に、天は二物を与え、というか、単純にすごい色々な偶然が重なり、こっちの方は紛れもなく超がつく美少年だという事だ。今はまだ幼さが残るため、少し少女のような趣があり、クリムゾンレッドの厚手のブレザーにスラックスという格好でも、女の子である銀河よりもかわいい。というか銀河と比べられるものではないということも銀河はわかっている。それは比べてはならないものだ。三角定規とコンパスを、同じ文房具だからと乱暴に比べるようなもの。どちらも凶器になるという共通点はある。でも、そんなことを言っていると世の大半の物は無理すれば凶器になりそうだなと、銀河は混乱。

 そのサマージャンボ宝くじに百回くらい一等当選したみたいなスーパーラッキーボーイは、槻城高校の旧校舎で起きている不可思議な現象に興味を引かれたらしく、自ら、米国政府に交渉し、この閉ざされた街にやってきたらしい。その迂闊さが、天才につく超を打ち消しかけている。

 肩書は槻城総合大学の特別教授で、槻城高校の非常勤講師。そして調査会の代表。まぁ、精力的。ちょっと頭がいいからって調子のってんじゃねーぞ、こら。と来日当時思ったのは銀河のような悲しくもひねくれてしまった哀れなマイノリティーだけで、槻城高校内のマジョリティーは大抵、好意的で女生徒や、一線を越えてしまった男子生徒達に熱狂的に受け入れらた。ファンクラブができ、隠し撮りが横行し、高値で取引されたのは言うまでも無い。閉鎖された槻城市民はアイドルのライブなどに出掛けることはできないから、その種のファンには堪らない状況だったのだろう。ファシズムを感じさせる異常な熱狂ぶりで、そこではユダヤ人の役割に銀河はなり、冷ややかな視線を投げかけつつも、事態がどうなることやら戦々恐々としていた。

 槻城市という狭い王国を治めるには善四郎は十分な力を持っている。ここは日本国の領土内にありながら、完全に私物化され、今は騒動の出汁に使われ、無くなってしまった某国から一発の不発弾が発射された日以降、秘密裏に自治を行っている。日本国政府は完全にノータッチで、ミサイルに搭載されていた生物兵器の事後処理という名目で自衛隊をその周囲に派遣しつつも、ここで行われている事は見ない振りを強制させられている。旧校舎を巡り、交渉を行うのは全て、史実上ありはしなかった第三次世界大戦に取り憑かれた男、桐生善四郎だ。善四郎と米国を中心とした勢力のパワーゲーム、もしくはグレートゲーム。その緩やかな代理戦争が旧校舎調査会内部では繰り広げられていて、そこに現れたアーサーは学内でのアイドル騒動同様にゲームに波紋を呼ぶ巨大な投石であった。

 いや、先にバランス崩しを仕掛けたのは紛れもなく舞と蝶々を調査会内部に潜り込ませた善四郎ではあるのだが。

 そしてアーサーは負けた。完膚なきまでに負けた。これ以上ない程にあっさりと。調査会の代表になってから一週間とさえ持たなかった。

 そこには裸より恥ずかしい格好で犬耳と尻尾を着け、首輪に繋がれたリードを舞と蝶々に握られ、校内をわんわん言いながら散歩するアーサーの姿があった。

 双子がどんな風にしてアーサーをそうしてしまったかはわからない。そして誰も知りたがらない。少なくとも銀河は知りたくなかった。それほどの恥辱を受けながら、恍惚を湛えた表情を見せるほどの調教なぞ、知りたくもない。11歳の少年には強烈すぎる調教だったのだろう。それからアーサーは代表というお飾りになり、鼻にかけた『私』という一人称も甘ったるい『僕』に代わり、双子は女王としての立場を確固たるものとしてしまい、今では調査会は完全に善四郎の手中に収められている。

 馬鹿なガキ。もう少しがんばれよ。双子に骨抜きにされちまいやがって。少しは噛みつけ。と、アイドル騒動の終わった今では銀河も思っている。双子の敵として考えれば味方になれたかもしれない。お互いがお互い、何の足しになったかはわからないが。

