運命の恋
彼女に初めて会ったのは大学の入学式の時だった。
うちの大学は校舎とは別の都内の大きな会場で入学式をする。その会場は家の近くだったから、俺は入学式だというのに、結構ギリギリの時間まで家でダラダラしていた。いよいよいかないとまずいと思って電車に乗り、わずか数駅乗っただけで、会場の最寄りの駅まで着く。入学式の前なんて、会場へ向かう人の波で道路に渋滞が起きていそうだけれど、時間ギリギリのせいか、入学式に向かう人は見当たらず、俺は一人で悠々と歩いていた。その時、後ろから声がかかった。
「あの、すみません。道が分からないので教えてほしいのですが」
振り返った先にいたのは、俺よりも少し背が低いスーツを着た女の子だった。ショートカットのその子は、頭を下げながら俺に向かって一枚の紙をさしだした。
「急いでるんですが、場所がわからなくて…ここに行きたいんです」
話している言葉が、焦りのためかよく分からなくなっている。とりあえず急いでいることが、彼女の全身から伝わってきた。
指さしたその場所は、駅の出口から本当に目の前のところだけど、たぶん駅の出口を間違えれば、ここが初めての人間にはもうどこがどこだかわからないだろうから、簡単にはいけない場所になってしまう。
俺はまず、地図の中の現在地を教える。それからここからの道順を簡潔に説明する。どうしてそんなにわかっているかと言えば、俺の目指す場所も同じだからだ。彼女が差し出した紙に書いてある場所は、俺も向かっているところ、大学の入学式の会場だった。
彼女は俺の説明を必死で聞いていた。目は真剣に俺の指を追い、一言も聞き漏らさないようにしているのがわかった。
「ありがとうございます!助かりました、ありがとうございます!」
彼女は俺の説明が終わるか終わらないかのところで、頭を下げると走っていなくなってしまった。
俺も同じところ、いくけど。…
彼女の着ているスーツも持っているバッグも明らかに新品で、明らかに新入生で、明らかに数日前に地方から出てきました、という感じだった。そう思って、どうせなら案内してあげればよかったと後悔する。
そういえば、高校の時付き合っていた彼女に、いつも言葉が足りないと怒られていたことを思い出した。俺のわかりにくい態度や、足りなすぎる言葉では、考えていることも、彼女が好きだったことも全くと言っていいほど伝わらなかったらしい。
その証拠に彼女は『あなたがなにを考えているのか、全くわからない』と言って、離れていった。
電車の走る音がして、我にかえる。さっきの彼女のことを考えて悪いことをしたな、と思ったと同時に、彼女はこの短い距離でも道に迷ったのではないかと心配になる。慣れない人には東京の道路は迷路みたいなものだから。
だけど、もう彼女の姿は見えなかった。仕方ないと俺は歩き出す。そのあと俺は普通に歩いて入学式に間に合った。あたりを見回してみたけれど、彼女は見かけなかった。
もう会うこともないな。
そう思ったら、偶然に彼女と再会した。
再会したのはテニスサークルの勧誘の時で、俺は高校のテニス部の先輩に目を付けられ、新入生のくせにもう部員扱いとなっていた。サークルの公開練習の時に彼女に再会した。
俺は一目であの時の子だとわかったのに、彼女は俺が誰だかなんてわかっていないようだった。
練習の間も、俺はなんとなく、彼女から目を離せなかった。練習の時、彼女は必死にボールを追っていた。おそろしくへたくそで、ラケットを振れば見事な空振りで見ていられなかったけれど、必死に頑張っているところは、なんというか、小動物みたいでかわいらしかった。
「あの子、お前おねがい」
最後、そういわれて俺は彼女の練習相手に指名された。最後に二人ずつペアになってラリーする。普通は上級生と新入生で行われるものを、新入生同士でやれということらしい。さすがに俺は驚いた。
「え、俺ですか?」
