悪夢の正体
放課後、江浦の車が校門を出るのを見届けてから、学たちもトンネルへと向かった。道々、資料室で起こったことのあらましを英治に話して聞かせると、彼は肩越しに背後を覗き見た。四人の後ろから、少し離れて千和がとぼとぼついてくる。
「先生には動機がない、か」
英治はそう言って、学をじろりと睨んだ。
「委員長が先生をかばってるって、考えなかったのか?」
「うん。ぜんぜん考えなかった」
学は素直に答えた。
英治はため息を吐いた。それから彼は、夏海と理美に目を向けた。
「俺は、学ほどお人好しにはなれないな。お前たちは、どう思ってるんだ?」
「わたしは、学くんに賛成。千和ちゃんや先生を疑うのも、そろそろウンザリしてたし。理美ちゃんは?」
夏海は言った。
「私は多比良くんに賛成する。先生の話を聞くまでは、油断しない方がいいと思う」
理美は、いつもの人差し指を頬に当てるポーズで、考え考え答えた。
「お前らでも意見が食い違うことってあるんだな?」
英治は意外そうに言った。
「えー、そんなのしょっちゅうだよ。ねえ、理美ちゃん?」
夏海が同意を求めると、理美はこくりと頷いた。ちっとも食い違っているようには見えなかった。
学は足を止め、千和が追いつくのを待った。
「私、まだ疑われてるの?」
千和は不安げに言った。
「うん。英治と愛野さんは、ね」
千和と肩を並べて歩きながら、学は隠さず言った。
「あの二人は僕や森山さんより、ずっと賢いんだ。きっと僕たちより、たくさんのものが見えるから、それを全部解決しないと気が済まないんだと思う」
「愛野さんって、あんなに怖い子だったのね。今まで知らなかった」
資料室で受けた詰問を思い出したのか、千和は怯えた様子で理美の背中を見つめた。
「僕たちも委員長を怖がってたんだ。もし余計なことをして、僕たちが委員長や先生を疑ってると知れたら、口封じに襲われるんじゃないかって」
「ひどい話」
千和はため息を吐いた。
「ごめん」
学が謝ると、千和は首を振った。
「いいの。紛らわしいことをした私が悪いんだし、逆の立場だったら、同じように考えたと思うもの」
「それで、何にも言い返せなくなったんだね?」
千和は頷いた。
「証拠はあるの? なんて言い出したら、それこそ追い詰められた犯人みたいでしょ」
「そうだね」
学は笑った。
「とにかく僕たちには、もう後が無かったんだ。森山さんがフライングしちゃったから、君に全部を白状させて、それこそ証拠を見つけなきゃならなかった。愛野さんは、その一番難しくて嫌な役を、自分で買ってくれたんだ」
すると千和は、ふと笑みを浮かべた。
「愛野さんには、私がトンネルの怪物に見えてたのね。古部さんを襲った怪物に」
「たぶんね。だから愛野さんも、ホントはすごく怖いのを、我慢してたんだと思うよ」
千和は、また理美の背中に目を向けた。もう怯えの色は消えていた。
「神代くん」
「なに?」
「信じるって言ってくれて、ありがとう」
学が目を丸くして千和を見ると、彼女は顔を赤くしてうつむいてしまった。それから彼らは一言も言葉を交わさず、肩を並べて歩き続けた。
「君たち、ここは通れないよ」
トンネルの前に着くと、そこで生真面目に立ち番をしていた江浦が、両腕を広げながら精一杯の怖い顔で、学たちを通せんぼした。しかし、子供たちの中に千和の姿を認めて、彼は息を飲んだ。
「千和、これは……」
「ごめん、パパ。私たちの事、話したの」
千和は真っ直ぐに父親を見つめて言った。
「そうか」
江浦は学たち四人を見渡して、それから頭を下げた。
