恋をしてあげる
そもそも一番最初に付き合った年下からして、これはなにか違う、と思ったのだ。
二十歳のときに付き合った十七歳の子は未成年ではあったけれど高校を中退してすでに働いていて、こちらは車の免許こそ取ったもののまだ大学生で。彼氏は車も免許もなかったのでわたしがいつも足代わりだった。あっちに行きたいこっちに行きたい、迎えに来て欲しい送って行って欲しい。彼の友達を乗せてあげたことも両手両足の指の数では足りず、半年も付き合っていなかったのにわたしの扱いはほぼ便利屋としか思えず、なんだか嫌気がさして連絡を取らないでおいたらそのまま自然消滅した。誕生日にもらったネックレスは飼っていた犬の首輪代わりにつけてやったらいつかの散歩で落としてきたらしい。それきり。
顔はそこそこ良かったけれど、そういえばパーマをかけていたのが最初から引っかかっていたんだよなあと後から思った、今更、今更。わたしはストレートな短髪の男が好みなのだ。
その後に付き合った同い年の彼氏も、顔立ちがはっきりしていて告白された時はこんなイケメンと付き合っちゃう自分、と挙動不審になったくらい嬉しかったけど、やたらと自分語りをしてくる男で褒められたがり屋で、話を聞き流していると分かりやすく不機嫌になった。飲みに行くのが大好きで基本的には奢ってくれるけど、この男はとにかく女が好きで困った。わたしと一緒に居ても居酒屋でちょっと可愛い女ばかりのグループがいると声をかけてしまう。社交的といえば聞こえはいいけれど、誰とでも大抵打ち解けてしまって数日するとそこにいた女の誰かと飲みに行ってしまっていたりする。スノボが趣味で夏はテニスで、両方興味がなかったわたしはスノボをやる女がいたりすると放っておかれてふたりきりで出掛けられてしまって、デートをキャンセルされたことも何度か。
いい年の男と女がふたりだけで出かけてなんにもありませんでした、というのはもちろんなくて、それでも隠しておいてくれるなら――二人きりで行ってくることをわたしに話してしまう時点でアウトなのだけど――まだしも、悪びれもせず浮気してくる。それでわたしが泣くと、向こうはきょとんとした顔をするのだ。
なんで? だって、浮気じゃん?
お前が彼女でしょ? 俺、お前しか彼女にしないし。
一緒に行った子にも言ってあるし、俺、彼女いるし別れる気ないからって。
なんで泣くの?
え、なんで怒るの?
お前だけが本命じゃん、あとはみんなただの遊びなんだからさ、お前は胸張ってればいいんだよ、俺の彼女は自分だ、って。
そんな呆れたことを真顔で言われて、納得できて微笑める女がどこにいると言うのだろう。
アホか、と吐き捨てて別れた。
いや、本当は別れるまでグダグダはした、彼氏の身勝手な言い分にうっかり頷けない自分が悪いのだろうかとか心が狭いのだろうかとか、本命はわたしだって言ってくれてるじゃないの! と自分を騙そうとしたりだとか、メールしても返ってこないと不安になって何度も送ってしまったり電話をかけてしまったり、プレゼントをしたらわたしだけを見てくれるかとなんだかやたらと貢いでしまった時期があったり。
けれどある日突然、すこんと目が覚めた。
なにしてんの、と思って、電話をかけて。またわたしの知らない女と飲んでいたらしい彼氏に、アホか目が覚めたわ、と吐き捨てて別れた。その場で連絡先すべてを受け取り拒否にしてから消去した。
年下とは縁がない。
縁がないというより、鬼門なのだと思う。
そもそもいつだって年上の方が楽だし甘やかしてくれるし、話を聞いてくれるし大事にしてくれるし可愛がってくれるしわたしが穏やかでいられるから関係も穏やかにゆるゆると続く。
