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最初の事件

 神代学(かみしろまなぶ)はかねてから、その呼称に違和感を覚えていた。

 おばけトンネル――学が通う小学校と古い宅地を繋ぐ通学路上にあって、片側二車線の幹線道路の下を交差して抜ける古びたトンネルのことを、地元の子供たちはみな、そう呼んでいる。戦前に作られたものらしく、坑口は苔やツタが張り付き、トンネル内は照明も無くて夕暮れともなれば真っ暗になるから、なるほどオバケの一匹や二匹が潜んでいそうな雰囲気ではある。しかし実際にオバケが出るかと言えば、そんなことは無いわけで、オバケも出ないのにおばけトンネルと呼ぶのはいかがなものか――と、学は考えるわけである 。そして、実はその呼称の裏に、誰も知らない深遠な理由が潜んでいるのかも知れないとも思っていた。

「ね。気にならない?」

 それは給食後の昼休み。前の席に座る多比良英治(たいらえいじ)との雑談の中で、おばけトンネルの話題がふと出たのを機会に、学はそんな自分の主張を披露してみたのだった。しかし、それに対する英治の反応は、にべもなかった。

「あのな、学」

 英治は頭の良い少年だった。勉強ができるのは当然として、何よりも彼は他の子供たちとは違い、感覚ではなく理屈でものを考えることができた。学にとっては理解しがたい奇妙な現象でも、この三白眼気味の小柄な友人にかかれば、些細で陳腐な出来事になってしまう。

「お前が、五年生にもなってオバケを信じるのは勝手だけど、オバケなんてものはこの世にいないんだから、おばけトンネルにオバケが出ないのは不思議でも何でもない。呼び方? そんなもの、大した理由なんてないんだから、気にするだけ無駄だ」

 英治と話をする度に、学は時々、自分の馬鹿さ加減をあげつらわれているような気分を味わうのだが、困ったことに、それでも「なるほど」と思えてしまうことが多かった。そうでなくても新たな疑問が湧いたり、彼がわざと――大抵の場合、面倒くさいという理由で――一部を端折っていることに気付いてしまうので、腹を立てるよりも先に、ついつい質問を重ねてしまう。

「その、大したことのない理由って?」

「知らん」

 英治はつれない。

「ホントは、ちゃんとわかってるんだよね?」

「聞いてもつまらないぞ」

「でも、気になるんだ」

 そんな、二人の間に首を突っ込んでくる女子がいた。

「なに、オバケがどうかしたの?」

 少女は小鹿のような黒目がちな目を、きらきらに輝かせて言った。

 彼女は森山夏海(もりやまなつみ)。決して美少女とは言えないが、十人並みの容姿でもなく、むしろ可愛い部類に含まれる。学よりこぶし一つは背が高く、目一杯焼いた肌は南の島に住む人たちのそれのようで、ショートの髪は少し赤味があり、笑うと真っ白な歯がまぶしい。今時の女子にしては珍しく、プリントTシャツにデニム地のプリーツスカートと言う、飾り気のない格好をしている。人懐っこい性格と旺盛な好奇心に加え、男子も圧倒する運動神経の良さ――勉強は少々苦手なようだが――から、クラスでは男女双方に好かれる人気者だった。

「おまえは関係ないだろ。あっち行ってろ」

 そんな夏海に対し、英治はシッシッと言って犬でも追っ払うように手を振る。

「関係あるよ。だって、わたしオカルト大好きだから!」

 全く理由になっていないが、夏海は鼻の穴を広げて言い切った。英治は頭痛でもするかのように、眉間に皺を寄せている。もちろん学も、夏海の突飛な発言には少なからず呆れていたが、彼女が五年生にもなってオバケを信じている数少ない同志であることを知って、自説を熱心に解いて聞かせた。味方は多ければ多い方が良い。

 その結果、

「学くん、変なこと気にするんだね」

 夏海に真顔で返され、学はしょんぼりした。

「けど、わたしも考えたことなかったなあ。なんでオバケも出ないのに、おばけトンネルなの?」

 英治は、ため息を一つこぼす。学の問いに答えることを面倒くさがった彼ではあるが、夏海と二人掛かりではあきらめるしか無いと言うことか。彼は、いかにも渋々ながらと言った様子で、こう答えるのだった。

