VI
カチ、コチ。
時計の刻む音にふと気づいた俺が見上げた時刻は、午後九時を示していた。
優華が出て行って一時間だ。もう、そんなに経つのか。
史上最高記録だな。不満が溜まるとよく寝室に籠る優華が、リビングに戻ってくるまでに要した時間。今回は家出だから、事情は少し違うにしても。
空になったコーヒーカップを机に置こうとして、ふと俺は底を見つめた。
明らかに今日ついたものでない汚れが、茶色くこびり着いて白さの中に浮き上がっていた。
丁寧に洗えっての……。こんなんじゃお客さんの一人も招くことができないじゃないか。手洗いが厳しいなら食器洗い機が欲しいって言えばいいのに、優華はいつだって強がって、無理をして、こうなる。
……俺。
今日、そんなに優華を怒らせるようなこと、したっけ。
優華が家出までするような言動、したっけ。
そんなつもりは全くなかった。せいぜい、普段の言い合いの延長くらいで済むと思ってたのに。
理解できなかった。何がそんなに優華を駆り立てたんだろう。
俺だって同じだ、今日はどうして抑え込もうとしなかったんだろう。普段なら最後には折れてやって、優華の意見を通すのに。
俺も優華も、何だか変だ。暮れに近づいて仕事増えて、疲れてるのかな……。
俺はパソコンを閉じるとカップを流しにそっと置いて、もう一度時計を見た。
九時五分。
玄関に出て靴を履くと、ドアを開ける。途端に、外の冷たい風がびゅうっと部屋の中に吹き込んできて、俺は思わず身体を震わせた。うわ、なんだこの寒さ……。
今季一番の寒さとなるでしょうと高らかに宣告していた、今朝の天気予報が頭の隅を過る。この前のクリスマスには雪が降っていたし、全くもって嬉しくないニュースばかりだ。
俺は後ろを見た。二人分のコート掛けには俺のは掛かっていないけど、優華のはちゃんと掛かっていた。この前、町田の駅前のデパートで買ったやつだ。ノーブランドだけどお洒落だよって、俺が薦めたやつ。
本当にバカだな、優華。この寒いのに、コートも着て行かなかったのかよ。
それとも──俺が選んだコートだから、着るのが嫌だったのかな。
さすがに後者は邪推が過ぎるかと思ったけど、そんなものはこの際どっちでもいい。
俺は無言でそれを手に取ると、再び靴を履いて玄関のドアを開け放った。鍵を取り出して、コートを持っていない方の手で施錠する。
優華は方向音痴だ。
もしかしたら勢いで飛び出したきり、道が分からなくなって迷っているのかもしれない。そうでなくても優華は、この街に移り住んでまだ半年だ。坂が多く、道もなかなか複雑に絡んでいるこの辺りでなら、迷子になるのは容易いだろう。決してバカにしてる訳じゃない。本人がこの前、言っていたことだ。
あるいは、この寒さだ。もしかしたらどこかの建物で暖でも取っているかもしれない。どちらにしても、早めに見つけなければ。
鍵が正常に閉まっているのを確認すると、俺は道路に出て歩き出した。とりあえず、最寄りの駅まで行こうと思った。
全く、手間掛けさせるなよな……。