XI
突然叫ばれた私の名前に、私は振り向いていた。
私の名前だったからだけじゃなかった。その声色が、不自然なくらい諒平に似ていたからだ。
私の姿を見るなり、その人は走ってこっちへやって来た。そのすごい勢いというか雰囲気に、一瞬恐怖を覚えたくらいだった。公園に照らす水銀灯の光で青白く輝いたその人の顔は、焦りと、疲れと、それ以外にも色んな感情がごちゃごちゃになっていた。
やっぱり諒平だった。
駆け寄ってきた諒平と立ち上がった私は、少しの間、お互いを見詰めあっていた。
ああ、言わなきゃ。言いたいことは、この胸の中にちゃんとあるのに。私から謝るんだ、って。
私から言わなくちゃ、私から言わなくちゃ、私から……、って。
だけどいざ面と向かってみると、私はなにも言えなかった。見つめるだけで胸がいっぱいで、苦しくて、切なかった。
思い描いた通りに、身体が動かないんだ。
どうして?
どうしてこの口は開かないの?
もう諒平のこと、怒らないって決めたじゃん。笑って暮らそうって決めたじゃん……。
訳分からないよ……。
唇を真一文字に結んだまま、私は諒平の姿を見ていた。家に置いてきた私のコートを手に抱えてるくせに、自分はコートを羽織ってない。服だって仕事着のまま、着替えてもいない。
諒平は服はいつも放り出すけど、着替えそのものはきちんとする人だった。着替える暇、今まで一時間半くもあったはずなのに。仕事してたんなら着替えないかもしれないけど、だとしたら私が一度家に戻った時、部屋に電気が点っていないはずはないのに。
もしかして。
諒平、ずっと私のこと、探していたんじゃ……。
そう考えたら、全ての辻褄があった。
私が戻ったのと入れ違いくらいに、諒平は私を探しに家を飛び出していたんだ。だから帰ってきた私はそれを見て、誤解した。締め出されてるなんて勘違いした。
ひどい被害妄想だ……。私って、ほんとに最低……。
じわり、目尻に浮かんだその涙を、私は止めることができなかった。
「……ひく……っ」
がんばって声だけは圧し殺した。情けない泣き声を聞かれたくなかったから。
私、私のことをこんなに心配してくれてた人に対して、あんなに恨みや怒りを覚えていたんだね。知らなかったよ、諒平。そんなに君が、優しかったなんて。この寒い中を、探し続けてくれていたなんて……。
ああ、もうこのまま私、凍え死んでしまいたい……。そしたら私も、諒平に少しは懺悔できるかな……。
寒さと悲しさに震えながらも、私は溢れた涙を必死で拭おうとしていた。だけど涙はそんな私を嗤うように、あとからあとからどんどん流れてきて……。
ぱさり。
肩にかけられたのは、私のコートだった。
涙で歪んだ目で、私は前を見上げた。
泣きそうな表情になっている諒平と、ばっちり目が合った。
「「ごめん」」
その一言が、同時に言えた。
もう耐え切れない、と思った。
胸の中で燻っていた不安や恐怖や悲壮感が、どっと流れ出した。
気がついたら私は諒平の胸に顔を埋めて、子どもみたいに泣きじゃくっていた。
諒平も、肩を震わせてた。
抱きしめた胸から、諒平の気持ちが私の心へ入ってきた。
優華、ごめん。ごめんな。優華の気持ちをないがしろにして、踏みにじって、ごめんな……って。
私も言った。諒平、ごめん。ごめんね。自分勝手なこと言って、わがままに振る舞って、ごめんね……って。
言うのにはあんなに苦労した“ごめんね”が、心の中でならこんなにもあっさりと言えるんだな……と思った。
そうだよ。心の中でなら、いつだって何だって言えるんだ。“ありがとう”も“ごめんね”も、“好き”や“愛してる”さえも。それで伝えられるなら、苦労なんてしないのに。
でも、ダメだよ。
逃げるな私。心の中で伝えた気になっちゃダメ。ちゃんと私の口で伝えるって、決めたんだから。
「もう……いいよ」
押し付けていた顔を諒平から離すと、私は言った。ケンカした時に言った同じ言葉とは、意味がまるで逆だった。
「……ああ」
鼻を啜りながら手を離した諒平の前に、もう一度私はきちんと立つ。
そうして、すうっと夜の空気を吸い込んだ。
「諒平、ごめんね。私、ついカッとなっちゃってあんな言い方をしちゃったけど、私だって諒平のこと、何一つ責められる立場じゃなかったね。だから……許してください。私のこと、見放さないでください……」
言えた。