けれど年上なら年上であるほど相性の良かったわたしにとって、そうすると相手はどうしても既婚者になってしまう。
倫理観はあまりなく、相手の家庭を壊す気もさらさらなく、独占欲も特に強くないのでついでに可愛がって甘やかしてくれればいい、くらいの人間なので、悲壮で悲惨な不倫とは縁遠かったけれど、不毛なことは不毛なので二、三年で穏やかに付き合いは終了する。そんなことの繰り返しで、とにかく自分は年下との相性は最悪、年上との相性は最高、という事実を実体験から得た。
「……それで?」
どちらかといえばお酒は得意でない、という彼がロックで梅酒を舐めている。飲ませすぎちゃったかなあ、とさっきぽそりと呟いていたけれど、わたしは酔っていない。三杯目のレッドアイ。胡椒が利いていて、食事と一緒にというよりはそれ単体で楽しんだ方がいいだろう味になっている。
「それで、って?」
「もっとひどい話があるのかと思ったけど。だって、君のあの追い返し方。ひどかったから」
「年齢が一緒だったんですよ、八才年下っていう。一気にトラウマが」
「それって八つ当たりじゃなくて?」
「傷付くリスクがあるなら最初から回避します」
「あいつ、出合い頭のカウンターパンチで重傷だったと思うけど」
知らない。
そんなの、知らない。
碌な男に引っかからない、と知り合いが紹介してくれたのが、目の前にいる男だった。正確に言うと、目の前にいる男が連れてきた年下の男、わたしが追い返してしまったそちらの方を、知り合いである彼女は紹介したかったらしい。けれど年下にはトラウマからのアレルギーがある、紹介されたくないですしお知り合いになる気もありません、と唸るように睨んで告げたら、紹介されるはずだった男はわたしの剣幕に恐れをなしたのか、慌てたように帰って行った。
そもそもその知り合いはわたしの目の前にいる男が気になっていて、わたしに恋人候補を紹介するという口実で彼と深い仲になりたかったようだ。多分。さっき、目の前の男が微笑んで教えてくれた。俺を選ぶと面倒くさいことになるよ、と。なんで? とその時だけ敬語を崩して聞いた。男運のない子がいるから誰かいい人紹介してあげてよ、って頼んできたあの女の人に前々からモーションかけられてるから、と彼は自慢するでもなく言った、その面倒くさそうでもない単に事実を述べるだけの言い方がとても好ましいと思った。なんだから飲んでく? と言われて、だから素直に頷いた。
「八才年下の男は最悪だった?」
目の前の男が静かに目を細めた。嫌な感じではなかった、嘲笑うようなそんな風ではなく、面白がっている色の目をしていた。
「最悪だった」
わたしはきっぱりと断言する。
聞かせてよ、と男が言った、甘い声だと今になって気付いた。
幼い頃に母親を亡くしていたという八才年下の恋人は、初めからぐいぐいと来る人だった。とにかく顔が好みだとわたしにまとわりつき、年下は鬼門だからと逃げ回ったけれどあまりにもしつこいので、ダメな時は即別れてね、と渋々付き合いをはじめた。
なるほど向こうが生まれたときにこちらは既に小学生、という年の差はそのままカルチャーの違いになる。流行りの言葉も見ていたテレビも知ってる漫画も違っていて、確かにぼんやりと知っているけれど基本的に触れて来なかったのでそのままになっていた物事を補完する形で少し後の時代を生きてきた人間と接するのは面白いと思わないわけでもない。
最初のうちこそ遠慮していたのか猫をかぶっていたのか、年下の割にはまあこんなものか、多少頼りないところもあるものの十代の頃からひとり暮らしをしているだけあってそこそこ自分の面倒は自分で見られる人かと思っていたら、とんだ大間違い、勘違いだった。
