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案外小さいんだな、とローバは、落胆するでなくただ漠然と思った。教科書で見た白黒のジジ・ヤンガ教会は厳めしい構えの、まるで自分が蟻であるかのように錯覚する強面の建物であったのに、色付きで見た実物は角の生え始めた鹿のような、成熟しきらない何かを感じさせる未熟の建築物だった。
「おー、やべー、すげー!」
隣で興奮気味のハングに驚く。「ね」と相槌を打つのを聞いたか聞かないか、ハングはやや早口で教会を褒めそやす。しかしローバはそれほど加熱はしなかった。
行きに乗った汽車を思う。向かい合って座った二等客車の夫婦もモルーへの旅行だったが、赴く先は宗教画を集めた美術館だと言う。聖地ジジ・ヤンガ教会へはすでに二度足を運んでいたので寄る予定はないらしかった。彼と彼女はジジ・ヤンガ教会を持ち上げに持ち上げ、あるいはこの時点でローバの中で期待値が上がりすぎていたのかもしれない。
ジジ・ヤンガ教会の造りについてハングに尋ねると、彼はパンが焼けるのをオーブン前で待機していた人のように堰を切って語り出す。
ジジ・ヤンガ教会はかつてのガリバス人の侵攻、占領により一度ガリバス式の建築様式に改修されたがミール王国が奪還すると再び元の建築様式、古代からの切り出した石で建てた教会に戻った。教祖ヤンガの建てたものと同じにして歴史と権威を保存したのである。過剰に急峻な屋根は雪の蓄積を防ぎ、同時に往時は角度の鋭利なほど高級とされていたらしい。今ではよく分からない価値観だ。
喋り止まないハングにそれとなく会話を打ち切るよう合図を送るがハングは気づかず喋る。まだ喋る。まだまだ喋る。と、近くでありがたそうに教会を拝んでいた老婆がこちらにやって来る。怒られる、と思った。
「おい、兄ちゃん」小綺麗な服装に似合わぬ、存外ぞんざいな口調だった。
「あ、はい、何ですか」ハングが少し驚いたように老婆に体を向ける。
「兄ちゃん、あんたよく知ってるねえ、若いのに」
老婆はこれまた存外、怒るのでなく嬉しそうに語りかけてきた。
若いのによく勉強している。ヤンガ様も喜んでらっしゃるだろう。最近の若者は不信心というかありがたみを理解してないというか、この国がどうして戦乱を離れて長いのかが分かっていない、などと若者論から国のあり方という壮大な話に入っていきそうなので「お婆さんは、やはり礼拝に?」とこちらから話を振ってみる。
「そうだよ」老婆は話の腰を折られて不服そうに顔を歪めたがすぐに戻し、「あたしゃねえ」と再び語る。「昔っから、嫁いでからずっと肉屋をやっていてねえ、夫の店の手伝いね、やっててねえ、大変だったよ毎日。肉が全然売れない日もあったし、買い付けた牛が脱走したりね。毎日が大変だった。それでもやってこれたのは、やっぱりヤンガ様の恩寵のおかげだよ」
「へえ」とハングがいかにも興味なさそうに応えるので慌てて話を引き継ぐ。
「肉屋をやってこれたのも、ヤンガ様のおかげ?」
「そうだよ、そう。全部自分の力だ、なんて驕り高ぶっちゃだめだね、まったく。なのに最近の若いのは」
「今は? 今は、肉屋はどうされてるんです? 帰ったら店先に立たなきゃとか……」
「ああ、大丈夫大丈夫」老婆は顔の前で右手を振る。「今はね、もう息子とその嫁が跡を継いでくれたからね、何の心配もない、あたしゃ家事だけに専心してればいいから。もう七十だよあたしゃ」と言って笑う口元を見ればだいぶ歯茎が痩せている。
