山中にて。
「怖い話...ですか。ああ、一つだけありますよ。ですが、その出来事自体が全く不思議で、理解不能でしたので、今まで誰にも話したことが無かったのです。」
「二三年程前のことだったでしょうか。細かい理由は忘れてしまったのですが、黒地岳という低山に行った時のことです。ああ、そうそうN木県にある。よくご存知ですね。有名なところではないのに。」
「私はその時1人で、今考えればその頃は日々のストレスで、心を病ませてしまっていたので、気が違っていたのかもしれません。そこは頻りに生えた木々に陽光が遮られ、その殆どが地面に届かず、とうとう山の中腹に差し掛かる頃には、足元と目の前が5m程薄ぼんやりと見えるばかりでした。」
「そのような所なので、周りには、私以外に人はいないようでした。辺りを満たすのは私を囲むように生えた異様な木々と、薄気味悪い静寂ばかりで、時が止まっているとすら錯覚する程でした。それでも私が無気力によたよたと地面を向いて歩いていると、前の方から土を踏む音がします。こんな所を珍しい。そう思い音の正体を見た時、悪寒が全身を走りました。一見してそれは長身痩躯の男でした。しかし、ボロボロに擦り切れなどしたスーツを着ているのです。それだけでも異常なのですが、私が真に恐怖を感じたところはそこではありません。彼の四肢です。彼の膝が、肘が、肩が、全てあべこべの方向を向いているのです。
その上、恨めしそうな目で私を睨めつけながら、何かをぶつぶつと呟いているのです。」
「私は悲鳴をあげることすらも忘れ、無我夢中で山を駆け下りました。どれ程の間走っていたかは覚えていません。本当は数十分程だったのでしょうが、私にはその時に、真っ暗闇で底の見えないような、いつ終わるとも分からない感じを覚えていました。」
「ふと気がつくと、既に山の麓に着いていました。暖かな夕色の太陽は、久方ぶりに見たような感覚がありました。
ほっと胸を撫で下ろしたその時でした。
耳元に、あの時見た恨めしそうな目と同じような声で
『はやと...』
そう呟くのが聞こえたのです。」
「その翌日、どうしても昨日のことが頭から離れず、その山について調べてみることにしました。何かあの山の暗い噂などを知って、少しでも心を落ち着けたかったのでしょう。
しかし、そんな山の名前、検索にヒットしないのです。似たような名前の山はいくつか見つかっても、黒地岳なんて名前の山は見つかりそうにもないのです。そもそもそのような名前をどこで知ったのか。それすらも覚えていないのです。
「ねぇ、隼人さん、あれはなんだったんでしょうか。」