「みんな、このことは黙っててくれないか。橘の家に知られたら、僕たちはまた離れ離れにされてしまうんだ。この通り、頼む」
学は、いたたまれない気持ちになった。頭を下げる大人に、どう応じればよいのか。夏海も、ひどくきまりの悪い様子だった。理美はぐっと唇を引き結び、英治はすがめた目で江浦を見つめている。千和は、しばらく彼らを不安げに見つめてから、父親に倣ってぺこりと頭を下げた。
「わかりました」
英治は言った。
江浦は顔を上げ英治を見た。
「その代わり、いくつか質問に答えてください。正直に」
英治が言うと、江浦は怪訝な顔をしながらも、こくりと頷いた。
「先生は委員長に、ここで会うまで娘だと気付いてなかったって、言ったそうですね。でも、それは嘘でしょう?」
千和は目を丸くして、江浦を見た。
「どうして……そう思ったんだい?」
「学が言うには、学校で委員長と一緒にいるとき、先生がやけに嬉しそうに見えたそうです。それに、橘って名前を見て気付かないなんて、あり得ない」
「その通りだよ」
江浦は認め、苦笑を浮かべた。
「僕は、赴任してきたその日に、千和のことに気付いていた。だって、久しぶりに見た彼女は、お母さんにそっくりだったからね。見違えようがないよ」
そう言って、彼は千和に微笑みかけた。千和は困ったような嬉しいような、何とも言い難い複雑な笑みを父親に返した。
学の頭の中に、英治の言葉がよみがえった。委員長が先生をかばってるって、考えなかったのか? 彼は頭を振って、その声を追い出した。
「どうして、そのことを委員長に隠してたんですか?」
英治は聞いた。
「僕のことなんて、とっくに忘れてると思ってたからね。もしそうなら、僕が父親だと千和に明かしても、いいことなんて一つもないだろ? そのことが橘の耳に入れば、彼女か僕のどっちかが、どこか他所の学校へ飛ばされるかも知れない」
「ずいぶん、橘から目の仇にされてるんですね」
「彼らは僕が、千和の父親と言う立場を利用して、橘に取り入ろうとしているって考えてるんだ。こっちにそんなつもりは無いんだけど、信じてもらうのは難しいだろうね」
英治は千和に目を向けた。
「委員長が、先生ほど慎重じゃなかったのには、何か理由があるのか?」
「橘の子供が、こんな公立の学校に通わされてるのは、なぜだと思う?」
千和は自嘲するような笑みを浮かべた。
「橘にとって大した家柄でもないパパの血を引いてる私は、どうでもいい存在なの。だから、私が誰と何をしていたかなんて、いちいち告げ口するような人はいないわ。私はパパと違って、それを知ってたから、ちょっとだけ思い切った事が出来たってだけ。でも、慎重じゃないと言うのは間違いよ。会うなって言われるパパと、私が会ってるって橘に知られたら、パパが心配したようなことになるもの。学校では、私が先生の娘だって周りに知られないように、気を付けてたわ」
「学校では、な。でも結局、俺たちに見つかった」
英治が指摘すると、千和は頬を赤くして黙り込んでしまった。英治はしばらく彼女を見つめた後、「わかった」と一言だけ言って、江浦に目を戻した。
「それじゃあ次は、三組の古部の事故について、知っていることを教えてください」
千和は息を飲んだ。理美が素早く「委員長は黙ってて」と釘をさす。
「本当に、それを聞きたいのかい?」
江浦の表情が険しくなった。
「はい。先生が知ってることを、全部」
江浦は焦りと苦悩が入り混じる顔で、しばらく考え込んだ後、ポケットから車のキーを取り出し、それを千和に渡した。