なんと返してよいか分からず微笑み返そうとした時、遠くでざわつきがして思わず振り返る。それまで疎に並んでいた人々が密に固まり何かを取り囲むようにしてジジ・ヤンガ教会に向かっている。何だ?と思ったそばからハングが「肩借りる!」と言ってローバの両肩に手を置き、ぐっと押し出すように肘を伸ばしてローバがハングを背負うような体勢となる。
数秒間肩上で腕を伸ばしていたハングがローバの肩から下り、「やべー、あれシャスカじゃね?」と興奮気味に言う。
「シャスカ?」「シャスカ大臣」「え? 誰?」「知らない」「マジで?」と話していると老婆がやや興奮した様子で言う。
「シャスカ大臣、知らないのかい? こっちのガタイのいい兄ちゃんは物知りなのにあんたは何にも知らないねえ。いいかい、シャスカ大臣ってなあ、ヤンガ様の教え通りに国を治めるよう、熱心に活動しておられる方だよ。近頃は不信心者も増えて風紀が乱れてるけども、シャスカ大臣はもう一度人間の基礎的なところに立ち返ろうって言ってるのさ。あたしゃ好きだよ」
「なんでお前知ってんの?」とハングに尋ねると「うちの親方とか、結構熱心なんだよねそういうの」と何でもないことのように言う。「あんたが知らなすぎるんだよ」と老婆が呆れる。
業腹ではあるが、確かに自分はものを知らないな、とローバは思う。知っていることはせいぜい教科書に書かれていたことと使用人として行う仕事の話だけで、あとのこと、ましてや政のことなど埒外とでも言おうか、考える必要のないことだとさえ思っている。だから何も知らない。でも、何も知らないことを特別恥ずかしいとも思わない、なぜなら自分が使用人として立ち働く間ご主人様が何やら難しい書類に目を通すのと同様、政には政の専門家がいて彼らが素人に分からないことを専門家として処理するのだから埒外の自分に口出しすべきことなど微塵もないのだ、と思うからだ。素人が手を出したところで手酷く失敗するまで、ならば専門家に任せきりにしておけばいい。そう思っていた。
しかし、今の老婆やハングを見ていて思うのは自分が籠の中の鳥に酷似しているのではないかという不安で、世の中には青々と茂る草原や鬱蒼とした森林があり、南方の海を越えれば異国だってあるのだ。そんな美しい世界があるのに、その存在も知らずに一生を終える籠の中の鳥。自分がそんな可哀想な生き物のように、感じる。
そしてふと思う。だから自分は故郷のナスナリを出てモルーに巡礼に来ているのではないのか。籠の中の鳥で終わらないために。
「鳥籠に飼われてる鳥ってさ」ハングに老婆、どちらに訊くともなく訊く。「その、幸せなのかな?」
「あ?」ハングが奇妙そうに鼻に皺を寄せる。「どうしたんだ突然?」
「なんとなく。やっぱり外に飛ぶ鳥のほうが、幸せ?」
「……さあな」ハングは肩をすくめる。「人によるだろ。鳥による、か? 行動的な奴は外を自由に動き回れたほうが幸せだろうし、内向的な奴は籠に留まるほうを選ぶんじゃないのか?」
「あたしゃ飼われてたほうが幸せだね」老婆が皮肉げに笑う。「食いっぱぐれない。それが一番大事さ」
「でも、自分しか知らない」
「へ! ロンダリのいる今の世界のほうが悲劇さ。スヴェミが攻めてくることはないだろうけども。他者なんて余計だよ」
「孤独は、地獄ではない?」
問うと老婆はにやりと笑い、「神無き所が地獄さ」と言ってジジ・ヤンガ教会を見た。ローバもそちらに目を向ける。シャスカを囲む群衆がその出入り口へと向かっていく。今から神を知りに行く自分は、籠の中の安寧から離れるのかもしれないし、籠の外の喜びに触れるのかもしれない。それとも落胆ではない漠然とした感想だけしか得られないのか。
陽を受けたジジ・ヤンガ教会は微かに煌いていたがやはり小さく見えた。