III
「はぁ……けっこう、来た……」
乱れた息を整えると、私は後ろを振り返った。誰も、来ていなかった。
家を出てから脇目も振らずに、ぐちゃぐちゃに街路を曲がって走ってきた。あ、嘘だ。何回か後ろ、確認した。あの諒平が来てないかを、確かめるために。
舗装道路を踏みしめるたびに、堅い反発で足の裏が痛かった。しかも冷たい。靴下越しに伝わるそれは、反発よりもずっと強かった。
って言うか、ここ、どこだっけ。
あんまり適当に走ったから、道を忘れちゃったよ。何回曲がったかも覚えてない。
まぁいいでしょ。そのうちきっと、知ってる風景に出くわすに決まってるよ。私はすたすたと歩き続けながら、そう心の中で言った。
夜の空気は肌には心地いいけど、肺に入られるとちょっと冷たい。
さすが師走の東京、寒いわ。もっともここは東京の端も端、神奈川県じゃないって言われたら反論できないような場所にあるけどね。
東京都町田市は、東京の主だった町から丘陵地で隔てられた先にある街。走ってるバス路線も神奈川中央交通、鉄道もJR横浜線に小田急線。言い逃れのしようがないよ、どう考えてもここ神奈川だよ。私も最初は、そう思った。
北関東に育った私にとって、東京に住むのはちょっとした憧れだった。だから最初に諒平と出会った時、胸がときめいたんだ。やった、憧れが早速叶うんだって、嬉しくて嬉しくてしょうがなかった。
町田に住む人たちには悪いけど、現実がこれじゃあ……さすがに不満、溜まりますよ。そりゃあ。
時々、分からなくなる。
私、諒平のどこを好きになったんだろうって。
こんなにケンカする、こんなに意見の合わない相手と、どうして恋に落ちて、結婚までいけたのだろう。
立ち止まって考えた機会は少ない。諒平は稼ぎもそんなに多くないから、私も働きに出る。諒平は家事全般に疎いから、結局二度手間になるくらいならと私があらかたやっている。
じゃあ、諒平とやっていくメリットって何だろう? デメリットは考えなかったんだっけ?
分かんない。
忘れたよ、そんなの。
白い息が街灯に照らされて、すぐに霧散していく。
私はまた、後ろを振り向いた。やっぱり誰も私を追って来てはいなかった。
「……はぁ」
安堵とも、落胆ともつかないため息が、口をついて出た。




