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 窯に火を入れるとパンの上にスライスして乗せたチーズが、お腹にだらしなく付いたお肉のようにてろーんと溶け始める。その表面が薄く焦げ始め、まずいと思い火力を抑えるとじくじく鳴っていたチーズが雪の夜のように静まり返り、ほっと一安心する。と、後ろを通りがかった兄が「パンぐらいちゃんと焼けよな」と嫌味を言うので「ちゃんと焼けてるもん」と言い返すと「焦げた匂い」と兄は鼻をつまんで顔の前で手を横に振る。「だったらお兄ちゃんがやればいいじゃん」と言う頃には兄は席に着いて食事を待っている。

 ふん、と聞こえよがしに鼻息を付いて、リリは再び窯に集中する。パンが色づいてきたところを見て魔力の供給を断ち、火を消して余熱で加熱する。この微妙にして玄妙な余熱期間によりチーズがさらにとろけパンになじむのだ。粘つく様は男女の仲、なんて考えた自分に赤面してしまう。何考えてんだか。

 窯の温度が下がり切る前に温いパンを取り出し、食卓へと運ぶ。「お兄ちゃん手伝ってよ」「やだ」「手伝ってくんないと食べさせてあげない」「それもやだ」「じゃ手伝って」「やだ」と会話するうちにパンが食卓に並ぶ。正午過ぎの光を取り込んだ窓辺はまるで雪上のきらめきのようで、またあの季節がやって来るのかと思うと不思議と厳粛な気持ちになる。

「パンを焼いてくれたのね。ありがとう、リリ」と言いながら母が窓辺を横切って食卓に座り、リリも椅子を引きずりながら着席する。座面は少しひんやりしている。

「聖なる水よ、我らに一日の糧を与えてくれたことを感謝して」

 いただきます、と言って食事にとりかかる。パンを噛みちぎる度刷毛ではいたように伸びるチーズが目に楽しく、舌にも喜ばしく、思わず目を細めてしまう。我ながら絶妙の焼き加減だ。

「美味しく焼けてるわね」と母が言う。

 当然、と胸を反らす間に兄が言った。「火の魔法、あんだけ下手くそだったのにな」

 その言い方に腹が立ち、きっと睨むと兄はへらへら笑う。「黒焦げパン、割と好きだったんだけどな。焦げた表面剥がすと案外美味しかったんだよね。見た目最悪だったけど」

「文句あるならお兄ちゃん焼いてよ。いちいちどやされるのヤなんだけど」

「だから褒めてるじゃん、焼くの上手くなったなって」

「……分かりにくい」

 パンを食いちぎるとチーズがみょーんと伸びて垂れそうになるところを下顎ですくうように食べる。乳脂肪の柔らかい味。

「ていうかお兄ちゃんはさ」リリより荒々しくパンを食べている兄に、なるべく説教臭さを抑えて問う。「なんで食卓でゆったりしてるの? お父さんの手伝いは?」

 訊かれて兄は、あり得ないというように首を大きく振る。「なんでオレがお父さんの手伝いなんかするわけよ」

 母の表情が険しくなったのを感じ、なんで言い訳じみたことをわたしが言わなきゃならないんだろうと思いつつリリは重ねて訊く。「当然でしょ、長男なんだから。お父さん一人で牛の世話させる気? お父さん最近腰と膝に来てるって独り言――」

「だから」リリを遮り強い調子で兄が言う。「お父さんがどうとか関係ないから。オレの人生はオレのものだろ?」「ちょっと」「はっきり言うけど、何回も言ってるけど、オレ、酪農家を継ぐ気ないから。オレはこんな古臭い牛乳の匂いの中に埋没する生活なんてまっぴらごめんだから」

 母がパンを食べながら、チーズに尾を引かせながら兄を注視している。責めるでなし称揚するでなし、どこか蛇に似た母の視線に、やはりなぜだかリリが焦ってしまう。「なんていうか、お父さん、大変そうじゃん。別に、継ぐ継がないは別の話として、手伝ってあげるぐらい、いいんじゃないの? 減るもんじゃないし」