 そして話は終わらない。今までの話、別に銀河に大した関係はない。銀河の生活にはほとんど支障は無かった。

 双子が学内の、いや、槻城市内の女王として君臨するためのデモンストレーションである恥辱的お散歩が行われた翌日から、銀河の下駄箱はびっくり箱に様変わりした。あるときは上履きに画びょうが入れられ、あるときは半分死んで半分生きている猫が放置され、またある時はスプリング式の拳が飛んできた。教室にあるデスクもそのような調子で、心無い落書きや、汚物の付着など当然。酷い時はディスプレイが割られたりしていた。

 様変わりした生活に流石の銀河も動揺が隠せなかった。最初は何がどうして、自分がこの様な境遇に置かれているのか全く理解できなかった。その集団的で意図的な嫌がらせはもちろん、上述のものだけに留まらず、どこからともなく、というかどうして水平方向から放物線を描き植木鉢が飛んでくるんだよ的な事や、サーバーにアップロードしておいた筈のレポートがいやらしい動画に上書きされていたりなど列挙していけば切りがない。幸い、学校や外では常に乙女が傍にいるし、家に帰れば、そこは世界で有数のセキュリティを誇る桐生邸の敷地内だから、肉体的に危険な目にはそれほど合わなかった。そして、その不可解な生活に頭を悩ませていたある夜、銀河のパソコンに見慣れないアドレスからメールが届く。見慣れないアドレスからの嫌がらせメールも日常茶飯事だったから、当然、読まずに消去しようと思っていたが、そのとき、突然、プレハブ小屋の扉が開く。びくりと体を震わせ、階段を上がる足音に怯えながら銀河が後ろを振り向くと、桐生邸の使用人、橋姫(偽名)だった。「お嬢様に言われまして」と無表情で歩み寄ってきて勝手にマウスを奪い取り、先ほどのメールを開いてしまう。鍵かけてた筈なんだけど。一応、私もお嬢様なんだけど。等という言葉は通用しない。銀河は所詮、双子のオマケ。いや、オマケ以下。チョコエッグのチョコ程の価値も無い。桐生邸のお嬢様は双子で、銀河はせいぜいが銀河様(笑)だ。流石に常夏(偽名)に『が』ちゃんと呼ばれた時は驚いたけど。『ぎんがちゃん』を略して『がちゃん』って。何それ。私、効果音?ていうか、ちゃんの方が長いし。とか。「私も忙しいのですから、余り、手を煩わせないようにしてください」と謂われ無い嫌味を言い、部屋を出て行く橋姫を見送り、改めてドアの鍵を閉め直してから、メールを見るとこう書かれていた。

 『ハイ!私達の愛する妹ちゃん。大変そうね。とても楽しませてもらっているわ はーと。 by舞と蝶々』

 空耳するクスクス笑いを跳ねのけて、銀河はそのメールを即効で削除する。何かはわからないけど、またあの双子のせいか。どうせ、そうだと思ったよ。ぷんぷん。いつか絶対、殺してやるから。一族郎党、京子ちゃん(様)と桐花ちゃん(様)と久留美ちゃんを除いて皆殺しにしてやるから。そして、その憎しみをパワーに変え、銀河脳がようやっと回転しだす。

 「あ!わかった!」思わず独り言。そうか、そうか、そうだ!


 全く、どうして気付かなかったのだろう。あはは、私ってばか!…本当に馬鹿。アーサーというアイドルにあまりに興味が無さ過ぎて、アーサーのファン達が、アーサーをペットにした双子に怒り、その矛先が直接的に歯向かえる訳はないからって血縁上の妹である自分に向かったという、あまりにも見え過ぎている構図に銀河はその時まで全くのまるきり気付けないでいた。

 そのことを翌日、自慢げに乙女に話すと愕然として、頭を抱え、「気付いていなかったの?」と答えられたのには腹が立った。わかってたんなら教えろよ。

 と、犯人達の目的がわかったところで何も変わらない。そもそもそれは終わりなき報復。満たされる事の無き復讐。その状況が変わったのは、銀河が昼食に珍しくミートボールを持っていったことでだった。前日、桐生邸で余ったものを調理担当で桐生邸の使用人の中では珍しく銀河に好意的な須磨ちゃん(偽名)が弁当箱に詰めてくれたもの。たまに弁当を用意してくれる時に見せる、犬好きが犬にほねっこをやるような生温かい視線は気に食わないけれど。

