1
気づいた時には意識が遠のき、反転していく視界。大理石の階段が目の前に迫る。
このまま落ちたらかなり拙いな、と思いながらも零れ落ちていく意識をもう一度掴むことはできず、宙を舞い、落ちていく自分の身体。
脳裏に浮かんだのは____推し、だった。
んなバカな。
「お嬢様、そろそろグレイ様との約束のお時間では?」
「あら、もうそんな時間? アン、髪を整えてくれる?」
「畏まりました」
あの日から、約半年。
階段から落ちた私は、その後三日程意識を失ったまま昏々と眠り続けた。といっても、その無意識化に置いて私の脳は前世を思い出し、状況整理の為にフル稼働していたのだが。
前世における記憶は鮮明とは言えないが、大抵のことは思い出している。特筆して何かを成し遂げただとか、人の記憶に残るような人間だとかではなく、本当に平凡な人生を全うした日本人だった。
強いて前世の私の特徴を挙げるならば、所謂「オタク」と呼ばれる部類の人間だったことだろうか。小学五年生の夏、とあるアニメキャラに一目惚れしたのがきっかけで、それからはオタク人生まっしぐら。推しの為にお金を貯め、推しに恥じない自分でいたくて自分磨きも頑張った。好きなアニメのライブやイベントにも参加したし、グッズもたくさん買った。
さらに前世の私は、「こなしてきた乙女ゲームは数知れず、私に落とせない男はいないとまで友人に豪語していた夢女」だった。乙女ゲームは勿論、二次創作の小説を読み漁っては心満たされる日々。
……とまあ大体こんな感じの前世だったのを思い出したのはいいが、問題は「今世」である
「できましたよ」
「わぁ……! とっても可愛い! ありがとう、アン!」
「喜んでいただけて何よりです、ルーナお嬢様」
見つめた鏡の中には、ルーナお嬢様と呼ばれた少女が笑顔でこちらを見つめ、それを微笑ましそうに見つめるメイド服姿の女性が映っている。
そう、ルーナお嬢様と呼ばれた少女こそ「今世の私」である。
前世を思い出した私は早速情報収集に努めたわけだが、今年で十歳になる私が今まで生活してきて得られたこの世界の情報は決して多くはない。
まず、前世で過ごしていた世界線とは別の世界だという事。今世ではディノン・ヒュート伯爵の一人娘という貴族の中でも上流階級の立ち位置に生まれた私。最初は、「中世ヨーロッパにでも逆トリップしたのか?」とも思ったが、その可能性はすぐに消えた。
屋敷の一角にある書庫にこっそり忍び込んだ時、世界のことが書かれた本に載っていた地図はおよそ前世で見慣れていた世界地図とは似ても似つかないものだったのだ。その時確信した。
「あ、これ異世界トリップや」と。思わず口に出してしまい、書庫に入っていたことがメイドにバレて咎められた記憶がある。
当時は、前世で死ぬほどこういう小説とか漫画とか読んだわぁ、と遠い目をしたものだが、それと同時にこうも思った。
もしもこれが前世で読んだような異世界トリップなら、私が知っている何かのアニメやゲームなんじゃないか?
だが、前世を思い出して半年。一向に知ってるキャラに出会えていない。え、逆になんで? こういうのって普通知ってるコンテンツにトリップできるんじゃないの!? もっと前世で徳を積むべきだった!?
と、一時発狂しかけたこともあるが、冷静に考えると現実に推しに会ったところでどの推しも顔が良すぎて直視できると思えないし、自分が推しとくっつくなんて烏滸がましいにもほどがある。
そう、これで良かったのだ。全然知らない世界だけど、元々は前世を思い出した私の方がおかしいだけで、別にこの世界は変なんかじゃない。前世は前世、今世は今世。今を楽しむぞ!