「まあ、オバケが出そうなくらい不気味な見た目をしてるからだろうな」

「不気味なトンネルなら他にもいくつかあるよ。ほら、百年トンネルとか。あっちは誰もおばけトンネルだなんて呼ばないじゃない」

 夏海は素早く反論する。確かに彼女が言うように、そう呼ばれる明治期に作られたトンネルが、おばけトンネルからやや離れた場所にあった。こちらも、おばけトンネルに負けじ劣らじ不気味な様相をしている。

「森山のくせに、いいところに気付いたな」

「えへへ、そうかな?」

 夏海は単純に喜ぶが、多分、英治は褒めていない。

「百年トンネルは百年以上前に作られたって、わかりやすい特徴があるだろ。けど、おばけトンネルはそうじゃない。見た目が不気味ってこと以外、何にもないんだ。だから他に呼びようが無くて、『オバケが出そうな不気味なトンネル』ってことで、おばけトンネルなんて呼ばれるようになったんだろう。もちろん俺の推測だけで、証拠なんてないけどな」

 英治の説に学は「なるほど」と単純に納得するが、夏海は違うようだった。

「えー、そんな理由つまらないよ」

「だから学には、最初にそう言ったんだ。大した意味なんてないって。それとも、なにか面白い話でもでっちあげた方がよかったか?」

「そうじゃないけど……あ、そうだ。オバケがいないなら作ればいいじゃない」

 夏海は、ぽんと手を鳴らして言った。

「作るって?」

 興味をひかれた学は思わず聞いていた。

「わたしたちで、おばけトンネルにいたら怖いオバケを考えるの。一番、怖いオバケを考えた人が優勝ね」

「俺は参加しないからな。やりたいなら、どこか他所でやってくれ」

 英治は全く興味が無いようだった。

「学くん、何か色々書いてもいいノートって持ってない?」

「あ、自由帳なら一冊持ってるよ」

「おまえら、ちょっとは聞け」

 英治は抗議するが夏海はまるで気にも留めず、学のノートになにやらイラストを描き始め、ほどなくして「完成!」と言って鉛筆を放り出した。そして、ドヤ顔で男子二人に自分の作品を突きつける。

「これは……」

 学は、それをどう表現していいのかわからなかった。自由帳にはネズミのようなブタのような、そもそも生物かどうかすらわからない、奇妙な物体が描かれている。

「呪われた剣?」

 英治が真顔で言った。参加しないと言った彼だが、黙って見過ごすことはできなかったようだ。それ程に夏海の絵は、下手くそだった。

「コウモリよ、コウモリ! どうやったら、これが剣に見えるのよ」

「あ、ここが剣の柄で、横に伸びてるのが鍔か」

 学はイラストを指でなぞりながら言った。

「そうそう。そして、ここで刃が二つに分かれてる上に、切っ先にトゲが生えてる。禍々しいよな?」

 英治が説明を加える。

「それは頭と翼。二つに分かれてるのは脚。それで、トンネルの天井に逆さまにぶら下がってるの!」

「ぶら下がってるのと言われても、なあ?」

 英治に同意を求められたが、学はとりあえず黙っておくことにした。

「それじゃ、次は英治くんが描いてよ」

 ふくれっ面をして夏海は鉛筆を英治に押し付けた。

「俺は参加しないって言っただろ」

 英治は鉛筆を突っ返した。

「それじゃ、学くん」

 夏海は学の手を掴むと、笑顔でそれに鉛筆を握らせた。さらに彼女は自由帳をきちんと整えて、学の真ん前に置き直す。

 学は焦った。彼の画力も、おそらく夏海と大差ない。おかしなものを描いたりすれば、二人に何を言われるか知れたものではなかった。彼は自由帳を提供してしまった自分を呪い始めていた。