「車で待ってなさい」
「パパ?」
千和は不安げな顔で、鍵を受け取った。
「早く行きなさい」
江浦は厳しい声で命じた。千和は泣きそうな顔をして、それから素直に従いトンネルに入って行った。江浦は彼女の背中が見えなくなるのを待ってから、学たちに向き直って口を開いた。
「このトンネルに、恐ろしい怪物が出るなんて噂が広がっているのは、知ってるね?」
四人が頷くのを見てから、彼は続けた。
「古部が病院へ運び込まれてすぐに、三組の担任の先生が彼女のお見舞いに行ったんだ。その時、古部は言ったそうだ。自分は車にはねられたんじゃない、大きな蜘蛛に襲われたんだ――と」
学は英治を見た。彼は戸惑うような視線を返してきた。夏海や理美も同様だった。こんな話が出てくるとは、まるで予想していなかった。
「その場は、事故のショックで記憶が混乱しているんじゃないかってことになったんだけど、そうだとしても、こんなことが他の子供たちに知れたら、きっと大騒ぎになってしまう。その夜、先生たちは緊急に会議をして、どうするか話し合った。それで、この事は子供たちに内緒にして、トンネルは噂が落ち着くまで通行禁止にしようと言うことになった。正直に言うって約束だから君らには話すけど、絶対に誰にも言っちゃいけないよ。もちろん、千和にも。いいね?」
江浦は少し考えてから付け加えた。
「僕が以前に住んでた町でも、実は同じようなことがあったんだ。怪物の噂のせいで、亡くなる子まで出た。もう、あんなことは絶対に繰り返しちゃいけない」
「それって、橋の下の怪物?」
夏海が聞くと、江浦は目を丸くした。
「よく知ってるね。君らが小学校に入る前の話だよ?」
「森山は、その手の話が好きなんです。そんなことより……」
英治は言葉を切った。学が彼の腕を強く掴んだからだ。
「なんだ?」
苛立たしげに聞く英治に、学は無言でトンネルの坑口を指さした。そこには赤くて丸い光が、ぽつりと一つ、点っていた。二つ、三つ、四つ――光は見る間に増え続け、ついには八つになった。しかし、それは火の玉のように、ふわふわと空中を漂っているわけではない。一塊となり、何らかの意図を持って動く様子からして、実態のある巨大な何かの付属物であることは明らかだった。
「蜘蛛の目」
ポツリと洩れた理美の言葉を聞いて、学は背筋にぞっと粟立つものを感じた。おきた炭火のように、赤くこうこうと輝いてはいるが、それは確かに蜘蛛の眼に見えた。トンネルの中から、悲鳴が聞こえた。
「委員長!」
学は叫ぶと、弾かれたように駆け出していた。英治が続き、さらに遅れて駆け出した夏海が、あっという間に二人を追い抜いて俊足を見せつける。
トンネルの出口に近付くと、三メートルほどの高さで宙吊りになった千和の姿が、学の目に飛び込んで来た。彼女が背負うランドセルには、大人の腕ほどの黒光りする毒牙が、がっちりと食い込んでいる。
夏海が足を止め、学と英治が追いついた。少し遅れて理美と、ぜいぜい息を切らせた江浦がやって来る。学は頭上の千和を見上げた。彼女は恐怖の表情を浮かべ、声もなく「助けて」と唇を動かした。
「学くん、ちょっと背中貸して」
夏海は言うと、もと来た道を一〇メートルほど駆け戻り、くるりと振り向いた。
「くそっ、本気か?」
英治は毒づき、学をさっと見て言った。
「屈んで、目一杯踏ん張れ」
学は言われた通り片膝を突いて身を屈め、ぐっとおなかに力を込めた。その時になって、彼はようやく夏海の考えを理解した。
「森山、行け!」
