VIII
「あぁ……着いた……」
規則正しく膨れ上がる呼吸を無理やり落ち着かせた俺は、正面に建っている駅舎を見上げた。
小田急線の鶴川駅だ。俺と優華が普段、通勤で使っている駅。優華が独りでも迷わずに来られるであろう、数少ない場所の一つのはずだ。
まぁ、案の定と言うべきか何と言うべきか、優華の姿はない。
「そうだよな……」
嘲笑は口元だけに止め置くと、俺は踵を返した。いつも二人で立ち寄っていた、あのスーパーかもしれない。
急いでも仕方ないのに、足は勝手に小走りになる。駅まで来たときもそうだった。俺はスーパーまでの道を脳内で計算すると、走り出した。小田急の急行が通過する轟音が、冬の暗闇に妙に響いていた。
……何となく、そこにもいないような気はしていたんだけどさ。
ああ、寒い……。
しまったな。俺、優華のコートは持って来たのに自分のは見事に忘れていたんだ。
優華のと一緒に玄関に掛けとけば忘れなかったのかなと、ちらりと思う。優華のことなんて何もバカにできない。走りながら俺は、苦笑いした。その苦笑いも、北風に吹かれてすぐに消えていった。
こんな中を優華は、ほとんど何も持たずに飛び出して行ったんだ。
優華の鍵やICカードはコートに附いているのを、俺は知っている。そしてそのコートは、ここにある。財布を入れた鞄は言うまでもなく、部屋の中に置き去りになっていた。必然的に、優華が持っているのはスマホだけだ。
そしてそのスマホさえも、確か……。
早く、優華を見つけた方がいい。
違う、そうしなければならない。
勝手に足が動く理由を、俺はそう決めた。赤信号が鬱陶しい。こうしている間にも、あの優華はどこかで凍えているかもしれないのに……。
スーパーに着いた。
俺はすぐに中に入り、閉店一時間前になって客入りの少ない店内を探し回った。だけど悪い予感っていうのは当たるものだ。ずらりと並ぶ陳列棚の間には、探し求めていたあの姿は見当たりそうにもなかった。
ここも徒労に終わったか……。白い息を吐きながら、俺は俯いた。顔が下に向かうに従って、どんどん弱気になっていく自分が感じられた。
とりあえず、ここから出よう。とぼとぼとスーパーから出ると、ぽつりぽつりとか細い光を放つ星たちを空にいくつか拝むことができた。
ああ、疲れた。
もう疲れた。寝たい。ベッドに倒れ込みたい。
年末にも関わらず仕事は増えるばっかりで、俺はもうくたくただった。巷で売ってる栄養ドリンクも効かないし、何を見てもまるで癒されない。そんな日々が、長いこと続いている。
疲れると眠い、眠いと苛々する。苛々すると誰かに当たりたくなる。気づけば俺は、そんな悪循環に巻き込まれていたのかもしれない。
しょうがないじゃん。疲れてるものは疲れてるんだよ。優華だってさすがにそのくらいは、感じ取ってくれているだろ。
──『疲れてるのを言い訳にするなら、私だって言い訳にさせてもらうからね』
その時、優華の台詞が脳裏をぱっと照らしていった。
何言ってんだ、といつもの俺なら笑っただろうな。優華の仕事なんて、せいぜい平日だけのものだろ? 毎日毎日紙の山に埋もれる俺の気持ちも考えてみろよ、絶望したくなるぞ。って。
でも今日は、その台詞はけっこう堪えた。裏を返せばそれは、お前は嫁に心身共に余計な苦労をさせているんだぞ、ということでもあるんだ。そのことに、今日の俺は気づいてしまった。普段から気づいて然るべきだったんだけどさ、そんなこと。
俺は俺の好きな仕事に就いているのに、俺をリカバリーする優華は優華の好きな仕事に就いているのか?
それって矛盾じゃないのか?
俺は、俺の思っていた以上のことを優華にさっき怒鳴ってしまったのかもしれない。
俺はスーパーを出ると、駆け足で家へと戻る道へと向かった。
もしかしたら、と思い付いた一つの可能性に、賭けるしかなかった。