「夏海ちゃん?」

 そこへ現れたのは、眼鏡の女子だった。

 愛野理美(あいのさとみ)。夏海の友人で、赤い縁の丸っこい眼鏡を掛けている以外は、あまり特徴のない少女だった。表情に乏しく、彼女が怒ったり、驚いたり、声を上げて笑う姿を、学はほとんど覚えていない。そもそも、こうして目の前にいなければ、どんな格好をしていたかすら思い出せないほど存在感が薄かった。もっともそれは、いつも一緒にいる夏海の強烈なキャラと、英治よりも小柄な体格によるところも大きいのかもしれない。ただ、バルーン裾のチュニックとレギンスを着あわせた今の彼女は、なかなか可愛らしく見える。

「今日はバドミントン、しないの?」

 理美はのんびりとした口調で言った。それは、学の窮地を救う一言だった。これで夏海がどこかへ行ってくれれば、下手くそな絵を描いて笑いものになると言う公開処刑から免れることができるのだ。

「今日はパス。今ね、面白いことしてるの。夏海ちゃんも一緒にしない?」

 夏海は無情にも言った。

「まあ、見て行って損はないだろうな」

 英治が裏切った。さっきは「他所でやれ」なんて言ってたのに。

 理美は、夏海と英治を交互に見て「ん?」と小首を傾げる。事態を把握できかねているらしい。そこで夏海がざっと顛末を説明すると、彼女は「面白そう」と言って参加を表明した。

「そう言えば理美ちゃん、絵じょうずだったよね」

 夏海は言った。

「上手ってほどじゃないと思うけど」

 理美は人差し指を頬にあて、思慮深げに言う。

「私が、みんなの考えたオバケを描くのでいい?」

 それをすばらしいアイディアだと思った学は、一も二もなく賛成した。夏海からも否やは出なかったが、英治は「逃げたな」と言った。学はそれを黙殺し、理美に鉛筆と自分の席を譲った。

「それじゃ、僕が考えたオバケだけど……」

 学は思いつくままにオバケの特徴を列挙した。まず、ぎらぎらと光る八つの眼。そして、トンネルの天井に届くほど長い脚。卵形の膨れた腹に、巨大な毒牙――蜘蛛は、学が苦手とする生き物だった。

「普段はトンネルの内側に脚を沿わせて、天井にぴったり張り付いてるんだけど、人間が一人きりで下を通ると脚を縮めて襲い掛かってくるんだ。そうして人間を捕まえたら、またトンネルの天井に張り付いてゆっくり食べる」

「怖いね」

 紙の上に、あたりの線を走らせながら、理美がぽつりと言った。

「ああ。逆さまにぶら下がるだけのコウモリよりは、よっぽど……痛っ!」

 余計なことを言った英治の脛を、夏海が爪先で素早く蹴りつけた。

「通り掛かった人が、壁に張り付いた脚に気付かないのは、どうしてかな……そうか、板みたいに薄っぺらい脚ならわからないね」

 理美の独り言に学は「いいね」と賛成し、さらにアイディアを追加する。

「コケが生えてると、もっとわかりにくいよ」

「うん。おばけトンネルの中、コケだらけだからね」

「理美ちゃんがノリノリだ」

 夏海が意外そうに呟く。それには学も同意見だった。彼が知る限り、理美は何事にも無感動で、自分から積極的に物事に関わって行くような性格ではなかったからだ。もちろん学は、多くを語れるほど彼女と付き合いがあったわけではない。しかし学校行事の時や、夏海の突飛な行動に振り回されている日々の様子を見る限り、その印象はあながち間違っているとも言えないだろう。

