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二つの鼓動

作者: 想田 紡

−10年前−


確かこの辺のはずだ。二宮歩(にのみやあゆむ)は辺りを見回した。周りの建物は決して真新しいとは言えるものではなかった。昔ながらのような街並み、空き地や子供の頃を少し思い出す様なつくりだった。歩はもう一度地図と照らし合わせて目を凝らしながら歩いた。すると、ようやくその建物が見えて来た。「あいばら荘」と書かれたその看板は、木に絵の具で書かれており、創作感に溢れていた。

歩の第一印象はボロい、だった。まあこの家賃なら仕方ない。家賃は月3万円だった。その他、水道やガスなどに色々不備があるところもあるらしいが、それは目を瞑るしかない。

門をくぐると年配の男性が表を掃除していた。久しぶりに見た。竹ぼうきだ。

「こんにちは。あの、今日からここでお世話になります」

老人は眼鏡を下にずらし、じっとこちらを見つめてきた。その途端にんまりと微笑みかけた。

「よく来たね、えーっと…」

「二宮です。二宮歩です」

「そうだ二宮歩くんだ。大家の相原欽二(あいばらきんじ)です。さあさあ、部屋に案内するよ」

よろしくお願いしますと歩は頭を下げた。


「お、じいさん、新入りかい」

歩の部屋の前に着いたところだった。隣の部屋のドアが開き、中から若い男が顔を出した。

「はい。今日からお世話になります。二宮歩です。よろしくお願いします」

「ご丁寧にどーも。芝だ。よろしく」

男は芝 宗一(しばそういち)と言うらしい。

「他にも住人の方が?」

「もうほとんど空き部屋になってしまったけどねぇ、芝くんと歩くん、あともう1人君と同い年の女の子が住んでるよ。ちょーど君の下の部屋だ」

「へー、3人だけなんですか」

「何しろ、こんなに古びてしまっているからねぇ」

相原は苦笑した。

「それに、やっぱり女の子がいると嬉しいでしょう?」

「まあ、多少は」

はっはっはっと相原は声をあげて笑った。それにつられて歩も笑ってしまった。気さくな人だと思った。部屋に荷物を入れた後、相原の部屋でお茶を頂く事になった。

「さぁ、どうぞ。改めて、あいばら荘へようこそ」

お茶を運びながら相原が言った。

「ありがとうございます。いただきます」

とても懐かしい味がした。まだ湯気がおさまる気配はなかった。

「歩くんはこの辺りの大学だったね」

「はい、まあそんなにすごく離れてるってわけではないので、上京とまではいかないですけどね」

「どうして一人暮らしを?」

「あ、僕小さい頃に親が亡くなってるんです。だからこれを機に、家を出ようと思って」

「そうなのかい。嫌な事を聞いてしまったなあ」

「大丈夫ですよ。気にしないでください。昔の事だし」

嘘だった。でも知られたくはないと思った。もうあんな思いはしたくなかった。

「また何かあったらいつでもおいで、話し相手になってほしい」

「わかりました。また来ます」

にこっと笑い、自分の部屋に上がっていった。階段を登るたびにカンカンと大きく響く音が、何故か胸に大きく刺さった。





[1]


あいばら荘にきて2週間が経った。明日からはついに大学も始まる。ここまで何不便ない生活を続けてこれているのが幸いだった。これでこの家賃なら申し分ない。ただ一つ気がかりなのが、相原さんが話していた、もう1人の住人の女性にまだ一度も会っていないことだった。挨拶に行こうと思い、何度か部屋を訪ねてみたが、ことごとく留守だった。

外の風に当たろうと歩は外に出た。

その時、人影が一つ目に入った。どうやらその人影はあいばら荘に入ってくるところだった。歩は階段を駆け下りた。静かに降りようとしてもカンカンと鳴り響く古い階段が、余計に鳴り響いた。