掃除が苦手だというのは、確かにフローリングの床がざらついていたりシーツはいつ替えたんだろうという感じなのでうすうす気付いていた。付き合い始めはそれなりに相手が誰でも楽しい、こちらも何気なく簡単に掃除を済ませてシーツとカーテンを洗ってあげた。柔軟剤も洗剤と一緒に最初から洗濯機に入れていた、という彼を笑って、使い方も丁寧に教えてあげた。小さいコンロはひとつ口しかなく、さすが単身者用アパート、という狭さだったけど、電子レンジと炊飯器はあったのでご飯を作ってあげるときには最低でも三品ほど出してみた。魔法みたいだ、すごい、なんでそんな風に出来るの、と素直に驚かれて喜ばれれば悪い気はしなくて、こちらも調子に乗って細々と世話を焼いてあげてしまったのも悪かったのだろう。
気がつくと、やたらと甘えるようになってきてしまった。
甘えるならまだしも、わたしが親切でしていることをすべて当然のこととして平然と受け取るようになってしまった。
こちらが甘やかしたといえばそうかもしれない、けれど同じことをしても毎回きちんと感謝してくれる育ちのいい人だって存在する。だから結局のところ、そういう人間だったのだ、彼は。恋人に母親的愛情を求められても困る。それはわたしには与えられない。
愛情は目減りしていく。補充されない限り、いずれ枯渇する。延々と湧き出る泉ではない、母親的愛情だってあれは子供の見た目の可愛さだの望んだ成長だのをずっとではなくてもどこかで見せられ、愛情を補充されているに過ぎない。
それでなくとも恋は減点方式なのだ。持ち点がなくなった時点で対象は用済みとなる。あたたかくもないカイロを握り締めていてなんになるだろう、空のシャンプーボトルでは髪を洗えない、卵の殻を後生大事に持っていたって食べられる中身は復活しない。それと同じなのに、どうして恋愛に疎い人間は自分を同じだと思えないのだろう。
別れる、と告げたとき、年下の男は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
なんで? と聞かれた。他に好きな奴でもできたの? と。浮気か、と続けられたので、鼻で笑ってやった。あんたにうんざりしただけよ、と言い放ってやった。
別れたい、という願望ではなく、別れる、という決定を突き付けた時点で気が付かないのはバカだ。悪いところがあったなら直すから、と今更青くなってももう遅い。わたしだってうじうじした察してちゃんではない、ことあるごとに言っていた。奢って欲しいとは言わないし思わないけど、こちらがお金を出すことを当たり前だと思わないで。わたしの話をちゃんと聞いて、最後まで話を聞かないで勝手な思い込みでいろいろを決めつけないで。甘えたいときは甘えてくれていいけど、わたしのこともちゃんと甘やかして。予定が入っているならそれに対する準備は完璧でなくてもいいからちゃんとしようよ。自分の要求ばかり押し付けないで。わたしの悪いところは言って欲しい、我慢を重ねるだけにならないようにしよう、だって付き合っているんでしょう、わたし達?
全部全部、きちんと告げていた。その都度反省した顔はしていたけれど、謝ればすべてがチャラになると思っている子供の顔をしていた、あの時もっとちゃんと怒れば良かったのか。
腰が痛い脚が痛い背中が居痛い、仕事が肉体労働なのでそれは分かる、頑張っているし仕事は嫌がらず真面目に取り組んでいるようだし、その愚痴はいくらでも聞いてあげる、だからと言ってセックスはしたいけど動きたくないから騎乗位でお願い、口でして、自分がすっきりしたらそれでおしまいっていうのはどういうこと。
愛は枯渇する。
枯渇するの、枯れた井戸には二度と水が湧かない。
後からすがっても、そもそも何が悪かったのかあなたちっとも分かっていないでしょう!