 その頃はまだ一年生で、旧校舎裏で昼食をとるというパターンができていなかったから、銀河は無防備にも食堂で弁当を広げていた。そこへ、どこからともなく、泥だらけの野球ボールが弁当箱目掛けて飛んできた。そのボールは横で、同じように弁当箱を広げ、一応、本物のお嬢様であると言って差し支えのない筈で、私、生まれる時代が時代だったら、きっとお姫様みたいな生活していたんだろうなー、と甘えた夢想を繰り返す銀河よりもお嬢様らしく、上品にヒレカツの衣を取り、肉だけを召し上がっていた乙女の箸にナイスキャッチされる。それだけで事は全て解決した。

 「もしあのボールがミートボールに当たっていたら」を大義名分に掲げ、というか、本当にただそれだけの恨みで、乙女は銀河に嫌がらせをしていた人物達を影で粛清していった。銀河の肉は私の肉。つまり銀河のミートボールは私のミートボール。そして私のミートボールを狙う物は誰であってもマジ許すまじ、という訳らしい。「もしあのボールがミートボールに当たっていたら…もしあのボールがミートボールに当たっていたら…」ぶつぶつ、呪文の様に続ける乙女はバーサーカー。銀河に嫌がらせをしていた人物達は皆、何に襲われたかもわからないまま散っていった。彼ら、彼女らが最後に耳にした言葉もやはり「もしあのボールがミートボールに当たっていたら…」昔、ベストセラーになった経済学小説のタイトルにちょっと似ている。

 その謎の言葉が学内で不気味な音色として捉えられるようになり、何だか、ミステリー小説における手まり唄の位置を占め始めた頃、乙女は銀河に対する嫌がらせの主犯格が調査会内部、最後のアーサー派女学生であると行きあたり、粛清が終わった。「ごめんなさい、もうしません。絶対にしません。ミートボールに手だしなんてしません…」と恐怖に戦いていた彼女は、銀河と亀丸を除き、唯一、肉食乙女の本性を知っている人物だろう。今もその女生徒は調査会内で細々と仕事をしているらしいが、ミートボールを見たり、その言葉を聞くと、パニックに陥り、自殺騒動にまで発展するらしい。

 あー…。私、絶対、乙女とは喧嘩しない。と銀河は心に誓うが、そもそも、元からそんな度胸は銀河にはない。


 などと言う、恨みがアーサーにはあった。

 だから、同情なんてしてやんないよー。べー!かわいい顔してたって駄目なんだからね!アーサー少年はちらちらと伺うように背後のカーテンへ目を向ける。『御主人様!僕、やりました』みたいな。そして、「あひゃん」と艶っぽいボーイソプラノが漏れ、再び、アーサーの体が椅子の上で跳ねる。…。一体、アーサー少年の体にどのような変化があって、そのような事が起こっているのか、銀河は恥ずかしくって想像したくなかった。あそこにあんなことされて、あんなことになってるのかな?亀丸の目線が泳いでいて、こいつ、いやらしいこと考えてるなと、とりあえず、銀河は足を踏んづけておく。

 「何だよ」

 「変態」いくらアーサー少年がかわいいからってそんな想像したらいかんぞ。

 「そうですね。皆さん、ちっちゃこくってかわいいから、とても楽しい遠足になりそうです!」と、アーサーの変化などまるで見えていないかのようにきゅーぶが返す。ちっちゃこいじゃねーよ。私ら嫌味言われてるんだよ。くそー、これだから乙女と亀丸とつるむのは嫌なんだ。低身長トリオになるから。

