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コーヒーの苦い匂いがして、重い瞼をこじ開ける。見覚えのない真っ黒な天井が視界を占め、ぼんやりと眺めた。
ベッドの固さ、部屋を包む匂い、低くて黒い天井。何一つ見覚えがない。
そのことに気付き慌てて起き上がると、私を取り囲む環境に私は目を見開いた。
ベッドから立ち上がり、私は「それ」に触れる。
「何、これ」
黒く、冷たい棒がいくつも私を囲んでいた。金属特有の冷たさに手を引っ込めてぐるりとその場で一周する。
私は真四角の檻に入れられているのだ、と理解するまでにどれほど時間がかかっただろう。
腕一本通るか通らないかという狭い感覚で鉄格子が真四角に囲んでいて、上には同じ金属で蓋がされている。
檻の外に見える窓はカーテンが閉められていて外の様子を伺うことはできない。檻は部屋の大部分を占めていて、部屋の出入り口は開け放たれている。
まだ頭がぼんやりしているのも手伝って、状況を飲み込むことが難しい。
私は必死に記憶を掘り起こした。
確か……、そう。パーティでお兄様とお父様と別れて、エレナ様と二人になったんだ。それで、近くを通り過ぎたウェイターからもらったジュースを飲んだら急に眠たくなって、その後……____
「目が覚めた?」
声のした方を振り返る。部屋の入口に立っている人物に、私は咄嗟に後ろへと後ずさる。
その男はコーヒーを片手に椅子を引き寄せると、私と向かい合う形で椅子に腰かけた。身なりから察するに、貴族階級ではなさそうだ。
「随分ぐっすり眠っていたね」
「……誰なの。何が目的? お金? 私を知ってるの?」
一息に問いかける。
男は声をあげて笑うと、コーヒーをすすった。
「質問ばかりだな」
「いけない? 分からないことだらけなんだもの」
「いや。そういう物怖じしないところが好きだったんだ。変わっていないみたいで嬉しいよ。今も、昔も」
ぎらりと嫌な光を放つ男の瞳に、私は絶対に怯んでなるものかと睨み返す。
「……昔? まるで小さい頃から私を知っているよう口ぶりね」
「正確には小さい頃は残念ながら知らないんだけど……まぁその話はいいや」
男は、一歩、また一歩と檻に近づいてくる。私は対応して男の手が届かない位置まで下がった。
「俺の事、まだ分かっていないみたいだね」
「どういう意味」
「……こうすれば分かってくれるかな?」
男はポケットに片手を突っ込み、もう片方の手で自身の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
「え、」
ポケットから取り出したものを顔にかけたとき、私は呆然と男を見つめるしかなかった。
__なんで、どうして、あなたが。
溢れてくる言葉は声になる前に消え、口は空気だけをはくはくと漏れさせるだけ。
「あれ、結構驚いてくれたんですね、『ヒュートさん』」
「…………____レーリン、せんせい」
ぼさぼさの髪、分厚い眼鏡、目元を覆う前髪。
シモン・レーリンは愉快そうに笑うと眼鏡を外して前髪をかき上げた。学校での気弱そうな彼の面影はどこにもない。
「ここまで来るのは結構大変だったけど、君の母親が話が分かる人で本当に良かったよ。あ、本当の母親じゃないんだっけ。まあいいや。君とエレナが上手くいってないって聞いてね。それで、『ルーナさんの事でご相談が』って言えば学校関連の事だと思ったみたいですぐにエレナに合うことが出来たんだ」
ぺらぺらと話すレーリンの話はこうだった。
『手を汚すことなくルーナをお払い箱に出来る方法がある』とエレナに持ち掛け、今回の計画を実行した。最初は渋ったエレナも、最後には「自分が手を汚さなくていいのなら」という条件で加担することにした、と。
一体私の何が彼女を追いこんでしまったのだろう、と私はエレナの顔を思い浮かべた。いや、何、というよりは私のすべてだろう。
昔見た、私の生みの親であるミーナの写真。私が大人になったらこんな風になるのだろうと容易に想像できるほどに、私はミーナに似ていた。
姉を心底嫌っていたエレナだ、私をミーナと重ねてしまうのもしょうがないだろう。
コンプレックスや、嫌いな誰かへの憎い思いは人によっては強く根付き、やがては形となって攻撃してしまう場合があることを知っている。前世ではそんな人が毎日のようにニュースに取り上げられていたし、学生の頃はいじめという形で露になることもあった。
「まぁ、実際エレナは本当に手を汚していないんだ。ただ気分の悪そうな君を、親切にも空き部屋で寝かせてあげただけなんだから」
「……そうね。悪いのは貴方よ、分かってるじゃない」
なんとか平静を装い、鼻で笑って見せる。
レーリンは鉄格子の間から私に向かって手を伸ばした。反射的にもう一歩後ろに下がる。
「いいね。本当に昔のままだ。普段は大人しい君が必死になって俺を挑発するその眼。懐かしいなぁ」
レーリンは私の目を通して何かを思い出すようにぼんやりとしている。
「……さっきから、なんなの? 昔から私を知っているような口ぶりをしているけど」
私の言葉に、レーリンは腕を下ろしてニタリと嫌な笑みを浮かべた。
「知ってるよ、勿論ね。でも、細かく言えば『昔』というよりは『前』かな」
「『前』?」
一体何が違うのかと考えるよりも先に、察しの良い私の頭はある言葉を引きだしていた。
まさか、とレーリンを見つめると、その笑みをより一層深くした。
「__」
もう、決して呼ばれることはないと思っていたその名前。
目の前の男は愛おしそうに、『以前』の、『前世』の私の名を口にした。
「どうして、」
「まだ分からない? 『俺』のこと。悲しいなぁ、あんなに愛してたのに」
言い知れない恐怖が、この男が、私を支配している。荒くなっていく自分の呼吸音だけが私の耳に届く。
だれだ。わからない。こわい。たすけて。
「恥ずかしいけど、もう一度プロポーズの言葉を言えば分かるかな?」
ちがう。私は結婚なんてしてない。それに近しいひともいなかった。それじゃあ、一体、
「『俺とひとつになろうね』」
組み敷かれ、振り上げられた包丁。ギラギラと嫌な光を放つ瞳。
あぁ、そうだ。思い出した。
____この男が、私を、殺したんだ。