「減るんだよ、神経が摩耗する」と顔をしかめる兄はまるで取り合う気配がない。漂う気まずさにこの会話を振らなきゃよかったと思うも、でも兄だけのんびりとろくに仕事せず日々を費消しているのはよろしくない、妹の火の魔法の発達をからかっている暇があったら自分も何かしら発達しなよ、という、どこかで兄を低く見ている部分もある。酪農家を継ぐことの何がそんなに嫌なのかリリには分からない、その抵抗の意図、たどり着くあるいはたどり着きたい彼岸が見えないから余計に単なるわがままに見える。しかし、いつも平行線となって曖昧に終わるこの話題に、兄は新風を吹き込んだ。

「オレさ」パンを皿に戻して、改まった様子で兄が言う。

「何?」

「オレ、山を越える」

「……はあ?」

「山を越えて、スヴェミに出る。スヴェミの王都アンミに出て、仕事探す。そこで暮らす」

 え、と出すつもりのなかった声が出てしまう。蝋で封をしたように空気が塞がるのを感じる。横目で様子を窺うと、母はパンを飲み下し、組んだ手を食卓に置いて重々しく口を開く。

「どういうこと?」

 兄はぐっと黙り、しかし、年端のいかぬ子供のような危うさを含んだ声音で言い返した。「言葉通りだよ。オレはスヴェミに出て、仕事を探す。出稼ぎだよ。皆やってる。酪農家を継ぐ気はない」

 母はため息もつかず押し黙ってまるで岩石か何かのような硬さで、リリはこの間合いに飛び込むべきでないと頭のどこかで感じながらも沈黙が苦痛で会話に参入してしまう。「スヴェミって、あの?」

「うん」

「仕事探すって、当てはあるの?」

「ない」

「ないって、そんなはっきり……」

「ないけど、心配いらない」

「え、でも、じゃ住むところは? まさか野宿じゃないんでしょ?」

「イータっていたろ? あいつのとこに泊まっていいって、前約束した」

「約束っていつよ?」

「イータが町を出る時」

「そんな口約束に効力なんてあるわけないじゃん、イータだって憶えてないよそんなの。だいたい、山越えなきゃいけないんだよ、山。もう冬になるんだから、もう雪だって積もってるし、危ないって」

「いつ出ていく気なの?」と母が、感情を押し殺した声で訊く。リリとしては火に油を注ぐなと言いたいところだが兄は昂然と鼻を尖らせている。

「スヴェミには」雷が落ちる緊張感で身を強張らせるが兄の続きは拍子抜けするものだった。「準備ができたら、出発する。今は荷物の整理をしてるとこ」

 これは実行に移さないやつだな、と、安心から全身の血の巡りが良くなる。とん、とん、と心臓が優しく脈打ち、場に平静が戻ってくる。母の顔には、しかし安堵の色はなく未だ無表情だ。納得していない時の顔だ。

 残り半分となったパンを即座に平らげ食卓を離れよう、と考えたリリだったがそうは問屋が卸さず、母が重い口を開いてしまった。

「アウー」

「……はい」ぞんざいな兄の応答。

「だめよ。お父さんの後を継いで、ここで暮らしなさい」

 その、母の上から押さえつけるような物言いに、兄が強く反発する。「やだよ。アタイなんかで暮らしてたら、こんな田舎で暮らしてたら、待ってるのは苦しくってつまらない単調な生活だけだよ。生活のための生活だ」

「生きるってことは苦しいことなのよ」

「それはお父さんやお母さんの話だろ。ていうか、だからこそ苦しさから脱却するためにスヴェミに出るんじゃん。毎日牛に従属する生活なんてまっぴらごめんだよ、オレはオレのための生活をしたいんであって牛に飼い殺される生活を送りたいわけじゃない」

「アウー。あなたはまるで生活というものが分かっていない」

「じゃお母さんは分かってるわけ? お母さんが分かってるのは旧時代の、魔法と牧畜の生活でしょ? オレは新しい人なの。鉄とサーカスの享楽に生きたいんだよ」

「それはほんとの意味で生きるってことではないわ」

「ほんとの生きるって何? 少なくともお父さん手伝ってる時に生きてるなんて感じたことないね。家のことしてる時もそう。だからスヴェミに出て――」

「スヴェミに出れば何でも解決するの?」母の声が一段階強く太くなる。「スヴェミに出さえすればあなたの望む生活が待ってるの? あなたの欲求はすべて満たされるの? 新しい人だかになれるの? なれないわよ、そんなに人生甘くないわ。変な夢からは早く醒めなさい。それは幻影よ」