 くすくす。部屋を仕切っていたカーテンが真中から左右にゆっくり開く。ようやく出てきたか…。というか、遂に出てきたか。いやいや、出てこなくてもいいよ。できれば出てこないで欲しい。カーテンを開いたのは多分、調査会に所属している二人の男性。両方とも若く見えるが、槻城の学生かどうかはわからない。双子のペットであるということは確実だろう。筋骨隆々のその二人は、黒いレザーのパンツだけという、最低のセンスの格好だ。体に似合わないピンク色の乳首とか晒さないで。銀河は目を背ける。この世の中は目を背けなければやっていけない悲しいことだらけだ。それを冗談で言うのが、罪深い程に。「いいわね。私達も誘ってくれないかしら…」誰が誘うか。二人の声は完全にシンクロしてしまっていて、ハーモニーさえ起こさない。どこか、ここではない別の所から発せられたような不思議で不快な無重力感のある声。カーテンの向こう側は豪奢な毛の深い絨毯が敷かれ、アールデコ調のテーブルや、ダブルベッドが置かれていた。だから、本当、最低のセンス。もうアーサーや銀河達のいる部屋半分とは完全に別世界。足をこちら側に向けたダブルベッドの上でさっきの不快な声の主である双子は上半身を起こし、身を寄せ、両掌を合わせ、頬同士を密着させこちらに苛立たしい笑みを送っていた。相も変わらず同じ顔、同じ長い黒髪。そして、しわまで完全にシンメトリーする真っ青なブラウス。下はなぜか黒のパンティストッキングだけ。双子は妹の銀河でもどちらがどちらかまるでわからない。多分、舞と蝶々、本人達もその固有名詞がどちらに割り当てられたものかなど、意識していないからわからないだろう。本当に薄気味悪い双子。自分が、あれらとある程度同じDNAを持っていると思うと銀河はそれだけでゾっとするが、ホヤだって舞と蝶々と大して変わらないDNAを持っているし、我慢するしかない。あのホヤだって、我慢してるんだもんな…と、ぐっと下唇を噛みしめ、自傷したくなる気持ちを抑える。

 「あら、もしかして、そこにいるのは銀河…?」ざーとらしいんだよっ!どこでどう知ったか、用意周到待ちうけていたくせに。もう片方が続けて「姉妹、感動の再会ね!」とか言う。いらいらいら。「私達、ここに来てから寮暮らしでしょ?本当に久しぶり」「ねぇ、御爺様はお元気?」それも知ってるくせに。ピンピン死にかけてるわ。ぼけ。

 つんと、顔を背け、「そうですねー。お姉さま方。御爺様は相も変わらず御元気ですよ」と、無難に銀河は返す。正面向いて、ガツンと皮肉の一言でも言ってやりたいが、それが言える程に頭が回るのなら、きっと、この双子に今日まで悩まされることはなかっただろう。

 「え!銀河さんって舞さんと蝶々さんの妹さんだったんですか!?」とすっとぼけた事をきゅーぶが言う。え、気付いてないで下の名前で呼んでたの?桐生って言ったら、この街じゃ善四郎の親族だけって話だぜ。陽気な頭してるな藤咲先輩って。と流石に銀河は不安になってくる。

 「ええ。かわいがってあげてね、藤咲さん」なんだよ、かわいがるって。

 「はい!」はい、じゃないよ。と、思っても口に出せない銀河。双子の前にいるだけで、過去の恨み辛みが、咳を切って溢れそうになり、同時に認めがたい恐怖に身が竦んでしまう。く、くそー。死ね死ね死ね死ね死ね。と、とりあえず念波を送ってみるが、そんなもので死ぬほど双子は軟ではないことは悲しいくらいわかりきっている。大体、思いだけで人を殺そうなんて、現実というプロトコルを無視し過ぎている。

 「それから、不破乙女さんと時田亀丸君ね。知っているわ。いつもうちの銀河と仲良くしてくれているそうで」くすくす。

 ぺっと、乙女が唾を床に吐いた。あー…。双子と乙女は初対面だが、乙女は前々から双子の事、気に食わないと言っていた。双子は校内で恐れられながらも、美人で男子に人気があるから。姉妹の中でもあの二人は同一5位で美人であることは認めざる負えない、と客観的に銀河は分析している。生まれた順序、姉妹内ヒエラルキー、ほぼそのままのランキングであるが。どちらにしてもその下らない乙女の対抗心は理解できない。アーサー少年が乙女の変化にちょっとびびっている。「残念だけど、私達、それほど暇じゃないの。銀河を苛めたいのなら後にしていただける?」いや、後でも先でも嫌だし、苛められたりなんかしないし。数々の恨み辛みはあるけれど、いつか見事に復讐を果たせば、それは苛められたということにならないもん。全く理屈になってない事を銀河はあれこれ思う。

 「あら、恐いわ」「私達、何か不快にさせる様な事、言ったかしら」くすくす。下手な挑発をしても双子を楽しませるだけだ。

 「あー…、いや、不破さんは、何か、何て言うか、単に虫の居所が悪いんですよ、舞さん、蝶々さん」冷や汗をかきながら、亀丸が釈明する。親父があの糞爺に出資を受けているからって保身に走りやがって。私だって桐生のお嬢様なんですけど!くそ!