「……なんかもう、わたしに母親を求めていたんだと思うのね、途中から。一番ブチ切れたのはお風呂事件よ、あれでもう、ダメだわって思ったの」
「なに、その事件」
チキン料理が美味しいダイニングバーで、知り合いが紹介してくれた男がそっと先を促す。銀色のフレームのメガネをかけていたけれど、嫌味に知的すぎる印象になっていないのがいいと思った。丁寧な食べ方をするところも。
「お風呂に入りたいって、お湯を沸かしたのよ。元彼がね、それでわたしは部屋の掃除をしてたの。掃除機もない家だったから、ホームセンターでホウキとチリトリを買って、それもわたしが出したの。お金。まあそれはいいんだけど。ホウキで掃いただけじゃ綺麗にならないじゃない? 雑巾を縫ったわよ、自分で。それで雑巾がけもして。まあね、片付けとか掃除は嫌いじゃないの、洗濯機も回して……わたしがしてくれるから、って週末に洗濯物溜めるようになってて、それはやめてって何度も言ったんだけど、まあ聞いてくれなくて。わたしはあなたのお母さんじゃないのよ、って怒ったこともあったんだけど。ま、そんなこんなでいろいろと積もり積もってはいたのね。爆発寸前ではあったの」
それでも彼はわたしを好きだと言い、やさしいところもあった。連絡はマメに入れて、わたしが好きなものをちょっと買っておいたりしてくれていて、そういうところは確かにあった。
でも、あの日。
お風呂に入った彼は、わたしが入っていないのにお湯を落とした。
基本的に部屋に遊びに行っても泊まりはしなかったので、泊まっていった数回はお酒を飲みすぎてお風呂どころか化粧も落とさずふたりして寝てしまったときだけだった。
でも、あの日。
わたしは泊まる予定で用意をして行っていた、彼が泊まって行って欲しいと言ったからだ。狭いベッドでふたり寝るのは嫌だと最初は断ったけれど、どうしても、と懇願されたので泊まることにしたのに。
彼は、わたしがお風呂に入る前にお湯を落とした。
さすがにポカンとして、わたしも入りたかったのに、と呆れた口調で告げると、そう? とだけ帰って来た。
なにその返事。
そもそも、思いやりだとか親切だとか、そういう以前の問題だと思うのだけど。
ごめんいつもの癖でお湯落としちゃった! と言ってくれれば、ありがちだねえ、と笑い話で済んだことだった。この人は今まで家に誰かを泊めることがあまりなかったのか、と微笑ましく思ったかもしれないのに。
「嫌味を込めて、じゃあ銭湯でも行ってくるわ、って言ったの。そしたらなんで言ったと思う? 場所分かんないでしょ? だって! なにそれもう、あんたはわたしに対する思いやりが本気でなんにもないのね! ってなって、今までの不満が一気に爆発しちゃって。わたしはあんたのお母さんになんて死んでもなりたくないわ! って怒鳴って、別れる! って言ったの、あっちはぽかんとした顔してたけど、関係ないって思って荷物持って部屋を出て、それっきり」
「それっきりで済んだ?」
「あー、なんがぐじぐじと連絡はきてたけど、一切無視しちゃった。気持ち悪いし。なにが腹立つって、あの人は今でも自分の何が悪かったのかを理解してなさそうなのよ、あー、もう気持ち悪い、あいつに付き合ってやった一年近くの時間が無駄だった、人生の無駄遣いをしちゃったのよ」
「でも俺が連れてきた男はさ、別にその八才年下の男じゃないよ? 君の八つ年下っていう共通点はあったとしても」
「小さい頃犬に噛み付かれた人間は、その時の犬じゃなくても、どんな犬でも苦手になるでしょ?」
「世の中の八才年下の男達が気の毒だな」
「世の中、八才年下の男しかいないって言うんじゃないもの」
わたしは鼻を鳴らす。
目の前のこの男。
嫌いじゃないかもしれない、と思いはじめていた。三つとはいえ、年上なのだし。でも初対面でこんな話をする女は嫌いかもしれない。なにせ、紹介しようと思っていた男を帰してしまった女だ。呆れているかもしれない。それならそれでいい。わたしだって、今すぐ誰かと付き合いたいわけじゃない。
そもそもどうして恋人がいないと欠陥品のように扱う人達が一定数居るのだろう。放っておいて欲しい。わたしは好きな相手と深く付き合いたくて恋人同士になりたいだけで、恋人という存在が欲しくてその枠に誰かを押し込めようと思っているわけではない。
「君はなんか、ずけずけと物を言うタイプなんだね」
「猫も被れるんですけど、猫被って築き上げた関係なんて所詮幻じゃないですか。永遠に幻やってる自信がある人なら別ですけど、それだともう幻じゃなくて猫被ってる状態が本質になりますよね」
「年上の方が好きなんだ」