その音に驚いたのか、人影はきゃあっと口にした。

その声から女性だとわかった。僅かな明かりの麓に立っていたその女性は、長い黒髪に小さな顔、和風美人とはこの人の事を言うんだと思ってしまった。

「なにっ?あなたっだれ?なにっ?」

持っていたカバンをぶんぶんと振り回し警戒を続けていた。

「いや、あの聞いて、怪しい者じゃないよ僕はここの住人だよ」

何故だか歩は両手を挙げていた。

「住人?あいばら荘の? あ、もしかして相原さんが言ってた新しい人ってあなた?」

彼女は暴れたせいで髪の毛が少し乱れてしまっていた。

「二宮歩。よろしく。同い年なんだよね?」

「私は羽柴 加奈(はしばかな)。ところで、歩はどうしてこのアパートに来たの?」

いきなりの思いがけない質問に歩は目を丸くした。

「どうしてって。大学から近くて安いアパートを探してたらここが1番条件がよかったし」

「それだけ?」

「それだけって?」

「このアパートに住んでる人は、何かしら人には言えない事情を抱えてる。ここはただのアパートじゃないよ。それだけはわかっておいたほうがいい」

「加奈ちゃん、ドラマの見すぎじゃないの?」

「何か呑気で良さそうだね。とにかくよろしくね。同い年が居てくれるのは何だか心強い」

加奈が右手を差し出してきた。変わった事を言い出すもんだからどんな子かと思ったけど、仲良くやれそうだ、と歩は思った。

「うん。よろしく」

加奈の手を握りしめた。伝わってくる鼓動がまた心臓を早く脈打たせた。


大学に通い始めた歩と加奈は学部が同じという事もあり、すぐに意気投合した。時間が合う時は一緒に帰るようにしていた。

「なあ、芝さんってどんな人なの?」

「芝さんは、私より先にあいばら荘に住んでたけど、あんまり仲良くないなあ」

ふうん、と相槌を打った。何かを隠しているようには見えない。

「この前言ってた、あいばら荘に住んでる人たちが抱えてる事って。それは加奈もって事になるけど、どうなの?」

加奈は苦笑した。

「なにその質問、笑っちゃう」

「何を抱えてるんだよ、加奈は」

「言えないよ歩みたいな呑気に過ごしたきた人には」

僕も、と言いかけて一瞬口をつぐんだ。言っていいものかと迷ったが口が開いてしまった。

「僕も、思ったよりヘビーな人生送ってきたよ」

加奈が足を止めた。すぐ前にあいばら荘が見えている。

「じゃあ、荷物置いたら部屋に来てよ。話してあげる」

「わかった」

歩は部屋に荷物を置き、階段を降りた。今日もカンカンとうるさい。その時、屋根の上に誰かいることに気付いた。

「芝さん?」

「おー歩くん帰ったか。少し手伝ってくんねえか?」

わかりました、と声を張り、もう一度階段を上がった。屋根から伸びた梯子を伝い屋根に登った。

「何してるんですかこんな所で」

「これか?週末に強い台風が来るみたいでよ、今のうちに屋根の補強しとこーと思ってな」

タオルを巻き、口にネジをくわえたまま、芝が話した。

「そんなの業者か何かに頼めばいいじゃないんですか?」

「んなことしたら金かかんだろーが。自分たちで治せる範囲は自分たちで治せばいい。ーーーあ、そこ押さえといてくれ」

歩は指示された通り板を押さえた。よく見ると屋根のいたるところが今にも崩れそうな形をしていた。

「こうやって、守ってきたんですね」

「ん?」

「いや、こうやって芝さんが昔からあいばら荘を守ってきたんだなあと思って」

「まあ1人じゃあなかったけどな、昔はもっと住んでたよここにも」

「じゃあ何でこんなに今住人が少ないんです?」

「ある事件のせいなんだよ」

「事件?」

「この話はまた今度だ。気抜くと落っこちんぞ」

歩は下を見た。結構な高さなことに改めて気付いた。

「あゆむー何してんのー!」

下から加奈の声がした。

「あ、ごめんもう少ししたら行くよ」

声が遠かったことに疑問を抱き加奈が上がってきた。

「なーにしてんの2人とも?」

「ご覧の通り強化工事さ」

「え、台風近いんですか芝さん?」

「何だお前ら揃いも揃って無知だな。今週だよ」

加奈も手伝うことになり、なんとか作業は終了した。

「ありがとう助かったよお前ら、俺の部屋で茶でも飲んでけよ」

歩は加奈と目を合わせ、頷いた。

「じゃあ、いただきます」


「広さは俺の部屋とあんまり変わんないなあ」

部屋に入るなり歩が呟いた。

「当たり前だろう、ほとんど同じ作りなんだから」

お待たせっと言いながら芝がコップに麦茶を3つ注いできた。

「じゃあ改めて、お疲れ。乾杯だ」

んな大袈裟なと思いながらも歩は何だか嬉しかった。久しぶりに感じた、一家団欒のような気持ちだった。

「私、芝さんってもっととっつきにくいイメージだった。台風の後とかも屋根の修理してるのは何度か見てたけど、単純に相原さんに頼まれてやってたのかと」

「おいおい、ひどい偏見だな」

「芝さんお仕事は?何されてるんですか?」

歩が口を挟んだ。

「学生で言うところの就活中。プロ野球選手で言うところのシーズンオフ。社会人で言うところの休業中ってやつかな」

「要するに無職ですね」

加奈が笑いながら言った。

「そのフレーズは好かないな。それと、一度茶を飲んだ仲なんだ。歳もそんなに離れてないんだし、俺のことはシバと呼んで構わないぞ」

「そう言うのは酒を飲んだ時に言うもんでしょ」

「細かいこと言うなよ歩くん」

「歳いくつなんですか?芝さん」

「君はズケズケと人のプライバシーを踏み荒らすね、今年でちょうど23だ」

「4つしか違わないんだ!私もっと上だと思ってたよ」

「それは寡黙な大人の雰囲気ってやつだ」

「単に無口なだけじゃん」

「加奈ちゃんは俺のことが嫌いなのかな?」

「今のダジャレ?すっごい親父ギャグじゃん」

歩はまあまあと、2人をなだめた。よく喋る2人だと思った。ここなら。この場所なら自分の居場所を見つけられそうなそんな気がしていた。

「ところで芝さん、あの例の事件って話してもらえないですか?」

「まあ別に隠す事でもないしね、いいよ話そう。

4年前ここには俺、加奈ちゃんの他にも3人の住人がいた。皆気さくな人達でとても楽しかった。よく一緒にご飯を食べたり泊まったりしてたよ。でも、そんな3人が手を組んである事を企んだんだ。それは銀行強盗だった」

歩の眉がぴくっと動いた。鼓動が早くなるのを感じた。

「その3人は特にお金に困っていたわけではなかったけど、強盗を働いて、人質の1人を刺し殺しちまったんだよ。強盗殺人が1番罪が重いのは知ってるな?すぐに警察に取り押さえられてあっと言う間に収監だよ。その事件のせいでこのアパートは死のアパートだとか殺人アパート、様々な呼ばれ方をした。あの時は本当に苦しかった。眠れない日々が続いたよ。それ以来入居者は0。でも俺はここを離れようとしなかった。じいさんが1人になっちまうからだ。加奈ちゃんもいたとはいえその時はまだ高校生。いざという時が危ない。だから俺がじいさんのそばにいるためにここで暮らし続けたんだ。それからようやく来た入居者が歩、お前ってわけだ」

歩は麦茶を飲み干した。

「そうだったん…ですか」

「お前が来た日、じいさん普通に振舞ってたろ?この事件の事話すつもりはなかったみたいだし、本当に喜んでた。また家族が増えたってね」

歩は胸が熱くなった。ノコノコと逃げてきたこの自分が、そんな想いを抱えたアパートに暮らす事に、胸が高揚するのがわかった。

改めてここで、第二の人生を送るんだ、と強く思った。幸せになりたいと心から思ってしまった。

一度席を立ち麦茶をコップに注いだ。噛みしめるように一杯飲み、再び席について加奈を見つめた。

「じゃあ加奈、次は君の番だ」

加奈が一度下を向いた後、ゆっくり顔を上げて話し始めた。

「私の親は前科者。私が小学生の時に強盗殺人を働いた。そのせいで私は犯罪者の娘としてずっと生きてきた。だから私は逃げるようにしてこのアパートに来た。あの人達とは縁を切るために。終身刑になったのか、懲役何年かで済んだのかは知らないけどね」

歩の心臓がドクンと高鳴るのが自分でもわかった。

「歩…。実は、あなたもそうなんじゃない?」

歩は狼狽を隠せなかった。

「な、なんで…?」

「時々、私と同じ顔をする時があるの。あの時の私と」

「そうなのか?歩?」

覗き込むように芝が聞いてきた。

もうこれ以上はダメだと思った。打ち明けようと思った。うまく喋ろうとも言葉を選べなかった。こんなにも口が重く感じるのは初めてだった。改めてまたあの事と向き合わないと、と自分に言い聞かせた。

「うん。僕もだ。僕の親も強盗殺人犯だ」

ようやく声になった。

「後はほとんど加奈と同じだよ。ここでこうして出会ったこと、運命みたいだね。そう感じる」

「ここでやり直そう。今まで出来なかった事を全部しよう。今まで我慢してきたこと、ここでは我慢しなくていい。好きに生きていい。ここはそういう場所だよ、歩?」

涙目で語りかける加奈を見て胸が熱くなった。

「これからは俺たちがついてる。俺たちあいばら荘の家族がな」

「芝さん…」

歩はついに泣き崩れた。久々に見せた涙だった。 両親への憎しみが、ようやく肩の荷が下りたように感じた。あいばら荘という小さなアパートの一室で話したこの事を一生忘れたくないと、そう思った。



[2]

-現在-


稲尾明久(いなおあきひさ)は署に行くところだった。久々に見た通い慣れた道は、何故か知らない所のように感じた。相変わらずここの信号は長いなと感じたところで、信号が青に変わった。高野警察署に着いた。久々に見たその姿は昔付き合っていた女性に偶然再会したような気分だった。

「稲尾さん…?稲尾さんじゃないすか」

後ろから声をかけられ振り向いた。そこには後輩刑事の若田光一(わかたこういち)が立っていた。

「若田か、久しぶりだな。相変わらず声がでかいなお前は」

そう言いながら2人は握手を交わした。

「今日はどうされたんですか?」

中に入り、若田がコーヒーを淹れた。

「ん、いや近くまで来たもんだから久しぶりにな」

稲尾が定年を迎えたのは去年の事だった。新米の頃からこの高野署一本で様々な事件を解決に導いてきた。その際に、バディとして共に捜査を進めていたのが、若田だったのだ。

「もう1年すか…早いですね」

稲尾はコーヒーを一杯口に含み。ゆっくり息を吐いた。

「早いもんだよ、本当に」

「稲尾さんがここに来た本当の理由。俺わかりますよ」

そう言いながら若田は何やら棚をあさり、一冊のファイルを机に置いた。そこには「高野銀行強盗殺人事件」と書かれていた。

稲尾は若田の顔を見た。悲しげな表情の後輩刑事は何かを物語るようにファイルに目を向けた。

「あぁ。歩くんの事だ」

「残念ながら、こっちでは何も」

「そうか。何処かで元気に暮らしていればいいけどな、ただ、俺はあの子にはあの事実を伝える義務がある」

「義務…ですか」

「あぁ。何としても会わなければいけない。あの子の人生に大きく関係すると思うからな。もうかなり手遅れかもしれないが」

稲尾は足を組み、タバコを取り出した。ライターになかなか火が点かないのはいつもの事だった。

「やっぱり稲尾さんはここから離れる事はできそうにないですね」

「どういう意味だ?」

「いや、定年を迎えた後でもしっかり、あの子の事を考えてる。なかなかできる事じゃないですよ」

ふうーっと長い息を吐いた。煙が上に流れていく。

「運命なんだよこれが、それとも宿命ってやつかな」

「何かあればまた連絡します」

「そうしてくれると有り難い。勤務中にすまんかったな」

稲尾は席を立ち、出口へ向かい歩き始めた。

「稲尾さん、また一杯やりましょう」

「あぁ、そうだな」

若田はすっかり小さくなってしまった先輩刑事の背中をしっかりと見送った後、ファイルを元の位置に直した。



高野銀行で起きた銀行強盗は特に変わった事件でもなく、黒いマスクをかぶった3人組が昼頃に銀行を襲い、その時中にいた全員を人質にとった。

その後バッグに金を詰めている間に、警察が到着。

しかし、逃走の妨げをした場合容赦なく人質を殺すと言い放ってきた。結果人質と揉み合いになり、一人を刺殺。その直後に突入した警察により、3人は逮捕された。二宮歩の母 朝子 父 智治そして共犯者の羽柴玲二の3人だった。歩が小学6年生の時だった。歩はそのまま地元の中学校に進学したが、身寄りがないため施設に預けられる事になった。だが、人殺しの息子 と一度出来上がった状態を崩す術などなかった。歩は残酷ないじめに遭った。まともに学校などに通える状態ではなかった。それでも両親が残した僅かな貯金をなんとかやりくりし、なんとか生活を続けた。地獄のような中学生時代を耐え抜き、そして定時制の高校に通い始めた。そこでも、歩の過去を知っている者により瞬く間にうわさは広がった。歩が高校2年の時だった。学校に着いた歩は自分の教室へ向かった。いつもと同じようにいたるところでヒソヒソ話が聞こえる。教室に着くと、何やら黒板に書かれた文字を見つけ、歩は驚嘆した。

