席次係のわたくしは、幼馴染の隣を望む婚約者様に末席をご用意しました
婚約者が席次室に来たのは、七年で初めてのことだった。
王宮の北翼にある、窓のない小部屋。壁の棚には百年分の席次表が綴じてあり、中央の大机には大広間の図面が広げてある。図面の上に並んでいるのは、招待客ひとりにひとつずつの小さな木札だ。
建国祭の晩餐会まで、あと三日。わたくしは三百二十枚の木札を、ようやく並べ終えたところだった。
「リラ。頼みがあるんだ」
フェリクス・ハルトマンは、扉を閉めるより先にそう言った。伯爵家の嫡男で、外務院の書記官。わたくしの婚約者である。
「晩餐会の僕の席を、コレットの隣にしてほしい」
コレット・ポワン男爵令嬢。フェリクスの幼馴染で、この秋、南の領地から王都へ出てきたばかりの方だ。
「王宮の晩餐は初めてなんだよ。知り合いもいないし、心細いと言っていてね。僕がついていてやらないと」
わたくしは図面に目を落とした。フェリクスの木札は、王卓の、陛下から数えて三つ目の席にある。コレット嬢の木札は、大広間のいちばん奥、扉に近い男爵家の卓だ。
「それはできかねます」
「どうして」
「王宮席次規則の第一条です。隣り合う席には、同じ格の方にお座りいただく。男爵家のご令嬢を、王卓へお上げすることはできません」
「そこを君がなんとかしてくれよ。席次係なんだから」
「わたくしに変えられるのは席だけです。格は変えられません」
フェリクスは少し考える顔をして、それから、なんでもないことのように言った。
「じゃあ、僕が下がればいい」
「……下がる、とおっしゃいますと」
「僕の席を、コレットの隣に移すんだ。席なんてどこでもいいよ。彼女の隣なら、末席だって構わない」
そして、わたくしの手元の木札を見て笑った。
「それに君は、当日は壁際に立っているんだろう? だったら僕が誰の隣に座っていても、関係ないじゃないか」
席次係は、晩餐のあいだ座らない。広間の壁際に立ち、席次表を胸に抱えて、三百二十人が正しく座っているかを見届ける。七年間、ずっとそうしてきた。
関係ない、と言われたのは初めてだった。
◇
「フェリクス様」
わたくしは、なるべく平らな声で言った。
「王卓の三つ目は、ただの上座ではございません。今夜、陛下が乾杯でお言葉をかけられる方のためのお席です」
「知ってるよ。使節団の件だろう?」
隣国へ送る使節団。その副団長にフェリクスが推されていることは、外務院では公然の噂になっていた。
「でしたら、なおのこと席を離れるべきではございません」
「大丈夫さ。陛下は、僕がどこに座っていても名前を呼んでくださる。席ひとつで何かが変わるなんて、君は気を回しすぎだよ」
二度目に止めたときも、フェリクスは笑っていた。三度目には、少しだけ眉をひそめた。
「リラ。君はいつもそうだ。名札を並べるだけの仕事を、大げさに考えすぎる」
名札を並べるだけ。
わたくしは机の引き出しを開けた。中には、明日フェリクスに渡すつもりだった薄い冊子が入っている。
王卓に並ぶ方々のお名前と、ご家族のこと。最近のご関心。隣国の大使が好む話題と、避けるべき話題。それから、隣国がどれほど席にうるさい国か。十年前の使節団が、副使の座る位置ひとつで交渉の卓を立たれたこと。
晩餐会のたびに、わたくしはこれを書いてフェリクスに渡してきた。彼は「助かるよ」と受け取って、たぶん半分も読まずに会場へ行き、それでもそつなく振る舞って、ハルトマン家の嫡男は社交が上手いと言われてきた。
わたくしは冊子の下から、一枚の書式を取り出した。
「では、こちらにご署名を」
「なんだい、これ」
「席次変更願です。お席を移られる場合は、ご本人の署名が要ります。三日前までに出せば、間に合います」
フェリクスは書式を受け取ると、上から下まで目を通した。そういうところは、きちんとした人なのだ。
「理由の欄もあるのか」
「はい。侍従長が確認なさいますので」
「わかった」
彼はわたくしのペンを取り、さらさらと書いた。
――席はどこでもよい。コレット・ポワン嬢の隣であれば。