 ところが今の理美は、眼鏡の向こうの瞳を輝かせ、熱心に紙と向かい合っている。それほどに絵を描くことが好きなのだろうか。

 ほどなくして理美が鉛筆を置いた。学の自由帳には、シュルレアリスム絵画に描かれるような、見る者に奇妙な不安を呼び起こす蜘蛛の怪物が描かれていた。

「マジ怖い」

 完成したイラストを見て、夏海がぽつりと言った。

「さすがに、こんなのがいるなんて噂があったら、俺もおばけトンネルには近寄りたくなくなるな」

 英治も同意して、さらに付け加える。

「ついでに言うと、さっきのコウモリとの差も怖い」

「わたしのオバケだって、きっと理美ちゃんに描いてもらったら怖くなるよ!」

 夏海も画力の違いは認めるようだった。

「逆さまにぶら下がるなんて特徴だけじゃ、さすがに愛野も描きようがないだろ」

「わかった。それじゃとびっきり怖いの考える!」

 英治の挑発に威勢よく応じたまではよかったが、結局、夏海は何度か首を捻っただけで、あっさり降参した。

「理美ちゃん、助けて」

 学の机に突っ伏した夏海の頭を、理美は「よしよし」と言って撫でた。

「怖いコウモリ……吸血コウモリ、かな」

 理美は自由帳の新しいページを開いて言った。

「森山さんの絵だと、剣に見えるくらい脚が長くて羽根が短かったよね」

「学くん、かんべんして」

 夏海がさらにへこむ。

「おまえ意外に容赦ないな」

 英治が意地悪く笑う。

 そうして理美は、夏海の「コウモリ」の特徴を残しつつ、アレンジも加えて見るもおぞましい怪物を描き上げた。それは被膜の翼を持つ、牙の生えたクモザルと言った様相だった。

「トンネルを歩いていると、後ろから何かが落ちる音がして、振り向くとこの子が四つん這いで近寄ってくるの。そして、飛び付かれて首から血を吸われる」

 理美が淡々と説明を付け加える。

「うわ、それは怖い」

 学が素直に感想を述べると、理美はにこりと笑みを返した。

「でも、優勝は学くんかなあ。わたしのオバケは半分以上、理美ちゃんのアイディアだし」

 夏海は残念そうに言った。

「僕のオバケも愛野さんからアイディア貰ってるよ?」

「そっか。じゃあ、優勝は理美ちゃんだね。おめでとう!」

 そう言って夏海は拍手した。学と、あまり熱心ではないが英治もそれに倣う。三人の祝福に、理美は「ありがとう」と言いながら誇らしげな笑みを返した。

「ねえ。せっかくだから、帰りはみんなでおばけトンネル通ってみない?」

 夏海が妙なことを言いだした。

「何がせっかくなんだかわからないけど、俺と学はトンネル通らないぞ。家、おばけトンネルのこっち側だから」

 英治が言うと、途端に夏海はおろおろし始めた。そして、ちょっとためらう様子を見せてから、いきなり頭を下げて言った。

「理美ちゃんの絵を見てたら怖くなりました。一緒に帰ってください」

「なんだそりゃ」

 英治は呆れたように言った。

「夏海ちゃん、オカルト好きだけど怖いのすごく苦手だから」

 理美がフォローすると、夏海は「理美ちゃん!」と言って彼女を抱きしめた。理美は「よしよし」と言って、夏海の頭を撫でた。

「英治、どうせ僕たちだってトンネルの前は通るんだから、中に入って引き返すくらいなら、いいんじゃない?」

 学は助け船を出した。

「しょうがないな。それじゃ、ひとつ条件がある」

 英治は意地悪な笑みを夏海に向けた。

「コンビニのチキン、一個だ」

「えーと……一七〇円のやつでしょうか?」

 夏海はおずおずと聞いた。

「それ、揚げ鶏だろ。スパイスチキンの方だよ」

「う……それでも一二〇円か。トンネルの先のコンビニでいい?」

「よし、それで手を打とう」

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。

「絶対に先に帰ったりしないでよ。約束だからね!」

 そう言い残して夏海は理美と一緒に、自分の席へ戻って行った。間もなく担任がやってきて、午後の授業が始まろうかと言う段になり、学は気付いた。怪物を描いた自由帳が、机の上から消えていた。


   ◆


 放課後になって四人は、昼休みに交わした約束の通り、おばけトンネルの前に立っていた。坑口の周囲をびっしり覆う苔やツタは相変わらずで、その前に設置された高さ制限ゲートは、赤錆に侵食され、トンネルの不気味さに拍車を掛けている。