[殺人者の血を引く者は学校に来るな]

と大きく書かれていた。限界だった。歩は近くにあったほうきで犯人と思われる数人を殴った。血が吹き出る。やめてくれぇと叫ぶ声がするが歩には届かない。

一心不乱で殴り続けた。やがて担任が来て歩は押さえられた。殴られた生徒はかなりの重傷をおった。

この事件により歩はより一層周りから避けられる事になった。殺人者の血を引く者はすぐにキレる。さすが殺人者の子供だ。口々に話し声が聞こえる。だが歩には耳に入らなかった。この世は狂ってる。悪いのは事件を起こした当時者だ。あのバカ親だ。

その時歩は心に決めた。あのバカ共とは何の関係もない。離れた所で一からやり直す。二宮歩という一人の人間として一人で生きていく。

僕は、今日で親を捨てる。



-10年前-


「どうした、加奈?」

やけに加奈が怯えている。大学から帰り、部屋で夕食の準備をしているところだった。ここのところ夕食は一緒に食べている。

「いや、ちょっと頭痛がするだけ。何かあったかいものが食べたいな」

「わかった、座って待ってて」

歩は考えを巡らせた。風邪か?いや、ただの風邪でここまで何かに怯えたように震えはしないだろう。

歩は出来上がったうどんをテーブルへ運んだ。

「出来たよ。食べれる?」

加奈はありがとう、と言い、ゆっくりと食べ始めた。歩は横に腰掛けた。

「あの事件と何か関係してる?」

加奈は食べる手を止めた。一杯お茶を飲んでから口元を軽く拭いた。

「何が?その話は前したでしょ」

「加奈の頭痛の原因だよ。それだけじゃない。明らかに何かに怯えてる」

「怯えてる…?ように、見えた…?」

「うん、そうなんだろ?」

もう一度うどんを啜る。あちっと声に出した。

「今日はあの事件の当日。私の両親が人を殺してしまった日。毎年この日は具合が悪くなる。被害者の人が、呪ってやるって夢にも出てくる」

そう言うと加奈は泣き始めた。気持ちは痛いほどわかる。施設に入りたての時に浴びせられた上辺だけの言葉がフラッシュバックする。

「歩くんは何も悪くないからね。ここを家と思って皆の事は家族だと思ってね」

ふざけんな。僕にとって本当の家族はここだけだ。

歩の膝の上で泣き噦る加奈を守らないといけないと思った。自分が守らなきゃいけないと思った。

いつもより小さく見えた加奈の背中をゆっくりと抱きしめた。



[3]


歩は相原の部屋に来ていた。何やら話があると呼ばれたのだ。

「歩です。入りますよ」

相原はお茶を淹れテーブルに並べた。小さい茶箪笥の上にはあいばら荘の前で撮られた写真が飾ってあった。まだ若い相原と横には女性がいた。恐らく奥さんだ。

「相原さん、若いね」

写真を手に取り歩が笑いかけた。

「もう何十年も前だよ。今じゃあただの老いぼれだけどねえ」

「隣にいるのは奥さん?」

「あぁそうだよ。こっちも何年も前に亡くなったよ。私より長く生きると言い張ってたのになあ。わからないもんだ」

遠くを見つめる相原の目は悲愁に満ちていた。

「相原さんには、あいばら荘の家族がいるから心配ないよ。これからは僕も一緒にここを守りたいからね」

「頼もしいよ歩くん」

へへっと歩は鼻をこすった。

「歩くん。君も色々大変だったんだね。ごめんよ。芝くんから聞いてしまったんだ」

歩はすぐに察した。僕の過去を知ったんだと。

「いや、まあ僕も嘘ついてたんで、それは謝ります。でも、もう大丈夫です。俺はあいばら荘の二宮歩です。それ以上でも、それ以下でもない。ただの幸せな人間ですよ」

「歩くん…大家としてこれ以上幸せな事はないよ。君は本当に強い人間だ」

強い人間という言葉に少し引っかかった。人間の強さというのが何かわからなかった。自分の強みもわからなかった。

「相原さんがつくったこの家をちゃんと守ってみせるよ、だから安心して」

相原はありがとう、と何度も繰り返した。

「今日さ、夜ご飯食べてっていい?」

「構わないよ、一緒に食べよう」

その夜は、相原の部屋からいつもより量の多い夕飯の匂いが漂っていた。


-現在-


今野理沙(こんのりさ)は墓地に来ていた。15年間毎年欠かした事はない。今日は15年前の高野銀行強盗殺人事件で被害に遭い亡くなった母 千聖(ちさと)の命日だった。あの日を忘れた事はない。理沙にとって復讐が生きる意味だった。理沙は二宮歩を探していた。事件後しばらく暮らしていた施設を突き止めた時にはもう遅かった。すでに歩は引越しを済ませていた。誰に行き先を告げるでもなく、静かに身をくらませていた。理沙は花を替え、水を入れる際に母の墓を一度離れた。バケツを持って戻ると、一人の男が母の前で手を合わせていた。かなり年配の男のようだが、その背中には言葉にはできない威圧感があった。理沙は近寄り、男に声をかけた。

「ありがとうございます、母のお知り合いの方ですか?」

男はぱっと振り返り理沙を見渡した。

「もしかすると、理沙ちゃんかい?」

「えっ、はい、わたしは今野理沙ですけど…」

どうやら男は私の事を知っているようだ。だが、まるで身に覚えがなかった。

「大きくなったねぇ。ーーーあ、ごめんよ覚えてないよな。私は稲尾明久。去年定年を迎えたおじさん刑事だ」

「稲尾さん…もしかしてあの事件に関わっていた?」

「あぁ、高野銀行強盗殺人事件を担当させてもらった刑事だよ。こうやって命日には毎年来てるんだけど、いつもは君が帰った後に手を合わさせてもらってたからねえ」

鮮明に思い出した。事件後、何の希望をもたない死んだ目をしていた私に優しく語りかけてくれた人だった。稲尾は泣きじゃくる理沙を見て、

「ーーー怖かったね、もう大丈夫だよ。悪い人たちはおじさんが捕まえたからね」

と、声をかけてくれたのだ。

「私、覚えてます。おじさんの事…。おじさんのおかげで私は助かったもん」

人質の中には理沙も一緒にいたのだ。

「お母さんを守れずに申し訳なかった。それだけが俺の刑事人生で唯一の心残りだ。本当にすまない」

稲尾は深々と頭を下げた。

「稲尾さんのせいじゃないよ、私を助けてくれたんだから、きっとお母さんはお礼を言ってるよ、ずっと」

「そう思ってもらえるのならよかったよ。実は、君に聞きたい事があるんだ」

理沙は何かを察した。

「もしかして、二宮歩の事?」

「よくわかったね。それより、よく名前を覚えていた」

「私の仇だから。今となってはあいつしか復讐できる人が残ってないからね」

「仇、そうか仇か。君からしたらもちろんそうだな」

少し歩いた所で稲尾がコーヒーを買ってくれた。今日も外は寒い。理沙はあったかいコーヒーをぎゅっと握りしめた。

「見つけて、どうするんだい?」

稲尾が訊いてきた。

「殺すよ」

恐ろしいほどの冷静な答えに、稲尾は驚嘆した。と、同時に今までに見た事がない冷酷な理沙の表情に驚いた。

「殺してどうなる。君も同じ罪を背負って生きていくつもりかい?」

「その後の事なんて知らないよ。とにかく私は二宮歩を殺す。復讐だけが私の生きる目的なの」

「元刑事としてではなく、君の成長を陰から見てきた親として、それは阻止するしかないね」

「悪いけど、邪魔する気ならおじさんだって殺すよ。いくらそれが稲尾さんでも」

冷たい風だけが二人の間を吹き抜けた。そばに落ちていた空き缶がコツンと稲尾の足に当たった。

「それじゃあ私は、君の復讐が上手くいかないように願ってるよ」

「二宮歩を守るつもり?」

「守るという表現は少しおかしいかな。でも彼は誰にも殺させないよ。伝えないといけない真実があるからね」

「どうして?あいつは人殺しの子供なんだよ?あいつの親が、私のお母さんを殺したんだよ?お金のために。それなのにどうしてそんなにあいつの肩を持つの?頭おかしいんじゃないの?」