署名を入れて、フェリクスは満足そうに書式を返してきた。
「ありがとう、リラ。やっぱり君は話がわかる」
「念のため、申し上げておきます」
わたくしは書式を受け取りながら言った。
「侍従長が席次表に封をなさったら、その夜の席は陛下のお言葉と同じ扱いになります。どなたにも動かせません。規則の第二条です」
「動かす気なんてないよ」
フェリクスは軽く手を振って、部屋を出ていった。
扉が閉まってから、わたくしは図面の上の木札をひとつ、指でつまんだ。
フェリクス・ハルトマン。王卓から、大広間のいちばん奥へ。コレット嬢の隣に置くと、木札はかたりと小さな音を立てた。
それから、引き出しの冊子を見た。
末席に、この冊子は要らない。
来年も、その次の年も、きっと要らない。
わたくしは冊子を棚の奥にしまい、晩餐会が終わったら婚約のことを父に話そう、と決めた。決めてしまうと、不思議なくらい指が軽くなった。
◇
王卓にひとつ空きができれば、規則どおり、次の格の方がひとりずつ繰り上がる。
繰り上がりの最後に王卓へ入ったのは、北方辺境伯ゲオルク・ノルトハイム閣下だった。
「ノルトハイム卿が、右の端?」
翌朝、席次表を確かめに来た侍従長のベルトラン様が、白い眉を上げた。
「繰り上がりなら、左の端になるはずだろう」
「右の端の侯爵閣下と、お席を入れ替えました。辺境伯と侯爵は同格ですので、係の裁量で認められております」
「理由は」
「ノルトハイム閣下は、右の耳が聞こえておられません」
侍従長は黙った。
「昨年の晩餐で、閣下はずっと左へ顔を傾けておられました。右にいる方から話しかけられると、いちいち体ごと向き直っておられた。北の戦で、すぐそばで火薬が爆ぜたと伺っております」
「本人から申し出は」
「ございません。ですから、黙ってお直しします」
陛下から見て右手の列に座れば、陛下は閣下の左側にいらっしゃることになる。聞こえるほうの耳だ。
侍従長はしばらく図面を眺めてから、ほかの木札にも目を移した。
「東と西の侯爵家が、柱を挟んで背中合わせになっているな」
「領地の境で揉めていらっしゃいますので。互いのお顔が見えなければ、少なくとも乾杯までは穏やかです」
「大使夫人が扉の近くなのは」
「ご懐妊中と伺いました。ご気分が優れないとき、どなたの前も横切らずに退出できるように」
「コレット・ポワン嬢の隣は……ああ、エルツ男爵夫人か」
「ポワン家と同じ南の州のご出身で、若い方のお世話がお好きな方です。王都に知り合いのいないお嬢様には、心強いかと」
フェリクスが望んだのは、コレット嬢の隣だ。けれど隣は、左右にふたつある。
侍従長は、ふ、と鼻から息を漏らした。笑ったのだと、七年仕えてようやくわかるようになった。
「ハルトマンの倅のことは、聞いた」
「はい」
「止めたのか」
「三度」
「そうか」
侍従長はそれ以上何も言わず、封蝋を火にかざした。赤い蝋が席次表の端に落ち、王宮の紋が押される。
「これで今夜の席は、陛下のお言葉だ」
昼過ぎ、外務院の若い書記官たちが廊下で話しているのが聞こえた。
「ハルトマンの奴、今夜で副団長に決まりだってさ」
「陛下の卓に呼ばれてるんだろう? 本人がそう言って回ってたぞ」
わたくしは足を止めずに、席次室へ戻った。
◇
建国祭の晩餐会は、日が沈むと同時に始まった。
燭台が灯り、客がそれぞれの席に着く。わたくしは広間の壁際、柱の陰に立ち、席次表を胸に抱えて全体を見渡した。
誰も迷っていない。誰も立ったままでいない。東と西の侯爵は互いに気づかないまま葡萄酒を受け取り、大使夫人は扉の近くで落ち着いた顔をしている。
王卓では、ノルトハイム閣下が陛下と話していた。大きな体を少し前に乗り出し、北の冬の話をしているらしい。陛下が何かおっしゃるたびに閣下はすぐに答え、一度などは、広間の端まで届く声で笑った。
去年の晩餐では、あの方はほとんど口を開かなかった。何を言われているのか半分しか聞き取れない席で、ただ穏やかに頷いていた。
その閣下が、ふと顔を上げてこちらを見た。
壁際の、柱の陰。給仕の誰も気に留めない場所を、まっすぐに。
