17
「ルーナ!」
血相を変えて私を助け起こしたグレイに、私は漸く状況を理解した。
私はエレナに身体を押され、食器を運んでいた使用人にぶつかったのだ。そして使用人の持っていた食器は床に落ちて割れてしまい、その上から私が倒れ込んでしまったのだ。
「ルーナ、血が……!」
グレイが私の手を見て、悪い顔色をさらに悪化させた。
咄嗟に身体を庇った右腕は長袖を着ていたことが幸いして怪我はないが、肌を晒している手首から手のひらにかけて割れた食器の破片が刺さっている。そして最悪なことに、食器だけでなくナイフやフォークなども一緒に運んでいたらしく手のひらには大きな切り傷が出来ていて、そこからどんどん血が流れていた。
こんな大怪我前世でもしたことないので、正直尋常じゃないほど痛い。
「も、申し訳ありませんお嬢様!」
「だ、いじょうぶです。貴方は悪くありません」
食器を運んでいた使用人の男性が顔面蒼白で頭を下げてくれるが、これは完全にこの人悪くない。
この人もまさか私が倒れ込んでくるなんて思ってもみなかっただろうし。
「お嬢様!」
「ルーナお嬢様!」
盛大に鳴り響いた食器の割れる音に駆けつけてくれたアンとロイは、惨状を見るなりさっと血の気の引いた顔になる。
「ロイ、止血を!」
グレイの鋭い声が響いた。
「っ、はい!」
ロイは私に駆け寄ると、周りの使用人に的確な指示を飛ばしながら胸ポケットからハンカチを取り出し、私の手に手際よく巻いていく。
グレイはそれを心配そうに見つめていた。
「応急処置はしましたが、ちゃんとした処置をした方がいいでしょう。細かい破片も取り除く必要がありますので、このまま自室にお運びいたします。お嬢様、失礼いたします」
「え、」
膝裏と背中に回されたロイの腕に、ひょいと抱えられる。
ひぇぇ、これがお姫様抱っこというやつか……って、そうじゃなくて。
いつもより距離が近いロイの顔に緊張しながらも、抗議の声を上げる。
「ロイ、怪我をしたのは手なんだからこんな事しなくても」
「あれだけ出血していたのですから、貧血を起こしている可能性も考えられます」
「そうだよ、ルーナ。こんな時くらい甘えておいて」
ぴしゃりと反論したロイの後ろからグレイに援護射撃をされては、私に立つ瀬はない。
黙るしかない私は、歩き出したロイの身体から顔を出して後ろを見る。
いつの間にか、エレナはあの場から姿を消していた。
自室に戻ると、ロイは私をベッドに座らせた。
ハンカチは既に赤く染まっている。ジュクジュク、と右の手のひらが痛みを訴えている。段々とそれが増しているように感じるのは気のせいだろうか。
アンが取りに行ってくれた医療器具を受け取ったロイは私の正面に椅子を持ってきてそれに座ると、台の上に私の手を置いて巻かれているハンカチを取った。
かなり見た目がグロいので、私は自分の手から目を逸らした。ついてきたアンもグレイも私の傷口を見るなり顔を顰める。
「お嬢様、破片を取り除きますので痛みがあるかと思います。それと、一番大きな傷は数針縫うことになりそうです。申し訳ありませんが、我慢してください。アンはお嬢様の腕が動かないように固定して」
「……お嬢様、失礼します」
綿やらピンセットやらを準備し終えたロイは、怪我の具合を見ながらそう言った。アンは心苦しそうに私の右腕を台に縫い付ける。
私はすっかり死刑執行を待つ囚人のような気持になった。首切り台はすぐそこだ。
これ以上痛いのは勘弁だ。
「ルーナ。反対の手を僕が握っておくから、痛かったら遠慮なく握りしめて」
隣に座ったグレイが、私の左手を握る。その顔は、私を安心させるためだけに作られたのかもしれないと思うほどに心を落ち着かせた。
「……ありがとうございます」
ふーっと息を吐いて目を閉じる。
「失礼します」
ロイの言葉に私が身を固くするより先に、針で思い切り刺されたよな痛みが走った。反射的にビクッと動いた右腕を、アンが押さえつける。
「っ、ふ」
痛みを食いしばった歯の隙間から息が漏れる。左手で、爪を立てないようにグレイの手を強く握った。
「がんばって、ルーナ」