…………と勝手に一人で納得して、軽く考えた時期が私にもあった。
「ルーナ、こっち」
「お兄様、お待たせしてしまいましたか?」
「ううん、僕も今来たところだから」
屋敷の中庭にあるガゼボに着くと、今世の兄にあたるグレイが優雅に腰かけていた。
グレイは私の姿を認めると立ち上がり、椅子を引いてエスコートした。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
腰を掛けてグレイを振り返れば、にこやかな笑みを携えてこちらを見つめていた。
すぐさま顔を逸らし、慌てて口を開く。
「そ、ういえば、ロイはご一緒ではないのですか?」
「ううん、今は紅茶の茶葉を取りに行ってもらっているんだ。用意してくれていた茶葉がどうやら僕の言っていた物と違っていたようでね。それでもいいって言ったんだけど、ロイが譲らなくて」
向かいの椅子に座りクスクスと可笑しそうにするグレイ。金色の美しい髪が陽光に照らされてキラキラと眩しい。
一つ年上の兄、グレイ・ヒュート。彼は私が作成した「リスト」の二番目に名前が挙がっている人物である。
リスト、とは私がこの世界における「キャラクター」ではないかと睨んでいる人物のリストの事で、知っているキャラには出会わなかった代わりに、キャラらしき人物が周りにいることに気づいた私はすぐにリスト作成に取り掛かった。
今現在の時点ではまだ三人しかリストアップされていないのだがこの三人、明らかに他に比べて顔面偏差値が高い。そして、ただのデジャヴかもしれないが、なんとなく前世での見覚えがあるような気がするのだ。
まずは兄であるグレイ。ふわふわと触り心地の好さそうな髪は見事な金色で、瞳は碧眼といういかにもな風貌。肌は白く、その爽やかな笑顔を向けられるのがどうにも苦手だ。いや、本音を言うとイケメンの笑顔は有難いのだ。むしろご馳走様ですと言いたい所なのだが、なにせ心臓に悪い。イケメンは画面越しに見るからいいのであって、現実となると中々直視できたものではない。
「あ、ほら見てルーナ。蝶が飛んでる」
ひらひらと飛んできた蝶を指さして目を細めて笑っている。普段はその髪の毛と同様に性格までふわっとしている我が兄。時々大丈夫かなと不安になるときがあるが、この十年一緒に暮らしてきた経験からこの人は意外としっかりしている事を知っているので割と大丈夫だろうとは思っている。
「お兄様、蝶を追いかけるのはいいですけどそこに段差があるので気をつけてください」
「え、わ」
私の忠告で何とか転ぶことを免れた兄は「あはは、危なかったー」なんて言いながら再び席についている。……大丈夫、だよな。うん。
「グレイ様ー! お嬢様ー! お待たせしてすみませーん!」
「あ、ロイだ」
屋敷の方からティーワゴンを押しながら足早に歩いてくるのは、私のリストの候補者ナンバースリーであるロイ・ウィリック。ヒュート家に代々仕えるウィリック家の長であるピーターさんは私の父に仕える身であり、その息子であるロイはヒュート家次期当主であるグレイに仕えている執事だ。と言っても、ロイは私の五つ年上でまだ十五になったばかりで「執事見習い」といった形だが。
そんなロイももちろん顔立ちは整っている。くるくるとした天然パーマの黒髪は凛とした顔立ちを少し幼くさせているが、それも良いアクセントになって顔の良さを際立たせている。
くそ、イケメンには欠点すらないというのか。
「いやー、来る途中にローガン様にお会いしまして、これからお茶会だとお伝えしたところこちらを頂きました」
ガゼボに着いたロイはティーワゴンからケーキスタンドを取り、テーブルの上に置いた。
そこには色とりどりのケーキが並んでいて、ショートケーキにチョコレートケーキ、ムースケーキにミルフィーユまで。
「こんなにたくさん、一体どうしたの?」
この種類を用意するのはかなり時間がかかるだろう。綺麗な正方形で一口サイズのそれは、たぶんそれなりの大きさのものが切られた形のはず。
驚いてロイを見つめると、嬉しそうな表情を浮かべてこちらを見つめていた。