「何と思ってもらっても構わない。ただ勘違いはしてほしくない。私は君に一番幸せになって欲しいと思ってる」

「消去法でしょ、そんなの」

「どう捉えてもらってもいいが、これだけは言いたい。確かに歩くんの両親はやってはいけない事をした。許されることじゃない。強盗殺人は日本で最も重い犯罪だからね。

確かに、君はお母さんを殺された。でもそれは歩くんの両親が犯した罪なんだ。歩くんは何一つ悪くないんだ。被害者に子供がいたように、加害者にも子供がいるんだ。この復讐だけは、一時の感情だけで完成させるわけにはいかない」

長々と話す元刑事の話には説得力があった。

「私はこれが運命なの。誰にも邪魔させないよ」

そう言い残し理沙はその場を後にした。

稲尾は後味の悪さをコーヒーの苦みで中和し、空を仰ぎ歩き出した。


-10年前-


「歩!いるか歩!」

バタバタと芝が部屋に駆け込んできた。何やら慌てている。

「シバさん?何をそんなに慌ててるの?」

「家族会議だ加奈も連れてこい」

何が起こったのかはわからなかったが、ひとまず言われた通りに加奈を呼んでくる事にした。

3人は芝の部屋に集まりテーブルを囲い座った。

「で、そんなに慌ててどうしたのシバさん?」

「いいかよく聞いてくれ、相原のじいさんが詐欺に遭った。オレオレ詐欺だ。これは家族として放ってはおけない」

芝はバンッと机を叩いた。歩と加奈は顔を見合わせる。

「オレオレ詐欺って…あのテレビとかでよく見るやつ?そんなもんに相原さんが引っかかるとは思えないけどなあ」

芝は歩を手で制した。

「この話はしてなかったな、じいさんには息子が居るんだよ。一人息子が。その息子が多額の借金を作ったと言われたんだよ。今そのバカ息子が何をしてるかはわかんねぇけど」

「よくある常套手段じゃないの?」

「俺もそう思ったんだ。何やってんだよじいさんって。でもそれだけじゃなかったんだ」

「どういうこと?」

歩が覗き込むように訊く。

「本当にその息子が電話をかけてきやがったんだ。そりゃいくらあの用心深いじいさんでも信じるに決まってるさ」

「オレオレ詐欺の息子役に本当の息子が手を貸したって事?ーーーそんなの放っておけるわけない。僕らのお父さんを騙した罪は重いね」

「だからって、どうするっていうの?まさかその本人とっ捕まえてお金を取り戻すっての?馬鹿じゃないの?」

「加奈、そのまさかだよ。お金を取り戻そう。じいさんが貯めてたその金はあいばら荘にもしもの事があった時に使う予定だった金だ。そんなバカ息子にとられたんじゃ腹の虫が治まらねぇ」

もっと現実を見てよ、馬鹿じゃないのと加奈は立て続けに言った。正直、歩も同じ気持ちだった。

「僕らに詐欺をしろっての?」

「基本的には俺一人でやるつもりだが、どうしても手を貸して欲しい。共犯…って事にはなるな」

「詳しい事は話を聞いてからだね。もちろん何か策は立ててるんだろ?芝さんの事だ」

歩は加奈に目を移した。加奈も同意見だといったような表情だった。

「まず、じいさんのバカ息子相原総司(あいばらそうじ)は、教科書通りのオレオレ詐欺で攻めてきた。でも本当の息子なんだから俺だよ俺、なんて言って騙しこむ必要はない。単純に久しぶりに親父に電話をかけた、そんな感覚だったらしい。その後に借金の話を持ち出した。額は300万。交通事故を起こしてしまい、相手が厄介な相手だった。示談金、そして破損した相手側の車の修理費として300万を要求された。ボーナス前でとても払えそうにない。頼む親父、立て替えてくれってな」

「元も子もない事を言って申し訳ないけど、警察に相談したらダメなの?」

加奈が口を挟む。

「まあ最後まで聞いてくれ。もちろん、実の息子にそんなこと頼まれたら息子の心配を第一に考えるのが親だ。親なんてそういうもんだ」

「芝さん独身のくせに」

「いちいち揚げ足をとるな加奈」

ふーんと加奈がふてくされる。どうやらあまり乗り気ではなさそうだ。

「で、結局お金払っちゃったんだ相原さん。加奈の言った通り、どうして警察に連絡しないの?」

「問題はそこなんだよ。実は最近、じいさんはあいばら荘の売り渡しの問題で自治会と少し揉めてるんだ。この辺りに大きなマンションが建つかもしれない、なんて話はお前らも知ってるだろ?そのマンションの建設予定範囲に、このあいばら荘もきっちりと入ってるんだよ」

「なるほど、警察に相談なんてしたら、もちろん自治会にも話が漏れる。そうなると金がないあいばら荘なんて売り渡してしまえって声が大きくなってしまう。そういう事だね?」

加奈が歩を見て瞬きをした。

「歩って前世探偵か何かなの?」

「これぐらい話を聞いてたらわかるよ。それに前世じゃあ意味ないだろ」

「とにかくだ。これは相原のじいさん。そして何よりあいばら荘を守るための戦いにも繋がる。協力してくれるか?」

「僕は協力する。あいばら荘を守るって約束したばかりだしね」

歩は加奈に目を配った。加奈はため息をつきながら立ち上がり冷蔵庫から麦茶を取り出した。

「私もやるよ。あいばら荘の家族だしね」

「よーし!よく言った二人とも。それでこそ相原一家だ!しっかりと作戦を練って必ず300万取り返すぞ。名付けて…名付けて…」

「相原欽二。欽二のKをとって作戦Kでいいんじゃない?」

失笑しながら歩が言った。

「それだ。俺はそれが言いたかったんだ。作戦K。成功させよう」

歩と加奈は顔を見合わせた後、二人で笑った。芝が手を腰に当て、缶ビールを飲み干した後、がっちりと肩を組み合った。



[4]


作戦に抜かりはない。そう芝は思った。相原総司の最大のミスは、あいばら荘に住んでる人間が皆年寄りだと思った事だった。そのため、何ら警戒はしていない。相原さんが総司の勤務先の企業の名刺をしっかり保管していた事も救いだった。

「まず最初に頭に入れておくべきはこいつだ」

そう言うと芝は一枚の写真を取り出してテーブルに置いた。そこには一人の女性が写っていた。

「これは?」

野田千歳(のだちとせ)。相原総司が今付き合っている女性だ。こいつをうまく使おうと思う」

歩の頭に疑問符が浮かんだ。

「使おうったって知り合いって訳でもないんでしょ?」

「俺が言ってるのは相原総司に近づき、野田千歳が何らかの事件を起こした程で話を進める。その事件の相手が俺らって事にする」

「そんな事言ったって、後から相原総司が野田千歳に聞いたりすればすぐにバレるよ」

「私もそう思うな。リスクが大きすぎるんじゃない」

「その心配はないさ。実はもうすでに野田千歳に話はつけてある。案外乗り気で協力してくれたぞ。そんな最低な男とはすぐに別れたいってオマケ付きでな」

歩は芝の行動力に驚いた。

「話はつけてあるって、いつの間に?芝さん何者なの?」

「まあまあ、とにかく今はそんな事関係のない話だ。簡潔にまとめると、相原総司は恋人野田千歳の失態のために、親父から奪い取った金を使えるかってとこだ。もしあいつがそんなもの知るかとでも言い出したらそこで全てが終了を迎える」

いつもより説得力がある芝を前に、作戦の成功が少し見えた気がした。芝は後は任せろ、と言わんばかりの表情を見せた。

「決行は明日だ。今日はしっかり休んでてくれ。では、解散!」

何の組織だよ、と歩は思った。だが、不思議と犯罪に手を染める事に違和感はなかった。たかが詐欺くらい。そんな感情が頭の片隅にあったのも事実だった。



「相原総司さんにお会いしたいのですが」

先頭を切ったのは芝だった。相原総司が勤務している立橋商業に着いた所だった。どうやら古い友人として、受付を通すつもりらしい。大企業とまではいかないが、会社自体は現在波に乗っており、平穏な社内だった。しばらくして、紺のスーツに身を包んだ相原総司が姿を現した。写真で見たより背が高かった。