 兄は真一文字に唇を引き結び、無意識に食卓をつかんだ手で食卓を引っくり返しそうな動作をし、が、思いとどまって手を膝に下ろし、苦虫を噛み潰したように歯を食いしばって斜め下を見る。

「第一」母は冷淡に兄を見下ろす。「仕事がなければ生活が成り立たない。あなたの言う放蕩な生活も仕事なしには成り立たない。ボンダミ人への差別は根強い、そんな中就職できるとは思えないし、そんな中であなたの欲する生活が手に入るとは微塵も思わない」

「いざとなったら」兄が抗弁する。「いざとなったら、ガリバス軍に志願して、戦場にでもどこにでも行くよ。他のボンダミ人も兵士としてガリバスとロンダリとの戦争に参加して、何とか生活してるって聞くし……」

「そこにあなたの求めた生活があるの?」

 母のだめ押しに兄は押し黙る。顔を俯け、膝に置いた手に震えるほど力をこめ、それでいて薄い唇を噛んでいるのは諦めていない証拠だ。兄は説得されたわけではない、ただ反論できずに屈しただけで、いずれまた同じ話を持ち出すだろう。すでに山の冠雪している今年には動かないだろうが、腹に抱えた野望は抑えの効くものではないだろう。これは、真実真正、いつかは山を越えるかもしれない。でも、どうして。お父さんと一緒に酪農を営むことの、何がそこまで苦痛なのか。

「アタイで酪農家してるだけじゃ、だめなの?」

 兄に尋ねると、兄は俯いていた顔を上げ、その眼には意想外の怒りが宿っていた。

「リリも、結婚しろって言われたら分かるよ」

 吐き捨てるように言った言葉を理解できず、その怒りの所在を理解できず、「え?」と聞き返すと兄は憤りに嘲笑のような悪意を加え、言う。

「責任っていうの? オレが出てった後、誰か町の者と結婚して父母を支えろって言われたら、その時ようやくリリにも分かるよ、この絞め殺される生活の苦しさが」

 兄は言い終えるとすべての興味を失ったようにパンと向き合い、無言で食すと席を立った。お祈りが、と思ったが母は無言でそれを見送り、ゆっくりとパンを口に運ぶ。

「……お兄ちゃん、時々ああいうこと言うんだもんなあ」

 真っ暗闇に手探りする意図で放った言葉に、しかし、母は反応しなかった。今更パンを早食いする必要性もなく、ゆっくり噛み千切るパンは徐々に冷めてきている。伸びやかだったチーズもつやを失いぷちぷち切れる。チーズの作り手たる父はまだ外で牛の世話をしている。大変な仕事であることはよくよく知っている。でも、兄が言いたいのはそういうことじゃない。兄が圧迫されているのは大変さじゃなくて。

「わたし、結婚するのかな」

 ふわっと、木の葉が風に舞うように落とした言葉に、やはり母は反応しなかった。人生の決定権。自由。そういう概念について考えたことなどまるでないし、結婚と聞いても現実感が少しもなく、でも、それは間違いなくいつかは向き合わなきゃならないことでもあって、ふと、青年期は自己決定権を失った時に終わるのではないか、などと考えてしまう。胸に蟠る何か。これが兄の苦しみで、いずれ自分にも生じるらしい苦しみで、そして母の手の皺として現れる苦しみで、父の、労働による、あるいは生活による忘却への第一歩なのだろう。鼻をすすると思ったより大きな音がした。

 なんとなく、衝動的に、魔法を使って手近のろうそくに火を灯すと、母が「リリ」と言った。「はーい」と応えて魔力の供給を断ち、ろうそくの火を消した。やはりなんとなくだけれど、母の目を盗んでろうそくを一本、無駄に燃やし尽くしたいな、とリリは思った。


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