「は、い」
次々に襲ってくる痛みに息を止めてやり過ごす。荒くなる呼吸に、汗も止まらなかった。左手の手汗がすごいことも分かっているが、今はそんなことすら気にならなかった。
暫く、私の呼吸と、取り除いた食器の破片をバッドに置く音だけが部屋に響く。
その後、今度こそ本当に針と糸で皮膚を縫い合わせていく如何ともし難い痛みが私を襲う。
「終わりました、お嬢様。よく頑張りましたね」
ロイのその言葉に、私は止めていた息をふーっと吐いた。破片を取り除く作業、皮膚を縫い付ける作業はとても長く感じられた。一時間とか二時間とか、実際そんなことはないのだろうが、私にとってはそれくらいだ。
包帯が巻かれた手を台から降ろす。
「ルーナ、よく頑張ったね。偉い偉い」
グレイが私の頭をよしよしと撫でる。
「ありがとうございました、お兄様。ロイも、アンもありがとう」
私の言葉を受けたロイとアンは、私に向かって頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。お嬢様をお守りできないなんて、使用人失格です」
「また、こうしてお嬢様を傷つけてしまったこと、本当に申し訳ありません。如何様にも、処分をお受けいたします」
二人は頭を下げたまま、そう言った。私はその光景を見て、以前にも見たことがあるなと思った。
私が前世を思い出すきっかけとなった、あの階段から転げ落ちたときだ。
意識を取り戻した私は、その時も二人からこうして頭を下げられたのだ。今回もそうだが、あの場にいなかった人間がどうして責任を感じる必要があるのか、私には分からなかった。どんなに私が処分なんてしないと言っても引き下がらなかった二人に、私は「一つだけどんなお願いでも聞いてくれる」ことを処分とした。
元々執事や使用人の身分である彼らにとっては処分にならないと抗議されたが、なんとか引き下がって貰ったっけ。
目の前で頭を下げ続ける二人に、私は口を開いた。
「……前に、私が階段から落ちたとき。私は『一つだけどんなお願いでも聞いてくれる』ことを約束したわよね。それを今使わせてもらうわ。二人の処分はなし! それを受け入れてくれることを『お願い』する」
「そ、そんなことは……!」
「だめよ、反論はなし。なんでも聞いてくれる約束よ。今回は前とは違って命に関るような怪我でもなかったんだからこれでいいの」
有無を言わせない口調を心がけると、二人はぐっと言葉を呑んだ。隣ではその様子を楽しそうにグレイが眺めている。
他人事だと思って……。
「恩赦、感謝いたします」
「ありがとうございます」
普段心安く接している分、こういう改まった態度はむずがゆいものがある。
「この怪我、いつ頃治りそう?」
ふと、文化発表会のことが頭を過った。この怪我だと当日は調理や料理を運ぶのは無理だ。
接客とか苦手だから裏方に徹していようと思っていたのに、これじゃあ注文を取ってくるくらいしか出来ない。
「最低でも、二週間はかかるかと」
言いづらそうにするロイは、多分私が文化発表会のことを考えていることに気付いているんだろう。
「私に出来ることはあるから、必ず本番には出るわ。大丈夫、無理はしない」
「……わかりました。お嬢様、多少貧血の症状が見られますので、今日はこのままお休みになられてください」
「えぇ」
グレイは私をベッドに横になるように促し、布団をかけてくれた。そして名残惜しそうにもう一度頭を撫でた後、ロイを連れて部屋を出て行った。
ドアが閉まると、アンは横になっている私に近寄り包帯が巻かれた右手を見て眉を顰めた。
「お嬢様、この度は本当に」
「謝罪はさっき受け取った。大体、あなた達に謝られる道理が私には分からないのだけれど。さ、もうこの話はおしまい。私も大人しく寝るから電気を消してくれる?」
口を挟まれる前にと足早にそう話して、もぞもぞと布団に潜り込んだ。
「……お嬢様は優しすぎます」
「誉め言葉をありがとう」
まるでそれが不満であるかのような口調で言うので私もつい皮肉っぽく返してしまい、なんだかそれが可笑しくて二人して笑った。