英治が叫ぶと、助走する夏海の足音が迫ってきた。背中を思いっ切り踏まれ、学は歯を食いしばって夏海の体重を押し返した。ふっと圧力が抜け、その拍子で仰向けにひっくり返った彼の目に、跳躍する夏海の姿が飛び込んで来た。彼女が千和の腰の辺りにしがみつくと、千和の身体は大きく揺れ、ランドセルから肩がすっぽ抜けた。ふたりの少女は絡み合って地面に転げ落ちた。
獲物を取り逃がした蜘蛛は赤い目で少女たちをぎろりと見つめ、夏海は千和の頭を胸に抱きしめたまま、それを睨み返した。怪物は毒牙を開き、千和の赤いランドセルを落とすと、霞のように薄れて姿を消した。
「千和!」
駆け寄ってきた江浦に千和を預け、夏海は大きく息を吐いた。英治は彼女に歩み寄り、言った。
「いいジャンプだった」
「エヘヘ、ありがとう」
夏海は引きつった笑いを浮かべた。彼女は蒼ざめ、ぶるぶる震えていた。英治は屈んで夏海の顔を覗き込み、苦笑した。
「怖いのが苦手なくせに、無茶するからだ」
「ごめん」
「気にするな。そんなことより、パンツはしまっておけ。丸見えだ」
夏海は慌てて脚を閉じ、スカートの裾を引っ張って整えた。幸いと言うべきか、残念と言うべきか、学の位置からは何も見えなかった。
「大丈夫?」
理美が学に手を差し出した。学はその手を取り、立ち上がった。
「なんで、僕だったのかな。英治でもよかったんじゃ?」
「多比良くんじゃ、夏海ちゃんが踏んだら潰れる。ちっちゃいから」
理美はこっそり教えた。だったら、先生の方が適任なのではとも思ったが、彼の場合、何をするのか説明しなければ、夏海がやろうとしていた事を理解できなかっただろうし、理解できたらできたで、危ないから止めろと言われそうだ。結局、夏海の踏み台にぴったりなのは、学と言うことになる。理不尽な話だ。
混乱が収まると、英治は江浦に目を向けて言った。
「先生。とりあえず、場所を変えませんか。さっきの怪物に戻って来られても困る」
江浦はぎょっとして、怪物が姿を消した辺りの天井に目をやった。学も同じ場所を見るが、そこには何の痕跡もなかった。
「そうだね」
江浦は頷き、千和を抱えたまま立ち上がった。
「すぐそこに車を停めてあるんだ。定員オーバーで走ることになるけど、そこは大目に見てくれるかな?」
◆
江浦の車にぎゅうぎゅうに詰め込まれて彼らが向かった先は、トンネルからさほど離れていないファミレスだった。ありがたいことに店内は、がらがらだった。好きなものを頼んでいいと言う江浦の言葉を聞いて、英治は大盛ポテトと唐揚げを、夏海と理美はそれぞれパフェを容赦なく注文した。学は遠慮してドリンクバーだけにした。
学の隣には千和が座っていた。彼女は、まだ少し蒼ざめてはいたが、怪物に襲われたショックからは立ち直っていた。千和の向こう側には江浦が座り、テーブルを挟んで英治、夏海、理美と並ぶ。
「あの怪物は、なんだったのかな」
まず、江浦が口を開いた。
「それも気になるけど、まずは俺たちの話を聞いてください」
そう言って英治は、自分たちの推理を洗いざらい話した。江浦は途中、一言も余計な口を挟まなかった。
「疑って申し訳ありませんでした。委員長も、すまん」
英治は頭を下げた。
「不用意に他人を疑うのはよくないが、聞く限り僕や千和にも責任がありそうだね。それに、真犯人が怪物だなんて、普通は思いつかないよ」
それから江浦は厳しい顔つきで千和に目を向けた。
「君は、人のものを盗んだ上に、噂を流してみんなを騒がせた。それが、どんなに良くないことか、わかってるね?」