 彼らの他に、ここを通ろうとする子供の姿は無かった。放課後はクラブ活動があったり、地域に適当な遊び場が少ないなどの理由から、学校に残ってひとしきり遊んで帰る子供がほとんどなので、ここが下校中の児童であふれるのは、もう少し遅い時間なのだ。今日は、トンネル内が真っ暗になる夕暮れ前に、ここを通り抜けてしまいたいと言う夏海の意向で、彼らは早目の下校となった。

「いつも通ってるから気にしてなかったけど、こうして見ると怖いね」

 少し蒼ざめた様子で夏海が言った。

「ほら、行くぞ」

 英治は夏海の右手を取って、ずかずかとトンネルの中へ入って行った。怖がる夏海を勇気づけるためとは言え、抵抗も躊躇も無く女子の手を取れる英治は凄いな、などと学が感心していると、すぐ横で「多比良くん、かっこいいね」と理美がつぶやいた。そちらへ目をやると、彼女はにこりと笑みを返す。

 言われて学は、先を行く二人を改めて見た。身長差からして、姉と弟が手を繋いで歩いているように見えなくもないので、どちらかと言えば微笑ましいと思える。

「僕たちも行こう」

 理美の言葉と笑みの意味を図りかねた学は、それだけ言うと先に立って歩き出した。その後ろを、理美が何も言わずについて行く。

 トンネル内は、自動車一台がようやく通れる程度の道幅しかなかった。学たちが入った坑口から見て左の壁際に、人と車の通行を分ける白線が一本引かれてはいるものの、彼らに、その内側を真っ正直に歩こうと言う発想は無かった。じっとりと湿り気を帯び、光を不得手にする苔のような植物が幅を利かせるトンネルの壁は、見るからに不潔で近寄りがたい雰囲気があったからだ。そもそも車自体がほとんど通らないのに、できそこないの歩道を歩く必要性など、どこにあると言うのか。

「でも、なんで国道の下をトンネルなんて通ってるのかな」

 前を行く英治と夏海の会話が、学の耳に届いた。

「山があったところを、無理やり削って通した国道だからな。元々は、おばけトンネルも百年トンネルも、普通に山を抜けるトンネルだったんだ」

「英治くん、物知りだね」

「いや。社会科の郷土史で、おまえも聞いてるだろ?」

「うーん、覚えてないなあ」

 すると、学の後ろで理美が声をひそめて言った。

「夏海ちゃん、その時間は居眠りしてたの」

 そうして、ようやく出口にたどり着こうかと言う時、学は背後から差し込む強烈な光に気付いた。振り向いて見れば、ヘッドライトを点けた軽自動車が、ものすごい勢いで迫ってくる。学と理美は、咄嗟にぬるぬるする壁に張り付き難を逃れるが、前を行く二人に警告する間はなかった。車の接近に気付いた英治が、夏海をトンネルの壁に押し付け彼女を庇う姿が見えた。ブレーキできしむタイヤの音と、何かが衝突する鈍い音がトンネル内に響く。軽自動車は出口の辺りで一旦停止するが、立ち尽くす夏海と、その足元に倒れ込む英治を残して、そのまま走り去った。

「英治!」

 学は叫んで友人に駆け寄った。英治は右の二の腕あたりを抑え、痛みをこらえるように顔を歪ませている。

「森山と、愛野は?」

 英治は学を見ると、喰いしばった歯の隙間から押し出すようにして言った。夏海は壁に寄りかかったまま呆然としている。ショックを受けているようだが、学が見る限り怪我をした様子は無い。