 「そうなの…?」「銀河、お友達はちゃんと選びなさいね」あー、ムカつく。と、人生生まれてからの分のムカつきに更に追加されたムカつきを銀河が堪えているのも知らず、乙女が跳びあがった。獣の様な跳躍。お、おい!ちょっと待ってよ!手前にある長テーブルを椅子に座るアーサーごと飛び越える。

 「ぶぎゃん!」ばん、ごろごろ。くすくす。双子へとその爪先を伸ばす前に乙女は敢え無く撃沈した。カーテンの向こうには何か見えない壁のような物があるみたいだった。多分も何も旧校舎で回収された技術だろう。すぐに身を起こした乙女はその見えない壁に向かって爪を立てるがゴムか何かで爪とぎをしている様で全く効果が無い。それを見て双子はくすくすを越えて高笑いし、アーサー少年は益々、怯えている。乙女の本性を知る人物が増えた。

 あちゃー、と亀丸は掌で額を押さえ、きゅーぶはなぜかにこにこし「それ、おもしろいですね」と笑っている。銀河は何かこの状況を打開する方法は無いかと頭を巡らそうと思ったが、好きにさせとけばいいや、と巡らす前に諦めた。

 ベッドからシンメトリカルに双子が降り立つ。「聞いていたより、元気な子ね」「銀河の友達なら、私達の友達でしょ?」「言い過ぎたわ」「ごめんなさい」「ね、許して」「ペットにしてあげるから」透明な壁の向こうから双子が乙女を見下ろす。しゃぎゃーと、人のものとは思えない叫び声を上げ、乙女は益々ヒートアップする。「あら、駄目ね」「銀河、この子、躾がなってないわよ」悪うござんしたね。その野獣は私の手には負えませんよ、糞御姉さま方。「静かになさいよ」同時に言って、双子がそれぞれ左右反対の手を伸ばす。双子の手は見えない壁の干渉を受けないようで、我を忘れた乙女の爪を華麗に交わし、両側からその首を掴んだ。乙女がくふっと言う。

 「ちょ、ちょっと!」銀河、流石に焦る。

 「大丈夫よ」「銀河のお友達に悪いことしないわ。私達」くすくす言いながら二人で乙女の体を持ち上げて行く。乙女の身長は銀河よりたかだか10cm高い程度だから、それなりに身長がある双子が持ち上げればすぐに足が地に着かなくなる。乙女が必死そのもので、双子の手の甲を引っ掻いてる。「あら、止めてよ」「痛いわー」くすくす。てゆーか、何その力。聞いてないし、知らないし。超常的なまでに最悪の双子だったけど、超常的なまでの力なんて無かったはずだぞ!自分の生涯の敵である双子が何時の間にやらバージョンアップしている事に戦きつつ、銀河は止めてとか、何でそういうことするの!とか、いつも私の大事な物、あげてるじゃんとか、それはやめてよ!とか叫んだりしたかもしれない。そして、顔が熱くなって、涙とかいうやつを流していたかもしれない。双子に自ら会いに行くなんて止めておけば良かったんだ、とか、私が悪いんだ的なお定まりの、何の打開性もないネガティブ思考ドライブに銀河脳がinしつつあった所で、乙女がぐったりとし、抵抗を止め、双子が手を離した。

 「不破さん!」一番に乙女に駆け寄ったのは亀丸だった。銀河は頭がぼーっとして動けなかった。カーテンを開けた皮パンコンビは相変わらず無表情だし、アーサーは見ない振りを決め込んでいる。きゅーぶはにこにこしたままでよくわからない。亀丸が乙女の体を抱き起こし、口元へ耳をやり呼吸を確認している。強張っていた肩が、安まる。

 「やさしいのね」「銀河のボーイフレンドにはぴったり」「大丈夫よ」「ちょっと静かになってもらっただけ」「その内、起きるわ」微笑の双子が亀丸の頭をやさしく撫で、見えない壁を越えて出てきた。「さぁ、そろそろ、手続きを始めましょう。残念だけど、私達、それほど暇じゃないの」不思議で不快で無重力で無慈悲なステレオボイス。

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