VII
ああ。
もう、九時になるんだ。
スーパーの壁掛け時計をぼうっと見ていた私は、中央のデジタル文字盤の[h]の前が9になったのにすぐに気づいた。
家を出た時、確か八時ちょっと過ぎくらいだったかな。きっとそんなもんだったよね。となると、あれから一時間か。
一時間……。諒平をそんなに長く拒絶していたなんて、私史上最長ね。
ふふっと笑うと、私は時計から目線を外した。
窓の外の道路を、びゅんびゅんと何台もの自動車が走り去っていく。あとに残るテールライトの赤い余韻が、何だか妙に鮮やかに見える。
私は深呼吸した。息の荒さはもちろん、昂っていた胸の奥の方ももうずいぶん静かになってきている。
あのバカも、もうそろそろ頭が冷えてきた頃かな。少なくとも私も十分冷静になれてきたし、元から諒平の方がクールだ。もしくは私のことなんて忘れて、仕事にまた取りかかっているのかな。
どっちにしろ、冷静になれば分かるでしょ。私と諒平、どちらの主義主張が正しいかなんて。
私は腰を上げた。そろそろ、帰ってあげようかな。どこ行ってたんだ、ってあの人はきっと腹を立てるだろうけど、そしたら散歩とでも言ってやればいい。
「……うわ、寒い」
外に出たとたん、文句が口を開けて出てくる。
しまった、スーパーの暖房に慣れすぎてた。というかさっきまでの私、こんな中を彷徨っていたんだな……。
丘の上の方に向かう道が、目の前に黒々と延びている。いつもなら諒平と二人で歩くその道が、今夜はまるで別世界みたいだ。高いのか低いのかよく分からないテンションを糧に、私は坂を登り始めた。
──『優華だって最近、何かにつけて適当じゃないか! 出掛ける時だって別に可愛いげのある格好をするでもなし、優華の言うところの家事だって近頃は手を抜いてるし!』
何言ってるのよ。
私はいつだって、ちゃんと考えて選んでるんだよ。家事だってこなしてるんだよ。
可愛いげのある服って何よ、そんないいもの買えるほどのお金も稼いでくれないくせに。私だってお洒落したいし、諒平の前では可愛くいたいんだよ。
服を畳まないのは、畳んだったって置く場所がないからだし、畳んで整頓しなきゃならないほどウチには服がないからよ。掃除をしたって諒平はすぐに汚すじゃない。何もしてなくたって部屋には埃が溜まるじゃない。そんなことされたら私だって、やる気削がれるに決まってるじゃん。
悪いのは私じゃないよ。
──「何してても上の空で雑なのは、優華も同じだろ!? まず我が身を振り返ったらどうなんだよ!」
何なのよ、自分は働いてもいないくせに偉そうに。
私だって忙しいのは同じなんだよ。休む暇がないのは同じなんだよ。調理中にテレビに耳を傾けるくらい、いいじゃない。多少の焦げなんて、諒平は気にしないで食べてくれてるじゃない。
人様の前だったら、そんなことしないわよ。相手が諒平だからある程度の妥協ができて、それで生活を何とか回せてるんじゃん。
感謝してよね、むしろ。
……諒平の言葉に反論することは、簡単だった。
でも、その反論に自分の中で納得することは、できなかった。
どうして?
家までの道のりを歩く間ずっと、私は同じところをぐるぐると悩み続けた。普段は諒平にしがみついて歩く坂登りの勾配が、考え事のせいか全くないように感じた。
私の主張は正しい……はず。そのくせして、諒平に投げつけられた言葉の数々は、私にはあまりにも耳に痛かった。
疑問は解けないまま、家に着く。
いちいち施錠もめんどくさがる諒平のことだから、どうせ鍵も閉められてないはずよね。ドアノブの冷たさと一瞬走った静電気に顔をしかめながら、私はそれを回そうとした。
ガチャ、ガチャガチャ。
「あれ……?」
おかしいな、閉まってる。
そんなはずないよ。中に諒平、いるんでしょ?
だけど何度回そうと足掻いても、開かないものは開かない。どう考えても、鍵がかかってる。
居留守を使われてるな、と私は確信した。
そりゃあ、鍵を持って出なかった私の失策だよ。だとしても、締め出すなんて酷い。酷すぎるよ。今日も新宿まで働きに出てた諒平になら、この寒さは分かってるはずなのに。
私はそっと、家の横についている窓を見た。室内灯さえ点いていないように見える。さては灯火管制してまで、私を入れないつもりなんだろうな。
塞がれていた怒りが、また燃え上がった。
信じらんない。私、そんなに諒平を傷つけるようなこと、した? 言った? なのに諒平はそこまで強硬な手に出る気なの?
もう分かったよ! 私だって帰らないでやる! 諒平のバカ! クズ! 最悪! 新妻をこんな目に遭わせた罪は重いんだから!
……でも。
「されても仕方ない……よね」
暗い玄関の前に佇んだまま、私はぽつりと言った。