閣下はほんのわずかに杯を持ち上げ、また陛下のほうへ向き直った。
そして、大広間のいちばん奥。
フェリクスは上機嫌だった。コレット嬢の皿に料理を取り分け、葡萄酒の産地を説明し、王宮の作法をひとつずつ教えている。
コレット嬢は、何度か反対側を向こうとしていた。エルツ男爵夫人が、南の州の訛りで話しかけてくれているのだ。そのたびにフェリクスが「コレット、これはね」と声をかけ、彼女は困ったように彼のほうへ向き直る。
スープが下げられ、魚料理が下げられ、肉料理の皿が並んだところで、陛下が杯を手に立ち上がられた。
広間が静まる。
「建国の夜に、よく集まってくれた。今宵はひとつ、皆に伝えたいことがある」
陛下は、隣国への使節団のことを話された。十年前に破れた和平の条約を、結び直す。団長は外務卿。そして、
「副団長には、ハルトマン家のフェリクスを――」
陛下の目が、王卓の三つ目の席に向いた。
名を呼ばれた者が、立ち上がるはずの席。そこに座っているのは、繰り上がった白髪の老侯爵だった。老侯爵は困ったように杯を置き、陛下を見上げた。
陛下は、言葉を止めた。
ほんの一呼吸ぶんの沈黙だった。けれど三百二十人が、その一呼吸に気づいた。
陛下が背後へ目をやると、侍従長がすっと進み出て、一枚の紙を差し出した。陛下はそれを受け取り、目を落とされる。
席次変更願。理由の欄の一行を、陛下は二度読まれたようだった。
「……席はどこでもよい、か」
低いお声だったが、静まり返った広間ではよく通った。
奥の卓で、フェリクスの顔から血の気が引いていくのが見えた。
陛下は紙を侍従長に返し、杯を持ち直された。
「隣国は、席に厳格な国だ。十年前、我らの使節は座る位置ひとつで交渉の卓を立たれた。使節とは、国の席に座る者だ。己の席をどこでもよいと書く者に、他国の卓は預けられぬ」
広間のあちこちで囁きが起こりかけ、すぐに消えた。
「副団長の件は、改めて決める。――では、今宵の席に」
陛下が杯を掲げ、広間じゅうがそれに続いた。
奥の卓で、フェリクスが椅子を鳴らして立ち上がった。王卓のほうへ歩き出しかけたところで、給仕頭が音もなくその前に立つ。
「お席にお戻りくださいませ。今宵のお席には、封がされております」
フェリクスは、しばらくそこに立ち尽くしていた。それから、ゆっくりと末席に戻っていった。
◇
晩餐が終わり、客が音楽の間へ移り始めた頃、フェリクスがわたくしのところへ来た。
「どうして止めなかった」
押し殺した声だった。
「お止めしました。三度」
「あんな言い方でわかるわけないだろう! 陛下が名前を呼ぶ席だって、はっきり言ってくれれば――」
「申し上げました。今夜、陛下がお言葉をかけられる方の席だと。それ以上を申し上げることは、席次係には許されておりません」
わたくしは席次表の控えを開いて見せた。変更願の写しが綴じてある。
「理由の欄は、フェリクス様がご自分でお書きになりました」
フェリクスは、自分の字を見下ろした。
――席はどこでもよい。
「……戻してくれ。今からでいい。君なら陛下に事情を説明できるだろう」
「できません。封のされた席は、陛下のお言葉と同じです。第二条も、お伝えいたしました」
「リラ。君は僕の婚約者だろう。僕のために、七年もこの仕事を――」
「いいえ」
自分でも驚くほど、すんなりと声が出た。
「わたくしが七年、席を整えてきたのは、陛下のお客様のためです。フェリクス様は、そのお客様のおひとりでいらしただけ」
フェリクスが口を開きかけた。そのとき、彼の後ろから小さな声がした。
「フェリクス」
コレット嬢だった。音楽の間へは行かずに、引き返してきたらしい。
「わたし、隣にいてほしいなんて、一言も言ってないわ」
「コレット、僕は君のために」
「心細いって言ったのは、知り合いが一人もいないからよ。誰かとお友達になれたらって、そういう意味だったの。エルツ様、わたしの祖母を知ってらしたのよ。同じ村の出なんですって。もっとお話ししたかったのに、あなたがずっと割り込むから」
コレット嬢はそれから、わたくしのほうを向いて、ぎこちなく膝を折った。