「ごめんなさい」
千和はしょげ返った。
「先生」
理美が言った。
「委員長、じゅうぶんひどい目に遭ってる」
千和はさっと顔を上げて理美を見た。理美は彼女から目を逸らしてパフェを一口食べた。千和を疑い、厳しく責め立てたことへの、彼女なりの謝罪なのかもしれない。江浦も「そうだな」と同意して、それ以上のお説教は無しにした。
「ねえ、委員長」
学はふと思い立って聞いた。
「どうして、おばけトンネルの前で先生と会おうなんて、回りくどいことを考えたの。委員長くらい頭が良かったら、もっとうまい方法を思い付いたんじゃないかな。例えば、こっそり先生に手紙を渡して、遠くで会う約束をするとか?」
「回りくどい?」
束の間、千和は考え込んだ。そして、ふと顔を上げる。
「それも、そうね。でも、あの絵を見た時は、それが一番うまい手だと思ったの。こんなに怖いオバケがいるなんてことになったら、きっと誰もトンネルには近寄れなくなるだろうって」
「僕にも見せてもらえるかな?」
江浦は興味をひかれたようだった。
千和は頷き、テーブルの下に置いてあったランドセルを膝の上に引っ張り上げた。それを見て、学は首を傾げた。ランドセルには怪物の毒牙が食い込んでいたはずなのに、その痕跡がどこにもないのだ。学のそんな疑念をよそに、千和はランドセルの中から自由帳を取り出し、テーブルの上に開いて置いた。
「これは、すごい。神代が描いたのか?」
おぞましい蜘蛛の怪物の絵を見て、江浦が賞賛の声を上げる。
「僕じゃないです。描いたのは愛野さん」
「愛野、すごいじゃないか」
江浦が言うと、理美は少しだけ頬を赤くして頷いた。
「トンネルのオバケ。人間が一人きりで下を通ると脚を縮めて襲い掛かってくる、か」
江浦はイラストに添えて書かれた文章を読み上げた。
「それは、神代くん」
理美が言った。
「面白いな、神代」
江浦に感心されて、学くすぐったい気分になった。
「こうして見ると、委員長を襲った怪物にそっくりだな」
英治が呟いた。
「そうかい?」
江浦が言う。
「僕には、馬鹿でかいタランチュラに見えたんだけどね」
学は英治を見た。
「どうして先生だけ、違うものに見えたの?」
「さっぱりわからん」
英治は、あっさりさじを投げた。
「わかった。あの蜘蛛のオバケの正体は、噂が作り出した怪物なのよ!」
夏海が言った。
「また、それか」
英治はあきれた様子で言うが、興奮気味の夏海は構わず話し続けた。
「たぶん、あいつは噂で聞いた通りの姿に見えるの。あたしたちは自由帳を見てたから、自由帳のオバケに見えたけど、先生は噂で蜘蛛としか聞いてなかったら、タランチュラに見えたんじゃないかな。きっと由緒ちゃんが襲われた時も、違う蜘蛛に見えてたはずよ」
学はぎょっとした。誰にも言わないと言う江浦との約束を、夏海はすっかり忘れているようだ。英治は頭を抱え、理美はパフェスプーンを咥えた口に、きまりの悪い笑みを浮かべていた。
「すみません、先生。森山がバカで」
英治が謝った。
「いや、千和もあれを見たんだから、今さら隠したって意味はないだろう」
江浦は言って、トンネルの前で学たちに話した内容を、そっくり千和にも話した。
「それじゃあ古部さんも、あの怪物に襲われたの?」
そう言う千和に、英治は「たぶんな」と答えた。それから彼は、夏海に目を向けた。
「噂に関わった子供の集合意識が、怪物を生み出したんだっけ?」
「そう。つまり、わたしたちは、ついにホンモノのオバケを目撃したのよ!」
