I
それは、単なる夫婦喧嘩。
……に、なるはずだった。
「ねえ」
年も暮れの、十二月三十日。たぶん、午後八時くらい。
静かな部屋に、自分の声が響き渡った。
「……何」
不機嫌そうな声で返事をする諒平を、私はじっと睨む。空気が急に煮詰まったような気がした。
「それ、どうにかしてくれない?」
指差した先にあるのは、ついさっき帰ってきた諒平が脱ぎ捨てた上着だ。
上着は決まった場所に掛けるって決めたのに、諒平はいつも守ってくれない。また、今日も。
諒平はじろっと私を見返して答えた。
「あとでやるよ」
……その言葉で、私は余計、カチンときた。
だって、その言葉を吐いた諒平が約束を守ってくれたことなんて、一度もなかったんだもの。
諒平のその辺への信頼はゼロだ。むしろマイナスなくらい。
「今やってよ。どうせ三歩歩けば忘れちゃうんだから」
「今かよ」
諒平は露骨に嫌そうな目付きになった。
「ダメなの? 床に新聞広げて読めるくらいには暇なんでしょ?」
「俺だって疲れてるんだよ。会社から帰ってきたばっかりで」
「疲れてるのを言い訳にするなら、私だって言い訳にさせてもらうからね」
「すれば?」
その瞬間、私の心にぼっと火がついた。
「ねえ、ちょっと最近の諒平、ひどくない!? なんでそんなに私に協力的になってくれないの? 洗濯するの、私なんだからね!」
沫を飛ばしながら私は叫んだ。最近の諒平は、さすがに目に余る。ずっと言いたくて言えなかったその言葉が、ようやく口に出せた。
私の憤りは諒平にも飛び火したみたいだ。寝転がっていた諒平は身体を起こすと、私を睨みつけながら言った。
「少しくらいゆっくりしていたっていいだろ! 休日だって仕事ばっかりで、まともな休息時間もないんだよ!」
「知らないよ! 諒平の事情を私に押し付けないでよ! 服を洗濯機に入れるぐらいの所作も出来ないで、どうやって夫婦生活営んでくつもりだったのよ! 適当なんだよ、諒平は!」
「同じこと俺にも言わせろよ! 優華だって最近、何かにつけて適当じゃないか! 出掛ける時だって別に可愛いげのある格好をするでもなし、優華の言うところの家事だって近頃は手を抜いてるし!」
「誰が手を抜いてるですって!?」
「優華だよ! 飯だって冷凍食品が増えたし、洗濯物も畳んでなかったりするし! 掃除したあとだって、そこら中にゴミとか埃が残ってるし!」
「そんなに言うなら諒平がやってよ! 私だって時間ないんだからね! 共働きだってこと、忘れてもらっちゃ困るよ!」
私たち──相原優華と諒平は、今年の六月に結婚した新婚夫婦だ。
ジューンブライドで始まりを告げた憧れの夫婦生活も、もう半年。あれから何度もこんな風にケンカして、何度もいがみ合った。それでもいつもなら、この辺で諒平が折れる。分かった分かったって鬱陶しそうに言いながら、私の言うことを何だかんだで守ってくれる。
そう、いつもなら。
でも今日は、そのいつもじゃなかった。私と諒平は立ち上がって睨みあったまま、一歩も引かない。
「この際だから言うけどね、諒平ってまともな生活習慣も送れないの!? 家事の分担もきちんとこなしてくれないし、そのくせ暖房はつけっぱなしにするし! そこの充電器だって、使い終わってもコンセント差したままじゃん! 私だってスマホ、充電したかったのに!」
「それならそうと言えよ! それに、料理の最中によそ見しては焦がしてるような優華には言われたくないな! 何してても上の空で雑なのは、優華も同じだろ!? まず我が身を振り返ったらどうなんだよ!」
「ほらそうやってすぐに反論する! そんなんだから、私の話を端から聞く気ないから、また同じことを繰り返すんだよ! 学習しなさいよ!」
「そう言う優華はいま俺が言ったこと、ちゃんと聞いてたんだろうな! いつもいつも折れてもらえると思ったら、大間違いなんだからな!」
「諒平のバカ! 最低!」
「バカはこっちのセリフだよバカ優華!」
「もういいっ!」
はぁはぁと荒く口をつく息を飲み込みながら、私は目に怒りを強く込めた。諒平の分からず屋、もういい。もういいよ。
募る怒りは足をも動かす。すたすたと部屋を横切った私は、玄関へと向かった。
靴を引っかけると、後ろから諒平の声が飛んでくる。
「おい、こんな夜中にどこ行く気だよ!」
「諒平には関係ない」
「関係ない訳──」
「関係ない! 諒平なんかもう知らないっ!」
私は勢いよく玄関のドアを開いて、暗闇が口を開けて待っている外に飛び出していた。
十二月三十日、晦日の夜。
冬晴れの高い空の下で、私たちは、ケンカした。
これは、お互いを憎しみあい、傷つけあった私たち夫婦の、たった二時間の物語。