「あの子、同じ新入生だろ?先輩に相手をさせるとやっぱりあの子も緊張するからここは同期の方がいいって、おねがい」
結局二人でラリーする予定が、彼女が下手すぎて全くボールはつながらなかった。俺からのボールを彼女が空振りする。一方通行のテニス。もはやテニスとは言えないものだった。
彼女はごめんなさいと言い続けて、練習は終わった。こんなに続かないラリーで楽しいも何もない。こんなんじゃテニスサークルには入らないだろうな、と思っていたのに。
彼女はまさかでテニスサークルに入ってきた。
新入生歓迎の飲み会で、一人ひとりテニスサークルに入ったきっかけをみんなの前で発表することになった。彼女の番が来た時、俺は彼女の入部動機を聞きたいとおもって耳を澄ませた。
「テニスは本当に下手なんですけど、公開練習の時、初めてやったテニスがとても楽しかったので、またテニスをしたいと思って入りました」
彼女はにこにこしながらそう言った。
その笑顔がなんだか俺の心をとらえてしまった。
そもそも彼女との出会いが奇跡だった。しかもうちの大学はマンモス校で、もう会うこともないと思っていたのに同じ学部で、もう一度出会って、しかも、彼女は俺とテニスをして、またテニスをしたいと思ってくれた。
偶然が重なりすぎている。ここまで偶然が重なるって。
これ、運命じゃない?
気持ち悪いかもしれないけれど、俺はそうおもってしまった。そしていつも西野を目で追っていることに気がついて、自分の気持ちに気がついた。
これが、俺、斉藤智也の西野沙耶への恋の始まりだった。
1年生の時から試合に出ていた俺は、練習も他の1年生とは別メニューでハードだった。正直俺もみんなと一緒に楽しみたいとも思ったけれど、試合に出る以上、仕方ないと思っていた。だけど時々、同級生が楽しそうに笑いながら練習しているのを見て、なんとなく羨ましいと思ってしまう。遠くから同級生の練習を見ていると、1年生の終わり頃にはさすがに彼女も空振りすることはなくなって、何とかボールを打ち返せるようになっていた。すこしできるようになった彼女と、今度こそ練習してみたいと思ったのは事実だけど、そんな機会はなかった。ただ遠くから成長ぶりを見ているだけだった。
一緒に練習したことはないけれど、試合の時、気が付くといつも西野は一生懸命に俺の応援をしてくれていた。そのことに気が付いたのは、いつだっただろう。多分、1年生の終わりの頃だと思う。
どんなに暑い日も、雨が降っている時も、いつも西野は俺の試合を見ていた。汗を拭きながら、雨に濡れながら、大きな声を出すでもなく、ただ、真剣に試合を見つめていた。その姿が、どんな声援よりも心強かった。いないとなんだか試合に集中できなくなってしまうくらい、試合のたびに俺は西野の姿を探した。
だけど、西野は恐ろしく鈍感だった。まずショックだったのが、公開練習の時ラリーをしていた相手が俺だということを理解していなかった。
「私、本当に下手だったから、あの時相手してくれた先輩、誰だったか忘れちゃったけど、悪いことしたな」
1年生の冬合宿で、みんなでお酒を飲みながら酔っぱらった西野がそう言ったのを聞いて、俺は翌日一日立ち直れないくらいショックを受けた。
それから、同じ沿線に住んでいた俺たちは、練習や試合の帰りはいつも一緒だった。みんなが下りて、最後は俺と西野が残る。試合の帰りに寄り道を薦められても、俺はいつも断っていた。西野と一緒にいたかったから。
俺が西野を気に入っていることは、たぶん西野以外はみんな分かっていた。
だけど、当の本人だけが気が付いていなかった。
「斉藤君、誘われたのに行かなくていいの?」
そう聞かれて、思わずぶっきらぼうに返事してしまったことが何回あったことか。