「今夜行われる国王主催のパーティー、ローガン様がドルチェを任されたそうなのです。ですから是非、お嬢様やグレイ様にも召し上がっていただきたい、と。そしてできればご感想も頂戴したいと仰っておりました」
十歳で社交界デビューを果たすことになっているヒュート家では、既にグレイは父に連れられて社交の場を経験しているが、私は数か月後の十歳の誕生日まではお預けだ。それまではある程度のマナーを身に着けるために毎日のレッスンが欠かせない。
今夜のパーティーは、午後から行われるこの国の要人が一堂に会して国の今後を話し合う会議の慰労会のようなものなので子供は不参加。うちのシェフであるローガンさんはこの国でも五本の指に入るほど優秀なシェフであり、中でもスイーツ作りに長けているのだ。
「ローガンさんの作ったものだったら絶対美味しいと思うけどね。ロイ、紅茶を」
「はい」
すっかり主従が板についているように見えるグレイとロイ。紅茶をカップに注ぐロイと、それを受け取るグレイ。とても絵になる二人だが……____
「あぁ! 申し訳ありません、グレイ様!」
「大丈夫だよ、ロイ。あ、見てみて。さっきの蝶が戻ってきたよ!」
「…………」
紅茶を零し「お怪我は、お召し物は」と慌てふためくロイと、話を聞いているのかいないのか蝶を指さして目で追うグレイ。カオスである。
ため息をつきそうになるのを何とかこらえて口を開く。
「ロイ、落ち着いて。お兄様も大丈夫なようだし、ケーキを私にくれる? 美味しそうだから早く食べたいわ」
「は、はい! どうぞ、お嬢様。ムースで宜しかったですか?」
「えぇ、ありがとう」
物心ついた時から一緒にいるからかロイは私の好みを把握していて、こういう時は言わずとも私の食べたいものを当ててくれる。
ありがとう、と言っただけで褒められた犬のようにぱぁっと顔を明るくするロイに、私は心臓を握りつぶされるような感覚に陥る。可愛いの暴力だ。
「お兄様、蝶は置いておいてお茶会を始めましょう。とっても楽しみにしていたんですよ、私」
「ふふ、ありがとう。言い忘れていたけれど、今日もとても可愛いよ。ルーナ」
蝶から私に視線を移したグレイは私に向き直り微笑む。
「……ありがとうございます」
「グレイ様の仰る通りです。髪型もいつもと違って、とてもよくお似合いです」
前世から得意だったポーカーフェイスを発動させて軽く流すも、ロイによる追い打ちに遭う。
こいつら、息をするようにこういうこと言うから本当に油断できない。
昔「そういう事は好きな人ができたときに取っておいてください」と言ったら二人とも不思議そうな顔をして、一番好きな人だから言っているのだと言われ「そうじゃない!」と地団駄を踏んだことがある。止めてくれと再三お願いしたが全く聞き入れてくれなかった結果がこれだ。イケメンに毎日「可愛い」と言われる拷問を耐えているこっちの身にもなってほしいものだ。
「わ、たしのことはもう良いですから、ほらケーキを食べましょう!」
「あぁ、そうだね」
「今日はとても楽しかったです」
「僕も。また、僕とお茶会してくれる?」
「えぇ、勿論! お兄様とお話しできるならいくらでも」
「……可愛いことを言ってくれるなぁ。ありがとう」
ガゼボから屋敷に向かいながら、辺りを照らす光がオレンジ色に染まっているのに気づき、そんなに時間が経ってきていたのかと驚く。グレイとロイと過ごす時間が楽しくて、つい時間を忘れてしまっていたようだ。
「それじゃあ、僕はこれから剣の稽古があるから。……名残惜しいけど、ここでお別れだね」
大げさなほど悲しそうな顔をするグレイに、思わず笑いが零れる。
「また夕食のときに会えるじゃないですか。お稽古、頑張ってください」
「そう言われると、僕も頑張らないとなぁ」
いってらっしゃいと笑いかける。
ふとグレイの顔が近づいてきたかと思うと、頬に柔らかい何かが触れ、離れていく。
「いってくるよ。また後で」
悪戯っ子のような笑みを残してその場を立ち去る兄の後ろ姿を、私はしばらく呆然と見つめていた。
九時ごろにもう一話投稿しますので、是非に。