「二人とも無事だよ。救急車呼ぶ?」

「ちょっとミラーに当たっただけだ。大げさにしなくてもいい」

「ごめん、もう呼んだ」

 いつの間にか、携帯を持った理美がすぐそばに立っていた。こんな事態を前にしても冷静に振る舞える彼女に、学はひたすら感心するしかなかった。


 救急車は数分で到着した。英治はストレッチャーで車内に運ばれ、念のため夏海も連れて行ってもらうことになった。学は救急隊員に搬送予定の病院を聞き出してから、二人について行くよう理美に言うが、彼女は首を振った。サイレンを鳴らして救急車が去り、少し遅れて警察がやってきたとき、学は理美の判断が正しかったことを思い知った。警察から事故の状況を聞かれた時、彼はほとんど役に立たなかったからだ。理美は細かいところまでよく覚えていて、その観察眼を警官に褒められた。事情聴取から解放されると、二人は現場検証の邪魔にならないよう、トンネルを抜けたところへ移動させられた。今日はもう帰っても良いとのことだった。

 学は理美を見た。彼女は現場検証で忙しく動き回る警官たちを、じっと見つめている。普段は夏海の陰に隠れて目立たない、控えめで小柄な少女の意外な一面に、学は面食らうばかりだった。

 じっと見つめる学に気付き、理美が視線を返す。彼女は笑みを浮かべようとする。が、うまく行かなかった。唇をぐっと噛んでこらえるが、とうとう堰を切ったように涙を流し始める。

 学は、不意に自分が情けなくなった。どれほどしっかりしているように見えても、理美は彼と同じ一〇歳かそこいらの子供なのだ。こんな事故を目の当たりにして、不安を感じないはずがない。それなのに自分は彼女に何もかもまかせっきりで、一つも助けにならなかった。彼はほとんど反射的に、声もなく涙を流し続ける理美の前に、手を差し出していた。理美は一瞬、戸惑うような表情を見せるが素直にその手を取った。

「あ、ごめん!」

 学は自分のうかつさを呪った。突進してくる車を避けた時、トンネルの壁に触れたせいで、彼の手はひどく汚れていたのだ。

「おあいこだよ。ほら」

 そう言って笑いながら見せた理美の手も、ひどい有様だった。

「とりあえず、家へ帰って着替えようか。英治たちも気になるけど、こんな格好じゃ病院に入れてもらえないよ」

 二人の服は彼らの掌と同様、ヘドロ状の泥や苔にまみれていた。

「家まで、送ってくれる?」

 遠慮がちに聞いてくる理美に、学は「もちろん」と答え、その手を引いて歩きはじめた。


 理美を彼女の家へ送り届けてから、学は自宅へと駆け戻った。母親に事のあらましを伝え、急いで着替えてから家を飛び出そうとすると、タクシー代として千円札を数枚握らされた。さらに彼女は学が着替えている間に、自宅前までタクシーを電話で呼びつけてくれていた。恐ろしい事故を前にしても気丈に振る舞っていた理美の姿も思い出し、女子ってすごいなと圧倒されなから、学はタクシーへ乗り込む。病院までは十分と掛からなかった。

 受付で聞き出した英治の病室へ向かうと、そこは個室で、すでに夏海と花束を抱えた理美の姿があった。彼女たちが見守るベッドには、浴衣のような意匠の検査着を着せられた英治が横たわっている。彼の右腕はギプスで固定されていた。

「学か。ずいぶん、ゆっくりだな」

 英治がむっつりと言った。

「ごめんよ。もうちょっと遅くに来た方が良かったかな」

「なんでそうなる」

「ほら、女子二人に看病されてるところを邪魔しちゃ悪かったかなって。滅多にないイベントだし?」

「言ってろ」

 ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向く英治に、学は何か引っ掛かるものを感じた。彼が学ごときに冷やかされて反撃しないなど、ずいぶんらしくないではないか。

「森山さんは大丈夫だった?」

 学が聞くと夏海は無言で頷いた。救急車で搬送された時に着ていた服装と違うから、きっと事故の報せを受けた親が着替えを持ってきてくれたのだろう。それにしても、彼女の様子もおかしい。いつもの笑顔が無く、どこか憔悴しているようにも見える。