「お待たせしました。えーっとどちら様でしたっけ?」

思っていたよりずっと声が低い。

「詳しい話は外で。少し時間を頂けますか?何しろ大事な話なので」

芝が少しプレッシャーをかけるようにつぶやく。

「まあ、休憩の時間範囲内なら」

その後4人は立橋商業の前にある、小さな喫茶店に移動した。進行は全て芝に任せてある。

「ではまず、こっちから一つ聞きますけど、あなた達は誰です?そうじゃないと話が進む気がしない」

もっともだった。

「我々は直接あなたと関わりがあるわけではありません。むしろこれが、初対面だ。我々が今日話をしたいのはあなたの恋人、野田千歳の事です」

「千歳?千歳がどうしたってんだ」

相原総司は狼狽した。少しばかり口調も荒れてきたようだ。

「単刀直入に言いますと、野田千歳は我々からお金を借りていた。そのお金は両親の病気の治療費に当てるという話だった。でも、それは嘘だったんですよ。野田千歳は私欲のために我々から借りたお金を使っていたのです、これは立派な詐欺だ」

打ち合わせ通りに円滑に事が進む。歩は掌に汗をかいていた。ふと加奈を見ると、彼女は恐ろしいほど落ち着いていた。

「ふざけるなよ、誰なんだあんたたちは!千歳がそんなことするわけがないだろう。あいつは優しいやつなんだ、何かの間違いに決まってる」

相原総司も同じように汗をかいている。白のワイシャツに少し滲んだ。

「大抵の方はそうおっしゃいますが」

今日は眼鏡をかけている芝が、追い打ちをかけるように見つめた。そしてこう続けた。

「我々はその事を突き止めてしまった。そして、先日野田千歳に連絡をしました。もう待てない、とね。明日、相原総司の元にこの話を持ちかけにいく。恨むのなら彼を巻き込んだ自分を恨め、とね」

「あんたら、まさか」

「御察しの通り、我々は闇金を貸していたのです。闇金融から金を借りる、あなたならどういうことかわかるでしょう?ーーーあぁ、それと届いてるんじゃないですかね、野田千歳からメールが」

相原総司は焦ったまま携帯を開いた。未読のメールを一件見つけ出し、下を向いた。

「千歳…は、千歳には被害はないだろうな…」

やっとの思いで発した声だった。

「あなたが肩代わりになると言うのでしたら、もちろん危害は加えませんが」

「いくらだ…いくら払えばいい…」

歩の眉がぴくっと動いた。遂にここまで折れたのか。

「300万です。もちろん利子付きでこの額です」

「わかった。すぐに用意するここにいてくれ」

そう言い残し相原総司は足早に喫茶店を出て行った。

「上手くいきそうだね、芝さん」

すぐさま加奈が言った。

「あぁ、やはり野田千歳のメールが大きかったな」

「彼女はなんてメールを?」

歩が訊く。

「あまり文面を指示はしていないが、借金が払えない。明日あなたの所に行くと思う。とかなんとかは入れるように言ったけどな」

まもなくして、相原総司が帰ってきた。右手に分厚い封筒を抱えていた。

「確認してくれ。300万だ」

芝は素早く封筒の中身を確認し、確かに、と呟いた。

「では私たちはこれで。お互い穏便に済んでよかった。お仕事中に申し訳なかった」

芝はそう言い席を立った。続いて歩と加奈も続いた。その時だった。声をかけてきた。

おい、と相原総司が

「端の二人、ずいぶんと若いな…闇金融ってのはこんなに若いやつらにも赴かせるのかい」

歩は表情を見ずとも、声でわかった。やつは疑っている。途端に加奈が振り返り言った。

「仕事を選べるほど綺麗に生きてきた人間じゃないんで」

歩は全身が凍りついた。同時に悲壮感が襲った。

相原総司はふっと笑い、早く行けと小声で呟いた。

「加奈…」

「何よ、本当のことじゃない」

完全に立橋商業が見えなくなるまで、3人は一言も言葉を発しなかった。



「歩くんいるかい?歩くん」

いつになく慌てた様子で相原さんがドアを叩いていた。ドアを開け、眠たい目をこすった。

「じいちゃん、どうしたのこんな朝早くに」

「これを見てくれこれを、今朝ポストに入ってたんだ」

相原欽二が差し出してきた封筒を見て歩は頬が緩んだ。

「正義のヒーローが助けてくれたんじゃないの」

眠いからもう少し寝かせてと言い、歩はドアを閉めた。相原欽二のポストには、現金300万と

[あいばら荘を守り続ける]

と書かれたメモが入っていた。




-現在-



稲尾は羽柴玲二と二宮知治、朝子との関係性について、詳しく調べ始めていた。今更何故こんなに足が動くかは自分でもわからなかった。現役警官さながらの捜査量じゃないか、と思った。羽柴玲二には娘がいた。名は加奈。二宮歩と同じく現在は行方をくらませている。稲尾はこれを偶然とは思えなかった。羽柴加奈の母、美佐子(みさこ)は、以前と変わらぬ住所に住んでいるようだった。この情報は後輩である若田光一刑事から聞いたものだった。駅から少し歩いたところで稲尾は足を止めた。この辺りにしては珍しい、古風な一軒家がそこには建っていた。表札に、羽柴とある。

稲尾はインターホンを鳴らした。出ないのでもう一度鳴らした。3回目を鳴らしたところでようやく出た。はい、と力ない声が返ってきた。羽柴美佐子だ。

「突然申し訳ありません。私、稲尾明久と申します。去年まで刑事をやっておりました」

そこまで淡々と話したところで、はぁとしか返事はなかった。

「15年前の高野銀行強盗殺人事件のお話を伺いたいのですが」

「帰ってください。話すことなんて何もありません。帰ってください」

「せめて、加奈さんの事だけでもお話をお聞かせ願えないでしょうか?」

しばらく美佐子の返答はなかった。稲尾は今日は諦めようと思い後ろを振り向いた。すると、ガチャ、とドアが開く音がした。中から美佐子が出てきた。

美佐子は稲尾に熱い緑茶を出した。いただきます、と稲尾が口にした。

「はっきり申しまして、今加奈がどこにいるかはわかりません。事件後、すぐに家を出ていったものですから」

「そうですか。やはり行方はわからないと。では二宮歩くんの事は?」

美佐子はかぶりを振った。

「何で私が二宮さんの息子さんの事を知ってるんですか。事件後会ってもいません」

「立て続けで申し訳ないのですが、羽柴さん一家と二宮さん一家の接点というのはどういったものなのでしょう?」

「夫が二宮さんご主人とよくパチンコに行く仲でした。他にも競馬とか、賭け事をよくやる人でした。私と二宮朝子さんはそれ伝いで知り合ったものなので、そこまで深い仲ではありませんでした」

「そうですか。では何故あの人、3人であんな事件を…」

「そんなことっ!私は知りません。話せることはこれくらいです、帰って頂けますか」

追い出されるように稲尾は羽柴家を後にした。何かを隠しているようにしか思えない。ただ今日はこれ以上深く入り込んでは何も聞き出せない、そう思った。刑事の勘だった。


-10年前-


相原総司との一件を終え、無事に作戦Kは成功に終わった。芝の計画が全て吉と出たのだ。

その日、3人は芝の部屋に集まっていた。

「芝さん、詐欺今回が初めてじゃないんでしょ?」

加奈のいきなりの質問に芝はくぐもった。

「いきなり何だよ、まだ乾杯もしてないだろ」

「あんなに慣れてるとは思わなかった。初めてであんなに上手くいくもんなの?野田千歳を調べ上げた時から疑問に思ってた」

「お前らには隠しておきたかったけどな、そこまで感づかれたらダメだな」

芝は卓上のビールを飲み干した。

「詐欺は今回が初めてじゃない、もう何度かやってる。でも信じて欲しい、俺は金が欲しくてやってる訳じゃない。何かを守るためにしか、詐欺はしない。自分の中の決め事だ」

「どういう意味?」

歩が覗き込む。全部話そう、と芝は言った。

「昔、俺の家が詐欺の被害に遭ったんだ。保険金をまんまと騙し取られてな。そのせいで貧しい暮らしを送ってたんだ。だからある程度の知識を蓄えて、大人になってから復讐すると誓った。そんな時、ある女に出会った。お前らと同じくらいじゃないかな?そいつも理由は違ったが、同じ復讐心を持っていた。すぐに気が合った俺たちは詐欺を続けるうちにお互いの仇が見つかると信じて、今まで続けてきた」