俺にとってはその二人だけの電車で帰る時間はとても楽しみだった。物静かな西野と特におしゃべりでもない俺では会話が盛り上がるわけではないけれど、沈黙も気にならないというか、西野といると気を遣わないで済んだ。だけど、西野自体はそれをどう思っているのか、この時間に告白しようと思い立って、逆にいま告白したらどうなるのかと考えると答えが見つからなくて、悩みすぎて俺はこじらせすぎてしまい、西野に気持ちを伝えることができなかった。
卒業を前に何とかしないといけないと思った俺は、西野に好きなやつはいないのか、さりげなくリサーチもした。いないという返事に息を吐いた。
「斉藤君の事、沙耶も好きなんじゃないかな」
西野と仲のいい女子がそういった。
「どうして?」
彼女はうーんと記憶を辿るようにした後で、返事する。
「沙耶、斉藤君の試合は絶対に見てるから。いつも最初から最後までずっと見てるから。いやだと思っている人の試合なんて、あんなに一生懸命見ないと思うんだよね」
その答えは俺を勇気づけた。
いけるかもしれない。
そう思った俺は、最後の試合の日にシングルスの試合で勝てたら、西野に告白しようと決めた。
その試合で俺は恐ろしい集中力を発揮し、格上の、大学生活で一度も勝ったことがない相手に、フルセットの大熱戦を繰り広げ、勝利を勝ち取った。勝った瞬間、真っ先に振り返ると、西野が笑っていた。俺は大きくガッツポーズをした。
西野に向かって、ガッツポーズをした。
だがしかし、西野は本当に、鈍感というか、相変わらずだった。
帰りの電車の中で、俺はくたびれた体に鞭打って、何とか起きていた。隣の西野が気になって、どのタイミングで告白しようか迷っていた。少しだけ、甘えてみたくなって肩を貸して、といって頭を西野の肩に預けてみた。顔を上げて振り返ってみると、西野の顔は赤かった。
『斉藤君のこと、沙耶も好きなんじゃないかな』
その声がよみがえってきて、いけると思った。
電車が静かに揺れていて、車内には俺と西野しかいなかった。あと少しで西野の降りる駅が来てしまう。
もう、いましかない。
そう思った俺は、口を開いた。
「西野、あのさ」
しばらく待っても、返事はなかった。
「西野?」
もう一度呼んで、恐る恐る顔を上げると、信じられないことに、彼女は眠っていた。最初は俺が肩を借りていたはずなのに、今はどちらかと言うと、西野が俺に寄りかかっていた。顔をあげたことでその体がさらに俺に近付いて、俺は少し慌てる。
え、こんな時に寝る?と驚いて、でも彼女ならありうると思ってしまう。驚くほどに彼女は熟睡していた。こんな時でなければ、起こすのが悪いと思ってしまうくらいだった。
「西野、あのさ」
俺は彼女の肩を揺らした。かなり強く揺すって、ようやく彼女が目を開く。
「あれ、斉藤くん?」
寝ぼけた声で俺を読んだその時、彼女の降りる駅に電車が滑りこんだ。彼女は外をみて、そこが降りる駅だと知って、驚いて立ち上がる。
「あ、いけない!斉藤くん、お疲れ様!すごい試合だったね、おめでとう!」
いうだけ言うと、荷物をつかんでたちあがった。
「西野!」
「最後にいい試合見せてくれて、ありがとう!おつかれさま!」
そう言って、彼女は電車を降りた。
「嘘だろ」
俺の声は誰もいない車内に静かに吸い込まれた。
今度こそ、と思ったのが卒業式だった。
だけど、またしても彼女は俺の手をするりとすり抜けてしまう。卒業式の日、俺はずっと彼女の姿を探していた。でも人ごみに紛れ、なかなか話す時間なんてない。でも今日はサークルのみんなで飲み会がある。だからそこで会えればいい。そう思った。
それが間違いだった。
彼女は卒業式に来ていた親と一緒に、そのまま実家に帰省してしまった。
「嘘だろ」
俺の声はまたしても彼女に届かない。
大学時代の俺の西野への想いは、いつも悲しいくらい、一方通行だった。
大学生活で一度だけ、二人でしたテニスと同じ。
空振りばかりで、ボールの帰ってこない、一方通行のテニス。
2020年8月17日22時30分修正しました。