喜ぶ夏海とは対照的に、千和はひどく落ち込んだ様子で言った。
「それって私の噂が原因で、古部さんが怪我をしたってことでしょ。結局、みんなの推理が当たってたってことになるわね」
夏海は何か言おうと口を開くが、言葉を見つけられなかったのか、そのまま黙り込んでしまった。英治も、理美も、江浦すらも何も言えずにいた。そんなのはおかしい、と学は思った。
「委員長のせいなんかじゃないよ」
学は言った。
「前に、みんなで橋の事件について話し合った時、そんな恐ろしい噂を流したやつは誰だなんて、誰も言ってなかったんだ。それなのに、おばけトンネルの事件に限って、噂を流した委員長が悪いだなんて考えるのは変じゃないかな。それにね、あの怪物を考え出したのは僕だよ。僕には何の責任も無いわけ?」
すると、理美がわけ知り顔で言った。
「また、美人割り引き?」
「違うってば!」
学が顔を赤くして抗議する。
「学の言う通りだな」
英治が頭を掻きながら言って、千和に目を向けた。
「この自由帳を作ったのは俺たちだ。誰のせいで、こんなことになったかなんて言い出したら、それこそ俺たちが犯人ってことになる。けど、まさか落書きが本物の怪物になるなんて、思いもしなかったからな。委員長の噂だって、同じようなもんさ。だから、気にするなって言うのは無理かも知れないけど、自分のせいだなんて、もう言うなよ」
「ごめんね、千和ちゃん」
夏海が謝った。
千和は微笑んで頷き返してから、ふと眉間に皺を寄せた。
「でも、集合意識が怪物を生み出すなんて、本当にあるのかしら? ごめんね、森山さん。疑ってるわけじゃないの。どう言う仕組みで、そんなことになるのか、ちょっと理解できなくて」
千和は考え、ふと顔を上げて言った。
「集合意識と言うか、集団パニックじゃないかしら。コックリさんのような?」
「なるほど」
英治が頷く。
「全部が頭の中で起こったことなら、怪物の姿が先生と俺たちとで食い違った理由もわかる」
「それじゃあ、あのオバケは幻だったってこと? でも、幻がどうやって由緒ちゃんやわたしたちに怪我をさせるのよ」
夏海は自分の肘についたすり傷を見せて言った。
「森山にしては、いいところに気が付いたな」
「エヘヘ、そうかな?」
夏海は照れた。
「正直、さっぱりわからん。オカルトは苦手なんだ」
英治は難しい顔をして考え込んだ。
「あのさ、さっき気付いたんだけど」
学は、千和のランドセルに起きた奇妙な現象について指摘した。
「人間にだけ怪我をさせる幻ってことか?」
英治は疑わしげに言った。
「似たような話なら聞いたことあるよ。ただの鉛筆なのに、これは焼けた鉄の棒だって催眠術を掛けると、触った途端に火ぶくれができるの」
夏海がオカルトマニアらしいことを言い出した。
「火ぶくれは、身体が自分を熱から守ろうとして、そこに水分を集めるから出来るんだ。火傷したら、まず水で冷やすだろ。あれと同じだ」
英治は、少し考えてから続けた。
「確かに催眠術なら、そう言うことも起こせるかも知れないけど、古部は骨折で、お前や委員長は打ち身にすり傷だ。火ぶくれと違って外から力が加わらなきゃ、そんな怪我はしない」
結局、あの怪物は実体があるのかないのか。皆が頭を抱えていると、江浦が口を開いた。
「君たち、高いところから落ちる夢を見て、目が覚めたら本当にベッドから落っこちていた、なんて経験はないかな?」
よくある話で、学も少なからず経験がある。周りを見渡せば、皆も心当たりがあると言う顔をしていた。しかし、それがこの件にどう関わると言うのだろう?