「だからって、お金を騙し取ることが許されるって訳じゃないでしょ」

「加奈の言う通りだ。俺たち2人は誰でもターゲットにしてきた訳じゃない。俺たちが仕掛けたのは過去に詐欺を行ってきた奴らだ。調べ上げ、リストアップし、そいつらから金を巻き上げた。もちろんその金は被害者達に返金したよ。相原のじいさんの時みたいにな」

歩は昨日の朝、相原欽二のポストに入っていたという現金とメモを思い出した。

「だから許せなかった。相原のじいさんは俺の親父みたいな存在だ。もちろん何でも話せる。だから俺は一瞬の迷いもなく、今回の計画を立てた。違うパートナーと行うのは初めてだったから、最後に相原総司が加奈に声をかけた時は流石に驚いたよ」

それから芝は立ち上がり頭をさげた。

「どうしたの?顔上げてよ」

「俺は自分の問題でお前らを。家族を騙した。本当にすまなかった。きっちり謝罪させて欲しい」

「なんか、芝さん変わったよね。最初の頃と」

歩が言った。

「本当だよ、なんか優しくなった。謝るなんて私たちには必要ないよ。それぞれの痛みを分かり合ってここに暮らしてる。それで充分でしょ?」

「ありがとう。歩、加奈。お前らと出会えて本当によかった」

その夜、芝は黙々と頭を下げ続けた。あいばら荘の一室には遅くまで灯りが点いていた。



[4]



-現在-



「宗ちゃん、帰ってきたの?」

「あぁ、起こしちゃったかごめん」

「ううん、大丈夫。それで、どうだった?」

「バッチリ成功だ。後は返金の準備をするだけだ。これは俺1人で大丈夫。理沙は休んでな」

今野理沙はありがとう、と言い再びベッドに横になった。芝 宗一はノートパソコンを開き、作業を再開した。現在もパートナーである今野理沙と詐欺被害に遭った被害者をリストアップし、現金を奪い返しては返金すると言った活動を続けていた。夜中の3時頃だった。芝は顔を洗いに洗面台へ向かった。いつもより鏡が傾いているのが気になった。芝は鏡をずらすと、何やら異変に気付いた。鏡の裏には何枚もの写真が貼ってあった。その写真には、ナイフでズタズタに傷がつけられたような跡があった。

芝は写真の人物を見て驚嘆した。昔、共にあいばら荘で生活をしていた、二宮歩の姿だった。

様々な仮説が頭の中を巡った。考えれば考える程頭痛がする。どうして歩の写真が。芝は理沙と会った日の事を思い出した。そして、2人の目的の事も。さらなる頭痛が襲った。頭が割れそうだ。これ以上考えることをやめた。鏡を元に戻し、ベッドに潜り込んだ。寒さとはべつの悪寒が走り、頭から布団をかぶった。


翌日、焦ったような表情の理沙に芝は起こされた。テーブルの上には、二宮歩の写真が置いてあった。

「宗ちゃん、見たの?これ」

芝は眠い目をこすりながら、しまったと思った。一枚テーブルに置き忘れて眠ってしまったようだ。言い訳が思いつかなかった。

「あぁ、鏡の位置がずれてたから、直そうと思ってね」

「お互いの最大の標的については干渉しないってのが私達のルールでしょ?」

芝は再び、理沙と初めて会ったときのことを思い出す。

「まさか、歩が…お前の…」

そこまで口にしてくぐもった。

「歩って…?どうしてそんなに親しく呼んでるの?まさか…」

理沙は芝の胸ぐらを掴んだ。今まで見たことない憎悪感に満ちた目だった。

「知ってるの?二宮歩のこと」

その手を芝が振りほどいた。

「知ってるも何も、昔同じアパートに住んでた」

「何で言わなかったのよっ」

理沙は叫ぶように言った。

「話が矛盾してるぞ。干渉はなしだと言っただろ?それに、俺も今まで気がつかなかった。本当に昨日が初めてだ」

「御託はもういい。で、二宮は今どこにいるの」

「それを言ってどうするつもりだ。ちなみに、今はどこにいるかは知らない。歩は大学を卒業して、あいばら荘を出たからな」

「殺すに決まってるじゃない。それだけが私の生きる意味なの」

「人を殺す事が生きる意味なのか」

「じゃあ逆に聞くけど、宗ちゃん、親を殺された事あるの?ないでしょ?あの日、私はお母さんと一緒に銀行に行っただけなの。それだけなのに、もう二度と会えなくなってしまったの。

犯人を殺そうにも、死ぬまで一生刑務所から出てこないみたいだし」

淡々と語る理沙の目は狂気に満ちていた。

「だからと言って、歩を殺してどうなるんだよ」

「殺人者の血を引いてるの。親の代わりに私が復讐するの。私が受けた苦しみをそのままあいつに返してやるの」

「歩が殺したわけじゃないだろ」

「もううるさい!そんなに殺人犯の子供の肩を持つつもりなの?何、一緒に住んでたから温情でも湧いちゃったわけ?」

「そんな事を言ってるんじゃない。ただ、歩は悪くないと言いたいだけだ。現に、歩を殺してどうするつもりなんだ?お前も刑務所に入るのか?」

「それでいいよ、それができたら本望」

「そんなこと、お母さんは望んじゃいない」

「望む望まないとかじゃないの。声を聞きたくても、もういないの私のお母さんは」

しばらく沈黙に包まれた。芝はこの沈黙を破るには説得を続けるしかないと思った。

「ここで話しても埒があかない」

そう言うと理沙は玄関を飛び出していった。

追いかける気力もなく、芝はその場にしゃがみこんだ。その時、芝の携帯が鳴った。メールだった。 何てタイミングだよと芝は頭を抱えた。

「週末、加奈とそっちに行きます。飯でもいこう。」

差出人の欄には、二宮歩と書かれていた。



-10年前-


「じいちゃん!聞いて聞いて!」

早足で帰ってきた歩は真っ先に相原欽二の元へ向かった。部屋のドアを開けると、中には芝がいた。

「おーお帰り歩。ずいぶん慌ててんなぁ」

続いて相原もお帰り、と言った。

「芝さん、じいちゃん、僕、内定とれたよ!」

「やったじゃねーか歩。おめでとう!」

「よく頑張ったねぇ」

「へへっありがとう。やっと肩の荷が降りたって感じだよ。皆と比べたらだいぶ遅れてたからなあ」

「加奈が優秀すぎるだけだろ、コンピューターみたいなやつだからな」

それは言えてる、と3人で笑った。

「誰がコンピューターだって?」

後ろに加奈が立っていた。どうやら今帰って来たらしい。

「瞬間移動でも使えんのかよ加奈」

「もう、芝さんも馬鹿な事言ってないで、早くこれ開けて」

そう言い加奈は抱えていた箱を芝に手渡した。

「シャンパン?いいね、皆で飲もうか。歩の内定祝いだ!」

「歩、よかったね本当に。おめでとう」

加奈はまっすぐに歩を見つめて言った。

「ありがとう、加奈」

「オホン。では仕切り直しまして、加奈、そして歩、就職内定おめでとう。乾杯!」

久しぶりに飲むお酒の味は格別だった。

「皆、僕卒業したらあいばら荘を出ようと思う」

突然の歩の発表に3人は驚きを隠せない様子だった。

「そうか」

芝が静かに頷いた。

「私も、そうしようと思ってる」

「加奈ちゃん、君も出てくのかい」

寂しそうな顔をして聞いてきたのは相原欽二だ。

「ここの皆には本当にお世話になりました。今の私があるのは皆のお陰。本当にありがとう」

加奈は深々と頭を下げた。

「僕が最初にここに来た時、不安だらけだった。でも皆のおかげでこの4年間過ごすことができた。あいばら荘を離れる事は辛いけど、僕たちは家族だから、繋がってるから心配ないよね」

上手く言葉にならない。涙に邪魔をされた。

「本当に…みんな。ありがとう」

涙を隠すように、歩も頭を下げた。

「歩、加奈。お前らの未来は輝いてる。大丈夫だ。過去がどうとか未来がどうとか、そんなの関係ない。幸せんなれるよお前らは絶対に」

芝は2人の肩を組んだ。

「そんでも、もし何かあった時は、俺が助けてやる」

そう言い、にこっと笑った。あの日以来、あの事件の日以来、感情を閉じ込めていた加奈が泣き崩れた。うわぁぁんと嗚咽を漏らしながら泣く加奈の姿を自分と重ね合わせた。もう大丈夫だ。大丈夫なんだ。歩はやっと、幸せになっていい権利を得たんだと、改めて実感した。そして、幸せになりたいと願った。一人の人間、二宮歩として。