諒平の顔を見て、ちゃんと最後まで言い切れた。最後は少し、掠れてしまったけど……。
私の弁を最後まで聞き終えると、諒平も神妙な顔つきで私を見た。そして、言った。
「俺こそ、ごめんな。自分の立場も弁えずに偉そうに反論したのは、俺の方だ。優華がいなきゃ生きていけないのは、俺の方なのに……」
「いいの、諒平はそれでいいの。私がもっと……」
「いや、それじゃ駄目だ。俺の方が変わらなきゃ……」
「…………」
「…………」
私と諒平は、お互いの手を握った。
たった今、私たちは仲直りできたんだな。諒平の温もりに包まれながら、私はそう感じた。信じた。
手を握ったまま、私たちは街を望むベンチに座った。お尻が冷たかったけど、さっきと違って気にならない。すぐ隣に、諒平がいてくれるからなのかな。
「……覚えてるか」
ふと、諒平が言った。
「ここ、ずっと前にも来たことあるんだよ。俺たち二人で」
「私も何となく、そんな気がしてた」
「ここから町田の街を眺めた時、優華が感慨深げに言ったのを覚えてるよ。私たち、ここで幸せになるんだね……ってさ」
私は頷いた。言ったのをまだ、覚えていたから。
だって、たった半年前のことなんだもん。
「それでその時、俺も返事したんだ。優華を幸せにしてみせる、って。ちょうど……半年前のことだったよな」
……私はちょっとびっくりした。
諒平も覚えてたんだ、今日が結婚記念日から半年の節目だってこと。
「もう、そんなになるんだよね。何だか早かったなぁ……」
言いながらコートの襟を立てて寒さをしのぐ私の頭を、諒平はそっと撫でてくれる。
ねえ、諒平。
私ね、思うんだ……。
「私たち、きっとこれからも、こうやってケンカするんだろうね」
ため息混じりに私が言うと、諒平も同じことをしてみせた。
「そうだな。これからもずっと一緒に暮らしてくんだ、きっとまたするんだろうな……」
「もう、傷つけあうのはイヤだよ。ケンカなんかしたくない」
「でも……」
「だからさ、謝ろう」
澄んだ景色に目をやりながら、私は提案した。
「どれだけ言い合って酷い言葉ぶつけたって、謝ればいいの。そうすれば万事、解決するよ。だから、謝ろう。どっちが悪いとか私は正しいとか言って意地張る前に。ごめんね、って」
諒平は、驚いたみたいに私を見て、そして大きく頷いてくれた。
私たちは、忙しい夫婦。
それはもはや前提条件だ。
まとまった時間が取れないのも、ゆっくりいちゃいちゃするだけの心の余裕がないのも、もう仕方ない。どうしようもない。
でもだからこそ、日常のちょっとしたことから幸せになれたらなって思う。そしてそれはきっと、毎日の心がけ次第で叶うことなんだ。
そのためにも私は、言い続けよう。素直な気持ちだけじゃなくて、感謝や謝罪みたいな、言うのにはちょっと勇気が要るような言葉も。
何だかんだで寒いのか、ぶるっと身体を震わせた諒平に、私は私のコートを半分かけてあげた。
そして、そっと耳元で囁いた。
「愛してるよ、諒平」
って。
諒平も、ちょっと笑って返してくれた。
「俺もだよ。優華、愛してる」
いつか、優しい緑に囲まれたこの街で、世界一お似合いの夫婦って言ってもらえるように。
私たち、なれるかな。
なれるよね、きっと。
「ありがとう」と、
「ごめんね」と、
「愛してる」があれば。
これにて、「意地っ張りのノクターン」は完結となります。
クリスマス頃からの公開開始以来、かつてない勢いでPVの伸び続けた作品となりました。正直言ってここまで反響が来るとは思っていなかった……。どなたかが評価に入れてくださった通り文章4ストーリー3レベルの作品だと思っていたのに。
舞台は東京都町田市です。作中のキャラクターは扱き下ろしていますが作者は町田市のこと好きなので、お怒りの方はどうか矛をお収めいただければ……←
なお、原案……というか着想を得た元は西野カナさんの楽曲「ごめんね」です。聴いたとき真っ先に浮かんだのは、暗い夜中の公園で独りでブランコをこぎながら、まだ若い彼女が空を見上げているという情景でした。前後のストーリーを膨らませた結果がこれです(笑)
作者もいつか、この小説のような状況に陥るかもしれませんが。
その時はちゃんと、逃げ出した彼女を追いかけて先に謝ろうと思います。
ここに宣言します←
皆様もご家族で仲良く、明日の大晦日を迎えてくださいね。
2014.12.30
蒼旗悠