「当たり前だけど、落っこちるには高いところへ登らなきゃいけないよね。でも、落っこちると言う夢が、現実にベッドから落ちたと言う瞬間に生まれたものなら、落ちると言う結果と、高いところに登ったと言う原因が、夢の中ではひっくり返っているってことにならないかな?」
学には目からウロコの話だった。今まで、そんなことなど考えたこともなかった。しかし、思い返してみれば、江浦の言うとおりだとわかる。
「つまり、僕たちが見ている夢と言うのは、ごちゃまぜのスナップ写真みたいなもので、つじつまが合うようなストーリーを後からくっつけて、適当に繋ぎ合わせたものなんだ。落っこちた。なぜ落っこちた? 高い所へ登ったから――と言う風にね。これなら、原因と結果が入れ替わってても、おかしくないだろ?」
「わかってきたぞ」
英治が言った。
「怪我の原因は他にあるんだ。森山と委員長の怪我は、あの高さから落っこちたにしては軽すぎるから、現実では普通に転んだ程度なんだろう。でも俺たちの頭は、どう言うわけか、それを怪物にすり替えてしまった。それが、古部にも起こった。原因はわからないけど、現実に怪我をするような何かがあったのは間違いない」
「ねえ、パパ」
千和が心配そうに言った。
「それだと、また私たちが疑われない?」
「そうか、真犯人は怪物じゃないってことになるからね」
江浦は苦笑した。
「それは、もういいです。自分の娘に怪我させてまで偽装工作をするような悪人なら、どっちにしたって俺たちの手には負えません」
そう言って、英治はしばらく考え込んだ。ふと顔を上げた彼は、学を見て言った。
「どうにも、まだ何かが引っ掛かるんだ」
「から揚げ食べ過ぎなんだよ」
「そうじゃない」
と言ってから、英治ははっと息を飲んだ。
「そうか。森山にチキンをおごってもらう約束で、コンビニに行ったのを覚えてるか?」
学は、「あっ」と声を上げた。
「僕たち、古部さんの事故のちょっと前にトンネルを通ってるのに、怪物なんて見てない」
「古部は襲われて、俺たちは無事だった。俺たちと古部にどんな違いがある?」
「えーと」
学は考えた。
「男子と女子かな。ほら、襲われた委員長も女子だし?」
「違う」
理美が言った。
「えー、千和ちゃんはどう見ても女子だよ?」
夏海がとぼけたことを言うと、理美は首を振った。
「そうじゃないの。帰りは多比良くんと神代くんの二人だったけど、行きは私と夏海ちゃんもいた。たぶん、これのせいだと思う」
そう言って彼女が指さしたのは、自由帳に書かれた一文だった。
「人間が一人きりで下を通ると脚を縮めて襲い掛かってくる?」
夏海が読み上げた。それを聞いて、学は合点が入った。襲われなかった学たちは、二人以上でトンネルを通ったが、千和や由緒は一人だった。
「ねえ、委員長。君が流した噂って、この事まで入ってた?」
学が聞くと、千和は頷いた。
「ええ。この自由帳に書かれてることは、一通り話したわ」
「これで弱点が分ったな。獲物が一人じゃないと出てこれないなんて、ずいぶん恥ずかしがり屋のオバケじゃないか」
英治が苦笑しながら言った。
「そうは言っても、簡単にやっつけられる相手じゃないよ。今まで話し合ったことが本当なら、噂が消えれば怪物も消えてくれるんだろうけど、現実に怪我をする危険が無くなるわけじゃない」
江浦は難しい顔をした。
「橋の事件の時は、どうやったんですか?」
「橋を修繕したんだ。街灯も増やして明るく小奇麗にすると、事故はすっかり起こらなくなった。そうなると通る人も増えて、橋の下に怪物がいるなんて噂も自然に消えた」
「おばけトンネルも、同じ手が使えませんか。おばけトンネルが普通のトンネルになれば、オバケだの怪物だのがいるなんて噂も消えると思います」
「ふむ。中をきれいに掃除して、照明を取り付ける工事になるかな?」
江浦は腕組みをして考え込んだ。彼はしばらくそうしてから、ふと顔を上げた。
「わかった、校長先生に提案してみよう。車両の進入禁止と合せたら、じゅうぶん効果ありそうだ」
おばけトンネルを普通のトンネルにする――うまい手に思えるが、学には飲み下せない部分もあった。彼は千和に目を向けた。
「先生と二人っきりで会える場所、無くなっちゃうね」
すると千和は微笑んで首を振った。
「どっちにしても、あの場所はもう使えないと思うの。だって、あなたたちに見付かったんだから、他の人にも見付けられるかも知れないでしょう? 二人でおしゃべりしたくなったら、神代くんが言ったみたいに、こっそり手紙を渡すわ」
「うん、楽しみにして待ってるよ」
江浦が言った。父娘は弛んだ顔で互いに見つめ合った。
やっぱり、バカップルだ――と、学は思った。