その3ヶ月後、無事に卒業した二人はあいばら荘を後にした。別れ際に、バスの中で開けなさいと相原から小包を渡された。芝は照れくさかったのか、階段の上から別れを告げてきた。いつでも帰ってこいよ、とだけ伝えた。

二人は駅まで歩き、そこからバスに乗り込んだ。バスの中で開けた小包には、封筒が入っていた。封筒には、芝 宗一 相原 欽二 と丁寧な字で書かれていた。そして、封筒の中には少しの現金と

[君たち二人をいつまでも守り続ける]

と書かれたメモが入っていた。



[5]


-現在-


芝は頭を抱えていた。理沙の仇が自分が家族のように親しんできた二宮歩だったのだ。その歩がこっちに来る日は翌日まで迫っていた。依然として、理沙と連絡はつかない。理沙は歩を殺すつもりなのだろうか。俺は一体、何を守ればいい。ふとあの日のことを思い出した。

歩と加奈があいばら荘を出た日の事だった。

[君たち二人をいつまでも守り続ける]

もちろん、その言葉に嘘はなかった。そんな時、インターホンが鳴った。しびれを切らして理沙が帰って来たのかと思った。むしろ、そうであって欲しかった。

インターホンの前に立ち、芝ははい、と答えた。

「突然押しかけてすみません。私は稲尾明久と言うものです。芝宗一さんでお間違えないですか?」

稲尾明久?考えを巡らせたが、聞いたことない名前だった。

「はぁ、私は芝ですが。失礼ですがどちら様でしょう?」

「私は去年まで刑事をやっておりました。そして、15年前の高野銀行強盗殺人事件を担当していた者です」

その事件には嫌でも聞き覚えがあった。歩の両親が理沙の母親を殺害した事件と捉えていたからだ。

「お話を伺えないかと思えまして」

「わかりました、鍵は開いてます」

ドアを開けて玄関に立った稲尾は、古びたスーツを身に纏っていた。初めて会った気がしなかった。

「どうしてここが?」

お茶を淹れながら芝が尋ねた。

「あぁ、今野理沙ちゃんだよ。彼女とはちょっとした縁があってね。メールをくれたんだ」

「理沙、今どこにいるか知ってますか?」

「いや、そこまでは聞かなかったなあ」

芝はどうぞとお茶を差し出した。

「稲尾さん…?でしたっけ。呑気な事言ってる場合じゃないですよ。あなた知ってるんでしょう?理沙が仇と呼んでる男が二宮歩だってことを」

「もちろん、その事で今日はお話に参ったのです」

芝は首を傾げた。どういう意味でしょう、と尋ねた。

「高野銀行強盗殺人事件には二宮夫妻、そしてもう一人の共犯者がいたんだ。羽柴玲二。羽柴加奈ちゃんの父親だ」

芝は頭の中で整理をした。羽柴加奈。羽柴玲二。そして二宮歩。思いもよらぬ事実だった。とても信じたくはない。

「何だって?歩の親と加奈の親が共犯者?」

じゃああいつらがあいばら荘に来たのは偶然じゃなかったってのか?」

「あいばら荘。その名前を理沙ちゃんから聞きました。あまりこんな事は言いたくないのですが、調べた結果、二人が通っていた大学はあまり有名な所ではなかったのです。受験をすれば誰でも入れる。毎年定員割れのような大学です。ここから距離もあるし、心機一転新しい生活をするにはとても良い条件だった訳です」

「じゃあ、あくまでもあいつらがあいばら荘に来たのは偶然だとお考えに?」

「そう考えるのが妥当です」

その時テーブルの上の携帯が震えた。芝は見覚えがない。稲尾の物だった。

「芝さん、少し場所を変えてもよろしいですか?会って欲しい人がいるのです」


稲尾に言われるがまま、芝は家を出て近所のファミレスに入った。入り口から一番遠い窓際の席に一人女性が座っていた。稲尾はそこに向かって足を進めた。

「お待たせしました。お話した芝宗一さんです」

稲尾が女性に向かって言った。

「初めまして。ーーーどなたなんですか?」

後半は稲尾に向けて発せられた言葉だった。

「羽柴美佐子と申します。羽柴加奈の母です」

座っていた女性が頭を軽く下げた。加奈の母親…。

「加奈は、元気にやってましたか?何か危ない目に遭っていませんか?きちんと、生活できていますか?」

突然の質問攻めに芝は少し身を引いて構えた。稲尾によると、あいばら荘で共に生活していた事は美佐子に話してあるらしい。

「あの子は…生きてますか?」

この質問には芝も心臓がどくんと高鳴った。

それほどに重みがあった。

「ええ、あの子はいつも元気に過ごしてましたよ。まるで事件の事なんて感じさせないくらいに。まあ、俺の前ではそう振舞っていたのかもしれませんけどね」

横に腰掛けていた稲尾が口を開いた。

「では美佐子さん、そろそろ本題に」

はい、と美佐子は頷いた。その目には涙が浮かんでいた。

「娘の加奈は、心臓病なんです。小さい頃に病気を患って、医師には20歳まで生きられないだろうって」

「え…」

芝は、声にならない声を漏らしていた。

「加奈ちゃんが助かる道は心臓移植しかない。しかし移植には身体に負担がかかる。医師の判断ではまだ手術は難しいだろうとの事だったのです」

美佐子に続いて稲尾が話を始めた。

「そのための資金が、もちろん必要だった。幸いだったのが、あまり病院に通院しなくても、身体に異常はないとの事だった。だが加奈ちゃんの中の歯車は確かに、確実に狂い始めています」

「だから、今回の事件を?」

かぶりを振り、再び美佐子が話し始めた。

「提案したのは朝子さんです。二宮歩くんの母親です。あの人がこの計画を企てました。もしも失敗した時のために、一人は残っておいたほうが言いと言われ、私はその日家に残っていました。でも計画は失敗に終わり、一人の女性が亡くなってしまいました。それでも私は落ち込んでる暇なんてなかった。次の計画を立てないと、加奈を助けないと。それしか頭にありませんでした」

「でも、加奈ちゃんは姿をくらました。そういう事ですね」

こくん、と美佐子が頷く。

ここからは私から、と稲尾が話し始めた。

「無期懲役を受けた二宮智治は、月に一度の外との手紙のやりとりで、加奈ちゃんの病気の事を呼びかけた。何年も返事なんて来なかったらしいが、それでも彼は手紙を出し続けた。そして、やがて一人の男がこの内容を記事にしたんだ。二宮智治は加奈ちゃんのドナー、そして資金集めのための募金活動を呼びかけていました。今思えば、強盗よりも先にこの方法を思いついていればなと思います…まあ、たらればの話になりますが。その結果、無事に費用は集まりました。しかし、加奈ちゃんの父親 玲二が収監中な事は伏せたままで。そんな事世間が知ったらまた反感を買います。特に、殺害された今野さんのご遺族が」

「どうして歩の両親はそこまでして加奈ちゃんを守ろうと…」

「昔、川で溺れた歩くんを加奈が助けたことがあったんです。その事をご両親は覚えてくださって、病気の事を打ち明けたら、親身になって考えてくださりました。歩を守ってくれた、加奈ちゃんを守ろうと言ってくださいました」

芝は下を向いた。歩の顔が浮かんだ。何だよ。歩。お前の父ちゃん母ちゃんはただの強盗殺人犯なんかじゃなかったぞ。ちゃんと守るものがあったんだ。しっかりと守りきったんだぞっと伝えてやりたかった。ただ一つ気がかりなのが、今野理沙の事だった。こんな話を聞いても、納得などするはずがない。自分の親を殺される理由などに、子が納得する術などもはや存在しないと思ったからだ。その時、芝の携帯が震えた。今野理沙からだった。画面を見て、芝の顔が青ざめていった。

[宗ちゃん、今までありがとう。]

と書かれていた。そして、その少し前に

[予定が変わりました。1日早く着きそうです。]

と、二宮歩からのメールがあった。

「稲尾さん。歩が危ないっ」

二人は足早にファミレスを後にした。



久々に見た姿も驚くほど変わりはなかった。歩と加奈はあいばら荘に着いていた。門をくぐっる。相変わらず低い門だ。その時だった。物陰からうわぁぁと叫びながら、ナイフを持った女が歩に飛びかかろうとしていた。歩は後ろに下がり間一髪かわした。