「相性がいいんです。もちろん、人によりますけどね、統計上は」
目を細めた、と思ったら、目の前の男が突然笑い出した。あはははは、と気持ちいいくらいはっきりした発音で、こちらが一瞬ひるむくらいのポリュームで。
「君の鬼門は、多分年下の男なんじゃなくて、精神年齢が低い男なんじゃないかな」
まあそうだろう。残念なことに、わたしは精神年齢の高い年下の男と出会ったことがないので、断定はできないけれど。
「精神年齢が高いってどういうことだと思う?」
男が目を細める。
「成熟してるってことですかね」
「成熟してるとは?」
「きちんと正しい成長の過程を経て、経験と知識が一定の水準を上回っている状態?」
「経験も知識も乏しいけれど、魅力的な人間てたくさんいるよね」
「いるかもしれませんけど、本質というか、成熟してるかどうかの定義からは外れません?」
「君は自分が精神年齢高いと思う?」
思いません、ときっぱり言うと、相手は少し驚いた顔になったけれど、すぐに唇の端を持ち上げてやわらかい笑顔になった。テーブルに肘を付いて、こちらに身を乗り出す形になる。微かにだけれど。
「わたしは甘えるのが大好きだし甘やかして欲しい人間だし、変なガチャガチャとかも好きで小銭があると回しちゃうし、アニメとかマンガもオタクになれるほど詳しくはないかもしれないけれど好きだし、仕事面倒くさいから帰りたいなーっていつも思ってるし、美味しい食べ物の話を聞くとお腹が鳴っちゃうし」
「お腹鳴っちゃうの」
「鳴りません?」
「食べることが好きな女の子っていいと思うなあ」
「女の子って年でもないですよ」
「俺より年下なんだから、女の子でいいんじゃない? ところでオレの考える精神年齢の高さって、って、話してもいい?」
どうぞ、と促す。話しやすい人だ。話を聞いてくれる、というか。
「ありがとう。俺の考える精神年齢の高さって、結局のところ余裕がある人間かどうかだと思うんだけどね」
「余裕」
「うん。たとえば初めてのことに余裕がないと切羽詰まって死んじゃうだけにならない?」
いきなり死ぬんですか! と大きい声を出してしまい、慌てててのひらで口を覆った。なんかごめん、と彼が笑う。
「うん、余裕がないと観察ができないから。傾向と対策を導き出せないでしょ、焦ってるだけだと視野も狭くなるし過去の経験から役に立ちそうなものを引っ張り出してくる時間もないよね。余裕があると、対処が変わってくるし。それは、仕事でも恋愛でも人生でも、対人でもなんでも」
「はあ」
余裕。余裕が精神年齢の高さに繋がる。なるほど。分かるような分からないような。けれど、余裕はあった方が確かにいい。ケンカだって余裕のある方が勝つ、仲直りも提案できる。
「君はモテる人なんだね」
「ええ? 今の話からどこに飛んだんです?」
「過去の恋人の文句がたくさん出るってことは、それだけの人数と付き合ってるってことでしょ」
「長続きしてないから意味がないんですよ、付き合うっていうのはゴールじゃなくてスタートラインですから」
「じゃあ、俺とスタートライン立ってみる?」
「へ?」
「年上ではあるし、フリーだし、そこそこ余裕もあると思うけど」
「自分で自分に余裕があるって言う人、胡散臭いですよね」
一度鼻の頭にしわを寄せてから、わたしは笑う。
でもいいですよ、と言ってみる。スタートライン。立ってみるのも悪くない、多分。
「どこが気に入ったのか分からないですけど」
「うん、顔かなあ」
「ストレート」
「あと、君といるといろんな男の話が聞けそうだから」
「浮気とか意外としないタイプですよ、面倒なんで」
「浮気させるくらい放っとく相手が悪いよね、それは」
「うーん、突然恋に落ちるってこともありますからね、マンホールがたまたまずれてて落ちた、みたいに」
そんな奇跡みたいな落ち方で恋をしたんだったらそっちが本物だろうから迷わずそっちに行ってください、と彼が言う。
「その時はそっちに行きますけど、あなたが奇跡の恋に出会っちゃったときは、こちら悪あがきするかもしれませんのでよろしく」
「俺に恋してくれるの?」
「顔が好みなんですよ」
言われたことをそのまま返すと、にやりと笑われた。破顔するよりこっちのちょっぴり嫌味な感じの、悪い笑い方の方が好きだと思ったら、なんだか本当に恋をした気になった。
とりあえず、さっき聞いたけれどすでに忘れてしまった彼の名を、どうやってもう一度聞き出そうか考えないといけない。そういえばさっきからなんで敬語になった? と聞かれたので、猫でも被ろうかと思って、と返したら、彼が思い切りにやりとした顔をした。