「それで、今はどう言う状況なの?」

 学は理美に近付いて、こそこそと聞いた。彼女は髪が少し濡れていた。シャワーを浴びてから駆けつけたのだろうか。シャンプーの匂いが鼻をかすめ、学はどきっとした。

 理美の説明によれば、つい先ほどまで英治と夏海の母親が、この病室に来ていたらしい。英治の母親は息子の具合を確かめるために。夏海の母親は、怪我をしてまで娘を事故から護ってくれたくれた少年へ、お礼とお詫びを言うのが目的だった。英治の母親は当然のことだから気にするなと、ひたすら恐縮する夏海の母をなだめていたそうだ。二人は今、近所の喫茶店でお茶しているらしい。

「英治くん」

 不意に夏海が言った。

「あのね、わたし……」

 夏海は何か言い掛けて、言葉を切った。

 英治は何も言わずに、待った。

「わたし……ごめんなさい」

 そう言って、夏海はうつむいた。床に、ぽたりと滴が落ちた。

「わたしのせいで、怪我させて、ごめんなさい」

 うつむいたまま、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら夏海は言った。

「チキン、一個追加だ」

 英治が表情を変えずに言った。

「えっ?」

 夏海は顔を上げて、きょとんとした。

「それで手を打つって言ってるんだ。だから、もう気にするな。とりあえず鼻水を拭け」

「うん」

「だからって手首で拭くな。一応、女子だろ」

「うん、ごめん」

 色々台無しではあるが、それで二人の間にあった問題は片付いたようだった。

「神代くん」

 理美が呼びかける。彼女は抱えた花束を示し「手伝って」と言って病室を出ていく。学は素直に従い彼女を追った。

 ナースセンターで花瓶を借り受けると、二人は洗面所へ向かった。

「森山さんが謝ること、ないと思うんだけどなあ」

 花瓶に水を入れながら、学は思っていることを素直に言った。

「どうして?」

 と、理美。

「だって、英治の怪我は森山さんのせいじゃなくて、ひき逃げ犯のせいだよ。森山さんだって被害者なんだから、謝る必要なんてないじゃないか」

 すると理美は背伸びをして、「よしよし」と言いながら学の頭を撫でた。

「なに?」

 驚く学に理美は微笑んで見せた。

「夏海ちゃんは、英治くんが自分を庇ったせいで怪我をしたんだって、すごく落ち込んでたの。私も英治くんも、それで夏海ちゃんが悪いなんて思ってなかったけど、それでも夏海ちゃんは、ごめんなさいって言わなきゃ気が済まなかったんだと思う。英治くんはそれに気付いて、夏海ちゃんが気持ちにけじめを付けられるように、あんな風に言ったんじゃないかな」

 それは、学にも理解できる。でも、なぜ自分は撫でられたりしたんだろう。もちろん、悪い気分はしなかったのだが。

「私ね、夏海ちゃんは悪くないって思ってるつもりだったけど、夏海ちゃんがおばけトンネルに行こうなんて言わなかったら、こんなことにならなかったんじゃないかって、ちょっとだけ思ってたみたい。それってやっぱり、夏海ちゃんを責める気持ちがちょっとはあったってことだよね?」

 学は何も言えなかった。

「それなのに神代くんは、多比良くんの怪我は夏海ちゃんのせいじゃないって、はっきり言った。それって、すごいことだと思う」

 そして理美は手際よく花瓶に花を生けてから「もどろうか?」と言った。学は水と花が入って重くなった花瓶を抱え上げた。理美は先に立って歩き始める。しかし彼女は、すぐに足を止めて学に振り返った。

「あとね、夏海ちゃんは多比良くんが好きなんだと思う」

「ええっ?」

 学は危うく花瓶を落っことすところだった。

「多分、夏海ちゃんは多比良くんと一緒に帰りたくて、トンネルを怖いって言ったんじゃないかな。だから、自分のそんな気持ちのせいで、多比良くんに怪我をさせたと思って、余計にやましく感じたのかも」

「それじゃ、トンネルを怖がってたのは嘘なの?」

「嘘じゃないとは思うけど、大げさには言ってたかも知れないね」

 理美は謎めいた笑みを浮かべて言った。

「もう、さっぱりわからないよ」

「うん。神代くんは、それでいいと思う。このことは内緒ね?」

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