「いきなり何するんだ!誰だあんた…」

腰を上げながら歩が問いかけた。

「にのみや…あゆむ…にのみや…あゆむ…」

女は暗示をかけるように歩の名前を口にした。そして、目線を加奈に向けた。

「はしばかな…はしばかな…」

目は狂気に満ちていてる。狂っている。異常だと思った。

「あんたらの親が!私の親を殺したの!お母さんを返せ!この人殺しが!」

そう叫びながらまたもナイフを振り回してきた。歩は考えを巡らせた。まさかと思った。

一度も会った事はなかったが、被害者には歩らと同じ歳の娘がいると耳にしていた。それがこの女なのか。

「僕を殺してどうなる!殺したのは僕じゃない!僕の親だ」

「だったらその親引っ張り出して、私に殺させてくれるって言うの?答えなさいよっ」

その時だった。闇雲に振り回していたナイフが、歩の腹部に刺さった。自分の手にべったりとついた血を見て、ようやく自分が刺された事に気がついた。と、同時に激しい痛みが襲いかかってきた。

女はうわぁぁぁ、と叫びだした。加奈が歩に駆け寄る。あゆむっあゆむっと呼びかけるが歩の意識は遠のいていく。

「お前が悪いんだっ、私は復讐を遂行しただけ。お母さんの仇を討っただけっ私は悪くないっ私は悪くないっ」

「だったら何で震えてる…?」

歩が言葉を発した。痛みで気が遠くなりそうだった。

「震えてなんかないっ。あんたが死ねば…私の復讐は完成する…私が生きてる理由なんてもうなくなる…だから、しねっ」

理沙は大きくナイフを振りかぶった。加奈が歩に覆いかぶさるようにかばった。

「理沙っやめろっ」

駆けつけたのは芝宗一と稲尾明久だった。

「お前の復讐は意味なんかねえ!もうそんなことはやめろ…」

「宗ちゃん、意味なんかないってどういうこと?私たちそうやって今まで一緒に居たじゃない?私の仇が、二宮歩じゃなかったら殺しても何とも思わないんでしょ?結局あんたは最後の最後で私を裏切るんでしょっ」

「何が言いたいんだお前は。歩の両親は加奈を救うために、強盗に入ったんだ。お金が必要だったんだ。加奈は重い心臓病でーーー

「そんな話どうでもいいの、私のお母さんがこいつの親に殺された、だから私はこいつを死なせなきゃならないの」

芝の言葉を理沙が遮った。後ろで救急車を呼ぶ稲尾の姿が目に入った。

「本当はもっとズタズタに殺してやりたかったけど、もう警察も来るんでしょ?私、お母さんの所に報告に行かなくちゃ。それでね、また二人で仲良く暮らすの。今度は銀行なんかない街でゆっくりとね」

理沙はそう言うと、自分の首元にナイフを構えた。

「よせっ理沙っ」

芝の声は届かない。理沙は薄気味悪くにやりと笑った後、手を振り切った。首元から血が噴き出す。バタッと倒れた理沙の元に芝が駆け寄った。無念だった。俺は何も大事な物を守らない。愛した女の一人でさえも、死なせてしまった自分が腹立たしかった。

やがて、救急隊員が到着した。担架に乗せられ、歩が救急車に運ばれる。加奈と芝も同乗した。稲尾は警察に事情を話すため、その場に残る事にした。

あゆむっあゆむっと加奈は懸命に呼びかける。

歩の意識は朦朧としていた。

「あゆむっお前の両親はただの人殺しなんかじゃねーぞっ加奈ちゃんを守るために、自分の手を犯罪に染めたんだ」

芝が歩に呼びかける。

「し…ば…さん…知ってたよ僕。加奈の病気の事も。僕の親が、加奈を助けるために強盗に入ったって事も。稲尾さんが手紙で教えてくれた。あいばら荘で加奈に会った時は全く気づきもしなかったけどね。何しろ小さい頃の話だしあんまり覚えてなかった」

芝は驚嘆した。

「じゃあなんで今日ここに…?」

「過去を清算したかった…今野理沙の存在だって知ってたよ。僕を仇にしてるって事もね、3人で強盗に入ったとは言え、実際に刺し殺したのは僕の父親だしね…運命だったんだよこれが僕の」

あまり喋らない方がいい、傷口が開くぞ。と呼びかけたのは救急隊員だった。

歩は力を振り絞り、財布から一枚のカードを取り出した。血で滲んでいたが、書いてある文字は読み取れた。

「臓器提供意思表示カード…」

読み上げたのは加奈だった。

「うそ…いや…いやだよあゆむっ、何考えてるのっ助かるよ…きっと助けてくれるようっ」

加奈が歩に泣きついた。加奈のシャツに血が滲んだ。

「加奈…昔、加奈が僕を助けてくれた時から、僕の運命は決まってたんだよ。加奈を守るために生きてきた。その役目が今日終わりを迎える時が来たんだよ…それだけだ…」

歩の呼吸が荒くなる。血液がうまく循環していないせいだった。

「しば…さん…これを…頼みます…」

歩は震えながら臓器提供意思表示カードを芝の手に置き、ぎゅっと握りしめた。

「今度は、ぼくがまもるよ…加奈…」

歩は完全に意識を失った。救急車からは、いやぁぁぁと言う悲鳴だけが大きく響いた。


病院には稲尾明久、相原欽二、そして羽柴美佐子も駆けつけた。美佐子と加奈は実に15年ぶりの再会だった。加奈の姿を見つけた途端、美佐子は泣き崩れた。加奈っ加奈ぁぁぁと強く抱きしめた。加奈も涙が溢れ出した。

担当医師は石垣と言う者だった。小柄な年老いた男性。その昔、加奈を診ていた医師だった。

「手術は終わりましたが、何しろ出血が多すぎました。はっきり申し上げます。彼の脳はもう、機能していません。そして、この先、回復の見込みはありません」

淡々と語る医師の言葉の一言一句が、皆の胸に矢のように突き刺さった。

「どういう、意味ですか…歩は死んだってことですか」

加奈が口を開いた。普段の加奈なら、理解できない話ではなかった。混乱が彼女の脳を錯乱させていた。

「世間的には、脳死と呼ばれる状態です。心臓はかろうじて動いていますが、脳は機能していない。つまり、もう自分の意思で動くことも、目を覚ますこともないという事です」

石垣は芝に目を移した。

「そして、あなたが持っていた臓器提供意思表示カード。そこには歩くんの名が記されていました。歩くんはいまこの条件に当てはまります」

そして石垣は決断は早い方がいい、と付け加えた。

「いやだよそんなの。歩の代わりに生きれるほど、私良い人間じゃないよ…歩がいないとだめだよっ」

加奈は嗚咽を漏らした。

「いるじゃねーか、ここに」

芝はベッドで眠る歩を指差した。そして優しく左胸を触った。この僅かな拍動が、歩が生きてるって証拠だ。意識がないからなんだ。声が聞けないからなんだ。歩は形を変えずに加奈の中で加奈を守ろうとしてんだ。お前が逃げてどーすんだ」

加奈はまっすぐに芝を見つめた。その目にはまだ涙が溜まっている。泣いてちゃだめだ。芝にはそういった決意のように見えた。

「救急車での歩の顔…見たろ…?不謹慎かもしんねーけど、幸せそうだったよ。これからは、歩が加奈の鼓動を鳴らし続ける。これで、お前らはいつまでも一緒だ」

芝の言葉に、加奈は決意を固めた。移植手術を受ける決意をした。

「歩。これからは私が守ってあげるよ。私の中で、一緒に生きよう」

加奈には聞こえた。そして見えた。優しく笑ういつもの歩の姿が。




[終]



今野理沙の死因は自殺として片がついた。彼女もまた、本当の被害者なのだろう。被害者の娘と殺人者の息子。復讐は新たな復讐を呼ぶとよく言ったものだ。芝はそんな事を考えていた。

依然として、あいばら荘に住み続けている芝は、毎日のほとんどを相原欽二の介護に費やしていた。そろそろ私もダメかもしれないねぇ。と言うのが欽二の口癖だった。

「芝くん。私は死んだら歩くんに会えるのかなあ」

「何言ってんだよじいさん。歩は死んでなんかねーよ」

欽二が乗っている車椅子を押して、部屋に入る。芝の手作りのスロープからは、今日もギシギシと音がする。

「歩は生きてるよ、加奈と一緒にな」

あいばら荘から見上げた鈍色の空に、芝は二人の顔を思い浮かべた。

「今度も二人で仲良くしてほしいねぇ」

相原の言葉に、芝は静かに頷いた。


今日もこの空の下、二つの拍動はしっかりと脈を打つ。二人分の鼓動をしっかりと鳴らし、強く生きている。強く生きていく。きっとこの世界中の誰よりも。

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