「あの、席次係の方ですよね。エルツ様の隣にしてくださったの……ありがとうございました」
頬が赤い。初めての王宮の晩餐で、自分から誰かに礼を言いに来るのは、きっと勇気が要っただろう。
「楽しんでいただけたなら、何よりです」
コレット嬢はもう一度頭を下げ、男爵夫人の待つ音楽の間へ小走りに向かった。フェリクスのほうは、振り返らなかった。
残されたフェリクスに、わたくしは告げた。
「晩餐会が終わりましたので、申し上げます。婚約の解消を、父からハルトマン家へお申し入れいたします」
「……席ひとつで?」
「はい」
わたくしは頷いた。
「席ひとつで、です。フェリクス様はそれを、どこでもいいとお書きになりました」
広間の向こうで、ハルトマン伯爵がこちらを見ていた。息子に向けたその顔は、ひどく険しかった。
◇
客がすべて帰り、燭台の半分が消された頃、わたくしは空になった広間をひとりで見回っていた。
忘れ物がないか。椅子が壊れていないか。来年の席次のために、今夜何がうまくいき、何がうまくいかなかったか。それを確かめるのも、係の仕事だ。
「係殿」
振り返ると、ノルトハイム閣下が戸口に立っていた。
「お帰りになったものと思っておりました」
「聞きたいことがあって、待っていた」
閣下は大股で近づいてくると、わたくしの右側を通り過ぎ、左側に立った。わたくしの声が、閣下の左耳に届く位置に。
「俺の耳のこと、誰に聞いた」
「どなたにも。昨年の晩餐で、閣下がずっと左へ顔を傾けておられたので」
閣下は、しばらく黙っていた。
「王都の宴は苦手だった」
ぽつりと、そう言った。
「何を言われているのか半分もわからん。わからんまま笑ってごまかして、帰りの馬車で、何を約束させられたのかと青くなる。そういうものだと思っていた」
「……」
「今夜は、陛下のお言葉が全部聞こえた。北の砦の修繕費まで、その場で約束していただけた」
閣下は大きな手で頭を掻いた。
「礼を言いに来たんだ。それと、頼みがある」
「頼み、ですか」
「北の城では、毎年春に、山の氏族の長たちと和議の宴を開く。それが毎年、誰が上座かで揉める。去年はとうとう剣が抜かれた」
「円卓になさいませ」
考えるより先に、口が動いていた。
「上座のない卓です。それから、長の方々の隣には、通訳ではなく、その方の言葉を話せる閣下のご家臣を。お隣が自分の言葉で話してくれれば、人はそう簡単に剣を抜きません」
閣下は目を丸くして、それから、去年は一度も聞かなかったあの大きな声で笑った。
「やはりあんたに来てもらいたい。北には、席次係がいないんだ」
わたくしは、すぐには答えられなかった。
閣下は近くの卓から椅子をひとつ引き出した。大広間のいちばん奥、扉に近い男爵家の卓。今夜、フェリクスが座っていた末席だった。
「七年、全員の席を考えてきたんだろう。今夜くらいは、誰かに考えさせてくれ」
閣下は自分もその隣に腰を下ろし、引き出した椅子を、ほんの少しだけ自分の左側へ寄せた。
「こっちだ。俺の、聞こえるほうの耳の側」
それから、照れたように付け足した。
「あんたの声は、全部聞きたい」
わたくしは、その椅子に座った。
七年間、この広間で三百二十の席を整えてきた。けれど、自分が座ったのは初めてだった。椅子は少し冷たくて、燭台の灯りが卓の上で揺れていた。
席はどこでもいい、と言った人がいた。
わたくしは、どこでもよくはなかった。誰かが、わたくしのことを考えて選んでくれる席に、ずっと座ってみたかったのだ。
「……こちらが、よろしいです」
閣下の左耳に向かって、わたくしは答えた。
◇
翌年の春、北の城で開かれた和議の宴は、円卓で行われた。
剣は一本も抜かれなかった。
席次表のいちばん下には、係の名前を書く欄がある。わたくしは今もそこに自分の名を書くけれど、もう壁際には立っていない。
わたくしの席は、辺境伯の左隣にある。
聞こえるほうの耳の側。どこでもよくはない、わたくしだけの席だ。
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